2020/08/29

天地創造(ヘブライ神話1)

天地創造とは、厳密にはユダヤ教のヘブライ語聖書、キリスト教の旧約聖書『創世記』における世界の創造のことを指す。宗教絵画などでよく題材となる。

天地創造の流れ
ヒエロニムス・ボスの『悦楽の園』の扉、両翼を閉じると現れる外面に描かれた天地創造時の地球。おそらく天地創造三日目の大地、海、植物の創造時で、まだ人間は誕生していない

ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書『創世記』の冒頭には、以下のような天地の創造が描かれている。

創世記 11-8節(口語訳聖書)
はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり、神の霊が水の表を覆っていた。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神は、その光と闇とを分けられた。

神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

神は、また言われた、「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。神は、その大空を天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができた。
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物を生えさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。

年代推定の歴史
旧約聖書学では、創世記の記述内容としての「天地創造が起こった年代」は果たしていつだったのか、についての推定が繰り返されてきた。

ただし前提として、批評的な旧約聖書学では、天地創造物語は信仰書であり、信じている内容を記述しているという事は、批評的な全ての学者が認めており、もはや「実際に・事実として、いつ起こったことか、どうか」は、研究・議論されていない。ただし、「当時の人々が、いつ起こったと考えていたのか? それはどういう信仰・根拠だったのか?」などは研究されている。

正教会では、西暦で言うところの紀元前5508年のことだとしており、これを元年とした「世界創造紀元」を用いていた。

1654年に、英国国教会のアイルランド大主教ジェームズ・アッシャーとケンブリッジ大学副総長ジョン・ライトフットが聖書の記述から逆算し、天地創造は西暦の紀元前40041018日〜24日にかけて起こり、アダム創造は紀元前40041023日午前9時と算出し、長らくキリスト教圏ではこの年代が信じられてきた(旧約聖書のモーセ五書に登場する、族長全員の寿命を加算して算出したもの)。 その他にも、天地創造の年代には諸説ある。

一般的ではない解釈
一般的ではない解釈も、少なからず存在する。例えば、天地創造はある嵐で流された子どもの認識順序を表したものだ、というものである。

2020/08/23

六皇帝の年 ~ ローマ帝国(10)

1年皇帝
同年4月、カラカラを暗殺した近衛隊長、マクリヌスが次期皇帝となった。セウェルス朝の特色か、マクリヌスは元老院議員ではなく騎士から正統な皇帝になった初めての人物である。しかし題にもあるように、マクリヌスの治世は短かった。

パルティアに勝てず貢納金を支払い講和したために、軍の信頼を喪失。それを見たセウェルスの妻の妹マエサが、14歳の孫バシアヌスをセウェルス朝再興の証として担ぎ、反乱を起こした。少年バシアヌスは、兵士に人気のあったカラカラの落胤として宣伝されたため、熱狂的な支持を得る。闘争に敗れたマクリヌスは逃亡するが、後に捕らえられ処刑された。

最低最悪の暗君
218年、少年バシアヌスが、エラガバルス(ヘリオガバルス)の渾名とともに即位した。少年とある通り、彼は男である。しかし即位当初から、その問題性は発露していたという。彼の暗君っぷりは、以下の通りである。

・家庭教師の提言「自制心をもって慎重に生きなさい」に対し「殺害」で応じる
・仲間が早くも、ヘリオガバルスの味方についたことを後悔
・愛人(※男)の奴隷を共同皇帝にしようと企てる
・しかも、彼(※男)に自分を「妻」として求婚した
・別の愛人(※男)を執事長に任命
・彼にも、ちゃっかり求婚
・銀貨の銀含有量を下げる
・処女信仰を否定し巫女と再婚
・(男なのに)神の巫女を自称、自らの舞を元老院のお爺様方に見るよう強制する
・徹底した女装癖
・男を漁る為に、酒場に入り浸る
・化粧と金髪の鬘をつけて売春(※相手は男)、これに夢中になる
・宮殿を売春宿に改(悪)築
・性転換を行える医者を募集

というわけで暗殺されました。221年。よくそれまでもったな……

元首政の臨界点
222年、わずか13歳の少年アレクサンデル・セウェルスが即位。

以後、軍との対立を抱えつつも、穏やかな時代がローマ帝国に訪れた。アレクサンデルはいわゆる優等生で、元老院を尊重する穏健な皇帝だった。そんな君主を戴くからこそ、帝国は緩やかな時代を享受できたのかもしれない。実権は母が握っていたが、先代のアレよりは遥かにマシであろう。しかしペルシャ帝国との対決を機に、アレクサンデルにも、そしてローマ帝国にも凋落の兆しが見え始める。

226年当時のペルシャ帝国は、アルダシール王によってパルティアから取って代わった、重装騎兵を主力とする中央集権国家ササン朝であった。その戦力は強力で、時のローマ帝国が相対するには苦戦必至の相手であった。

少年皇帝の苦悩は、そこに限らない。東方ではササン朝が厄介なのだが、西方でも実に鬱陶しい勢力が形成されていた。ゲルマン戦士団である。彼らゲルマン民族は、すでに帝国領内に侵入を繰り返しており、アレクサンデルは貢納金で講和する他なかった。

そこで、軍との決別が決定的となる。アレクサンデルの対外的屈服に不満を抱いた軍は、しだいに強い将軍に指揮されることを望むようになる。それが235年、騎士将校マクシミヌスを推戴した反乱、そして少年皇帝の死に繋がった。

帝政ローマ第4王朝、セウェルス朝が断絶したのである。これは単に一つの王朝が途絶えたという話ではなく、元首政(プリンキパトゥス)の限界と終焉を意味し、軍人皇帝時代、すなわち帝国の内乱期を迎えることをも意味していた。その混乱期こそ、ローマ帝国衰退の直接的な原因となるのである。

軍人皇帝の時代
世は波乱の世紀末!
我こそ真のローマ皇帝、自称皇帝死すべし!

哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝の治世期末期ごろから、財政上での行き詰まりはすでに見え始めていた。「ローマ皇帝」の選出は、共和制期の執政官と違い明確な規定がなかったが、そこにセウェルス朝の断絶が加わることで、内乱の引き金が引かれたのである。

各地では、数多くの皇帝が乱立した。彼らは軍事力によって元老院と対立し、出てきては死に立候補しては退位、の繰り返しを体現した。この間登場した皇帝は、26人といわれる。

この時期には、北方のゲルマン人やササン朝ペルシャ帝国の侵入も目立ち始め、帝国は分裂の危機に陥った。内憂外患の絶体絶命に陥ったこの時代を、後世の我々は「3世紀の危機」と呼ぶ。

六皇帝の年 (A.D.235 - A.D. 244)
235年、マクシミヌス・トラクスは、セウェルス朝最後の皇帝アレクサンデルを暗殺し、この内乱期で最初の軍人皇帝となった。初の兵卒上がりの皇帝である。

マクシミヌスのもとローマ帝国はマルコマンニ人に戦勝し、サルマティア人やカルピ人とも対決する。しかし、マクシミヌスが1度も首都ローマに行くことがなかったために、元老院、そして戦費として穀物を供給する大土地所有者は、マクシミヌスに反発するようになる。

238年、大土地所有者らが反乱を起こす。反乱軍は、アフリカ総督マルクス・アントニヌス・ゴルディアヌスと、その息子を皇帝として推戴、首都の元老院もこれを支持。ところがアフリカ正規軍は、軍人皇帝マクシミヌスに忠実であったことから、反乱のゴルディアヌス父子を逆に死に追いやった。皇帝マクシミヌスは、首の皮一枚が繋がったわけである。

激化する内乱
元老院のプライドは、軍事皇帝への敗北を許さなかった。ただちに2人の元老院議員、プピエヌスとバルディヌスを皇帝とする。そして、亡きゴルディアヌスの孫に「カエサル」と名付け、後継者まで用意したのだった。

軍人皇帝マクシミヌスは、この新皇帝らを認めるわけにもいかずイタリアへと南下を開始。しかしアクィレイアの要塞を陥落させることができず、包囲戦を続行するも補給の不足からジリ貧となり、兵士たちは飢えに苦しんだ。そしてあろうことか、空腹の兵士たちは自ら選んだはずの軍人皇帝マクシミヌスを裏切り、殺害したのだった。

これで、先述の元老院に選ばれたプピエヌスとバルディヌスが、名実ともに皇帝となった。元老院が軍に勝利したかと思われたが、しかしここでバルディヌスが求心力を失ったことを皮切りに、新帝の2人は近衛隊に殺害されてしまう。元老院は軍に対し妥協するしかなく、次の皇帝を13歳のゴルディアヌス3世とした。

ところが241年、ティメシテウスが近衛隊長になると、ゴルディアヌス3世に代わり実権を掌握し始める。実質帝国を支配するティメシテウスだったが、ペルシャ軍を撃退し遠征を続けていくうちに、戦死したのだった。

再び実権を得たゴルディアヌス3世はペルシャ遠征で快進撃を成し遂げ、首都クテシフォンにまで迫るも、244年、遠征の途中で戦死した。これにて6人の正帝の時代、「六皇帝の年」が終焉を迎えた。

2020/08/22

荘子(1)

荘子(そうし、Zhuang Zhou、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが中国文学、中国哲学関係者の習慣となっている。史記には、「魏の恵王、斉の宣王と同時代の人である」と記録されている。

荘子が生まれた蒙の領地である宋は、当時弱小国の一つであった。荘子が生きていた時代に、宋王剔成は弟の偃に追われ亡命し、偃がそのまま王位に就いた。しかし偃は暴逆により前286年、斉、楚、魏の連合軍により殺され、宋は分割され滅亡してしまう。

『史記』のある挿話には、楚の威王が荘子の評価を聞き宰相に迎えようとし、礼物を持って荘子を訪ねた。すると荘子は

「千金は大したもの、宰相は最高の地位でしょう。しかし郊祭の生贄になる年をご覧なさい。長年、美食で養われ、錦繍で飾られ、最後には祭壇にひかれていく。その時いっそ野放しの豚になりたいと思うも、手遅れなのです。わたしは自由を縛られるより、どぶの中で遊んでいたい。気の向くままに暮らしたいのです。」

といい断った。

人物
荘子については複数のテキストや説が存在するが、それらの信頼性には様々な疑義があり、また相互に矛盾する記述もあるため詳らかでない。たとえば『史記』巻63には荘子の伝があるが、これは司馬遷が当時の寓言を多く含む『荘子』から引いたものと推定されており、池田知久は「司馬遷が思想家たちの作ったフィクションを材料にして書いた荘子の伝記」と述べている。その他、『呂氏春秋』や『荀子』などにも記述が見られるが、いずれも『荘子』の影響を強く受けている。

思想
荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ、無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。

軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や、意義に対して批判的である。

こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、従来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想を神秘主義思想の応用展開として読むことになる。他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。

荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。

「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。

この説話の中に、無為自然一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。

近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した研究もあらわれている。

著書『荘子』
著書とされる『荘子』(そうじ)は、西晋の郭象が刪訂した内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の構成のものが、現在に伝わっている。

内篇は逍遙遊、斉物論、養生主、人間世、徳充符、大宗師、応帝王

外篇は駢拇、馬蹄、胠篋、在宥、天地、天道、天運、刻意、繕性、秋水、至楽、逹生、山木、田子方、知北遊

雑篇は、庚桑楚、徐無鬼、則陽、外物、寓言、譲王、盗跖、説剣、漁父、列禦寇、天下

この現行『荘子』は、晋の郭象が注釈を加えた際に刪定したものだが、史記には「荘子十余万字」とあり、現行より多いことがわかる。また漢書芸文志には「五十二篇」あったと記録されている。しかし郭象の刪定したもの以外は、現在見ることはできない。これらのうち、内篇のみが荘子本人の手による原本に近いものものされ、外篇・雑篇は弟子や後世の手によるものと見られている。


荘子「内篇」は、逆説的なレトリックが随所に満ち満ちており、多くの寓話が述べられ、読者を夢幻の世界へと引きずり込む。

孔子と儒教
荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より荘子は儒家出身者ではないかという説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。白川静は、孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。

道教
老荘思想が道教に取り入られ、老荘が道教の神として崇められる様になっているが、老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説[?]もある。

後世への影響
老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるようになり、道教を国教とした唐代は、皇帝玄宗により神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と呼ばれるようになった。『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は、荘子を指している。
出典 Wikipedia