2020/01/29

アリストテレス(9) ~ 倫理学


自然は目的に向かっている
 さて、その事物中心の彼の世界についての考え方はどんなものであったか、といいますと、一口で「はしご、ないし階段的構造」だと言えます。つまり下のものは、上のものになろうとしている、と考えられています。断絶はありません。「自然は一つ」なのです。

 ニワトリの例で「はしご・階段」を説明してみますと、ニワトリは卵(ニワトリの材料・質料)の「形相」です。しかし、このニワトリは同時に、フライド・チキンの材料(質料)となっています。フライド・チキンは、ニワトリという「質料」の「形相」なのです。さらに、フライド・チキンは、人間の「血・肉」の材料(質料)となります。物事はこのように、何かの「形相であると同時に、何かの質料」なのです。

 勿論、人間の目に、この関係がよく見えないものもたくさんあるでしょうが、自然世界は連なっているのですから、何らかの繋がりの「仕方」というものがある筈です。その繋がりの仕方を、アリストテレスはこのように見たのです。しかし、こういう「繋がり」を起こすものがなければならない筈で、また何時まで経ってもこの繋がりが終わらない、では困ります。ここにアリストテレスは「第一の運動を起こすもの、および最後の形相」をいわなくてはならなくなります。勿論、同時に、「もう決して何かの形相ではない、ただの質料」もいわなくてはなりません。

最終目的
 この「最後の形相」というのは、もう決して他の物の「質料」になることのない「純粋の形相」です。で、結局、あらゆる事物は、これを目指しているということになるわけで、そういう意味でこれはすべてのものを動かしている「第一の起動者」ということになり、したがって、この自然世界のこういう「繋がり」の在り方をつくりあげた「張本人」ということになるわけです。

これはもう自然世界の中に探せませんから、アリストテレスは「」などとも呼んでいます。これは「完全そのもの」「善そのもの」であって、すべての事物はこれを目指して生まれ成長していくのだ、というわけです。それを目指していくことが事物の存在理由なのです。そうしてこそ、自然全体が完成するからです。ここも、すべてはイデアを憧れ存在している、としたプラトンを引き継いでいます。

倫理学
 世界がこんな具合に考えられているわけですから、人間のことにしても同じで、存在の階段で言えば「人間は、動物の上にいて神の下」にいることになります。そして、人間に自然的に与えられているあらゆる能力が発揮されて神に向かって行っていれば、その人は「善く」、したがって「幸福」ということになります。具体的にはどういうことになるでしょう。

 通常、人は幸福を「快楽」に求めているようです。そのために金を求めます。確かに、色々な物に不足してヒーヒー言っていては「幸福」とは言えないかもしれません。災害や病気に苦しんでいても、幸福には具合が悪そうです。しかし、それらが満足されれば「幸福」なのでしょうか。どうも人は、これだけではダメなようです。

 つまり、一方で人間は金をかけても、人に知られなくても、いろいろ「自分を磨こう」とします。これは「何かの功利のため」というものではありません。ただ、その人の「人としての在り方を磨いている」だけのことです。しかし、ここに人は満足を覚え、また、あるいはその人は一層の尊敬を得たりします。もっとも、そのために磨いたというわけではないのですが、そう評価されてくるわけです。人は、どういうわけか、自分では「金」を一番大事にするくせに、金を儲けた人を尊敬するということは決してなく、むしろ、「人間を磨いている人」をやっぱり尊敬してしまうのです。何とはなく、それが「人間には最も大事」なことだということを、薄々ながら知っているからです。

 こんなわけで、人の幸福には「生命的・生物的満足」と「社会的な、徳的な生活」と「精神的・理性的・知性的」な在り方と三つが実現してこなければならない、となります。これは人間にある様々の能力、「生命的、成長的能力」や「感覚的、欲望的能力」そして「徳的な能力」さらに「理性的、知性的能力」が開化した状態であることはいうまでもありません。しかもこれは「階段的」です。

つまり、「感覚・欲望」はすべての生物が持っています。ところが「徳的な能力」は人間だけです。さらに「完全な理性」となると神様だけです。もちろん、人間もそれに与っては居ますが不完全です。これがより花開けば、人間は「神に近い」と言えるでしょう。人間は、そうして「人間だけの能力、徳的な能力」を発揮し、そして持ち物としては「より少ない理性」を「より多く持つことができるようにしよう」と生きていきます。それが人間の存在の意味だと考えられるからです。「欲望」にまみれていては「動物」に成り下がってしまうわけです。

 要するに、人間の能力の中で「人間固有のものとして、最も人間的な能力」、つまり一番「神に近い能力」は「理性」だということになりますから、理性が花咲いているのが一番優れていて、一番幸福だということになります。つまり、理性が真理を知って、それを見て喜ぶ在り方で、これを「観想的生活」などと呼んでいます。

人間は社会的生物である
 ただし、これはまあ理屈の上ということで、実際にはアリストテレスは「人間は社会的動物である」として、その社会において求められる「徳的な生活」に一番力点をおいて、人間の在り方と幸福を語ってきます。

 そこで展開されるのが「中間」というありかたで、これは様々の条件下において要求される行為の在り方で、「バランス」「調和」と考えると分かりやすいでしょう。つまり、勇気ということだったら、「蛮勇・猪突猛進」になっては、これは「バカ」と言われるだけになり、逃げてばっかりでは「臆病、卑怯者」になってしまいます。そこで、その「中間」を求めなければならない、ということになるわけです。この時、その状況によって、その「中間」は異なってきます。

たとえば、暴漢が暴れているという時、か弱い女の子が立ち向かって行くのは猪突猛進であり感心しません。かえって厄介なことになってしまいます。彼女に要求されるのは、警官を呼びに走ることくらいです。しかし、この場に屈強な警官がいたとして、彼が怖がって他の警官を呼びに走ったとなると、これは困りものです。万事につけてそうです。ですから「中間・バランス」を求めるのは、結構難しい。そこでアリストテレスは、人が「つい陥りやすい傾向の逆の方に自分を向けたら」、などとアドバイスしてきます。「事実」を重視するアリストテレスですから、彼の倫理学はかなり現実的です。

2020/01/28

豪傑ヘラクレス伝説(ギリシャ神話72)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
 
 ヘラクレスはペルセウスの子孫であり、そのことが彼の運命を決めてくるという意味で、ペルセウスとの関係は重要となっている。ヘラクレスの伝説というのは、ギリシャの創世記の先祖の勲の思い出を背景にしていると考えられ、したがって詩人ホメロスの叙事詩にも頻繁に出てくる。また、詩人ヘシオドスの物語にも「12の難行」を含めて色々触れられていて、ごく初期からの伝説であったと言える。物語の時代設定は、今指摘したように「ペルセウスの子孫」となっていて、また「アルゴー船伝説の登場人物」となっている。

 悲劇作家達が、12の難行を含んだ様々なヘラクレス伝説に題材をとった多くの悲劇を書いている。悲劇作家の作品のうち、エウリピデスの『ヘラクレス』『ヘラクレスの子供達』『アルケスティス』が現存している。アイスキュロスとソポクレスのものは、残念ながら断片しか残っていない。また喜劇の中でも登場し、アリストパネスの『蛙』などが面白い。ヘラクレス伝承は話しが長く煩雑だが、テーマごとに区切ると以下のようになる。

ヘラクレスが孕まれる次第
1.例によってゼウスの浮気で、相手はテバイに亡命していたアンピトリュオンという男の妻であった「アルクメネ」となる。ゼウスがとった仕方は、出征中の夫の姿に身を変えて、凱旋したように見せかけてアルクメネのもとに行く、というものであった。

2.アンピトリユオンも戻ってきて、彼も妻のアルクメネを早速にも抱いて、結局アルクメネは「二人の子供」を生んでくることになる。

3.一人はゼウスの子供、もう一人はアンピトリュオンの子供で、そのゼウスの子供がヘラクレスとなる。

ヘラクレスの誕生
1.ゼウスはヘラクレスが生まれてくる時、彼をミケーネの王にしてやろうと思って「今度生まれてくるペルセウスの子孫が(ヘラクレスは、その子孫だったので)ミケーネの王となる」と宣言したが、その意図を察知したヘラが例のごとく嫉妬の炎を燃やし、自分の配下にいる出産の女神エイレイテュイアに命じて、アルクメネの出産を遅らせてしまい、まだ七ヶ月であったステネロスという男の子供を先に生ませてしまった。


2.その子供がエウリュステウスといい、彼もペルセウスの子孫であったので、ゼウスの今の宣言に基づいて、ヘラクレスを出し抜く形でミケーネの王となってしまい、ヘラクレスに様々の難題を与えて苦しませることになる。

赤ん坊のヘラクレス
1.ヘラクレスはすくすくと育ち、八ヶ月となったときヘラが再び邪心をおこし、ヘラクレスを殺そうと二匹の蛇をヘラクレスの寝ているゆりかごに送りこんでくる。

2.母親のアルクメネはびっくりして夫のアンピトリュオンを呼ぶが、その前にまだ八ヶ月の赤ん坊であったヘラクレスはスックと立ち上がり、この二匹の蛇を両手でつかみ絞め殺してしまう。

ヘラクレスの少年時代
1.少年となったヘラクレスは、様々の武芸を一流の師匠について学び、また竪琴をオルペウスの兄弟であったリノスに学ぶ(音楽は後のギリシャにあっても、教養の第一にあった)。

2.師匠リノスに殴られたヘラクレスは怒り、竪琴でリノスを殴り殺してしまう。こうした乱暴を父アンピトリュオンは心配し、ヘラクレスを牧場へと送ってしまう。ヘラクレスはこの田舎で育ち、武芸百般、弓矢においても槍においても百発百中の腕を身につけた。

成人の後
1.18歳のヘラクレス、50人の娘と交わる。
2.キタイロン山の獅子退治。
3.ヘラクレス、エルギノスを挑発、攻めてきたエルギノスとの抗争。
4.父アンピトリュオンが討ち死に。ヘラクレスの活躍。テバイの王であったクレオンから褒美として娘のメガラをもらい、三人の息子を得る。
5.女神ヘラは再びヘラクレスを憎み、ヘラクレスを発狂させる。発狂のヘラクレス、子ども達を殺害してしまう。
6.狂気から覚めたヘラクレスは絶望して、自分を「追放の刑」に処する。
7.アポロンに今後のことを占ってもらうべく、デルポイへと赴く。
8.アポロンの巫女はヘラクレスに「テュリンスに行って、エウリュステウスに12年間仕え、命じられる10の仕事をしろ、さすればお前は不死の身となろう」と神託を与える。

2020/01/23

イエス・キリスト(7) ~ 愛の神


 一般にキリスト教が紹介される時には「愛の宗教」であると紹介され「右の頬をぶたれたら左の頬も差出しなさい」とか「剣を持つものは剣によって滅びる」というイエスの言葉も紹介されて「赦しの宗教」であるとも「平和の宗教」でもある、などと言われます。そしてイエスの教え自体は、これで全く正しいです。

 イエスの教えは「虐げられている者、貧しい者、悲しんでいる者、苦しんでいる者の救済」にあり、それ以外ではありません。ですからイエスは「救済の神」を教え、その神は貧しく踏みつけられ、悲しんでいる者を救う「愛の神」だと教えたのです。この「愛の神」という考え方はユダヤ教にはなく、またゾロアスター教にも明確にはありません。これがイエスの最大特徴と言えるわけで、ここにユダヤ教的な「見張っていて罰を与える神」は「愛し見守っている神」へと変貌していったと言えます。

 その背後の思想としては「宇宙を創造し、万物を支配し、その配慮は宇宙全体に及ぶ」とするユダヤ教の神のあり方を引き継いでいますが、このあり方を「愛」だと捕らえ返しているというわけでした。

 そして、モーゼ以来の「戒律」の思想も引き継いでいますが、ここでもイエスはそれを「愛の実践」と捕らえ返し、そのための「悔い改め」を要請しました。

 しかし、イエスは「絶対善としての神」「魂の不滅」「天国」「復活」「最後の審判」とかのペルシャのゾロアスター教にあった思想も引き継いでいます。

イエスの本来の教えとは
 イエスの「思想」といっても、イエスによる教えそのものは子どもにも分かるような、優しく単純な形で述べられた筈です。そうでないと一般の人々、とくに下層の人々に伝わり広まることは、あり得ないからです。しかし、それを一つの思想としてまとめようとした時には、その特質は次の四つで説明できると言えます。

1、ユダヤ教的「律法主義」「戒律主義」に対する批判
2、神とは「」であり、その神の配慮は全存在に及んでいる、ということ。
3、神の国の成就は、今まさにきたらんとしているということ。
4、人は、その神の国へ入るべく「悔い改め」なければならないこと。

 1というのは、当時のユダヤ教の教えが、「神の約束を得る」に至るためには「戒律」を守ることにあるとして、しかもそれを「文字通り」に拘泥して押しつけていたことに対する反論です。イエスによれば、この「文字通り」の拘泥というのは律法の「精神」を忘れさせ、ただ「現象」としてそう「見えて」いれば良いということになっているではないか、というわけでした。

 たとえば「安息日」の戒律にしても、本来は日々の厳しい労働のうちに忘れがちとなる「神」を心のうちにしっかり思い起こして、感謝し祈り、人間の罪を顧みて心静かにしているということが要求されたものなのだろう、とイエスは考えたようでした。ところがユダヤ教にあっては「ただ労働しない」ということだけが要求され、その要求は「文字通り」すべての「働き」に適用されたので、イエスが苦しんでいる病人を看護してさえ、また弟子が畑の傍らを通り過ぎる時、麦の穂をつまんで食べたのさえ非難されるようになっていました。これでは「貧しく虐げられている人々」は、さらに見捨てられ辛く悲しく苦しいことになってしまいます。こうしたあり方に対してイエスは批判して、「律法」本来の精神を取り戻そうとしたのです。

 2というのは、ユダヤ教の「」が妬みの神であり、見張っていて「」を与えてくる神と捕らえていたのに対し、「神」というのは本来「愛」をもって見守っているもの、離反し「罪」の中に居て、今も彷徨っている人間を救おうとしているものだ、と理解した点です。有名な「迷える小羊」の比喩や「放蕩息子」の譬えなど、みなこの思想を表したものです。

 3は、その「神」の救いの現れる日は「今」である、という考えで、悔い改めは「今」要求されるのです。今は仕事で忙しいから、またあとで暇になったら考えますといった悠長な事柄ではない、ということです。イエスの場面では、これは「精神的・思想的」なこととして解釈されたのではなく、文字通り「現実の今」最後の審判、神の国の到来があると信じられていたようです。したがって、イエスは「教団・教会」を創って未来に伝道しようなどとは夢にも考えていません。しかし、実際問題としてイエスが昇天して弟子達による教団が創られた段階で、これを精神的に解釈する必要が出てきてしまったのです。

 4の「悔い改め」というのは洗礼者ヨハネを引き継いだものですが、今ある自分を顧みて、その不完全性・欲望的な悪性を知り、それを否定し新たな自己にならねばならない決意を言うものです。洗礼とはそういうもので、罪ある自分を「一度水に入って死に」新たな者、神に従うものとして「生まれ変わる」ということを表現したものです。

 結局、何が要求されるのかというと、これもイエスは簡潔な表現で言っています。マルコ福音書では律法についての議論において、イエスは第一の掟は「神なる主は一つなる主、神なる主を心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛すること。第二は、隣人をあなた自身として愛すること」と言っています。この第二の掟が通常有名な黄金律となって表現されて、マタイ福音書とルカ福音書の二つで言われている言葉、すなわち「あなたが人からして欲しいと思うことを人にも為せ、それが律法と預言とに他ならない」というものになりました。

 このように、イエスは律法についてユダヤ教的な解釈を退けました。といっても律法を廃棄しようとしていたのではありません。それはイエス自身が、はっきり言っていますが「私が来たのは律法を成就するためだ」と言っています。しかし、その律法は文書としては複雑です。しかも一つ一つやっていこうとしたら、ほとんどガンジガラメになってしまいます。イエスは、そんなユダヤ教的考え方は駄目だ、というのであって「その言わんとしているところ、精神を理解しろ」と言っているのです。

 そして、その精神はどこにあるかを示そうとして「神を思うような愛に由来する愛ですべての人々を愛すれば、すべての律法は自ずと成就してくる」というのです。愛さえあれば「勇気を持ち、寛大となり、自分の欲望を抑え、公平・公正になり、他人を思い、平和を望む等々」というわけです。こうであれば、万巻の書に書かれている「人としてのあるべきありかた」はすべて全うされてくる、というわけです。「愛こそすべて」というのが、イエスの教えでした。

 ですから、イエスは自分がユダヤ教徒に捕らわれた時、守ろうとした弟子に「剣を持つ者は剣によって滅ぶ」と諭して争いを止めさせ、また「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と言って「忍耐」を説いていたのです。イエスにとっては「誠実に神を愛すること、その愛によって他の人々を愛すること、誠実であること、平和を愛すること」だけが要求されることだったのです。