2019/02/24

ローマの発展

出典 http://timeway.vivian.jp/index.html

  イタリアの首都、ローマですが、ここはもともとは小さな都市国家でした。ギリシアのポリスと似たような構造で、アテネに比べて200年くらい遅れて発展してきました。

アレクサンドロス大王がペルシアを滅ぼしたあと、なぜそのままインド方面に向かったのか、西に、つまりイタリア半島の方向へ遠征を考えなかったのはなぜか。つまり現在のイタリア方面には、遠征するだけの魅力はなかった。後進地帯だったわけです。

このローマが、やがて大発展してアレクサンドロスの後継国家、つまりヘレニズム国家をすべて支配する大帝国になるのです。その経過を見ておきましょう。

ローマは前8世紀頃、ラテン人によって建国されました。ラテン人は、インド=ヨーロッパ語族です。今でもイタリア人やスペイン人をラテン系民族というのは、ローマ帝国の支配下に入ってラテン人の血を引き継いでいる、という意識から来るようです。

都市国家ローマには最初は王がいましたが、前6世紀には王を追放して共和政が始まりました。王がいる政治制度が王政、王がいないのは共和政です。こういう用語は覚えておこう。アメリカ合衆国は王がいませんから共和政、イギリスは女王がいますね、だから王政。韓国は、共和政。じゃ、日本は? 王はいないけど天皇がいる。どっちだといわれれば王政に分類されます。

ローマでは前6世紀に共和政が始まって以来、元老院と呼ばれる貴族の議会が政治を主導してきました。外国の使節がローマの元老院を見て、王が何百人も集まっているようだと言ったくらいに、彼らは誇り高かった。また共和政という政治制度に自信を持っていたようです。元老院という訳語は、伝統がある古い訳ですがわかりにくい。同じモノが現代政治だと上院とか貴族院と訳されます。

政府の役職で一番トップに立つのがコンスル執政官と訳されます。これも現代的に訳せば大統領です。任期一年で、2名おかれます。2名にしているのは、独裁政治にならないように互いに牽制させるためです。ともかく、ローマでは王や王もどきが出現するのを極端に警戒しました。

しかし、執政官二人の意見が異なると、国家存亡の非常事態に対応が遅れて困ることになります。この点を解決するためにおかれる臨時職に、ディクタトールがある。これは独裁官と訳す。半年任期で1名です。決して半年以上は任に着かない。独裁者にならないようにです。

執政官も独裁官も元老院議員も、みんな貴族から選ばれます。これに対して平民たちが不満を持つようになるのは、ギリシアと同じです。ローマでも、平民が武器自弁で重装歩兵として戦場にでる。これは貴重な戦力なんですね。ところが、戦場での活躍だけが期待されて政治的権利がない。ということで、平民が貴族に対して抗議活動をおこないます。

前494年の聖山事件というのがこれです。平民たちが聖山という山に立て籠もって、ストライキを起こした事件です。ローマの貴族たちは護民官設置を認めることで、平民に歩み寄りました。

護民官は2名。執政官の政策に対し、それが平民の不利益になると判断すれば、拒否権を発動することが出来る。護民官がノーといえば、執政官は何もできないというわけだ。それから、護民官は身体不可侵です。誰も護民官を肉体的に傷つけることは許されない、独特の宗教的ともいえる権威を持つようです。

その後も、徐々に平民の権利は拡大します。前451年、十二表法制定。12枚の銅板に法律を刻んで、誰もが見られるようにした。貴族独占だった法律情報の公開ですね。元老院はアテネに使節を派遣して、ドラコンの法なんかを参考にしたといいます。

前367年、リキニウス=セクスティウス法。執政官のうち、一名を平民から選出する法律です。

前287年、ホルテンシウス法。平民の議会である平民会というのがあるんですが、この平民会の決定を国法とする法律です。元老院と対等に立法出来るようになったわけです。

この段階で、ローマにおける身分闘争は終結し、政治は安定し外に向けて発展していきます。

ここで一つ注意。執政官も、貴族・平民から一名ずつ選ぶようになり、立法権も平等にあるから、二つの身分は対等のように見えます。でも、違うんです。例えばアテネでは貴族、平民も一緒になった民会が国政の最高機関になりましたが、ローマでは貴族は元老院、平民は平民会と、二つの身分は分離したままです。ここは、注意しておいてください。そして、常に貴族は大金持ちです。財産あります。平民にはありません。財産を築いた平民は、貴族の仲間入りを目指します。ローマで実質的に政治権力を握っているのは、元老院を中心とする貴族ですよ。

地中海世界の統一
ローマは周辺の都市国家や部族を征服し、前272年にはイタリア半島を統一しました。ローマの他国支配の仕方は、少しわれわれの常識とは違うので説明しておきます。

例えばローマがある都市、仮にA市としますが、A市を降伏させると条約を結びローマの同盟国とします。A市は自治を認められ、ローマに対して納税の義務はない。ただし、ローマがどこかと戦争をするときは、兵隊を出す義務があります。それだけです。今のアメリカとどこかの国みたいな関係です。

こんなふうに色々な国を支配すると、同じように条約を結び同盟国を増やすという形で、領土が増えていくのです。領土というより、緩やかな連合体という感じです。

ローマがその服属諸都市と結んだ条約の中身ですが、都市毎に待遇が違うのが大きな特徴です。差別待遇をするので、服属諸都市間の利害が一致しにくい。団結してローマに抵抗するということが起きにくい。これを、分割統治という。

さらに、ローマは服属都市の支配層である貴族たちに、ローマ市民権を与えるんです。つまりA市の支配者は、同時にローマ市民になる。支配者であるローマ人と同等になってしまうのね。これではローマに逆らう理由はないです。こういう支配の仕方が、ローマ人は実に上手い。あくまでも、このような支配の仕方はイタリア半島の支配地域だけです。やがて、ローマは海外に進出します。

 イタリア半島のつま先が蹴っ飛ばしている石、これがシチリア島です。ローマはここに勢力を伸ばします。ここはギリシア系の都市が多いのですが、カルタゴの勢力圏でした。ローマが最初にぶつかった強敵が、このカルタゴです。

 カルタゴはフェニキア人が建設した植民都市でしたが、当時は西地中海貿易を支配する大国になっていました。カルタゴ人をローマ人はポエニ人と言ったので、このローマ・カルタゴの戦争をポエニ戦争といいます。

2019/02/20

報遺燕恵王書 ~ 楽毅(3)



報遺燕恵王書
※現代語訳は「中華名将録exit」様より転載。
私は不才にして、大王の命令を遵守する才なし。左右側近の方々は、おそらく私が英邁なる先王の徳を穢したと思うことでしょう。それゆえ私は国を辞し、趙へと逃れたのであります。

いま王は使者を遣わし、これを罪状に私を責め立てますが、王の左右の侍臣たちは私が先王の寵を受けたことをもってこれを憎み、認めることはないでしょう。ゆえにあえて、書簡をもってお答えしたします。

私が聞き及ぶところ、聖賢は信愛するものに私せず、功多きものはこれを賞し、能あればこれを位に置くと聴いております。
ゆえにこれを考察するに、才能あらば官職を授けるのは、これすなわち功業の君主たる人傑の行、論を行って交わりを結ぶのは、これすなわち立命の士。私は、ひそかに先王の挙動を拝見させていただきましたが、これまさしく世の主の心の上に立たれるお方。ゆえに私は魏の符節を借りて燕に入り、みずから燕王に見え考察するところを語ったのであります。

先王の過ちは私を幕下に加え、亜卿としたことであります。私は自らの明知の存量もわきまえず、ただ王命を奉じ教えを承れば、幸いにして罪無しというべき。ゆえに、あえて辞すことなかったのであります。

先王は、私に仰られました。
「余は斉に対して恨み骨髄、しかし彼我の国力差を考えるに、わが国はあまりに弱小。どうすれば斉を滅ぼすことが出来ようか」と。

私は、それに対して

「斉は桓公覇業の名残で常勝の名残り残っております。私兵は訓練が行き届き、軍旅のことに習熟しております。大王がこれを伐ちたいと望むのであれば、まず天下の諸侯と連合することが必須条件となりまましょう。まずは趙と結び、また淮北の宋の故地はかねてから楚、魏の狙うところでありますから、趙にこれと約定を結ばせて四国同盟を結ばせるに如かずであります。そうすれば、斉を打破することも可能となるでしょう。」

と答えました。

先王はこれを認めたまい、符節を準備して南は趙へ私を送り届けたまいました。かくして趙からの返事を持ち帰ったのち、先王は私を斉討伐の主帥として派遣し、斉を打たせたものです。天道と先王の霊威、黄河以北の軍は先王の霊威に従って済水ほとりに集まり、斉水ほとりで斉軍と激突のすえ、これを打ち破りました。私は精鋭を率いて長躯斉の国都に攻め入り、斉王を莒まで逃走させその命を脅かし、珠玉財宝車冑珍宝を奪い取って燕に送ったものです。

斉の器物は寧台に、大呂(鐘)は元英殿に陳列され、かつて斉に奪い取られた鼎も暦室宮に復旧され、斉の汶水(斉の一部にのみ生える竹)も薊丘に移植されました。春秋五覇以来、先王の功績は並ぶものはありません。

十分満足だったことでしょう。ゆえに、私のために土地を割いて私を諸侯に並べてくださったのですが、私が身の程をわきまえずそれを受け入れたため、左右にそれを忌む気風が出来上がったこと、これわが身の不徳のいたすところ。

また、私が聴くに賢明な君主とは

「勲を立て荒廃した土地をなくし、春秋にあるように、先見の明ある人は名を轟かせて瑕瑾なく、ゆえに後世の賞賛を受ける」

とあります。

先王は恥をすすぎ仇に報じ、万両の戦車を誇る大敵を平定なされて800年分の財宝を奪い蓄積し、そのご逝去なされた後も違令、政策が衰えることはありませんでした。政治は大臣が管理し、法令を明らかにし、嫡・庶の列をつまびらかにし、恩恵を民百姓にまで広くとどけたことは、すべて後世の模範とすべきことであります。

また聴くに

「よく創るものはまたよく完成を見ず、始めをよくするものは終わりをよくせず」

という言葉もあります。

かつて伍子胥の言葉は呉王闔閭に届き、伍の軍は楚の首都郢まで攻め入りました。
しかし夫差は伍子胥を認めず、剣を授けて自刃させたのち、その死骸は皮袋にくるまれて長江に鎮められました。

夫差は先王が子胥の言によって功業を為したことが理解できず、ゆえに子胥を長江深くへ沈めても、後悔することがなかったのであります。子胥は父子の器量の格差に気付くことができず、自分の言は夫差にも用いられると信じたゆえに、死を賜るまで言を曲げることがありませんでした。

これに対して、私は建業功業の災禍に見舞われることなく、賢明なる先王に仕えて功業に一臂の力を添えることが出来たこと、まさに人生の上策。しかし誹りにあって偉大なる先王の名誉を汚したことは、大いなる禍根であります。
思いもかけぬ罪で疑いを受けながら、僥倖を持って利を得ようとは道義的に出来ることではありません。

また古の君子は、交わりを立ってもその悪語を語らず、忠心は国を離れても自己の名を汚さず、と申します。
私は君子ではありませんが、しばしば君子に訓戒を受けております。
私が恐れるのは、王が左右侍臣たちの妄寧に心を曇らすことであり、疎遠な者を察せなくなるようになるのであります。これに関して返書をしたためますので、これを王が心に留め置かれるのであれば幸いです。

燕と趙の重臣へ
燕の昭王の厚遇に対して義を通そうとし、亡命したのは罪人にされると自らを抜擢した昭王の顔に泥を塗り、昭王の名を辱めることになるからと言う楽毅の思いを知った恵王は、楽毅が趙軍を率いて攻め込んでくることはありえない事を理解し、楽毅の子・楽間に昌国君の位を継承させた。

楽毅はその後、燕と趙の間を行き来するようになり、両国から政治顧問たる客卿の待遇を受け、趙にて没したと言われている。

楽毅、して燕の恵王の死後、燕は喜王の代となった際に、秦の白起の活躍と趙括大先生(笑)の大ポカで趙が国力を疲弊すると、燕の宰相の栗腹は「趙を討伐するなら今」と進言したが、楽毅の子・楽間は

「周囲を囲まれた趙は、士だけでなく民も戦争を習熟しているので侮れない」

として、趙への遠征に反対した。

しかし喜王は楽間の諌めを聞き入れずに趙に遠征し、秦もてこずった老将「廉頗」に撃退され、楽間も趙に亡命した。

父・恵王同様、楽間に帰還を願う手紙を送った喜王だったが、楽間は拒否し燕王二代で同じ過ちを繰り返した。

2019/02/19

楽毅(2)



楽毅とは、中国・戦国時代の武将で、燕の昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。

「真の君子は、友と絶交しても相手の悪口は言わず、忠臣は、国を捨てても我が身の潔白を弁解しない」

の結びで知られる著作「燕の恵王に報ずるの書(報遺燕恵王書)」は古今の名文として、諸葛亮の「出師表」と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われた、功を誇らず、自らを驕らず、忠節を貫いた姿勢から、同じく軍事の天才であった白起の様な最期を迎えずに天寿を全うした名将。燕においては「昌国君」、趙においては「望諸君」とも呼ばれる。

※「三国志」においては、諸葛亮が自らの政治力を管仲になぞらえた際に、軍事力は楽毅の名を挙げている。

※「三国志演義」では、徐庶が劉備の元を去る際に、諸葛亮を「古の管仲・楽毅よりも上」として劉備に推薦するシーンがある。

趙から魏へ
魏文候に仕えて中山国を征服し、その功により中山の首都霊寿に封じられた楽羊の子孫で、若い頃から頭脳明晰で兵法に通じるとの評判の高かった楽毅は、楽羊の頃よりすみ続けていた中山国を滅ぼした趙の武霊王に仕えた。

武霊王は、当時は蛮族の行為とされていた騎馬上から弓を放つ戦法「胡服騎射」を、周囲の反対を説得して取り入れる等、先見の明のある王だったが、太子や公子の事を哀れんで自ら退位した後の内部抗争により餓死すると、楽毅は趙を離れて魏の昭王に仕えた。

魏から燕へ
魏の使者として燕に赴いた楽毅は、客分として優遇された事から燕の昭王の家臣となり、燕の昭王は楽毅を亜卿に封じて厚遇した。

この当時の燕は、孟嘗君を宰相にして強勢を誇っていた斉の湣王からの攻撃を受け、王がいなくなると言う滅亡した期間があり、燕の昭王が斉軍を追い払う事によって復興したばかりで、まずは「隗より始めよ」と、郭隗を厚遇することで諸国に散らばる能臣を集めていた。

斉の湣王は、燕を一時的に滅亡させたほか、趙・韓・魏の三晋を破り、趙を援助して中山国を滅ぼし、三晋を率いて秦を攻め魯を属国とし宋を倒して広大な領土を獲得しており、一時期は「王」ではなく「帝」を名のった程だった。逆に斉の人心は疲弊しており、かねてから復讐の機会をうかがっていた燕の昭王は、軍事力的にはまだまだ斉に及ばない燕はどうすればよいかと楽毅に問うと、楽毅は、

斉は今、覇者桓公以来の余禄で盛強無比な存在です。土地は広大にして人は多く、今、燕一国の力でこれを攻めるのは、容易ではありません。それでも斉を討つというのであれば、三晋や楚・魏と結ばれるが良いでしょう。


と進言し、燕の昭王は趙に楽毅を送って密約を結び、韓・楚・魏とも連合し、趙を通じて秦にも協力を求め「燕」「韓」「魏」「趙」「楚」の五カ国連合軍(後に秦も加わる)を組織し、楽毅を総帥とした。

破竹の勢い
五カ国連合軍を指揮する立場となった楽毅は、済水の西で斉軍と戦い斉に大勝した。連合軍はここで一旦解散すると、楽毅は燕軍単独での追撃戦を開始し、斉の主都・臨淄を落して湣王を莒に逃亡させると、斉伝来の宝物を燕に移送した。

燕の昭王は、一度は滅亡させられた斉の首都を落したとあって大いに喜び、楽毅を昌国君に封じ、まだ降伏していない斉の城邑を平定するように命じた。破竹の勢いをもって、まずは斉の首都を陥落させた楽毅は、その後5年の短期間で斉の70余の城邑を攻略し、残るは湣王が籠もる莒と即墨の2都市を残すのみだった。

※この時、湣王は援軍としてきたはずの楚軍の淖歯に暗殺され、大混乱に陥っていた。また即墨では、斉の救世主となる元祖火牛計の田単が城内にいた。

燕から趙へ
斉へのチェックメイトまで後1手となった楽毅だが、ここで重大な事態が発生する。楽毅を厚遇していた燕の昭王が没し、恵王が後継いだのである。

恵王は太子の時代に、家臣の騎劫に吹き込まれて「楽毅は斉王になろうとしている」と父・昭王に進言したものの、楽毅に絶大な信頼をおいている昭王から逆に鞭打たれたことがあり、楽毅とは仲が悪かった。

楽毅と恵王の関係を知った斉の将軍・田単は

今度こそ楽毅は斉王になるつもりで、あと二城を残したままにして斉の国民の人気を得ようとしている。 

 と、無い事無い事を燕に送り込んだ諜報員を使って流言し、聞きつけた燕の恵王は、楽毅を召還して、騎劫を斉攻略軍の大将に据えた。

殺されるのを恐れた楽毅は燕に戻らず、以前、五カ国連合が組織された際に宰相の印綬を受け取っていた趙に亡命し、望諸君として燕・斉・趙の国境となる観津に封じられた。

こうして最強の敵を葬り去った斉の田単は、情報戦を駆使して騎劫の軍勢の気の緩みを誘い、必殺の火牛計をもって燕軍を大混乱に陥れて打ち破り、破竹の勢いで奪われていた70余の城邑を奪い返し、騎劫を戦死させて斉から燕軍を完全に駆逐した。

※しかしこの時の大ダメージが尾を引き、戦国時代は秦の統一へと進んでいく。

自らの采配ミスを後悔した恵王は、趙に亡命した楽毅が燕に攻め込んでくるのではないかと恐れ、可能であれば呼び戻したいと、

先王より兵権を与えられた楽毅将軍が、斉を破ったことは天下震撼せざるをえない功績であり、私は忘れる事はないだろう。私が将軍と騎劫を代えたのは、将軍が長く軍旅の任にあったため休息を与えようとしたのであって、更迭召し返してから暗殺しようとかいう意図はなかった。出来うるなら、先王の恩を思い返してもらい、燕に戻ってきてはくれないだろうか。それこそが、先王の恩に報いる行為ではないのか。

との弁解の手紙を書いて楽毅に送ったが、楽毅は先王への思いと心境を語った名文「燕の恵王に報ずるの書(報遺燕恵王書)」を送った。