2021/02/28

アブラハム(2)(ヘブライ神話10)

アブラムとロトとが分かれた後、アブラムに神から以下のような預言が下された。

 

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。

立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。

『創世記』14:14-17、日本聖書刊行会の新改訳聖書より

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも彼を唯一神ヤハウェ(יהוה)が人類救済のために選んだ預言者として篤く尊敬し、祝福する傾向が強い。そのため、これらの宗教は「アブラハムの宗教」とも呼ばれる。

 

彼は、老齢になっても嫡子に恵まれなかった(ハランを出発したときは75歳)が、神の言葉

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」

「あなたの子孫は、このようになる。」

創世記15:5、新共同訳聖書より

と言われ、その後妻のサライの勧めで彼女の奴隷であったハガルを妾にして76歳にしてイシュマエルを授かり、後に99歳で割礼を受け、老妻サラ(サライ)との間に100歳になって嫡子イサク(イツハク)を授かった(『創世記』第161821章)。

 

これ以外に、アブラハムの子として記されているものとして、アブラム137歳の時に妻サラは127年の生涯を閉じた(『創世記』第23章第1節)が、その後アブラハムはケトラという女性を妻に娶りジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアという子供をもうけ、その後アブラハムはイサク以外の子には、生前分与として贈り物を与えて東の地に去らせ(第25章第16節)、イサクには残りの全財産を継がせたほか、自分の故郷から傍系親族のリベカを連れてこさせて彼の妻にさせた(第24章)。

 

アブラハムは175歳で世を去り、マクペラの洞窟へイシュマエルとイサクによって葬られた(第25章第79節)。

 

アブラムの墓廟は、パレスチナのヨルダン川西岸地区ヘブロンにあり、ユダヤ教とイスラム教の聖地として尊崇されている。

 

祖先としてのアブラハムの位置付け

ユダヤ人は、イサクの子ヤコブ(ヤアコブ)を共通の祖先としてイスラエル12部族が派生したとし、アブラハムを「」として崇め、また「アブラハムの末」を称する。一方でイサクの異母兄に、妾ハガルから生まれた一子イシュマエル(イシュマイール)や後妻ケトゥラから生まれた異母弟たちがいて、旧約聖書の伝承では彼らがアラブ人の先祖となったとされる(創世記21章・25章など)。

 

また、すべてのユダヤ教徒の男子は、アブラハムと神との契約により、生後8日に割礼を受ける定めとされる。

 

これ以外に大元の出典の名前、並びに内容の真偽は不詳だが、『マカバイ記』1巻第122023節に出てくるスパルタ王アレイオスからユダヤの大祭司オニアスに来た手紙には

「ある文献によると、スパルタ人とユダヤ人は兄弟で、(スパルタ人も)アブラハムの子孫であると書いてある。」

という記述がある。

 

イスラム教におけるイブラーヒーム

この項では、アラビア語発音のイブラーヒームの名を基本に、記述を進める。

 

イスラム教では、旧約聖書の伝承について、改竄にもとづく誤りを含みつつも神の言葉を伝えた啓典であると考えてはいるが、イブラーヒームについて同様に考えており、アラブ人はイブラーヒームとイスマーイール(イシュマエル)を先祖とみなしている。イスラム教の立場では、イブラーヒームとはユダヤ教もキリスト教も存在しない時代に、唯一神を信じ帰依した完全に純粋な一神教徒であり、イスラム教とはユダヤ教とキリスト教がいずれもイブラーヒームの信仰から逸脱して、不完全な一神教に落ちた後の時代にイブラーヒームの純粋な一神教を再興した教えである、と考えられた。

 

トルコのムスリムの伝承では、『旧約聖書』にある預言者イブラーヒームが、カナンに向けて出発した「ウル」(カルデアのウル)とはウルファのことであるとし、これは世俗主義の立場である聖書学からも支持されていた。イスラム教の伝統では、イブラーヒームの誕生した場所はウルファであるとされており、これを記念するモスクも建てられている。

 

イスラム教徒(ムスリム)も、生後7日目から12歳までの間に割礼を行うが、ユダヤ教とは違って特にイブラーヒームに由来する法とは考えられておらず、イブラーヒームとアッラーフとの契約に基づいた宗教的義務ではなく、共同体の慣習に過ぎないとみなす法学派が有力である。

 

イスラム政権支配下において、ゾロアスター教教祖のザラスシュトラはイブラーヒームと同一人に比定され、そのことによりゾロアスター教徒は啓典の民として信仰の維持を認められている。

出典 Wikipedia

2021/02/21

邪馬台国九州説 ~ 邪馬台国(6)

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、筑後平野説、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮(宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群(西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある。現代では、古田武彦などによる九州王朝説がある。

 

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

 

邪馬台国は、伊都国の南にあると三回書かれている。

帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から、伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば、邪馬台国の位置は九州地方北部に限られること。

邪馬台国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里で、おおよそ300-500km)とあることから、九州に近い。

邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。

 

邪馬台国と対立した狗奴国を魏志・魏略共に女王国の南にあると書かれているので、熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古智卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること。

これについて畿内説でも「狗奴国」を熊本(球磨)の勢力、「狗古智卑狗」を菊池彦の音訳とする説はあるので、これ自体は格別に九州説の根拠にはならない。また後漢書では南ではなく東となっており、絶対的な根拠とはできない。

 

福岡県久留米市には、宝賀寿男など複数の研究者が『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、主体部の内容がよく一致するとする祇園山古墳がある。

『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる。

 

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

 

魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸といった規模の集落は、当時の総人口から考えて大きすぎるとする説がある。

ただし使者が戸数を直接調べたとは考えられず、倭人から伝聞もあると思われ、判別し難い面がある。

 

畿内の古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学等の知見から現在の考古学では3世紀に繰り上げられていること。

ただし年輪年代学については法隆寺の木材の件などがあり、また日本において追証試験がほとんどなされていないなど、未だ問題が多い。

 

3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。早くから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする、当時の一般的な理解にしたがって

「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」

とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。基本的に九州説では、3世紀の紀年鏡13枚の存在については明確な説明をしない。

 

九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。

 

21世紀に登場した異説

また、旅程日数や方角、総距離などの位置の論争について、新史実のない北史倭国伝も活用して、場所の特定を行うべきだという意見もあらわれている。倭国の領域は南北三月行の領域であり、その中での「南」水行20日、「南」水行10日陸行1月と解釈する説である。

 

邪馬台国東遷説

九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して、畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話に結びつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても、九州王朝説と関連して多くの説がある

 

白鳥庫吉、和辻哲郎が戦前では有名であるが、戦後は歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかし、この東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され、栗山周一、黒板勝美、林家友次郎、飯島忠夫、和田清、榎一雄、橋本増吉、植村清二、市村其三郎、坂本太郎、井上光貞らによって論じられていた。久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し、両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷した(東遷した)のであるとした。

また大和岩雄も、九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、女王壹與の代になってから畿内の邪馬台国へ東遷したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし、神武東征や天孫降臨などの神話と関係づけることはしていない)。

 

この他にも、森浩一、中川成夫、谷川健一、金子武雄[要曖昧さ回避]、布目順郎、奥野正男らが細部は異なるものの、それぞれの東遷説を論じていた。安本美典は、現在でも精力的に東遷説を主張している一人である。

 

邪馬台国四国説

1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は畿内説と同じく、南を東と読みかえて陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。

 

近年では、数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが、当初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓らが編集委員として名を連ねている。日本テレビの番組で、番組プロデューサーの山中康男は、その後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。

1980年代には、NHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも浜田秀雄や大杉博、林博章などが四国説を主張する著書を出版、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で、四国徳島説が放送された。

 

日本神話では、淡路島の次に四国が誕生したとされることで、四国も国産み神話に基づくものだと関連付けて考えてようとしている人もいる。また朝廷は淡路島を含む四国地方から始まり、奈良へ移行されたとされる四国説・近畿説を共に主張する声もある。一方で淡路島と徳島県が同じ行政区にあったのは江戸時代だけであり、特に古代においては文化的な差異は大きく関連は薄いとの考えもある。

出典 Wikipedia

2021/02/19

ストア派の倫理学・徳論 ~ ストア派(3)

古代のストア派は、今日とは意味の異なる用語を使っていたために、しばしば誤解される。「ストイック」という言葉は「非感情的」あるいは苦痛に無関心だという意味を持つようになった、というのはストア倫理学では「理性」に従うことによって「情動」から解放されることを説いたからである。ストア派は、感情を消し去ることを追求したのではなかった。むしろ彼らは、明確な判断と内的な静寂をもたらしてくれるような断固たるアスケーシスによって、感情を変質させようとしたのである。論理、内省、専心が、そういった自己修養の方法とされた。

 

キュニコス学派の影響を受けているストア倫理学の基本は、善は魂自体の内部に存するということであった。知恵と自制心。ストア倫理学は、規律を強調する。

 

「理性の導くところに従え」

そのため、ある者は情動から逃れようと努力し、古代における「情動」の意味は「苦悶」あるいは「苦痛」、すなわち、外的な出来事に「受動的に」反応することだと心に留めた現代の用法とは、幾分か異なる。「情動」つまり本能的な反応(例えば肉体的な危険に晒された時に顔が青ざめ、身震いすること)と通常訳される「パトス」と、ストア派の知者(ソポス)の表徴である「エウパトス」とが区別された。情動が間違った判断から生まれるのと同様、正しい判断から生まれてくる感じが「エウパテイア」である。

 

その思想は、アパテイア(希: πάθεια、心の平安)によって苦痛から解放されるというもので、ここでは心の平安は古代的な意味で理解される。客観的であり、人生の病める時も健やかなる時も、平静と明確な判断とを保つ事。

 

ストア派では「理性」は論理を用いることだけではなく、自然-ロゴス、普遍的理性、万物に内在するもの、の過程を理解することをも意味した。彼らの考えるところによれば、理性と徳による生とは、万人の本質的な価値と普遍的な理性を認識し、世界の神的秩序と一致して生きることである。ストア哲学の四枢要徳は

 

「知恵」(ソピア)

「勇気」(アンドレイア)

「正義」(ディカイオシュネー)

「節制」(ソープロシュネー)

 

であるが、これはプラトンの教えに由来する分類である。

 

ソクラテスに従って、ストア派では、自然の中の理性に人間が無知であることから、不幸や悪は生じるとされた。誰か不親切な人がいるなら、それはその人が親切さへと導く普遍的な理性に気付いていないからである。そこで、悪や不幸を解決するにはストア哲学、自分自身の判断や行動を観察し、どこで自然の普遍的理性に背くかを決定することを実践すべきだとされた。

 

自己の命をあっさりと扱うが、人間それぞれの究極的、最終的な自由意志を全面的に尊重しているが、決して他者に対しての殺人は肯定しない。ただし、当時の他の哲学と同様に、敵に対して勇猛に戦うことは善とされた。(当時の世相を反映し解釈すれば至って当然)このような考え方は「魂は神から借りているだけ」という言葉に端的に表されている。(人は最終的に、神からの分け御霊であるということを主張)

 

高潔な生活を送れないような状況下で賢者が自殺することを許すことが、ストア派では認められた。悪政の下で生きることは、ストア主義者としてマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスのいう自己一貫性(コンスタンティア)に悖り、名誉ある倫理的選択を行う自由を傷つけるとプルタルコスは考えた。深刻な苦痛や病を受けた時には自殺は正当化されうるが、さもなければ大抵の場合自殺は社会的義務の放棄とみなされた。

 

「善悪無記」の理論

ここでいう「無記」とは道徳律の適用外にあるもの、すなわち倫理的目的を促進も妨害もしないものをいう。道徳律によって、要請されも禁じられもしない行動、言い換えれば道徳性を持たない行動が道徳的に無記であると言われる。無記(希: διάφορα、アディアポラ)の理論はストア派において、その対立物たる善と悪(καθήκοντα カテーコンタとμαρτήματα ハマルテーマタ、それぞれ「手近な行動」つまり自然と一致した行動、と失敗)の必然的結果として生まれた。この二分法の結果として、多くの物事が善にも悪にも振り分けられず無記とみなされた。

 

結果的に「無記」の中に、さらに三つの下位分類が発達した。

自然に一致した生を支援するので好まれるべきもの

自然に一致した生を妨害するので避けられるべきもの

そして狭い意味で無記なもの

 

「アディアポラ」の理論は、キュニコス学派および懐疑主義とも共通であった。カントによれば、無記なるものの概念は倫理の範囲外である。無記なるものの理論は、ルネサンス期にフィリップ・メランヒトンによって復活させられた。

 

アディアポラの観点からすれば、究極的には世俗的善悪も人間の判断が生み出した幻想に過ぎない。アディアポラの思想に立てば、命は善ではなく「望ましいもの(プロエーグメノン)」でしかないため、状況如何(四肢の切断や非常な老齢、不当な命令に従わなければならない等)によっては、先述のように自殺も肯定した。

 

運命の肯定と自由意志の肯定

これにより、人は運命を受け入れる「覚悟」が必要であることを悟る。しかし、不完全な運命を補正する自由意志により、運命さえも自己の意識によって良き方向へと革新できると主張する。

 

魂の鍛練

ストア派にとって、哲学とは単に信念や倫理的主張を集めたものではなく、持続的な実践・鍛錬(つまり「アスケーシス」、禁欲主義を参照)を伴う「生き方」である。ストア派の哲学的・霊魂的な実践には論理学、ソクラテス的対話や自己対話、死の瞑想、今この瞬間に対して注意し続ける訓練(ある種の東洋の瞑想と同様である)、毎日その日起こった問題と、その可能な解決法について内省すること、ヒュポムネマタ、等々がある。ストア派にとって哲学とは、常に実践と反省を行う動的な過程なのである。

 

著書『自省録』において、マルクス・アウレリウスは、そういった実践のいくつかを規定した。例えば、第II巻第1章にはこうある:

 

早朝に自分に向って言う。私は今日恩知らずで、凶暴で、危険で、妬み深く、無慈悲な人々と会うことになっている。こういった品性は皆、彼らが真の善悪に無知であることから生じるのだ。

何者も私を禍に巻き込むことはないから、彼らのうちの誰かが私を傷つけることはないし、私が親類縁者に腹を立てたり嫌ったりすることもない。というのは、私たちは協働するために生まれてきたからである。

 

アウレリウスに先行して、エピクテトスが『語録』において三つの主題(トポス)、つまり判断、欲望、志向を区別している。フランスの哲学者ピエール・アドによれば、エピクテトスは、この三つの主題をそれぞれ論理学、自然学、倫理学とみなした。『自省録』において「各格率は、これら非常に特徴的な三つのトポスのうちの一つ、あるいは二つ、あるいは三つ全てを発展させる」ものであるとアドは書いている。

 

Seamus Mac Suibhneによって、魂の鍛錬の実践は反省的行動の実践に影響を及ぼすものとされている。ストア派の魂の鍛錬と、近代の認知行動療法とが相似していることがロバートソンの『認知行動療法の哲学』において、長々と詳述されている。また、こうした実践重視の姿勢はソクラテスの「ただ生きるのではなく、より善く生きる」に繋がる考え方だと思われる。

 

感情からの解放(理性主義)

あらゆる感情から解放された状態を魂の安定とし、最善の状態として希求する。アパテイア(πάθεια/apatheia、語源的にはパトスpathosに否定の接頭辞「a」が付く)と呼ばれるこの境地は、賢者の到達すべき目標であるとともに、ストア学派における最高の幸福であった。当然、死に際しての恐怖や不安も、克服の対象と考える。その理想として、よくソクラテスの最期が挙げられる。怒らず、悲しまず、ただ当然のこととして現実を受け入れ行動することを理想とする。

出典 Wikipedia

2021/02/11

邪馬台国畿内説 ~ 邪馬台国(5)


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邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説がある。

 

箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が三世紀であるというデータがあること。

吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになり、古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)

南関東など広い地域からの土器が出土していること。

卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が、畿内に分布していること。

弥生時代から古墳時代にかけて、およそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚の年号はすべて3世紀で、うち12枚は235-244年の間に収まって銘されたものが、畿内を中心に分布していること。

『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接、神功皇后に結び付けている。中国の史書においても『晋書』帝紀では、邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。すなわち「魏志」がすべて宋時代の刊行本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある。

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは、次の点である。

 

帯方郡から狗邪韓国までの行程で既に7000余里あり、南を東に読み替えても残り5000里ではおさまらない。

箸墓古墳を卑弥呼の冢とする説があるが、そもそも卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に、当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い(箸墓古墳の築造は6年)。また古墳周囲には、記録にある殉葬の跡も見られない。加えて服属先である魏朝自体が薄葬令で墳墓を縮小しており、朝鮮諸国の王墓や帯方郡の郡守墓も30メートル前後の方墳であるため、邪馬台国だけが飛び抜けて巨大な前方後円墳を築造したとは考えられない。

三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面(確認されただけで500面以上)を遥かに上回っている。度々下賜されたとする説もあるが、そのような記事は存在しないし、未だに大陸から一面の鏡も鋳型の出土もない。また古墳での埋葬例を見ると、扱いが非常に粗雑であることが指摘されている。

例え古墳時代の開始時期が3世紀に繰り上げられたとしても、そもそも北九州と畿内でそれぞれ別の勢力が並立していたとすれば、邪馬台国畿内説の論拠にはならない。つまり弥生式墳丘墓の邪馬台国と、古墳の原始大和国があったとしても何ら不思議ではない。

奈良県立橿原考古学研究所が、箸墓古墳とほぼ同時期または先行して築造されたホケノ山古墳の年代について、発掘調査で出土した木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告し、疑問とされること(ただし同研究所としては、遺物の検討から3世紀中頃の築造と結論づけている)

上記、畿内説の根拠に述べられた21の前提条件に基づくもので、それだけでは根拠にはならない。

倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は畿内に存在せず、北九州からのみ出土する。鉄に関しては淡路島の五斗長垣内遺跡や舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認されたのみである。

 

「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が温暖な南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されている。

「魏志倭人伝」の記述は、北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの阿岐国(安芸国)、吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。

 

「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。また、それに伴って3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。

 

「魏志倭人伝」には、邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的には、ほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。

出典 Wikipedia