2020/02/24

イエス・キリスト(11) ~ キリスト教の平易さ

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 前回あげた条件の中でも重要なのが、第二の「キリスト教の平易さ」ないし「魅力」でしょう。

宗教というのは何であれ、初めから「思想」の問題として受け入れられるわけではありません。思想界にキリスト教が大きく顔を出してくるのは、紀元後200年代になってからです。一方、キリスト教がローマ世界に伝道されだし、受容されていったのは紀元50~60年頃からで、つまりキリスト教の初期の受け入れは、ごく初期の時代から一般庶民においてなされていたのです。

 これについては、受け入れられた当初のキリスト教が「女性、下層民、奴隷」にあったと考えられることと裏腹です。つまり初期のキリスト教は、女性(当時、女性は「劣った存在」として差別されていた)や奴隷など、社会の「下層民」に受け入れられていったということです。なぜ、そうした「差別されていた人々」に受け入れられたかというと、もちろんこれまでに見ておいたように、イエスが「差別されていた人々」を対象とし、彼等の救済をその目的としていたということが第一でしょう。その教える「」というのは「愛の神」であり、貧しく虐げられた人々こそ第一に天国に救い取ろうとしている、と教えられました。これは当時の虐げられていた人々にとって、何よりの「幸いの知らせ(福音)」であったでしょう。

 そして、実際上のこととして初期のキリスト教共同体(教会)においては、女性や奴隷も信仰上の差別はされなかったのです。身分差別は、古代社会にあってはどこでもあったし、ローマでも同様でした。この時、何の形であれ差別をしないということは、差別されている者にとっては何より救いであったと思われます。これが、キリスト教にあったのでした。

そして教会の中に入れば、彼等は社会的身分にかかわらず「兄弟・姉妹」と呼び合い、教会内での役職に奴隷が選ばれることもあり得ました。勿論、女性も差別されませんでした。これが恐らく、彼等に受け入れられた最大原因であったと考えられるのです。教会内に居さえすれば「人間」として認めてもらえるというわけで、これほど当時の差別されていた下層民の女性や奴隷にとって魅力的なものはなかった、と考えられるのです。

 こんな具合に下層の奴隷や女性に受け入れられたのは、イエスの教えというのが難しいものではなかったからです。今日のキリスト教はひどく難解な神学などがあり、教会での説教もけっこう難しかったりしますが、これでは当時の教育を受けていない下層の人々に受け入れてはもらえないでしょう。多分、イエスは「神の愛」「悔い改め」「救済」くらいしか語らなかったと想像されます。

 さらに、キリスト教の母体であるユダヤ教は「戒律主義」であって、文字通り「戒律を守る」ことが義務づけられていました。これは財産や暇や権力のある金持ちや権力者には可能ではあっても、貧乏人には不可能でした。そして女は「不浄」なものとして、初めから「救い」など剥ぎ取られていたのです。イエスは、この戒律主義を退けていましたから、キリスト者はとにかく日常的に「祈り」と「感謝」と「慎み」だけでよかったと思われ、これも受け入れを容易にしていたでしょう。

 しかもイエスの教えは罪あるもの、病人と比喩されるような者を対象とし、「金持ちは救いに遠く、貧乏人が救われる」という社会的弱者の救いという性格をもっていましたから、女や隷にとっては「自分達のための宗教」という感じがしたことでしょう。

 そして、彼等に迫害があっても、れにもめげず広まっていった要因としては「死後の幸せ」という考え方もあずかっていたと考えられます。つまり今は辛いけれど、この辛さを耐えれば「死後は神の国」に迎え入れてもらえるというわけですが、実はギリシャ・ローマの伝統に、この死後の幸せという観念は殆どなく、せいぜい英雄が死後に安楽の島での生活を送れる程度の神話しか持ち合わせていませんでした。しかし、死の恐怖は誰にでもあるわけです。これに対する素晴らしい答えが、キリスト教に用意されていたのです。下層民にとっては、確かに今の現実としても苦労のない極楽の方がいいに決まっているとはいえ、現実としてそんな状態が望むべくもない人々にとっては、死後の幸いは最大の慰めとなったであろうと考えられるのでした。

 こうして、女・奴隷を含む下層階級の人々に迎え入れられ広まっていった、と考えられるわけですが、こうして一定の勢力となったところで「中流階級」さらには「上層部」にまで波及していったわけです。

2020/02/23

アリストテレス(12) ~ 友愛(フィリア)

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友愛
 そしてアリストテレスの倫理学で、もう一つ有名なのが「友愛(フィリア)」論です。これはさまざま徳について論じてきた最後に、それらを完結するように語られてくるものでした。すなわち、諸々の徳が論じられた後、社会の中で要求される「徳の究極のものとして正しさ、正義」といったものが長々と論じられるのですが、それで終わりになるのではなく、さらに付け加えられて、そうした「徳が完全に全うされるには、友愛が必要」だとして語られてくるのです。

したがって、この「友愛」というのは一種の徳というより、「徳が徳として完成される場面」といったニュアンスであり、それゆえ「徳に伴ってくる」というような言い方がされてくるのです。「友愛が伴なっていない徳など、徳とは言えない」ということです。あるいは「すべての徳は、結局“友愛”という形になる」と言った方が正しいかもしれません。
 
さて、アリストテレスが言うには、通常私たちが「友愛の対象としての友人関係」になる動機として、先ず相手が「」である(つまり愉快であるとか、楽しいとかの内容です)や「有用性」(これは役に立つ、といったようなことです)を求めた結果だと考えられると言います。しかし、これはその「快」や「有用性」が目的であると言える限りにおいて真実の友とは言えず、真実の友とは相手が善き人であるから、というその点を愛することによって結ばれた関係なのだ、と結論づけます。

 一方、この「」というのは、一つの行為においてたまたま善であった、というようなものであっては、何時また善でなくなってしまうかもしれませんから、これは具合が悪い。つまり、「人格そのもののところで成立している善」でなければならないわけで、それは要するに「」ということが分かっていて意図的に善を為し、それゆえに「善き人」となっているということですから、当然これは「理性」の場面に成立しているものとなります。

 こういう「理性において善き人」というのは「人間性そのもののところで善き人」ですから、お互いに似ています。そして相手の善も自分のものと同様ですから、互いに相手を自分のように見なせ、ここに相手が他なる自己のごとくに見る関係が出来上がってきます。こうして、相手のための善を相手自身のために願う、ということが必然的に伴ってくることになります。無論、こんな関係は稀有にしか成立しないでしょう。しかし、これが目指すべき関係だと言われれば、それは確かにそうなのかも知れません。

 一見、こんなの面白くも楽しくもないと思うかも知れませんが、アリストテレスはここにこそ「本当の楽しみ・快」があると指摘しています。なぜなら、善き人というのは善き行為を喜び、そこに快を感じる筈で、だとしたらその善を実現している相手と共にいることほど楽しいものはない筈だからです。そしてまた、こうした人はその善の実現を願っているわけですから、丁度、正しさの実現に他者が必要なように(たとえば荒野で孤独となっている自分一人のところでは、正しさもへったくれもありません。正しさとは、他者に対して正しい行為をなすことにおいて、始めて実現してくるのです。アリストテレスは「ポリス(公共社会)の倫理学」を考えているのですから、当然そうなります)、同様に、その善をなす相手が必要なわけで、その相手を求めるのが必然です。その相手として、先ず親しき友が選ばれるのは当然で、したがってこうした人も友を求めることになるわけです。

 一方、こうした関係にある友は、互いに善を相手に尽くしていくわけで(もちろん社会全体に善の実践をしていることは、いうまでもありません。それがあって、始めて善き人だったのですから)、自分自身の確立のためにも有用この上なく、先に挙げた快もあって、友と言われるものに特有なすべてが備わっていて最高の友愛が実現し、ここにこそ人は幸福を感じるだろうというわけです。こういったところには、意識していなくても正しさ・正義は実現しており、他の徳も全て実現している筈だということになってくるのでした。

 ひるがえって、私達のレベルでも愛する者を得ている時ほど幸せを感じることはないわけで、その二人の関係にはアリストテレスが指摘した全てが実現しているとも言えます。アリストテレスの場合には、この二人の関係が二人だけにとどまって居らず社会において実現していたら、ということとして理解しておけばいいでしょう。

2020/02/16

イエス・キリスト(10) ~ キリスト教を受け入れた条件

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 こういう歴史になる次第を理解するため、ここではまず「キリスト教のギリシャ化」の問題から見ていきたいと思います。大まかな道筋を見ますと、パレスチナ地方の田舎の宗教活動であった「イエスの教え」は、先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで小アジア(現在のトルコ)のギリシャ・ローマ都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されて、そこで相応の大きさを持った教会組織が形成されていったことが、パウロの手紙によって確認できます。実際、このギリシャ本土への伝道の成否がキリスト教の拡大のための決定力だったのであり、ここで受け入れられることでキリスト教は「命を得た」のでした。

 ところで、このキリスト教の始祖であるイエスは、ユダヤにあって差別されていた人々の人たちに歓呼の叫びで迎えられていたのに、しかしついにパレスチナ地方にあるユダヤ人、つまりユダヤ人の中核となり代表する都市の中流市民以上のユダヤ人に受け入れられることはなかった、ということは重要な事実でした。

 それどころか、この都市のユダヤ人は激しい迫害をもって、イエス及びその使徒たちに対していたのでした。もしキリスト教が、その発生の初期段階のようにユダヤ人だけにこだわっていたら、その布教は成功しなかったでしょう。そして今日のキリスト教は存在せず、多分イエスも歴史の中に消えていたでしょう。それが、パウロを中心に「ギリシャ世界」を相手とするようになって、ここで布教に成功して始めて命が長らえ、後の「キリスト教」が生まれる素地ができたのです。

キリスト教を受け入れた条件
 ギリシャにおいてキリスト教が受け入れられた第一条件ですが、それは「言語」の問題です。どんな有り難い教えであっても、言葉がわからないでは受け入れられ広まるわけもありません。すべての人に分かる言葉で語られ、また手紙その他の文書が書かれているのでなければなりません。これをクリアーしたのが、ギリシャ語でした。つまりパウロ以下、布教はすべてギリシャ語によって行われていったのでした。

 第二に、その語られた内容が誰にも分かる平易な内容で、魅力的でなければなりません。大きな勢力となる宗教というものは、常にその主体は学問・知識などとは無関係の平民にあるものです。キリスト教でも、当初は下層民に支持されていったのです。ですから、この教えというのは簡単明瞭で教育のない下層民にも良く分かり、しかも魅力的なものであったはずなのです。

 それを後に難しい神学などに仕立て上げたのは、全く学者・宗教者だけの仕業であり、一般庶民にとってはどうでもいいことだったでしょう。ただし、この神学による深化は指導層においては必要なことですから、これはこれで大切なのですが庶民にとっては無関係なことであり、彼等に要求されるのは分かり易い教えだけだということです。

 また「難行苦行」があっても受け入れ拡大は難しく、特別条件がついていても難しいということで、要するに平易そのもの、ないしそれらを苦とさせない魅力があるか、どちらかである必要があるのでした。

 第三に、キリスト教を受け入れた当時のローマ帝国の社会状況が問題となり、もしここがキリスト教を受け入れるような精神状況になかったのだとしたら、仮に有り難い話しをしても人々がそれに耳を傾ける筈もありません。ということはローマ帝国の一般民衆、やがて知識層もが精神的に飢えていたという状況がなければならない、となってきます。

実際、ローマ帝国というのは表面上での豪壮・華麗さとは裏腹に、一時期を除いて総体として社会は欺瞞と裏切りと不誠実と、血に飢えた精神的に貧しい状態だったのであり、それ故に心を強くするための哲学としてストア学派を興隆させ、また俗世を遠く離れて晴耕雨読の精神のうちに快楽を求めるエピクロス哲学などが流行っていたのでした。
 そういう中で伝えられてきた教えが、これまでの自分たちの考え方からして理解を超えるものであっては全然分からないことになりますから、ギリシャ思想の範囲内で分かるものとなって伝えられたであろうということが指摘されねばなりません。

 第四に、宣教した人の問題があります。つまり、その教えを具体的に伝える人間の問題があるわけです。その上で、その伝えた人が多くの人々に受け入れられるということが必要になります。たとえ教えは立派でも、うさん臭い人間と見られたらもう受け入れてはもらえないからです。この四つが、一般に宗教・思想の伝播において最も重要な要件で、これは現代にも言えることです。