2005/04/27

シューマン ピアノ五重奏曲(第3楽章)



 躁鬱病で有名だったシューマンは、年々この病が嵩じて最後は44歳の若さでライン川に投身したが死にきれず、晩年の2年半は廃人となってしまう。

年度末考査の有終

高校生活最後の試験となる、年度末考査が終わった。

 

有終の美を飾ったのは、女帝マザーだ。この年の3度を始め、3年間の定期考査15回のうち実に7回でトップを記録。残りは2位が5度、3位が2度と、風邪で体調を崩した1度を除き総て3位以内という、ずば抜けた安定感が光る。

 

2位はライバルの御曹司で、通算6度のトップはマザーに次ぐ。3位にカトー、4位にコンドーと、最後を占めるに相応しく「四天王」の4人が堂々と名を連ねた。

2005/04/26

シューマン ピアノ五重奏曲(第2楽章)



※第2楽章は「葬送行進曲」とも言われる。

同じジャンルを集中的に作曲するのが、シューマンの作曲の特徴だが「室内楽の年」として知られる、1842年の9月から10月にかけての僅か数週間のうちに作曲された。妻のクララ・シューマンに献呈している。

ごく初期のピアノ四重奏曲を例外として、シューマンはそれまで室内楽作品を一曲も完成させていなかったが、突如としてこのジャンルに集中し、同年中に3曲の弦楽四重奏曲とピアノ四重奏曲を作曲している。

リストは、この曲をシューマンの家で聴いているが、全く気に入らなかったらしく

「あまりにライプツィヒ的すぎる」

と斬り捨てている。

この発言をきっかけに、シューマンはリストに対して距離を置くようになった。
出典Wikipedia

2005/04/25

シューマン ピアノ五重奏曲(第1楽章)



出典 http://www.yung.jp/index.php 

 シューマンの「室内楽の年」と呼ばれる1842年に作曲された。

クララと結婚したシューマンは、そのクララとともにバッハの平均律クラヴィーア集を入念に研究し、さらにはベートーヴェンの弦楽四重奏曲も徹底的に分析した。その研究の果実が3つの弦楽四重奏曲やピアノ五重奏、ピアノ四重奏の曲などに結実しているが、その中で最も優れた作品がこの曲である。

 弦楽四重奏にピアノを加えた五重奏という楽器編成は、どこにでもありそうな形態でありながら、意外にもモーツァルトもベートーヴェンもこの編成では一つも作品を残していない。おそらくは、古典派の時代において弦楽四重奏というのは「賢者の会話」と呼ばれたように、それだけで十分に完結しうる楽器編成であるが故に、そこにピアノを加えるという発想は生まれなかったのだろう。

 その証拠に、ピアノが加わった室内楽の楽器編成はピアノ三重奏や四重奏が一般的であり、同じ編成の曲として最も有名なシューベルトの「ます」とともに、歴史に名を残した作品と言える。

 オープニングで輝かしくも力に漲った主題が、全ての楽器で一斉に奏でられる時、明らかに古典派までの室内楽とは一線を画した世界が繰り広げられることを予感させる。

 弦楽四重奏という、それ自体で十分に完結している楽器編成にピアノを加えることによって音色はより分厚く華やかになり、その豊かな音量と多彩な音色を堪能することに、この作品の魅力がある。しかし、この作品はその様な外面的な効果だけに留まらない魅力に溢れている。全体を通し、ピアノが主導権を握って音楽を進めていくの中にあって、随所で他の楽器がシューマンらしい詩情に溢れたソロを聞かせたり、そこへさらに他の楽器が絡んでいくのが聴きどころである。