2003/11/30

J.S.バッハ ブランデンブルク協奏曲(第1番)



≪全曲の中でも最も規模が大きく、作曲はヴァイマール時代に遡る。

狩猟ホルン、オーボエ、ファゴット、ヴィオリーノ・ピッコロ、弦セクション、通奏低音という編成で、全曲中、唯一の4楽章形式です。  

ヴィオリーノ・ピッコロを欠いた初稿(BWV1071)も伝えられていて「狩りのカンタータ(BWV208」の前奏曲として演奏されたと推測されています。

6曲の中で最も人気がないのも、この曲だと思います》   
などとなにかに書いてあったが、大規模な楽器編成で堂々たる楽想と論理的な構成は、十分に魅力的である。

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J.S.バッハというと、一般的には「重い、難しい」というイメージがある。  

実はワタクシも、最初はそう思っていた。

高校生時代に最初に聴いたのは、ご多分漏れず『トッカータとフーガ ニ短調BWV565』だったが、あのわかりやすい曲の魅力が理解できず、なんとなく遠ざかっていた。

それから、しばらく経って(大学生時代)聴いたのが、この『ブランデンブルク協奏曲集』である。

元々、ネクラのブラームスとは違い、バッハのイメージが「重い、難しい」のは宗教音楽が多いからだと思うが、世俗曲に関しては「重い、難しい」のイメージは当てはまらない。

特に、この『ブランデンブルク協奏曲集』は、全6曲でそれぞれ異なる楽器が主役となって魅力的な音楽が展開され、それまでとはまったく正反対な「明るい、軽い、わかりやすい」イメージだから、直ぐに虜になってしまった。

実際、数あるバッハの世俗曲の中でも、非常に人気の高いのがこの曲集だろう。  

ところが、この曲の2枚組のCD(確か、ホグウッド&エンシェント室内管だったような)を聴いて愕然とした。

最初に聴いた、あの「明るい、軽い、わかりやすい」イメージが蔭を潜め、ただ軽いだけの非常につまらない音楽に成り下がっていたのである(いわゆる「原点主義」の古楽器演奏が、派手な大オーケストラ好きの自分の好みに合わなかったせいだ)

一見したところ軽妙で楽しい音楽も、実は演奏にかなり高度な技術が求められるとわかったのは、しばらく後の事だった。

今や世界を代表する『無伴奏チェロ組曲』が、作曲200年後のカザルスの登場を待つまで誰もバッハの真の意図を理解できず、作曲者の意図した通りの演奏が実現され、ようやく世に真価が認められるまでに2世紀もの歴史の経過を必要としたように、常に演奏者を選んでしまうのがバッハの偉大さである。

それだけに、運悪く下手な演奏に当たってしまうと、いつまで経ってもバッハの魅力がわからずに終わってしまうのが、実に怖いのである。

圓光寺と金福寺(京の錦秋part11)

 曼殊院から少し歩くと、これまた紅葉で有名な圓光寺という寺院がある。曼殊院とは対照的に竹林の鬱蒼と生い茂った境内一杯に拡がった、色とりどりの紅葉がダイナミックな感じである。

<圓光寺は、徳川家康が教学の発展を図るために設立した学校を始まりとする。家康から送られた当時の木製活字を数多く保存しており、これらは重要文化財に指定されている。明治以降、最近まではわが国唯一の臨済宗尼僧の修学道場であった。境内には、澄んだ音を響かせる水琴窟や金福寺に晩年を送った村山たかの墓もある。栖龍池がある庭園は、新緑、紅葉の美しいことで知られている>


 

 目的の詩仙堂まで歩く道中に小さな寺社が幾つかあり、偶々行き会った金福寺もそのひとつであった。

<金福寺(こんぷくじ)は、京都市左京区一乗寺にある臨済宗南禅寺派の寺である。山号は佛日山。本尊は聖観音菩薩。詩仙堂の少し南にあるこの寺には与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ芭蕉を敬慕する与謝蕪村と、その一門によって再興された芭蕉庵がある。また舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインである、村山たか(村山たか女)ゆかりの寺として知られる。

864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年~1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。

その後、鉄舟と親しかった松尾芭蕉が京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776(安永5)に再興した。

幕末に入り、舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。

芭蕉庵
庭園の東側に立つ茅葺き屋根の庵で、内部は千利休が造った待庵に似た三畳台目の茶室となっている。元禄時代、鐡舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになったが、後に形がないほど荒廃したため芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776(安永5)再興された。


画像出典 https://eizandensha.co.jp/

与謝蕪村筆 洛東芭蕉庵再興記
与謝蕪村とその一門が芭蕉庵を再興した際に、蕪村が寄せた俳文。

宝塔
蛇が入っているもので、村山たか女が寄進した

名前を聞くのも初めてで小さな寺院だけに迷ったものの、時間が少しあったため入ってみたのは正解で、期待に反して素晴らしい庭園に出くわしたのは嬉しい誤算である。

サツキが幾重にも段に綺麗に刈り込まれて、花をつけた頃に再度訪ねてみたくなる。石段を登った上には鄙びた芭蕉庵があり、松尾芭蕉や与謝野蕪村ら名だたる俳人の詠んだ俳句が掲げられているのが目を惹くなど、案外見どころが多い。
出典Wikipedia

武蔵が吉岡一門と決闘した時の「一条寺下がり松」を持ってきたという八大神社に寄り、お目当ての詩仙堂へ向かう。

 「奈良の仏像・京都の庭」といわれるように、京都といえば他の地域では滅多にお目にかかる事の出来ない「名勝庭園」や、更に格上の「特別名勝」など実に数多くの名庭があるが、この詩仙堂庭園といえば庭園ファンにも人気の高いので良く知られている。

元々、この詩仙堂は、かつて徳川家康家臣の戦国武将だった石川丈山が隠棲を決め込むために造営した庵で、実際に晩年の30年間をここに蟄居して風流な余生を送ったといわれているところなど、やはり同じように戦国の世から身を引き東山殿(銀閣寺)を造営して、文人として隠棲した足利義政を彷彿とさせるところがある。

名古屋名物・赤味噌が旨い(本場・味噌煮込みうどん編)


愛知の味といえば「味噌」である。

味噌の本場は「八丁味噌」の岡崎だが、三河だけでなく名古屋を含めた愛知県では「みそ味」がお馴染みだ。

毎日家庭で作られる味噌汁は、その家代々の味とよく言われるが、実家でも勿論、母の作る年季の入った具沢山の味噌汁は、食卓には欠かせなかった。

中学生になるまでは毎年の夏休みと、時には春休みなどにも泊りがけの旅行に行くのが恒例だったが、旅先の旅館の大浴場でひと風呂済ませた後の夕食の膳や、見知らぬ土地特有の爽やかな朝に迎える朝食に必ず付いてくる味噌椀の蓋を開けて、白味噌や合わせ味噌を目にした時(大抵の朝食は、これらが相場だったが)には、家族皆大いにガッカリしたものである。

我が家では、トンカツや焼肉、或いはうどんといった献立にまで味噌の味付けをする事はなかったが、社会人となって名古屋へ引っ越し一人暮らしを始め否応なしに外食生活となると、トンカツなどは当たり前のように「みそカツ」となるし、焼肉屋へ行っても大抵は何種類かのタレの中に、当然のように「味噌ダレ」も付いてくる。

そして極めつけは、なんと言っても「味噌煮込みうどん」だ。

さすがに実家にいる時は、店屋物を含めても「みそ味のうどん」というものは、食べた記憶がなかった。

フリーでマスコミ関係の仕事をしていた頃、名古屋のカメラマンに引き立てられて何度も奢ってもらっていたのが、名古屋では有名な『山本屋本店』の「味噌煮込みうどん」だった。

未知の味に、やや尻込みしつつチャレンジしたその時から、たちまちにしてこの独特の味の虜になってしまい、自腹でこの店へ通いつめる事となっていく。

この頃の数年間は、毎年冬になると週に23回くらいのペースで名古屋駅地下街『ユニモール』に直結した堀内ビル店や、新幹線地下街『エスカ』店、或いは『サカエチカ』と直結した中日ビル(地下)店などへ足繁く通った。

ここのうどんは高く、かしわ(鶏肉)が少しだけ使われた「味噌煮込み」が980円(希望により、卵は無料)で、ご飯のついた定食とか一半(大盛り)、或いは色々な具が入ったのは1280円くらいだったため、当時の懐の淋しい若者風情には手が出し辛く、専ら980円の「(ただの)味噌煮込み」ばかりを食べていた。

名物の「味噌煮込みうどん」もさることながら、同じくらいに楽しみだったのは熱燗と一緒に食する漬物の盛り合わせ鉢だ。

うどんを煮込むまでに時間が掛かるので、この漬け盛りで熱燗をグビグビとやりながら、のんびりと待つ。


ダイコン、ハクサイ、タクアン、ナスなどが大きめの鉢に盛ってあり、常連の誼で幸せそうな顔で舌鼓を打っていると、大の漬物好きであることを先刻承知の店(某ビル店)のオバサンが、もう一鉢を出してくる嬉しいサービスをしてくれた(通常は2鉢目からは、300円くらいが正規料金だった)

そうして暫く待っていると、2本目のお銚子とともに土鍋でグツグツと煮え返っている名物「味噌煮込みうどん」が登場し、2度目のお楽しみとなるわけである。

ワタクシは「猫舌選手権」などというものがあれば、確実にメダルを争えるくらいの大の猫舌ではあるが、蓋を開けたばかりの濛々と煙が立ち込めているようなこの店のうどんは、普通の人でもとても直接には食べられず、蓋を皿代わりにしてうどんを入れて食する。


さらに、この店のうどんはかなり固めに煮てあるために、普通のうどんのようにツルツルと飲み込んでいくような食べ方は難しく、コシを噛み砕きながら少しずつ食べるのが消化にも良い。

そうして、うどんを味わいながら2本目のお銚子をチビリチビリとやっているうちに、適度に冷めてきたネギやかしわのだしが濃厚に効いた、味噌と熱燗とを交互に飲み比べるのである。

ああ、これぞ無情の幸福!

総て食べ終わった頃には、すっかり汗ビッショリになっていて、店のオバサンが汗を拭くためのオシボリを持ってきてくれる。

 こうして真冬の寒空に出る頃には、すっかり身も心も温まっているという寸法なのである。

 当時、仕事の取引があった東京の雑誌社の編集長が年23回くらい来名していたので、この店へ連れて行き名物「味噌煮込み」を食べさせると、蓋を開けた途端に

 「なんか真っ黒で辛そうだねー」

と、悲鳴をあげかけた。

(こりゃ失敗したか・・・?   
やっぱ、ヨソもんの口には合わんかな?)

と思ったところ、ひと口食べるや

「うん、こりゃ旨い!
見た目は思いっきり不味そうだったけど、そんなに辛くもないし旨いねー」

とゾッコン惚れこんでくれたおかげで、このプロダクションへ贈る毎年のお歳暮は、この店の「味噌煮込みうどん詰め合わせ」が定番となった。

不思議な事に、このプロダクションではこれが殊のほか人気があるらしく

「毎年シーズンになると
『もうすぐ名古屋から味噌煮込みが届くからガンバローぜ!』
とか言ってね。
校了前で事務所泊り込みの時に、みんな夜食で自分で作って喰ってるよ」 

といった話を何度か訊かされ、なんとなく嬉しくなったものです。

もっとも、いつか新幹線地下街で食べていた時 は、東京辺りからの出張族とオボシキスーツ団が

「オ~イ、オバちゃん!   
なにこれ?   
まだ生煮えだよ」

「いえ、当店のはそういうお味なのです」

といった遣り取りも訊かれた通り

「あのコシの強すぎる (固すぎる)うどんが、どうにも気に喰わん」

などと、ブツクサいっていたド素人もいたが ( ´艸`)ムププ

※名古屋時代の画像がないため、東京支店の画像を使用