2003/08/31

東大寺の文化財(古都へpart6)


南大門(国宝)

 東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。毎年11日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる。参拝は、午前7時半から受け付けている。

 平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が、宋から伝えた建築様式といわれる「大仏様」、「天竺様」を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。

 門内左右には、金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。

木造金剛力士立像(国宝)
 高さ8.4メートルの巨大な木像で、門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置するこれは一般的な仁王像の安置方法とは、左右逆である。


1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。これは「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従来の通説とは若干異なっているが、いずれにしても運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ないであろう。

中門(重文)
 金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)頃の再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。

如意輪観音坐像・虚空蔵菩薩坐像(重文)
 大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより30数年をかけて制作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)頃の完成、虚空蔵菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。

俊乗堂
 鎌倉時代に大仏と大仏殿を再興した中興の祖、俊乗坊重源を祀る堂。現在の堂は宝永元年(1704年)の再建。本尊の俊乗上人坐像(国宝)は、上人が86歳で没した直後の制作と思われ、鎌倉時代肖像彫刻の傑作である。

行基堂
 奈良時代の著名な僧で、東大寺の創建にも貢献した行基の肖像を安置する。

念仏堂(重文)
 鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地蔵菩薩坐像(重文)を安置する。

鐘楼(国宝)
 鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は、大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。200212月、NHKの下請け業者に釘を打ち込まれる事件に遭った。

法華堂(三月堂)(国宝)
 境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、天平仏の宝庫として知られる。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により天平15年(743年)までには完成していたと思われる。建物の北側約3分の2(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている部分が天平時代の建築で、南側の礼堂(らいどう)部分は鎌倉時代の正治元年(1199年)頃に老朽化した天平建築を取り壊し再建したものである。堂内には多数の仏像を安置し、うち本尊の不空羂索観音立像をはじめ9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、執金剛神像を含む5体の塑像(粘土製の像)が奈良時代のものである。

細かい制作年代や当初の安置状況については諸説あるが、9体の乾漆像と執金剛神像が当初からの安置仏で、残りの塑像4体は客仏(後世に他の堂から移された像)とするのが通説である。

ドルフィンにゃべっち?(プールに挑戦シリーズpart4) (*`▽´*) ウヒョヒョヒョ


 2学期、プール再開。  

いよいよリベンジの時がやってきた。

早速、担任に呼び出され

「夏休み、プールの補習に1度も出て来んかったらしいなー。

どういうつもりか知らんが、後でコッテリ絞ってやるから楽しみにしとけよ」

と睨まれたが

(うぜージジーだ。
まあ、今に吠え面かくなよ・・・)

と、内心でせせら笑う。

さて、いよいよ授業開始だ。

「にゃべ、逃げるなよ!」

と言うイヤミ教師に

「逃げるって、どこへ? ( ´Д`)はぁ?

と、まったく相手にしていなかった。

夏休み補習組の成果を受け、再びタイム計測が始まる。

笛の合図で、落ち着いて水に入るにゃべっち。

短期間でそれほど上達したわけではないとはいえ、なによりプールに対する恐怖感が薄れたのが最大の収穫だ。

好奇に光る沢山の眼が固唾を飲んで見守る中、堂々水面に浮き上がり不細工ながらもどうにか、クロールで進み始めた予想外の勇姿(?)に、周囲から大きなどよめきが起こった ノ゜ο゜)ノ オオオオォォォォォォ-

「あれーっ?

にゃべちゃん、いつの間に泳げるようになったんだよ?」


「夏休みに、スイミングスクールにでも通ったのか?」

など、口々に声を掛けられ

「なーに、元々泳げたんだけどな。

あの時は、たまたま体調が最悪だったのに、ムリヤリ入らされたからな・・・」

とかなんとか、誤魔化すにゃべっちだった ( *^艸^)ムププ

まだまだクラスではビリの現実は忘れ、すっかりゴキゲンになった神童にゃべっちの舌の回転は、最早止まるところを知らぬ。

「そもそも学校の授業で、平泳ぎや背泳ぎなどが必要なのでしょーか?
そのような疑問すら持たず、たかが泳ぎの巧拙程度の些事を、さも一大事のように大騒ぎをする愚か者どもよ!

『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや(嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉)』(燕や雀のごとき小鳥に、どうして鴻(ヒシクイ)や鵠(白鳥)といった鳳の志がわかろうか)という言葉をご存知か?

大地に根を下ろして生活する我々人間にとって、必要なのはもしもの時の安全対策だけであって、何が悲しくて魚類のマネなどする必要がありましょう?

犬掻きだろうと猫掻きだろーと、形は不細工でも目的はともかく前に進めばいいだけだろ。

一流スポーツマンのような、特殊な才能を持ったアスリートの能力を競う競技としての価値こそ大いに認めはするが、平々凡々な一般人のそれも小学生風情にエビフライなんぞが出来たからといって、日常生活において一体全体どれほどの役に立つことやら・・・Ψ(ーωー)Ψ

「おいおい・・・エビフライじゃなくてバタフライだろーが!

ちょっとばかり泳げるようになったからって、随分とご大層な演説じゃないか。

オマエのは、まだまだ泳いだというレベルじゃねーってのに」

と早速担任からはクギを刺される、お調子者にゃべっちであった ( ´∀`)タハ

モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジーク(第4楽章)




 ドイツ語でEineは女性形の不定冠詞、kleineは「小さな」の意の形容詞kleinの女性形、Nachtmusikは、Nacht(夜)+Musik(音楽)の合成名詞で「小さな夜の曲」という意味である。

 日本語では「小夜曲」と訳される。

 この題名は、モーツァルト自身が自作の目録に書き付けたものである。
※Wikipedia引用

前回も触れたように、1楽章分消失したために全体で4楽章の構成であるが、この曲が最終楽章である事に変わりはない。

この最後の第4楽章は、いかにもモーツァルトにしか書けないような華やかさに満ちた曲調と言える。

間人(2)



●『丹後町史』間人の地名
 「間人」と書いて「タイザ」と読む。

 昔からの文献を拾ってみると、和名抄(十世紀初頭)は間人→マウト説、大日本地名辞典では「間人っ」は愛人(ハシキヒト)の意、また上代の土師部(ハジベ)の人のこと、土師人(ハシヒト)の意かともいい、一色軍記(十五世紀)には「対座」(タイザ)と出ている。

 丹後旧事記は間人皇后説、海東諸国記(十五世紀)には「田伊佐津」とでている。

 現在、定説となっているのは、泉氏所蔵「間人村濫觴記録」である。

 原文にそってわかりやすく書くと、次のようである。

 人皇三十一代用明天皇に厩戸の皇子御誕生、後の聖徳太子である。

 御母は間人皇后と申し、徳高く貞操の女御であられた。

 時あたかも物部守屋の大臣叛逆にあられ、世の乱れをお避けになり、しばらく谿羽の国竹野郡子の日崎に程遠からぬ「内外の浜」なる「大浜の里」にお出でになられた云々。

※旧記にいうには、内外の浜は今の後の浜であり、子の日崎は今の犬ケ岬を指す。

 なお大浜の里は今の間人村を指し、海岸の大きい所から呼んだ別各であろう。

 大昔は間人村を「大浜の里」とも言い、東に中浜村西に小浜村があるので、内外の浜なる大浜の里といったことも頷けるところである。

 それにしても、その頃は家数も僅かな小さな村、東西一里その中間に船の出入できる港があって、それが今の大間港である。

 常に漁猟を中心に、生活を立てていた。


 この時、間人皇后に仕えて来た人々、東漢直駒・木目見宿禰・蒲田麿興世朝臣・下戸部大連・小坂部民谷・穂見中江麿・中臣村主・そのほか末々の人々お供として大浜の里に難を避けられ、村の中の小高い山に御座所を設けて、ここに世の乱れをお避けになった。

 しばらくして守屋の大臣が亡ぼされて、世の中が収まったので、大和の国班鳩の宮へお帰りになった。

 この大浜の里を去るにあたり、御歌一首を賜わった。

大浜のあら塩風に馴れし身の またも日嗣のひかり見るかな

 また「今日よりこの里を間人(はしふど)村と名付くべし。」と仰せられ、さらに御歌二首を賜わった。

大浜の里にむかしをとどめてし 間人村と世々につたへん
大浜につとふみやこのことの葉は 行末栄ふ 人の間人

 御歌三首、御染筆を賜わり持ら伝えられていたが、皇后の御名を口にすることを畏れ多いとして、文字はそのまま皇后の御名を用い、この大浜の里を御退座されたのにちなんで、間人村(退座)と宛名したのである。

 これが、いわゆる間人村の起源である。

 その時、供奉の人々子孫をこの里に留め、東の姓は鼻祖東漢直駒の子孫で東を取り、その血脈二派三派に分かれ、連綿として続いている。

 また木目見宿禰の子孫が相見、木目を合せて相見の姓とした。

 蒲田麿興世の子孫蒲田をとりて氏とし、小坂那民谷の子孫に派に分れれて今の小谷氏と谷氏となり、下戸部大連の子孫今の下戸氏である。

 穂見中江麿の子孫が中江、中臣村主忠世の子孫臣を省いて中村氏となっている云々。

 維時弘化丙午孟夏(一八四六年)、前田俊菴菅原為善謹誌とある。

 ※物部守屋の反乱は五八七年である。

 源蔵氏研究の『間人名称の考証』によると、タィザ(間人)と言う名称の起因は、アイヌ原語で「タイ(森林)」、「ヒット()で、その後、年数の経過するに従い「タイヒト」が「タイジャ」となり「タイザ」と称するに至れりとある。

 元来、アイヌ語には濁音はないが、後世天孫民族と言われる日本人の移遷同化によって、多年の歳月の間に語音の変化をきたしたのは首肯せねばならないとして、間人町東部、朝日夕日の望める白い砂浜を後浜(ノチ)と呼ぶ。

 これはアイヌ語の「ノト(鼻又は突出地)を、何時の時代からか「ノチ」と訛り称するようになったと説明する。

 アイヌ語の「マア」(湾又は間)現在ナア浜、大間、小間がそれであり、小泊の地名がその一例だという。

 現に間人の中に、アイヌ語ではないかとされている岩の名や地名が、古老の間に固有名詞として数多く残されている。

 「ソフタ」、「タンジュウ」、「マンノオ」、「シウセ」、「ヤント」、「シイロ」、「パッタリ」、「メグリダニ」、「ツバキ」、「ヤゴダンバ」、「ナアハマ」、「ケンギョウ」、「コヨクビ」等である。

 氏は間人の先住人等が現代まで数千年の間、土地の名称音語を変えないで、そのまま呼び伝えていたことを感謝しておられる。

 結論づけると「タイヒット=間人=森林の人」にまとめられる説となる。

 このことは、さらに研究を必要とする点であるが、しかしいつの時代から「タイザ」を「間人」と記すに至ったかは、なお疑問であった。

 ところが最近になって府立丹後資料館から、この問題に考証を与える貴重な資料が提供されたのである。

 それは発掘調査中であった奈良平城宮跡東南隅、大路雨落の溝から昭和四十年発見された物件である。

 当時、全国各地より奈良の都に貢進物を送った梱包の荷札、すなわち木簡が発見されたことである。

「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」

 と墨書され、しかも年代は七六九年であることも明瞭である。

 このことにより、物部守屋の乱を逃れて穴穂部間人皇后が自分の御領地である間人に難をさけられたのが五八七年であるから、それより百八十二年後になるので、泉氏の濫膓記録は少しも矛盾しないのである。

 蘇我物部の反乱も、木簡の年代も史実であり、又太古畿内と丹後の深い関係から考え、これを否定する根拠は無くなったと言える。

 今から千二百余年前の木簡に、墨色鮮かに「間人」と二文字が記されていたのである。

 ゆかり深い「間人」の地名は、古くから存在したことは確かである。