2009/09/28

化け物の復活

白鵬と朝青龍は、まさに静と動である。

 

仕切りの時から鬼のような表情で睨みを利かせ、必要以上の威嚇で相手を戦意喪失に追い込んでおくのを身上としている朝青龍に対し、水が流れるようなゆったりとした形式美の白鵬である。立会いから爆発するような、人間離れのした集中力と圧倒的な体幹の強靭さ、さらには動物的な勘と反射神経で、相手の力を徹底して封じ込めて自分のペースで一気に勝負を決してしまう朝青龍に対し、しなやかな体で真正面から相手の力を吸収して、吸い取ってしまうのが白鵬である。

 

朝青龍の土俵外の狼藉については、これまでにも何度も触れてきたから、ここでは繰り返さない。本来であれば、これまで数々の問題のあった時点で角界から追放すべきだった、という主張はこれまで繰り返してきたし、横綱昇進にも断固として反対してきた。が、それらの数々の批判を、圧倒的な力で捻じ伏せてきたのが朝青龍であり、その圧倒的な強さの前に断固たる措置を取る事が出来ず、ズルズルと誤魔化しを続けてきたのが相撲協会なのだから、今更この大バカモノ協会に対して期待するところはなにもない。

 

朝青龍は単にバカ強いだけでなく、土俵上で見せるここ一番の集中力、観客の目を惹き付ける力強い相撲、仕切りに見る満々と漲る闘志、そして動物並みの運動神経と反射神経・・・いずれもが現役力士ばかりでなく、相撲観戦歴数ン年のワタクシにして、過去のどの力士に比しても群を抜いている点は、認めざるを得ない(あえてタイプをあげれば、全盛期の千代の富士に最も近いか)

 

確かに朝青龍は、人間的には疑いなくトンデモなヤツであり「横綱としての権威・品格」からは依然としてほど遠いが、この人物にそれらを求めるのは「八百屋で魚」の類であろう。「人間・朝青龍」という事で言えば、これほど憎たらしく嫌なヤツはいないのは確かで、常に泰然自若として温厚篤実な白鵬とは、天地雲泥ほどの差があることは疑いがない。その反面、「横綱としての凄み」とか、全身から放たれるオーラのようなものは、他の力士と一線を画している特異な才であることも、これまた確かなのである。 またしても、優勝決定後に土俵上でのガッツポーズがあったが、過去の数々の行状から見れば、そのような事をするだろう人間性はわかりきっているし、それを承知の上で横綱にしたのであり、なおかつ土俵に上げているからには、今更こうした批判を繰り返すことは、殆ど意味をなさない。

 

繰り返すが、ここでは「人間性の問題」と「力士(またはアスリート)としての力量」とは、まったく別次元の話として論を進めている。(厳密にはスポーツではなく「国技」だが、広義で)格闘技スポーツ観戦オタクの目には、あの土俵上に見る「アスリート・朝青龍」の圧倒的な存在感と、目を離せない魅力に溢れている事もまた厳然たる事実であって、実力とは無関係な嫉妬の感情で眼鏡を曇らせないのは、格闘技オタクに必須の条件なのである。なんと言っても、力士の本分は

 

「土俵上で、どれだけの素晴らしいパフォーマンスを見せられるか?」

 

に尽きるし、結局のところ土俵上で求められるのは「強さ」と「結果」なのだ。あまり大きな声で言いたくはないが、現実として朝青龍以上の強さと魅力ある相撲で、観客を釘付けすることが出来る者は(白鵬を除けば)皆無というのが、ここ数年の実情ではないか。

 

厄介でも世の中とはこのように、総てが理屈で割り切れるものではないのである。  その意味で、横審の某バーさん委員が「強ければ良いというものではない」と言っていたのも所詮は負け犬の遠吠えに過ぎず、あくまで「強くなければダメ」なのだ(余談ながら、あの夜叉のようなバーさんの酷い言動は、朝青龍嫌いのワタクシですら聞くに堪えず、それこそ「横審委員に相応しい品格を著しく欠いている」と思うのだが・・・) それだからこそ早く引退を望む声が上がる一方で、いざ引退が現実になりかかるとどこか一抹の寂しさを拭いきれないような、あの好角家の複雑な反応はよくわかるのである。

 

それほどに憎らしいほどにバカ強かった朝青龍も、ここ数年は徐々に下降線を辿っていたはずだったのが、まるで時計の針を強引に45年くらい前まで戻してしまったようなバカ強さが今場所では復活し、誰が挑んでもまったく勝負にならないくらい、大関以下とはまだまだ天文学的な力の差があった。

 

平幕相手に一度だけ不覚を取った白鵬と、星ひとつの差で千秋楽を迎える。本割りでは、白鵬が鬼気迫るような出足で一方的に投げ飛ばして圧勝し、優勝決定戦に縺れ込んで盛り上がりは最高潮に達した。両者の力関係からすれば、どちらかが2連勝するのは至難の業だと見るのが順当だろうが、このところやや下降気味の朝青龍であり、また本割りでの圧倒的勝利を観た後だけに「白鵬の逆転優勝があるかも?」と、これまで以上に期待を持った(無論、ワタクシの応援するのは白鵬である)

 

が、結果は「朝青龍復活Vという最悪の結末」となってしまった。それにしても、仕切りでのピーンと緊張感が張り詰めたような睨み合いから、力とプライドが激しくぶつかり合う素晴らしい勝負を堪能させてもらった。

2009/09/19

空気の支配(「外国人への参政権」の怪しさ)

ここに至っては、麻生や自民には最早悪いイメージばかりが先行して、何を言っても誰も聴く耳すら持たぬ、集団ヒステリー状態と来ている。あのマスゴミによる情報操作が、なぜ放送法違反にならないのか?

 

放送法第1章の2放送番組の編集等に関する通則 (国内放送の放送番組の編集等)第3条の2

 

放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 

1.公安及び善良な風俗を害しないこと。

2.政治的に公平であること。

3.報道は事実をまげないですること。

4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 

繰り返すが「民主300、自民100」の結果は、大衆がマスゴミに踊らされた果てのものである。振り返れば、コイズミ元首相の「郵政民営化選挙」のイメージ戦略に踊らされたのは愚かなマスゴミであり、さらにそのマスゴミの煽りと気分に踊らされ、自民に300もの議席を与るという大盤振る舞いを演じたのが、前回の選挙(2005年)であった。

 

その結果が「この4年間のテイタラク」と、誰もが異口同音に罵詈雑言を浴びせている「構造改革」にまつわる酷い惨状なのであり、だからこそ今度は一転して「自民だけは許せない」と2/3もの票が減り、その分がごっそりと民主に回ったのである。

 

つまり、この4年間におよそ2/3もの人々が自らの選択が間違いであったと感じ、船を乗り換えたのだ・・・と言えば、いかにも理屈にあった行動に見えるかもしれないが、実はそうではない。なぜなら、この政治の混乱を齎した原因はマスゴミに踊らされて無責任な選択をしたのがそもそもの原因であったのに、その反省や検証がなされていないままに、またしてもマスゴミの醸した「空気」に便乗するという愚行を、何の疑問もないまま繰り返してしまったのだから。

 

しかも、この愚行は単に4年前の繰り返しというには止まらない。その証拠に、かつてデマゴーグなドイオバサンが登場した「消費税選挙」の時にも、マスゴミの煽りによって「台所感覚のマドンナ議員」とやらの美称の元に「ド素人のオバサン議員」が粗製濫造された。そしてまた、前回の「コイズミチルドレン」のバカ騒ぎに踊らされた反省もないままに「オザワガールズ」なるバカモノどもを、国政の場へと大量に送り出す結果を招いたのだ。あの「マドンナ旋風」のオフザケがきっかけとなって、その後のムラヤマ売国謝罪政権へと繋がる暗黒政治を招き日本の地位を著しく貶め、歴史に泥を塗ったあの悪夢をまたしても繰り返そうとしているのである。

 

かつて、ドイツの宰相ビスマルクに「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉があったが、過去の負の遺産すらまったく活かされていない有権者の多くは、もはや衆愚以下の存在と成り果てた。

 

山本七平に「空気の研究」という本があるが、今回見られたような単なるその時の気分や、マスゴミに洗脳されて誰しもが「清き(民主への)一票」を唱えたあの異様な光景を「集団ヒステリー」と言わずして、何と言えようか。実に恐るべき悪夢である。

 

悪夢の元凶は、ハトヤマとオザワの仕切る民主党の怪しさだ。以下、各論に移る。

 

「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」という妄言

これは、世界の常識からすれば「日本に侵略して来てください」と言っているのと同義である。それでなくとも日本の周辺には、ロシアやチャイナ、或いはコリアといった、他国の領土も自国のものだと平気で主張するようなハイエナどもが、虎視眈々と目を光らせているのが現状であるというのに、救い難い国際感覚としか言いようがない。実際に冷戦時代のソ連なら、この妄言を手掛かりとして侵略して来た可能性が大である。

 

さらに言うなら、現実に数千万~億単位の貧しい民が引っ越してくるかもしれないという恐怖も決して冗談ではなく、我が日本列島がそのような外国人で乗っ取られないという保証は、どこにもないのである。それも日本が好きで、日本人に好意を持った難民ではない。いや実際には、個々人は自由な日本に憧れを持っていたとしても、現実としては「反日政府のヒモ付き」だという事実を考えたら、実にトンデモな妄言だ。

 

在日外国人への参政権付与の推進に躍起

在日外国人」といえば聞こえはいいが、有体に言えば限りなく100%に近い確率で在日K国人を想定していることは疑いがない。これは怪しい「犯罪者予備軍」の力を借りて、クーデターを目論んでいると見られても仕方がないし、現に民主党の憲法草案には  「EUの上っ面だけを真似た)東アジア共同体を形成し、日本の主権を委譲する」  などと明記されているのである。

 

要するに「C国(という突出した国土面積と人口、軍事力を持つ中華思想の国)に、日本の主権を差し上げます」と言っているのと同じで、最早「朝貢」どころではない。

 

決して在日外国人がどうこうと言っているのではなく、自国の主権を他国に委譲し国としての重要な国策の決定を外国人に委ねるなどという奇態な発想は、古今東西かつ前代未聞の狂気の振る舞いだと言っているのである。

 

ところが、我が国民はこのような内閣に80%近い支持を与えているのだから、なんともかんとも信じ難いではないか!

2009/09/15

イチローが9年連続200安打の快挙

イチローが「9年連続200安打」という快挙を達成した。

 

9年連続200安打」は、1894年から1901年にかけてウィリー・キーラーという選手が達成した「8年連続」の記録を、実に108年ぶりに塗り替えるという大記録であり、MLBの記録である通算4256安打のピート・ローズや鉄人ゲーリックを始め、100年を超える長いMLBの歴史で、世界中のどんな天才も成しえなかった「大金字塔」である。

 

あの天才的な打撃技術もさることながら、イチローの最も素晴らしいところは、なんと言っても休まずにゲームに出続けている事だ。今季こそ、開幕後の胃潰瘍の8試合を含め計16試合に欠場したが、これがニュースになるくらいに、これまでイチローが休んだという話だけは、滅多に聞いたことがなかった。

 

イチロー後に鳴り物入りでMLBに移籍した松井や松坂などに限らず、日本選手はどれもこれもが怪我で離脱ばかりしているが、イチローに限っては長期離脱はおろか、欠場という話さえ滅多に訊いたことがない。それもそのはずで、長期離脱などしていたら毎年200本を超える安打数を残すことも、通算3000本超えという大記録も生まれようがないのであるから、いかに優秀な能力を備えていようと、「無事これ名馬」でゲームに出ないことには意味がないのである。今季は特に「WBC後遺症」と言われるほどに、WBC参戦組の長期離脱や不振が目に付いたが、それらの選手の「WBCによる、調整の難しさ」などというタワゴトは、イチローの巨大な存在が許さないのである。

 

その天才も、シーズン前のWBCでは思わぬ不振に喘いだ。WBCの行われる春先は、ベテラン勢はまだ体が出来あがっていないため、総じて外国人投手のスピードに体がついて行けない傾向が見えたが、これはイチローとて例外ではなかった。加えて日本代表のリーダー格としても、想像以上のプレッシャーを感じていたようだった。その結果が胃潰瘍となって表れ、初めて経験するDL(故障者リスト)入りからのスタートとなり

 

「イチローも、そろそろ歳かな・・・」

 

と密かに危惧したものだが、復帰すると同時に通算3085安打の日本記録をあっさりと更新した。さらには先日のMLB通算2000本安打の達成も、これまたアル・シモンズの1390試合に次ぐ、史上2番目の速さ(1402試合目)というとてつもない記録であった。

 

さらには、71試合目で早々に両リーグ100安打一番乗りを果たすと、遂には自身の出場128試合目での200安打達成である。2004年には、ジョージ・シスラーの記録を85年ぶりに更新する、MLB史上最多の「シーズン262安打」を記録したイチローだが、その記録にも迫ろうかというハイペースなのだから、36歳という年齢にして衰えを知らぬところは驚異的ですらある(打率も、ずっと35分を超えている)

 

そもそもMLBの日程の過酷さは、とても日本の比ではない。日本では、基本的に最低週に1日は休養日が設けられ、北海道や九州に移動する場合は2日間試合がない場合もあるが、MLBではデーゲーム終了後にすぐに移動し、翌日も試合というケースも珍しくはない。月間28試合くらいは当たり前で、8月などは2日しか休みがなく29試合という殺人的なスケジュールだ。

 

日本とは違い、移動もチャーター機を使うので待ち時間自体は短いとはいえ、広い国だから東西で数時間の時差があり、南北では気温が20度以上違ったりするのである。 また連戦は日本の場合、長くても9試合くらいが最高だがMLBでは10連戦以上は珍しくないし、日本の場合は雨で30分くらい中断すれば試合が中止になるが、MLBは数時間単位で開始を遅らせたり中断したりで、中止になれば翌日はダブルヘッダーで穴埋め、といった過酷さである。

 

延長にしても日本は12回で打ち切りだが、MLBは原則として無制限である。さらに細かい話をすれば、日本ではデッドボールや怪我の際には試合を中断してコールドスプレーをかけたり、ダッグアウトで治療してからプレーに戻ったりするのが当たり前の光景だが、MLBではすぐにプレーに戻るかダメなら交代するのが原則だ。

 

このような過酷なMLBにおいて、毎年ほとんど休まずにゲームに出続けるだけでも驚異的なことだが、その中で常にハイレベルな結果を残し続けているのだから、これはもう神懸りとしか言いようがない。恐らく、イチローという選手は野球が好きで好きで溜まらなく、野球をするのが楽しくて仕方がないのだろう。ちょっとした怪我で休んでばかりいる近頃の選手とは、野球に取り組む姿勢や愛着がまったく比較にならないと思うし、単なる記録と言うにとどまらず心技体どこから見ても傑出した、巨大な存在といえる。

2009/09/13

栃木(1)

出典http://www.pref.tochigi.lg.jp/index.html

 

  「栃木」の地名の語源は、はっきり分かっていないが、次のような説があります。

 

十千木(とおちぎ)説・・・栃木町(現在の栃木市)内に神明宮という神社があり、社殿の屋根にある2組の千木(ちぎ)と8本の鰹木(かつおぎ)が、遠くから見ると10本に見えたことから、神社の辺りを「十千木(とおちぎ)」と呼ぶようになったという説。

 

トチノキ説・・・県内を流れているうずま川には昔、河原や湿地があり栃の木が多く茂っていた。住民はこの栃の実を食料とし、採取にでかける時に「とちのき」に行くといっていた。これが自然に地名になったといわれている。

遠津木(とおつき)説・・・「古事記」に登場する崇仁天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)が、命を受け今の栃木県を治めていたが、見知らぬ土地でホームシックにかかり、故郷の紀国(きのくに)の風景を大平山の山にだぶらせ『遠津紀国(遠く離れた故郷の紀国のようだ)』と呟いた言葉が「とほつきのくに」→「とほつ木」→「とつ木」→「とち木」と変化していった。木(毛)の国(現在の栃木県)と木(紀)の国(現在の和歌山県)を区別するため「遠く離れた木の国」という意味で「遠津木(とおつき)」と命名したものが「トチギ」に転訛したという説。

 

崩壊地形説・・・栃木町(現在の栃木市)内を流れる巴波川は、かつてたびたび氾濫を起こしたことから、千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギ(る)」に接頭語の「ト」が付いたという説。

 

県名に「栃」の字が使われるようになった経緯

今後、常用漢字に追加される予定の「」の字は、中国でできた漢字ではなく、日本でできた国字です。ちなみに、中国の漢字では「」と書きます。本県の県名に、なぜ「栃」の字が使われるようになったかについては、色々と分からない点も多いのですが、次のような経緯があります。


近世・・・地名では殆どが「」の字を使用していましたが、まれに「」や「」の字の使用もありました。なお「」の字も日本でできた国字ですが、読み方「とち」の「と」が数字の十、「ち」が数字の千で、10×1000が「万」になることから「万」の字に「木へん」を組み合わせたものとの説があります。


明治4年(1871)・・・7月 廃藩置県により下野国に多くの県が成立しました。11月、県の統合により「栃木県」と「宇都宮県」が成立しましたが「」を使った明確な理由ははっきりしません。またその後も、実際の使用例では「栃」、「杤」、「橡」など不統一でした。


明治5年(1872)・・・10月、表記が一定しないのは体裁が悪いことから、県名文字「」の統一を図るため、県庁構内に張り出し広報しました。

明治6年(1873)・・・6月、「栃木県」と「宇都宮県」が統一され、ほぼ現在の形の栃木県が成立しましたが、漢字の表記については、その後も「」の字が多く使用され不統一な時期が続きました。

明治12年(1879)・・・4月、県名文字を統一するため「」の使用を県が正式決定し、その後数年を経て実際の使用表記も「」に統一されていきました。 

 

『栃』という文字についての由来は、神社の屋根にある『千木』が十本集まり、すなわち『』となることから出来た、言わばこじつけの会意文字である。表記も、当初は『杤』という字を使用していたという。

 

そしてもう一つ『橡』という字も、トチと読ませることがある。普通のワープロでも、ちゃんと変換できる漢字である。江戸時代はトチというと、もっぱらこの字が使用されたらしい。

 

芭蕉の俳句にも『木曽の橡 浮世の人の土産かな』とあり、また一茶も『橡の実や 幾日ころげて 麓まで』と詠んでいる。

 

しかしながら、橡の正確な読み方は『つるばみ』であり、これは現在のクヌギの古名だと云う。いつの時点で『橡』が『栃』になったのだろうか。種明かしをすれば、江戸時代の橡は中国で作られた漢字なのである。中国では「ショウ」と発音し、ドングリのような木の実を意味していた。

 

では、なぜ木篇に象で木の実なのか?

これから先は推論になるが、木の実が落ちていても森の中では果して、どの樹木から落ちた実なのか分からない。それゆえ得体の知れない象のように、頭の中で想像したので『橡』になったのではないか。

 

『栃』は、日本で造られた国字だ。それも明治12年に本県で「この文字!」と統一したのが、全国に広まったふるさと文字なのである。20091月、『栃』はようやく「常用漢字」の仲間入りを果たした。

 

2009/09/04

空気の支配(悪夢の始まり)

衆議院選挙で、民主党が圧勝した。正確には「民主の圧勝」ではなく「自民の惨敗」である。

 

300以上の議席を持っていた自民が実に2/3を失い、逆に100程度だった民主が3倍近く増やして300以上の議席を獲得するという、なんともメチャクチャな結果である。というよりも、実にトンデモナイ事になった。自民が、かなりの議席を減らすのは自業自得とは言え、さりとて民主がこれだけの大躍進をする根拠は何ひとつないのだから、これは単に「政権交代のためだけのバカゲタ茶番」であった、という以外には言いようがない。

 

現に民主の主張は、実現見通しのない空虚なお題目ばかりで、あたかもアメリカのオバマを見るが如しであり、おまけにオバマよりも酷いと来ているのだから、実に救いがたい。

 

最近の有権者の気分として、自民のスキャンダルや長い不況から来る鬱屈といった、積年の閉塞感に対する単なる「憂さ晴らし」的な空気の支配があり

 

「とにかく自民でなければなんでもいいが、いくらなんでも共産や社民というわけにも行かないから、残る選択肢はひとつしかなくなった・・・消去法で、ともあれこれに託するよりはしょうがないじゃないか」

 

というのが真相であったろうが、民主党というのはかなり胡散臭い集団であることは間違いなく、このような気分任せのいい加減な判断による投票結果は「集団ヒステリー」としか言いようがないのである。

 

「とにかく自民だけは許せない」とか「現状を変えたい」というのは、極めて短絡的な発想と言うべきだ。何度も繰り返すが「改革」をすれば必ず良くなるという保証などはどこにもないし、場合によっては「改悪」になることもあるのだというのが大前提である。そして、今度の選択が「改悪」の道を辿らないという保証はどこにもない・・・というよりは以下の理由により、大なる可能性でさらなる混迷以上の「崩壊の道」へとまっしぐらにを突き進むことになるのではないか、と思えて仕方がない。

 

民主党候補者の連中は「政権交代可能な二大政党制」と、なんとかの一つ覚えのように言って来た。しかしながら、かつてのような「自由主義と社会主義」というような図式であれば(社会主義の是非は、この際別問題として)違いがハッキリしているが、今のような「自由民主主義」と「民主主義」(という触れ込み)という殆ど違いがないような状態は、そもそも「二大政党」の体を成しているといえるのか?

 

それも道理で、そもそも「民主党」なるもののルーツは、元々が自民党から分裂した「一派閥」に類したものに過ぎず、もっと有体に言えば自民党内では主流派から落ちこぼれたダメ連中が、自らの身過ぎ世過ぎのために自民を飛び出し「改革」を叫んでいたに過ぎないのであって、それ以外の顔触れはといえば隣国コリアやチャイナの利益代表のような社民に加え、ド素人の泡沫どもが呉越同舟しているという奇々怪々さだから、そもそもこのような烏合の衆に期待するのはオツムがどうかしている、としか言いようがないのである。

 

こう言えば、恐らくは民主支持層の多くからは

 

「そんなことは先刻承知で、別段民主に期待しているわけではないのだ。腐敗堕落の自民に代わる新しい政党に、政権交代させることが目的なのである」

 

といった声が聞こえて来るだろう。

 

改めて確認するまでもないが、政治というものは過去を未来へと橋渡ししていくものであって、長い歴史の時間軸から見ればごく矮小な今日明日の景気動向がどうだといった、暮らし向きに関わるような小さなテーマなどでは、決してない。また選挙とは、(国益を含めた)「国家としてのあり方」を託すに足るだけの見識・力量を備えた人材なり政党なりを選ぶための、厳かな儀式でなければならないのである。

 

あるいはもっと下世話に言えば、国会議員1人当たりにざっと1億もの血税が使われることになるのだから、小学校の学級委員を決めるような人気投票やオフザケの場では断じてない、という表現も出来る。

 

いずれにしても「一度、やらせてみればいいじゃないか」とか「お手並み拝見」などという安易な考えでは、国家などはあっと言う間に滅びてしまうことだってないとは言えないのである。

 

本来、選挙で当選するということは「政策を実現するための手段」に過ぎないはずなのだが、今や選挙で「当選することそのものが目的」に摩り替わっており、また選挙民の方も「自民党候補者」はダメで「民主党候補者なら」殆ど無条件でなんでもよしといった調子であったのは、いかにもオフザケの度が過ぎるというものだ。

 

さらに言えば「政権交代」という、本来は「政権政党として政策を実現するための手段」でしかないはずのものが、ロクな政策もないままに「政権交代それのみを目的」としているのだから、政権交代が現実性を帯びてみたらまともな政策がなく右往左往するという、実に本末転倒なテイタラクなのである。

 

そもそもこうなった諸悪の根源は、例によってマスゴミである。選挙前から「民主300議席で政権交代は確実」などと、目を覆いたくなるほどの偏向報道で情報操作をしていたから、民主支持層以外は「こりゃ、選挙に行っても無駄だな」と白けてしまっても無理からぬところだったし、選挙の当日は各社横並びであのお祭り騒ぎのようなはしゃぎっぷりは何事か (▼д▼)y─┛~~゚゚゚