2006/03/31

鵯越え

 <源平合戦の中でも最大の名場面の一つが、一ノ谷の戦いで源義経が演じた「鵯越えの逆落とし」です。思いもよらぬ急坂の上からの奇襲は、源氏に大勝利を齎しました。これを機に、各地で兵を挙げた源氏軍の進撃の前に、さしもの権勢を誇った平家一門が幼い安徳天皇や天皇の生母・建礼門院を擁して都落ちし、西国に逃れたのは、寿永二年(1183)七月二十五日のことであります。翌二十六日、後白河法皇は京都に残った公家たちにいちはやく平家追討を謀りました。

 平家は都を落ち、摂津の一ノ谷の唆しい山に篭りました。源頼朝の命を受けた義経は一隊を土肥實平に預け、一の谷に向かせ、自らは残りの兵を率いて鵯越えより奇襲を行なう作戦を練りました。そして一の谷の裏山伝いに鵯越えに向かいましたが、山は峻しく人馬とともに大いに悩まされました。

 そこで義経は弁慶にに「この山の道案内する者を探し出せよ」と命じました。ようやく谷間の一軒の荒屋を見出し、この山の道案内を頼んだところ、心よく引き受けてくれました。これが鷲尾三郎経春でありました。やがて鵯越えの絶頂に着き下を見おろせば、今しも西南の門では敵味方が入り乱れて大激戦の様がありありと見えました。

 義経は、道案内者に向かって「屏風を立てた如きこの断崖を人馬が通るか」との問いに「人馬は通りませぬが、たまに鹿が通ります。」との答に義経「鹿は四足、馬も四足、鹿が通って馬が通れぬ筈はない」と大胆にも義経は左右を振り向き、吾に続けと一鞭当て降りれば一同続いて一ノ谷を攻め、火を放ちました。

 敵はこの不意の襲撃に狼狽し、ひとたまりもなく敗れ、海路屋島へと落ちのびていきました。一平家の主だった武将たちが次々と討ち取られ勝敗は決しました。義経の名はこれを機に一躍全国にとどろき渡りました。>

<ヒヨドリはスズメ目ヒヨドリ科の鳥で、白頭鳥とも表します。「ひいよひいよ」と鳴く事から、その名が付けられました。鵯越は、上って降りるようなヒヨドリの飛び方に由来する山道で、現在の神戸市から北西に六甲山地を越えて走っています>

ポリネシア語による解釈
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
<播磨・摂津の境の一ノ谷(現神戸市須磨浦の西)の北の山の手を鵯越えと言い、ヒヨドリが春秋にこの山を越すところから、地名となったといいます。源平一ノ谷の合戦で、平家の陣を背後から奇襲した「鵯越え」の地として有名です。   

この山から、一ノ谷に下る断崖は急坂で「馬も人もよもかよひ候わじ」と言われていましたが、元暦元(1184)年2月、源義経はこの断崖を鹿が通ると聞いて   「鹿の通程の道、馬の通わぬ事あるべからず」と言い、ここを一気に駈け下って平家の背後を突き、源氏軍を勝利に導きました(『平家物語』)

この「ひよどり」は

(1)
 鵯のような小鳥しか飛べない急峻な坂の意
(2)
 摂津・播磨の国境の標(ひょう)柱が建てられていたことによる、とする説などがあります。

この「ひよどり」は、マオリ語「ヒ・イオ・トリ」、HI-IO-TORI(hi=raise,rise;io=muscle,ridge,tough;tori=cut)、「高い峰を切ったような(坂)」の転訛と解します。

さて、この「鵯越え」または「鵯越えの逆落とし」には、地名とは別にもう一つ全然別の解釈があるようですが、残念ながらワタクシはそちらの方面には滅法暗いので、そちらの解説は好事家のどなたかにお任せしましょうか (`m´+)ウシシシ

2006/03/28

ベートーヴェン 交響曲第1番(第4楽章)

17701216日、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンにおいて、父ヨハン、母マリアの長男として生まれる。なお、ドイツ語では"Beethoven"は「ベートホーフェン」に近い読み方である(現代の口語ドイツ語では「ベートオーフェン」らしい。名前については「ビートホーフェン」に近いとする説もある。

 

「ベートーヴェン」という名は、先入観が強いせいか初めて耳にした時から、あたかも名前からして偉大そうな感じがしたものだったが、解析すると「ビート」は「砂糖」で「ホーフェン」は「農場」を意味する事から、先祖を遡っていくと「砂糖農場」(或いは大根農場とか)辺りに関わりがある、という推測が成り立つ。実際に欧米では、自らの職業に関わりのある名前が多く「シューベルト」、「シューマン」といった「シュー」の付く名前は大体において靴関係の職人である、といったような法則があるらしい。

 

また"van"は(「ファン・ゴッホ」などと同様に)、オランダ系である事を示しているが、ドイツ語でもオランダ語でも「ファン」であり「ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン」の方が原語の呼び方に近い。かつての日本の書物の中には、「ファン」を「ヴァン」と誤って下級貴族の称号である「フォン」と記していたものもあったが、実際のところ「van Beethoven」とは「大根(または砂糖)農場の」といった程度の意味に過ぎない。

 

幼い頃は歌手であった祖父の支援により、生計を立てていた。幼少の頃より酒飲みの父親から強制的な音楽の教育を受け、10代の頃に早くも父に代わって家計を支えていた。父の目的は、金であった。ルートヴィヒの才能を利用して、金を得る事しか考えていなかったようだ。父親は歌手だったが尋常でないほどの酒飲みであり、それが元で喉を患っていたため、まともな収入がなかった。母親は父親とは対照的に、ルートヴィヒを大切に育てた。ルートヴィヒの才能が認められ、初めて収入を得た時には涙を流して喜んだという。

2006/03/27

吉野梅郷の絶景

東京か、もしくは首都圏で梅の名所を探していて見つけたのが、青梅市の吉野梅郷だ。

 

家からはちと遠いが、ネットの画像に惹かれて行ってみると、これがなんとも凄かった。

 

まるで桜のように、山一面に咲き誇る梅。

満開の梅の花が、こんなにたくさん集まっている景観は観たことのない絶景で、最初に行った時など梅郷が視野に入って来た時には

 

「あれ? 梅じゃなくてもう桜が咲いた??」

 

と勘違いしたくらいだった。

 





ということで

 

「これは、良い名所を見つけた」

 

と喜んでいたのだが、逆にこれを見てしまっては、そこら辺の神社の「梅の名所」は「箱庭」にしか見えないから、その後3年くらいは続けて見に行くなど、3月末にはここへ行くのが「恒例行事」となっていた。

 

「あれだけの梅は、滅多に見られない・・・」

 

しかも、ここの梅は咲くのが遅く、例年3月末ごろと桜と殆ど時期が変わらなかった。

 

その後、しばらくは忙しかったりタイミングが合わなかったりで行き損なっていたものの

 

「いずれまた、あそこへ梅を見に行こう・・・」

 

と思っていたら、思わぬことが起こった・・・

 

吉野梅郷とは、JR青梅線日向和田駅から二俣尾駅までの多摩川南側、東西4キロメートルに広がる地域で、青梅市梅の公園をはじめ、地元農家の梅園や吉川英治記念館、青梅きもの博物館などの観光スポットが点在しています。

 

毎年2月下旬から331日まで、吉野梅郷梅まつりが行われ、紅梅・白梅合わせて25千本もの梅が花をつけ、仄かな香りをあたり一面に漂わせます。期間中は、全国から30万人以上が訪れる関東一の梅の里です。

 

また、梅まつり期間中である3月中旬の日曜日に、梅の公園と神代橋通りで「観梅市民まつり」を開催します。パレード、お囃子、郷土芸能、野点、琴の演奏など、数々のイベントで大変盛り上がる一日となります。

 

JR青梅線日向和田(ひなたわだ)駅から二俣尾(ふたまたお)駅までの多摩川南側に東西4キロにわたって広がる「吉野梅郷」青梅市の梅の公園や地元農家の各梅園や、吉川英治記念館などが点在し、老木・若木合わせて25千本の梅が紅白の花をつける関東有数の梅の里である。

 

その中心地にある梅の公園は、山の斜面を利用した約4.5ヘクタールの敷地に120種、1500本の梅樹がある自然公園で、吉野梅郷を訪れる人は必ず立ち寄る吉野梅郷のシンボル、観梅スポットとなっている。まずは、JR青梅駅からロータリーを回って、正面を走る青梅街道に出る。新宿から荻窪、田無、小川、箱根ヶ崎などを通って青梅・奥多摩方面へ抜けていくこの道は、徳川幕府の成立により大都市へと発展し始めた江戸の中心・江戸城の大改修工事で使用する石灰を青梅から輸送するために整備された。

 

青梅駅から西(奥多摩方面)へ折れると、道路の両側には新しい建物の間に古い建物が並んでおり、歴史を偲ぶことができる。旧青梅宿は、お隣の東青梅駅周辺からこの辺りまで長く続いていた。 駅から10分ほど歩くと、建ち並ぶ建物の中に、ひときわ風格のある木造のお屋敷が登場。こちらの建物は一般にも無料開放されていて、「旧稲葉家」という案内板が立っている。江戸時代後期に建てられたものだそうで、木材や織物などを売っていた商人宅だ。現代なら、青梅線の特別快速で1時間もあれば新宿に出ることができるが、当然、江戸時代に電車はない。このお宅の軒先は、西多摩周辺に住む人々の活気で賑わっていたことだろう。

 

正面玄関を腰をかがめながら入ると、女性の管理人さんが声を掛けてくれる。

「最近の住宅は、20年や30年で建て替えなきゃいけないのに、この建物はもう200年以上もこうして建ってるんですよ」。そのありがたさは、建物へ一歩足を踏み入れただけで、誰の身にも伝わってくるはずだ。 

 

金剛寺・将門誓いの梅

「青梅」の地名。それは意外な人物にゆかりのある、一本の梅の木に由来する。 

「青梅」という市の名前。吉野梅郷の梅祭りを中心に、毎年2月~3月の梅の花が咲く頃にはたくさんの観光客で賑わうことから、なんとなく「梅」が市のシンボルであることは頷ける。でも、なんで「青い梅」?

それは、ある1本の梅の木に由来する。青梅を代表する古刹の1つ「金剛寺」の境内に立つ梅の木がそれだ。

 

旧稲葉家住宅の先を南へ曲がると、右手前方に長い木の壁が見えてくる。ここが金剛寺だ。境内に、都の天然記念物に指定されている、市名の由来となった梅の木が立っている。大きさは、それほど大きな木ではない。この1本だけが他と比べて花がたくさん付いているというわけでもない。では、なぜ天然記念物に指定され、市名の由来にもなっているのか。

 

その謎を紐解くには、今から1000年以上も遡る必要がある。当時、関東地方で勢力を拡大していた平将門が、戦勝祈願のために梅の枝を地面に突き立てた。

「わが願いが叶わないのならば、枯れてしまえ」

すると、梅の枝はしっかりと根付いて葉を実らせたという。この梅の木は夏を過ぎて秋になっても実が黄色くならず青いままだったことから、この地を「青梅」と呼ぶようになったのだそうだ。ここまでは言い伝えなので、定かではないが、今でもこの木が青い実を付けたまま秋を迎えることがあるのは事実である。突然変異で、このような梅の実が育つことがあるらしい。

 

青梅街道--吉野街道--吉野梅郷

青梅街道から、吉野街道方面へ。途中、和田橋から望む多摩川は、嫌なことが全部吹き飛んでしまうくらいの美しい絶景だ。

 

吉野街道を西へ進むと、いよいよ梅の人気スポット「吉野梅郷」。一帯には鎌倉の梅、中心地梅林、岩割の梅など、たくさんの梅の見所がある。中でも1番の観梅スポットとして親しまれているのが「梅の公園」。毎年2月~3月に梅祭りが催され、たくさんの観光客で賑わっている。取材前日に雪が降ったため、花の咲き具合が心配されたが、まずまずの7分咲き。逆に真っ白な雪とピンクの花が織り成す、めったに見られない美しい光景を目にすることができた。こんな素敵な風景に出会えるのも、青梅ならではなのでは?

公園の北口では屋台も出ていて、「梅まんじゅう」などのおみやげを買うこともできる。


今年は、しばらくぶりで例の吉野梅郷に・・・と思っていたら、思わぬことが起こっていた。

 

なんと、あの梅郷の梅が「ウィルスに感染した」とやらで、全ての梅の木が伐採されてしまったというではないか!

 

なんと惜しいことか!

あれ以上の梅の名所は、ちょっと思いつかないだけに、これほどのショックはなかった。

 

吉野梅郷の中心、青梅市梅の公園

吉野梅郷(よしのばいごう)は、東京都青梅市にある梅園。2014年に全ての梅の木が伐採されるまでは、関東地方で有数の観梅の名所であった。

 

概要

青梅市中心部の西部に位置する日の出山から東に伸びる丘陵と、多摩川とに挟まれる長さ4キロメートルほどの地域に25,000本の梅が植えられていた。近隣には青梅市梅の公園(後述)のほか、個人の梅園も多く点在する。

 

東京都内ではあるが、都心部より標高がやや高いほか、丘陵の北面に位置するため、見ごろを迎えるのは都心部より遅い。

 

20094月に、植物防疫法の法令検疫対象であるプラムポックスウイルスの感染が梅の木としては世界で初めて確認され、2010年に123本が伐採された。その後も調査で見つかった感染木を処理していたが、201311月に農林水産省が「プラムポックスウイルスの緊急防除に関する省令」を改正したことにより、感染木の周囲の木も伐採するように定められたことから、一般の入園は201443日に終了し、翌44日から530日までの間に園内のすべての梅(1,266本)を全て伐採した。梅を植樹するにあたっては、この伐採から3年間に付近で新たな感染が無いことが条件となっている。

 

梅の里再生を目指すため、2015年にNPO法人「青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクト」が設立された。

 

青梅市梅の公園

梅郷の東南端に位置する。120品種、1,500本の梅が植えられていたが、青梅市がプラムポックスウイルスの防除に失敗したため、梅は全て伐採された。

公園は青梅市が1972年に整備した。入園料は無料だが、開花期(おおむね3月中)のみ有料となる。

ベートーヴェン 交響曲第1番(第3楽章)

 


一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。

しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性は、ロマン派以外の何者でもなかった。

 

ワーグナーの音楽は、次第に官能的・威嚇的で大袈裟なものへと発展したのは否めず、ブラームスにしてもベートーヴェンの有機的で厳格な構成に比べると粗雑な面があり、普遍的というよりドイツ民族的な芸術であった。2人の巨匠をもってしても、ベートーヴェンの衣鉢を完全に受け継ぐ事は出来なかった。

 

この事から

「交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏曲は、ベートーヴェンで歴史的な頂点を迎え、後は衰退の道を辿る」

とまで断言する専門家もいる、とも言われる。

 

また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面は、ブラームスのみならずドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。

 

欧米ではJ.S.バッハの『平均律クラヴィーア曲集』が「ピアニストのための旧約聖書」と言われていたが、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ』が出てからは、こちらが「新約聖書」と言われているのは有名だ。音楽の父J.S.バッハ、天才モーツァルトという二人の偉大な先達に比しても、決してヒケを取らぬ「楽聖」ベートーヴェンである。

 

生前は、教会オルガニストとしての輝かしい名声に比べ、作曲家としては殆ど評価されぬままに、晩年は失明の憂き目に見舞われた大バッハ。また赤貧の中で不幸にも35歳という若さで夭逝してしまったモーツァルトという偉大な先達と同じように、またベートーヴェンにも過酷過ぎる運命の試練が待ち受けていた。

 

20代後半から、音楽家としては最も重要な生命線ともいうべく聴力が著しく衰え始め、残り半生の生涯を通じて「難聴」に苦しめられ(まったく聞こえなくなったわけではないらしい)ながらも、その限界的な状況の中で後世に遺る数々の傑作を産み出して来たのが、ベートーヴェンの真の「偉大さ」と言える。

2006/03/26

ベートーヴェン 交響曲第1番(第2楽章)

 


歴史上、最も偉大な作曲家は誰か?

とは言っても「偉大の定義」によって違ってくるのではないか?

などといった細かい事を抜きにすれば、J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンという三巨匠(生年順)が常に別格扱いとなっていたのは明らかだ。

 

最も多くの人々に親しまれ、敬遠されにくいのはモーツァルトだろうが、こと「偉大」という点からみれば、これに続くであろうブラームスやワーグナー、ハイドン、ヘンデル、シューベルト、シューマン、チャイコフスキー、マーラーらを含めても

 

・音楽の父=J.S.バッハ

・楽聖=ベートーヴェン

 

といった普遍的な称号を与えられているのは、上記の二人だけである事からして、やはり両巨匠は特に別格ともいえる。今更言うまでもなく有名な「楽聖」という言葉は、この人にのみ与えられた輝かしい称号である。

 

《同じドイツ人で、最もベートーヴェンの影響を受けた音楽家はワーグナーとブラームスである。ワーグナーは、ベートーヴェンの交響曲第7番や交響曲第9番などの巨大な作品に触発された。その後、ワーグナーはロマン派の急先鋒として音響効果の増大に成功し、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体した。

 

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナーの組に加わらず、あくまでもベートーヴェンと同じ音楽形式や和声法を用いて作曲をし、ロマン派の時代の中で古典派的な作風を保った。このような狭い意味では、ブラームスがベートーヴェンの「正統」な後継者といえる》

 

と言われ、どちらも「後継者」として大いに期待された。ワーグナー、ブラームスには、またベートーヴェンとは全然違ったそれぞれの良さがある。

 

《後世の音楽家への、ベートーヴェンの影響は甚だ大きい。彼以降の音楽家は、大なり小なり彼の影響を受けている。ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものが殆どであった。ベートーヴェンは、そうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

 

中でもワーグナーは、ベートーヴェンの『交響曲第9番』における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め「楽劇」を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した》

2006/03/25

ベートーヴェン 交響曲第1番(第1楽章)

 


ベートーヴェンが、30歳の時(1800年)に完成させた最初の交響曲である。

 

ピアノソナタ第8番「悲愴」や七重奏曲、6つの弦楽四重奏曲などともに、初期の代表作として知られている。ベートーヴェンの交響曲のうち、第1番、第2番はベートーヴェンの初期の作品に含まれる。ベートーヴェンの初期作品は、ハイドン、モーツァルトといった古典派の作曲家の作曲技法を踏襲していた時期の作品であり、随所にベートーヴェン独自の意欲的な試みも認められるものの、中期から後期作品のようなベートーヴェンの強い個性はまだ見出すことは出来ない。中期、後期の大作群と比べると相対的に人気はないが、古典派の交響曲としては十分な完成度を誇っている。

 

ベートーヴェンは、当初ピアニストとして生計を立てていたこともあり、初期の作品はピアノソナタ、ピアノ三重奏曲、ピアノ協奏曲など、主にピアノに関する作品が中心を占めている。一方で、この時期には弦楽四重奏曲、七重奏曲などの作曲も経験しており、これによってベートーヴェンは合奏曲の書き方も学ぶことになる。これらの作曲を経験することによって、ハイドン、モーツァルトら古典派の作曲技法を吸収し、自らの技術として身につけている。交響曲第1番は、ここで学んだ技術の総集編として、1799年から1800年に作曲されたものと考えられている。

 

http://www.yung.jp/yungdb/mobile.php

《ベートーヴェンの不滅の9曲と言われる交響曲の中では、最も影の薄い存在です》でも、影は薄いとは言っても「不滅の9曲」の一曲です。もし、その他の凡百の作曲家が、その生涯に一つでもこれだけの作品を残すことができれば、疑いもなく彼の代表作となったはずです。問題は、彼のあとに続いた弟や妹があまりにも出来が良すぎたために、長兄の影がすっかり薄くなってしまったと言うことです。

 

この作品は第1番という事なので若書きの作品のように思われますが、時期的には彼の前期を代表する6曲の弦楽四重奏曲や、ピアノ協奏曲の3番などが書かれた時期に重なります。つまりウィーンに出てきた若き無名の作曲家ではなくて、それなりに名前も売れて有名になってきた男の筆になるものです。

 

モーツァルトが幼い頃から交響曲を書き始めたのとは対照的に、まさに満を持して世に送り出した作品だといえます。それは同時に、ウィーンにおける自らの地位をより確固としたものにしよう、と言う野心もあったはずです。その意気込みは、第1楽章の冒頭における和音の扱いにも表れていますし、最終楽章の主題を探るように彷徨う序奏部などは、聞き手の期待をいやがうえにも高めるような効果を持っていて、けれん味満点です。第3楽章のメヌエット楽章なども、優雅さよりは躍動感が前面に出てきて、より奔放なスケルツォ的な性格を持っています。

 

基本的な音楽の作りは、ハイドンやモーツァルトが到達した地点にしっかりと足は据えられていますが、至る所にそこから突き抜けようとするベートーヴェンの姿が垣間見られる作品だといえます。

2006/03/23

日本が世界一に(後編) ~ WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)  

この大会で明らかとなった事は「世界のメジャー」の中心を担っているのは最早アメリカ選手なかりではなく、寧ろドミニカやベネズエラの選手たちであり、アメリカン・ベースボールこそは圧倒的に強いという「幻想」は、今回のアメリカ代表の呆気ない予選敗退によって、音を立てて瓦解した。

さらに、長年「アマ球界最強」と歌われたキューバは、やはり国情から「アマ」という呼称になっているに過ぎず、最後は日本に力負けしたとはいえ実力的には世界トップのプロにもヒケを取らない事が証明された。

 そして日本のプロ野球が、日本と韓国との関係と同じように、全体としてはまだまだメジャーのレベルには数段及ばないとはいえ、トップ層に限れば決してどの国にもヒケを取っていなかった。同じ顔触れで再度相見える事になれば恐らくはまた、どこが勝ってもおかしくないような競り合いが繰り広げられる事になるのだろう。

それにしてもこの大会を通じて、日本代表の戦いは素晴らしかった。準決勝で日本に完敗した韓国代表チームの監督の

「野球の質では、日本の方が上だった」

というコメントを訊いた時は我が耳を疑ったが、このように腹の中は別として韓国人が日本を素直に賞賛するのは滅多にない事(というよりは、未だにタブー視されている?)で、今回の日本代表チームの纏りと優れた総合力だけは、さしもの負け嫌いの韓国も公然と認めざるを得なかったのだろう。

その実力を証明するように、決勝はそれまでと打って変わりやや大味の展開になったものの、松坂の好投に応えるように打線が爆発して最後はキューバを力で捻じ伏せ、強さを存分に実証して見せたのは見事だった。

二次リーグでは、よもや予選派敗退のピンチを迎えるなど予想外に苦戦したとはいえ、負けた試合も含めどの相手に対しても明らかに力の劣るようなゲームはなかったし、またどのゲームも「これぞ野球」という醍醐味に溢れた素晴らしいものばかりであった。

いかにプロとはいえ、年間130試合を超えるレギュラーシーズンで、これほどまでの「一球入魂」のプレーを続けていては体が持たないだろうが、普段のシーズン中では滅多にお目にかかれないようなプレーは、日の丸に誇りを持った男たちのプライドといえるのではないか。

世界トップに比して、実力が伴わないサッカーにすっかり人気を奪われてしまった野球だが、サッカーとは違い実力では間違いなく世界トップであり、また今回の韓国戦では昼間にもかかわらず、50%を超える高視聴率を記録した。それと同時に野球の面白さ、素晴らしさを改めて再認識させてくれるような(韓国に二敗といった、勝ち負けは別として)、文句のない内容でもあった。

シーズン中では滅多に見られないような上原の完璧なピッチング、さらに普段は我が道を突き進むようなあのニヒルなイチローが、まるで野球少年のような邪気のない笑顔で、仲間と抱き合うシーンも印象的だった。実力だけでなく、あのメンバーの中にあっても存在感は遥かに突出していたイチローを見る度に、無いものねだりとはわかっていながら

(ここに松井がいたら・・・)

と思ってしまうのは、ワタクシだけではなかったのではないかな。