2013/11/27

日本三景で牡蠣を満喫

ランチは後回しと決めまずは参拝からと、さっそく鳥居を潜ると屋台が出ている。

 



参拝後のランチとなると遅くなるだけに、少し腹ごしらえをしようというと、どうしても祓社をお参りしないと気が済まないというパートナーは、一目散に行列に並び始めた。

 

そんなパートナーを尻目に、好物のイカ焼きでビールを飲んでいると、突如としてゲリラ豪雨に襲われる。しかもこのゲリラ豪雨は一度では済まず、断続的に何度も襲って来ただけに性質が悪く、屋台のテントの端っこになんとか割り込んでいたが、次々に押し寄せる非難客に加え、途方もない勢いで横殴りのゲリラ豪雨は恐怖だ。そんなゲリラ豪雨の攻撃にもめげず、我がパートナーだけでなく祓社を参ろうという行列陣は、雨に打たれながら列を崩す気配すらない。さすがに自分だけ暢気にテントで飲んでいるわけにもいかず、パートナーの傘の下に駆け寄ると、たちまちにしてびしょ濡れになってしまった。

 

幸いなことに、ダウンジャケットとリュックも防水加工だったようで、中にまで染み込まずに済んだのが幸いだった。耐え忍ぶことしばし、しつこいゲリラ豪雨もようやく収まり、祓社で清めをした上で参拝コースを回り、ようやく本殿にたどり着いた。

 


 

本来なら玉造温泉か近くの松江辺りに泊まりたいところだったが、散々調べた結果はどれもが満室。おまけに、パートナーが祓社の清めのための1時間待ちを譲らなかった時点で、松江城や宍道湖に行く計画は頓挫した。丁寧に拝観を済ませて、再び参道に戻った時は午後3時を過ぎていたが、そば屋は相変わらず行列ができていて、売り切れで店じまいをしている店も目についた。夫婦善哉を譲らないパートナーを押し切ると、なんとか出雲そばの店に入る。電車の時間を気にしながら、三食割子そばと地酒を5分程度で堪能しなければならないという慌ただしさだが、さすがに三色割子の味は絶品と言える。

 


 

電車には何とか間に合ったが、出雲市駅で広島行の特急はすでに満席となっており、新幹線までは1時間近い待ち時間があるという。こうした交通の便の悪さが祟り、結局広島駅前のホテルに入ったのは23時過ぎとなった。この日も温泉で温まったものの、朝が早いためぐっすり寝てはいられない。例によって、ホテル朝食バイキングの名物料理で腹ごしらえをする。宮島、広島城、縮景園、原爆ドーム、平和記念公園等々、観光名所が満載だけに、ノンビリしてはいられないと、駅前の路面電車に飛び乗り一路宮島へと向かうが、これが予想以上に時間がかかった。

 

やっとのことで、フェリーに乗り換える。世界遺産・厳島神社の、あの朱塗りの大鳥居が間近に迫ってくるのは感動的である。

 


 

広い厳島神社だけに、ここだけでかなり時間を要した。ロープウェイで弥山に登ると、さすがに「日本三景」というに相応しい景観が眼前いっぱいに広がる。

 


 

山頂までのハイキングコースを登って行きたいという誘惑にかられながらも、次のスケジュールを睨み下山すると、いよいよお目当ての牡蠣が待っていた。

 

「牡蠣の味は、うちの右に出るものはない」

 

と断言する老舗に入り、焼牡蠣をオーダーする。ビールを飲みながら待っていると、かつてお目にかかったことのない大ぶりの牡蠣が登場した。

 

(これが有名な宮島の牡蠣か・・・)

 

などと感激しつつ、一緒に持ってくるようにオーダーした熱燗とともに

 

(世の中に、こんなに旨いものはそうはない!)

 

と、思わず幸せな気分に。

 

パートナーに分けてもらったあなご飯も食し、大ぶりの牡蠣5つを堪能した上で、参道の屋台でもさらに「牡蠣串」を味わう。この日だけで、牡蠣10個も食べてしまった。

 

職場の土産用のもみじ饅頭を買い、青空に高く聳えたつ五重塔を背に帰路に向かうと、実に旨い具合に来た時は満潮だった大鳥居が、引き潮となっているではないか。 今日は無理だろうと思っていた、夕日を浴びて輝く鳥居まで歩いていくことが出来たのは僥倖と言えた。

 


 

いつまでも浸っていたい気分だったが、次の旅程を思い後ろ髪をひかれる思いでフェリーと路面電車を乗り継ぎ、引き続き市街地の見物に・・・という予定のはずだったが、路面電車のチンタラ運行が祟り原爆ドームに到着したころには早くも夕日が傾きかけていた。

 

平和記念公園はキャンセルし、急いで広島城へ向かうが到着した時はすでに夜。  入場時間にも間に合わず、もちろん期待した縮景園など観られるはずもない。

 

(今更、慌てても仕方がない。かくなる上は、名物お好み焼きを食べて帰らねば!)

 

と意見が一致し、広島駅に並ぶお好み焼き屋に入る。昼が遅かったので、ミックス1人前を2人で分けて食べることになったが、これがたっぷり1人前くらいはあるボリュームで、やはり本場モンの味は違った。旨いお好み焼きを満喫し、最終の新幹線に飛び乗るとさすがに疲れが出たか、ハタマタ酔いが回ったか、いつの間にか睡魔に襲われていた。

 

欲張って予定していたうち、回れないところがかなりあったとはいえ、岡山の後楽園、一生に一度しか出くわすことのない出雲大社大遷宮、そして世界遺産の厳島神社と日本三景の宮島も堪能でき、さらには牡蠣や割子そばなど各地自慢の味も十分に堪能でき、いつもの紅葉狩りとは趣を異にした印象深い旅となった。

2013/11/25

大阪

大坂」という地名は、元々は現在の大阪市域のうちの大和川と淀川(現在の大川)の間に南北に横たわる上町台地の北端辺りを指し、古くは摂津国東成郡に属した。この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」との記載である。 

 

元々、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは難波(浪華・浪花・浪速)などが地域の名称として用いられていたが、蓮如が現在の大阪城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、その勢力を周辺に伸ばすに及んで大坂という呼称が定着した。その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(日本書紀には烏瑳箇とある) このため、この説は信憑性に乏しい。

 

蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人・伝兵衛が海難事故でロシア帝国に漂流した時、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。しかし、従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うようになったのが広まり「おおさか」と呼ばれる様になった、という説もある。漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。

 

一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、単に役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。

 

現在の大阪市の直接の前身である大坂の町は、古代の日本最初の本格的な首都である大化改新の時の難波長柄豊埼宮(なにわのながらのとよさきのみや)や、住吉津(すみのえのつ)難波津(なにわのつ。なにわづ)を起源に持つ、歴史的な国際的港湾都市であった。また江戸時代には、既に現在の大阪市の中央部を広く町域とする日本屈指の大都市であり、日本経済の中心だった。

 

後の「大坂」が位置した上町台地は、古代には「難波潟」と呼ばれる湿地に突き出した半島状の陸地で「難波(なにわ)」、「浪華(なにわ)」、「浪花(なにわ)」、「浪速(なにわ、なみはや)」などと称されてきた。この地には、古代大和朝廷が外国への使節の送り出しや、迎接に利用する瀬戸内海東部の重要な国際港であった「住吉津」や「難波津」が置かれ、古代の仁徳天皇の難波高津宮を始め、大化の改新時の難波長柄豊崎宮や聖武天皇の難波京(難波宮)などが営まれ、朝廷の首都あるいは副都として利用された。また律令制の下では、首都に置かれる京職に準じる特別の官署、摂津職によって管理された。

 

難波が古代国家によって重要視されたのは、大阪湾は西日本の交通の要である瀬戸内海の東端にあたり、かつ当時の中央政府があった内陸の飛鳥地方・平城京から見て最も近い港湾であることによる。住吉津を管理する住吉大社は、大和朝廷直属の社として重要視されていた。難波津は土砂の堆積により港としての機能を衰えさせ、奈良時代の末には放棄され、代わって神崎川河口の河尻泊(現在の兵庫県尼崎市)などに繁栄を譲る。しかし平安時代には、淀川水系を利用して営まれた平安京が恒久的な都となったことから、瀬戸内海から淀川を通じて京都に通じる水運の要衝、また北から淀川を渡り、南の四天王寺や住吉大社、熊野へと続く陸上交通の要衝として栄えた。当時、のちの天満橋から天神橋までの淀川河口一帯にあった渡辺津は、嵯峨源氏の一族渡辺氏の名字の地としても有名である。

 

15世紀に「大坂」の地名を持って呼ばれるようになった上町台地の先端部は、1496年に蓮如がこの地に建立した浄土真宗の石山道場に1532年、証如が山科本願寺から移り石山本願寺となったことから寺内町として発展した。織田信長と本願寺の間に戦われた石山戦争で1580年に顕如が退去した後の1583年には、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、城下に配下の大名の屋敷や堺などの周辺の町々の町人を集めて、上町台地から大阪平野に広がる大坂の町を築いて政治・経済の中心都市とした。このため、安土桃山時代のうちの豊臣政権期を指して「大坂時代」と呼ぶ人もいる。

 

豊臣氏が滅んだ大坂の役で大坂の町は一時的に荒廃したが、江戸幕府は大坂を直轄地(天領)とし大坂城を再建する一方、河川の改修や堀の開削を行い、諸藩も蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれたため、八百八橋と言われるほど橋と水路の多い町となった。こうして水の都として復興した大坂は、日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。また、こうした経済的な発展に伴って、いわゆる「元禄文化」が大坂を中心に花開いた。堂島の米市場では、世界で最初の先物取引が行われた。

 

近世大坂の町は江戸幕府の派遣した大坂町奉行支配のもとに北組、南組、天満組の三組に分かれ、総称して大坂三郷と呼ばれた。北組・南組は、現在の中央区の本町通を境とする南北にあたり、天満組は北区の大阪天満宮を中心とする一帯である。 大阪の旧市街地は沽券地として、江戸幕府から町人間で譲渡が許されていた。

 

近世に現在の大阪市中心部は、その姿を整えたと言ってよい。現在も続く近世以来の大坂の町は、天満、上町、堂島、中之島、船場(北浜)、阿波座、堀江、島之内、江ノ子島などが知られている。

出典Wikipedia

2013/11/23

岡山城 ⇒ 出雲大社

秋と言えば紅葉狩りだ。今年も京都へ行こうかと考えているところへ、出雲大社へのお誘いが来た。

 

紅葉とは無関係だが、元々神話や歴史は好きな人間のご多分に漏れず、出雲は一度は行ってみたい地であるから、二つ返事で乗った。しかも今年の出雲大社は60年に一度の大遷宮」という、一生に一度しか経験できない貴重な年なのである。そこへ持ってきて凝り性の我がパートナーは、さらに「神在月に行かないと」と、大乗り気だった。さらにさらに、屋上屋を架すように「夜行列車で」という魅力のある提案もくっ付いていては、益々乗り気にもなろうというものだ。

 

若いころに、西村京太郎のトラベルミステリーを読み漁ったていた時から

(一度は「寝台特急」なるものに乗ってみたい)

という願望も強く持ち続けていた。

 

が、現実は厳しい。夜行列車はどれも人気が高く、目指す「サンライズ出雲」もご多分に漏れず、どれもが満席(満室というべきか)だという。仕方なく、夜行は諦めて新幹線と電車で行く肚を決めた。折角、高い旅費と長い移動時間を使って出雲まで行くのだから、広島にも足を伸ばそうということになった。さらに広島から岡山はもっと近いのだから、名高い後楽園や岡山城も観たいというこちらの要望も加味され、頼もしいパートナーにより膨らんでいった計画は入念に練られた。

 

最後の打合せ(と言っても、大手町での「飲み会」だが)が終わった後、念のため東京駅のみどりの窓口へ行くと、上手い具合に2人分だけ「のびのびシート」の空きが出たとのことで、ともかく「保険」として購入しておく。パートナーの方は「のびのびシート」にも乗り気だったが、自分はともかく女性を「のびのびシート」に寝かせておくのはセキュリティの問題がある。加えて、寝台での旅情を満喫したかったこちらとしては、キャンセル期待の執念で毎朝出勤前と退社後、乗り換え駅の四谷駅で聞き続けた努力も空しく、遂に最後までキャンセルは出なかった。このような状況を踏まえ、前日に急きょ「のびのびシート」から新幹線に変更し、いよいよ初の「山陰・山陽の旅」が幕を開ける。

 

まずは、交通の便の良い岡山からである。普段の仕事の日より1時間以上も早い6時前に起床したものの、早速その出鼻を挫くかのように、電車が人身事故で運行停止という仰天ニュースが。

 

(飛び込みかなんかしらんが、あの世へ行きたいなら人様に迷惑をかけずにひっそりと召されろ!)

 

などと毒づきつつ、駅に行くとなんとか東京駅までたどり着いた。

 

予定外に早く着いたため、朝食の物色などしつつパートナーの到着を待つことン十分。いつもは早めに到着しているパートナーがなぜかなかなか来ず、おまけに新幹線窓口だけでもたくさんある東京駅のことで、なかなか合流できない。気付けば、新幹線の出発時間は間近に迫っていた!

 

ともかく切符は券売機で購入したものの、指定券はこちらが2人分を持っているから、指定券を持たぬパートナーは合流しないと改札を通れないという。この時、出発まで後1分。

 

(いよいよ、この指定切符はキャンセルか・・・)

 

と半ば諦めかけたところで、ようやく発見したパートナーとダッシュでエスカレーターを駆け上がり、ギリギリのところで飛び乗りに成功。こうして出発からして想定外に見舞われはしたものの、新幹線は指定席でビールを飲みながらノンビリしていればいいから楽で、瞬くうちに岡山に到着だ。

 

初日最大のお目当て日本三名園「後楽園」には、なんとか午前中に到着できた。これ以上は望めないという秋晴れで、20℃は超えていそうな春のような暑い陽気となり、汗をかきながら「後楽園」を周遊する。

 


 

移動の途中の貸座敷のような店でけんちんうどんを食べながら、青空に映える烏城を眺めてまったり。


 

 この日はスケジュールに余裕があるため岡山城天守閣に上がったが、思ったよりも早く観光が済んだ。パートナーは、どうしても「満奇洞」へ行きたかったようだが、岡山から片道2時間もかかるだけに、これはNG。変わって、観光名所の倉敷へと移動する。

 

美観地区を一通り見て歩いて、駅に戻って天満屋で夕食を摂ることに。パートナーはあまり乗り気でなかった岡山だが、海鮮には目がないこちらはかねてから「岡山=瀬戸内海の幸」の旨さを散々聞かされていただけに、後楽園、岡山城とともに期待していたのがこれだった。そして期待通り、鯛、刺身盛合わせなどの付いたメニューで地酒を堪能する。

 


 

「満奇洞」が露と消えたパートナーの方は、それでも食いしん坊(グルメ?)だけに定食のステーキにご満悦の様子で、岡山のホテルに戻って温泉で温まって初日が終了した。

 

2日目は早起きをして、ホテルの朝食バイキングに向かう。えびめし、ままかり、桃太郎トマト、吉備団子などの地物たっぷりの名物で腹ごしらえをして、サンライズで出雲へ乗車。指定席はすでに完売していたが、出雲まで3時間の長旅だけに運良く自由席を確保できたのは幸いだ。

 

車窓から望む空は晴れたり曇ったりを繰り返す、日本海側特有の変わりやすい天候だったが

 

(なんとか雨だけは降らないでくれよ・・・)

 

と祈りながら、出雲電車に乗り換えて遂に出雲大社前に到着した。我々、東京者の目には「同じ中国地方」とひとくくりにしがちな岡山と島根が、山陽の南の端から山陰の北の端までの移動は、新幹線の東京⇔岡山間に匹敵する3時間をかけての長旅である。

 

(これを食わねば帰れん!)

 

と強く心に決めていた三色割子そばだが、昼時とあって参道はどの店も1時間は待たされそうな行列ができている。甘党のパートナーは、割子そば以上に夫婦善哉に執念を燃やしているようだった。

2013/11/20

怪物の孤独(怪物伝説part8)

・達川ブログより抜粋

あの夏、江川との思い出は・・・実は・・・特に無い。おい、おい、ちょっと待って・・・  そんな、怒ったら、いかんよ・・・。だって夏はワシら、作新学院と試合しちゃおらんのだもん。思い出も何も無いよね。しゃーないじゃん。じゃが、ワシは江川を見ていた。土砂降りの甲子園のスタンドで・・・怪物、最後のマウンドをね・・・

 

江川卓が、当時いかなる存在だったか?

「怪物」と呼ばれ、日本中の高校球児の目標であり、日本中の国民的関心事じゃった。江川の行く所、取材陣の大行列ができた。

 

昭和48年春、江川を倒したワシら県立広島商業高校野球部は、全国大会準優勝を成し遂げた。そして広島に帰ってきたワシらが、帰るとすぐにまた「打倒・江川」の猛練習を始めた。全国制覇を成し遂げるには「打倒・江川」は避けては通れんもん。来る日も来る日も、ワシらは「江川・江川・江川」の日々じゃった。

 

しかし、その夏。ワシらは江川とあたる事は、ついに無かった。作新学院は、千葉県代表の銚子商業高校にサヨナラ負け。土砂降りの雨の中、怪物・江川の夏は、終わった・・・  ワシはその試合を、土砂降りの甲子園のスタンドから見ていた。負けた江川の涙が、印象的だった。

 

「悔しかろう、江川・・」

18歳のワシは、そう思った。じゃが、それから40年近くが過ぎて、ワシはその涙の本当の意味を知る事になる。それは、想定外の真実だった。

 

38年前の、あの日。江川は、銚子商業戦のマウンドに上った。

プレーボールがかかる頃、上空には、雲一つない夏空が拡がっていた。暑い日じゃった。ワシはスタンドから、江川を見ていた。

 

「打倒・江川なくして、全国制覇なし」

この時のワシは、ともかく江川を倒す事しか頭に無かった。

試合は白熱。両者譲らず、ゲームは延長戦に突入した。延長11回ウラ、銚子商業の攻撃。ここで、異変が起こった。それまで快晴だった空が見る見る曇りだし、突然、凄まじい雨が降ってきた。そりゃぁ、凄い降り様じゃった。

「バケツをひっくり返した」というのが、比喩表現じゃないくらいの雨じゃった。プロ野球なら中断か、いや中止にしてもおかしくない位の雨じゃったが、高校野球は日程やら何やらで、中々そうはいかんのよ。土砂降りの中、試合はそのまま続行された。それはある意味、仕方が無い事じゃった。

 

江川の野球人生には、雨がついて廻る。そして雨はいつも、江川の敵だった。この年の、春の甲子園全国大会。雨が試合を中止にし、順延にしたように・・・それが結果、江川に災いをもたらしたように・・・江川と雨は、相性が悪いんじゃ。土砂降りの雨は、当然、江川の敵となった。怪物のピッチングは、少しずつ狂っていく・・・・そして江川は、2アウトを取るがランナーを満塁にしてしまう。スコールのような雨の中。スタンドのワシはびしょぬれのまま、息を飲んで江川を見つめていた。固く握った両手の拳の中で、汗と雨が混ざり合った。

 

2アウト、ランナー満塁、ボールカウント2-3。この時、江川がタイムを取った。内野陣がマウンドに集まる。タイムが解けて、次の一球・・・江川の投球は、高めに大きく外れた。押し出しで、サヨナラ。怪物・江川の夏は、それで終わった。グランドで・・・江川は、泣いていた。

 

「江川が泣いてる。悔しかろう。のう、江川」

 

ワシは心の中で、そう思った。その夏のワシの江川の思い出は、それだけじゃ。江川と対戦する事なく、その後、ワシらは決勝戦に進み勝った。ワシらはついに全国制覇を達成し、真紅の大優勝旗を広島に持ち帰った。

 

あれから、38年が経った。その間、ワシは大学からカープに入団し、選手、コーチ、監督もさせてもらい、他球団のユニフォームも着させてもらった。プロでは、江川とも対戦した。甲子園での江川の涙は青春時代の一つの記憶として、ワシの心に刻み込まれたが、その涙を「怪物を更に成長させた、悔し涙」、「あの悔し涙があってこそ、今の江川がある」ワシはずっーと、そんな風に思ってきた。しかし齢50も過ぎてから、ワシは江川から涙の本当の意味を聞かされる事になる。それは18歳のワシの心に、刻み込まれた風景を一変させてしまうような、意外な事実じゃった。

 

話しを、38年前に戻すとしよう。土砂降りの甲子園。延長11回ウラ、2アウト満塁、ボールカウント2-3。江川が、タイムを取る。ここから、もう一回話しを始めよう。

 

江川は、タイムを取った。内野陣が、マウンドに集まった。ここで江川は、みんなにこう言ったんだと・・・

 

「みんな、ゴメン。俺、次のボール自信がない。みんな・・・次は、何を投げたらいいと思う?

 

江川はみんなに、そう聞いたんだそうな・・・それまで1回も見せた事の無い、怪物・江川が初めて吐いた弱音じゃった。この話をしてくれた江川は、当時の事を語り出した。 それは「怪物」と呼ばれた男の悲しい宿命じゃった。当時の江川が、どれほどの存在だったか・・・これまで、随分、話してきた。マスコミは、連日、江川を報道した。江川が何をした。江川が何を投げた。江川が何を言った。挙げ句の果てに・・・江川が何を食べた。江川がどこに行った。江川が何を買った。連日、江川、江川、江川・・・テレビも新聞も雑誌も「江川」の名前を見ない日は無かった。江川は「怪物」と呼ばれた。時代の寵児となり、オーバーな表現では無く国民の最大関心事となった。そして、それは怪物最後の夏、ピークに達していた。

 

「俺は孤独だった」

江川は、ワシにそう言った。

マスコミは、常に「江川」個人を求めた。報道では「作新学院の江川」では無く「江川の作新学院」のように、言われていた。皮肉なことに、江川が頑張ってチームが勝つごとに、マスコミは「江川の作新」と囃し立てた。夏が近づくにつれ、マスコミの取材は更に江川に集中した。江川は、常に「怪物」である事を要求され・・・江川は常に「怪物」であろうとした。それが知らず知らずに、江川を「孤独」にして行った。

 

江川は、チーム内で「自分は浮いている」そう思っていたと言う。そして江川は続けて、ワシに言ったんよ。

 

「あの時、俺はチームの中の俺自身の存在を知りたかったんだ」

土砂降りのマウンドで、怪物が初めて吐いた弱音・・・

「俺は自信がない。みんな。次、何を投げたらいいと思う?」

ワシは思う。あの、土砂降りの中。怪物は本当は、こう言いたかったんだ。

「俺は、作新学院の江川だよな。俺はみんなの仲間で、いいんだよね?」って・・・。

 

江川の心の叫びは、ナインの心に届いた。江川の言葉を聞いたナインは、即座に口々にこう答えたそうよ。

「何を言ってる。大丈夫だ。お前のお陰で、甲子園に来られたんじゃないか」

「大丈夫だ。次は、お前の大好きなストレートを思い切っていけ」

 

この時、江川は初めてチームメイトの本心を聞けた思いがしたそうじゃ。ワシは思うんよ。江川は最初から、チームの中で浮いてはいなかった。江川とチームメイトの心は、ずっと繋がっていたんだと思うんよ。ただ、お互い、それを確認する術が無かったんだと思う。じゃけど、それは仕方がない事なんよ。だってその頃、ワシらはみんな、まだ18の高校生だったんじゃもん。土砂降りのマウンドで初めて、チームメイトの本心を聞いた江川は泣いたそうじゃ。

「野球をやってきて、本当によかった」と、心から思いながら・・・そして江川は、渾身のストレートを投げた。球は大きく高めに外れて・・・押し出し。怪物の夏は・・・終わった。

 

江川は泣いていた。怪物のピッチングを狂わせた雨は、怪物の涙は隠してはくれなかった。江川の最後を実況は、こう伝えたそうです。

「江川が泣いています。江川が・・・悔し涙を流して泣いています」

しかし江川はワシに、こう言ったんよ。

 

「あの涙は、悔し涙じゃない。うれし涙だった」って・・・怪物・江川の夏は、土砂降りの中で終わった。その最後の一球を江川が怪物ではなく、一人の高校球児として投げた事を・・・江川と作新ナインは知っていた。そして破れて尚、江川は、その瞬間、日本一幸せな高校球児だった。そんな勝負が・・・そんな一球があってもいいとワシは思うんよ。

 

現役引退後、江川は「思い出に残る一球」を聞かれると、あの押し出しの一球を挙げる。サヨナラ押し出しの渾身のストレートを・・・人生最高の思い出として・・・・ワシが、この話を聞いた時、ワシは江川を目標に必死で頑張ってきて良かったと思った。打倒・江川の猛練習。明けても暮れても、江川・江川じゃった。思えば江川は、ワシの青春そのものじゃった。だが、その甲斐はあった。さすがは、ワシのライバルじゃ・・・(もっとも、江川は、掛布がライバルと言うとったが・・)

ともかく、今も江川には感謝してます。

2013/11/17

全国焼き鳥対決part3(東松山、長門)

東松山

焼鳥屋で「やきとり」を頼むと、なぜかブタが出てくる町があることをご存じだろうか。埼玉の東松山市である。

 

東松山駅を中心に100軒ほどの焼鳥屋が点在しているが、出てくるのはことごとくブタ。

 


 

なぜ、そんなことがまかり通るのか?

 

東松山市観光協会は、その由来について言う。

「もともと『ブタ』を『やきとり』として出し始めたのは、戦後間もなくのこと。  近くに食肉センターがあり、毎日、豚のカシラ肉をはじめ、豚のナンコツ、タン、ハツ、レバーなどが直送され、新鮮なものが安価で安定的に入手できるので、活用できないかと考えだされたんです」

 

味付けは唐辛子入りのみそだれが基本だが、コリア出身の大松屋(やきとり屋)初代ご主人が、唐辛子入りのみそだれと焼いたかしら肉を合わせものが始まりなのだとか。それにしても、ブタを焼くなら「焼き豚」でいいじゃないか。あ、でも、それはもうあるな、別のが。じゃ、「串焼き豚」とか?

ピンとこないか。初めて来るお客さんから「ブタじゃん!」というクレームがくることはないのか?

「特にないと思います。東松山のやきとりはマスコミなどで認知され、店主がルーツなどを説明しているようですよ」

 

ちなみに、東松山市には、全国で唯一の焼鳥屋で構成された組合「東松山焼鳥店組合」が存在する。これは昭和37年に、当時営業していた7軒が集まり結成されたもので、現在は35軒が加盟。組合で新鮮な豚のカシラ肉を共同購入するため、値段も各店「やきとり(カシラ肉)1本100」と統一できるのだとか。

 

長門

「焼き鳥日本一のまち」の提唱を受け、市が改めて調査を行った結果、長門市内には焼き鳥を扱う店が37店舗あり、人口1万人あたりの店舗数が8.7軒であることが判明しました。

 

この数字は、全国の焼き鳥地域として情報発信している久留米市、東松山市、室蘭市などと同様の全国有数規模であり「焼き鳥日本一」を旗印に、焼き鳥を活用した地域おこしを計画することとしました。

 

長門の焼き鳥は、鶏の各部位、豚の三枚肉、魚介類、野菜などを使ういわゆる串焼きのことで基本は塩味。具材の間に挟むのは長ネギではなく玉ねぎ、それにちぎりキャベツを添えて出すオーソドックスな焼き鳥スタイルです。

 

他の地域と大きく違うのは、ガーリックパウダーの存在であり、市内焼き鳥屋にはガーリックパウダーと一味、七味の唐辛子が置かれ、好みに応じてかけて食べるのが長門のスタイルです。

 


ガーリックパウダーをひと振りすると、今まで食べていた焼き鳥の味が大きく変わり、アクセントのついたものに変わります。ご家庭でも簡単に実践できますのでお試し下さい。

 

さらに、地元産の新鮮な魚の刺身や干物を置いている店が多いのも特徴の一つです。また長門市では養鶏業も盛んで、全国的にも珍しい養鶏専門の協同組合「深川養鶏農業協同組合」があり、銘柄鶏の「長州どり」、「長州赤どり」が育てられています。新鮮な鶏肉が手に入り易いということも大きな要因に挙げられます。

2013/11/04

全国焼き鳥対決part2(室蘭、福島)

室蘭やきとり、北海道室蘭市の豚肉とタマネギを使用した串焼き料理である。豚肉を使用するものの関東地方でいう「やきとん」とは呼ばず、鶏肉やもつを使ったものとの総称で「やきとり」と呼ばれている。

 

室蘭やきとりは豚精肉とタマネギを竹串に刺し、焼き鳥のように焼いた室蘭市の肉料理で、郷土料理とされている。甘味の強いタレと洋がらし、練りからしで味付けするのが一般的であるが、塩焼きを指定することもできる店が多い。  豚肉の肩ロースが、よく使われている。他に豚トロやサガリなど、他の部位を合わせて提供する店もある。

ねぎま」と書かれている場合、豚肉とタマネギの組み合わせであることが多い。

またメニューには、レバーなどのもつも選択できるようにしてある店もある。

 

現在、室蘭市では鶏肉を使用した全国的に一般的な焼き鳥は「鶏精」、「鶏精肉」と称して、合わせて提供されることが多く、これらも含めて「やきとり」と呼ばれている。昭和初期、食糧増産のために室蘭では農家が豚を飼うようになった。 

 

1933年頃に、室蘭市の輪西では豚肉の串焼きの屋台が営業していた。屋台主の一人が、1937年に雀などの野鳥の串焼きを売り出す「鳥よし」という店を開店したが、当初から豚の精肉とモツを使用した串焼きを提供しており、これが「室蘭やきとり」の元祖であるとされている。

 

1939年、日中戦争で大量に必要となった軍靴を豚皮で作るため養豚が奨励され、豚皮と肉以外は地元で食べてもよいことになったことから、豚のもつ料理を出す店が増えた。戦後、大量生産に向くブロイラーが導入され、昭和30年代に鶏肉が広く普及するまでは、ほとんどがモツや豚肉の串焼きであり、今でも豚精肉が最も人気のメニューとなっている。

 

室蘭市内で、54軒の室蘭やきとり店が存在している。近隣の伊達市、登別市や札幌市など、室蘭市以外の地域にも「室蘭やきとり」の専門店がある。

 

福島・郡山(福島県)

福島では、平成13年より焼き鳥による町おこしを検討し「福島焼き鳥党」が設立されている。県内では「福島焼き鳥」と地鶏を使用した「いいとこ鶏」を広めている。


福島市で2007年に「第1回やきとリンピック」を開催し、世界焼き鳥党は「ルワンダ焼き鳥」を認定メニューとした。また、福島と言えば「会津地鶏」が有名である。