2024/02/27

フィンランド神話

フィンランド神話はフィンランドの神話であり、18世紀まで口伝によって継承されてきた。

 

フィン族は精霊信仰を常に信仰し、その後世俗化はしたものの原始宗教的な伝説を守ってきた。狩り(ペイヤイネン Peijainen)や収穫、種蒔きといった儀式は、社会的イベントとして開催されたが、根底にある宗教的部分は全く欠落しなかったのである。

 

周囲の文化の緩やかな影響によって、単一神教的な考え方から空神を主神格に上げたが、彼らにとっては空神も元来は他と同じ「自然界の存在の1つ」でしかなかった。

 

最も神聖視された動物の熊は、フィン族の祖先の化身と見なされていたため、具体的な名前を声に出して呼ぶことはせず、"mesikämmen"(草地の足),"otso"(広い額), "kontio"(陸に棲むもの)といった婉曲表現で呼んでいた。

 

フィンランドの古代の神々が「マイナーな異教神」になってしまっても、その精神は長年の伝統となって大多数のフィン族の生活に浸透しており、習慣としてその神々を大切にしている。驚くべき事でもないが、神の大部分は、森や水路、湖や農業といった自然の事象と密接に関連している。

 

研究史・伝承採集史

ミカエル・アグリコラ

歴史上フィン族の信仰に関する最初の記述は、1551年にフィンランドの司教のミカエル・アグリコラが旧約聖書の『詩篇』をフィンランド語に翻訳した時のものである。彼はその翻訳(『ダビデの詩篇(ダウイディン・プサルッタリ)』 Dauidin Psalttari1551年)の序文の中で、ハメ地方やカレリア地方の神や精霊について多く記述している。

 

上記ミカエル・アグリコラの神々の目録では、ハメ地方とカレリア地方とでそれぞれ以下の12の神や精霊の名前と伝承が記録されていた。

 

『カレワラ』以前

18世紀には、ヘンリック・ガブリエル・ポルトハン『フィンランドの詩』(De poësi fennica1766-78年)や、クリスティアン・エリク・レンクヴィスト(フィンランド語版)『古代フィンランド人の理論的および実践的な迷信について』(De superstitione veterum Fennorum theoretica et practica1782年)、クリストフリッド・ガナンデル『フィンランド神話学(英語版)』(Mythologia fennica1789年)が編まれた。ガナンデルの『フィンランド神話学』は、フィンランド神話の基本的著作とされる。

 

19世紀には、カルル・アクセル・ゴットルンド(英語版)『フィンランド少年娯楽用小民詩集』(Pieniä runoja Suomen poijille ratoxi1813年・1821年)や、老ザカリアス・トペリウス(フィンランド語版『フィンランド民族の古代民詩と新歌謡』(Suomen kansan vanhoja runoja ynnä myös nykyisempiä lauluja1822年・1831年)が編まれた。トぺリウスの著作はリョンロートに影響を与えており、また『カレワラ』(古カレワラ)のカレワ(英語版)に関する部分などはトペリウスを参照しているという。

 

『カレワラ』

そして19世紀中頃に、エリアス・リョンロートが『カレワラ』を編纂した。口承を収集し、1833年に『ワイナミョイネンの民詩集』(Runokokous Väinämöisestä)、いわゆる「原カレワラ」(Alku-Kalevala)としてまとめ(ただしこれは未発表だった)、1835年にこれに追加の採集資料を加え補修改訂を行った『カレワラ・フィンランド民族太古よりの古代カレリア民詩』(Kalevala taikka vanhoja Karjalan runoja Suomen kansan muinosista ajoista)、いわゆる「古カレワラ」(Vanka Kalevala)を発表した。そして1849年にこれを増補改訂した『カレワラ』(Kalevala)、いわゆる「新カレワラ」(Unsi Kalevala)を発表した。

 

『カレワラ』(新カレワラ)は文学的には高い評価を受け、フィンランドの国民的叙事詩とまで成った。一方、民俗誌としては、元の伝承から改変が加えられていることが知られており、取り扱いに注意が必要である。

 

『カレワラ』以後

またリョンロートは、『カンテレ・フィンランド民族古代及び現代の民詩と歌謡』(Kantele taikka Suomen kansan sekä vanhoja että nykysempiä runoja ja lauluja1828-31年、全4巻)、『カンテレタル・フィンランド民族の古代歌謡と譚詩(英語版)』(Kanteletar taikka Suomen Kansan vanhoja lauluja ja virsiä1840年)、『フィンランド民族古代呪文民詩(ロイツルノヤ)』(Suomen kansan muinaisia loitsurunoja1880年)といった伝承集成も残している。

 

リョンロートと同時代の伝承収集者としては、DED・エウロパエウス(英語版)、MA・カストレン(英語版)、JF・カヤン(英語版)などが挙げられる。彼らが採集した資料は「新カレワラ」に取り入れられている。

 

リョンロート以後の動きとしては、フィンランド文学協会(英語版)により編纂された『フィンランド民族古代民詩集(英語版)』(Suomen kansan vanhat runot1908-48年)がある。全33巻、85千項目以上・総計127万行という大部の収集資料である。

 

20世紀以降のフィンランド神話や『カレワラ』に関する研究者としては、マルッティ・ハーヴィオ(英語版)、ウノ・ハルヴァ(英語版)、などが挙げられる。

 

世界の起源と構造

フィンランド神話における世界の創造については、以下の3つの類型が知られている。

 

卵が割れて天空や大地その他になったとする、宇宙卵型神話(英語版)。『カレワラ』で語られているのもこの類型である。

水鳥が海に潜り、啣えて戻ってきた土が大地になったとする、潜水型大地創造神話(フィンランド語版)。

 

宇宙鍛冶イルマリネン(英語版)による天空の鍛造。

宇宙卵型神話では、この世界は鳥の卵が破裂してできあがったものだとされている。また空は卵の殻かテントのようで、北にある北極星まで届く大きな柱がそれを支えているのだと考えられていた。星の動きは、北極星を中心に空の大きなドームが回転する事で起こると説明付けられていた。

 

フィンランド神話の宇宙像

(A) 天蓋(英語版)(Taivaankansi タイヴァーンカンシ 「天の蓋」)

(B) 北極星(Pohjannaula ポホヤンナウラ(フィンランド語版) 「北の釘」)

(C) 宇宙軸[42]Maailmanpylväs マーイルマンピュルヴァス 「天地の柱」)

(D) 大渦(Kinahmi キナフミ(フィンランド語版)。トゥオネラへの入口とされる)

(E) ポホヨラ

(F) 人々の住む世界

(G) リントゥコト(フィンランド語版)

(H) トゥオネラ(英語版)

地球の端には "Lintukoto"(リントゥコト(フィンランド語版) 「鳥の住処」)と呼ばれる暖かい地域があり、冬の間鳥が住んでいた。天の川は "Linnunrata"(リンヌンラタ 「鳥の通り道」)と呼ばれ、鳥は季節によってフィンランドとLintukotoの間を行ったり来たりすると信じられていた。フィンランドでは今でも、天の川の事をLinnunrataと呼んでいる。

 

鳥の存在には、もっと別の重要性もあった。まず、人が産まれる瞬間、その魂は鳥が運んできた。そして死の瞬間に運び去るのだ。また、枕元に木製の鳥の像("Sielulintu"シエルリントゥ(フィンランド語版) 「魂の鳥」)を置いておくことで、夢の中で魂が道に迷って帰って来られなくなる事を防いだ。

 

水鳥は物語ではごく普通の存在であるが、岩絵や彫刻に見られるように、古代人の重要な信仰の対象だった事をうかがわせる。

 

死者の国トゥオネラ

トゥオネラ(英語版)(Tuonela) は死者の国である。そこは全ての死者が赴く地下の収容場所もしくは都市であり、死者は善悪を問わずそこへ行く。トゥオネラは全てのものが永遠に眠る暗く生命のない場所であるが、優れたシャーマンだけが祖先の教えを請うために、トランス状態でトゥオネラに行く事ができた。トゥオネラに行くためには、魂はトゥオネラの暗い川を渡らなければならなかったが、正統な理由があれば、魂を運ぶ船が来るという。シャーマンの魂は本当に死んでいるかのように信じ込ませて、トゥオネラの見張りを何度も騙さなければならなかった。

 

空と雷の神、ウッコ

ウッコはフィンランド神話中の主神であり、天空・天気・農作物(収穫期)とその他の自然の事象を司る神でもある。現在のフィンランド語の「雷 (ukkonen)」がウッコの名前から派生したように、雷を司る事でも知られている。雷神としてのウッコは、彼のもつウコンバサラと呼ばれるハンマーから、稲光を発したという。

2024/02/23

唐(12)

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唐の文化

唐の国際性

 唐は国際性の豊かな時代でした。

 唐の前半は羈縻政策がうまくいって、非常に広い地域が唐の勢力下に入ります。資料集の地図を見ると、その広大さがわかるでしょ。領域内だけでも多くの民族が住んでいるし、貿易、留学いろいろな目的で世界中から雑多な民族が集まってきましたから、都長安は国際色豊かな都市となります。現在でいえばニューヨークです。人口も100万人を超えていて、多分バグダードと並んで当時世界最大規模の都市です。

 

ü  杜甫

ü  李白

 

 李白の詩に、こんなのがあります。

 

「少年行」

  五陵の年少、金市の東

  銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

  落花(らっか)踏み尽くして、何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

  笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中

 

 盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけていて、見るからに金持ちの貴公子なんです。花びらを踏み散らしながら、どこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった、というんだ。

 酒肆というのは酒場のことです。

 

この詩のポイントは胡姫という言葉。

胡という字は、もともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代にはいるとイラン人をさすようになります。胡姫というのはイラン人の女の子。だから胡姫酒肆とくれば、わかりますね。エキゾチックな可愛いイラン娘がお酌をしてくれるキャバレーだね。イラン娘は踊り子かもしれない。

 

 李白は、このような長安の華やかな雰囲気をつたえる詩をたくさんつくっています。商人以外にも、いろいろな仕事で唐に出稼ぎに来ていた西方出身の人がたくさんいたんでしょうね。

 

 外交使節も長安にやってきます。日本からは遣唐使。留学生、留学僧もたくさん連れてくる。日本は新興国家ですから唐に学ぼうと必死です。

 

 遣唐使のような使節をおくる国はたくさんあって、唐からするとこれらはみんな朝貢(ちょうこう)です。中国の皇帝をしたって諸国が貢ぎ物を持ってくる、という解釈をします。対等な外交関係ではありません。そのかわり、朝貢した国は帰りにどっさりおみやげをもらってくる。貿易としては、朝貢国は大儲けです。

 

 アラビア方面からは、インド洋経由でムスリム商人達がやってくる。イスラム教徒のことをムスリムという。唐は広州のまちに市舶司という役所を設けて貿易を管理した。要するに商業税をとった。

 

 イスラム教との関係では、重要な戦いがありますから覚えてください。

 

 タラス河畔の戦い(751)。

 

 現在のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス三国の境あたりで唐とイスラムのアッバース朝が戦いました。東西交易路の奪い合いです。

この戦いで唐は負けた。死者5万、捕虜2万。捕虜の中に紙梳(す)き職人がいたんだ。その結果、製紙法がイスラム世界に伝わることになりました。やがてはヨーロッパまで製紙法は伝えられていきます。

 というわけで、タラス河畔の戦いは文化史上、非常に重要。入試にもよく出る。

 

 ちなみに、この時に唐軍の司令官が高仙芝(こうせんし)という人で、この人は高句麗人です。朝鮮半島出身の人が唐の軍人として、中央アジアでアラブ人のイスラム教徒と戦っている。ワールドワイドな時代になっていますね。

 

 高仙芝は、このあと長安に帰還して安史の乱で反乱軍と戦っています。

 

 この絵をみてください。永泰公主(えいたいこうしゅ)墓壁画です。永泰公主は則天武后の孫娘にあたる人。

 彼女の侍女たちが描かれているのですが、この人が持っている孫の手の大きいもの。これはポロのスティックです。ポロというのは、今でもイギリスなどの貴族たちが楽しむようですが、馬に乗っておこなうホッケーですね。古代ペルシアで生まれた遊牧民たちのスポーツ。この時期には、中国でも流行したことがわかるね。今でいえばテニスラケットを持って記念写真を撮っているようなものです。

 

 こちらの絵、永泰公主墓壁画とそっくりの構図です。これは高松塚古墳の壁画です。見て書いたのではないかというくらい、ふたつは似ている。

 

 これは正倉院にある「鳥毛立女屏風(とりげだちおんなびょうぶ)」。一方のこちらは、中央アジアのオアシス都市トルファンから出土した絵です。両方とも樹木の下に女性が立っている同じ構図で、一般に樹下美人図と呼ばれるものです。構図が同じだけではなくて、女性の顔つきもそっくりです。

 

 こういう絵を見ていると、西は中央アジアから東は奈良まで唐を中心として、一つの文明圏にすっぽり入っているのが実感できます。美人の基準まで同じですからね。

 唐の国際性というのは、こういうところにもでているのです。

 

西方宗教の流入

 東西交流が活発になりますから、西方からいろいろな宗教も入ってきた。

 

 まず、ゾロアスター教。これは当時、祆教(けんきょう)といわれた。イラン人の宗教ですから、胡姫たちとともに入ってきたのかもしれない。

 

 景教(けいきょう)は、ネストリウス派キリスト教。ローマ帝国で異端とされて、東方に拡がってこの時代は中国にも入っている。これは「大秦景教流行中国碑」という有名な碑が残っています。造られたのは781年。高さ276センチ。長安でキリスト教が流行したのを記念して建てられたものです。

 

 マニ教というイラン生まれの宗教も来ました。これは仏教、キリスト教、ゾロアスター教を融合させたもので、イスラム以前の西アジアで信者を多く集めていました。

 

 そして、イスラム教。これは回教(かいきょう)と表現します。

 中国は現在でも多民族国家ですから、イスラム教徒もたくさんいます。現在はイスラム教を信仰しているウイグル人を回民と書いたりします。

 

 北京のまちを歩いているとしゃぶしゃぶ屋さんがたくさんあって、これはほとんどイスラム教徒の経営です。顔つきは漢民族と区別は付きませんが、頭にちょこんと白い小さな帽子をかぶっているのですぐにわかります。

 中華料理の食材に豚肉は欠かせないでしょ。ところがイスラム教では、豚は悪魔が造った穢れた動物だから決して食べてはいけないの。だから、しゃぶしゃぶも繁盛します。本場のしゃぶしゃぶの肉は、もちろん羊です。仏教や道教とともに、これらの宗教の寺院が長安のまちには軒をつらねていたんだ。

 

 遣唐使とともに、唐に渡った天才に空海がいます。高野山を開いた人。かれは当時、中国で流行していた密教を日本に持ち帰るんですが、好奇心旺盛な人だから長安のまちをあちこち探索したに違いないんです。ゾロアスター教や、キリスト教、イスラム教、そんな宗教を日本に紹介する可能性だってあった。想像するだけでもわくわくしませんか。

 

 唐の文化を大きくまとめると、まず国際的な性格。これは今まで話してきました。歴史的には、五胡十六国時代以来の多民族的な側面が発展したものです。

 

 もう一つは貴族的性格です。文化の担い手は、六朝文化を継承する貴族階級です。

 魏晋南北朝以来の総まとめが、唐の文化だったわけです。

2024/02/20

イスラム教(1)

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イスラム教の特徴

イスラム教とは

 ムハンマドが始めたイスラム教はどんな特徴を持っているのか、簡単に見ておきましょう。

 

 まず、一神教である、ということ。ここはしっかり頭に入れておくこと。只一つの神しか認めない。しかも、その神は人格神です。山の神とか、火の神とか、太陽の神とか、そういう自然神とは全然違う。

 

 こういう一神教の宗教は、世界で三つだけです。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教。ムハンマドが神がかりになったときに、相談したハディージャのいとこはキリスト教徒でしたね。また、ムハンマドがイスラム教の教義を確立したメディナの町はユダヤ教徒の住民がかなりいたところで、ムハンマドはかれらからも大きな影響を受けています。つまり、イスラム教はユダヤ教、キリスト教の兄弟宗教で、一神教三兄弟の末っ子なのです。

 

 イスラム教の唯一神をアッラーといいますが、アッラーというのは神様の名前ではありません。注意してください。アッラーというのはアラビア語で「神」という意味です。一般名詞です。日本語で「神さまー」というように、アラビア語で「アッラー」というのね。だから「アッラーの神」という言い方は間違いです。

 

 では、神様の名前は何かというと、あえて言えば「ヤハウェ」です。キリスト教徒が信じているのと同じ神さまをイスラム教は信仰しているのです。イエスはユダヤ教を改革しようとした人でしたね。だから、キリスト教の神さまはユダヤ教と同じ「ヤハウェ」でした。そして、その同じ神をイスラム教も信じている。だから、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えているのですよ。

 

 ムハンマドが神がかり状態になるときに、神の言葉を授かるのですが、神はずっと昔からムハンマド以外の人にも言葉を与えてきた。それが、「ノアの方舟」のノア、「出エジプト」のモーセなど、旧約聖書の登場人物たちです。ムハンマドはそれらの人物を預言者として認めます。さらに、イエス。かれも預言者の一人だった、とムハンマドは言う。ただし、神はこれまでの預言者たちに、すべてのことを伝えたわけではない。言い残した言葉がたくさんあったんだ、という。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドなのだ。

 

 というわけで、イスラム教でのムハンマドの位置づけは「最後にして最大の預言者」です。何しろ、神さま今まで言い残していたすべてをムハンマドにしゃべってしまったので、もう何も人類に伝えることはない。だから、ムハンマドは最後の預言者なのです。キャッチフレーズとしては滅茶苦茶にうまい。おいしいところに目を付けたな、という感じですね。ムハンマドが他の人間と違うのはそこだけで、他に奇跡を起こしたりとか特別な能力を持っていたりということはありません。

 

 イスラムという言葉ですが、これは「神への帰依」という意味です。帰依というのは「深く信仰し、その教えに従う」という意味ですよ。だから「イスラム教」という言い方はそのまま訳すと「神を信仰する宗教」という意味になってしまって、なんだか居心地が悪いね。イスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。意味は「神に帰依した人々」です。この言葉、教科書でも頻繁に出てきますので、しっかり覚えてください。

 

 神がかり状態のムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」です。この「コーラン」は、考えようによってはものすごい本です。たとえば仏教のお経やキリスト教の新約聖書は、ガウタマ=シッダールタやイエスの言葉がどれだけそのまま伝えられているかという点から見ると、かなりあやふやなものです。しかも、ガウタマ=シッダールタやイエスは人間ですから、かれらの言葉が正確に書かれていても人間の言葉に過ぎない。

 

 ところが「コーラン」は、神の言葉そのものなのです。神がムハンマドの肉体を通じて語りかけたのだから。しかも、それをリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたものです。他の宗教の経典は、のちの時代の信者たちが教祖の言葉を解釈してまとめたもの。「コーラン」は神の言葉を解釈抜きで書き留めたもの。この違いはすごい。またまた、ムハンマドはおいしいところをとりましたね。

 

 ムハンマドはアラブ人ですから、アラビア語をしゃべりました。神がかり状態の時もアラビア語でしゃべったのです。ということは、神はアラビア語でしゃべったのです。神の言葉を人間が勝手に変えることはできません。だから、翻訳した「コーラン」は、もう神の言葉ではない。日本でも本屋に行けば日本語訳の「コーラン」を売っていますが、正確には、これは「コーラン」ではありません。私たちが、イスラム教がどんなものか知るのにはそれで充分ですが、もし、入信するならアラビア語で誦まなくてはダメです。

 

 だから、ムハンマドの死後、イスラム教が西アジアからアフリカ北岸に広がっていくと、アラビア語もそれにつれて広まっていった。「コーラン」によって、アラビア語が西アジアに広がったということは知っておいてください。

 

 「啓典の民」という言葉も覚える。これは、イスラム教が同じ神を信仰しているユダヤ教徒、キリスト教徒を呼ぶ言い方です。ユダヤ教、イスラム教を尊重した言い方だからね。ただ、イスラム側が尊重するように相手方は尊重してくれないんですが。まあ、「最後にして最大の預言者」がムハンマドで「コーラン」が神の言葉、などと言われては尊重できないでしょうね。

2024/02/13

唐(11)

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 安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるような、でっかい石臼を運ぶ部隊です。反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には、死体がたくさん転がっている。そこに石臼部隊が、ゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。

 

 もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために、反乱をつづけているような状態になっているのです。華北の荒廃とは、こういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。

 

 反乱鎮圧後、唐の朝廷は長安に帰ってきますが、都はすっかり変わり果てていたのです。

 

 唐の詩人杜甫(とほ)に「春望(しゅんぼう)」という作品があります。非常に有名な詩なので紹介します。

 

  国破れて 山河あり

  城春にして 草木深し

  時に感じては 花にも涙をそそぎ

  別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす

  烽火 三月に連なり

  家書 万金に抵(あた)る

  白頭 掻(か)けば更に短く

  渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す

 

 杜甫は安史の乱で一時、長安に幽閉されます。戦乱で荒れ果てた長安の風景を嘆いている詩です。「城春にして」の城とは長安のこと、繁栄していた長安が今では草ぼうぼうだ、といっているのですよ。戦火が三ヶ月もつづき、離ればなれになった家族からの手紙は万金の価値。白髪頭もすっかり薄くなり、まったくかんざしさえさすことができない。そんな意味です。

 

 大学時代に中国からの留学生と飲む機会があった。日本の高校では国語の時間に漢詩を習うんですよと、とりあえず少し覚えていたこの春望のことを話したら、ワンさん、中国語で朗々と歌うように朗読してくれた。中国語で読むと、韻が踏んであるのがよくわかる。耳に心地よいですよ。日本で百人一首を暗記させられるように、中国の国語の時間にこういう詩を暗唱するのかもしれませんね。

 

唐の政治・社会の変質

 安史の乱後、唐の政治も社会も大きく変化します。

 

 まず、唐王朝の力がすっかり衰えてしまった。均田制を維持することができません。

 均田農民は政府の援助が得られずに没落して、小作農になっていきます。小作農のことを佃戸(でんこ)という。佃戸が働く農地の所有者が新興地主階級です。かれらは、貴族とは何のつながりもない。混乱をチャンスに変えて成長してきた新興層です。

 

 均田制が崩れれば、当然それをもとにしていた租庸調制も崩れる。かわりに実施された税制が両税法。夏と秋の二回の収穫期に銭納で税を集める。一年二回の徴税なので両税法といいます。両税法の献策者が楊炎(ようえん)。受験的にはわりときかれます。これ以外にも、塩の専売制を強化して国家財政を補いました。

 

 府兵制が解体して、募兵制に切り替わります。傭兵部隊です。傭兵というのは、西洋でも東洋でも質が悪い。中国では良い鉄は釘にはならない、善い人は兵隊にはならないという諺があって、兵士になる奴にろくな奴はいない。まじめに働くことのできないならず者が、最後にたどりつく仕事だと考えられていたのです。

 

 府兵制の兵士は違うんですよ。これは徴兵ですからね、均田農民が兵士になる。農民というのは元来、まじめで黙々といわれたとおりによく働く。これを兵士にした府兵は、質がいいんです。募兵制の傭兵になってから兵士の質がグンと落ちる。略奪・暴行なんか、なんとも思っていない。

 

 そして、この募兵を率いるのが節度使です。唐朝は安史の乱後、国内にも節度使を置くようになります。節度使が反乱したら、別の節度使に鎮圧させるためです。国内に多数設置された節度使に任命されたのが、なんと、安史の乱で暴れまわった反乱軍の武将たちなんです。反乱鎮圧後、唐朝は反乱軍の将兵の扱いに困るのです。政府につなぎ止めておかないと、また何をしでかすかわかりませんから。そこで、官職をあたえて各地の節度使やその武将、兵士にした、というわけです。こんな節度使ですから、頭から唐の政府なんてなめているわけ。すぐに各地で自立化していって唐の政府の命令は無視するし、税金だって送ってこない。

 

 ただし、安史の乱で戦乱に巻き込まれなかった江南地方は、比較的唐の政府に対して従順できちんと税金を送ってきた。そのルートが大運河です。唐朝にとって、大運河と江南地方が生命線になります。やがて、ここが唐朝のコントロールから外れる時が唐の滅亡の時となります。

 

唐の滅亡

 安史の乱後、それまでとはまったく異なった税制・兵制で、国家の中身はすっかり以前とは違ったものになりましたが、あと100年ほど唐は何とか存続します。この唐朝に最後の打撃を与えたのが、黄巣の乱(こうそうのらん)(875~84)です。

 

 黄巣は塩の密売人でした。安史の乱後、塩の専売制は唐の大きな収入源だったので、塩の値段はどんどん上げられていきました。塩は生活必需品ですから誰もが買わざるをえない。庶民の生活を圧迫する。だから塩の値段が高すぎれば当然密売人が現れて、政府価格より安く売って莫大な利益を得るのです。政府としては密売をほっておくと収入減になりますから、必死に取り締まりをします。密売人側も、それに対抗して各地の密売組織が連絡をとりあって政府の裏をかく。最後に唐政府は軍を投入して、取り締まりを強化してきた。追いつめられた密売人がおこした反乱が黄巣の乱です。

 

 黄巣の反乱軍は、次から次へと都市を占領して略奪します。一つの都市を食い散らかすと、次の都市に向かう。こういうのを流賊というんですが、神出鬼没でどこにあらわれるかわからない。安史の乱では無傷だった中国南部も大きな被害を受けました。全国を荒らしまわって、最後は数十万の勢力に成長して長安を占領しました。

 

 このときに黄巣軍は長安にいた南北朝以来の貴族たちを、ことごとく黄河に放り込んで殺しています。貴族階級に対する庶民の恨みは強かったんですね。これで貴族は全滅したということです。黄巣は長安で皇帝に即位します。しかし、そのあとすぐに反乱軍自体が内部分裂で解体していく。

 

 唐朝は軍事的にはこれを押さえられないので、黄巣の武将たちに寝返って唐側につくように誘います。寝返ったら節度使にしてやるよ、黄巣の部下をやっていても将来はないよ、ってね。「帰順」をうながす、という。これが、うまくいって有力武将たちが寝返ってくるのです。黄巣は即位後には何をしたらいいかわからなくなるし、部下は寝返るし、敗戦がつづき最後は故郷に逃げ帰って自殺して反乱は終わりました。

 

 しかし、乱後、唐の政府はまったく形だけのものになります。中国全土に節度使が自立して軍閥化している。

 大運河と黄河の合流点、開封という都市があります。ここの節度使に任命されたのが黄巣の反乱軍から寝返った朱全忠(しゅぜんちゅう)という男。907年、朱全忠は唐を滅ぼして皇帝に即位しました。都は開封。国名は後梁(こうりょう)。

 

 後梁は中国全土を支配するだけの力はありません。黄河流域をかろうじて勢力範囲にしただけでした。それ以外の地域には、それぞれの節度使が自立・建国して中国は再び分裂時代に突入します。

2024/02/11

ムハンマド(7)

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 で、神はムハンマドに何を言っているかというと、

 

「神は自分だけである。」

「かつて、イエスに言葉を与えたけれど、その後の人類はイエスの言葉を間違って解釈していて、神の教えがゆがめられている。」

「だから、お前ムハンマドに自分の言葉を託すから、人々を教え導け。」

 

こんな事を神はずっとムハンマドに伝えていた。

 

 これが、悪霊の仕業でなく、本当に神の声だと確信したんだから、ムハンマドは布教しなければならないのですよ。それが、預言者というもんです。

 

 ところが、ムハンマドという人は滅茶苦茶に普通の人なんですよ。いきなり、神の声を聞け! なんて言っても、みんな信じてくれないよな、変人扱いされるのが関の山だよな、布教活動なんて恥ずかしいな、って思った。

 

 だから、イエスやシッダールタみたいに、いきなり街角で辻説法なんてできません。どうしたかというと、自分の身内から布教を始めた。身内なら、こいつおかしいんちゃうか? と思っても、いきなり邪険にはしませんからね。

 

 で、最初にムハンマドが布教したのが奥さんのハディージャ。ハディージャは愛する夫の言うことだから、黙って信者になりました。信者第一号です。あと、親戚連中を訪問して布教します。いとこ連中や叔父さんたち。入信してくれる人もあれば、馬鹿にする人もいた。

 

 この布教の初期の頃のムハンマドの行動を見ていると、この人は本当に普通の常識的な人だったんだなあと思いますね。

 

 ところで、信者になった人たちの入信の理由ですが、ムハンマドは他人の前でもしばしば神がかり状態になった。そうなると顔面蒼白になって、身体がブルブル震えて、見るからに異常になる。で、その口から神の言葉がでてくるんですが、神の言葉は詩になっているの。きちんと韻がふんであって、誦むというのにふさわしく、朗々と歌うように神の言葉がでてきた。

 

 ムハンマドは詩の才能は全くない、これは周囲のみんなが知っている。アラビアでは詩のコンテストがあったくらいに、詩人というのは尊敬されていた。そういう、天才詩人がつくるような言葉で神の言葉が語られるのです。ムハンマドには才能はないのだから、やはりこれは神がムハンマドの身体を借りて話しているんだ、と見ている人は思ったそうです。

 

 さて、親戚連中に対する布教が終わると、今度は他人にも布教せざるを得なくなる。ようやく、メッカの商人仲間にも布教を始めるんです。仲間のなかには親切に忠告してくる人もいる。

「お前、馬鹿なことはやめておけ。商人として、一応の地位を築いてきたのに、信用を失うぞ。」

とね。

 

 はじめは、親切心からムハンマドに布教を思いとどまるように言っていたメッカの商人たちですが、ムハンマドから見れば神の声を信じない不届きものですから、かれらの忠告を無視せざるを得ない。自分の布教を邪魔するものとして対立していきます。

 

 また、いつの時代でも新興宗教というのは、うさんくさい目で見られるものです。メッカの有力者、商人たちのムハンマドに対する態度は忠告から、弾圧へと変化してくる。それに対して臆病だったムハンマドも、戦闘的になっていきます。

 

 メッカで弾圧を受けていた頃のムハンマドの言葉です。というか、神がムハンマドに伝えた言葉です。

 

 「悪口、中傷をなす者に災いあれ。彼らは財を蓄えては、それを数えているばかり。財が人を不滅にするとまで考える。必ずや地獄の炎に焼かれるであろう。」

 

「お前は最後の審判などうそっぱちだなどという輩をみたか。連中は孤児を手荒に扱い、貧しい者に糧食を与えようとはしない。災いあれ…。」

 

 蓄財に走る商人、貧しいものを救おうとしない金持ちに対して、呪いの言葉を投げつけているでしょ。ムハンマドは、未亡人や孤児を大事に扱えと教えていますが、この辺は自分の体験がもとになっているんでしょうね。

 

 イスラム教の成立の背景として、メッカなどの商業都市での貨幣経済の活発化にともなう貧富の差の拡大があった、といわれています。うなずけるところです。

 

ヒジュラ

 ムハンマドが布教を開始したのが610年頃、その後、12年間メッカで布教を続けるんですが、弾圧は激しくなるばかりで信者や自分の命すら危ない状態になってきます。

 

 ムハンマドと、その信者たちは弾圧を逃れてメッカから200キロほど北にあるメディナという都市に移住することにした。

 

 622年のことです。ムハンマドなどは追っ手に命を狙われながら、命からがらメッカからの脱出に成功する。このときの信者は、いったい何人いたと思いますか。布教開始から12年ですよ。驚きますよ、信者の数はわずか70人です。たったこれだけ。今の日本にだって、信者数70名くらいの宗教団体ならそれこそ星の数ほどある。

 だから、ムハンマドグループのメディナへの移住は、世界の片隅で起きた小さな小さな事件に過ぎなかったはずです。

 

 ところが、ムハンマドたちがメディナに移住したあと、そこで信者が爆発的に増加するのです。そこで、イスラムではメッカからメディナへの移住のことを「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、ヒジュラの年、622年をイスラム暦元年としています。

 

 当時メディナの町はアラブ人、ユダヤ人が住んでいた。アラブ人住民は部族間の対立が激しく、またアラブ人とユダヤ人との対立もあって、非常に不安定な状態だったのです。

 

 一方、移住してきたムハンマドと信者たちは、みんな部族の絆を断ちきってムハンマドについてきた。部族を超えてアラブ人がまとまっている。これは、アラブ人の歴史上始めてのことで、かれらもこのことを意識している。

 

 部族を超えた信者たちのまとまり、共同体のことを「ウンマ」という。「ヒジュラ」とか「ウンマ」というようなイスラム独特の表現は、しっかり覚えてください。

 

 部族対立が激しくなっていたメディナの町で、ムハンマドたち「ウンマ」の存在は部族を超えた中立な調停者としての立場を得ることになった。ムハンマドは、相争う勢力を自分の同盟者、ウンマの一員にすることでメディナに安定をもたらした。

 宗教的というより、政治的に勢力を拡大するのです。

「部族対立を解決したかったら私の信者になり、ウンマの一員になりなさい。」

ということです。

 

 メディナで勢力を広げる過程で、ムハンマドは自分の宗教の儀礼を定めて、宗教としての体裁を確立していきます。この段階でイスラム教というものになった、ということです。

 

 メディナでイスラム教のウンマがある程度の大きさになると、砂漠の遊牧諸部族もこれと同盟を結んだ方が有利と考えるようになる。部族間の小競り合いは、しょっちゅうある。イスラムの信者を兵力として借りることができれば、それだけ敵より有利になるよね。

 

 ムハンマドはそういう部族に対して、信者になったら助けてやる、という。いわれた部族は丸ごと入信します。敵対部族もやっつけられないためには、自分たちもウンマの一員になればよい。こっちも部族丸ごと入信するわけだ。

 こんなふうに、あとは雪崩式に勢力は拡大していった。これが、イスラムの発展になるのですが、結果としてこういう布教方法は、国家を持たなかったアラブ人に政治的まとまりをもたらすことになったのです。

 

 部族に関係なく、信者はみんな平等だと教えるムハンマドの言葉を紹介しておきましょう。

 

 「もはや何人たりとも、地位や血筋を誇ることは許されない。あなたがたはアダムの子孫として平等であり、もしあなたがたの間に優劣の差があるとすれば、それは神を敬う心、敬神の念においてのみである。」

 

 630年には、ムハンマドは、ずっと敵対してきたメッカを征服、631年にはアラビア半島を統一しました。

 おっかなびっくり始めた宗教活動が、アラブ人をまとめるまでになった。すでに、イスラム教そのものが国家です。

 

 その翌年、632年にムハンマドは死去します。

 しかし、かれの死後、イスラムはさらに発展していきます。

2024/02/04

唐(10)

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安史の乱

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 755年、安史の乱(あんしのらん)が勃発します。

 反乱軍のリーダー安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)の二人の名前をつないで安史の乱とよばれます。安禄山は、現在の北京の北方を守備する節度使(せつどし)の長官でした。

 

 ここで、節度使の説明をしておきましょう。唐の兵制は府兵制だったのですが、玄宗の時代くらいから、これがうまく機能しなくなってくる。均田制そのものが形骸化してきたのだろうと思われます。そうなると兵士も集められなくなるのです。羈縻政策も、うまくいかなくなってきました。

 

 そこで辺境防衛のために、新たにつくられたのが節度使という軍団です。兵士は府兵制のような徴兵ではなくて募兵です。お金で雇った傭兵ですね。そして、軍団の司令官は、管轄地域の民政もおこないます。自衛隊の地方駐屯隊の司令官が県知事を兼ねるようなものです。国境を守るためには、この方が機敏に対応できるのですね。ちなみに節度使の長官のことも節度使といいますから注意。玄宗の時代には、北方の国境地域を中心に十の節度使が設けられていました。

 

 安禄山という男は父親がソグド人、母親は突厥人だという。ソグド人というのは中央アジアを中心に活動していたイラン系の商業民族です。そういう育ちもあってか、安禄山は六カ国語が自由に操れた。若いときから現在の北京方面にあった節度使の部下になって、通訳として勤務していたらしい。辺境地域ですから、いろいろな民族と接触する機会が多かったのだろう。安禄山という名前は「アレクサンドロス」の音を漢字にしたという説もあります。これは、多分こじつけですが面白いので紹介しておきます。

 

 この安禄山、すごく機転がきいて人の心をつかむのが上手だった。それで軍団の中で、どんどん出世していくのです。唐は人種、民族関係なしですからね。

 

 出世するために何をしたのかというと、楊貴妃に取り入ったのです。最初は贈り物を届けたりしたのでしょうが、やがて楊貴妃の部屋に入り込んだりする。すっかり気に入られて養子気取りです。楊貴妃に気に入られれば当然、玄宗皇帝に取り立ててもらえます。ついには玄宗にも気に入られる。

 

 安禄山は、ものすごく太っていた。ところが運動神経は抜群で、玄宗の前で軽快なステップを踏んでクルクル回って踊ったりする。その体型と踊りのアンバランスが、いかにもおかしかったらしい。玄宗に大うけ。ご機嫌の玄宗が「お前のそのでっかい腹の中には、何が入っているのか」ときくと、安禄山は「この腹の中は、陛下への真心でいっぱいでございます」なんて答えるのですな。

 

 そんなこんなで最終的には、北方の三つの節度使の長官を兼ねるまでになる。そこまで出世して、なぜ反乱をおこしたのか。

 

 実は同じように、楊貴妃の縁で玄宗に気に入られて出世した人物がいた。楊国忠です。名前からもわかると思うけど、この人は楊貴妃の「またいとこ」です。幼なじみですからね。こちらもスピード出世して、宰相になります。

 

 安禄山は、この楊国忠と滅茶苦茶仲が悪い。二人とも実力ではなくおべっかで出世しているわけで、玄宗に嫌われたらその瞬間に高い地位から転がり落ちる運命。玄宗と楊貴妃の愛を奪い合う関係ですから、ライバルになるのは当然です。

 

 楊国忠は、宰相として常に皇帝のそばにいる。ところが、安禄山はいつも玄宗や楊貴妃のそばにいて、ご機嫌伺いをしているわけにはいかない。勤務地は辺境ですから。節度使の仕事もしなければね。都を離れると、安禄山は気が気ではない。自分がいないあいだに、楊国忠が讒言をして自分を失脚させるのではないか、と心配なのです。

 

 心配しているうちに、安禄山は気がついた。自分は三節度使を兼任して、唐帝国全兵力の三分の一を握っている。玄宗に嫌われるのをビクビク恐れる必要なんか全くない。この兵力をもってすれば、自分自身が皇帝になることだってできる、と。

 

 そんな事情で挙兵するのです。玄宗皇帝の情実に流された人材登用のつけが、一気に爆発した感じです。そもそも節度使は、辺境防衛のためにおかれた軍団です。その軍から国を守る軍があるはずがない。反乱軍は無人の野を行くように進撃をつづけた。率いる軍勢は15万。すぐに洛陽を占領、翌年には長安も占領しました。

 

 玄宗は楊貴妃を引き連れて長安から逃れます。四川省に向けて落ちのびるのですが、逃避行の途中でかれらを護衛する親衛隊が反抗する。安禄山の反乱は楊貴妃のせいだ、と言うのです。この女に皇帝が溺れて政務をないがしろにしたから、こんなことになった。この女を殺せ、と兵士たちは玄宗に迫った。兵士の協力がなければ、逃げのびるどころか自分も殺されるかもしれません。玄宗は田舎のまちのお寺に楊貴妃を連れ込んで、因果を含めて絞め殺させるのです。愛しているのですが、泣く泣く殺す。ここが、玄宗と楊貴妃、世紀の恋愛のクライマックス。

 

 このあと玄宗は反乱勃発の責任をとって退位して、息子の肅宗(しゅくそう)が即位しました。

 

 唐政府は安史の乱を鎮圧するため、ウイグル族に援助を要請した。ウイグル族は突厥が衰退したあと勢力を伸ばしてきた遊牧民族です。国内には、安史の乱を鎮圧できる軍事力がなかったんですね。

 

 一方の安禄山ですが、長安を占領して新政府を建てて皇帝に即位するのですが、その直後に失明する。太っていたから糖尿病だったのかもしれない。おまけに全身皮膚病にかかった。もともと理想や理念があって、はじめた反乱ではありません。皇帝になっても政治運営なんかできない。そこへ失明と皮膚病でやけっぱちになる。絵に描いたような暴虐な人間になってしまって、息子に殺されてしまう。その息子は武将の一人史思明に殺されて、以後は史思明が反乱軍のリーダーになりますが、かれも暴れまわるのだけが取り柄の男で、これもその息子に殺される。史思明の息子は反乱軍をとりまとめるだけの力量がなくて、中心を失った反乱軍はウイグル軍に鎮圧されて、ようやく反乱は終わりました(763)。

 

 9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。

2024/02/02

ムハンマド(6)

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ムハンマドの登場

 今は世界中に広がっているイスラムですが、生まれたのは7世紀のアラビア半島です。

 当時のアラビア半島の人々は、どんな暮らしをしていたのか。

 アラビア半島の住民は、アラブ人が大多数です。セム語系の人たちです。

 当時かれらは国家をつくっていません。民族としても全然まとまっていません。部族単位の暮らしをしていた。

 

 暮らし方も多様でした。ラクダの遊牧民、小規模農業、隊商貿易などです。アラビア半島の西側、紅海に面した方ですが、ここはインド洋と地中海を結ぶ交易ルートになっていて、隊商貿易の商人たちが都市をつくっていた。

 

 宗教は多神教でした。土着の神様を、それぞれ信仰していたようです。また、ユダヤ教やキリスト教も商人によって伝えられていた。

 

 このアラビア半島にメッカという町がある。隊商貿易で栄えていた町で、住民も商人が多い。この町で生まれたムハンマド(570?~632)が、イスラム教をつくるのです。

 ムハンマドは、マホメットという呼び方の方が有名ですが、ムハンマドで覚えてください。

 

 ムハンマドの父親はメッカの商人でしたが、ムハンマドが生まれる前に旅先で死んでしまう。母ひとり子ひとりですが、母親も6歳の時に死んでしまって、ムハンマドはお祖父さんのもとに引き取られます。そのお祖父さんも8歳の時に死んで、今度は叔父さんのもとに引き取られる。

 

 要するにムハンマドは孤児で、親戚の間をたらい回しにされるという幼年時代を送ったのですね。叔父さんも隊商貿易に従事する商人で、ムハンマドは幼いときから叔父さんのキャラバンについていった。雑用をしていたんでしょう。そのまま成長して、ムハンマド自身も隊商貿易の商人となりました。

 

 メッカに、かなりの財産をもったハディージャという女性がいた。未亡人のハディージャはお金を出して、商人に隊商貿易をさせて儲けていたんですが、ある時、ムハンマドが彼女に雇われて隊商貿易を取り仕切った。

 ムハンマドの仕事ぶりを気に入ったんだろう。このあと、ハディージャはムハンマドに求婚しました。

 

 逆玉です。財産のないムハンマドには、おいしい話だ。ところが一つ問題があった。年齢です。このときムハンマドは25歳。ハディージャは40歳。常識的に考えて、バランス悪いです。もし、このシチュエーションで結婚したら、財産目当てだと思われる。

 ムハンマドは非常に普通の発想をする人だから、財産目当てなどとほかの商人たちに思われたくはないし、逆に自分を婿にしてただ働きさせるつもりじゃあないか、と疑うわけです。そこで、人を介してハディージャの真意を尋ねた。結局、ムハンマドはハディージャが真剣に自分を愛しているということを確信して結婚します。

 

 二人の間には子供は産まれたけど、男の子はみんな死んでしまう。跡取りの男の子をつくるために何人も妻を持ってもよいんですが、ムハンマドはそういうことはしない。ハディージャが死ぬまで、他の妻を迎えなかった。仲の良い夫婦として過ごしていたようです。

 

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イスラム教の成立

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 結婚後のムハンマドは、メッカの商人の旦那として不自由のない生活を送るようになった。そのあとは何事もなく日々は過ぎて、ムハンマドは40歳になった。

 

 ムハンマドは趣味があった。瞑想です。メッカの近郊にヒラー山という山がある。暇があるとムハンマドはヒラー山に登り、何日も洞窟にこもって瞑想をするのです。

 

 ある日のこと、いつものようにムハンマドが山のなかで瞑想をしていると、いきなり異変が起こった。金縛りにあったように身体が締め付けられて、ぶるぶる震えてきたんです。そして、目の前に大天使ガブリエルが現れて、ムハンマドに向かって「誦(よ)め!」と迫った。

 ムハンマドは、今自分に起こっていることがなんなのかわからない。恐怖でいっぱいで、「誦めません!」と抵抗した。

 

 「誦む」と訳しているのですが、この「誦む」という字は「声に出して読むこと」なのです。朗々と歌うように読むことをいう。大天使ガブリエルというのは、ムハンマドがあとあとになってそう解釈したもので、その時点ではなんだかわかりません。

 

 とにかく、訳の分からない魔人のようなのが「誦め!」という。その手には文字を書いた何かを持っていたんだろう。ムハンマドは字が読めなかったらしい。だから、「誦めません!」というのですが、そうすると大天使ガブリエルは、さらにムハンマドの身体をぐいぐい締め付けて「誦め、誦め!」と責める。

 

 苦しさのあまりに、口を開いて声を出したら、誦めた。

 

 すると、自分を締め付けていたわけのわからない力が、スッと抜けてガブリエルも消えて、ムハンマドはもとの状態に戻ったのです。

 ムハンマドは、あわてて山から降りて、ハディージャの待つ我が家に帰った。とにかく怖かったのです。

 当時、砂漠にはジンと呼ばれる悪霊がいると信じられていた。砂漠で道に迷って死んだりする商人がいると、ジンにとりつかれたんだといわれていた。そこで、ムハンマドは、自分にもその悪霊がとりついたんだと考えたんだね。

 

 ムハンマドは、この体験をはじめは誰にもしゃべらない。自分の胸にそっとしまっておく。しゃべって変に思われるのを怖れたんじゃないかと思う。ところが、それ以後何回も同じような体験をするんですね。とうとう、ムハンマドはハディージャに打ち明けた。

 これこれ、こんなふうに悪霊に取り付かれて、俺は気が変になっているんじゃないだろうか、とね。ハディージャは「大丈夫よ、あなたは変じゃないわ。」と言ってなぐさめた。

 

 それ以後もムハンマドに何かがとりつく、ということはしばしば起きるのね。その時に聞こえてくる声を、ムハンマドはハディージャに伝えるようになる。ハディージャも、ムハンマドの身に起こっていることが何なのか、だんだん気になってきます。

 心配になったハディージャは、物知りのいとこに相談するんですが、このいとこはアラブ人には珍しいキリスト教徒だったのです(一神教に詳しかっただけで、キリスト教徒ではなかったという説もあります)。

 

 相談を受けたいとこは、「ムハンマドみたいな声を聞いた奴は、昔から何人もいたんだよ。」と答えた。「たとえば、アブラハムだろ、ノア、モーゼ、イエス、預言者といわれた人たちは、皆同じような経験をしたんだ。」とね。アブラハムというのは旧約聖書に出てくる有名な人物です。

 ハディージャは「そうか!」と安心して、その話をムハンマドにする。ムハンマドもその話を聞いて、胸にストンと落ちるものがあったんだろうね。自分が陥っている事態をそういうものとして受け入れた。

 

 そういうものというのは、つまり、自分に聞こえているのは神の声で、自分は神の声を授かるもの「預言者」である、ということです。