2020/11/30

ニヤーヤ学派(インド哲学2)

 ヨーガ学派(梵: योगदर्शनम् Yoga-darśana)はインド哲学の学派で、ヨーガの実践により心身を統一し、解脱を目指す学派である。六派哲学の1つに数えられる。『ヨーガ・スートラ』を教典としている。

 

サーンキヤ学派の兄弟学派といわれるが、最高神を認める点が異なる。

 

ヨーガ学派(身心の訓練で解脱を目指す)

ヨーガ学派はインド哲学の学派。六派哲学1つに数えられる。ヨーガの実践により心身を統一し、解脱を目指す。『ヨーガ・スートラ』を根本経典としている。

 

ニヤーヤ学派(梵: Naiyāyika)はインド哲学の学派。六派哲学の1つに数えられる。ニヤーヤは理論(あるいは論理的考察)を意味し、インド論理学として代表的なものであり、論理の追求による解脱を目指す。アクシャパーダ・ガウタマ(Akapāda Gautama)が著したとされる『ニヤーヤ・スートラ』を根本テキストとする。ガンゲージャによって著された『タットヴァ・チンターマニ』へと根本テキストが移ったものは「新ニヤーヤ」と呼ばれ区別される。

 

ニヤーヤ・スートラの概観

内容

『ニヤーヤ・スートラ』は、530程度の短いスートラ(定句)からなり、五篇に分かれている。各篇は、それぞれ二課に分かれている。

 

1篇第1課では、以下の16の項目を正しく知ることにより、解脱がなされるとする。

 

認識手段(直接知覚・推論・類比・信頼すべき言葉)

認識対象(アートマン・身体・感覚器官・感覚器官の対象・認識・思考器官・活動[カルマ]・過失[煩悩]・輪廻・果報・苦・解脱)

疑惑

動機

実例

定説

論証式を校正する5肢(主張提示・理由・根拠事例・当該問題への適用・結論)

吟味

確定

論議(通常の討論)

論諍(勝つために手段を選ばない討論)

論結(相手の論難に終始する)

議事理由

詭弁

誤った論難

敗北の立場

1篇は第1-14項目の、第5篇では第15-16項目の定義・解説を行う。この2つの篇は成立が最も古いものと考えられ、もとは1つにまとまっていたものだと考えられる。成立時期は不明であるが、ナーガールジュナの『ヴァイダルヤ論』に言及があることから、成立は少なくともこれ以前であると考えられる。

 

2篇では、<直接知覚><推論><類比><信頼すべき言葉>という四種の認識手段について、これを確立する方法について考察される。この中で『ヴェーダ』は<信頼すべき言葉>1つであるとされ、妥当性の根拠を信頼に求める。第3篇および第4篇では、12種類の認識対象、すなわち、

アートマン

身体

感覚器官

感覚器官の対象

認識

思考器官

活動(カルマ)

過失

再生

果報

解脱

が順次、検討される。

 

『ニヤーヤ・バーシャ』によれば、この12種類の認識対象は世界全体を網羅するものではなく、これらを認識すれば解脱に至ることができるような、特別に選ばれたものである。唯物論的立場や無我の立場は否定され、アートマンの存在証明ともいうべきものがなされている。

 

主な後続文献

4-5世紀ごろのヴァーツヤーヤナの『ニヤーヤ・バーシャ』、6世紀後半のウッドョータカラの『ニヤーヤ・ヴァールッティカ』、9-10世紀ごろのヴァーチャスパティミシュラの『ニヤーヤ・ヴァールッティカ・タートパリヤティーカー』、11世紀ごろのウダヤナの『パリシュッディ』の注解書四部作が文献の根本をなすほか、ジャヤンタ・バッタが著した『ニヤーヤ・マンジャリー』も注解書の一面を持つ。

 

独立作品としての文献には、ウダヤナの『ニヤーヤ・クスマーンジャリ』と『アートマ・タットヴァ・ヴィヴェーカ』がある。前者は神の存在証明を試みた著作であり、後者は仏教の無我説に対する批判である。その他、バーサルヴァジュニャの『ニヤーヤ・ブーシャナ』があり、これはシヴァ神の直見が解脱への最終階梯であるなど説いた、有心論的色彩の強い異色の作品である。

 

思想

仏教論理学者が対象は観念の構築物であると考えるのに対し、ニヤーヤ学派では認識や言語は実在世界に即対応し、それをありのままに指示していると考える。仏教論理学者にとって直接、知覚が思惟の加わらない<無分別知>であるのに対し、ニヤーヤでは直接知覚は有分別でありうる。「白い牛」という認識において、「白」も「牛」も外界の実在であるとされるのである。

 

推論に関して言えば、推論の結果が近くや<信頼できる言葉>と矛盾するならば、それは推論が誤りであるとされる。つまり、推論はただ論理的に正しければ良いのではなく、日常経験や宗教の伝統とできる限り矛盾しないことが重要視されるのである。

 

一方、ヴェーダのような<信頼できる言葉>を無条件に許容したわけでもなく、言葉の信憑性は語り手の信頼性に依存すると考えたが、ヴェーダは神の言葉であるという見解が定着するにつれ、結局はヴェーダの記述は正しいとされるようになった。

出典 Wikipedia

2020/11/22

クシャーナ朝

 http://timeway.vivian.jp/index.html

マウリヤ朝は、アショーカ王が死ぬと分裂していきました。次に重要な王朝がクシャーナ朝(1世紀~3世紀)。これはイラン系の民族が支配者で、インドというよりは現在のアフガニスタンに根拠地があるのですが、インドの西北部も支配した、という国です。首都はプルシャプラ。

 

 この国は、やはり仏教との関連で重要。一つはカニシュカ王(位130~170頃)が仏教を保護し、第四回仏典結集をおこなったこと。

 

二つ目として、この王朝でガンダーラ美術と呼ばれる仏教美術が成立した。仏像です。そもそも、インド人には仏像を作る風習はありませんでした。ブッダの生涯を描いた彫刻などがあっても、ブッダの部分だけは空白で表していたんです。これはユダヤ教、キリスト教的な偶像崇拝禁止ということではなく、解脱してこの世界のものではなくなったことを空白で表現したんだ。

 

ところが仏教が、クシャーナ朝でも流行する。クシャーナ朝の本拠地は、中央アジアを含みます。ここにはアレクサンドロス大王の置きみやげ、残されたギリシア人たちの子孫がいた。ギリシア文化は、彫刻大好きですからね。多分、仏教信者になったギリシア系の人々が、ブッダを初めて彫刻に刻んだんでしょう。それが「ガンダーラ美術」と呼ばれるものです。だから仏様の顔も服も、なんだかギリシア風です。

 

 三つ目は、この国で大乗仏教が栄えたこと。この大乗仏教とガンダーラ美術が中央アジアを通って中国、そして朝鮮半島、日本に伝えられることになるわけです。

 

大乗仏教について

 大乗仏教について、ここで簡単に説明しておきましょう。

 インドの宗教は、出家して修行しなければ解脱できません。救われない。しかし、すべての人が日常生活を放棄して出家できるわけではないので、その人たちは修行者にお布施をしたり、徳の高いお坊さんのそばにいられることで満足していた。

 

 さて、そこでブッダが死んだ時の話です。ブッダが死んだ時、修行を積んだ弟子たちは、この世の無常であることを知っているから、じっと悲しみに耐えている。入門したての弟子たちは、そこまで悟っていませんからワーンワーンと泣き叫ぶわけね。

 

 在家の信者たちはどうかというと、かれらはブッダの高い徳を慕っていたわけだから当然、嘆き悲しむ。出家した修行者たちのようにクールになる必要は全然ないので、亡きブッダに対して執着する。簡単に言うと少しでもブッダのそばにいたい、彼の亡骸を守りたいと思った。そこで在家信者たちはブッダの遺骨を埋めて、その上に塔を建てます。この塔を「ストゥーパ」というんですが、ストゥーパにお参りしてはブッダを偲ぶような形で、自分たちの信仰を守りました。

 

 ブッダの信者はインド全域にいたので、信者のグループがいるところにはどんどんストゥーパが建てられた。その地下には、分けてもっらってきたブッダの遺骨の一部を埋葬するんです。このストゥーパは、仏教の広がりとともにアジア各地に広がっていきます。日本にもありますね。例えば、有名な法隆寺の五重塔。あれは、ストゥーパが中国風に形を変えたモノです。だから、あの五重塔の下にもブッダの遺骨の一部が埋葬されている、ことになっている。日本全国あらゆるお寺の塔の下にはある、ことになっている。

 

 世界中の仏塔は、どのくらいあるか分からないほどたくさんある。だからブッダの遺骨はどんどん細かく分けられて、米粒みたいに小さくなっている。このブッダの遺骨のことを仏舎利(ぶっしゃり)というんです。寿司屋さんで米のことをシャリというのは、ここから来ているらしいです。

 

 どこかで読んだんですが、世界中の仏舎利を集めたら数十人分の人骨になるそうです。でも、これが信仰というものでしょうね。少しでもブッダの側にいたい、という気持ちが、それだけ強かったと言うことです。

 

 ブッダを慕う気持ちが強ければ強いだけ、在家信者たちはブッダが死んでしまっていることに耐えられなくなる。そういう在家信者に共感する修行者や仏教理論家たちがいたんでしょう。かれらの中から、大乗仏教が生まれてきます。

 

 というわけで、大乗仏教の特徴はまず大乗なことだね。これは大きな乗り物ということです。在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。出家修行者だけではなく在家の信者も悟りの世界、つまり彼岸に載せていってくれる大きな乗り物。大乗です。これに対して、出家者しか悟ることのできない従来の仏教を大乗側は小さな乗り物、小乗仏教といってけなします。

 

 また大乗仏教は、歴史上の実在したブッダ以外に理念としてのブッダの存在を考えます。ブッダの教えをダルマといいますが、そのダルマそのものがブッダである、と考える。宇宙の法則の中に、永遠のブッダが存在している。そう考えれば寂しくないでしょ。

 

大乗は、歴史上のブッダ自身の教えと違うじゃないかという人が昔もいたし、今もいます。ただ一般的な理解としては、大乗も仏教です。ブッダの教えが理論的に発展していったもの、と考えたらいいと思います。

2020/11/20

六派哲学(インド哲学1)

インド哲学のうち、ヴェーダの権威を認める6つの有力な学派の総称。インドでは、最も正統的な古典的哲学とされてきた。

 

ヴェーダーンタ学派(宇宙原理との一体化を説く神秘主義)

ミーマーンサー学派(祭祀の解釈)

ヨーガ学派(身心の訓練で解脱を目指す)

サーンキヤ学派(精神原理・非精神原理の二元論)

ニヤーヤ学派(論理学)

ヴァイシェーシカ学派(自然哲学)

 

ヴェーダーンタとミーマーンサー、ヨーガとサーンキヤ、ニヤーヤとヴァイシェーシカは、それぞれ対として補完しあう関係になっている。

 

六派哲学(梵: ad-darśana [シャッド・ダルシャナ])は、ダルシャナ(darśana、日本ではインド哲学と訳す)のうち、ヴェーダの権威を認める6つの有力な正統学派の総称。インドでは、最も正統的な古典的ダルシャナとされてきた。

 

一覧

ミーマーンサー学派 - 祭祀の解釈

ヴェーダーンタ学派 - 宇宙原理との一体化を説く神秘主義

サーンキヤ学派 - 精神原理・非精神原理の二元論

ヨーガ学派 - 身心の訓練で解脱を目指す。

ニヤーヤ学派 - 論理学

ヴァイシェーシカ学派 - 自然哲学

 

ミーマーンサーとヴェーダーンタ、サーンキヤとヨーガ、ニヤーヤとヴァイシェーシカは、それぞれ補完しあう関係になっている。

 

アースティカとナースティカ

なお、ヒンドゥー教においては、これらヴェーダの権威を認める学派をアースティカāstika आस्तिक, 正統派, 有神論者)と呼び、ヴェーダから離れていった仏教、ジャイナ教、順世派などの先行する思想派閥をナースティカnāstika नास्तिक, 非正統派、無神論者)として区別する。

 

ヴェーダーンタ学派(デーヴァナーガリー: वेदान्त, Vedānta、英: Vedanta)は、ダルシャナ(インド哲学)の学派。シャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う。古代より、インド哲学の主流であった。「ヴェーダンタ」の語源は veda anta (終わり)を掛け合わせたもので、ヴェーダの最終的な教説を意味し、ウパニシャッドの別名でもある。

 

開祖はヴァーダラーヤナで、彼の著作『ブラフマ・スートラ』(別名・『ヴェーダーンタ・スートラ』)のほか、『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を三大経典(プラスターナ・トラヤ)としている。

 

ヴェーダーンタ学派における最も著名な学者は、8世紀インドで活躍したシャンカラであり、彼の説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学(不二一元論)は最も影響力のある学説となっている。ほかに、ラーマーヌジャらが提唱するヴィシシュタ・アドヴァイタ{制限(非限定的)・不二一元論}や、マドヴァの説くドヴァイタ(二元論)などがある。

 

不二一元論

ブラフマン(宇宙の本質)とアートマン(自己の本質)の究極的同一性を説く。シャンカラが最も著名。

 

ヴェーダーンタ学派(宇宙原理との一体化を説く神秘主義)は、インド哲学の学派。六派哲学の1つに数えられる。ヴェーダとウパニシャッドの研究を行う。古代よりインド哲学の主流であった。語源は veda anta (終わり)を掛け合わせたもので、ヴェーダの最終的な教説を意味する。

 

開祖はヴァーダラーヤナで、彼の著作『ブラフマ・スートラ』(別名・『ヴェーダーンタ・スートラ』)のほか、『ウパニシャッド』と『バガヴァッド・ギーター』を三大経典(プラスターナ・トラヤ)としている。

 

ミーマーンサー学派(ミーマーンサーがくは、Mīmāsā-darśana)は、インド六派哲学の一学派で、ヴェーダの中で祭式に関わる部分を研究する学派である。カルマ・ミーマーンサー(Karma-Mīmāsā, 祭事の研究)とも。紀元前200-100年頃生きたジャイミニが書いたとされる『ミーマーンサー・スートラ』(Mīmāsā-sūtra, )を根本経典とする。別名ジャイミニ・スートラ(Jaimini-sūtra)

 

思想

祭式を重視し、祭式を行うことで現世や来世の幸福を得ることができるとする。神は祭式の1要素に過ぎず、同じくヴェーダを研究するヴェーダーンタ学派と比べて、神が占める地位は低い。またインド哲学の多くが重視する解脱にも関心が低い。 言語不滅論。

 

膨大かつ多様なヴェーダ祭式を統一的に解釈するための複雑な言語論や認識論の体系を持っている。形式主義・儀礼先行のため、最も正統の学派でありながらも、早い段階で権威は失堕している。

 

ミーマーンサー学派(祭祀の解釈)

インド哲学の学派。六派哲学の1つ。ヴェーダの中で祭式に関わる部分を研究する。

 

紀元前200-100年頃生きたジャイミニが書いたとされる、ミーマーンサー・スートラを根本経典とする。別名ジャイミニ・スートラ、カルマ・ミーマーンサ(カルマ:行為、ミーマーンサ:分析の意)
出典 Wikipedia

2020/11/18

カインとアベル(ヘブライ神話5)

 カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで、兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている

 

カインとは、本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、追放され耕作を行えなくなったカインを金属加工技術者の祖とする解釈も行われている。アベルとは「」を意味する。

 

この説話を「遊牧民(=アベル)と農耕民(=カイン)の争い、遊牧民の農耕民に対する優越性を正当化するもの」と、解釈する向きもある。

 

創世記の記述

カインとアベルは、アダムとイヴがエデンの園を追われた(失楽園)後に生まれた兄弟である。また、この二人の弟にセト(セツ)がいる。カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになった。

 

ある日、2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェはアベルの供物に目を留めカインの供物は無視した。これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。その後、ヤハウェにアベルの行方を問われたカインは

 

「知りません。私は弟の監視者なのですか?」

 

と答えた。

 

これが、人間のついた最初の嘘としている。しかし、大地に流されたアベルの血は、ヤハウェに向かって彼の死を訴えた。カインはこの罪により、エデンの東にあるノド(נוֹד、「流離い」の意)の地に追放されたという。

 

この時ヤハウェは、もはやカインが耕作を行っても、作物は収穫出来なくなる事を伝えた。また、追放された土地の者たちに殺されることを恐れたカインに対し、ヤハウェは彼を殺す者には七倍の復讐があることを伝え、カインには誰にも殺されないためのカインの刻印をしたという。

 

カインは息子エノクをもうけ、ノドの地で作った街にもエノクの名をつけた。

 

ヨベル書・エノク書での記述

エチオピア正教会、およびエリトリア正教テフワド教会の聖典『ヨベル書』(他の教会では偽典とされる)によれば、カインは第2ヨベル第3年週にアダムの妻から長男として生まれた。妻は同ヨベルの第5年週に生まれた妹のアワンである。

 

同じく、エチオピア正教等の聖典『エノク書』第22章には、冥界を訪れたエノクが大天使ラファエルの案内で、死者の魂の集められる洞窟を目撃した事が記されている。それによると、アベルの霊はその時代になってもなお天に向かってカインを訴え続けており、カインの子孫が地上から絶える日まで叫び続けるという。

 

子孫

カインの子孫であるトバルカインは「青銅や鉄で道具を作る者」と『創世記』第4章に記されている。また、トバルカインの異母兄弟であるヤバルは遊牧民、ユバルは演奏家の祖となった。さらに、彼らの父であるレメクは戦士だったらしく

 

「わたしは受ける傷のために人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」

 

と豪語している(『創世記』第422節)。

 

『創世記』内では、前述のレメクの尊大な言い方がある程度で、カインの子孫は邪悪と明記している部位は特にないが、1世紀頃のユダヤ人たちからは

 

「カインの子孫は、悪徳や腐敗を重ねた連中達だった」

 

とされ、このため大洪水で滅ぼされる対象になったのだとされた。

 

『ベーオウルフ』に登場する巨人グレンデルは、カインの末裔とされている。

 

後世への影響

親の愛をめぐって生じた兄弟間の心の葛藤等を指すカインコンプレックスは、この神話から名付けられたものである。小説および映画『エデンの東』のほか、小野不由美のホラー小説・屍鬼ではカインとアベルが重要なファクターとして登場するなど、この二人の物語を題材にした作品も多い。カインとアベルは兄弟の代名詞でもあり「運命的な兄弟」を暗示させる言葉として、各種作品のタイトルにも使用されている。

 

類似の神話

「カインとアベル」の説話に先行するものとして、シュメール神話の「ドゥムジ(タンムーズ)神とエンキムドゥ(エンキドゥ)神」が存在する。女神「イナンナ」の花婿選びにおいて、牧畜神「ドゥムジ(タンムーズ)」と農耕神「エンキムドゥ(エンキドゥ)」の二柱の夫候補がおり、イナンナは美男のエンキムドゥ(エンキドゥ)の方を気に入っていたが、エンキムドゥ(エンキドゥ)は辞退し、花婿の座をドゥムジ(タンムーズ)に譲ってしまう。こうして、イナンナの夫にドゥムジ(タンムーズ)が選ばれたのである。

出典 Wikipedia

2020/11/12

司馬遷 ~ 後漢(4)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 
 当時、死刑と同等に重い刑で宮刑という刑があった。これは性器を切り取られる刑。宦官にされてしまうわけだ。司馬遷は、どちらかを選択することができた。

 

 死なずにすむのなら宮刑でいいじゃないか、と今の時代なら簡単に思うかもしれないけれど、時代が違うからね。なぜ宮刑が死刑と同じくらい重いかというと、男性性器を切り取られるということは男でも女でもなくなる、要するに人間ではなくなって、人間界からおさらばすることを意味したからです。

 

 当時の感覚では、人間以下のものになってまで生き続けることは、死ぬよりも辛いことだったのですよ。しかし、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。

 

 宮刑を選んでも、実は生きていられるとは限りません。当時は医学も進歩していないしね。スポンと性器を切り取るでしょ。その後、ばい菌が入って死ぬかもしれないし、出血多量で死ぬかもしれない。手術後の生存率は、かなり低かったようです。手術後は、室温を高くしたサウナ室のような部屋に、一週間閉じこめられる。一週間後、生きながらえてこの部屋から出てきたら、助かったということになる。中には、傷が治る過程で尿道が塞がってしまって、おしっこが出なくなって死ぬこともあったらしい。

 

 司馬遷は、死なずに済みました。しかし、惨めな身体で生き続ける屈辱に耐えなければならなかった。すべては「史記」を完成させるためでした。自分がこんな目にあったことを考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得ないんです。李陵将軍を弁護したことは正しかった、と司馬遷は考えた。しかし、武帝から屈辱的な刑を受けた。運命とはいったいなんだろうか、というわけです。

 

 そういうことを考えながら、彼は歴史上の人物について伝記を書いた。自分の主義に忠実だったために野垂れ死にしたものや、散々人殺しをしながら、天寿を全うした大泥棒が列伝には出てきます。

 

武帝に刑を受けながらも、その臣下として生きている自分。その自分が書く漢の歴史、武帝の時代。色々な想いがぎゅっと凝縮されて「史記」の行間に迸っている。というわけで名著なのです。

 

 また、司馬遷は「史記」を書くにあたって宮廷の記録を利用するだけでなく、各地を旅行して取材しているようです。単なる書斎の人ではないのです。

 

 余談になりますが、先年亡くなった歴史作家の司馬遼太郎さん、彼の名前は「司馬遷に遼(はるか)に及ばない」という意味でつけたそうですよ。

 

 後漢の時代には、班固が「漢書」を書いています。形式は紀伝体で、司馬遷の方法を踏襲しています。「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡まで書きました。これ以後、後の王朝がその前の王朝の歴史を書くことが一般的になっていきます。班固は、西域都護だった班超のお兄さんです。

 

 漢の初め頃には人気のなかった儒学ですが、やがて経典が整備されます。『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』(らいき)の五つです。全部まとめて五経という。

 

 これらは、春秋時代から戦国時代にできた書物ですから、漢の時代の人びとにも意味がわかりづらかった。そこで、これらの経典の解釈学が発達しました。これを訓詁学(くんこがく)という。その代表的な学者が、後漢の鄭玄(じょうげん)(127~200)です。儒学をそれなりにマスターしていることが名士としての条件になってきますから、豪族の子弟たちも、これで一所懸命勉強したわけだ。

 

 文化で忘れてはいけないのは、紙の発明です。後漢の蔡倫(さいりん)という宦官が発明したといわれています。実際は、蔡倫以前にも紙はあったようで、蔡倫はこれを実用的に改良した人。

 

 紙の発明が、文化の発展普及にどれだけ役に立ったか想像できますか。

 

 中国で紙が発明される前は、竹や木を細長く短冊状に削ったものに字を書いていました。これを竹簡木簡といいます。けっこう長くて、一本50センチくらいです。これ一本には長い文章を書けないので、何本かの短冊を「すのこ」のように糸で綴って、これに文を書く。「」という字は、この形はここからきている。仕舞う時には、ぐるぐる巻いておくのです。これを「」という。今でも、何冊か続きの本を一巻、二巻、というでしょ。ここからきているわけ。

 

 こんなんだから、ちょっとした本でもすごく大きく重たく場所をとる。豪族や官僚でなければ、なかなか個人で書物を持つことは難しい。勉強したい人は、読みたい書物を持っている人のところに重たい木簡抱えていって、座敷にダーッと広げて写すわけです。コピーなんてないしね。筆記用具は墨と筆でしょ。書き間違えたら、短刀で木簡を削って書き直す。

 

 これが軽くて薄い紙に替わって、書物を読んだり所有することが随分手軽になったのです。

 蔡倫さんに感謝。

2020/11/04

司馬遷 ~ 後漢(3)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html 

後漢

 新滅亡後の混乱を収拾して、新しい王朝を建てたのが劉秀。皇帝としてのおくりなは光武帝。国号は。都は洛陽。一般には後漢という。

 

劉秀は前漢皇帝家である劉氏の血筋を引いているから、漢を復興したということになるわけです。彼自身、当時は地方の豪族で、豪族反乱軍のリーダーから皇帝にまでのぼりつめた。豪族勢力の協力や支持がなければ、後漢は生まれなかった。だから、後漢の政府は豪族の連合政権といってもいい。

 

 後漢の政治は前漢と同じで、特にいうべきことはない。ただ、対外政策、西域経営に関しては有名です。後漢の初期には、班超という人がシルクロード沿いのオアシス諸都市国家を後漢に服属させて、西域都護として大活躍しました。

 

 この班超の部下に甘英(かんえい)という人がいる。甘英は班超の命令で、西の方向に使者として派遣された。行けるところまで行ってこい、というのが班超の命令。で、甘英はどんどん西に向かって旅を続け、最後に海に突き当たった。これ以上、西に進めない、というので引き返してきたんです。

 

 甘英が、どこまで旅をしたのかというのが興味深いところで、甘英によると海があった国は大秦国(だいしんこく)。これは、どの国を指すのか。

 

 甘英がたどりついた海は何か、ということが焦点になる。これには二説あって、一つはカスピ海という説。湖だけれど、知らないものがみれば海と思うでしょ。もう一つが地中海という説。シリアの海岸までたどりついて、引き返したというわけだ。で、どちらかというと、地中海説が有力のようです。

 

 だとしたら大秦国というのは何かというと、ローマ帝国ということになる。後漢の軍人がローマ帝国まで旅行したとすれば、スケールの大きな話ではないですか。

 

 これを補強する記録があって、班超、甘英の時代から少し後の166年、中国南部の日南郡というところに一隻の船が着いた。この船の乗員は、大秦国王安敦(あんとん)の使者と名のっているのです。

 

 大秦国がローマ帝国とすれば、安敦とは誰か。当時のローマ皇帝を探すと、ぴったりの人物がいましたね。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝です。五賢帝の最期ね。アントニヌスを音写して、安敦にほぼ間違いないでしょう。

 

 ただ、ローマ側の記録には、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が中国方面に使者を派遣したという記録はないので、中国にやってきた者たちが一体何者だったのか、ローマ皇帝の名をかたった西方の商人ではないかとかいわれていますが、とにかく、この時期に東西の二大帝国が、ちょっとではありますが接触していたことには変わりはない。世界史っぽくなってきたですね。

 

漢代の文化

 前漢、後漢ひっくるめて、文化について触れておきます。

 

 前漢では、司馬遷(前145?~前86?)。必ず覚えなければならない歴史家です。彼の書いた名著が「史記」です。神話、伝説の時代から、彼が生きていた前漢武帝の時代までの歴史が書かれている。この歴史書の書き方も重要。紀伝体という形式で書いています。というより、司馬遷が紀伝体という書き方を開発して、これが中国では歴史書の書き方の模範になります。大きく分けて、本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)という二つの部分からできているので紀伝体という。

 

 本紀は年表です。何年何月にこんな出来事があった、と宮廷を中心に出来事が羅列してある。極端にいえば、みなさんの世界史の教科書みたいなもんです。読んでもあまりおもしろくない。

 

 列伝は、それぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。歴史の中で翻弄される人間たちの運命を物語的に書いてある。この列伝が面白いんです。授業で話した色々なエピソードの種本は、みんなここです。あんまり面白いんで、たくさんのバージョンでマンガ化されているね。

 

 司馬遷は、前漢武帝に仕えた人です。史官といって、宮廷の出来事を記録するのが彼の家の仕事でした。司馬遷の親父さんも、史官として漢の宮廷に仕えていた。で、親父さんは史官としての仕事以外に自分のプライベートな仕事として、歴史書を書こうとしていたんです。それが「史記」です。ところが、これを完成させる前に親父さんが死んで、息子司馬遷がその仕事も引き継いだ。だから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら情熱を傾けて「史記」を書いていました。いわば、ライフワークです。

 

 そんな時、ある事件がおこる。武帝は積極的に西域経営をして、匈奴と戦争していたね。李陵(りりょう)という将軍がいた。この将軍も、五千の兵を率いて匈奴との戦争に出かけるんですが、敵に包囲されて降伏した。

 

 このニュースが長安の宮廷に届くと、武帝は烈火のごとく怒った。李陵将軍の一族はみんな都に住んでいるんですが、武帝はその家族を皆殺しにしろと命じたんです。その時、史官司馬遷は、その場に居合わせた。司馬遷は李陵将軍の人となりを知っていたので、彼を弁護したんです。李陵将軍は立派な人物だから、降伏したのにはよほどのわけがあったに違いありません、事情がはっきりするまで、彼の家族を処刑するのはお待ちください、というのだ。

 

 武帝は、これを聞いてさらに怒ってしまった。

 

「お前は史官の分際で、皇帝の判断に口出しするか!

司馬遷よ、お前も死刑だー!

 

 ということで、司馬遷も死刑になることになった。ところが、彼には親父さんから引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事があるわけです。死ぬわけにはいかない。

2020/11/01

アダムとエバ(ヘブライ神話4)

 アダムとエバ(アダムとイブ)は、旧約聖書『創世記』に記された、最初の人間である。天地創造の終わりに、ヤハウェによって創造されたとされる。

 

なお、アダム(אָדָםとはヘブライ語で「」「人間」の2つの意味を持つ言葉に由来しており、エバはヘブライ語でハヴァחַוָּה)といい「生きる者」または「生命」の意味である。このエバ、エヴァ、或いはイヴ、イブ(英: Eve に由来する)という読みは希: Ευά(エウア)に由来する。本項では新共同訳聖書の表記にしたがって、以下エバと表記する。 人類最古の文明を生み出したと言われているシュメル人が書き残した天地創造の物語が、ヘブライ語に翻訳されたと思われる。

 

イチジクの葉

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後、実のなる植物が創造された。アダムが作られた時には、エデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には命の木と善悪の知識の木と呼ばれる2本の木があった。

 

それらの木は、全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実は、この時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は、目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという。

 

この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた。

 

その後、アダムは930歳で死んだとされるが、エバの死については記述がない。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)は、よく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。

 

17世紀のイギリス人作家ジョン・ミルトンは、この物語をモチーフにして『失楽園』を書いている。

 

キリスト教

キリスト教では、失楽園の物語は「原罪」として宗教的に重要な意味を与えられる。新約聖書では、アダムは騙されなかったとしてアダムの罪の大きさを指摘する他、イエス・キリストを「最後のアダム」と呼ぶなど、アダムへの言及が各所に見られる。また、エバを騙した蛇はサタンであるとされる。なお、アダムは正教会で聖人に列せられている。

 

アウグスティヌスは『神の国』1411章で、エバは惑わされて罪を犯したが、アダムはエバに譲歩したために罪を犯したと解説している。また『神の国』2217章で、女(エバ)が男(アダム)からつくられたのはイエス・キリストについての預言であり、アダムの眠りがキリストの死を表し、十字架につけられたイエス・キリストの脇腹から血と水が流れ、そこから教会が立てられたのであり、女が男から作られたことは教会の一致を表しているとしている。そして『神の国』2224章で、人間が堕落したにもかかわらず、神は子供を産む祝福を奪われなかったと教えている。

 

また、福音派でも「女の真の定義は男からとられた者」「男の一部」であり、パウロはアダムとエバの類比をキリストと教会の関係に当てはめているとされる。

 

「女はアダムのわきからとられた。教会が出てくるのは、主の傷ついて血のにじむわきからである。」

 

そのため、人は妻と結ばれて「一心同体」になるのであり、教会はキリストの花嫁と呼ばれている。エバは頭であるアダムに相談せずに、自分で判断したために堕落した。創造の秩序から女性が上に立ってはならないと教えられている。

 

ユダヤ教

ユダヤ教においては、アダムとイブは全人類の祖とみなされてはいない。天地創造の際に神は獣、家畜、海空の生き物と同時に神の似姿の人間を創造し、アダムの誕生とは区別して記述されているからである。アダムは、あくまでもユダヤ人の祖であり、その他の人類は魂(命の息)を吹き入れられていない、つまり本当の理性を持たない人であり、ゴイムとされる。神の民族がその他人類と交わり、子孫を残していく記述が聖書に散見されるが、その中でも律法を守り、神に従う者がアダムの直系であるアブラハムの民であり、イスラエル(ヤコブ)、ユダヤの民とされる。

 

外典他

『ヨベル書』によれば、アダムとエバはエデンの園で7年間手入れと管理を行っていた。4月の新月に追放され、エルダ(アダムとエバ起源の地)に住みつき農耕を始めた。長男カイン(第二ヨベル第3年週誕生)は長女アワン(第二ヨベル第5年週誕生)と、三男セト(セツ、第二ヨベル第5年週の第4年誕生))は次女アズラ(第二ヨベル第6年週誕生)と結婚した。なおアベル、エノクの他男女8人の子がいた。

 

『アダムとエバの生涯』(『モーセの黙示録』)によれば、追放の際サフラン、カンショウコウ、ショウブ、シナモン他の種を持っていくことを許可された。また追放後も大天使ミカエルにより種をもらったり、エバの出産を助けてもらうなどしている。息子30人と娘30人もうけたという。追放後、182ヶ月後子供が生まれた。

 

グノーシス主義オフィス派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒム(万物の父)の天使が、第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の女性体の部分の土からアダムを創り(蛇身の土から動物を創った)、エデンが魂を、エロヒムが霊を置いた。イヴも同様にエデンに似せて創られエデンが魂を、エロヒムが霊を置いた。その後、産めよ増やせよ地に満ちよと命じられた。

 

イスラム教

アラビア語で書かれた『クルアーン』(コーラン)では、エロヒムはアッラーフと、アダムはアーダム(Ādam)と呼ばれ、人の祖にして最初の預言者として登場する。イスラム教ではアーダムは「人の父」と称され、人を総称するときは「アーダムの子ら」という語が使われ、「アーダムの」といえば「人の」という意味にもなる。ハヴァ(イブ)すなわちアーダムの妻はハウワーと呼ばれるが、『クルアーン』にはその名前は直接に言及されていない。

 

『クルアーン』によれば、アーダムはアッラーフの地上における「代理人(ハリーファ)」として土から創造されたという。天使たちは人を地上に置くと地上で悪をなすと反対したが、アッラーフは最初の人としてアーダムを創造し、万物全ての名称を教えた。そのため天使ですらも万物の名はアーダムから教わり、彼に平伏したという。しかし、先に天使と同じような存在、あるいは天使の一員としてアッラーフによってイブリースが創造された。続いてアッラーフはアーダムの妻を創造し、2人を楽園に住まわせた。しかしアーダムは、イブリースの言葉に惑わされて、妻とともにアッラーフに食べることを禁じられていた楽園の果樹の実を食べてしまった。二人はこれを悔いてアッラーフに悔悟し、罪を許されたものの、楽園を追放されて地上に下された。

 

『クルアーン』の伝える物語は、『創世記』の失楽園物語と比較すると、果実を食べるよう誘ったのが蛇ではなく(悪魔)である、誘われて果実に手を出したのは妻ではなく、アーダムのほうであるという違いがある。

 

その後、2人は地上で子をもうけ、人類の祖となったとされる。なお、『クルアーン』には記述されていないが、イスラム教の伝承によれば、地上に降りた2人は初め別れ別れであったが、のちにメッカ郊外のアラファート山で再会することができたという。

出典 Wikipedia