2013/12/31

2013大晦日

「大晦日=大掃除」とは一体、誰が決めたのだろう?

実際には誰が決めたわけでもないのだろうが、やはり「元旦くらいは綺麗に迎えたい」  のだという考えは、我々日本人の遺伝子に刷り込まれた発想なのかもしれない。特に、普段の掃除が精々月イチの掃除機掛けでお茶を濁しているような自分のような者は  「大晦日くらいは、ちゃんと掃除をせねば!」などという強迫観念にかられてしまうのである。

 

カレンダーに恵まれた今年は「年末年始9連休」というのをいいことに、前日までは遊び呆けてきたが、遂にその日(大晦日)がやって来た。かくなる上は、覚悟を決めるしかない。こう見えても、やる時はしっかりやるのだ!

 

と、買い出しを終えた午後2時から、徐に大掃除を開始した。まずはラグを新しいのに変えると、古いカーペットに蓄積されているであろう埃の堆積もろとも「2013年」に別れを告げる。次いでゴミの大量生産をしつつ、キッチン、エアコンのフィルター類は全て水洗いし、返す刀で無謀にも汚れの著しい窓拭きにも着手した。

 

かつて実家にいたころ、母が口癖のように「天気だけは、どんなにお金持ちでも偉い人でもどーにもならん。お日様は貧乏人も金持ちも平等だよ!」とか「埃が溜まるくらいにお金が溜まったらねー」などと嘆息していたが、確かにどんな金持にも偉(そうな)人にも、容赦なく積もってくるのは埃なのである(「誇り」は、まったく別問題である)

 

窓ガラスの汚れは言うに及ばずだが恐るべきは網戸と桟で、チャイナ辺りのからの有毒物質が飛来したのかと疑うほど、掃除シートが真っ黒になったのに恐怖すら感じた。 特に窓枠に積もるように溜まっている、黒い砂のような物質はなんなのだろう?

なにはともあれ数年ぶりに窓拭きも完了し、なんとか綺麗にはなった(と信じる)

人間、集中すればそれなりの成果が出るもので、2時間集中して取り組んだ掃除の成果は「自分を褒めてやりたい」という、どこかで聞いたような陳腐なセリフが出そうになったほどである。

 

ともあれ今年を振り返ってみると、仕事面では今年も大満足というには程遠かったものの、まずまず大過なく過ごせたし、また風邪以外には大きな病気もなく過ごせたのは幸いだったというべきだろう。早いもので、気付けば上京してちょうど10回目の年末年始を迎えることになったが、2014年は念願の引っ越しなどさらに激変の年になることは間違いなく、充実した人生を追求していきたいものである。

2013/12/24

淡路島

 記紀の日本列島の国産みの神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島であるとされる。『古事記』では「淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)」と書かれ『日本書紀』では「淡路洲」と書かれる。「阿波への道」が語源と言われることが多いが『古事記』、『日本書紀』で最初にできた国が淡路島とあり矛盾する。

 

」という漢字は「淡海(近江)」、「淡河」、「淡谷」など、自然を表す字と組み合わされることが多い。「路」や「道」は現代で言うところの「地」であったと考えられ、最初に国として完成することができた尊い土地という意味で「淡路(淡道)」と名付けられたものと思われる。古代から平安時代まで「御食国(みけつくに)」として、皇室・朝廷に贄(にえ)を貢いだとされる。

 

『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。江戸時代には、徳島藩の知行地となった。天明2年(1782年)には、島内最大の百姓一揆(強訴)である「縄騒動」が起こっている。広田宮村の才蔵らが先導、騒動は暴力事件に至らず役人の罷免で収束したが、首謀者は強訴の責任を取らされて処刑された。明治維新期の廃藩置県によって徳島藩は名東県に改組されたが、庚午事変(稲田騒動)が遠因となって1876年(明治9年)821日に名東県が分割されると、淡路島は兵庫県に編入された。以来、近畿地方の一角として発展している。

 

淡路島の由来は「阿波」路島、つまり阿波への路という説と、日本で最初に出来た国という意味という説があります。後者には『古事記』、『日本書紀』で最初にできた国が淡路島とあり「淡」の字は現代で言うところの「貴」や「尊」に近い意味であり「路」や「道」は現代で言うところの「地」であったと考えられ「最初に国として完成することができた尊い土地」という意味で「淡路(淡道)」と名づけられたものと思われる。

 

「昔、むかしイザナギ、イザナミノ命が天からの階段である「天の浮き橋」に立ち「天の沼矛」で海の水をかきまわした。すると、この矛の先から滴り落ちた滴が、たちまち島になった」

 

これが「オノコロ島」で我が国発祥の地と言われ、これが淡路島の由来となっている。  日本国語大辞典によると,「阿波」は「粟のよくできる国の意」であるようです。淡路島については、同じく大辞典に第一に有力の語源として「阿波の国へ渡る途上の島であるから」、第二に有力の語源として「アハヂ(吾恥)の意。神が小国を産んだことを恥とした伝説から」とあるが、後者はどう考えても牽強附会であり、後付けの屁理窟と思われる。また日本歴史地名大系にも「淡路は『淡道』、『粟路』と記されたこともあるが、本来畿内から四国の阿波国への通路を意味している」とある。

2013/12/19

怪物の実力(怪物伝説part9)

県予選では、2度の完全試合を含む9度のノーヒットノーランを達成しているが、とにかく味方打線の援護がないので、勝つためにはひたすら完封し続けるしかない。2年の夏は、予選準決勝で小山に延長11回スクイズの1失点で敗退している。小山と対戦する前の試合は3試合連続ノーヒットノーランで、その内1試合が完全試合だった。小山戦も102死まで無安打、打たれた中前テキサス安打は、実に37イニング目に許した「初安打」だった。


一人の走者も出さないことが勝つために最善な方法であり、もし走者を出した場合は本塁に帰さないこと、つまり完封することが最善の方法である。00が延々と続くと怪物の敵はもはや相手打線ではなく、相手の好投手だったり打てない味方打線ということになる。

 

ちなみに、最後の夏(昭和48)の予選で記録した作新学院のチーム打率は「204」  およそ県予選の優勝校らしからぬ「低打率」である。10で勝つというその環境こそが、江川のピッチングに磨きをかけたともいえる。

 

結局、甲子園で4勝しかあげていない江川が怪物といわれたのは、その圧倒的な投球内容である。在学中の公式戦登板44試合、完投した30試合中の3割に当たる9試合を無安打、それ以外の試合も唯一3安打を許した1試合を除き、1安打か2安打しか許していない。甲子園で連戦連勝した桑田(PL学園)や松坂(横浜)は強いチーム力に支えられていたが、投手個人の力では断然江川が上といわざるを得ない。予選、甲子園大会を通じて殆ど打たれていない、こんな投手は二度と出てこないだろう。

 

甲子園での通算成績は、6試合(42)、投球回数591/3、奪三振92(1試合平均15.3)、自責点3、防御率0.46。そんな「怪物・江川」をして甲子園の頂点に立つことはなかった。それが野球、それが甲子園なのだ。

 

江川と旧知の仲である、国際武道大学監督の岩井はいう。

2006年に全日本の監督になって、キューバのハバナで開催された第三回世界野球選手権で、デービット・プライス(現デビルデイズ)が101マイル(約162キロ)投げたんですけど、ベンチで見る限り江川の方が速かったですね。ベンチからの見た角度のスピードでは、高校1年と2年の江川は速かったです。高校3年は遅かったですね。 江川に聞いてみればわかりますが、一番速かったのは高校1年から2年にかけてだと思います」

 

この江川と当時バッテリーを組んでいた、政治家の亀岡(旧姓・小倉)偉民の証言。

「いくら桑田や松坂が速いといっても、彼らは『ズドーン』という速さ。当時の江川は『ピッ』という感じだった。球質が全く違う。球の回転が速く球質が軽いから、直球は伸びるしカーブはよく落ちる。殆どの打者が、かすりもしない状態だった。江川はアイドル的な人気ではなく、玄人ウケするスーパースターでしたね」

 

その亀岡が、今でも思い出すのは『銚子商戦の最後の1球』だ。優勝候補同士の2回戦の対戦。作新・江川と銚子商・土屋の投手戦は「0ー0」のまま延長戦へともつれ込む。試合終盤から悪天候になり、捕手から投手へまともに返球出来ないほどの土砂降りとなっていた。

 

12回裏・1死満塁の大ピンチを迎えた江川。この絶体絶命の場面で江川はタイムを取り、ファースト・鈴木、セカンド・菊池をはじめ、内野の全選手をマウンドに集めた。

 

江川は

「次の球、俺の好きな球を投げていいか?」

と、彼らに聞いたという(前回の達川に話したという、江川自身の話とは異なるが)

 

江川は、次の球はストライクかボールかというよりも

「高校三年間で、一番速い球を投げてやろう」

と、心に決めていたそうである。この場面で、江川は半ば負けを覚悟していた。そして、最後は悔いのない球を投げてやろうと思っていたのであった。

 

江川にそう聞かれ、特に江川と反目していたファーストの鈴木が

「お前の好きな球を投げろよ。俺達がここまで来れたのも、お前のお陰だから。何も文句はねえよ」

と答えたという。捕手の小倉によると、小倉はこの場面で初めて作新の選手達の心が一つになったと感じていたらしい。

 

「みんなも頷いて、チームが初めてまとまった瞬間でした。ただ負けるなんて考えもしなかったし、江川だから抑えるだろうって皆が思ってた。ところが・・・渾身の直球は無情にも高めに浮き、押し出し四球のサヨナラ負け。結果的にチームがひとつになったのは、最後の一瞬たった1球しかなかったけど、悔しさはありませんでした。不思議な感覚ですが、野球をやったという充実感がありました。

 

それまで『江川のワンマンチーム』、『勝って当然』と言われ続けていた。負けないためにどうしたらいいか、ナインにも江川にも気を遣ってやってましたから。試合後は誰も泣かなかったし、初めてみんなが仲良くなりました」

 

当時のコトを江川は言葉少なに話す。

「決して仲が良いチームじゃなかった。野球以外の学校生活では、殆ど付き合いがなかった。最後に、みんなを集めた時

『おまえひとりのために野球をやってんじゃねぇ!』

『どうぞご勝手に!』

とか言われると思ってた。でもみんなの言葉で、不安は全く消え去りました。最後のあの1球・・・高校時代で一番いいボールが投げられたと、今でも思っています」

2013/12/15

笛吹川と釜無川

『昔、三富の里に日原権三郎という若者が母と二人で暮らしていました。二人は都から戦に出た父親を探しにきて、三富に住むようになったのでした。権三郎は笛がたいそう上手でした。苦労が重なって眼が見えなくなった母親は、権三郎が吹いてくれる笛が何よりもの慰めでした。

 

ある年、大洪水があり権三郎は母とともにねとり川の濁流に飲まれましたが、やっとのことで大岩によじ登り助かりました。しかし母は権三郎の名を呼びながら、流されてしまったのです。それからというもの、権三郎は昼も夜も笛を吹きながら、川岸を上ったり下ったりして母の行方を探しました。雨の日も風の日も、母を探す権三郎の笛の音が聞こえていました。

 

ある日のことでした、石和に近い川下に権三郎の遺体が流れ着いたのです。母を探しているうちに、川に落ちたのでしょう。それからも夜になると、川の方から笛の音が聞こえてきました。村人たちは権三郎が死んでからもまだ、母親を探しているのだと言いあって哀れに思いました。そしていつからか、この川を【笛吹川(ふえふきがわ)】と呼ぶようになったと伝えられています』

 

このような伝説を持つ笛吹川は、秩父山系の甲武信ヶ岳が源流となっています。流域には、笛吹川フルーツ公園(山梨市)や石和温泉(石和町)などがあります。田富町で「釜無川」と合流します。

 

「フエ・フキ」、HUE-HUKI(hue=calabash,gourd;huki=spit,stick in as feathers in the hair)、「ひょうたん(のような盆地)を・貫いて流れる(川)」

 

釜無川の名前の由来は他にも色々説があるそうですが、巨摩(こま)地方で第一の川という意味の「巨摩の兄(せ)川」がなまったと言う説もあります。また上流の「釜無山」にちなむというものや「水量が豊富で流れが速いため、釜を洗おうとするとすぐに流されて無くなってしまうから」という伝承に近いものなどが挙げられる。

 

その中でも有力視されているのが、絶え間なく流れる様子を表した「クマナシ(隈無し)」に由来しているというものである。

2013/12/04

全国焼き鳥対決part4(今治、久留米)

今治

今治の焼き鳥は「串付き肉を網の上で焼く」という一般的によく見られる方法ではなく「肉や野菜を鉄板の上で焼く」という一見風変わりなもの。これは商売人が多く、せっかちで待つのが嫌いな気質と言われる今治の人を満足させることから、約50年前に考案されたと言われている。



 「早い」「安い」「旨い」の三拍子が揃った今治焼き鳥は、多くの支持を得、現在は市内に約70店舗ある。また、人口あたりの焼き鳥店舗数が日本一(平成105月タウンページ)であったことから、平成113月には「焼き鳥日本一宣言」をした。


平成118月には「今治ヤキトリ料飲組合」も結成され、毎年810日を「焼き鳥の日」と定め『やきとりの街今治』をPRしている。

 

鉄板の上で焼くのが今治焼鳥

熱々の鉄板の上から大きな鉄のコテで肉を押さえ、ジュージューと豪快に焼く個性的なスタイルの今治焼き鳥。特に個性的なメニューと言えるのが「皮焼き」である。




皮のみを焼く店もあれば、少し肉を残した皮を提供する店もあり「皮焼き」は食感も味も、それぞれの店のこだわりを楽しむことができる。またタレも、トロリとした甘辛醤油タレ、さらりとしたタレ、おろしタレ、からしタレといったように、店ごとのこだわりを楽しむことができる。自分に合ったタレの味を見つけるのも「今治焼き鳥」を楽しむ方法の一つと言える。

 

「皮」に始まり「せんざんき」で終わる、というのが今治焼き鳥通の食べ方らしい。「せんざんき」というのは、この地域に昔から伝わる郷土料理で、下味を付けた唐揚げのことを指す。名前の由来は

・鳥肉を千に小さく切ることから「千斬切

・きじ肉を最初に使ったことから「せんざん雉

・中国料理の「軟炸鶏(えんざーち)

と諸説あり、味付けや揚げ方もその店々で違いがある。

 

久留米

久留米の焼きとりは、屋台で出されたのが始まりとされている。現在、焼きとり専門店として最古参の屋台は、1963年(昭和38)に開業した屋台である。店主は、久留米焼きとりについてこう話します。

 

「焼きとりは、うちが開業する前から久留米の屋台で出されていました。それでも開業した頃、焼きとりを出していた屋台は10軒ほどでしたし、今ほど品数はありませんでした。例えば、ダルム(豚・牛・馬の腸)や豚バラ、鶏の砂ずりなどで、鶏肉は手に入らなかったものです」

 

久留米市史によれば

『我が国の経済は昭和30年代後半から40年代にかけて高度成長を維持し続け、本市はやや後れながらも躍進期を迎えた』とあります。

 

その頃、久留米市では、いわゆる「ゴム3社」のブリヂストンタイヤ(株式会社ブリヂストン)や日本ゴム(株式会社アサヒコーポレーション)、月星化成(株式会社ムーンスター)が技術革新によって業績を伸ばし、街は賑わっていた。

 

その頃を振り返り、店主はこう話します。

 

「工場などで働く人々が、屋台の開店前から並んでいたものです。久留米には昔から肉屋、内臓屋といった専門業者がいましたので、豚や牛、馬の材料を手に入れやすかったように思います。それもあって焼きとりファンが自ら屋台や店舗を構え、店の数が増えていったのです」

 

現在、久留米市には焼きとりを出す店は、約200軒あるといわれている。 



久留米焼きとりの特徴は、その品数の多さだ。



                    


鶏や豚、牛、馬、魚介類、野菜、巻物などを竹串にさし、炭火でじっくりと焼きあげる。また内臓ものの品数が多いのも、久留米焼きとりの特徴である。

 

「現代用語の基礎知識2007」では、久留米焼きとりの特徴をこう紹介している。 

『店ではまず酢ダレのかかったキャベツが出る。基本は塩焼きで、肉の間に玉ねぎが挟まれている。豚、牛、鶏が混在したスタイルで、創作巻物も豊富。珍しいメニューに「ダルム」(ドイツ語で馬の小腸)(左画像)やセンポコ(主に牛の大動脈)など』

 

「全や連総本店 東京」は、大手町サンケイビルの地下にある。店内は各地域出店のブースに分かれており、どこでも好きなところが利用できる。

 

ビジネス街という場所柄、平日は仕事帰りのサラリーマンで賑わいそうだが、土日は穴場であろうとの見立て通り、ある土曜日などどのブースも人が少なく「貸切」状態だった。

 

最初に行った時には「全や盛15本」(1980円)というのを食して満足したが、2回目にはすでにこのコースはなくなっていた。

「量が多すぎるため、廃止しました」という説明だったが、2人で15本はちょうど良かったし、価格も手ごろだっただけに惜しまれる。

 

お薦めの「ご当地食べ比べセット」(7本、1280円)は、その名の通り各地の名物が1本ずつ入ったセットだ。




今回まで5回に渡り紹介してきたが、再度おさらいしておく。

 

・鶏の内臓すべてを1本の串に刺し、たまねぎをはさむ北海道の「美唄やきとり

・豚肉にたまねぎを挟み、洋ガラシをつけて食べる北海道の「室蘭やきとり

・伊達赤鶏などを使ったストロングスタイルの福島県「福島やきとり

・豚のカシラ肉などをピリ辛の味噌だれで食べる埼玉県の「東村山やきとり

・厚い鉄板で鳥皮を焼く、串に刺さないスタイルの愛媛県「今治やきとり

・ガーリックパウダーや唐辛子を振りかけて食べる山口県の「長門やきとり

・そして、豚、鶏から馬肉までなんでも刺してしまう福岡県の「久留米やきとり

 

「本日のご当地地酒3種飲み比べ」という日替わりメニューの地酒と生ビールをおともに、片っ端から各地の名物をオーダーしていった。




個人的には、やはり串焼きはサッパリとした鶏が好きだ。ブタはやはりくどいし、東松山(埼玉)では立地的にも近くて有難味に欠けるし、久留米のダルムなどもやはり自分にはくどい。今治の鉄板焼きは酒のおともには悪くはないが、やはり焼き鳥は串焼きが良いし、福島のはオーソドックスすぎて面白みに欠ける。

 

ということで、気に入ったのは美唄、室蘭、長門だが、色々食べた結果で最も旨いと思ったのは美唄である。もっとも散々飲んだ後だったせいかもしれないが、締めに食べたイカ墨パスタのような美唄の「石炭焼きそば」は、ひたすら濃厚な味わいではあったが ( ´艸`)ムププ

2013/11/27

日本三景で牡蠣を満喫

ランチは後回しと決めまずは参拝からと、さっそく鳥居を潜ると屋台が出ている。

 



参拝後のランチとなると遅くなるだけに、少し腹ごしらえをしようというと、どうしても祓社をお参りしないと気が済まないというパートナーは、一目散に行列に並び始めた。

 

そんなパートナーを尻目に、好物のイカ焼きでビールを飲んでいると、突如としてゲリラ豪雨に襲われる。しかもこのゲリラ豪雨は一度では済まず、断続的に何度も襲って来ただけに性質が悪く、屋台のテントの端っこになんとか割り込んでいたが、次々に押し寄せる非難客に加え、途方もない勢いで横殴りのゲリラ豪雨は恐怖だ。そんなゲリラ豪雨の攻撃にもめげず、我がパートナーだけでなく祓社を参ろうという行列陣は、雨に打たれながら列を崩す気配すらない。さすがに自分だけ暢気にテントで飲んでいるわけにもいかず、パートナーの傘の下に駆け寄ると、たちまちにしてびしょ濡れになってしまった。

 

幸いなことに、ダウンジャケットとリュックも防水加工だったようで、中にまで染み込まずに済んだのが幸いだった。耐え忍ぶことしばし、しつこいゲリラ豪雨もようやく収まり、祓社で清めをした上で参拝コースを回り、ようやく本殿にたどり着いた。

 


 

本来なら玉造温泉か近くの松江辺りに泊まりたいところだったが、散々調べた結果はどれもが満室。おまけに、パートナーが祓社の清めのための1時間待ちを譲らなかった時点で、松江城や宍道湖に行く計画は頓挫した。丁寧に拝観を済ませて、再び参道に戻った時は午後3時を過ぎていたが、そば屋は相変わらず行列ができていて、売り切れで店じまいをしている店も目についた。夫婦善哉を譲らないパートナーを押し切ると、なんとか出雲そばの店に入る。電車の時間を気にしながら、三食割子そばと地酒を5分程度で堪能しなければならないという慌ただしさだが、さすがに三色割子の味は絶品と言える。

 


 

電車には何とか間に合ったが、出雲市駅で広島行の特急はすでに満席となっており、新幹線までは1時間近い待ち時間があるという。こうした交通の便の悪さが祟り、結局広島駅前のホテルに入ったのは23時過ぎとなった。この日も温泉で温まったものの、朝が早いためぐっすり寝てはいられない。例によって、ホテル朝食バイキングの名物料理で腹ごしらえをする。宮島、広島城、縮景園、原爆ドーム、平和記念公園等々、観光名所が満載だけに、ノンビリしてはいられないと、駅前の路面電車に飛び乗り一路宮島へと向かうが、これが予想以上に時間がかかった。

 

やっとのことで、フェリーに乗り換える。世界遺産・厳島神社の、あの朱塗りの大鳥居が間近に迫ってくるのは感動的である。

 


 

広い厳島神社だけに、ここだけでかなり時間を要した。ロープウェイで弥山に登ると、さすがに「日本三景」というに相応しい景観が眼前いっぱいに広がる。

 


 

山頂までのハイキングコースを登って行きたいという誘惑にかられながらも、次のスケジュールを睨み下山すると、いよいよお目当ての牡蠣が待っていた。

 

「牡蠣の味は、うちの右に出るものはない」

 

と断言する老舗に入り、焼牡蠣をオーダーする。ビールを飲みながら待っていると、かつてお目にかかったことのない大ぶりの牡蠣が登場した。

 

(これが有名な宮島の牡蠣か・・・)

 

などと感激しつつ、一緒に持ってくるようにオーダーした熱燗とともに

 

(世の中に、こんなに旨いものはそうはない!)

 

と、思わず幸せな気分に。

 

パートナーに分けてもらったあなご飯も食し、大ぶりの牡蠣5つを堪能した上で、参道の屋台でもさらに「牡蠣串」を味わう。この日だけで、牡蠣10個も食べてしまった。

 

職場の土産用のもみじ饅頭を買い、青空に高く聳えたつ五重塔を背に帰路に向かうと、実に旨い具合に来た時は満潮だった大鳥居が、引き潮となっているではないか。 今日は無理だろうと思っていた、夕日を浴びて輝く鳥居まで歩いていくことが出来たのは僥倖と言えた。

 


 

いつまでも浸っていたい気分だったが、次の旅程を思い後ろ髪をひかれる思いでフェリーと路面電車を乗り継ぎ、引き続き市街地の見物に・・・という予定のはずだったが、路面電車のチンタラ運行が祟り原爆ドームに到着したころには早くも夕日が傾きかけていた。

 

平和記念公園はキャンセルし、急いで広島城へ向かうが到着した時はすでに夜。  入場時間にも間に合わず、もちろん期待した縮景園など観られるはずもない。

 

(今更、慌てても仕方がない。かくなる上は、名物お好み焼きを食べて帰らねば!)

 

と意見が一致し、広島駅に並ぶお好み焼き屋に入る。昼が遅かったので、ミックス1人前を2人で分けて食べることになったが、これがたっぷり1人前くらいはあるボリュームで、やはり本場モンの味は違った。旨いお好み焼きを満喫し、最終の新幹線に飛び乗るとさすがに疲れが出たか、ハタマタ酔いが回ったか、いつの間にか睡魔に襲われていた。

 

欲張って予定していたうち、回れないところがかなりあったとはいえ、岡山の後楽園、一生に一度しか出くわすことのない出雲大社大遷宮、そして世界遺産の厳島神社と日本三景の宮島も堪能でき、さらには牡蠣や割子そばなど各地自慢の味も十分に堪能でき、いつもの紅葉狩りとは趣を異にした印象深い旅となった。

2013/11/25

大阪

大坂」という地名は、元々は現在の大阪市域のうちの大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端辺りを指し、古くは摂津国東成郡に属した。この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。 

 

元々、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは難波(浪華・浪花・浪速)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばすに及んで大坂という呼称が定着した。その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(日本書紀には烏瑳箇とある) このため、この説は信憑性に乏しい。

 

蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人・伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流した時、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。しかし、従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うようになったのが広まり「おおさか」と呼ばれる様になった、という説もある。漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。

 

一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。

 

現在の大阪市の直接の前身である大坂の町は、古代の日本最初の本格的な首都である大化改新の時の難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)や、住吉津(すみのえのつ)難波津(なにわのつ。なにわづ)を起源に持つ、歴史的な国際的港湾都市であった。また江戸時代には、既に現在の大阪市の中央部を広く町域とする日本屈指の大都市であり、日本経済の中心だった。

 

後の「大坂」が位置した上町台地は、古代には「難波潟」と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で「難波(なにわ)」、「浪華(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪速(なにわ、なみはや)」などと称されてきた。この地には、古代大和朝廷が外国への使節の送り出しや、迎接に利用する瀬戸内海東部の重要な国際港であった「住吉津」や「難波津」が置かれ、古代の仁徳天皇の難波高津宮を始め、大化の改新時の難波長柄豊崎宮や聖武天皇の難波京(難波宮)などが営まれ、朝廷の首都あるいは副都として利用された。また律令制の下では、首都に置かれる京職に準じる特別の官署、摂津職によって管理された。

 

難波が古代国家によって重要視されたのは、大阪湾は西日本の交通の要である瀬戸内海の東端にあたり、かつ当時の中央政府があった内陸の飛鳥地方・平城京から見て最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は、大和朝廷直属の社として重要視されていた。難波津は土砂の堆積により港としての機能を衰えさせ、奈良時代の末には放棄され、代わって神崎川河口の河尻泊(現在の兵庫県尼崎市)などに繁栄を譲る。しかし平安時代には、淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことから、瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる水運の要衝、また北から淀川を渡り、南の四天王寺や住吉大社、熊野へと続く陸上交通の要衝として栄えた。当時、のちの天満橋から天神橋までの淀川河口一帯にあった渡辺津は、嵯峨源氏の一族渡辺氏の名字の地としても有名である。

 

15世紀に「大坂」の地名を持って呼ばれるようになった上町台地の先端部は、1496年に蓮如がこの地に建立した浄土真宗の石山道場に1532年、証如が山科本願寺から移り石山本願寺となったことから寺内町として発展した。織田信長と本願寺の間に戦われた石山戦争で1580年に顕如が退去した後の1583年には、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて政治・経済の中心都市とした。このため、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。

 

豊臣氏が滅んだ大坂の役で大坂の町は一時的に荒廃したが、江戸幕府は大坂を直轄地(天領)とし大坂城を再建する一方、河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため、八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして水の都として復興した大坂は、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。また、こうした経済的な発展に伴って、いわゆる「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。堂島の米市場では、世界で最初の先物取引が行われた。

 

近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は、現在の中央区の本町通を境とする南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。 大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。

 

近世に現在の大阪市中心部は、その姿を整えたと言ってよい。現在も続く近世以来の大坂の町は、天満、上町、堂島、中之島、船場(北浜)、阿波座、堀江、島之内、江ノ子島などが知られている。

出典Wikipedia

2013/11/23

岡山城 ⇒ 出雲大社

秋と言えば紅葉狩りだ。今年も京都へ行こうかと考えているところへ、出雲大社へのお誘いが来た。

 

紅葉とは無関係だが、元々神話や歴史は好きな人間のご多分に漏れず、出雲は一度は行ってみたい地であるから、二つ返事で乗った。しかも今年の出雲大社は60年に一度の大遷宮」という、一生に一度しか経験できない貴重な年なのである。そこへ持ってきて凝り性の我がパートナーは、さらに「神在月に行かないと」と、大乗り気だった。さらにさらに、屋上屋を架すように「夜行列車で」という魅力のある提案もくっ付いていては、益々乗り気にもなろうというものだ。

 

若いころに、西村京太郎のトラベルミステリーを読み漁ったていた時から

(一度は「寝台特急」なるものに乗ってみたい)

という願望も強く持ち続けていた。

 

が、現実は厳しい。夜行列車はどれも人気が高く、目指す「サンライズ出雲」もご多分に漏れず、どれもが満席(満室というべきか)だという。仕方なく、夜行は諦めて新幹線と電車で行く肚を決めた。折角、高い旅費と長い移動時間を使って出雲まで行くのだから、広島にも足を伸ばそうということになった。さらに広島から岡山はもっと近いのだから、名高い後楽園や岡山城も観たいというこちらの要望も加味され、頼もしいパートナーにより膨らんでいった計画は入念に練られた。

 

最後の打合せ(と言っても、大手町での「飲み会」だが)が終わった後、念のため東京駅のみどりの窓口へ行くと、上手い具合に2人分だけ「のびのびシート」の空きが出たとのことで、ともかく「保険」として購入しておく。パートナーの方は「のびのびシート」にも乗り気だったが、自分はともかく女性を「のびのびシート」に寝かせておくのはセキュリティの問題がある。加えて、寝台での旅情を満喫したかったこちらとしては、キャンセル期待の執念で毎朝出勤前と退社後、乗り換え駅の四谷駅で聞き続けた努力も空しく、遂に最後までキャンセルは出なかった。このような状況を踏まえ、前日に急きょ「のびのびシート」から新幹線に変更し、いよいよ初の「山陰・山陽の旅」が幕を開ける。

 

まずは、交通の便の良い岡山からである。普段の仕事の日より1時間以上も早い6時前に起床したものの、早速その出鼻を挫くかのように、電車が人身事故で運行停止という仰天ニュースが。

 

(飛び込みかなんかしらんが、あの世へ行きたいなら人様に迷惑をかけずにひっそりと召されろ!)

 

などと毒づきつつ、駅に行くとなんとか東京駅までたどり着いた。

 

予定外に早く着いたため、朝食の物色などしつつパートナーの到着を待つことン十分。いつもは早めに到着しているパートナーがなぜかなかなか来ず、おまけに新幹線窓口だけでもたくさんある東京駅のことで、なかなか合流できない。気付けば、新幹線の出発時間は間近に迫っていた!

 

ともかく切符は券売機で購入したものの、指定券はこちらが2人分を持っているから、指定券を持たぬパートナーは合流しないと改札を通れないという。この時、出発まで後1分。

 

(いよいよ、この指定切符はキャンセルか・・・)

 

と半ば諦めかけたところで、ようやく発見したパートナーとダッシュでエスカレーターを駆け上がり、ギリギリのところで飛び乗りに成功。こうして出発からして想定外に見舞われはしたものの、新幹線は指定席でビールを飲みながらノンビリしていればいいから楽で、瞬くうちに岡山に到着だ。

 

初日最大のお目当て日本三名園「後楽園」には、なんとか午前中に到着できた。これ以上は望めないという秋晴れで、20℃は超えていそうな春のような暑い陽気となり、汗をかきながら「後楽園」を周遊する。

 


 

移動の途中の貸座敷のような店でけんちんうどんを食べながら、青空に映える烏城を眺めてまったり。


 

 この日はスケジュールに余裕があるため岡山城天守閣に上がったが、思ったよりも早く観光が済んだ。パートナーは、どうしても「満奇洞」へ行きたかったようだが、岡山から片道2時間もかかるだけに、これはNG。変わって、観光名所の倉敷へと移動する。

 

美観地区を一通り見て歩いて、駅に戻って天満屋で夕食を摂ることに。パートナーはあまり乗り気でなかった岡山だが、海鮮には目がないこちらはかねてから「岡山=瀬戸内海の幸」の旨さを散々聞かされていただけに、後楽園、岡山城とともに期待していたのがこれだった。そして期待通り、鯛、刺身盛合わせなどの付いたメニューで地酒を堪能する。

 


 

「満奇洞」が露と消えたパートナーの方は、それでも食いしん坊(グルメ?)だけに定食のステーキにご満悦の様子で、岡山のホテルに戻って温泉で温まって初日が終了した。

 

2日目は早起きをして、ホテルの朝食バイキングに向かう。えびめし、ままかり、桃太郎トマト、吉備団子などの地物たっぷりの名物で腹ごしらえをして、サンライズで出雲へ乗車。指定席はすでに完売していたが、出雲まで3時間の長旅だけに運良く自由席を確保できたのは幸いだ。

 

車窓から望む空は晴れたり曇ったりを繰り返す、日本海側特有の変わりやすい天候だったが

 

(なんとか雨だけは降らないでくれよ・・・)

 

と祈りながら、出雲電車に乗り換えて遂に出雲大社前に到着した。我々、東京者の目には「同じ中国地方」とひとくくりにしがちな岡山と島根が、山陽の南の端から山陰の北の端までの移動は、新幹線の東京⇔岡山間に匹敵する3時間をかけての長旅である。

 

(これを食わねば帰れん!)

 

と強く心に決めていた三色割子そばだが、昼時とあって参道はどの店も1時間は待たされそうな行列ができている。甘党のパートナーは、割子そば以上に夫婦善哉に執念を燃やしているようだった。

2013/11/20

怪物の孤独(怪物伝説part8)

・達川ブログより抜粋

あの夏、江川との思い出は・・・実は・・・特に無い。おい、おい、ちょっと待って・・・  そんな、怒ったら、いかんよ・・・。だって夏はワシら、作新学院と試合しちゃおらんのだもん。思い出も何も無いよね。しゃーないじゃん。じゃが、ワシは江川を見ていた。土砂降りの甲子園のスタンドで・・・怪物、最後のマウンドをね・・・

 

江川卓が、当時いかなる存在だったか?

「怪物」と呼ばれ、日本中の高校球児の目標であり、日本中の国民的関心事じゃった。江川の行く所、取材陣の大行列ができた。

 

昭和48年春、江川を倒したワシら県立広島商業高校野球部は、全国大会準優勝を成し遂げた。そして広島に帰ってきたワシらが、帰るとすぐにまた「打倒・江川」の猛練習を始めた。全国制覇を成し遂げるには「打倒・江川」は避けては通れんもん。来る日も来る日も、ワシらは「江川・江川・江川」の日々じゃった。

 

しかし、その夏。ワシらは江川とあたる事は、ついに無かった。作新学院は、千葉県代表の銚子商業高校にサヨナラ負け。土砂降りの雨の中、怪物・江川の夏は、終わった・・・  ワシはその試合を、土砂降りの甲子園のスタンドから見ていた。負けた江川の涙が、印象的だった。

 

「悔しかろう、江川・・」

18歳のワシは、そう思った。じゃが、それから40年近くが過ぎて、ワシはその涙の本当の意味を知る事になる。それは、想定外の真実だった。

 

38年前の、あの日。江川は、銚子商業戦のマウンドに上った。

プレーボールがかかる頃、上空には、雲一つない夏空が拡がっていた。暑い日じゃった。ワシはスタンドから、江川を見ていた。

 

「打倒・江川なくして、全国制覇なし」

この時のワシは、ともかく江川を倒す事しか頭に無かった。

試合は白熱。両者譲らず、ゲームは延長戦に突入した。延長11回ウラ、銚子商業の攻撃。ここで、異変が起こった。それまで快晴だった空が見る見る曇りだし、突然、凄まじい雨が降ってきた。そりゃぁ、凄い降り様じゃった。

「バケツをひっくり返した」というのが、比喩表現じゃないくらいの雨じゃった。プロ野球なら中断か、いや中止にしてもおかしくない位の雨じゃったが、高校野球は日程やら何やらで、中々そうはいかんのよ。土砂降りの中、試合はそのまま続行された。それはある意味、仕方が無い事じゃった。

 

江川の野球人生には、雨がついて廻る。そして雨はいつも、江川の敵だった。この年の、春の甲子園全国大会。雨が試合を中止にし、順延にしたように・・・それが結果、江川に災いをもたらしたように・・・江川と雨は、相性が悪いんじゃ。土砂降りの雨は、当然、江川の敵となった。怪物のピッチングは、少しずつ狂っていく・・・・そして江川は、2アウトを取るがランナーを満塁にしてしまう。スコールのような雨の中。スタンドのワシはびしょぬれのまま、息を飲んで江川を見つめていた。固く握った両手の拳の中で、汗と雨が混ざり合った。

 

2アウト、ランナー満塁、ボールカウント2-3。この時、江川がタイムを取った。内野陣がマウンドに集まる。タイムが解けて、次の一球・・・江川の投球は、高めに大きく外れた。押し出しで、サヨナラ。怪物・江川の夏は、それで終わった。グランドで・・・江川は、泣いていた。

 

「江川が泣いてる。悔しかろう。のう、江川」

 

ワシは心の中で、そう思った。その夏のワシの江川の思い出は、それだけじゃ。江川と対戦する事なく、その後、ワシらは決勝戦に進み勝った。ワシらはついに全国制覇を達成し、真紅の大優勝旗を広島に持ち帰った。

 

あれから、38年が経った。その間、ワシは大学からカープに入団し、選手、コーチ、監督もさせてもらい、他球団のユニフォームも着させてもらった。プロでは、江川とも対戦した。甲子園での江川の涙は青春時代の一つの記憶として、ワシの心に刻み込まれたが、その涙を「怪物を更に成長させた、悔し涙」、「あの悔し涙があってこそ、今の江川がある」ワシはずっーと、そんな風に思ってきた。しかし齢50も過ぎてから、ワシは江川から涙の本当の意味を聞かされる事になる。それは18歳のワシの心に、刻み込まれた風景を一変させてしまうような、意外な事実じゃった。

 

話しを、38年前に戻すとしよう。土砂降りの甲子園。延長11回ウラ、2アウト満塁、ボールカウント2-3。江川が、タイムを取る。ここから、もう一回話しを始めよう。

 

江川は、タイムを取った。内野陣が、マウンドに集まった。ここで江川は、みんなにこう言ったんだと・・・

 

「みんな、ゴメン。俺、次のボール自信がない。みんな・・・次は、何を投げたらいいと思う?

 

江川はみんなに、そう聞いたんだそうな・・・それまで1回も見せた事の無い、怪物・江川が初めて吐いた弱音じゃった。この話をしてくれた江川は、当時の事を語り出した。 それは「怪物」と呼ばれた男の悲しい宿命じゃった。当時の江川が、どれほどの存在だったか・・・これまで、随分、話してきた。マスコミは、連日、江川を報道した。江川が何をした。江川が何を投げた。江川が何を言った。挙げ句の果てに・・・江川が何を食べた。江川がどこに行った。江川が何を買った。連日、江川、江川、江川・・・テレビも新聞も雑誌も「江川」の名前を見ない日は無かった。江川は「怪物」と呼ばれた。時代の寵児となり、オーバーな表現では無く国民の最大関心事となった。そして、それは怪物最後の夏、ピークに達していた。

 

「俺は孤独だった」

江川は、ワシにそう言った。

マスコミは、常に「江川」個人を求めた。報道では「作新学院の江川」では無く「江川の作新学院」のように、言われていた。皮肉なことに、江川が頑張ってチームが勝つごとに、マスコミは「江川の作新」と囃し立てた。夏が近づくにつれ、マスコミの取材は更に江川に集中した。江川は、常に「怪物」である事を要求され・・・江川は常に「怪物」であろうとした。それが知らず知らずに、江川を「孤独」にして行った。

 

江川は、チーム内で「自分は浮いている」そう思っていたと言う。そして江川は続けて、ワシに言ったんよ。

 

「あの時、俺はチームの中の俺自身の存在を知りたかったんだ」

土砂降りのマウンドで、怪物が初めて吐いた弱音・・・

「俺は自信がない。みんな。次、何を投げたらいいと思う?」

ワシは思う。あの、土砂降りの中。怪物は本当は、こう言いたかったんだ。

「俺は、作新学院の江川だよな。俺はみんなの仲間で、いいんだよね?」って・・・。

 

江川の心の叫びは、ナインの心に届いた。江川の言葉を聞いたナインは、即座に口々にこう答えたそうよ。

「何を言ってる。大丈夫だ。お前のお陰で、甲子園に来られたんじゃないか」

「大丈夫だ。次は、お前の大好きなストレートを思い切っていけ」

 

この時、江川は初めてチームメイトの本心を聞けた思いがしたそうじゃ。ワシは思うんよ。江川は最初から、チームの中で浮いてはいなかった。江川とチームメイトの心は、ずっと繋がっていたんだと思うんよ。ただ、お互い、それを確認する術が無かったんだと思う。じゃけど、それは仕方がない事なんよ。だってその頃、ワシらはみんな、まだ18の高校生だったんじゃもん。土砂降りのマウンドで初めて、チームメイトの本心を聞いた江川は泣いたそうじゃ。

「野球をやってきて、本当によかった」と、心から思いながら・・・そして江川は、渾身のストレートを投げた。球は大きく高めに外れて・・・押し出し。怪物の夏は・・・終わった。

 

江川は泣いていた。怪物のピッチングを狂わせた雨は、怪物の涙は隠してはくれなかった。江川の最後を実況は、こう伝えたそうです。

「江川が泣いています。江川が・・・悔し涙を流して泣いています」

しかし江川はワシに、こう言ったんよ。

 

「あの涙は、悔し涙じゃない。うれし涙だった」って・・・怪物・江川の夏は、土砂降りの中で終わった。その最後の一球を江川が怪物ではなく、一人の高校球児として投げた事を・・・江川と作新ナインは知っていた。そして破れて尚、江川は、その瞬間、日本一幸せな高校球児だった。そんな勝負が・・・そんな一球があってもいいとワシは思うんよ。

 

現役引退後、江川は「思い出に残る一球」を聞かれると、あの押し出しの一球を挙げる。サヨナラ押し出しの渾身のストレートを・・・人生最高の思い出として・・・・ワシが、この話を聞いた時、ワシは江川を目標に必死で頑張ってきて良かったと思った。打倒・江川の猛練習。明けても暮れても、江川・江川じゃった。思えば江川は、ワシの青春そのものじゃった。だが、その甲斐はあった。さすがは、ワシのライバルじゃ・・・(もっとも、江川は、掛布がライバルと言うとったが・・)

ともかく、今も江川には感謝してます。

2013/11/17

全国焼き鳥対決part3(東松山、長門)

東松山

焼鳥屋で「やきとり」を頼むと、なぜかブタが出てくる町があることをご存じだろうか。埼玉の東松山市である。

 

東松山駅を中心に100軒ほどの焼鳥屋が点在しているが、出てくるのはことごとくブタ。

 


 

なぜ、そんなことがまかり通るのか?

 

東松山市観光協会は、その由来について言う。

「もともと『ブタ』を『やきとり』として出し始めたのは、戦後間もなくのこと。  近くに食肉センターがあり、毎日、豚のカシラ肉をはじめ、豚のナンコツ、タン、ハツ、レバーなどが直送され、新鮮なものが安価で安定的に入手できるので、活用できないかと考えだされたんです」

 

味付けは唐辛子入りのみそだれが基本だが、コリア出身の大松屋(やきとり屋)初代ご主人が、唐辛子入りのみそだれと焼いたかしら肉を合わせものが始まりなのだとか。それにしても、ブタを焼くなら「焼き豚」でいいじゃないか。あ、でも、それはもうあるな、別のが。じゃ、「串焼き豚」とか?

ピンとこないか。初めて来るお客さんから「ブタじゃん!」というクレームがくることはないのか?

「特にないと思います。東松山のやきとりはマスコミなどで認知され、店主がルーツなどを説明しているようですよ」

 

ちなみに、東松山市には、全国で唯一の焼鳥屋で構成された組合「東松山焼鳥店組合」が存在する。これは昭和37年に、当時営業していた7軒が集まり結成されたもので、現在は35軒が加盟。組合で新鮮な豚のカシラ肉を共同購入するため、値段も各店「やきとり(カシラ肉)1本100」と統一できるのだとか。

 

長門

「焼き鳥日本一のまち」の提唱を受け、市が改めて調査を行った結果、長門市内には焼き鳥を扱う店が37店舗あり、人口1万人あたりの店舗数が8.7軒であることが判明しました。

 

この数字は、全国の焼き鳥地域として情報発信している久留米市、東松山市、室蘭市などと同様の全国有数規模であり「焼き鳥日本一」を旗印に、焼き鳥を活用した地域おこしを計画することとしました。

 

長門の焼き鳥は、鶏の各部位、豚の三枚肉、魚介類、野菜などを使ういわゆる串焼きのことで基本は塩味。具材の間に挟むのは長ネギではなく玉ねぎ、それにちぎりキャベツを添えて出すオーソドックスな焼き鳥スタイルです。

 

他の地域と大きく違うのは、ガーリックパウダーの存在であり、市内焼き鳥屋にはガーリックパウダーと一味、七味の唐辛子が置かれ、好みに応じてかけて食べるのが長門のスタイルです。

 


ガーリックパウダーをひと振りすると、今まで食べていた焼き鳥の味が大きく変わり、アクセントのついたものに変わります。ご家庭でも簡単に実践できますのでお試し下さい。

 

さらに、地元産の新鮮な魚の刺身や干物を置いている店が多いのも特徴の一つです。また長門市では養鶏業も盛んで、全国的にも珍しい養鶏専門の協同組合「深川養鶏農業協同組合」があり、銘柄鶏の「長州どり」、「長州赤どり」が育てられています。新鮮な鶏肉が手に入り易いということも大きな要因に挙げられます。

2013/11/04

全国焼き鳥対決part2(室蘭、福島)

室蘭やきとり、北海道室蘭市の豚肉とタマネギを使用した串焼き料理である。豚肉を使用するものの関東地方でいう「やきとん」とは呼ばず、鶏肉やもつを使ったものとの総称で「やきとり」と呼ばれている。

 

室蘭やきとりは豚精肉とタマネギを竹串に刺し、焼き鳥のように焼いた室蘭市の肉料理で、郷土料理とされている。甘味の強いタレと洋がらし、練りからしで味付けするのが一般的であるが、塩焼きを指定することもできる店が多い。  豚肉の肩ロースが、よく使われている。他に豚トロやサガリなど、他の部位を合わせて提供する店もある。

ねぎま」と書かれている場合、豚肉とタマネギの組み合わせであることが多い。

またメニューには、レバーなどのもつも選択できるようにしてある店もある。

 

現在、室蘭市では鶏肉を使用した全国的に一般的な焼き鳥は「鶏精」、「鶏精肉」と称して、合わせて提供されることが多く、これらも含めて「やきとり」と呼ばれている。昭和初期、食糧増産のために室蘭では農家が豚を飼うようになった。 

 

1933年頃に、室蘭市の輪西では豚肉の串焼きの屋台が営業していた。屋台主の一人が、1937年に雀などの野鳥の串焼きを売り出す「鳥よし」という店を開店したが、当初から豚の精肉とモツを使用した串焼きを提供しており、これが「室蘭やきとり」の元祖であるとされている。

 

1939年、日中戦争で大量に必要となった軍靴を豚皮で作るため養豚が奨励され、豚皮と肉以外は地元で食べてもよいことになったことから、豚のもつ料理を出す店が増えた。戦後、大量生産に向くブロイラーが導入され、昭和30年代に鶏肉が広く普及するまでは、ほとんどがモツや豚肉の串焼きであり、今でも豚精肉が最も人気のメニューとなっている。

 

室蘭市内で、54軒の室蘭やきとり店が存在している。近隣の伊達市、登別市や札幌市など、室蘭市以外の地域にも「室蘭やきとり」の専門店がある。

 

福島・郡山(福島県)

福島では、平成13年より焼き鳥による町おこしを検討し「福島焼き鳥党」が設立されている。県内では「福島焼き鳥」と地鶏を使用した「いいとこ鶏」を広めている。


福島市で2007年に「第1回やきとリンピック」を開催し、世界焼き鳥党は「ルワンダ焼き鳥」を認定メニューとした。また、福島と言えば「会津地鶏」が有名である。

2013/10/27

追いつめられる怪物(怪物伝説part7)

2回戦の対戦相手は、1回戦を延長12回の末、岡山東商を1-0で破った銚子商業に決まった。銚子商業のエースは、背番号10を付けた2年生の土屋正勝である。この銚子商業は、斉藤一之監督以下、全選手が一丸となって「打倒・江川」を目指し、ありとあらゆる手を尽くしていた。

 

話は、1972年秋の関東大会に遡る。同大会の準決勝で銚子商業は作新と対戦、江川に20奪三振を喫し屈辱的な敗北を喫していた。おまけに、その関東大会で上位に進出したという事で出場した1973年春の選抜では、銚子商業は初戦で報徳学園に0-16と惨敗してしまった。

 

屈辱にまみれた銚子商業は

 

「江川を倒さなければ、この屈辱は晴らせない」

 

とばかりに、徹底した江川対策を研究し「打倒・江川」だけを目指して猛練習を続けた。 

 

まず銚子商業は、江川が投げる試合に必ず偵察要員を派遣し、江川のフォームを研究し尽くした。その結果、江川のフォームにはストレートの時とカーブの時とでは、微妙に異なる癖が有る事を発見した。その癖を見抜くと、斉藤監督は打者に江川のカーブを全て捨てさせた。江川のストレートの威力が凄まじいのは言うまでもないが、カーブもまた超一級品であった。打者の頭部付近に来たと思われた球が、外角へ鋭く曲がり落ちて空振りを誘う。

 

江川の球種はストレートとカーブしかなかったが、そのどちらもが超一級品だったため、打者としては打てる筈が無かった。そこで斉藤監督は、カーブが来るとわかれば打者にそのカーブがストライクだろうとボールだろうと全て無視させ、ストレートだけを狙わせた。そして銚子商業の各打者はヘルメットを目深に被り、ヘルメットの庇から上に来た球は全て見逃す、という作戦を取る事とした。江川の高目のストレートは、ボールだとわかっていても打者がその威力に釣られて振ってしまうという事が多かったのだが、 その高目の球を全部捨てるという事である。更にバッティング練習の際には、打撃投手にマウンドのかなり前の方から投げさせて、打者を速い球に慣れさせるという練習も行った。

 

そして、銚子商業は作新に二度も練習試合を申し込んだ。その練習試合は、銚子商業は二度とも作新に敗れたのだが、19734月の対戦では13三振、19735月の対戦では9三振と、前年秋の関東大会での20三振の時から比べると、格段の進歩がみられた。つまり銚子商業の打者達は、徐々に江川の球に目が慣れて行ったのであった。

 

もう一つ、銚子商業は

 

「江川は晴天で暑い試合だとバテる」

「江川は雨の試合に弱い」

 

というデータも掴んだ。このようにして江川を倒すため、銚子商業は考えられる限りありとあらゆる手段を使っていた。当時、日本で一番「打倒・江川」への執念を燃やしていたのは、間違いなく、この銚子商業であった。

 

その銚子商業は、いよいよ江川を倒すべく、1973年夏の甲子園の2回戦で江川の作新学院に挑む事となった。この試合、江川は立ち上がりから調子が悪く、毎回ピンチの連続。銚子商業は作戦通りカーブを捨てて、外角のストレート一本に絞っていた。

 

銚子商業は江川を倒すために、あらゆる手を尽くしてきている。そして江川も、決して本調子ではない。しかし、それでもなかなか打てないのが江川であった。銚子商業は江川をなかなか捉える事が出来ず、凡打の山を築いて行った。

 

だが江川は

 

「この日の銚子商業は、今までとは全く違い非常に強くなっている」

 

という印象を抱いていたという。江川としても銚子商業に対し、非常に嫌な気持ちを抱いたまま投球を続けていた。江川は走者として出塁した際に、銚子商業の一塁手・岩井に対し

 

「何か、今日の銚子はいつもと違うな。俺、今日は負けるかもな」

 

という言葉を漏らしていたという。

 

そして7回裏、銚子商業は木川と青野の連打が飛び出し、123塁のチャンスを掴んだ。ここで迎える打者は7番の磯村だったが、銚子商業はスクイズではなく強攻策を取った。しかし磯村は江川の剛速球に押され、サードフライに倒れた。これで2アウトで、ランナーはなおも2塁、3塁。続く打者は銚子商のエース・土屋だったが、江川は土屋をストレートで空振に仕留めこのピンチを脱した。ピンチになればなるほど、エンジンを全開にするのが江川の持ち味であったが、この場面でも江川はその持ち味を遺憾なく発揮したのであった。

 

一方、土屋もまた、江川を相手にして一歩も引かず、作新に対して得点を許さなかった。土屋は

 

「江川さんに勝つには、こっちも作新を0点に抑え続けるしかない」

 

と覚悟を決め、延長18回まで投げ続けるという悲壮な決意をしていたのだった。

 

こうして江川と土屋の互角の投げ合いは続き、試合は0-0のまま延長戦へと突入する。この試合は途中から雨が降り出していたが、延長戦へと入る頃、その雨はますます激しさを増していた。銚子商業は、この雨を「恵みの雨」と捉えていた。あの「江川は雨の試合に弱い」というデータが、銚子商業の選手達の頭の中には、しっかりと入っていたからである。

 

一方、江川は初戦の柳川商戦に続いての延長戦突入という事に加え、この雨に対して、やはり非常に嫌な気持ちを持っていた。

 

「ここで試合が打ち切りになったら、また明日(再試合で)投げなきゃいけないのか」

 

というような、ウンザリした気持ちにまでなっていたという。江川と銚子商業の、試合に対するモチベーションの差は明らかであった。

 

こうして試合の形勢は、徐々に銚子商業へと傾いて行き、迎えた延長11回裏。江川は1アウト満塁の絶対絶命のピンチに陥り、降りしきる雨の中、球道が定まらずにカウント2-3にしてしまった。

2013/10/24

全国焼き鳥対決part1(美唄)

ご当地やきとりを食べ比べできる日本初のテイスティングパーク「全や連総本店 東京」が、322日、大手町にオープンした。

 


構想から8年、「やきとりの街」を宣言する全国7都市から店舗が集結し「食べ比べ」をテーマに、各店自慢のやきとりや「ご当地食べ比べセット」、各地の郷土料理、地酒などを販売する。今回出店したのは、北海道美唄(びばい)市「やき鳥 たつみ」、北海道室蘭市「やきとりの一平 本店」、福島県福島市「鶏料理 鳥安」、埼玉県東松山市「やきとり ひびき」、愛媛県今治市「焼鳥 まる屋」、山口県長門市「焼とりや ちくぜん」、福岡県久留米市「焼とり 鉄砲」の計7店だ。

 

埼玉県の「やきとり ひびき」以外は、今回が東京初出店。看板メニューは「ご当地食べ比べセット(7串)


 

全店のやきとりを1串ずつ食べることができる。

 

「やきとり」と言っても、使用する肉は鳥だけではなく、串に刺すものだけでもない。豚肉と玉ねぎを交互に刺し、タレで焼き洋からしで食べる「室蘭やきとり」や、長門ではほぼ全ての店に置いてあるというガーリックパウダーをかけて食べる「長門やきとり」など、各地こだわりの食材と食べ方でいただく「やきとり」が楽しめる。

 

●美唄:美唄焼き鳥(びばいやきとり)は、鶏肉と、鶏レバーや内卵、砂肝、心臓などの内臓および、タマネギを、一つの串に刺して焼く、北海道美唄市独特の焼き鳥である。「美唄やきとり」とも表記される。


 

鳥の様々な部位とタマネギを一つの串に刺して焼いた焼き鳥で、美唄市の郷土料理とされている。塩・胡椒で味付けするのが一般的である。鶏の内臓を捨てずに大切に食べる明治時代の知恵が、美唄焼き鳥に生かされているとの文章もある。

 

美唄市の三船福太郎が、昭和30年代に、飲食店「三船」で始めたという情報がある。当時の美唄は炭鉱労働者が多く居住しており、それら労働者の食として人気となり、それがこの地方に定着した。

 

なお、創始者の苗字を冠した「元祖美唄焼鳥 三船」では、その前の昭和のはじめより、三船福太郎が美唄焼き鳥を始めていたとしている。美唄市だけでなく、札幌市やその他の地域にも「美唄焼き鳥」の店が存在する。美唄に本店のある「福よし」が、東京・銀座に店を構えている。

2013/10/16

四国と隠岐島

四国

日本は6,852の島で構成される島国であるが、日本最古の歴史書 『古事記』 (712年献上) では「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び「八つの島」の総称としている(登場順に現代の呼称表記で、淡路、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州)。この中で2番目に登場する「四国」の原文での呼称表記は「伊予之二名島(いよのふたなのしま)」である。

 

『日本書紀』(720年完成)では「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「四国」を「伊予二名洲(いよのふたなのしま)」と表記している。よって、古代においては「伊予之二名島」、「伊予二名洲」、または単に「伊予島」、「伊予洲」(いよのしま、いよしま)、「二名島」、「二名洲」(ふたなのしま、ふたなしま)」などと呼ばれた(「フタナ」は二並びの意)

 

近世以降は五畿七道の南海道のうち、紀伊国と淡路国を除いた阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の4つの令制国が存在したことから「四国」と呼ばれた。歴史書ではないが、16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる「陰徳太平記」(1717年出版)序に「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物において、明確に「四国」という名称を見出すことができる。

 

隠岐島

隠岐島は『古事記』、『日本書紀』に、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)2神が4番目にお生みになった土地で「隠岐の三子洲(みつこしま)」と書かれている。「隠岐の三子洲」とは、島後(どうご)が親島で、島前(どうぜん)の知夫里島、西ノ島、中ノ島が子島であって、親島に率いられた三つの子島の意味であるという。

 

『記紀』には隠岐の地名由来は書かれていないが、喜田貞吉博士によると島前3島に対して、島後は沖の島と呼ばれていて、島前、島後の四つの島の総称として、主島である沖の島の名をとって「オキの島」と呼称されるようになったという。別に伝承として、天照大御神が、この島の40余丈もある木をごらんになって「美しき御木だ」といわれたことから「御木(おき)」とついた、とも語り伝えられている。

 

島後が島前の三つの島より沖合にあるため沖の島と呼ばれ、それに天照大神の「御木」の伝承が付加され、ついで島全体の名称として沖の島が呼び名となったのだろう。しかし、なぜ「隠岐」の字をあてるようになったか定かではない。

2013/10/14

焼き鳥が旨い

 焼き鳥が好きだ。たまたま銀座を歩いていて、旨い鳥料理店を見つけた。  「鳥良」という店だ。

 

ノンベエだから、普段は「飲み放題」のある店にしか入らないが、この店は飲み放題に予約が必要とのことで、仕方なく単品でオーダー。「ブラウマイスター」の800円は高いが、これは確かに旨い。

 

さて、焼き鳥だ。定番はモモ、ネギマ、砂肝といったところだが、これが実にジューシーで旨い。

 


 

 特にモモと砂肝は、こんなに旨いのは初めてかもしれない。居酒屋に行くと、最初に「頼んでもいない先付」というものが出てくる。これが大体500円くらいで、大抵ろくなものは出てこない。イカの塩辛や枝豆はまだ良い方で、以前など生のキャベツがどっさりと出されたこともあった。

 

また銀座などは居酒屋とは言え、当たり前のようにサービス料1割を上乗せされていたりもする。ところが、この店の先付けは面白いことに、小皿のつまみが10皿も入ったお盆で出てきて、どれだけ取っても500円というから実に良心的だ。

 

この店はチェーンで、調べてみると地元の吉祥寺に4店舗もあったのに驚いた。すっかりこの焼き鳥に嵌り、3ヶ月連続で通うことに。

 

この店の名物は「串打ち焼き」と「手羽先」ということらしいが、手羽先はタレが好みに合わないため、もっぱら串焼きを食べていた。

 

 

似たような店で「とり鉄」というのがある。これもチェーン展開をしている店で、焼き鳥の味は「鳥良」に幾分ヒケを取るものの、ここは当日でも1200円ほどで飲み放題が出来るのが魅力である。焼き鳥も1120円~と安く、手羽先は「鳥良」よりこちらの方が旨かった。

 

吉祥寺に店がないのは残念だが、新宿などを中心にチェーンがたくさんあり、予約が要らないから便利だ。たまたま見つけた「大手町店」は、フォアグラや神戸牛、九条ネギといったユニークな食材を使っていて面白い。



 

東京駅丸の内出口の丸ビルからも近いが、神田へと繋がるJRガード下でビジネス街だけに、土曜はガラガラで予約なしでも飲み放題ができた。気付けば今年だけで、早くも両チェーンに5回ほど通っているだけでなく、すっかり病み付きになりそうな予感である。