2023/10/30

飛鳥文化

飛鳥文化は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。

 

朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。

 

仏教の伝来

仏教の百済からの公伝は、538年(宣化天皇3年)または552年(欽明天皇13年)とされている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552年)、百済の聖王(聖明王)の使者が金銅釈迦仏像、経典などを天皇に献上したと記す。一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺縁起』は、これを欽明天皇7年の戊午年(538年)のこととする。『書紀』と『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』とでは天皇の在位年代が異なっており、上記の戊午年は『書紀』では宣化天皇3年にあたる。現在では仏教公伝を538年とする説が一般的だが、異説もある(詳細は「仏教公伝」の項を参照)。

 

当時、仏教受容の先頭を切ったのは蘇我稲目であり、百済の聖王が日本の朝廷の伝えてきた金銅釈迦像・経典若干卷のうちの仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し、さらに向原(むくはら)の家を清めて向原寺(こうげんじ)とした(『日本書紀』)。

 

仏教の摂取と流布に大いに貢献した蘇我氏と、これに反対する物部氏との対立(崇仏論争)はのちに蘇我馬子と物部守屋との間での戦乱を招く。これに勝利した蘇我氏と蘇我氏系大王のもと、王権の本拠地である飛鳥京を中心に仏教文化が発展する。

 

飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)に高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。

 

7世紀後半になると、中央政府が、地方の豪族への寺院建築を奨励したために、全国的に寺院の建築が活発化する。

 

仏教寺院

日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺として創建されたが、後には官寺(天皇が発願し、国家が維持する寺院)に準ずる扱いを受けた。造寺・造仏の技術者は、主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。また、594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。

 

四天王寺

難波(大阪)。『日本書紀』によれば、聖徳太子の発願により593年(推古天皇元年)に建て始められた。飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院の1つである。

 

飛鳥寺(法興寺)

崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。寺司(てらのつかさ)は馬子の長子・善徳。日本で最初の本格的な寺院で、氏寺であるが、蘇我系王族の強い支援のもと、官寺としての性格が強い。

伽藍は南北の中軸線上に南から南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶが、塔の東西にも金堂が置かれる三金堂式である。中門から出ている回廊はその外側を通って、金堂の背後で閉じている。現在の安居院本堂は創建時の飛鳥寺中金堂の位置にあり、鞍作止利作とされる金銅仏・飛鳥大仏が安置されている。

593年(推古元)、塔の心礎に仏舎利を安置したという(『日本書紀』)。これ以後の皇居(宮)も、ほぼこの飛鳥寺を中心にした飛鳥に置かれた。飛鳥寺の中軸線と天智朝の末年か天武初年に建てられた川原寺の中軸線との中心線(中道)は、天武朝の藤原京の設定の一基準となり、両中軸の間隔はまた、飛鳥の方格地割りの基準となった。

 

百済大寺

舒明天皇により639年(舒明天皇11年)に建立され、舒明の没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇によって継承された、最初の天皇家発願の仏教寺院である。桜井市吉備の吉備池廃寺が寺跡に比定されている。完成時には、蘇我氏発願の飛鳥寺を遙かに凌ぎ、九重の塔がそびえ建ち、高さは法隆寺の五重塔の二倍もあり、現代の25階ビルに相当し、当時の東アジアでも超一級の寺院であった。この寺は高市大寺、大官大寺と改称・移転を繰り返し、平城京に移転して大安寺となった。

 

法隆寺(斑鳩寺)

用明天皇により発願され、その遺志を継いだ聖徳太子と推古天皇により607年(推古天皇15年)に創建された(金堂薬師如来像光背銘による)。創建伽藍は670年(天智天皇9年)に焼失し(『書紀』)、現存する西院伽藍はその後の再建であるが、日本最古の木造建築である。

 

広隆寺(蜂岡寺、秦公寺)

秦氏の氏寺。

 

善光寺(定額山 善光寺)

皇極天皇元年(642年)に三国渡来の一光三尊阿弥陀如来が現在の地に遷座、皇極天皇3年(644年)皇極天皇の勅願により本堂を創建。皇極天皇の命により、聖徳太子妃であり、蘇我馬子の娘である刀自古郎女が出家し、尊光上人を名乗り、善光寺の開山上人となる。白雉5年(654年)より本尊が秘仏となる。開山上人から現在に至る約1400年間、皇室・公家から出家した歴代の尼公上人により、その篤い信仰と平和への祈りは綿々と継承されている。

 

坂田寺

南淵(みなみぶち、明日香村)。奈良時代の建物基壇などが発掘されているが、飛鳥時代の遺構は見つかっていない。

 

豊浦寺(とゆらじ)

 

彫刻

飛鳥大仏

仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表的遺品として下記がある。

 

ü  飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏) - 鞍作止利の作(頭部と指の一部が現存)

ü  法隆寺金堂釈迦三尊像 - 鞍作止利の作

ü  法隆寺夢殿救世観音像

ü  法隆寺百済観音像

ü  広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像

ü  中宮寺半跏思惟像(弥勒菩薩・寺伝は如意輪観音)

 

飛鳥寺本尊、法隆寺金堂釈迦三尊像などに代表される様式を止利式といい、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面観照性の強い造形などを特徴とする。かつては、止利式の仏像が北魏様式、法隆寺百済観音像などにみられる様式が南梁様式(南朝様式)とされたこともあった。しかし、南朝の仏像の現存するものが少ないこと、日本へ仏教を伝えた百済と北魏とは相互交流が乏しかったことなどから、止利式を北魏様式、百済観音を南朝様式、と明快に割り切ることは疑問視されている。

 

その他の遺物

繡仏

ü  三経義疏(御物) - 仏教に深く傾倒した聖徳太子の著作・自筆といわれている。

ü  天寿国繡帳(中宮寺蔵) - 銘文中の「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)という言葉は、聖徳太子の晩年の心境をよく窺うことが出来るとされている。

ü  染織品 - 繡仏、錦などが伝世している。

ü  飛鳥の石造物 - 飛鳥地方に存在する猿石、酒船石、亀石、橘寺の二面石などと呼ばれる石造物。信仰関連の遺物と考えられている。

 

その他の文化

百済の僧・観勒が暦本と天文・地理の書を献じた。

高句麗の僧・曇徴が来朝した。絵具や紙、墨を作ったとされるが、日本における創製者かどうかは定かでない。

 

飛鳥の宮室

ü  豊浦宮 - 蘇我氏の氏寺であった豊浦寺を改修して宮とした。推古天皇

ü  小墾田宮 - 後の宮殿の原型となる。603年、推古天皇遷る。

ü  飛鳥板葺宮 - 643年、皇極天皇即位 645年、大化の改新

ü  後飛鳥岡本宮 - 壬申の乱の直後に天武天皇遷宮、斉明天皇

ü  飛鳥浄御原宮 - 内郭・外郭を持ち、内郭が北・南区画に分かれ、北区画に宮殿、南区に朝堂と南門を持つ。

2023/10/28

パタンジャリのヨーガ・スートラ(1)

http://www.ultraman.gr.jp/ueno/

ヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ)

それでは、これら総合的なラージャヨーガの代表的な教典、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に添ってヨーガの構造や行法を見ていきましょう。

 

この教典は、パタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4~6世紀頃に記述され、完成されたといわれている教典です。

 

八段階の積み重ねによって構成されているので、アシュタンガ(8つの部分=八支則の)ヨーガと云われています。

 

この総合的なヨーガの行法は、その目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のようです。そして、この実践の過程において、先回お話した五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるものとなり、心身の健康度が飛躍的に高まり,その人自身の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらすものとなります。 

 

第一段階 「禁戒(きんかい)」= ヤマ

心の平安を得るためには、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実にめざめ、自ら発する他者への行為を良好にする事が大切です。これは「出したエネルギーの質が、何らかの形で、同じ質のものが当人に帰ってくる」と云うカルマの法則を基盤にしています。

 

禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前に、まず命を害するものをとり除くという事が先決で、医学でいえば薬を飲む前に、毒を吐き出させるという事になります。これを「金剛律(ダイヤモンドの戒律)」の後に「黄金律(黄金の戒律)」という順序となります。

 

ヨーガ・スートラでは、次の最も基本的な五つの生活法則を示しています。 

 

1)      非暴力(アヒンサ)…仏教では不殺生戒

生きとし生けるものに無用な暴力、殺生をくわえない。すると、害されなくなる。

 

2)     正直(サティア)…仏教では不妄語戒 

言葉と行動を一致させ誠実なものとする。すると、信頼を得る。                                                

 

3)     不盗(アステーヤ)…仏教では不盗戒

他人の物、時間、喜びなどを不当に盗らない。すると、豊かになる。

 

4)     梵行(ブラフマチャリヤ)…仏教では不邪淫戒

性的エネルギーを適切にコントロールする。すると、強健になる。

 

5)     非所有(アパリグラハ)…仏教では不貪戒(または不飲酒戒) 

所有欲を克服し、ものに執着しない。すると、生の目的を悟る。

 

第二段階 「勧戒(かんかい)」= ニヤマ

この地上において、本来の自己を実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねが最も大切です。この勧戒は、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則「黄金律」が説かれています。

 

1)     清浄(シャウチャ)…ヨーガにおいての清浄とは、外面と内面双方における清潔さが求められています。肉体的な浄化法と心的な浄化法(慈悲喜捨)が、それにあたります。

 

2)     知足(サントーシャ)…与えられた環境・現状をまず受け入れ、感謝し肯定の姿勢から物事に対処していく態度です。 

 

3)     精進(タパス)… 日常において、自らに課した「行」や仕事の積み重ねによって心身を強いものにして目標の実現力を高めます。

 

4)     読誦(スヴァーディヤーヤ)…常に聖典を読んだり、真言を唱え、「生命の智慧」の理解と学習を怠らない事です。

 

5)     自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)…各自を守っているハイヤーセルフともいうべき守護神に、人生における気高い目的の達成を常に祈り願う事です。 

 

第三段階 「体位法(たいいほう)」= アーサナ 

いよいよヨーガの特徴である、いわゆるポーズの段階になります。アーサナという名詞は、「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来、「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本でした。およそアーサナ(座法=体位法)は大別して

   瞑想の為のもの

   リラックスの為のもの

   身体を造る為のものとに分けられます。

 

一説ではシヴァ神は、8400万のアーサナを説いたと云われていますが、その中でも84のアーサナが優れていると云い、他のヨーガ教典では32種類のアーサナを説いています。現在でも、立位、座位、寝位のヴァリエーション(変形)を入れると、多くの種類になりますが、いずれにしても、ゆっくりとした呼吸と共に、身体のその一定の型を通して動く瞑想、体を使った祈りと云った状態をめざし、身体的な健康を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整になります。

 

アーサナを日常生活の中で規則的に、一定の時間行じていくと、身体的には、血行を促し、筋肉、骨格、内臓器官、神経、ホルモン体などに良い影響を与え、ひいては、心の状態を安定させ、各人の性格や、生き方にも多大な影響を与えることとなります。

 

ヨーガスートラにおいては、このアーサナを以下のように定義しています。

 

ü  「座法(アーサナ)は安定していて、快適なものでなくてはならない」(Ⅱ-4)

ü  「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」(Ⅱ-47)

ü  「そのとき行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況に害されない。

(Ⅱ-48)

※実際のアーサナの代表的な形と種類は後の「身心八統道」の項で説明いたしま      す。

2023/10/21

ハルシャ・ヴァルダナ

ハルシャ・ヴァルダナ(Harsha Vardhana, 590 - 647年)は、古代北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の大王(在位:606 - 647年)。シーラーディトヤ(Siilāditya、漢語文献では戒日王、尸羅逸多)と号した。グプタ朝滅亡後の混乱のうちにあった北インドを統一した文武両面に秀でた名君のひとり。

 

生涯

即位

550年ころ、グプタ朝が「白いフン族」と呼ばれたエフタルの侵略によって滅亡すると、北インドは分裂状態に陥った。

 

ヴァルダナ朝は、デリー北方のスターネーシュヴァラ(ターネーサル)の出身であり、ハルシャの祖父王アーディトヤ、父王プラバーカラの間、フーナ、マールワの両地方を抑えて国勢を拡大した。兄王ラージャ・ヴァルダナが、ベンガル地方(金耳国、カルナスヴァルナ)の支配者シャシャーンカの奸計による不慮の死を遂げたあと、606年、16歳でデリー北方に所在する父祖伝来のターネーサルの王国と、義弟の死で空位となったマウカリ朝の領土とを合わせたガンジス川上流域の大国の王位についた。

 

北インドの平定

ハルシャ王は、要請の地でマウカリ朝の首都であったガンジス河畔のカナウジをみずからの王国の都に定めたのち、四囲に兵を進め、宿敵であったカルナスヴァルナのシャシャーンカを討滅して兄の無念を晴らし、生産力豊かなベンガルを領土に加えるため、兵力の増強をはかって象軍5,000、馬軍20,000、歩兵50,000の軍隊を組織し、アッサム王バースカラヴァルマンとも同盟してベンガルを平定した。

 

その後、ハルシャ王は北インドの統一事業に乗り出し、6年間でインド中部チャールキヤ朝のプラケーシン2世が支配する一帯をのぞく北インドの大部分を統一した。この時点で象軍60,000、馬兵100,000にも達していたという。以後、首都のカナウジは北インド政治の中心となった。その繁栄ぶりは『大唐西域記』にも記されている。プラケーシン2世に対しては、634年ころ、大軍を派遣したものの南北インドの境をなすヴィンディヤ山脈の麓のナルマダー河畔で破れたため、南インドへの進出はかなわなかった。

 

宗教と学芸の保護

玄奘三蔵

王は当初シヴァ神を奉ずるヒンドゥー教徒であったが、のちに自ら仏教を主題とする戯曲を著すなど仏教にも帰依して教団に惜しみない援助をあたえた。当時はヒンドゥー教の隆盛がみられた一方、仏教は教義の研究が中心となり、大衆から遊離したため教勢は全体として衰退していた。そうしたなかにあって、グプタ朝よりつづくナーランダ僧院には東南アジア地域を含む各地より数千人におよぶ学僧が集まり、研究にいそしんでいた。

 

「三蔵法師」としてその学識は並ぶ者なしといわれた玄奘は唐からの求法僧で、629年に中国を出発、630年ころヴァルダナ朝インドに訪れている。玄奘を喜んで迎えたのが、当時インド最大の学者といわれたシーラーパドラ(戒賢)だった。ハルシャ王も玄奘一行を手篤くもてなし、布施をあたえてプラヤーガ(現在のアラハバード)に招いて大宴会を催したという逸話が残っている。玄奘は5年間、ナーランダ僧院で修学し、ハルシャ王にも進講した。

 

玄奘の訪印を記した『大唐西域記』によれば、ハルシャ王は1年に一度諸国の学僧を集めて広く議論を興し、5年に一度「無遮大会」とよばれる聖俗貴賤を問わない布施の行事を催すなど、仏教に対する信奉も篤いものであった。法会での玄奘の学識の高さに感動したハルシャ王は、美しく着飾った象に乗せて街を練り歩く栄誉を与えようとしたが、本人が固辞したため玄奘の袈裟を乗せて巡回することになったという。

 

勇猛な武人であると同時に文芸愛好者でもあったハルシャ王の宮廷には、数多くの詩人や学者が集まっていた。バーナ Bānaは、ハルシャ王の事績をたたえる『ハルシャチャリタ』Harsacaritaを著した。

 

内政と外交

ハルシャ王は独裁的ではあったが善政をしき、一代で北インドにグプタ朝的秩序を回復した。『大唐西域記』には、30年近くも戦争が起こらず、政教和平であると記している。

 

ハルシャ王は、みずからの本拠であるガンジス川上流地方を直接統治したが、その他の領土は服従を誓った地方領主(サーマンタ)に支配を委ねた。上述したハルシャ王の「無遮大会」は、『大唐西域記』によれば金銀、真珠、紅玻璃、大青珠などの多くの貴石、宝石さえ準備され、王の装身具や衣服までもが施されて、大会が終わると国庫が空になるほどの徹底した喜捨であった。それを見かねた地方領主は、王の装身具を買い戻して差し出したとつたわる。

 

ハルシャ王はまた、晩年には唐の太宗との間に使節を交換した。ヴァルダナ朝からの修好使節は641年に唐の朝廷に派遣された。王玄策は643年(貞観17年)に答礼使の副使としてインドを訪れ、647年には正使として再び訪印した。2度目の訪印はハルシャ王死没の直後にあたり、王玄策一行はヴァルダナ朝の臣下で、その支配から離反して王位を簒奪しようとしたアラナシュの兵に捕らえられたが、脱出して檄文を発し、チベット(吐蕃)とネパール(泥婆羅)から8千余の兵を得てアラナシュを征討した。しかし、ハルシャ王の死とともにヴァルダナ朝の勢威は急速に落ちていった。

 

最期

647年、ハルシャ王が後継者を残さずに没すると、王国は再び急速に分裂していった。新たな分裂の時代は「しのぎをけずりあう諸王朝と、混じり合う諸民族をはっきりとは区別できない」時代とも称される。中央アジアからの侵略諸勢力がカイバル峠をこえて北西部よりインドに殺到し、ヒンドスタン平原は再び群雄割拠の状態に陥った。これ以降「ラージプートの時代」と呼ばれる時代がおとずれる。

 

詩人としてのハルシャ王

ハルシャ王はまた、サンスクリット詩人としても有名で「ナーガーナンダ(竜王の歓喜)」「ラトナヴァリー」「プリヤダルシカー」の著作がある。

2023/10/19

ハタ・ヨーガ(3)

現代のハタ・ヨーガ

今日、さまざまな体位法(アーサナ)に重点を置くハタ・ヨーガが世界的に広まっているが、これは浄化法やムドラー、プラーナーヤーマを重視する古典的なハタ・ヨーガとは別物である。宗教社会学者の伊藤雅之は、現在実践されているアーサナの大半は、19世紀後半から20世紀前半に西洋で発達した身体文化(キリスト教を伝道するYMCAやイギリス陸軍によってインドに輸入された)を強調する運動に由来すると述べている。伊藤は、現代のアーサナの起源は、西洋式体操法などの西洋身体文化が、インド独自の体系として、伝統的な「ハタ・ヨーガ」の名でまとめられたものであると述べており、現在のアーサナと、『ヨーガ・スートラ』に代表される伝統的な古典ヨーガや中世以降発展した(本来の)ハタ・ヨーガとのつながりは極めて弱いと指摘している。

 

アーサナ偏重の現代ヨーガの基礎は20世紀前半に築かれた。19世紀のヨーロッパでは、精神だけでなく肉体を鍛えようとする「身体文化」が興隆した。20世紀に入ると、インドではその流れを受けて、国産のエクササイズを生み出そうとする動きが活発化した。近代ヨーガの立役者であるヴィヴェーカーナンダは、19世紀末にハタ・ヨーガのアーサナに対して否定的な態度を取ったが、20世紀に入ってから体操的なものとして復興したアーサナ(実は、欧米の体操などの影響を強く受けている)は、パタンジャリすなわち『ヨーガ・スートラ』の伝統に基づくという解釈によって権威づけされた。

 

その時代に、身体文化としてのヨーガの推進に貢献した人物としては、ボンベイ(現ムンバイ)などで活躍したスワーミー・クヴァラヤーナンダ(1883 - 1966年)、シュリー・ヨーゲーンドラ(1897 - 1989年)、1930-40年代にマイソールでヨーガを指導したティルマライ・クリシュナマチャーリヤ(1888 - 1989年)などが挙げられる。マニク・ラオに伝統的体育学と武闘術を学び、マーダヴァダースにヨーガを学んだクヴァラヤーナンダは、ヨーガを学問的に研究し、体育教育や病気治療に活用しようとした。彼は1924年に、プネー近郊のローナヴァラにカイヴァリヤダーマ・ヨーガ研究所を創設し、ヨーガの研究と普及に努めた。

 

クリシュナマチャーリヤは現代ヨーガへの影響が大きい人物で、「現代ヨーガの父」とも呼ばれる。クリシュナマチャーリヤは、1930年代にマイソールの藩王の宮殿でヨーガ教師の職を得て、ジャガンモハン宮殿内にヨーガ教室を開いた。当時マイソール藩王国を統治していたクリシュナ・ラージャ4世(1884 - 1940年)は体育振興に熱心であり、クリシュナマチャーリヤが構築した体操的なアーサナのスタイルの背景には、192030年代のマイソールで振興が図られたさまざまな身体文化の要素があった。

 

ノーマン・スジョーマンの研究では、マイソールの宮殿では王族が体操を実践していたと指摘され、マイソール・スタイルのヨーガの形成において宮殿にあった体操の教本が利用された可能性が示唆されている。

 

伊藤博之は、クリシュナマチャーリヤは西洋の身体文化から発生した多様な体操法を自らのヨーガ・クラスに取り入れ、西洋式体操をインド伝統のハタ・ヨーガの技法として仕立て上げたとしている。クリシュナマチャーリヤは、マイソールの宮殿で働き始めた年にクヴァラヤーナンダのカイヴァリヤダーマ・ヨーガ研究所を視察しているが、この時すでにクヴァラヤーナンダの「ヨーガ的体育」の教育プログラムは連合州に広まっていた。現代ヨーガのアーサナ体操の起源についての研究を行ったマーク・シングルトンは、そこでクリシュナマチャーリヤはヨーガをベースにした体育教育について教唆を受け、自分のヨーガ指導に応用したのではないかと考察している。

 

アーサナを取り入れたインド国産の(その実、欧米の体操などの影響を強く受けている)身体訓練は、1920年代以降全国的に広まっていた。シングルトンは、クリシュナマチャーリヤが1930年代以降に教えたマイソール・スタイルのヨーガもその流れに乗ったもので、当時インドで国産のエクササイズとして広まっていた体育教育法のヴァリエーションであったと指摘している。また、クリシュナマチャーリヤは、思想面にヴィヴェーカーナンダなどのヒンドゥー復興運動の思想と『ヨーガ・スートラ』を援用した。ヴィヴェーカーナンダは、ハタ・ヨーガの身体鍛錬を軽んじるどころか否定した。

 

一方、『ヨーガ・スートラ』をハタ・ヨーガの教典よりも権威あるものとみなしたクリシュナマチャーリヤも、『ヨーガ・スートラ』には書かれていない浄化法(シャトカルマ)のような伝統的なハタ・ヨーガ技法は軽視してほとんど教えなかったが、アーサナ体操については『ヨーガ・スートラ』に基づくものとしてこれを正当化した。クリシュナマチャーリヤはハタ・ヨーガの古典にはない、近代ヨーガの体位であるシールシャーサナ(頭立ちのポーズ)や、サルヴァンガーサナ(肩立ちのポーズ)に重点を置いた張本人といわれ、現代のほとんどのヨーガ教師は(クリシュナマチャーリヤとは直接関係のないシヴァーナンダなどの系統の人々も含めて)、直接的・間接的に彼の教えの一部から影響を受けているといわれる。

 

クリシュナマチャーリヤは、1924年から死去する1989年までヨーガを指導した。アーサナを中心とした現代のヨーガは、直接または間接的にクリシュナマチャーリヤの影響を受けているものが多い。彼が1930年代から20年ほどの間にマイソールで教えていた激しい体操的なヨーガのスタイルからは、躍動的なヨーガで知られるアシュターンガ・ヴィニヤーサ・ヨーガが生まれ、1990年代以降の北米で盛んなパワー・ヨーガなども、その派生である。

 

健康法としてのヨーガ

欧米で学習されているハタ・ヨーガの大半は、アーサナ(体位座法)が中心で、身体的なエクササイズの側面が重視されている。現在の研究で、入念に改変したヨガのポーズにより慢性的な腰痛が緩和され、歩行機能、運動機能を改善することが示されている。また、ストレス軽減の実際的方法論であるとも認識されており、他の通常のエクササイズと同様に生活の質を改善し、ストレスを緩和し、心拍数や血圧を下げ、不安やうつ症状、不眠を和らげ、全体的な体調、体力、柔軟性を向上させることが研究により示されている。様々な病気の予防や症状の改善に有益であると言う人もいる。しかし、一部の研究によると、ヨガで喘息は改善しない可能性があることが示され、ヨガと関節炎の関連を調査する研究では結論が分かれている。

 

ヨーガ・ジャーナル誌 (en:Yoga Journal) が行った2005年の調査“Yoga in America”の結果、米国でヨーガを習う人の数は1,650万人で、18 - 24歳のグループには前年比46%の伸びが見られた。

 

現代では、ハタ・ヨーガのテクニックを利用するアスリートや格闘家もいる。日本では、北米でヘルシー・ハッピー・ホーリー協会(3HOファウンデーション)を設立したインド人シク教徒Harbhajan Singh Khalsa、通称ヨギ・バジャンによるクンダリーニ・ヨーガ(ハタ・ヨーガ)に基づく呼吸法として、小山一夫が「火の呼吸」と呼ぶ呼吸法を指導している。(格闘家ヒクソン・グレイシーが行っている呼吸法であるという触れ込みで日本に広まったが、事実ではないと指摘されている。火の呼吸は、全身をリラックスさせ姿勢をまっすぐに保ち、速いペースで鼻呼吸を行う。

 

ビクラム・ヨーガは、高温多湿の部屋で26種のアーサナを連続的に行っていくという形式のもので、ホット・ヨーガとも呼ばれる(今日ではホット・ヨーガという用語は、ビクラム・ヨーガに限定されずに使われている)。部屋を高温にすると効果的にヨーガができるという発想は、1970年にビクラム・チョードリーが日本に開いたヨーガ教室で生徒たちがストーブを持ち寄って部屋を暖かくしたところ、冬の寒さにこごえていた身体が柔軟になったという経験がきっかけで生まれたという。

 

チョードリーは1970年代初めに北米に進出し、1990年代には自分のヨーガをフランチャイズ制にした。一律のプログラムで運営される数百以上のヨーガ・スタジオが開設され、世界的ファーストフード店の名をもじって「マックヨーガ」と揶揄されることもある。ビクラム・ヨーガで怪我をしたり酸欠で倒れるという事故も起きている。

2023/10/11

ハタ・ヨーガ(2)

伝統のハタ・ヨーガ

伝統的なハタ・ヨーガは総合的・全人的なヨーガ道である。具体的には制戒、坐法(アーサナ)、浄化法(シャトカルマ)、印相(ムドラー)、調気法(プラーナーヤーマ)、瞑想(ディヤーナ)である。

 

ヨーガには大きく分けて古典ヨーガとハタ・ヨーガという二つの流れがある。ハタ・ヨーガは生理的・身体的な修養を軸とする。また、古典ヨーガは心の作用の止滅を目指したのに対し、イメージを活用して心を統御しようとするハタ・ヨーガは、むしろ心の作用を活性化させる傾向を有するものと見ることができる。ハタ・ヨーガの古典『ゴーラクシャ・シャタカ』は、『ヨーガ・スートラ』の説く八支則(アシュターンガ、アシュタ=八、アンガ=肢)のうち、ヤマ(禁戒、制戒)とニヤマ(勧戒、内制)を除く六つをハタ・ヨーガの六支則とする(ハタ・ヨーガの六支則については後述)。

 

スヴァートマーラーマは自身の著書『ハタ・プラディーピカー』の中で、ハタ・ヨーガをラージャ・ヨーガの前段階として位置づける。そして、ラージャ・ヨーガはハタ・ヨーガなしには成立せず、ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガなしでは成立しないと繰り返し述べている。ここでいうラージャ・ヨーガは、一般に『ヨーガ・スートラ』の古典ヨーガのことと解される。両者の主な相違点は、ラージャ・ヨーガで行う坐法は、瞑想状態を維持するために身体を整える目的で行われることである。

 

したがってラージャ・ヨーガは瞑想に重点を置き、そのために蓮華座 (結跏趺坐)、達人座 (en:siddhasana)、安楽座 (en:sukhasana)、正座 (vajrasana) といったポーズを行う。ハタ・ヨーガは、瞑想以外にも身体の訓練を目的とする坐法も行う。ラージャ・ヨーガで行うプラーナーヤーマ(調気法)に、バンダ (Bandha)(締め付け)を伴わないことと類似している。

 

ハタは熱い物と冷たい物のように相反するエネルギーを表す。(炎と水など陰陽の概念と同様に)男性と女性、プラスとマイナスなどである。ハタ・ヨーガは、身体を鍛練するアーサナと浄化の実践、呼吸のコントロール、そこから得られるリラクゼーションと瞑想によってもたらされる心の落ち着きを通して、精神と身体の調和を図る。アーサナは体の平衡を保つ訓練である。アーサナによってバランスが取れ、鍛えられると心身ともに健康になり、瞑想の素養となる。ただし、痰や脂肪の多い人はプラーナーヤーマより先に浄化法を行うことが必要である。

 

アシュターンガとは、パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』に書かれている8支則のことである。すなわち、倫理遵守に関わるヤマ (Yama)(禁戒)とニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、調気法であるプラーナーヤーマ(調息)、感官を外界から内に引き戻すプラティヤーハーラ(英語: pratyahara)(制感)、思念の集中であるダーラナー(英語: dharana)(凝念)、瞑想であるディヤーナ(静慮)、高度な心の抑止の境地であるサマーディ(三昧)の8つである。8支則は、正確には8段階の修養過程であり、段階ごとに効果が顕れ、それが次の段階の基礎となる。パタンジャリのアシュターンガ・ヨーガ(八支ヨーガ)はラージャ・ヨーガと混同されることも多いが、『ヨーガ・スートラ』自体にはラージャ・ヨーガという言葉は使われていない。

 

ハタ・ヨーガは、六支則に基づいてサマーディ(三昧)に到達しようとする。ハタ・ヨーガの六支則とは、アーサナ(坐法)、プラーナーヤーマ(調気法)、プラティヤーハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(無心)、サマーディ(三昧)である。ハタ・ヨーガの原点となる教典は、サハジャーナンダの高弟であるスヴァートマーラーマによって書かれた『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』である。ハタ・ヨーガで重要なのは、クンダリニーの覚醒である。ハタ・ヨーガの成果は、次のように現れるとされる。身体が引き締まる、表情が明るくなる、神秘的な音が聞こえる、目が輝く、幸福感が得られる、ビンドゥー(英語: bindu)のコントロールができる、エネルギーが活性化する、ナーディーが浄化される、など。

 

プラーナーヤーマ(調気法)

プラーナ(生命力)とアヤマ(拡張する、または調節する意)の2語から成る言葉。プラーナーヤーマは呼吸を長くし、コントロールして整える。その方法には、レーチャカ(呼気)、プーラカ(吸気)、クンバカ(英語: Kumbhaka)(通常の吸って吐く程度の間呼吸を止めること、保息)の3種がある。プラーナーヤーマは精神的、身体的、霊的な力を高めるために行う。しかし危険を伴うこともあるため、習得できるまでは経験豊富な指導者の下で行うことが必要とされている。

2023/10/09

ゲルマン的英雄像(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 以上の「神々の黄昏」では「主立った数人の神」の戦いだけしか語られていませんでしたが、この戦いに備えてヴァルハラで暮らしていたかつての英雄たち、つまりアインヘルヤルと呼ばれていた者たちはどういう者たちだったのか、それもやはり紹介しておきたいです。その中で、もっとも有名な「シグムンド」を紹介しておきます。

 

 フナランドの王「ヴェルスング」には、10人の息子と一人の娘がいた。その長男は「シグムンド」といい、一人娘の名前は「シグニュ」と言って二人は双子の兄妹であった。兄弟はいずれも抜群の勇士であったが、この二人の優れと美しさは群を抜いていた。

 

 娘のシグニュが成長した時、ガウトランドの王であった「シゲイル」がシグニュに求婚してきた。ガウトランドは強大な国であったので、父王ヴェルスングは良い縁組みであるとしてこれを認めた。シグニュは何となく悪い予感がしたのだけれど、父の決定に従った。

 

 そしてシゲイルはやってきて、盛大に婚礼の宴が開かれた。すると、そこに突然つばの広い帽子を深々とかぶり、袖のないまだらのマントを身につけた長身の老人が入ってきた。彼は片目で、手には一振りの剣を持っていた。老人は館の中央に生えている巨大な柏の大木のところに近寄ると、その根元の幹に手にした剣を差し込んだ。そして

 

「この剣をこの幹から引き抜けた者が、わしからの贈り物としてこの剣を所有するがよい。その者は、この剣が世に二つとない希代の名剣であることを知ることになるだろう」

 

と言って立ち去っていった。その老人は誰あろう「神オーディン」が身を変えて現れた姿であった。

 

 人々は老人の他を圧する雰囲気に立ちすくんでいたが、老人が立ち去ると皆ハッと我に返って、男たちは皆な柏の木の根本に駆け寄った。そして、てんでにその剣を引き抜こうとしたけれど、どんな力自慢の男もビクともさせることができなかった。最後にシグムンドが近寄りその剣に手をかけると、何の力も要せずスルリと剣は抜けてシグムンドの手の中に収まった。その剣は燦然と光り輝き、そのすばらしさに感嘆せぬ者はなかった。

 

 その剣をみたシゲイルはうらやましくて仕方がなく、シグムンドに向かってその剣の三倍の重さの黄金を支払うから、その剣を譲って欲しいと申し入れた。しかしシグムンドは、この剣は引き抜いた者が持つべきということでその申し出を断った。

 

 シゲイルは花婿の申し出が断られたということで心が煮えくりかえったけれど、表面は平静を保って、心のうちに復讐の計画を誓った。そして翌日になって突然、天候の具合で今日のうちに出帆したいと言い出し、その代わり三ヶ月後に王ヴェルスングだけでなく、シグニュの兄弟ともども招待したいので自分の国に来て欲しいと申し入れてきた。

 

 他方、一夜の語らいの中で、シグニュは夫シゲイルがとんでもない卑劣な悪人であることを見抜き、結婚を解消したいと願ったが父のヴェルスングはそれを許さず、シゲイルの申し入れに従って、その日のうちに二人を出発させた。

 

 約束の三ヶ月目に、ヴェルスングたちはシゲイルの館目指して出発したが、シゲイルの方はヴェルスングたちを皆殺しにしようと密かに大軍を集めて待ちかまえていたのであった。父ヴェルスングや兄弟たちの船がやってきたことを知ると、シグニュは密かにシゲイルの館を抜け出して父の元に忍び入り、シゲイルの悪巧みを教え、一たん戻って今度は軍を引き連れて戻り、シゲイルを討ってくれるようにと懇願した。

 

 しかしヴェルスングは「敵に後ろを見せぬ」という誓いを生涯貫いてきていたので、ここで戻るわけにはいかないとして敢えて上陸し、少ない部下を引き連れ待ちかまえたシゲイルの大群の中に切り込んでいったのだった。ヴェルスングとシグムンドはじめ兄弟たちは奮戦したけれど、しかしあまりの多勢に無勢のためについにヴェルスングは部下ともども討ち取られ、兄弟たちも全員捕縛されてしまった。

 

 シゲイルは全員すぐに殺してしまおうと思ったけれど、シグニュのたっての願いがあり、森の中に身動きできないように縛り付けておくことにした。しかし、そこには残忍な雌の狼がおり、それはシゲイルの母が魔法で身を変えられていたものであった。その雌狼は夜ごとにやってきて、10人の兄弟を一人づつ喰い殺していくのであった。そして、ついにシグムンド一人だけになってしまった。シグニュは自分の信頼できる家来を密かに使いに出しそのことを聞き出すと、その家来に蜜をもたせそれをシグムンドの顔に塗り口にも含ませておくように命じた。

 

 すると夜中になって、いつものように狼が現れシグムンドに近づいたが、蜜につられてそれをなめているうちシグムンドの口の中の蜜もなめようと口の中に舌を入れてきた。妹シグニュの作戦を察していたシグムンドは、口だけはうごかせたのでその狼の舌に思い切りかみついた。びっくりした雌狼は大暴れし、そのおかげでシグムンドを縛り付けていた木が折れ、縛めはゆるんでシグムンドは自由となった。シグムンドはそのまま狼の舌をかみ切って、それを殺して兄弟たちの敵をうった。

 

 これを知るとシグニュは早速森へと忍んでいき、兄シグムンドと会って今後の復讐のことについて話し合った。シグムンドは、ひそかに森の中に小屋を作って復讐の時を待つことにした。シグニュは、すでに二人の男の子をもうけていたが、その上の子が10歳になるので復讐の役にたつならばと、シグムンドのもとに送り込んできた。シグムンドは、その子の度胸をためそうと小麦粉の中に「まむし」をいれておき、自分が薪をとりに行っている間に「パン」を焼いておくように命じてみた。しかしシグムンドが戻ってきたとき、その子は何もしていなかった。わけを聞くと小麦粉の中に何やら得体のしれない生き物が入っていたので、手をつけることができなかったと言った。シグムンドはガッカリして、それをシグニュに伝えた。するとシグニュは、そんな子は生きていても何の役にもたたないから殺してよいと返事をしてきた。

2023/10/04

ヴァルダナ朝

ヴァルダナ朝(Vardhana)またはプシュヤブーティ朝(Pusyabhuti)は、7世紀前半、ハルシャ・ヴァルダナが創始した古代北インド最後の統一王朝。

 

首都は当初は現在のテインザー(Thanesar、古代名はSthanvishvara、ハリヤーナー州)に置かれていたが、最終的にはガンジス川の上流のカーニャクブジャ(Kanyakubja、現在のカナウジ(Kanauj)、ウッタル・プラデーシュ州)に置かれた。

 

概要

前史

4世紀前半に起こって、同世紀末から5世紀前葉にかけて全盛期をむかえたグプタ朝であったが、5世紀中葉以降「白いフン族」と呼ばれた遊牧民エフタル(インド・エフタル)の勢力の度重なる侵略を受けた。グプタ朝第5代の王スカンダグプタ(位455 - 467年)は、この侵入軍を一度は撃退したが、その後も侵略は波状的に継続した。

 

6世紀に入ると「白いフン族」の部隊長ミヒラクラの暴虐が知られるようになった。ミヒラクラは権勢を振るった6世紀前半、大規模な仏教弾圧を行った。6世紀中ごろ、疲弊したグプタ朝が滅亡すると、北インドは分裂状態に陥った。

 

建国

グプタ文化の秩序を回復したのは、勇敢な武将であったハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)であった。ハルシャは、606年頃に即位し、マウカリ朝等を併合して混乱のうちにあった北インドの大部分を統一し、ヴィンディヤ山脈 Vindhyas の北側一帯を支配した。

 

文武両面に秀でた名君のひとりであったハルシャ王は仏教に帰依し、また、ヒンドゥー教など諸宗教を保護した。ハルシャ治世期は国内は平和で栄え、インド文芸史においても重要な時期にあたっている。グプタ朝の時代に勃興したヒンドゥー国家主義の思想は、むしろハルシャ王によって回復された秩序だった平和のなかにおいてこそ充実していったのであった。

 

唐の玄奘は、貞観3年(629年)から貞観19年(645年)にかけてヴァルダナ朝を訪れ、『大唐西域記』において、ハルシャ王の政治の有徳さや国家の政教和平、首都カナウジの繁栄ぶり、また、当時のインドの人びとの正直で誇り高い姿を絶賛している。

 

中国の唐王朝との間には外交使節の交換もあった。ハルシャ王の派遣した修好使節は、641年に唐の太宗 (李世民)の朝廷を訪問し、2年後には唐からの答礼使、王玄策がハルシャ王のもとに到着した。

 

分裂期

647年頃、ハルシャ王が後継者を残さずに没すると、アラナシュ(阿羅那順)が王位を簒奪した。この混乱で唐の使節王玄策がアラナシュに捕らえられると、吐蕃のソンツェン・ガンポとリッチャヴィ王朝(泥婆羅)のナレーンドラ・デーヴァが、チベット兵・ネパール兵合わせて8,000人の兵でインドに侵攻し、王玄策を救出した。

 

アラナシュが捕虜として唐に連行されると、王国は再び急速に分裂していった。新たな分裂の時代は「しのぎをけずりあう諸王朝と、混じり合う諸民族をはっきりとは区別できない」時代というべき様相を呈した。インド亜大陸は、北端のカシミール地方の勢力、東部のベンガル地方のパーラ朝、中南部デカン高原のラーシュトラクータ朝、そして、侵略諸勢力が北西部の山道よりインドに殺到し、ヒンドスタン平原は再び群雄割拠の状態に陥り、西方はラージプート族による諸王朝が建てられた。この時期を「ラージプート時代」と称している。

2023/10/02

ハタ・ヨーガ(1)

ハタ・ヨーガ(サンスクリット語: हठयोग hahayoga IPA: [ɦəʈʰəˈjoːɡə])はヨーガの一様式・一流派。別名ハタ・ヴィディヤー (हठविद्या) で、「ハタの科学」を意味する。

 

ハタ・ヨーガは、半ば神話化されたインドのヒンドゥー教の聖者で、シヴァ派の一派で仏教とシヴァ派が混然とした形態だったナータ派の開祖ゴーラクシャナータが大成したとされる。ゴーラクシャナータの師は、仏教徒であったといわれるマツイェーンドラナータ(英語: Matsyendra)(マッツェーンドラナート)である。16世紀の行者スヴァートマーラーマのヨーガ論書『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』において体系的に説かれた。

 

「ハタ」はサンスクリット語で「力」(ちから)、「強さ」といった意味の言葉である。教義の上では、「太陽」を意味する「ハ」と、「月」を意味する「タ」という語を合わせた言葉であると説明され、したがってハタ・ヨーガとは陰(月)と陽(太陽)の対となるものを統合するヨーガ流派とされる。

 

ゴーラクシャナータは師マツイェーンドラナータの認識論、宇宙生成論をほぼそのまま受け継ぎ、純粋精神である「最高のシヴァ神」に創造の意欲という「シャクティ」が生じ、その結果としてこの二大原理から因中有果論に従って残りの原理が展開し、「束縛されたシヴァ」が個我(ジーヴァ)として顕現するとした。人間は個我を形成するレベルの低次のシャクティによって体を維持しており、会陰部に「クンダリニー」(とぐろを巻いた蛇)として眠るこのシャクティをハタ・ヨーガによって目覚めさせ、頭頂にあるとされる「至高のシヴァ神」の元に上らせ、この二元を合一させ至高の歓喜を得ることを説いた。

 

スヴァートマーラーマは、ハタ・ヨーガとはより高いレベルの瞑想、つまりラージャ・ヨーガに至るための準備段階であり、身体を鍛錬し浄化する段階であると説明する。ムドラー(印相)と、プラーナーヤーマ(調気法)を中心としているが、シャトカルマによる浄化法もよく知られている。インドのゴーピ・クリシュナは、このハタ・ヨーガにより解脱を得たとして、その境地を説明する本を著し、欧米人の興味を掻き立てた。

 

健康やフィットネスを目的とするエクササイズとして20世紀後半に欧米で大衆的な人気を獲得したハタ・ヨーガは、多くの場合、単に「ヨーガ(ヨガ)」と呼ばれる。現在ハタ・ヨーガと呼ばれるものの多くは、19世紀後半から20世紀前半の西洋で発達した体操法などの西洋の身体鍛錬文化に由来し、インド独自の体系として確立した「新しいヨーガ」の系譜で、現代のハタ・ヨーガのアーサナは、伝統のハタ・ヨーガとのつながりは極めて薄いといわれる。現代広く普及している、独特のポーズ(アーサナ)を練習の中心に据えたヨーガは「創られた伝統」であった。

 

『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』

『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』は、土着的民間伝承によってゴーラクシャナータの作と伝えられるサンスクリット語のハタ・ヨーガの聖典で、現存する中ではかなり古い。アヴァドゥータ(英語: avadhuta)(エゴや二元性を超越した聖者)の伝説についての記述が多い。ドイツ出身のヨーガ研究者ゲオルク・フォイアシュタイン(英語: Georg Feuerstein)の『聖なる狂気』 (1991: p.105) は、これについて以下のように述べている。

 

「最古のハタ・ヨーガの聖典に『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』があり、アヴァドゥータに関する詩が数多く記録されている。その一節(VI.20)には、変幻自在にあらゆる人格や役柄になりきる力について書かれている。ゴーラクシャナータは、俗人のように振舞うこともあれば王のように振舞うこともあり、ある時は苦行者、またある時は裸の隠遁者のようであった。」

 

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』

ハタ・ヨーガの総括的な教典は、スヴァートマーラーマが編纂した『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』である。著者自身は書名を『ハタ・プラディーピカー』と記している。『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』は、ゴーラクシャの著書とされる失伝した『ハタ・ヨーガ』や現存する『ゴーラクシャ・シャタカ』など、それ以前のサンスクリット語諸文献にもとづいて書かれているが、スヴァートマーラーマ自身のヨーガ経験についても記述がある。

 

『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』にはさまざまな事項、例えばシャトカルマ(英語: shatkarma)(浄化)、アーサナ(坐法)、プラーナーヤーマ(調気法)、チャクラ(エネルギー中枢)、クンダリニー、バンダ(英語: :Bandha (Yoga))(筋肉による締め付け)、クリヤー(英語: kriya)(行為、クンダリニー覚醒技法)、シャクティ(力)、ナーディー(英語: Nadi (yoga))(気道、脈管)、ムドラー(印相)といった事柄についての記載がある。

 

また、アーディナータ(英語: Adi Natha)(シヴァ神)、マツイェーンドラナータ、ゴーラクシャナータなど、多数の著名なヨーギンについての記述がある。

 

伝説・伝承

ハタ・ヨーガは、シヴァ神が提唱したものと伝えられる。誰にも聞かれぬよう孤島で女神パールヴァティーにハタ・ヨーガの教義を授けたが、ある魚が2人の話を全て聞いてしまった。シヴァ神は、その魚(マツヤ)へ慈悲を掛け、シッダ(成就者)に変えた。後に、このシッダはマツイェーンドラナータ(英語: Matsyendra)(マッツェーンドラナート)と呼ばれるようになった。マツイェーンドラナータは、チャウランギーにハタ・ヨーガを伝えた。チャウランギーは手脚がなかったが、マツイェーンドラナータを見ただけで手脚を得ることができた。

 

また、ゴーラクシャナータの師であったマツイェーンドラナータは、ヨーガの実修に女性を伴い禁忌とされた五種の物質を使用する左道派となったが、ゴーラクシャナータが師をそこから救い出したと伝えられている。ゴーラクシャナータが左道化していたヨーガ行を純化し、立ち直らせた業績を讃える伝承であると思われる。

 

近代

ヨーガの歴史的研究を行ったマーク・シングルトンによれば、近代インドの傾向において、ハタ・ヨーガは望ましくない、危険なものとして避けられてきたという。ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンド、ラマナ・マハルシら近代の聖者である指導者たちは、ラージャ・ヨーガやバクティ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなどのみを語っていて、高度に精神的な働きや鍛錬のことだけを対象としており、ハタ・ヨーガは危険か浅薄なものとして扱われた。

 

ヨーロッパの人々は、現在ではラージャ・ヨーガと呼ばれる古典ヨーガやヴェーダーンタなどの思想には東洋の深遠な知の体系として高い評価を与えたが、行法としてのヨーガとヨーガ行者には不審の眼を向けた。それは、17世紀以降インドを訪れた欧州の人々が遭遇した現実のハタ・ヨーガの行者等が、不潔と奇妙なふるまい、悪しき行為、時には暴力的な行為におよんだことなどが要因であるという。