2020/06/28

テバイ戦争(アイスキュロスの『テバイ攻めの七将』、エウリピデスの『ポイニッサイ』)(ギリシャ神話81)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 オイディプスの悲劇の運命に対して、アンティゴネやイスメネなどの娘たちは、それを精一杯助けようとしたのに、息子たちは冷淡でありむしろ王位争いに明け暮れる。結局、息子たちはオイディプスの呪いを受け、二人とも滅亡していく次第が「テバイ戦争物語」となる。これはアイスキュロスとエウリピデスの悲劇に描かれて有名となっている。細部でかなりの違いがあるが、筋を構築してみる。

1.呪われた二人の息子、エテオクレスとポリュネイケスは、「王位」に関して二人が一年おきに交替していくという約束をする。

2.しかし、エテオクレスが王位について一年経っても、彼はその王位をポリュネイケスに渡さなかった。

3.ポリュネイケスはテバイから追放されてしまい、彼は「首飾りと女物の上着」とを携えてアルゴスへと流れていった。

4.この「首飾りと女物の上着」というのは建国の王カドモスに由来し、彼が神アレスの娘ハルモニアと結婚した時、そのお祝いとして神ゼウスないしヘパイストスが与えたものであった。

5.ポリュネイケスがアルゴスのアドラストスのもとに来た時、偶然にもテュデウス(トロイ攻めのディオメデスの父としても有名)という英雄も流れて、このアルゴスへとやってきた。

6.二人は王宮のところで鉢合わせとなってしまい、争いとなる。

7.その騒ぎを聞きつけてアルゴスの王アドラストスが出ていって見ると、二人の屈強な男が戦っていたわけだが、アドラストスは二人の「楯」を見て、昔自分に下された予言を思い出す。それは「娘達を猪と獅子とに娶せるべし」という予言であった。アドラストスは今、この謎のような予言の意味が分かった。

8.二人の楯には一方には「猪」が、一方には「獅子」が描かれていたからである。そこでアドラストスは両人を分けて、そして二人を自分の娘達の婿にし、そして二人のそれぞれの祖国を取り戻してやると約束する。

9.こうして「テバイ攻め」の準備が為されていく。しかし、召集されたアルゴス地方の英雄の一人であったアムピアラオスは予言に長けた英雄であり、この戦いは負けで王アドラストス以外は皆死ぬ運命にあることを予知して、一人反対する。

10.アムピアラオスは、ポリュネイケスの差し出した「首飾りと女ものの着物」に買収された妻の裏切りにあって、出征せざるを得なくなる。こうして「七人の英雄」に率いられて、テバイ遠征軍が結成されていく。

11.アルゴスの軍勢がテバイに近い「キタイロン」に到着した折り、テバイのエテオクレスに、約束通り王位をポリュネイケスに譲り渡すよう交渉に出向くということで、テュデウスがその使者に立つ。

12.しかしエテオクレスは耳を貸さず、そこでテュデウスはテバイ人の力を試そうと一騎打ちをテバイ人に持ちかけ、応戦した者すべてを打ち負かす。テバイ人は、50人の武装した兵士を待ち伏せさせテュデウスを襲わせたが、ただ一人を除いて全員がテュデウスに討ち取られてしまう。

13.かくして戦いとなり、七つの門での攻防となっていき、カパネウスが活躍して城壁によじ登ろうとした時、ゼウスは彼を雷で打ち落としてしまう。

14.これを見て、アルゴス勢は神が敵の味方についていることを知って退くが、両軍の協議によってポリュネイケスとエテオクレスとに一騎打ちをさせて、決着をつけさせようとなる。

15.ところが結局相討ちとなってしまい決着がつかず、こうして再び戦闘になって、この結果アルゴス勢はテバイ軍の前に続々と討たれてしまうことになった。

16.アムピアラオスも、テバイに来てしまった以上「」を免れることはできない運命であった。退却の途中、ゼウスが雷を落として大地を引き裂き、馬もろともアムピアラオスを大地の裂け目に飲み込ませてしまった。

17.もっとも、ゼウスはアムピアラオスを精霊としていき、ここはアムピアラオスによる予言の地となる(アテナイの北東にある神託の地「コロポン」となるが、ここは夢占いによる病気治療の地として有名となる)。他方、ただ一人アドラストスだけが、その名馬によって助かることができた。

18.一方、テバイではエテオクレスとポリュネイケスの二人ともが死んでしまったために、クレオンが王位に就き、アルゴス勢の埋葬は許可しないという命令を出して、アルゴスの将兵を野ざらしにしてしまう。

19.しかしオイディプスの娘アンティゴネは、ポリュネイケスの遺体を埋葬してしまい、クレオンによって生きながら埋められてしまう。この次第がソポクレスの『アンティゴネ』の舞台となる。

20.そして十年の年月が流れ、このテバイ攻めに加わった武将の子ども達が成人して、復讐戦へとなっていく。それを率いたのがアムピアラオスの子どもとなり、物語は「アムピアラオス伝説」に繋がっていく。

2020/06/22

ローマ帝国(3)



貴族の暮らし
公衆浴場を私有するほどに裕福な貴族たち。彼らにとって財産を労費することは、一種のステータスだった。彼らは贅の限りを尽くしたが、とくに奴隷の使用においては、ある意味で退廃していた。また食事と恋愛についても、退廃的といえる様相を呈する者もいた。

奴隷
貴族は出かけるとき、最低でも2人のお付きの奴隷を連れていた。それならば、まだ(古代ということもあって)理解されうるだろう。しかし大貴族の奴隷ともなると、意味不明の領域に達する。例えば、主人が靴を脱ぐ時専用の奴隷。金持ちにもなると、帰宅後「右脚用の奴隷」に右足の靴を脱がさせ、「左脚用の奴隷」に左足の靴を脱がさせた。また、後述する「宴会用の奴隷」も今から考えれば奇妙なもので、いくら下僕とはいえ、中々に大変な玄人であった。

食生活
※食事中の方は読まないでください
ローマの貴族たちはしばしば宴会を開き、ひたすらに珍味を仕入れ食卓に並べた。宴会において、主催者と招かれた客は食事用の服を着る。これは1回限りの使い捨ての服だが、貴族の中にはそのようなものにも大金を使う者がいた。食事のマナーは「横たわって、だらだらと素手で食べる」。だから手がすぐに汚れ、食事用の服で拭く。それ故に食事用の服は1度限りの消耗品なのだが、それでもなるべく豪華に彩ろうとした。貴族の中には、その食事用の服を何度も着替えた、つまり財産を労費したものもいたのだった。

一部の貴族の中には、食事を延々と楽しむために、嘔吐してでも空腹になろうとした者もいた。連れている奴隷を呼び、孔雀の羽根を持たせ、貴族自身は口を大きく開ける。すると奴隷は、主人である貴族の口へ孔雀の羽を突っ込み、喉でそのままかき回す。こうなると、満腹のその貴族は食べていたものを汚物として戻し、再び空腹になるのである。ちなみに吐かれた汚物は、別の奴隷が処理してくれた。

夫婦生活
男女ともに、浮気は珍しいことではなかった。また節度ある性欲の発散は、必要悪としてある程度許容されていた。

夫にとっては、生まれてくる子供が「誰の子」か分からない。だからこそ、自分の全財産を子に捧げるのがもったいない。理由はこれだけではないだろうが、何にせよ、こうした背景のもと、ローマの出生率は下がる一方だった。ゆえに元老院貴族の家系はどんどん断絶していき、欠員を補充すべく地方の属州から新手が呼ばれていった。ローマ帝国の新陳代謝に繋がったかもしれないが、なにぶん、お粗末な話である。

首都ローマの生活
ユリウス・カエサルから五賢帝時代までのおおよそ200年間、首都ローマは「パンとサーカスの都」と呼ばれた。ローマ市民はどんなに貧しくとも、穀物や娯楽をタダで享受できたのである。また、物乞いとして白い目を向けられる点を我慢すれば、食料品もタダで受給できた。

首都ローマには、属州から搾り取りまくった穀物などの財産が一極集中したため、市民には穀物(注:パンになる前の小麦粉)が無料で支給された。首都のローマ市民は、たとえ無一文であっても「ローマ市民」というだけで、定期的に穀物を受け取れたのである。

無料供給という点においてはカリグラ帝もまた有名で、彼は金貨をローマ市民に対しこれでもかとばら撒いた。また、ネロ帝も裕福な市民から財産を没収し、貧しいものへ分配した。どちらも人気取りである。暴君とされる彼らは、そういった経緯から市民からの人気があったが、ローマ市民はこうした皇帝の人気取りがあればあるほど、楽しい生活が送れたのである。

娯楽面でも、古代とは思えぬほどに充実していた。フラウィウス・ウェスパシアヌス帝の時代から建設が始まったコロッセウムは、およそ50,000人を収容でき、祭日には戦車競走などが催された。こうした祭日は、ローマ市民の人気を得たい皇帝らによってどんどん増やされていった。すると市民は、さらに狂喜するわけである。

ローマ市民は、ほかにも剣闘士奴隷(いわゆるグラディエーター)や猛獣の戦いを観戦したり、闘技場の一面を水浸しにした模擬海戦(今で例えると、東京ドームに水を入れて船を漕ぐようなもの)が行われたり、演劇が披露されたりと充実した時間が提供されていた。これらも、みなタダである。

公衆浴場
ローマ市内には、実に1,000件以上もの浴場があった。なお「浴場」とはいうが、現代の銭湯とは少々違う。あえて現代のものにたとえるならば、スポーツ・クラブやフィットネス・クラブになるだろう。どちらかといえば、公共の運動場や水泳場に近い。

入場料は今の日本円で換算すると10円くらいで、おそらくほとんどタダ。玄関にトレーニング・ルームがあり、レスリングや球技、槍投げや円盤投げを楽しめた。汗を流した後はマッサージ・ルームに行き、体をほぐす。お次は低温のサウナへ向かい、慣れていれば高温サウナへ行く。そして最後に、プールにつかって体を洗った。

ローマの公共施設の充実度を物語るのがここからで、プールをあがった人は、そのまま帰るのではなく、なんと遊戯室や談話室があるのでそこにも寄る。ほどよい疲労感と清涼感の中で、ローマ市民は友人たちと会話を楽しむのである。お腹が空けば食堂があるのでそちらへ向かい、最悪でも6皿の料理を頂けた。そのうち2皿は、肉料理であったという。もちろん、これらもサービスの一環で、食べても別料金は一切取られない。

2020/06/21

ヒッパルキア

マローネイアのヒッパルキア(ギリシア語: ππαρχία, 英語:Hipparchia)は、キュニコス派の哲学者で、紀元前325年頃に生きたテーバイのクラテスの妻。アテナイの通りで、夫と同じ条件でキュニコス派的な貧困の暮らしをしたことで有名である。その生き方は、当時の立派な女性なら到底受け入れられない生き方だった。

生涯
ヒッパルキアは紀元前350年頃、トラキアのマロネイアで生まれた。家族ともどもアテナイに移り、そこで兄弟のメトロクレス(Metrocles)がキュニコス派の哲学者テーバイのクラテスの弟子になった。

ヒッパルキアはクラテスに恋し、思いを募らせ両親にもしクラテスと結婚を反対するのなら自殺すると言った。両親はクラテスに、娘を思いとどまらせてくれるよう頼んだ。クラテスはヒッパルキアの前に立ち、服を脱いでこう言った。

「花婿はここで、財産はこれだけだ」

ヒッパルキアはそれでも十分幸せで、クラテスが着ているものと同じ服を着てキュニコス派の生き方を受け入れ、どこへでもクラテスに連れ添って現れた。クラテスは二人の結婚を「cynogamy(犬の交尾)」と呼んだ。

夫婦はアテナイのストア・ポイキレ(彩色柱廊)の中に住み、アプレイウスなど後の著作家たちは、彼らが白昼堂々公然とセックスする好色本を書いた。これはキュニコス派の恥知らずさ(anaideia)に一致しているが、それはともかく、ヒッパルキアが男の服を着て、夫と同じ条件で生きることを選んだという事実だけで、十分アテナイ社会には衝撃的なことだった。

ヒッパルキアは、少なくとも二人の子供をもうけた。娘とパシクレスという名前の息子である。ヒッパルキアが、いつどのように死んだかはわかっていない。ヒッパルキアの墓に刻むために書かれたのかも知れない、シドンのアンティパトロス(Antipater of Sidon)作と言われるエピグラムが残っている。

私、ヒッパルキアは豊かな衣をまとった女性の仕事ではなく、キュニコス派の男性的な人生を選んだ。ブローチで留めたチュニック、靴、芳香を漂わすヘッドスカーフは私を喜ばせない。でも、ずだ袋と、共に粗悪な着物を着て固い地面を寝床とする仲間たちが一緒。私の名前は、アタランテーより偉大だろう。山を走るより、知恵の方が良いことだから。

哲学
スーダ辞典には、ヒッパルキアがいくつかの哲学論文と、無神論者のテオドロス(Theodorus the Atheist)に宛てたいくつかの手紙を書いたと伝えている。しかし、何も現存していない。テオドロスと会ったという記録は残っている。

彼女はクラテスの酒宴にやってきて、以下のような詭弁を持ち出して、無神論者のテオドロスを試した。

「もしテオドロスがしたことで、彼が悪いことをしたと言われないのなら、ヒッパルキアがそれをしても悪いことをしたと言われることはない。自分をぶったテオドロスは悪いことをしていない、ヒッパルキアがテオドロスをぶっても、悪いことはしていない」。

彼は返事せずに、彼女の衣服を引っ張り上げた。

ヒッパルキアはそのことで不快に思ったり、恥ずかしがったりしなかったと言われる。さらに、テオドロスはヒッパルキアにこう言った。

「織機の杼を置き忘れた女性は誰ですか?」

ヒッパルキアは、こう答えた。

テオドロス、私がその人です。でも、もし私が織機で費やすべきだった時間を哲学に捧げたとしても、あなたには私が間違った選択をしたとは見えないでしょう?

そうした逸話以外には、ヒッパルキアの哲学については何も知られていないが、夫のクラテスと似ていたに違いない。そのクラテスは、キティオンのゼノンの師であったことが知られている。ゼノンがストア派を発展させる中で、ヒッパルキアの影響を受けたとは言えないが、ゼノン自身の愛とセックスについての急進的な見解は(ゼノンの『Republic』にその証拠がある)、もしかしたらクラテスとヒッパルキアの関係が基になっているのかも知れない。

後世への影響
ヒッパルキアの名声は疑いなく、哲学を実践し、夫と同じ条件で人生を送った女性という事実によるものであろう。どちらも、古代のギリシア・ローマでは珍しいことだった。キュニコス派の生き方を選んだ女性は他にもいたが、ヒッパルキアの名のみが残っている。

ヒッパルキアは、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝(Lives and Opinions of Eminent Philosophers)』に取り上げられた唯一の女性哲学者であり、後の作家たちも魅了させ続けた。たとえば1世紀に書かれた一連の『Cynic Epistles』の中のいくつかは、クラテスからヒッパルキアにアドバイスが与えられたと主張している。

私たちの哲学がキュニコス派と呼ばれるのは、私たちが何事にも冷淡だからではなく、私たちが甘ったるい世間一般の意見は我慢できないものとわかっているんで、積極的に他のものに耐えているからなのだ。それが名前の由来であり、前者の者たちは自分たちをキュニコス派とは呼ばない。だから、キュニコス派のままでいなさい、そして、それを続けなさい。君たちの方が本来我々(男性)より悪くはないし、また、牡犬より牝犬が悪くないのだから。すべて(人々)は法のせいか、悪徳のせいか、奴隷として生きているが、君は自然から解放されないといけない。
出典 Wikipedia