2015/07/31

京たこ(ストーカーpart5)



 毎日にように電車に乗っていれば、機嫌のよい日や悪い日もある。
 
 虫の居所の悪い時などは
 
 「アンタはなぜ、人に付き纏うんだ?」
 
 と文句を言ってやろうかと考えたこともあったが、言ったところで「知らぬ存ぜぬ」で惚けるに違いないから、時折ガンを飛ばすくらいが関の山である。
 
 そうした際の「タコ坊」は、あの例の不景気そうな表情でそ知らぬ風を装っていて、決して挑戦的な態度を見せることがなかった。
 
 むしろ挑戦的な態度で、向こうからもガンを飛ばし返してくるようであれば、それはそれで日頃の鬱憤を晴らしてやれるチャンス到来というところだったが、幸か不幸かそこはあくまで「分別臭いオジサン」なのである。
 
 このようにして乗車時間をずらしたり、車両を変えてみたりと考え付く手は色々と試しながらも悉く空振りに終わったのだから、これ以上は有効な手立ては見つからなかった。
 
 しいて言えば特急に乗る時に限っては座席指定だから、あの嫌な顔を付き合わせることはなかったくらいである。
 
 かつて特急に乗った時に、ホーム上で通過する特急を虚しく見送っていた「タコ坊」の姿を見た時は痛快だったが、バカ高い無駄な特急料金が発生するから、こんなものを日常的には利用できるわけがない。
 
 次第に

 「なんであんなヤツのために、こっちがペースを変えなければならんのか」

 という思いも手伝って、時間や車両を変えたりすることもなくなったため、依然として「タコ坊」は当然のような顔(?)で、同乗を続けていたのである。
 
 こうして、内心では多大なる不快感と不気味さを抱えながらも、これといった効果的な策も思い浮かばないまま、虚しく月日が経過していった。

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 住居の最寄り駅は、そこそこ繁栄している町にあった。
 
 こうした町の常がそうであるように、駅前は「xx銀座」という名の商店街になっていた。
 
 駅を降りて、客待ちのタクシーが屯するロータリーを通り過ぎると、すぐ目の前が「xx銀座商店街」である。
 
 その商店街の(駅から歩いて)一番入り口のところに、古臭いタバコ屋があったのが、駅前再開発の煽りで立ち退きの憂き目に遭ったのか、いつの間にか閉店していたのは少し前のことで、その跡地にたこ焼きチェーンの「京たこ」が出来るらしく、店は工事中ながらも「京たこ」の赤い看板が出ていた。
 
 「京たこ」と言えば、毎日通っていた名古屋でしばしば見かけていて、馴染みもあっただけに
 
 (ほー、あのタバコ屋の跡に「京たこ」が出来るのか・・・)
 
 と思っていると、数日後には店がオープンしていた。
 
 その日は珍しく、車内にあの「タコ坊」の不景気な顔が見られなかったこともあって、軽い足取りで駅を出ると「京たこ」の赤い看板が目に入る。
 
 (試しに買っていくか・・・)
 
 幸い、他の客が居ないから待つこともないだろうと店の前で足を止めると、申し訳のように小さく開いた窓から、あのたこ焼き独特の旨そうな匂いが漂ってきた。
 
 窓の向こうでは、中年の店員が不景気そうなしかめっ面をして、たこ焼きを焼いているシルエットが、なんとなく見えている
 
 「一人前・・・」
 
 というつもりで、店の前に立った途端
 
 (えっ~~~~~~~、嘘だろ~?)
 
 いきなり後頭部をガツーンと殴られたような衝撃で店の前を離れたが、勇を鼓して再度カウンターの奥に冷静に目を凝らして見ると・・・
 
 あの世の不幸を一身に背負ったような不景気な表情をした「タコ坊」が、ハゲ頭に捻り鉢巻をして、一心にたこ焼きを焼いていた!  (/|||)/ゲッ!!!

2015/07/28

天沼矛『古事記傳』

神代二之巻【淤能碁呂嶋の段】 本居宣長訳(一部、編集)
天沼矛(あめのぬぼこ)。書紀には「天之瓊矛」と書いて「瓊此云レ努(瓊はヌと読む)」【書紀で、これを「とほこ」と読むのは通俗読みで問題外である。努の字は一本に「貮」とあることが弘仁私記に出ている。】とあるから「」は借字で玉である。玉を「」と言うのは、書紀に「瓊響瑲々、此云2奴儺等母母羅爾1(瓊響瑲々、これをヌナトモモユラニと読む。)」とあり【今の本は「瓊響」の二字が脱けている。奴の上に「乎」の字があるのも間違っている(衍字)。これについての説も、みな間違いだ。この記と合わせて読めば明らかである。】

この訓の「奴儺等(ぬなと)」は瓊(ぬ)の響(おと)ということだ。【「の」を「な」と言うことや、「お」を省く例も多い。】また天武天皇の夫人に「大ヌ(草冠に豹の偏+生)の娘(いらつめ)」があり、旧事紀には「天のヌ槍」という語がある。この二つも玉を「ぬ」と言った例かも知れない。【この「ヌ(草冠に豹の偏+生)」の字は玉とは関係がないが「和」を「カ(口+禾)」とも書くので、「スイ(王+遂)」の字の玉を右に移して書いているうちに誤写したのではないだろうか。】

一般に書紀では「瓊」を「に」と読んでいるが、それを通音の「ぬ」にも使ったと思われる。矛は和名抄によると『楊雄方言に「戟(げき)を干(かん)、また戈(か)とも言う」とあり、和名は「ほこ」』とあり釈名に『手戟を矛と言い人が持つものである。この字は鉾とも書き、和名「てほこ」』とある。【我が国の古い書物では戟、矛など字には関係なく、みな通用する。「桙(ほこ)」という字を書くことも多い。矛を「てほこ」というのは、古い語ではないだろう。手戟という言葉について言ったものと思う。】上代には特によく用いられた武器で、古い書物に多く見える。【日矛、茅纏(ちまき)のホコ(矛+肖)、廣矛、八尋の矛などの名が出ている。】

沼矛は玉桙とも言うように、玉で飾った矛を言うのだろう。いにしえは、こういうものも玉を付けて飾るのが普通だった。 色んなものに「」という語を添えて言うのは、御孫命(ミマのミコト)が天降った時、身に着けた物、またお供をした大勢の神々が持った物など、天から降ったものが多い。その時に下界の物と区別して「天の~」と言ったのである。後代には、地上で造ったものも天上の物の造りに似せたので、同じように「天の~」と名付けるようになった。それから転化して、ただ何となく美称として呼ぶこともある。【天の物は美しいからである。】

ところで、この類の「」は後にはみな「あまの」と読むが、倭建命の歌に「あめのかぐやま」、書紀の仁徳の巻の歌に「あめかなばた」などの語句があり、「あめの~」、「あめ~」と読む場合もあるようだ。しかし、そう読むべき確かな証拠がない場合、とりあえず旧来の読み方をしておく。この時「国を造り固めよ」と仰せて、天沼矛を賜った理由は不明である。神代のことを、後世の人間の浅知恵で推測すべきではない。【その他、この矛について様々な憶説があるが、どれも取るに足りない。一説に今は伊勢の瀧祭宮の地底に埋まっていると言うが、益々信じられない。】

言依賜也(ことよさしたまいき)。言は借字で、「事」の意。そのまま「事」と書いているところもある。「言」の意味なら「御言依(みことよさし)」とあるはずだが、どの本を見ても「御」の字はない。「依(よさし)」は寄、因、所寄とも書き、字の通り「よす」という言葉を伸ばして言っている。「さす」を縮めると「す」となる。古語は縮めずに言うことも、縮めて言うこともよくある。【そのことは、次の「立たす」でも言う。】だが「よせ」を伸ばせば「よさせ」になりそうなものなのに「よさし」と言うのはなぜかといえば、古くは「よせ」を「よし」とも言ったからである。書紀の神代巻に「妹慮豫嗣爾、豫嗣豫利據禰(めろよしに、よしよりこね)」【この歌は、この前の句で網のことを歌っているので「網の目を引き寄せるように寄っておいで」という意味である。現在行われている註釈はひどく間違っている。】

とあるのは「目依(めろよせ)に依々(よせより)来ね」ということである。また万葉巻十四【十九丁】(3454)に「都麻余之許西禰(つまヨシこせね)」と詠んでいるのも「妻依(つまヨセ)来ね」である。この他にもある。「よさし」と読む確実な例は、聖武天皇の詔に「吾孫将レ知食國天下止、與佐斯奉志麻爾麻爾(アがミマのシラサンおすくにのアメノシタと、ヨサシまつりしマニマニ)」とある。「佐」を「さ」と清音に読むことは「與須(よす)」の伸びた形であることで分かる。【今の人の多くが濁って読んでいるのは間違いだ。】

「よさす」とは「」の字を書くこともあり、何か事をその人に委任して執行させることである。光仁天皇の藤原永手大臣の死を悼んで述べた詔に「大政官之政乎波、誰任之加母罷伊麻須(ダジョウカンのマツリゴトをば、タレにヨサシかも、マカリいます)」とあるのも「(あなたの任務を)誰に任せてみまかったのか」という意味だ。「封」の字をそう読むのも、その国の政をその人に依せ任す意味である。「言依さす」という言葉は、この巻の後の方にも続日本紀の宣命、延喜式の祝詞などに多数の例があるが全て同じだ。書紀では勅任とも書く。また應神の巻に「任2大山守命1、令レ掌2山川林野1(オオヤマモリのミコトにコトヨサシて、やまかわハヤシノをツカサドラシメたまう)」などの例もある。最後の「」は天沼矛を賜わったのでなく、ただ尊敬の意味で付加したのである。

2015/07/23

初瀬・長谷(2)

大和盆地の東、奈良県桜井市初瀬の長谷寺は西国三十三札所巡り第八番のお寺で、初夏は牡丹、秋は紅葉の名所としても名高い名刹である。実は、このお寺も地獄に関係がある。もとより三十三カ所巡りは「極楽往生したい。地獄には堕ちたくない」という庶民の思いが観音信仰と結びついたものだから、長谷寺に限らず全てが関係あると言えばあるのだろうが、ここはとりわけ創建者の徳道上人が地獄から生還してきたという言い伝えが、縁起として残されているのである。

 

昔は生きることだけでも大変で、ちょっとした病気でも死んだし、必死になって働いても収穫時期に台風が吹いて薙ぎ倒されたり、洪水で全てが水浸しになって全ての努力が水の泡になったりもした。それでもきつい税金を取られ、現世が地獄そのものと言えた。そんな状況だけに、せめてあの世くらいは極楽でゆっくりさせてほしい、地獄で無限の苦しみを味わうようなことは堪忍してほしい、と思うのは無理からぬことであった。

 

人々は

 

「何とか極楽往生したい。あのやさしい観音様は、真面目に働き、誠実に生き、ひたすらに信じ、おすがりするものをきっと救ってくださる」

 

ということで、各地の観音を巡って祈りをささげたのである。単に極楽往生させてくださいと祈るだけではなく、自らが生きるにおいて様々に犯してきた罪を反省することが前提になった。

 

「南無大慈大悲観世音菩薩、種々重罪、五逆消滅、自他平等、即身成仏」

 

と唱えるのが、その意味である。

 

長谷寺に鎮座ましますはご本尊は、長等身十一面観音でして御詠歌は

 

「いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ」

 

同寺の縁起によれば、聖武天皇の神亀四年(七二七)に徳道上人が創建したとのことです。この徳道上人、ある時、病気となってもはや寿命ということなり、あの世に行かざるをえなくなった。さすがに修業を積み、悟りを得ておられたものですから

 

「まだ死にとうない。し残したことがたくさんある」

 

などと往生際の悪いことを言うこともなく、従容としてあの世に向かわれたのであるが、冥界に着いたところ閻魔大王が上人を閻魔庁に招き入れたのであった。

 

招き入れたといっても、例の地獄の鬼どもが有無を言わさず荒っぽく引っ張っていき「ここに座って待っておれ」と命令いたしましたものですから、いったい何事が起きたのかと驚くほかありませんでしたが、ほどなくして参りました閻魔大王、獄卒の鬼どもの無礼を詫びた後、次のように話したそうであります。

 

「御上人をわざわざお呼び立てしたのは他でもない。日本には、ここを訪ねて巡れば一切の罪障が消滅し、極楽往生できるという観音浄土が実は三十三カ所もある。にもかかわらず、誰も知らない。それゆえに、あたら地獄に堕ちなくていいものまで地獄に堕ちておる。地獄が賑やかな方が仕事のしがいがある閻魔がこういうことを言うのは何だが、これは些か残念なことである。そこで御上人、いま一度、娑婆に戻ってもらうゆえ、ぜひとも衆生に三十三カ所の観音霊場を訪ね巡るようにしてもらいたい」

 

この話が終わると、上人は、その場所を書いた地図と宝印を渡され、この世に戻ることを許されたのであります。その第一番が他のどこでもない今、長谷寺が建っている場所でありまして、早速、上人はここに観音様をお祀りしたのであります。一番目だから、元は初瀬寺と名付けられておりましたが、後に三十三札所巡りが再整理された折に一番札所が那智山青岸渡寺とされたことから、長い深い谷の地に建っている寺ということで長谷寺ということになったのであります。

 

徳道上人は斉明天皇二年に播磨国揖保郡に生まれ、若いうちに両親を亡くし仏門に入りました。長谷寺の入口近くに法起院というこじんまりした寺がありますが、ここに上人はまつられています。この寺は、三十三カ所巡りの番外と位置づけられ

 

「極楽はよそにはあらじ わがこころ おなじ蓮(はちす)のへだてやはある」

 

という御詠歌もあります。極楽というのは何処か他所にあるというのではなく、他所のどこでもない自分の心の中にある、ひたすら真面目に生き、祈り続けなさいと教える歌であります。

 

これは、あの達磨(だるま)大師が「地獄は、何処にございましょうか」と問われて

 

「他所の何処でもないよ。あんたの心の中の『三毒』にある」(三毒とは、欲深い心である「貪(どん)」、すぐに怒ってしまうせまい心である「嗔(しん)」、ばかな心である「痴(ち)」)

 

と答え、さらに

 

「では、極楽は何処にございましょうか」と問われ

 

「あんたの心の中の三毒がなくなったら、そこが極楽浄土じゃよ」

 

と答えられたという逸話が残っていますが、まさにこれと同じであります。