2016/01/31

アジアのなかの日本食(農林水産庁Web)

日本食といえば、誰もが米を思い浮かべるだろう。確かに朝鮮半島でも中国でも、あるいは東南アジアの国々でも米が食べられているが、とりわけ日本では米が重要な位置を占めてきた。そして日本でおかずといえば、今でこそ肉の消費量は増えたが、やはり魚のイメージが強い。

 

こうした米と魚は、基本的には東南アジア・東アジアというモンスーンアジアの大きな特徴で、高温多湿なことから稲作に適するとともに、大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから米と魚の文化が生まれた。

 

これに対して、西アジア・中央アジアおよびヨーロッパなどでは、寒冷乾燥な気候であることから、麦作が盛んで小麦が主な食料となっている。これには牧畜が伴い、乳を出す牛や羊などが飼われることから、肉と乳が組み合わされた食生活が営まれた。

 

米は脱穀して精米すれば、そのまま粒で食べることが出来るが、小麦は外皮が剥がれにくく粉食とするほかないので、パンやナンあるいは麺となる。これらを食事のメインとしながら、牧畜による肉と乳製品を利用するため、麦と肉の文化が展開をみた。 そして米と魚の文化では、魚を発酵させた魚醤や大豆を用いた味噌・醤油などの穀醤が調味料となり、麦と肉の文化においては、肉や骨を煮込んだスープとクリーム・バター・チーズなどが味付けの主体となっている。ただ中国大陸では、北部には麦と肉の文化が広がるが、南部では米と魚の文化が基本であった。

 

こうして東南アジア・東アジアの稲作地帯では、米と魚が食文化の中心となったが、これに動物性タンパクとしてブタとニワトリが加わった。いずれも牧畜の動物のように乳を出すメリットはないが、ニワトリは卵を産むため広く利用された。ニワトリは、中国南部・ラオス北部の山岳地帯で家畜化が始まったと考えられるが、かなり早くからユーラシア大陸全般に広がり、西の麦文化の世界へも広まった。また、イノシシの家畜化によるブタの飼育もアジアでのことと思われるが、ブタは放っておいても回りの草や廃棄食料などを食べて育つため、ニワトリとともに稲作労働の傍らで簡単に飼うことができる。

 

これらは魚とともに、米の飯の重要な菜となったが、日本ではかなり特殊な事情が生まれた。おそらく稲作の伝来とともに、日本でもブタの飼育が行われた形跡が認められるが、このブタが途中から欠落していった点が注目される。その意味で、日本の米文化はアジアの中ではかなり特異なものとなった。その理由や事情については、後に触れることとする。

 

一方で、今日の日本の領域全てで、稲作が行われていたわけではない。つまり日本列島全体を米文化が覆ったわけではなく、北海道と沖縄には稲作が及びにくく、むしろ古代以降の日本が排除してきた肉文化が、豊かに発達した地域であった。この南北二つの地域は、すでに古代から密接な関係にあったにも関わらず、日本に組み入れられるのは明治すなわち近代以降のことであった。

 

こうした歴史的事情を踏まえた上で、米という私たちに非常に親しみの深い食べ物を中心に、日本における食の歴史を眺めていく。それゆえ、米以外の食物にも注意を払いながら、稲作以前および南北の問題についても充分に眼を向けつつ、歴史の中の日本食の全体像を見つめ直していきたい。

2016/01/30

大倭豊秋津嶋『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
大倭豊秋津嶋(おおやまととよあきづしま)。この名のことは、別に「國號考」で詳細に考察したので、ここでは省略する。

○天御虚空豊秋津根別(あまのみそらとよあきづねわけ)。万葉巻五【三十一丁】(894)に「久堅能阿麻能見虚喩(ヒサカタのアマのミソラゆ)」、巻十【六十丁】(2322)に「天三空(アマのミソラ)」などがある。「天」は上(894)に準じて「あまの」と読む。この名は天照大御神のしろしめす高天原になぞらえて、天皇のいる都も「天(あめ)」と呼ぶので【万葉巻十三(3252)に「久堅之王都(ひさかたのみやこ)」とあるのもこれだ。】その意味で讃えた名ではないだろうか。【大倭も秋津嶋も、都から見て言う名だからである。】またあの「虚空見倭(そらみつやまと)」などの古言にも関連するのだろう。「豊秋津」は秋津嶋の名に由来する。「根」は例の尊称である。

○以上の八つの島を生んだ順序は、まず淤能碁呂嶋で交合して最初に生んだ淡嶋は、その近くにある。次の淡路島もその隣にある。それから西へ行って伊豫之二名嶋、次に筑紫嶋を生み、北に折れて伊岐嶋と津嶋を生み、東に回って佐度嶋を生み、南に帰って大倭嶋を生んだのである。このように順序よく廻って乱れがない中で、ただ隱伎嶋だけは乱れて筑紫嶋の前にあるのはなぜか、大変に訝しい。そこで書紀を参照すると、この八島の順序について六つの異説があるけれども、隱伎はどれでも佐度の直前にある。この記(古事記)も、本来そうあるべきだったのではないだろうか。【旧事紀の八島の順序は、おおよそこの記の記載によって書いてあるのだが、対馬、次に隠岐、次に佐渡となっているのは、理に適っている。しかし、その後にまたの名を連ねた順序は、この記と同じく隠岐が伊予の次になっているので、上記は著者が自分勝手に判断して書き変えたものらしい。】書紀に載っている所伝は順序も各島もいろいろ異同があり、どれもこの記とおなじではない。

○故因此八嶋先所生。これは「カレこのヤシマぞマズうみませるクニなるにヨリテ」と読む。

大八嶋國(おおやしまのくに)。この名のことも「國號考」で考察した。【ある人がこう尋ねた。「この後にもまだ生んだ島があるのに、この八つの島に限定して国の名にしたのはなぜか?」答え。「この八島は次々に生み廻って、巡り終わって元の淤能碁呂嶋へ帰るまで、一周するうちに生んだからである。そのことは次に「元へ還って」とあるので明らかである。」】

2016/01/28

発見(小説ストーカーpart5)

●忍の場合
 (ああ、私のラッキーボーイ!
 どうしちゃったのー?
 今日は、きっと居るわよね・・・だって健康な若者のサンプルのようなアナタじゃない・・・)
 
 とアパレルショップの閉店時間も待ち遠しく、一目散に駅に向かう忍。
 
 (昨日は、もしかしてすごく遅くなったとか? よし!
 今日は2時間だろうと、待つ覚悟よ!
 だって、アナタのことが心配で眠れないんだもん・・・)
 
 と、まずは「定時」にやって来た電車に血走った目を凝らす忍。
 
 しかし車内には、ラッキーボーイの姿はない・・・
 
 そして・・・次の車内も同様であった。
 
 1時間後に、ホームに入って来た電車を凝視する忍 ( ;_)ジーーーッ
 
 (やっぱり、いない!
 ああ、私のラッキーボーイ!
 一体、どうしちゃたのー?)
 
 と叫びたいのを堪えた忍は、次に思わず悲鳴を上げそうになった。

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●タコオヤジの場合
 昨日は、彼女がホームに陣取ったまま、なかなか電車に乗らんのには参った。
 
 いつもより距離を取って、なんとか姿が確認できる辺りでこっちも待機したが、彼女のあの不可解な行動は勿論、あの「ラッキーボーイ」が関係しとるハズだ。
 
 クソッ、イロオトコめが! (`Д´)y-~~ちっ
 
 そう・・・昨日は珍しく、ヤツの姿がなかったのだ。
 
 お蔭で、彼女の前に立ちはだかっていた「壁」が取り払われて、顔が良く見えたのは儲けものだったな。
 
 待ったかいがあったというもんだ ニヒヒヒ ( ̄∀ ̄*
 
 そうは言っても、こっちは姿を観られたらヤバい。
 
 ましてや、痴漢扱いなどされては堪らん。
 
 そう、オレって誤解を受けやすいタイプなんだよな・・・根はまじめで善良なのに、痴漢扱いされたりな・・このオレが痴漢とは、実に心外極まることだ。
 
 それはともかくとして、昨日にも増してビックリしたのが今日だった。
 
 例によって、ホームで1時間も待たされた挙句、次に電車がホームに入って来るや、突如として彼女が一目散に駆け出して行ったじゃねーか!
 
 あんまり予想外の行動で、とっさのことだったから追っかけるわけにもいかず諦めたが、一瞬なんかの発作でも起こしたのかと勘違いしたくらいだ。
 
 あれは一体、なんだったのか・・・
 
 アタマの悪いオレに、あの行動の推理なんか出来るわけはない。
 
 ところが、次の日に彼女が立つホームの位置が、えらく後ろの方に変わっとったのに驚いた。

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●忍の場合
 (ラッキーボーイが居た!!!
 しかも・・・いつもと違う車両に!!
 なんで??)
 
 なぜ、この日に限って違う車両に・・・という疑問は抱きつつも、気付けば体が勝手にダッシュをしていた ε=ε=ε=(ノ*´Д`)ノ
 
 息も絶え絶えに、なんとか乗ることが出来た忍。
 
 これまでとは違い、隣のドアではなく遥か遠くになってしまったが、とにもかくにも同じ車両内に「ラッキーボーイ」の元気な姿を見て、胸に安心感が広がって行き、ジンワリと涙が溢れだした (TT )

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●タコオヤジの場合
 一体、なんなんだろう・・・さては、これまで考えてきた「ラッキーボーイ」が彼女のお目当てというのはオレの勝手な妄想に過ぎず、あれはまったく何の関係もなかった?
 
 だとしたら彼女の、あの昨日からの行動は、なんなんだ?
 
 もしかして、彼女は「かなり変な人」だったとか???
 
 などと考えていると、電車が入ってくるや、またしても彼女が一目散に駆け出したからビックリだ。
 
 とはいっても、昨日とは違って今日はある程度、こっちも心の準備が出来とったから、彼女が入ったドアの位置をしっかりと確認しといてから、こっちも猛ダッシュよ。
 
 オッサンを2人くらい突き飛ばしたかもしれんが、そんなことには構ってられん。
 
 そこまで頑張ってはみたものの、あの混雑したラッシュ時のホームだから、隣の車両まで辿り着くのがやっとという有様よ。
 
 この混雑の中、車両を移動するのも大変だから、次の乗り継ぎ駅で大勢の乗客が入れ替わるタイミングまで待って、やっとのことで隣の車両に移動してみると・・・そこで彼女の「謎の行動」の原因が判明した。
 
 彼女の遥か向こうの方に「ラッキーボーイ」の姿があった!!

2016/01/24

伊岐嶋、津嶋、佐度嶋『古事記傳』

神代三之巻【大八嶋成出の段】本居宣長訳(一部、編集)
伊岐嶋(いきのしま)は、万葉巻十五【二十五丁、二十六丁】(3694、3696)に「由吉能之麻(ユキのシマ)」とあり、和名抄にも「壹岐の嶋は由岐」とあるので「ゆき」が古い呼び名だと思う人があるが、書紀の継体の巻の歌では「以祇(いき)」とあり、この記にも「伊」と書き「壹」という字も「ゆ」とは読まないので、本来「いき」であることは明らかだ。だが懐風藻には「伊支連(イキのムラジ)」という姓を、目録で「雪連(ユキのムラジ)」と書いており、前掲の万葉に「由吉」とあることを考えると「ゆき」と通じる理由があったのだと考えられる。【「行く」という字も「ゆく」とも「いく」とも読む。】

そこで調べると書紀の天武の巻に「齋忌此云2踰既1(齋忌はユキと読む)」とあり、「齋忌」はいむ・いわう・ゆまわる・ゆゆし・ゆず・いず、などと様々に読んでいて「い」と「ゆ」は通っている。そうであれば「齋忌(ゆき)」も古くは「いき」とも言っただろう。とすれば【あるいは息長帯比賣命(おきながたらしひめ:神功皇后)の三韓征伐の際などにも】

この島に神が宿るとして「齋忌」のことが行われたための名かもしれない。【「齋忌」は、古くは大嘗祭だけのものではなかった。】または韓半島へ渡る途中、ここで一旦船を止めて息(やす)むことから、息(いこ)い(憩い)の島であったか。【しかし国や所の名は、すべて昔、なにがしかの理由があって付けたのであって、後世の人の空想は筋が通っていたからといって、実際そうだったかどうか判定することはできない。だからといって「とにかく分からん」で済ますわけにもいかないので、私も含めて人はあれこれ推量するのである。】

天比登都柱(あめのひとつばしら)とは、海中に一つ離れてある島だからである。万葉巻三(388)に「淡路嶋中爾立置而(あわじしまナカにタチおきて)」とあるのも「柱」と言いたい趣だ。書紀の神代巻にも「以2オ(石+殷)馭慮嶋1爲2國中之柱1(おのごろシマをモチてクニナカのミハシラとす)」とある。

○註に「訓レ天如レ天」とあるのは「アメの~」、「アマの~」と「の」を入れず直接「アメ~」と続けるように読むことを言っている。下巻の檜クマ(土+えんがまえに口)の宮(宣化天皇)の段に「訓レ石如レ石」という註の例もある。

津嶋(つしま)。名の意味は万葉巻十五【二十六丁】(3697)に「毛母布禰乃波都流對馬(モモふねのハツルつしま)」とあるように、韓国への往還の船が停泊する津のある島ということである。【魏志という漢の書に、この島を「対馬国」とある。これは我が国で昔からこう書いていたのを書き取ったのかというと、そうではない。魏志ができたのは晋の世である。その頃、御国にはそういう仮名の使い方はなかった。ただ津嶋と言っていたのを、あの国では聞き誤って伝え、そういう風に書いたのである。ところが書紀では、すぐにその字を仮名に使って「對馬嶋」などと書いている。津嶋に対馬と書くのはその例もあるから、それでもいいが、嶋の字を添えたのは納得できない。嶋嶋と重ねて言う名などあるものか。淡海の海などとは訳が違う。敏達の巻には「津嶋」と書いてあって、これが古来の書き方である。】

天之狹手依比賣(あめのさでよりひめ)。名の意味はわからない。「狹手彦」などの人名もあり、何か意味のある言葉であろう。【和名抄の魚取具にサデ(叉手・小網:正字は表示不可)というものがある。万葉の歌(38)にもある。】

○伊岐、津嶋の二島は、書紀では大八洲のうちに入れていない。「これは潮の泡が凝固してできたものだ」と書いてある。ただし一書の中には、大八洲に入れるものもある。

佐度嶋(さどのしま)。名前の意味は「狭門」だろうか。この島へ入る水門(みなと)が狭いのだろうか。【海に関しては、島門(しまど)、水門(みなと)、迫門(せと)など言うことが多い。】さらに地形を調べて考える必要がある。この国は、天平十五年十二月には越後国に併合され、天平勝宝四年十一月には、また一国とされた。続日本紀にある。

ところで、この島だけはまたの名がないが、古くから落ちているようである。【口决や元々集に建日別と書いてあるが、これは旧事紀に「熊襲国を建日別と言う。あるいは佐渡島と言う」とあるのを採用したもので、間違っている。旧事紀は、この記に佐度嶋のまたの名がなく、熊曾國は後の九国に入っていないので、これが佐渡のことかとでも思って、こじつけて「あるいは佐渡島と言う」と書いたのであるから、例の妄言である。また口决の一本には「達日別」とあるのは、後人が写し誤ったのである。】なお書紀では、「雙=生3億岐洲與2佐度洲1(隠岐島と佐渡島を双子に生んだ)」と書いてある。