2011/05/31

軽井沢

《「軽井沢」という地名は、実は全国到るところにあります。

 

語源についてはアイヌ語説、古代出雲語説など諸説あります。が、いずれも清冽な清水の湧く山里に、この地名があります。長野野県北佐久郡軽井沢町も、清水湧く山里であることに変わりはありません。

 

かるいざわ」という地名が、いつ何から起こったのかは、今日でもはっきりしていません。諸説によれば、「凍り冷わ(こおりさわ)」から転じたというものや、「軽石沢」からきたというもの、また水が枯れた「かれ沢」から来た、と言うのもあります。

 

さらには、峠は荷物を馬から下ろして自分で背負って登らねばならなかったため、麓にはよく軽井沢(これは、中古時代には背負うことを「かるう」といったことから「かるうさわ」が「かるいさわ」に転じたと思われる)という名勝が見受けられ、それが今日まで残っているなど多くの意見があります》(軽井沢案内より)

 

《軽井沢(かるいざわ)は沢地名なので、谷地名の西日本にはないのは当然だ。軽井沢と聞いたら、まず殆どの人は長野県の避暑地を思い出すだろうが、軽井沢は到るところにある。

 

その語源は「カレ」や「ガレ」で「ゴロ」や「ゴラ」に通ずる。つまり涸れた沢(水無川)、ガレ場の意味で、北アルプスの涸沢(からさわ)や唐沢岳、黒部五郎岳、野口五郎岳、箱根の強羅(ごうら)等の地名にもなっている。

 

長野県の軽井沢は今の旧軽井沢あたりが発祥で、付近に桜ノ沢や釜の沢の名があるように沢地形になっている。新潟県長岡市の軽井沢は、稚児清水川の最上流にあり、山形県大江町軽井沢は、月布川の奥深くにありこれらはまさに涸れ川の状態をよく表している。静岡県函南町軽井沢は、谷間の斜面の集落であり、涸れ沢ではなく、ガレ場の意味だ。千葉県鎌ヶ谷市軽井沢で、下手賀沼に入る谷の最上流にある。

出典https://baba72885.exblog.jp/

 

軽井沢という地名は、長野県内においては北佐久郡軽井沢町のほか上田市真田町大字傍陽字入軽井沢、長野市信更町大字田沢字軽井沢の例があり、長野県外では青森県八戸市松館、秋田県大館市、秋田県由利本荘市、山形県上山市、新潟県長岡市、千葉県鎌ケ谷市、神奈川県横浜市西区(北軽井沢・南軽井沢)、静岡県田方郡函南町、奈良県生駒市など各地に存在する。

 

語源については諸説あり判然としないが、古語・方言で荷物を背負って運ぶことを「かるう」と言うことから、峠に続く谷間のことを呼んだという説や、"枯井沢(水の枯れた沢)"から転じたという説、"凍り冷わ(こおりさわ)"から転じたという説、"軽石沢(軽石によってできた沢)"から転じたという説(後述)などがある。

 

従来の読み方は「かるいさわ」であり、アクセントも平坦型である。しかし明治以降避暑地として広く知られるようになり、外国人の往来が盛んになったことで、彼らにとって発音しやすい「かるいざわ」が読み方として定着、それに伴いアクセントも起伏式(中高型)になったと考えられている。現在でも土着民の間では「かるいさわ」と読まれることがある。

出典Wikipedia

 

また「軽井沢」の由来に関して「カール・イザワ」という日系人が所有していた土地の意》という、トンデモ説もある。

 軽井沢の語源は、浅間山の噴火して出来た「涸沢(からさわ)」とか、噴火石が飛んできて出来た「軽石沢」からきていると言う説もあるが、柳田國男説の『峠の麓に見受けられる地名で、荷を負う意味の昔の俗語「かるう」からきている』という説を支持したい。 碓氷峠の麓の町の歴史的風情の伝わる由来である。


ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

「カルヒ・タワ」、KARUHI-TAWHA(karuhi=house,base of a wall;tawha=taha=calabash)、「壁の根本のような(切り立つた山の山麓の)・ひょうたんのような(形の平地。その地域)」(「カルヒ」のH音が脱落して「カルイ」となった)

 

碓氷坂の「うすい」は「宇須比」「臼井」「碓日」「臼居」とも記された。万葉集では「宇須比坂」「碓日坂」と書かれ、標高1180mの峠である。昔の旅人にとって、つづら曲がりの蛇行の多い難所である。

 

ポリネシア語による解釈

「ウ・ツヒ」、U-TUHI(u=breast of a female,reach tje land,reach its limit;tuhi=conjure)、「(旅の無事を)祈願する・最高地点(峠。その峠のある地域)」または「ウツ・ヒ」、UTU-HI(utu=spur of a hill,front part of the house;hi=raise,rise)、「高い・家の軒の先(のような。場所。峠)」(「ツヒ」のH音が脱落して「ツイ」から「スイ」と、または「ヒ」のH音が脱落して「イ」となった)の転訛と解します。

2011/05/23

歯科医の過剰(2)

《数多くの職業があるこの世の中、どういったお仕事がお給料が高いのでしょう。パイロットや大学の教授などは、かなり高いですね。勿論、一流のプロスポーツ選手やクリエイターも高いでしょう。民間企業の社長など、地位が高ければその分、年収も高い筈です。その中に、歯科医も含まれるでしょう。

 

歯科医の平均年収は、900万円を超えています。これは様々な職業の中でも、トップクラスの数字です。かなり高い数字と言えるでしょう。当然難しい職業ですが、それに見合うだけの報酬があるということです。ただ、この数字を額面通りに受け取れない現状というのも、存在しています》

 

《医師不足に悩む産科や小児科とは逆に、数が多過ぎて問題となっているのが歯科医です。過当競争に晒された現在では、歯科医は「最も稼げない医者」に成り下がってしまいました。

 

ある情報によると「歯科医の5人に1人は、年収300万円未満」という、驚きの調査結果が掲載されています。低年収となる原因は明らかで、歯科大学および医学部歯学科の乱立による供給過多です。

 

歯科医は、歯科医師国家試験に合格する(つまり歯学科や歯科大学を卒業するのが前提)必要があり、通常の医師国家試験とは完全に別のシステムです。通常の医学部生は、内科・外科・小児科などの一通り全ての診療科に関する医術を学びますが、歯学部は歯医者以外の勉強はしない為、通常の医者のように診療科を変更するなどの、いわゆる「ツブシ」が利きません。歯科医師国家試験に合格した人は、歯科医になるか医者そのものを辞めるかしか選択肢が無いのです。

 

そして歯科大学側も、供給過多を助長している入学枠を縮小できない事情があります。元々、生徒数が少ない学科で、その分を1人あたり35千万円(6年間)という高額な授業料で賄っているのが現状です。入学定員を数人減らすだけでも、学校にとっては数億円単位の減収となる為、定員削減などできないというのです。新規参入の歯科医を少しでも抑制すべく、厚生労働省は歯科医師国家試験の難易度を上げて、合格者を減らすなどの対策を取っていますが、その程度ではとても供給過多を抑制できるものではありません》

 

《歯医者は人の命に関わるようなことも、夜間や休日の急患も基本的にありませんから、他と比べると相当楽な診療科です。ゆえに医者を目指す学生達から、相変わらず高い人気を取り続けています。しかし受験を考える前に、このような歯科医の厳しい現実も知っておくべきでしょう。無論、厳しい競争を生き抜いていく方法も色々と模索され始めています》

 

《医者といえば「高給取り」の代名詞のように見られていますが、実際に日本の医師たちはどの位の給料を貰っているのでしょうか?

 

人事院の調査によると、勤務医の平均月収は約86万円(平均年齢38歳)となっています。ボーナス抜きで考えたとしても、年収は1千万円を超える計算です。同年代のサラリーマンの平均月収が40万円強である事を考えると、かなりの高収入であると言えますね。また厚生労働省の調査では、医師(勤務医)の平均年収は1228万円との試算です。

 

やはりどう少なく見積もっても、医者は年収1千万円以上の高給取りな職業である事に間違いは無いでしょう。これが開業医ともなると、月収は250万円という試算もあります。医者の世界は常に新しい医療技術を学ばなければならず、一生涯勉強し通しの世界です。しかし、その苦労に見合った報酬は十二分に得られる世界でもあります。

 

歯科医といえば高収入」そのようなイメージを持っている人も多いだろう。かつては開業歯科医の年収は20003000万円とも言われ、愛車はメルセデス・ベンツが相場と決まっていた。しかし現在は、事情が変わってきている。それというのも歯科医師の数が増えすぎて、供給過多になっているのだ。

 

今、日本中の歯科医院の数は、7万件にのぼる。どこにでもあるように感じるコンビニエンスストアの数でさえ約4万件というから、倍近い数の歯科医院がどれほど多く乱立しているか窺い知れるはずだ。

 

歯科医の診療報酬は殆どが保険点数で料金が規定されており、保険の利かない自費診療の分野にしても、医院間で大きく差をつけるわけにもいかない。そのような中、競争激化により治療技術やサービスで他院との差別化に遅れ、廃業する歯科医院が後を絶たない。とくに都市部は競争が激しく、東京23区内では歯科医院の数がコンビニの2倍となる「超過剰状態」に陥っている。

 

東京歯科保険医協会によると、2007年度には350施設は廃院したとみられており、競争激化にともない東京都内の保険歯科医院が、11施設のペースで廃業していることが明らかとなった。都内近郊で独立開業してから30年経つベテラン歯科医は、その現状に対し

 

「駅前では、1つのビルに2軒も3軒も歯科医院がテナントに入っているほどの乱立ぶりだ。小規模の歯科医院でも、毎日新規の客が15人以上来ないと経営を維持することができないのに、少子化で少なくなった客を皆で奪い合っている」

 

と嘆く。そして

 

「私は息子が2人いるが、歯科医にはさせない。私の代で終わりだ」

 

と続けた。


ただし、総ての歯医者が経営危機に陥っているわけではない。業界には、もちろん勝ち組が存在する。自費診療のインプラント(人工歯)をいち早く導入し集客に力を入れているところや、最新の機材を投入し医療技術に優れるスタッフを持つ歯科医院などだ。だが、下手をすればインプラントは医療訴訟のトラブルに繋がったり、機材に多額の投資をしたところで計画通りに集客できなければ、すぐに経営難に陥ってしまう。すでに歯科医の資格だけでは安定した収入を得るのは難しく、医者には技術力と経営力が問われている。

2011/05/18

日光二荒山

そもそも、男体山をなぜ二荒山と呼んだのかは、補陀洛(ふだらく)に由来し、観音菩薩の浄土であるポータカラ(梵語)を漢字にあてたもので、補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名が生まれたのが有力説である。

 

ほかに日光連山の山中にはクマザサが多い事から、アイヌ語のフトラ(熊笹)がフタラとなったという説と、馬返(いろは坂下り道右手)の岩壁の洞穴から、春と秋に風神が吹き荒れるとされていたことから、二荒となったという説などがある。

 

社名「二荒山(ふたらさん)」の名の由来には諸説がある。

      「補陀洛山」説 - 観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする。ただし、空海の来訪は伝承の域を出ない。

 

      男体山・女峰山2神の二神二現説

 

      暴風雨説

 

      アイヌ語の「熊笹 = フトラ」説

なお、男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことがわかっている。

出典Wikipedia

 

日光の歴史の始まりは、奈良時代にさかのぼる。開祖である勝道上人は、735(天平7)年に下野芳賀郡(現在の栃木県真岡市南高岡)に生まれ、7歳のある夜、明星天子が夢に現れ「仏の道を学び、日光山を開け」とのお告げに導かれ、10人の弟子と766(天平神護2)年、大谷川(現在の神橋/当時はもちろん橋はない:山菅の蛇橋伝説)を渡り、四本竜寺(現在の本宮神社・三重塔付近)を建立したのが日光山の起源だ。

 

一行は、主に日光山中(現在の世界遺産日光の社寺エリア)で16年余の修行を経て、782(天応2)年に二荒山(男体山)山頂を極め日光(二荒山)開山を成し遂げた。

 

日光」という地名は、俗説として二荒山と二荒神(宇都宮二荒山神社)の「二荒」(ふたあら)を「にこう」と読み「日光」を当て字したものと云われる。これは、820年(弘仁11年)に現在の日光を訪れた空海が初めて「日光」の字を当てたと言われるものであるが、記録上で「日光」が見られるのは鎌倉時代頃以降で、記紀六国史は総て「二荒神」と記述されている。

 

現在、空海が一夜で彫ったとの伝承が残る大谷磨崖仏や佐貫石仏は、平安時代後期から鎌倉時代前期の作と推定されており、これらの時代は日光菩薩像が下野国下にも多く造立され、禅宗の伝来とともに日光山等の山号が国内の寺院に付されるようになった時期と重なる。

 

俗説として「ふたらさん」の読みは、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったもの、と云われる。古語的には「ふたあら」、「うつのみや」は、何れも「山(小高い丘)の崩落部」の意を起源とする、と解されている。

 

男体山は大己貴命(おおなむちのみこと)が祀(まつ)られ、古くから信仰の対象でした。大己貴命は別名を大国主命(おおくにぬしのみこと=だいこく様)と言い、古事記にも出てくる神様です。

 

天平神護2年(766年)、この山に勝道上人(しょうどうしょうにん)が修行に訪れます。  勝道上人は神秘的で美しい山を見て、この山は神霊のいる山と信じ「二荒山(ふたらさん)」と名付けました。二荒山は「補陀洛山(ふだらくさん)」から取った、とされています。

 

「西域記(さいいきき)」には「山頂に池あり、その水鏡にして大河を流出す」と書かれているといいます。男体山、中禅寺湖、大谷川(だいやがわ)を、それに見立てたと言われています。中禅寺湖は、人造湖を除く広さ4平方キロメートル以上の湖としては、日本一高い湖です。まさに、西域記にある通りの光景だったのでしょう。

 

その後、弘仁11年(820年)に弘法大師空海が入山し「日光」と改称したとされています。この時に反対もあったということですが、空海大師は「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めると半ば強引に改称した、という話を聞いたことがあります。

 

空海大師が改称したのではなく「二荒」を「にこう」と音読みにする人が自然と多くなり、だんだん「にっこう」に変化し、それに「日光」という漢字を当てたという説もあるのですが、ちょっと無理があるような気がします。

 

江戸時代に入り日光街道がつくられ、日光という呼称が全国に広がり確定したと言われています。

 

ポリネシア語による解釈

栃木県北西部、日光市を中心とする地域を日光と通称し、日光火山群の南部、大治(だいや)川の上・中流地域で、華厳の滝より上流の奥日光、下流の表日光に分けられます。また、鬼怒川上流の塩谷郡栗山村を裏日光(奥鬼怒)、足尾山地北部を前日光とも呼びます。

 

日光は雄大な自然に恵まれた地域で、古くからの男体山を中心とする山岳信仰の聖地でした。男体山(2484m)は、中禅寺湖の北東に聳える成層火山で、二荒山、日光山、黒髪山ともいい、北東には大真名子(おおまなこ)山(2375m)、小真名子山(2323m)、女峰山(2464m)、北西には太郎山(2368m)、山王帽子山(2085m)が連なり、戦場ケ原、湯ノ湖を隔てて白根山(日光 白根山、2578m)などとともに「日光火山群」を形成しています。このうち男体、女峰、太郎の三峰は「日光三山」と呼ばれます。

 

日光には「日光山の神が大蛇となり、ムカデと化した赤城山の神と死闘を演じ、猟師猿丸の援助で勝利した」という伝説が残されています。

 

この「にこう(にっこう)」、「ふたら」は、男体山を指した言葉で、マオリ語の「ヌイ・コウ」、NUI-KOU(nui=large,many;kou=knob,stump)、「巨大なこぶ(のような山)」  または「ニコ・ウ」、NIKO-U(niko=take a turn of a rope round anything,tie;u=breast of a female,bite,be fixed)、「(日光山の神である)大蛇が巻き付いている・乳房のように膨らんだ(山)」、「フ・タラ」、HU-TARA(hu=promontry,hill;tara=peak)、「尖つた山」、または「プタ・ラ」、PUTA-RA(puta=opening,hole,pass through;ra=wed)、「(大きな穴のような)湖が・そばにくっついている(山)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)の転訛と解します。

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

2011/05/09

無計画停電の犯罪(原発問題part3)

「計画停電」の無計画

大震災と原発事故だけでも、過去に例を見ないような惨憺たるダメージを蒙ったところへ、さらに輪を掛けた追い討ちとなったのが「計画停電」だ。

 

まず大前提として半官半民のような独占企業の電力会社が、どんな事情であれユーザーの需要に応じた供給を満たせないというのは、電力会社として失格とも最大の恥とも言うべきである。今回に関する限り、福島原発が使えなくなり電力供給が追いつかなくなったという理屈はわかる(前述したように、実際には天災によるものより人災的な側面が圧倒的に多い)が、民間の休眠発電所やら自家発電設備などもたくさんあるのだから、そうしたものを掻き集める努力を先ずはすべきであった。

 

そのように「八方手を尽くしてはみたが、どう頑張ってもこれ以上はどうにもならぬ」という死に物狂いの努力をした挙句の「計画停電のお願い」であれば、まだしも筋が通っているし一定の理解は得られたハズである。ところが現実としては、そのような本来しなければならない努力は最初から放擲し、いきなり「値上げ」に頼って「お客様に汚らしい尻拭いを押し付けよう」というテイタラクには呆れた。これでは、夜道でいきなり背後から斬り付けたようなもので、ユーザーの理解など到底得られるわけがない。

 

そのような非常識なお願いをされ「苦渋の決断だったが、これを了承した」とのたまったボンクラ総理は、一体全体なにがどのような「苦渋の決断だった」のか、説明してくれ。

 

このようにして、そもそもの前提からしてユーザーの理解が得られようはずがないのに、さらに東電は貧すれば鈍するを絵に描いたような「輪番停電」などという、時代錯誤なアホをやって燃え盛る火に油を注いだから救い難い。そもそも電力消費の少ない早朝や深夜に、電力消費を抑える意味などはまったくない。また影響の大きいことがわかりきっている、通勤ラッシュの時間帯も強行するなども、正気の沙汰とはいえない。  さらにグループ分けもインチキで、実際に毎回のように実施していたのは群馬県やら山梨県やら田舎ばかりだ。

 

このような田舎都市の電力消費量など、ひとまとめにしたところで東京都の一区にも満たないだろうに、大口顧客の集中する千代田区や新宿、銀座など都心部を全て「対象外地域」とした時点で「計画」は破綻していた。その結果として人命を奪う治安の悪化だけでなく、復興に必要な製造業など企業活動に対する致命的な障壁となってしまったのは、経済的にも重大犯罪である。

 

ちなみに、ワタクシの住んでいる地域は当初「(東京都)第一グループ」に入っていたものの、すぐに「対象外地域」に指定され結果として一度も停電は行われなかった。

 

緊急地震速報の有難迷惑

「いつ、どの程度の規模のものが発生するかが皆目予知できない」のが地震の怖さだ。ここに台風や雷などある程度正確な予測が出来るものや、襲来までに一定の備えが出来るような他の多くの自然災害と違い、特に地震が人々に恐怖を齎す原因がある。ところが時代とともに「地震予知」技術も、それなりに進歩しているらしい。まだ「予知」とまでは呼べるレベルではないものの、ひと昔前なら考えもしなかった「緊急地震速報」などというものまで登場し、3月の大震災以来はTVで頻繁にお目にかかることになった。

 

この「突然、何の前触れもなく襲ってくる」というのが、地震の恐怖をさらに増幅させていたわけだから「せめて前もって予知できれば備えも出来るし、恐怖感も薄まるはずなのだが・・・」と信じていた・・・

 

そこへ、あの巨大地震である。肝心の本震が予知できたかどうかは詳らかではないが、その後に立て続けに起きた余震においては、あの「緊急地震速報」が大活躍した。普段はTVを観ないワタクシも、あの巨大地震から派生した原発事故その他の行方が気になり、在宅時間はほぼTVをつけっぱなしにしていた。

 

するとニュースの合間に、唐突にあの警告音とともに「緊急地震速報です」というアナウンスと「○○都道府県で地震 強い揺れに警戒。○○地方、○○地方 など」のテロップが頻繁に流れ、アナウンサーらの緊張に引き攣った顔が映る。「強い揺れに警戒」などと言われると、思わず緊張しながらテーブルを握り締めてしまう。しかも本震後数日はこれが実に頻繁に出てくるから、なんとも心臓に悪かった。

 

かくして「せめて前もって予知できれば、恐怖感も薄まるはずなのだが・・・」などは「無知に基づくトンデモナイ勘違い」だと思い知らされることに。「ならば、TVを観るのをやめればよいじゃないか」と言われそうだが、やはり従来通りなにも情報がない中で、いきなりやってこられるのも、これまた困るのだ。さりとて「緊急地震速報」なるものが、かつて漠然と期待していたような重宝なものかといえば、必ずしもそうとは言えず徒に心臓に悪いだけのような気もする。

 

そもそも現状では、殆ど「予知」の名に値しないようなリアルタイムでの「速報」だけに、せめて棚から落ちそうなものを仕舞う程度の備えをしている時間的余裕すら、まったくないのである。また本震による計器類の故障で、肝心の精度そのものもかなり狂っていたのが、余計に混乱に拍車を掛けた。本震直後、頻繁に起こっていた余震がひと段落した頃、久しぶりに

 

「緊急地震速報です。○○都道府県で地震、強い揺れに警戒。○○地方、○○地方 など」

 

が出た時には、すっかり油断していただけに余計に緊張してテーブルを握り締めたが、一向に揺れず結果は「震度2」だったなどという拍子抜けもあった。

 

本震当日、20kmの道程を4時間半掛けて徒歩で帰ったのがトラウマとなり、その後しばらくは出かけるたびに出先から徒歩でどのくらいかかるかを、iPhoneでチェックする癖がついてしまっただけでなく、電車に乗っている時に携帯向けの地震警報アプリが周辺から一斉に鳴り始め、電車は停まるわでちょっとしたパニックになったことも。これまでならば、なにも気付かずに終わっていたような小さな揺れだったが、こうして中途半端な予知と「親切な緊急地震速報」に翻弄され続ける始末となった ('Д'y ─┛~~