2021/01/31

邪馬台国に関する論争 ~ 邪馬台国(4)

日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志倭人伝」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志倭人伝」に由来すると思われる記事が少なくない。

 

史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。

 

古くは邪馬台国は大和の音訳として無条件に受け容れられており、この論争が始まったのは江戸時代後期である。新井白石は「古史通或問」において奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が、中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。

 

位置に関する論争

厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに単純に距離と方角を足していくと、邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつく。ゆえに、白石も宣長もさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで、学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説(若井敏明の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。若井は、筑後川下流域にあった邪馬台国後裔は仲哀天皇の九州遠征により、365年頃に滅亡したとしている。

 

邪馬台国は、魏志倭人伝に記載のあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)から、『日本書紀』の晋書起居註に記載があるように壹與が晋に泰始2年(266年)に朝貢したことから、3世紀に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した邪馬台国からヤマト政権に政権が移ったことになる。邪馬とは、山と音訳出来る。

 

連続式と放射式

「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従って方角を90度読み替えたり、距離を修正しながら比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。

「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説。伊都国までは連続読みと同じだが、その先は表現方法が変化していることから、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に読んでいく説。

同じ「放射式」だが、伊都国ではなく末廬国を起点とする説。

伊都国を起点とする放射式だが、投馬国への行程だけは伊都国からでなく、不彌国から連続して読む説。言い換えると、邪馬台国までの「連続式」の行程とみて、奴国と投馬国の二つの「傍線行程」(支線)があると解釈するもの。

さらに古田武彦は、邪馬壱国への「水行十日・陸行一月」を「帯方郡→邪馬壱国」の日程と解釈し、不弥国の南に邪馬壱国が「接している」とする。

 

距離の計算

「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているという問題については、後述するように短里が使用されていたとする説、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例が多いことから、公孫氏を滅ぼした魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説、魏が呉を地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため都合よく書き換えたという説、曹爽の功績である「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である親魏倭王の距離のバランスをとるため誇張したという説、などがある。

 

宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は、現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから、現在ではこの点に関しては問題とはされていない。

 

また「自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、行程に関する最も重要な1文であるにも関わらず、多くの説において故意に無視されている。

 

短里説

距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは、尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では、狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、実距離もそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。

 

古田武彦は、魏・西晋時代時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。これは、三国志が「蜀志」については、漢の伝統を守っていたことを陳寿はそのまま記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。

 

これに対して安本美典らの説では「短里は東夷伝の三韓条と倭人条のみに見られ、他の箇所では存在しない」として、魏朝の制度ではなく、倭韓の地に周の古い度量衡が残存した可能性を示唆しているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する[要出典]。周代の度量衡であるかは別として、藤田元春、宝賀寿男なども倭韓地短里説を採る。

 

なお渡邉の著書では、白鳥庫吉までも短里説論者に入れているがこれは誤認であり、白鳥は「全体で」平均すると約5倍になっていると言ってはいるが、個々の数値は1里あたりの実測距離がバラバラであることから、特定の距離単位が実在したとは認めていないので、短里説論者ではない。

出典 Wikipedia 

2021/01/29

ストア派(1)

ストア派(希: Στωικισμός、英: Stoicism、ストイシズム)は、ヘレニズム哲学の一学派で、紀元前3世紀初めにキティオンのゼノンによって始められた。

 

自らに降りかかる苦難などの運命を、いかに克服してゆくかを説く哲学を提唱した。

 

破壊的な衝動は判断の誤りから生まれるが、知者すなわち「道徳的・知的に完全」な人は、この種の衝動に苛まされることはない、と説いた。

 

概要

ストア派が関心を抱いていたのは、宇宙論的決定論と人間の自由意思との関係や、自然と一致する意志(プロハイレーシスと呼ばれる)を維持することが道徳的なことであるという教説である。このため、ストア派は自らの哲学を生活の方法として表し、個々人の哲学を最もよく示すものは発言内容よりも行動内容であると考えた。

 

ルキウス・アンナエウス・セネカやエピクテトスのような後期ストア派は、「徳は幸福により十全となる」という信念から、知者は不幸に動じないと主張した。この思想は「ストア的静寂」というフレーズが意味するところに近い。だが、知者は真に自由とされ、あらゆる道徳的腐敗は等しく悪徳であるという「過激倫理的な」ストア派の思想を含意しない。

 

ヘレニズム時代以降の古代ギリシア・ローマの時代においては、アカデメイア学派、逍遥学派、エピクロス派と並んで四大学派とされていた。創始以降、ストア派の思想は古代ギリシアやローマ帝国を通じて非常に流行し、マルクス・アウレリウス・アントニヌスをも信奉者として、哲学の異教的な性格をキリスト教の教義と調和しないものとして、ユスティニアヌス1世が全ての学派を廃するまで続いた。

 

ストア派なる名は、ゼノンがアテナイのアゴラ北面の彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。

 

基本的教説

「哲学は人間が自分の外部にある全てのものを手に入れることを保証しないが、代わりにその適切な主題の中に眠っているものを手に入れるであろう。大工の使う素材は木材や彫刻用青銅であるから、生き方の素材は各人の生である。」

—エピクテトス

 

ストア主義者それぞれの考え方は、互いに密接に関係している。

 

ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされるキケロ、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから、彼の思想は弟子のアッリアノスの記録による)から推測するしかない。

 

ストア派は世界の統一的な説明を形式論理学、非二元論的自然学、自然主義的倫理学によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論に、より関心を示した。

 

ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として、自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって、普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は、個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある。「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する」。この思想は対人関係のような分野にも適用される; 「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。

 

ストア倫理学では、決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる」とクレアンテスは考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば「病む時も幸福で、危機の内に在る時も幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放された時にも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は、後に「古典的汎神論」と呼ばれ(オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た。

 

ヘレニズム世界・ローマ帝国において、ストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり、ギルバート・マーレイの言う所によれば「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が、自らをストア主義者だと述べた」。

ストア派の起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。

 

歴史

アンティステネス、キュニコス学派の創始者

紀元前301年の初めごろ、キティオンのゼノンがストア・ポイキレ(すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た。エピクロス派のような他の学派とは異なり、ゼノンはアテナイのアゴラ(中央広場)を見晴らすコロネードのような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。

 

ゼノンの思想は、ソクラテスの弟子アンティステネスを始祖とするキュニコス学派の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのはクリュシッポスで、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。

 

研究者は、大抵ストア派の歴史を三相に分ける

 

前期ストア派、ゼノンによる学派の創設からアンティパトロスまで。

中期ストア派、パナイティオスやポセイドニオスを含む。

後期ストア派、ムソニウス・ルフス、ルキウス・アンナエウス・セネカ、エピクテトス、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスらを含む。

アルバート・アーサー・ロングが述べているように、前二相のストア主義者の著作で完全な形で現存するものは全く無い。後期ストア派のローマ人たちの著作のみが現存している。

 出典 Wikipedia

2021/01/20

邪馬台国(3)

言語

魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は、日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は、8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達らによって指摘されている。

 

その特徴とは

開音節(母音終わり)を原則とする。

ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。

頭音には原則としてラ行が来ないこと。

頭音には原則として濁音が来ないこと。

などである。

 

こうした特徴が見出されることは、現代日本語の基礎が邪馬台国時代に、すでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。

 

風俗

魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上、その2ヶ所を区別せず列記する。

 

男子はみな、顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。

その風俗は、淫らではない。

男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子は、ざんばら髪。

着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。

稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。

牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。

 

兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。

土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。

家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。

人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は、飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。

 

倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。

 

真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。

 

特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)

集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。

敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。

長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。

身分の高い者は45人の妻を持ち、身分の低い者でも23人の妻を持つものがいる。

女は慎み深く嫉妬しない。

盗みは無く、訴訟も少ない。

法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。

宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

 

邪馬台国のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで、150年近く中国の史書に倭国に関する記録はない。これは壹與以後に邪馬台国連合が衰えて、中国に朝貢する国力も無くなったためであろう。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。

邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説あるが、若井敏明は「邪馬台国の滅亡 吉川弘文館2010年出版」で、邪馬台国連合は九州北部にあり、近畿のヤマト王権とは関係が無かったとした。しかし西暦366年頃のヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州遠征により、邪馬台国末裔は最終的に滅亡したとしている。

 

名称・表記

現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は、晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131 - 1162年)の刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190 - 1194年)の刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』は成本が10世紀で現存の『三国志』写本より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。

 

『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。

 

日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では、「」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。

 

表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説などがある。

 

発音

邪馬臺()()

 

秦 漢

ʎia mɔ dʰəɡ kwək

 

魏 

jia ra əї ək 

 

jia ma dʰɑ̆i  kuək

 

現代

yé ma tái guó

 

実際には、さらに複雑多岐で時代や地方で発音が異なる上に、忘れ去られたと考えられる発音もある。

 

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対馬國を対馬,一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに、発音の近さを手掛かりの一つとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から場所をあてはめようとするものである。

新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定して、その場所を比定したと考えられている。

 

「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 旁 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある。

 

なお、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない。

 

現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい。[独自研究?]

 出典 Wikipedia

2021/01/18

バベルの塔(ヘブライ神話8)

 バベルの塔(ヘブライ語: מגדל בבל)は、旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔。

 

神話とする説が支配的だが、一部の研究者は紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説を提唱する。

 

実現不可能な天に届く塔を建設しようとして、崩れてしまったといわれることにちなんで、空想的で実現不可能な計画を比喩的に「バベルの塔」という。

 

語源

正確には「バベルの塔」という表現は聖書には現れず、"the city and its tower"もしくは"the city" と表される。バベルはアッカド語では神の門を表す。一方、聖書によると、バベルはヘブライ語のbalal(ごちゃまぜ)から来ているとされる。

 

聖書の記述

バベルの塔の物語は、旧約聖書の「創世記」11章にあらわれる。そこで語られるのは、下記のような記述である。位置的にはノアの物語の後で、アブラハムの物語の前に置かれている。

 

全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った

「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」

 

主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」

 

主は、そこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。

「創世記」111-9

 

偽典の「ヨベル書」によれば、神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、シェムを高く上げ、人間が各地に散るのを免れようと考えた。神は降臨して、この塔を見

「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」

と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。

 

解釈

バベルの塔の物語は、「人類が塔をつくり神に挑戦しようとしたので、神は塔を崩した」という解釈が一般に流布している。しかし『創世記』の記述には「塔が崩された」とは書かれていない。ただし、以下のような文献には、この解釈に沿った記述がある。

 

ヨセフスによる「ユダヤ古代誌」

ニムロデは、もし神が再び地を浸水させることを望むなら、神に復讐してやると威嚇した。水が達しないような高い塔を建てて、彼らの父祖たちが滅ぼされたことに対する復讐するというのである。人々は、神に服するのは奴隷になることだと考えて、ニムロデのこの勧告に熱心に従った。そこで彼らは塔の建設に着手した。そして、塔は予想よりもはるかに早く建った。

 

ラビ伝承

ノアの子孫ニムロデ(ニムロド)王は、神に挑戦する目的で、剣を持ち、天を威嚇する像を塔の頂上に建てた。

 

原初史といわれ、史実性が疑わしいアブラハム以前の創世記の物語の中で、バベルの塔の物語は世界に様々な言語が存在する理由を説明するための物語である、と考えられている。同時に「石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを」用いたという記述から、古代における技術革新について述べ、人類の科学技術の過信への神の戒めについて語ったという解釈もある。

出典 Wikipedia

2021/01/12

邪馬台国(2)

政治

收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」に交易を監督させていた。

 

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

 

女王国より北には、特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治めており、中国でいう刺史のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が津に臨んで伝送文書と贈物を披露し、照合して女王に送っていたので間違いは起こらなかった。

 

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

 

倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた間は戦乱があり、毎年のようにお互いに攻撃していたので、一人の女子を共立し王とした。

 

名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼が王位と為ってからは、人と合うことは少なく、1,000人の女性が侍っていて、ただ一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。宮室や楼観で起居し、険しい柵を設け、常に多数の兵士が守衛をしていた。

 

女王国の北の伊都国に一大率が置かれたという記述は、伊都国から南に邪馬台国があるという記述と一致する。卑弥呼に関する「鬼道」という言葉を「呪術カリスマ」とみて、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)であるとする見方がある一方、単に祭祀を行っていたとする見解もある。

 

また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方もある。

 

卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

 

卑弥呼が死去すると、直径が100歩ほどの大きな墳墓がつくられ、奴婢100人あまりが殉葬された。その後、男王が立てられたが、國中はこれに服さず更にお互いを誅殺し1,000人あまりが死んだ。再度、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(臺與)を王と為し、遂に国は定まった。先に倭国に派遣された張政は、檄文をもって壹與を諭した。壹與も魏に大夫率の善中郎將掖邪狗など二十人の使者を送り、男女の奴隷30人、白珠五千孔、大 句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した。

 

魏・晋との外交

「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。

 

建安年間(196-220年)、公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫模や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。

 

景初2年(238年)、魏の明帝は劉昕を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡を、それぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。

 

6月、または景初3年(239年)6月、女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布22丈を献じた。

 

12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(128日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。

 

823日、帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。

帯方郡と楽浪郡が魏に占領される。

 

景初3年(239年)春正月丁亥日(11日)、明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。

 

正始元年(240年)、帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。

 

正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。

 

正始6年(245年)、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ、難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。

 

正始6年(245年)、帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。

 

正始8年(247年)、女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。

女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

 

この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用される『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも、泰始2年に倭人が朝貢したとあるので(女王という記述は無いが)現在では、時代的に考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の壹與であり、新女王の壹與が魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられる。 なお、266年頃は近畿のヤマト王権では崇神天皇の時代と考えられている。

出典 Wikipedia

2021/01/10

「快楽主義」の「エピクロス学派」の始祖

出典https://biz.trans-suite.jp/


エピクロス(紀元前341年頃~271年頃)は、快楽主義で知られる古代ギリシャのエピクロス学派の始祖です。

 

エピクロスはサモス島に生まれ、18歳でアテナイに上京します。20代の頃は地中海の島で暮らし、ペリパトス派の哲学や原子論を学びました。35歳でアテネに戻り、アテネ郊外に土地を手に入れ、庭園学派とも呼ばれるエピクロス学派を創設しました。

 

「エピクロスの園」を創設

エピクロスの庭園は「エピクロスの園」として有名になり、親兄弟の他に大勢の弟子たちが集まり、親密な共同生活を行いました。召使の奴隷にも哲学を学ばせたことが記録に残っています。エピクロスが71歳で没したあとは、弟子が庭園を引き継ぎました。

 

「エピクロスの園」で展開されたエピクロス学派は、庭園学派とも呼ばれます。

 

セネカの「ストア派」とともに「ヘレニズム思想」の代表

エピクロス派はセネカが代表するストア派とともに、ヘレニズム期の「ヘレニズム思想」を代表する学派です。ヘレニズム期とは、アレクサンドロス大王が没した紀元前323年から、ローマが地中海一帯を統一する紀元前30年までの約300年の期間をいいます。

 

ストア派は、快楽や欲求の衝動に打ち勝つ「アパテイア」という精神の強さを理想として「禁欲主義」と呼ばれます。

 

隠れて生きよ」の言葉が有名

エピクロスは国事や世間の煩わしさから遠ざかり、心の平安を大切に生きることを説きました。その生き方を意味する「隠れて生きよ」という言葉がよく知られています。

 

デモクリトスの「原子論」を基底に持つ「原子論的唯物論」が基本

エピクロスは、デモクリトスの原子論を思想の基底とする、原子論的唯物論や原子論的自然観を展開しました。霊魂は死によって消滅するとし、また感覚を徳や幸福の基準としました。この思想の上に、快楽主義が築かれています。

 

カール・マルクスは、ヘレニズムの学派に着目した古代ギリシャ哲学の研究を行っており、『エピクロスの自然哲学とデモクリトスと自然哲学の差異』という博士論文を執筆しています。日本では筑摩書房の『マルクス・コレクションⅠ』に収められて刊行されています。

 

最高の善である「アタラクシア」を追及する

エピクロスの説く最高の善は快楽であるとされ、その快楽とは苦痛からの解放や心の平静である「アタラクシア」を意味するものでした。

 

エピクロスは、人間の欲求を3つに分類します。1つ目は「自然かつ必要不可欠である」欲求、2つ目は「自然だが必要不可欠でない」欲求、3つ目が「自然でもなく、必要不可欠でもない」という欲求です。3つ目の欲求は贅沢や豪華への欲望で、これはきりがないとします。

 

このように欲求について考察し、選択することが身体の健康と魂の平静を可能とするものであり、それこそが幸福な人生の目的であるとしました。エピクロスは質素な生活の中にアタラクシアを求め、パンと水の質素な生活は健康を手に入れ、運命に対しても恐れない者にしてくれると弟子に説いています。

 

「快楽主義」とはアタラクシアを追及すること

エピクロスのアタラクシアを追及する思想は「快楽主義」と呼ばれ、エピクロスの名から快楽主義者は「エピキュリアン」と呼ばれるようになりました。エピキュリアンとは、本来はエピクロスを信奉する人の意味でしたが、享楽の意味での快楽主義者という意味を持つようになります。

 

エピクロスを敵対視する人々によって、快楽主義とは美食や性的快楽に耽る快楽主義であるとの誤解が植え付けられたのが、その原因です。

 

エピクロスは、弟子への手紙で次のように書いています。

 

快楽が人生の目的であると我々が言う場合、その快楽とは、一部の人たちが無知であったり誤解したりして考えているように、放蕩や享楽のなかにある快楽のことではなくて、身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないことに他ならない

 

「死」の恐怖を克服することを説いた

エピクロスは、アタラクシアの追及とともに、「死」の恐怖を克服することも唯物論の立場で説きました。死とは、生の構成要素であるアトムへ解体することであり、解体されたものは感覚を持たず、感覚を持たないものは人間にとって、なにものでもないと主張しました。

 

「死」についてのエピクロスの言葉は、のちほど紹介します。

 

最後にエピクロスの著書と言葉を紹介します。

 

エピクロスの著作はほとんどが失われた

エピクロスは300巻にのぼる著作を残したとされますが、そのほとんどは失われ、現存するのは弟子たちに宛てた3通の手紙と教説、箴言(しんげん)の断片のみです。

 

岩波文庫から『エピクロス―教説と手紙』が刊行されている

日本では、エピクロスの弟子への手紙3通と、教説と断片を収めた『エピクロス―教説と手紙』というタイトルの本が、岩波文庫から刊行されています。

 

「エピクロス」の言葉や名言を紹介

残されている手紙や断片から、エピクロスの言葉や名言としてよく知られているものを紹介します。

 

全生涯の至福をめざして知恵が整えてくれるもののうち、何にもまして一番重要なのは、友情の獲得である。

 

人はまだ若いからといって、哲学することを先に延ばしてはならないし、もう年をとったからといって、哲学に飽きるようなことがあってはならない。なぜなら、誰だって魂の健康を手に入れるのに、若すぎることもなければ、年をとりすぎていることもないからである。

 

死は、我々にとって何ものでもないと考えることに慣れるようにしたまえ。というのは、善いことや悪いことはすべて感覚に属することであるが、死とはまさにその感覚が失われることだからである。

 

死は、やがてやってくるだろうという予測が我々を苦しめると語っている者は、愚かな人である。なぜなら、現にやってきている時には何の悩みも与えないものが、予期されることによって我々を苦しめるのだとしたら、それは根拠のない苦しみだからである。

 

死は、諸々の災厄の中でも最も恐ろしいものとされているが、実は、我々にとっては何ものでもない。なぜなら、我々が生きて存在している時には、死は我々のところには無いし、死が実際に我々のところにやってきた時には、我々はもはや存在していないからである。

 

「まとめ」と『エピクロスの園』(アナトール・フランス著)を紹介

エピキュリアン(快楽主義者)」の言葉の語源となったエピクロスの快楽主義は、死への恐怖を克服し、心の平静であるアタラクシアを追及するものでした。エピクロスの倫理思想は、のちの哲学者や思想家に大きな影響を与え続けました。

 

1921年にノーベル文学賞を受賞した詩人・小説家のアナトール・フランスは、『エピクロスの園』というタイトルの箴言集を著しています。アナトール・フランスはエピクロスの思想に影響を受け、さまざまな題材を用いて人生哲学や芸術論を表現しました。

 

『エピクロスの園』の中の「」というタイトルの箴言では、エピクロスの次の言葉を引いています。

「私が存在する時には、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない。<エピクロス>」

 

芥川龍之介の箴言集『侏儒の言葉(しゅじゅのことば)』は、『エピクロスの園』に強く影響を受けて執筆されたものです。

2021/01/01

邪馬台国(1)

 邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから「やまたいこく」の読み方が広まった。邪馬台国の所在地については、21世紀に入っても議論が続いている。

 

概要

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は約30の国からなる倭国の都として、ここに住居していたとしている。なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は、壱の旧字体「壹」と似ているため。また、誤写ではないとする異論がある)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。

 

倭国は元々、男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞基づくものとする意見もある。

 

女王は魏に使節を派遣し、親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は、266年に晋の武帝に朝貢している。なお壱与の治世時期は、近畿ヤマト王権では崇神天皇治世時期に重なるとする説もある。

 

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。

 

「魏志倭人伝」中の“邪馬台国”

 

魏志倭人伝の原文の抜粋。

以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。

 

道程

魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡から、邪馬台国に至る道程が記されている。

 

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

 

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

 

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

 

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

 

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

 

東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

 

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

 

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

 

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

 

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

 

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

 

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

 

自郡至女王國 萬二千餘里

対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる。道程についても「連続説」と「放射説」がある。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた。

 

その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり、女王国と不和で戦争状態にあった。

 

倭地、女王国の地理

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種

又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里

 

又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至

 

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば近畿を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があるが、この地は女王国からは4,000里である、などと説明されている。それとは別に、また船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。倭地、女王国について説明があり「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説と、後述する短里説によれば一周400km弱となるから九州のことだという説、及びその他の諸説がある。

 出典Wikipedia