2013/10/27

追いつめられる怪物(怪物伝説part7)

2回戦の対戦相手は、1回戦を延長12回の末、岡山東商を1-0で破った銚子商業に決まった。銚子商業のエースは、背番号10を付けた2年生の土屋正勝である。この銚子商業は、斉藤一之監督以下、全選手が一丸となって「打倒・江川」を目指し、ありとあらゆる手を尽くしていた。

 

話は、1972年秋の関東大会に遡る。同大会の準決勝で銚子商業は作新と対戦、江川に20奪三振を喫し屈辱的な敗北を喫していた。おまけに、その関東大会で上位に進出したという事で出場した1973年春の選抜では、銚子商業は初戦で報徳学園に0-16と惨敗してしまった。

 

屈辱にまみれた銚子商業は

 

「江川を倒さなければ、この屈辱は晴らせない」

 

とばかりに、徹底した江川対策を研究し「打倒・江川」だけを目指して猛練習を続けた。 

 

まず銚子商業は、江川が投げる試合に必ず偵察要員を派遣し、江川のフォームを研究し尽くした。その結果、江川のフォームにはストレートの時とカーブの時とでは、微妙に異なる癖が有る事を発見した。その癖を見抜くと、斉藤監督は打者に江川のカーブを全て捨てさせた。江川のストレートの威力が凄まじいのは言うまでもないが、カーブもまた超一級品であった。打者の頭部付近に来たと思われた球が、外角へ鋭く曲がり落ちて空振りを誘う。

 

江川の球種はストレートとカーブしかなかったが、そのどちらもが超一級品だったため、打者としては打てる筈が無かった。そこで斉藤監督は、カーブが来るとわかれば打者にそのカーブがストライクだろうとボールだろうと全て無視させ、ストレートだけを狙わせた。そして銚子商業の各打者はヘルメットを目深に被り、ヘルメットの庇から上に来た球は全て見逃す、という作戦を取る事とした。江川の高目のストレートは、ボールだとわかっていても打者がその威力に釣られて振ってしまうという事が多かったのだが、 その高目の球を全部捨てるという事である。更にバッティング練習の際には、打撃投手にマウンドのかなり前の方から投げさせて、打者を速い球に慣れさせるという練習も行った。

 

そして、銚子商業は作新に二度も練習試合を申し込んだ。その練習試合は、銚子商業は二度とも作新に敗れたのだが、19734月の対戦では13三振、19735月の対戦では9三振と、前年秋の関東大会での20三振の時から比べると、格段の進歩がみられた。つまり銚子商業の打者達は、徐々に江川の球に目が慣れて行ったのであった。

 

もう一つ、銚子商業は

 

「江川は晴天で暑い試合だとバテる」

「江川は雨の試合に弱い」

 

というデータも掴んだ。このようにして江川を倒すため、銚子商業は考えられる限りありとあらゆる手段を使っていた。当時、日本で一番「打倒・江川」への執念を燃やしていたのは、間違いなく、この銚子商業であった。

 

その銚子商業は、いよいよ江川を倒すべく、1973年夏の甲子園の2回戦で江川の作新学院に挑む事となった。この試合、江川は立ち上がりから調子が悪く、毎回ピンチの連続。銚子商業は作戦通りカーブを捨てて、外角のストレート一本に絞っていた。

 

銚子商業は江川を倒すために、あらゆる手を尽くしてきている。そして江川も、決して本調子ではない。しかし、それでもなかなか打てないのが江川であった。銚子商業は江川をなかなか捉える事が出来ず、凡打の山を築いて行った。

 

だが江川は

 

「この日の銚子商業は、今までとは全く違い非常に強くなっている」

 

という印象を抱いていたという。江川としても銚子商業に対し、非常に嫌な気持ちを抱いたまま投球を続けていた。江川は走者として出塁した際に、銚子商業の一塁手・岩井に対し

 

「何か、今日の銚子はいつもと違うな。俺、今日は負けるかもな」

 

という言葉を漏らしていたという。

 

そして7回裏、銚子商業は木川と青野の連打が飛び出し、123塁のチャンスを掴んだ。ここで迎える打者は7番の磯村だったが、銚子商業はスクイズではなく強攻策を取った。しかし磯村は江川の剛速球に押され、サードフライに倒れた。これで2アウトで、ランナーはなおも2塁、3塁。続く打者は銚子商のエース・土屋だったが、江川は土屋をストレートで空振に仕留めこのピンチを脱した。ピンチになればなるほど、エンジンを全開にするのが江川の持ち味であったが、この場面でも江川はその持ち味を遺憾なく発揮したのであった。

 

一方、土屋もまた、江川を相手にして一歩も引かず、作新に対して得点を許さなかった。土屋は

 

「江川さんに勝つには、こっちも作新を0点に抑え続けるしかない」

 

と覚悟を決め、延長18回まで投げ続けるという悲壮な決意をしていたのだった。

 

こうして江川と土屋の互角の投げ合いは続き、試合は0-0のまま延長戦へと突入する。この試合は途中から雨が降り出していたが、延長戦へと入る頃、その雨はますます激しさを増していた。銚子商業は、この雨を「恵みの雨」と捉えていた。あの「江川は雨の試合に弱い」というデータが、銚子商業の選手達の頭の中には、しっかりと入っていたからである。

 

一方、江川は初戦の柳川商戦に続いての延長戦突入という事に加え、この雨に対して、やはり非常に嫌な気持ちを持っていた。

 

「ここで試合が打ち切りになったら、また明日(再試合で)投げなきゃいけないのか」

 

というような、ウンザリした気持ちにまでなっていたという。江川と銚子商業の、試合に対するモチベーションの差は明らかであった。

 

こうして試合の形勢は、徐々に銚子商業へと傾いて行き、迎えた延長11回裏。江川は1アウト満塁の絶対絶命のピンチに陥り、降りしきる雨の中、球道が定まらずにカウント2-3にしてしまった。

2013/10/24

全国焼き鳥対決part1(美唄)

ご当地やきとりを食べ比べできる日本初のテイスティングパーク「全や連総本店 東京」が、322日、大手町にオープンした。

 


構想から8年、「やきとりの街」を宣言する全国7都市から店舗が集結し「食べ比べ」をテーマに、各店自慢のやきとりや「ご当地食べ比べセット」、各地の郷土料理、地酒などを販売する。今回出店したのは、北海道美唄(びばい)市「やき鳥 たつみ」、北海道室蘭市「やきとりの一平 本店」、福島県福島市「鶏料理 鳥安」、埼玉県東松山市「やきとり ひびき」、愛媛県今治市「焼鳥 まる屋」、山口県長門市「焼とりや ちくぜん」、福岡県久留米市「焼とり 鉄砲」の計7店だ。

 

埼玉県の「やきとり ひびき」以外は、今回が東京初出店。看板メニューは「ご当地食べ比べセット(7串)


 

全店のやきとりを1串ずつ食べることができる。

 

「やきとり」と言っても、使用する肉は鳥だけではなく、串に刺すものだけでもない。豚肉と玉ねぎを交互に刺し、タレで焼き洋からしで食べる「室蘭やきとり」や、長門ではほぼ全ての店に置いてあるというガーリックパウダーをかけて食べる「長門やきとり」など、各地こだわりの食材と食べ方でいただく「やきとり」が楽しめる。

 

●美唄:美唄焼き鳥(びばいやきとり)は、鶏肉と、鶏レバーや内卵、砂肝、心臓などの内臓および、タマネギを、一つの串に刺して焼く、北海道美唄市独特の焼き鳥である。「美唄やきとり」とも表記される。


 

鳥の様々な部位とタマネギを一つの串に刺して焼いた焼き鳥で、美唄市の郷土料理とされている。塩・胡椒で味付けするのが一般的である。鶏の内臓を捨てずに大切に食べる明治時代の知恵が、美唄焼き鳥に生かされているとの文章もある。

 

美唄市の三船福太郎が、昭和30年代に、飲食店「三船」で始めたという情報がある。当時の美唄は炭鉱労働者が多く居住しており、それら労働者の食として人気となり、それがこの地方に定着した。

 

なお、創始者の苗字を冠した「元祖美唄焼鳥 三船」では、その前の昭和のはじめより、三船福太郎が美唄焼き鳥を始めていたとしている。美唄市だけでなく、札幌市やその他の地域にも「美唄焼き鳥」の店が存在する。美唄に本店のある「福よし」が、東京・銀座に店を構えている。

2013/10/16

四国と隠岐島

四国

日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (712年献上) では「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州)。この中で2番目に登場する「四国」の原文での呼称表記は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」である。

 

『日本書紀』(720年完成)では「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「四国」を「伊予二名洲(いよのふたなのしま)」と表記している。よって、古代においては「伊予之二名島」、「伊予二名洲」、または単に「伊予島」、「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」、「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)」などと呼ばれた(「フタナ」は二並びの意)

 

近世以降は五畿七道の南海道のうち、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから「四国」と呼ばれた。歴史書ではないが、16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる「陰徳太平記」(1717年出版)序に「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物において、明確に「四国」という名称を見出すことができる。

 

隠岐島

隠岐島は『古事記』、『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)2神が4番目にお生みになった土地で「隠岐の三子洲(みつこしま)」と書かれている。「隠岐の三子洲」とは、島後(どうご)が親島で、島前(どうぜん)の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親島に率いられた三つの子島の意味であるという。

 

『記紀』には隠岐の地名由来は書かれていないが、喜田貞吉博士によると島前3島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとって「オキの島」と呼称されるようになったという。別に伝承として、天照大御神が、この島の40余丈もある木をごらんになって「美しき御木だ」といわれたことから「御木(おき)」とついた、とも語り伝えられている。

 

島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、ついで島全体の名称として沖の島が呼び名となったのだろう。しかし、なぜ「隠岐」の字をあてるようになったか定かではない。

2013/10/14

焼き鳥が旨い

 焼き鳥が好きだ。たまたま銀座を歩いていて、旨い鳥料理店を見つけた。  「鳥良」という店だ。

 

ノンベエだから、普段は「飲み放題」のある店にしか入らないが、この店は飲み放題に予約が必要とのことで、仕方なく単品でオーダー。「ブラウマイスター」の800円は高いが、これは確かに旨い。

 

さて、焼き鳥だ。定番はモモ、ネギマ、砂肝といったところだが、これが実にジューシーで旨い。

 


 

 特にモモと砂肝は、こんなに旨いのは初めてかもしれない。居酒屋に行くと、最初に「頼んでもいない先付」というものが出てくる。これが大体500円くらいで、大抵ろくなものは出てこない。イカの塩辛や枝豆はまだ良い方で、以前など生のキャベツがどっさりと出されたこともあった。

 

また銀座などは居酒屋とは言え、当たり前のようにサービス料1割を上乗せされていたりもする。ところが、この店の先付けは面白いことに、小皿のつまみが10皿も入ったお盆で出てきて、どれだけ取っても500円というから実に良心的だ。

 

この店はチェーンで、調べてみると地元の吉祥寺に4店舗もあったのに驚いた。すっかりこの焼き鳥に嵌り、3ヶ月連続で通うことに。

 

この店の名物は「串打ち焼き」と「手羽先」ということらしいが、手羽先はタレが好みに合わないため、もっぱら串焼きを食べていた。

 

 

似たような店で「とり鉄」というのがある。これもチェーン展開をしている店で、焼き鳥の味は「鳥良」に幾分ヒケを取るものの、ここは当日でも1200円ほどで飲み放題が出来るのが魅力である。焼き鳥も1120円~と安く、手羽先は「鳥良」よりこちらの方が旨かった。

 

吉祥寺に店がないのは残念だが、新宿などを中心にチェーンがたくさんあり、予約が要らないから便利だ。たまたま見つけた「大手町店」は、フォアグラや神戸牛、九条ネギといったユニークな食材を使っていて面白い。



 

東京駅丸の内出口の丸ビルからも近いが、神田へと繋がるJRガード下でビジネス街だけに、土曜はガラガラで予約なしでも飲み放題ができた。気付けば今年だけで、早くも両チェーンに5回ほど通っているだけでなく、すっかり病み付きになりそうな予感である。

2013/10/08

怪物フィーバー(怪物伝説part6)

1973年、江川3年夏。

春の選抜で敗れはしたものの記録的な成績を残した江川は、ケタ外れの人気に沸いた。1973年春の選抜大会を席巻した江川の人気は沸騰し、選抜大会から帰ってきた作新は全国各地へ招かれ、年間300試合を超えるという大量の招待試合をこなさなければならなかったのであった。江川人気を当て込んだ全国各地の高校への、所謂「巡業」という事なのだが、これによって江川と作新のメンバーは、すっかり疲弊してしまったそうである。こんな無茶なスケジュールには、当時の作新の監督も反対の意向だったが、高野連のたっての頼みとあって、なかなか断れなかったという事情も有ったようだ。

 

55回全国大会栃木県予選で、作新学院の試合がある日は遠地から見物に来る車が5000台以上にもなり、球場周辺の一帯の道路は朝から大渋滞で完全に交通マヒとなり警備には40人以上の警察官が動員された。皇太子(現天皇陛下)ご夫妻が来県した以上の警備体制。車で来客する台数が約5000台にも膨れ、隣接する軟式野球場を解放して急遽臨時駐車場にするなど、まさにケタ外れの江川人気であった。

 

が、この時期の作新には、もう一つの大きな問題が起こっていた。この時期、江川人気は過熱する一方だったのだが、江川の人気が上がれば上がる程、江川以外の選手達は冷めて行ったという。いくら勝っても、マスコミから注目されるのは江川ばかりであり、他の選手達は全くと言って良いほど無視されていた。これは他の選手達も、当然面白くはない。江川はそんな状況でも、他の選手達に気を遣い自ら積極的に彼らの輪に入って行こうと努めたが、江川と他の選手達の間には隙間風が吹く一方だったという。これは、江川があまりにも突出しすぎていたが故の悲劇、という事が言えるのではないだろうか。

 

江川は「何十年に一人」という逸材であった。その実力が有りすぎたために、却って周囲から浮き上がってしまったのである。おまけに先に記したように、作新は凄まじい量の招待試合もこなさなければならなかった。これでは「何としても勝とう」という気力が萎えてしまっても、ある意味では仕方がない状況ではあった。夏の甲子園の予選を前に、作新ナインの気持ちはバラバラで、モチベーションの低下も著しかったと思われる。しかし、そんな状況においても江川は1973年夏の栃木県予選で圧倒的な力を見せた。

 

準決勝では徹夜組約100人、決勝戦当日は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上。甲子園大会ではなく、地方の県予選で徹夜組が出るなんて前代未聞! 球場周辺の道路は朝から3キロ渋滞で完全に交通マヒし、隣接する軟式野球場を解放して急遽、臨時駐車場とするなど関係者は対応策に追われた。屈指の好カードとなった準決勝の対小山戦は徹夜組約100人、決勝の対宇都宮東戦は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上となるなど、地方の県予選としては異例の事態となった。

 

江川は初戦の真岡工、続く氏家を2試合連続ノーヒットノーランに封じ込めると、鹿沼商工相手に1安打完封勝利。準決勝では、強豪小山高校を81安打無失点に抑え勝利した。そして決勝では、宇都宮東を相手に何とまたまたノーヒットノーランを達成し、夏の甲子園出場を決めた。ノーヒットノーランのうち、3回戦の氏家戦と決勝の宇都宮東戦は、無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。このように江川が完璧に抑えながら、野手のエラーで「完全試合」を逃すケースが多かったが、野手の

 

「江川が投げれば常に完全試合の可能性があるだけに、異様な緊張を強いられた」

 

という証言もあるくらいだ。こうして、江川は(練習試合も含めて)140イニング連続無失点、という凄まじい記録を残し、1973年夏の甲子園に登場する事となった。どんなに疲弊していても、ナインとの軋轢が有っても、やはり江川は凄いといった所である。 しかし春の選抜と比べれば、これでも決して本調子ではなかった。

 

いずれにしても5試合のうちノーヒットノーランが3度、残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を被安打270奪三振無失点、練習試合を含めると140回無失点という驚異的な成績で夏の甲子園出場を決めた。専門家によると、これでも「六分の力」だというのだ。

 

そうして迎えた最後の夏の大会。今度は145イニング無失点という凄まじい記録を引っ提げて、江川は甲子園に乗り込んできた。当然のことながら、作新学院は優勝候補の筆頭。春に江川を倒した広島商、関東大会の雪辱を期す銚子商、打倒江川に燃える北陽、強打の静岡ら他にもズラリ強豪が顔を揃えたが、いずれの高校も「打倒江川」がそのスローガンであった。

 

しかし、高2秋の関東大会当時の怪物性は失われていた。それは江川を徹底的に走らせた監督が辞め、江川がランニングを手抜きするようになったからだ、と言われている。そして、それが1回戦から影を落としたのだった。

 

初戦は、柳川商から23奪三振。48年夏の選手権1回戦は、柳川商(福岡)に対江川用の奇策「プッシュ打法」作戦で6回に予選以来の初失点(練習試合含むと146イニングぶり)を奪われるが7回に追いつき、試合は11のまま延長戦に突入する。延長15回に柳川商外野陣の中継ミスで、作新学院が21でサヨナラ勝ちした。この試合を完投した江川は、15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録。  1位の板東英二(徳島商)18回=25奪三振だから、1イニングの奪取率は江川(1.53)、坂東(1.39)と江川が勝っている。江川は一人で15回を投げ切り、23奪三振を取っていたが疲労の極地に達していた。作新としてみれば、初戦でいきなり延長15回の激戦というのは、誤算といえば誤算であっただろう。江川も、「最後は、早く終わってくれと思いながら投げていた」というのが本音だったという。