2022/12/29

エッダと北欧神話の世界(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 

 彼が寝ていると汗をかいた。その時、左腕の下から男と女が生まれた。彼の一方の足が、もう一方の足と息子をこしらえた。これから一族が生まれたのだが、それが「霜の巨人族」だ。

 

 霜がしたたり落ちたとき、次に「アウズフムラ」という牝牛が生まれた。その乳首から、四つの乳の河が流れ出た。この牛が「ユミル」を養った。

 

 牝牛は、塩辛い霜で覆われた石を舐めていた。石を舐めていると、人間の髪の毛のようなものが石から出てきた。翌日には人間の頭のようなものが、三日目には人間全体の姿がそっくり現れた。この人間のような原初の存在は「ブーリ」と呼ばれ、容姿が美しく偉丈夫だった。彼は「ボル」という息子を得た。この「ボル」は巨人族の娘を妻として、二人の間に三人の子供が生まれた。一人が「オーディン(彼が結局神々の主神となる)」で、その兄弟が「ヴィリ」と「ヴェー」であった。この「オーディン」と、その兄弟が天地を支配しているのだ。

 

 「ボル」の息子たち、つまり「オーディン」たちが「ユミル」を殺した。そして「ユミル」が倒れた時、その傷口からおびただしい血が流れ、洪水となりそのため「霜の巨人族」は、すべて溺れて死んだ。ただ一人、「ベルゲルミル」だけは、妻と一緒に「挽き臼」の台に上って助かった。この二人から、新しい霜の巨人族が生まれていくことになる。

 

 一方「オーディン」たちは、死んだ「ユミル」の身体を奈落の口へと運んできて、それから「大地」を作り、その「血」から海と湖を作った。すなわち、「肉」から大地を、「骨」から岩を、歯と顎と砕けた骨から石や砂利を作った。

 

 流れ出した血から海を作り、大地をその中に置き、輪のようにその周りに海を巡らしたので、それを越えていくことは不可能に思えるのだ。

 

 オーディンたちは、またユミルの頭蓋骨をとってそれから「天」を作り、四隅をくっつけて大地においた。その四隅の下には「こびと」を一人ずつおいた。こうして「東・西・南・北」ができた。

 

 それからオーディンたちは「ムスペル・ヘイム(火の国)」から吹き出している火花を捕らえ、天の中ほどにおいた。オーディンたちはあらゆる光にその場所を定め、その運行を定めた。この時から「日と年」の数が計算されている。

 

 大地の外形は円形で、外側は深い海が取り巻いている。その海岸にオーディンたちは「巨人族」の住む土地を与えた(ここが巨人族の国ヨーツン・ヘイムとなる。そして彼らが、アース神たちの宿敵となる)。

 

だが、その内部には砦を作った。それはユミルの睫毛で作られ、この砦を「ミズ・ガルズ(文字通りには中央地域で、ここが人類のいる人間界)」と呼んだ。オーディンたちは、またユミルの脳みそをつかんで空中に投げ、それは雲となった。

 

 「ミズ・ガルズ」に住む人類だが、オーディンたちが海岸沿いに歩いていると、二つの木片を見つけた。これを拾って「人間」を作ったとなるのですが、「スノッリのエッダ」では、以下第一の神(だからオーディンになると思われる)が「息と生命」を与え、第二の神が(ということは、その兄弟「ヴィリ」になると思われる)が「知恵と運動」を、第三の神が(「ヴェー」になると思われる)が「顔と言葉と耳と目」を与えた。オーディンたちは、この人間に衣服と名前を与えた。男は「アスク(とねりこ)」、女は「エムブラ(楡)」といい、この二人から人類が生まれることとなった。

 

 ただし、これが「巫女の預言」では「三人の強いが優しい神々が家に帰る途中、岸辺で無力で自らの運命を知らぬアスクとエムブラを見つけた。彼らは息を持っていなかった。心も持っていなかった。生命の暖かさも、身振りも良い姿も持っていなかった。オーディンは息を与え、ヘーニルは心を与え、ローズルは生命の暖かさと良い姿を与えた」となっています。このヘーニルとローズルは、この書だけにしか出てこない神でオーディンとの関係もその位置も不明です。また成り行きからして、ここは世界形成に携わっているブルの三兄弟「オーディン、ヴィリ、ヴェー」でないとつじつまが合わないわけで、「巫女の預言」の記述がよく分からなくなります。そんなわけで、スノッリは「第一の神、第二の神、第三の神」としていたのかもしれません。

 

 その後、オーディンたちは世界の真ん中に「アース・ガルド」という砦をつくり、そこに神々とその子どもたちが住むことになった。オーディンは高座に座り、すべてを照覧する。

 

 この地上から天へは一つの道があり、それは「ビフレスト」というが、人間たちはそれを「虹」と呼んでいる。これは(世界の終末時に)「火の国ムスペルの軍勢」がくるまで壊れることがない。

 

 その後、神々は「ユミル(原初の巨人で、これが殺されて自然万物が作られた)」の肉の中に生まれウジ虫にすぎなかった「こびと」たちが蠢いているのを思い出し、呪文を与えて彼らに人間の知恵と姿を与えた。彼らは、岩の間や地中に住んでいる。

 

 このようにして作られた世界の全体は、一本の「とねりこの木」によって支えられている。この木の梢は天の上にまで突き出ていて、枝は全世界の上に広がっている。その根っこは三本に分かれ、一本の根は「極北の国ニフル・ヘイム」の真ん中にある泉にまで達し、そこでは悪しき竜がこの根を齧っている。もう一本の根は、巨人たちの国ヨーツン・ヘイムに延びている。その端のところに無限の知恵の水が沸く泉があって、それは一人の巨人によって守られているのだが、オーディンはここにやってきて自分の片目を差し出してここの水を飲ませてもらい、無限の知恵を手に入れた。第三の根は「神々の国アース・ガルト」にあり、その根の下には特別に神聖な泉があって、そこに神々は裁きの法廷を持っている。

 

 以上に見られるように、北欧神話の世界観というのは、「深淵」が初めにあり「灼熱と寒冷」が生じ、その「対立・相乗作用」から生命が生じ、その生命体が新しい生命に「殺されて」万物が作られていったという構造になっています。

 

 まず、この「深淵」というイメージは「何もない」という表現でしょうが、イメージとしてはわかりやすく、さらに「灼熱と寒冷の対立・相乗作用による生命の誕生」というのも、これは何かしら地球の創成期の様子を思わせて興味深いものがあります。

 

 また、その「生命体」である「ユミル」を殺して、そこから天地自然を作っていく様子は獲物である動物の解体作業のようで、これはゲルマン人が狩猟民族であったことの証のようにも思えます。

 

 他方、ギリシア神話の捕らえ方というのは一つなる自然の穏やかな自然的働きによる姿・形の「生成」という捕らえになっており、ここにはゲルマン神話に見られる「対立概念」「闘争」という観念がありません。ですから「国」にしても「神々の世界」と「人間の世界」と「妖精の世界」「妖怪の世界」、といった区分がありません。ゲルマン神話では意識的に、九つにまで世界を独立されているのと比べると著しい違いといえます。

 

 つまりギリシア人は「つねに脅かされる外敵」というものを持つことなく、民族として大きく優性になり拡大していったのに対して、「島のゲルマン人」は「外敵」を常に外に持ってそれとの「抗争」の中で戦いつつ、自らを保持していったという民族の歴史の思い出が反映されているような気がします。それが神話の中で「巨大な悪の国」を設定して、それとの抗争が神々の物語となるという大筋を作らせているように思えます。

2022/12/24

西ローマ帝国の滅亡(6)

経済とのかかわり

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ローマとイタリア半島では、生産性の高い東方地域が属州へ組み込まれると徐々に交易や高級作物の生産へシフトしたが、経済の重心は次第に東へ移った。

 

既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマ帝国が経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や属州を制しきれなくなり、致命的なことに地中海をも掌握できなくなった。歴代のローマ皇帝は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、ヴァンダル族はとうとう北アフリカを征服してしまう。

 

これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前より、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ帝国崩壊の伏線となったのである。

 

古代においては、国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。税収が不十分では、高くつく職業的な軍団を維持することも、雇い入れた傭兵を当てにすることもままならなかったからである。西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマ帝国の諸機関は、不安定な経済力に連動して潰れて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服する度、いよいよ増えていったことであろう。

 

イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。そもそもイタリア半島の農地の生産性は、シチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。

 

これはすなわち、不幸にして東ローマ帝国による西ローマ帝国の建て直しの試みは無理であり、地方経済が大幅に衰退していたために、新たに奪還した土地を保持することは、あまりにも高くつきすぎるということを表していた。

 

その一方で、エジプトやシリアなどの穀倉地帯を確保し、オリエントとの交易ルートを抑えていた東ローマ帝国は、とりわけコンスタンティヌス大帝やコンスタンティウス2世のような皇帝が莫大な金額を注ぎ込んだこともあり、さほどの経済的な衰微は起きなかった。

 

西ローマ帝国の「滅亡」

18世紀になると、ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポスの廃位によって、西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、この表現は現在でも慣用的に用いられている。しかしながら、西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、学問分野より見直しが求められている。

 

西方正帝の廃止は、西ローマ帝国の滅亡ではない。西方正帝の地位が廃止された後も、正帝以外の各種公職や政府機関は健在であった。少なくとも法律・制度・行政機構の面においては「西ローマ帝国の滅亡」といった断絶を見出すことはできない。いわゆるゲルマン王国と呼ばれる領域においても、実際に行政権を行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人の属州総督であったし、住民もまた東西で共通のローマ市民権を所有しつづけていた。彼らローマ人は、西方正帝の廃止後も変わらずローマ法の適用を受け、帝国の租税台帳によってローマ人の文官によって税が徴収されていた。

 

一方のゲルマン王らは、名目上はローマ帝国によって雇用されている立場であり、帝国から給金を受け取っていた。オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである。彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために、西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え、古代ローマの生活様式を保存しようとさえした。西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである。

 

20世紀以降の歴史学においては、アンリ・ピレンヌ、ルシアン・マセット、フランソワ・マサイ、K.F.ヴェルナー、ピーター・ブラウンといった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている。また、古代ローマにおける主権者が皇帝ではなくSPQR(元老院とローマ市民)であるとされていたことから、SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。

2022/12/20

決勝(サッカーW杯2022・カタール大会)(7)

2022のワールドカップサッカー決勝は、PK戦にもつれ込んだ末、アルゼンチンがフランスを破って36年ぶり3度目の優勝。

 

決勝前の時点では「フランス有利」と予想したが、前半はフランスの動きがこれまでとは見違えるほどに重かった。準決勝から中3日、おまけに準決勝後に体調不良を訴える選手が続出という報道もあったが、そうした影響もあったのかTVに移った映像は、これまで見たこともなく、また想像すらしなかった「弱いフランスの姿」だった。

 

一方、中4日と休養十分、しかも準決勝はクロアチアに3-0と余裕の勝利で戦力温存、万全の状態で決勝を迎えたようなアルゼンチンは、立ち上がりから絶好調。踊るような躍動感あふれるサッカーを展開し、前半だけで2点を奪いワンサイドになるかとも見えた。

 

(フランスが、このまま終わるわけはないだろう)

 

という予想を覆し、後半に入ってもその動きは精彩を欠いたまま。あの大会ナンバーワンの攻撃力を誇ったフランスが、なんと後半も半分くらいの時間が過ぎようというところまで、得点はおろか「シュートすら1本も打てない」などとという展開を、誰が予想しえただろうか。「困った時の黒人頼み」が気に喰わないことから、ずっと前から「アンチフランス」のワタクシではあるが、さすがにこのまま終わってしまったのでは

 

(なんとつまらない決勝戦か!)

 

という失望しかなかったが、いよいよ大詰めというタイミングで「強いフランス」が復活した!

 

漸く掴んだPKのチャンス。まずは、エムバぺが決めて1点差。

 

(これで、やっと面白くなって来た・・・)

 

などと思う間もなく「面白くなって来た」どころか、まことに「あっという間」と言うしかない電光石火のカウンター攻撃。またしてもエムバぺの強烈なシュートが放たれ、瞬く間に「2-2」となった。

 

まことに、恐るべきはエムバぺ!

やはり窮地のフランスを救ったのは、この若きエースだった。昔とは違い、これだけ選手の個性を潰してまで「組織のサッカー」を推し進めている趨勢の中にあって、ここまで一人で局面打開していく能力発揮できる稀有な存在と言える。

 

これですっかり勢いづいたフランスは、持ち前の怒涛の攻めで一気呵成に容赦なく攻め立てる。これが「牙を剥いてゴールに襲い掛かる肉食獣の迫力」なのだ。逆に防戦一方に回ったアルゼンチン。あわや「歴史的逆転劇」を食らおうかという劣勢に立たされたが、なんとかフランスの猛攻を耐え忍んで延長へと突入。

 

延長戦は「これぞW杯決勝」というに相応しい、世界最高峰の技と力の応酬。地味ながら高い個人技を揃えたアルゼンチンと、スピードと破壊力に図抜けたフランスの繰り広げる一進一退の攻防。アルゼンチンが勝ち越せば、すかさずフランスが追いつくという、まさに手に汗握る展開。これぞ「世界最高峰のサッカー」というに相応しい、見ごたえ満点のせめぎ合いが続いた。

 

まことに残念なことは、これだけの名勝負を繰り広げながらも、最後は「PK決着」という無情なルールであったこと。せめて決勝くらいは実力で勝敗を付けさせたいところだが、遂にアルゼンチンがフランスを振り切った。

 

W杯でのPK戦は「5勝1敗」というアルゼンチンの強さの秘訣は、やはり「運」だけでは片づけられない「足元技術の確かさ」だろう。スピードと破壊力では圧倒的にフランスに分があったが、足元技術と狡賢さはアルゼンチンが勝っていた。とはいえ、フランスは主力選手を数人欠いて、さらに不利な日程でありながらも互角の戦いだから、間違いなく「優勝候補」の名に恥じぬ底力を見せてくれた。惜しまれるのは、チームの支柱ともいうべきジルーを前半で交代させてしまったことで、これは不可解な采配と思えた。

 

国を挙げてサッカーに熱狂するアルゼンチンのサポーターは、虎の子の貯金をはたいたり、果ては「家を売ってまで、カタールでの観戦に駆けつける」という凄まじさだけに、応援は熱狂的というのを通り越したお祭り騒ぎ。解説者の露骨なアルゼンチン贔屓に至っては、さすがのアンチのワタクシも引いてしまうくらいで、完全アウェー状態のフランスが気の毒に思えてしまった。

 

振り返れば、アルゼンチンの足元技術と狡賢さ、フランスのスピードと突破力、さらにはクロアチアの粘り強さ、モロッコの不屈の闘志など、さすがに世界の強豪国は日本代表に欠けた「武器」を備えていた。さらにいえば、どの国にも共通するのが「フィジカルの強さ」だ。いつもは3位決定戦は観ないワタクシも、今大会の3位決定戦の素晴らしい試合には惹き込まれてしまったのである

 

どうしても「日本人」という固定観念にとらわれすぎるせいかもしれないが、ワタクシ的には日本代表の試合だけ(というよりもアジア全体がそうなのだが)は、いまだに「W杯の試合」と思えないのである。

 

今大会では、かつて「強豪国」と言われたドイツ、イタリア、ブラジルなどの衰退が象徴的に炙り出されたが、次のW杯は4年後だから、またどのように「サッカー勢力図」が変わっていくかは予測不能である。

2022/12/16

準決勝(サッカーW杯2022・カタール大会)(6)

〇アルゼンチン3-0クロアチア

準決勝の1試合目は、一方的な結果に終わった。

クロアチアと言えば、決勝トーナメント初戦で日本に勝ち、続く準々決勝では優勝候補と言われたブラジルにも勝ったチームだ。とはいえ振り返ってみれば、どちらも延長120分で決着がつかず、PK戦までもつれ込んだ薄氷の勝利。さらにGSまで遡れば、カナダにだけは「4-1」と快勝したものの、モロッコとベルギーには「0-0」で1勝2分。格下のカナダに勝った以外の2試合は無得点だったように、なんとか守りぬいて勝ちを拾って来た。

 

対するアルゼンチンは、GS緒戦で格下のサウジアラビアにまさかの敗退を喫したものの、その後は立ち直りメキシコとポーランドには「2-0」と余裕の勝利でGS通過。トーナメント初戦では、格下オーストラリアに手こずり、準々決勝ではオランダ戦はPK戦にもつれ込む死闘を演じるなど、どうも強いのか弱いのかよくわからない。

 

このように、イマイチ迫力に欠けて見えたアルゼンチンだけに、PKで立て続けに勝ち上がってきたクロアチアのしぶとさ、勝負強さの前に屈するのではという予感もあった。しかしながら冷静に振り返ってみれば、上に記したように「実は大して強くないが、運良く勝ち上がってきた」クロアチアの化けの皮が、遂にアルゼンチンによって剝がされてしまった。接戦には無類のしぶとさ、しつこさを発揮してきたクロアチアだったが、先制されたこの試合はなすすべなく、見せ場を作れずにあえなく敗れ去った。

 

〇フランス2-0モロッコ

スタジアムを覆うモロッコの大応援団をものともせず、連覇を狙うフランスの強さが際立った。モロッコ選手の個々の技術も高かったが、フランスの高い壁に阻まれた。

 

なにしろ、フランスのスピードと攻撃のド迫力が大会ナンバーワンであることは間違いないとは思っていたが、それに加えて守りも堅い。この試合でも、モロッコが再三良い形でチャンスまでは持っていったが、ペナルティエリア内では鉄壁の守りを見せ、決定的なシュートチャンスを悉く潰してしまった。フランスは、これでも主力選手の何人かを欠いているというから、この層の厚さはまことにバケモノレベルである(黒人選手が多いのは毎度のことだが、あまり言わない方が良いか・・・)

 

 準決勝の2試合を見る限りは、ちょっと力の差を感じてしまった。アルゼンチンもフランスも、準決勝よりは準々決勝の相手(オランダ、イングランド)の方にかなり苦戦した。ドローが悪かったのか、あの準々決勝の手に汗握るゲーム展開に比べ、準決勝の2試合はやや消化不良の感は否めない。

 

 こうして、いよいよW杯は決勝を残すのみ(3位決定戦は、おまけのようなものなので)

 

決勝は

 

アルゼンチン ー フランス

 

という顔合わせだ。

 

名前を見ただけでも血沸き肉躍りそうなカードなのだが、今大会に関しては総合力の高いフランスの優位は動かなそう。特にあの攻撃スピードと破壊力を止めるのは、どのチームであっても至難の業だろう。

 

アルゼンチンとしては個々の打開力に頼るしかないのかもしれないが、メッシももうピーク過ぎているし、フランス相手には厳しい戦いとなるのではないかと見る。

2022/12/13

西ローマ帝国の滅亡(5)

東ローマ帝国による征服事業

テオドリックが526年に没した時、もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。西ローマ帝国では、古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東ローマ帝国では大幅にギリシャ化が進んでいた。また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して、帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難い事であった。ローマ市は西方正帝が廃止された後も、名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。

 

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾度かの遠征をおこなった。最大の成功は、二人の将軍、ベリサリウスとナルセスが535年から545年に行なった一連の遠征である。ヴァンダル族に占領された、カルタゴを中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。遠征は最後にイタリアに移り、ローマを含むイタリア全土と、イベリア半島南岸までを征服するに至った。ユスティニアヌス1世は、テオドシウス1世から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。

 

しかし皮肉にも、ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した。ユスティニアヌスによる長年に渡る征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである。西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、その多くが失われることとなった。もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。

 

帝国の人口減衰率は約50%と推定され、プロコピオスは「いたるところで住人がいなくなった」と記し、ローマ教皇ペラギウス1世は「誰一人として、その復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した。一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう。この惨状について、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世は、「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。しかしながら東ローマ皇帝にとっては、一時でもローマを支配しえた事は、東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的な拠り所のひとつになった。

 

ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、彼の死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった。さらに、ギリシア語圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は再び競争関係に入った。マウリキウスは次男ティベリオスを597年に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが、そのマウリキウスも602年にフォカスの反乱によって殺されてしまう。この後、サーサーン朝やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、古代ローマ的な要素は失われていくこととなる。

 

言語

東方領土でラテン語が死語になった後も、西ローマ帝国の大部分の地域ではラテン語が何世紀にも渡って維持された。いわゆるゲルマン語などからの影響は、軍事に関する数語の借用語に限られていた。時代が下ると、ラテン語は8世紀頃から12世紀頃にかけて緩やかに変化し、地方ごとの分化が明らかになっていった。こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代のロマンス諸語で、それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった。

 

識字率は大幅に低下したが、公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。西方でギリシア語の地位が失われたために、リングワ・フランカとしてのラテン語の地位は向上した。ラテン文字は、JKWZが付け足され、文字数が増えた。

 

10世紀になるとヨーロッパにアラビア数字が伝えられ、ローマ数字は、たとえば時計の文字盤や本の章立てにおいては依然として使われ続けたものの、16世紀頃にはほとんどがアラビア数字に取って代わられた。ラテン語は今でも医学・法律学・外交の専門家や研究者に利用されており、学名のほとんどがラテン語である。ミサの挙行では、1970年まで古典ラテン語が使われていた。また、ラテン語は英語、ドイツ語、オランダ語などのゲルマン語派にも、ある程度の影響を及ぼしている。

 

宗教

西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、5世紀後半になると蛮族の脅威を前に、ローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。ゲルマン系の民族は、たいていアリウス派の信者だったが、彼らも早晩カトリックに改宗し、中世の中ごろ(9世紀~10世紀)までに中欧・西欧・北欧のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失った後も、教会に援助された宣教師は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた異教を駆逐したのである。

 

単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。フランク王国とロンバルディアの支配者カール大帝は、800年にローマ皇帝として推戴されると、教皇レオ3世によって戴冠された。これが神聖ローマ帝国の由来であり、それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった。こうした理念から、オットー3世は古代の皇帝たちに倣ってパラティーノの丘に造営した宮殿に住まい、ローマ市を中心とした帝国を指向したし、フリードリヒ1世やフリードリヒ2世も「ローマ皇帝」の名目からイタリア半島の支配に固執した。

2022/12/12

準々決勝(サッカーW杯2022・カタール大会)(5)

準々決勝

〇クロアチア1(4-2)1ブラジル●

ブラジルがPK戦の末、クロアチアの粘りに屈して敗退。

 

優勝候補本命」と言われていたブラジルだが、今回のチームは得点力が低かった。GSの3試合では、わずか3得点。決勝トーナメント初戦こそ、韓国に前半だけで4得点したのが、この大会で唯一「ブラジルらしい」攻撃といえたか。

 

確かに、それなりのタレントが揃ってはいるのだろうが、過去のチームと比べれば「小粒」の印象は拭えない。マスゴミがやたらと持ち上げるエースのネイマールも目立った活躍は出来ず。ネイマールは代表での得点だったかが、あのペレと並ぶとか超えたとか盛んに喧伝されてはいた。が、前回大会でも書いた記憶がある通り、W杯しか見ないワタクシからすれば、かつての赫々たる「ブラジル代表のエース」とは比較にならず、遥かに物足りない存在としか映らなかった。

 

それにしてもクロアチアのしぶとさというか、しつこさはもはや「天下一品」レベルと言える。予選は1勝2分けでグループ2位、そして決勝トーナメント初戦では日本をPK戦で圧倒し、準々決勝もまたPKでの勝利。しかも延長前半でブラジルに先制点を許すという、普通なら諦めムードになるところから延長後半で追いついての勝利だ。おそらくは「PK戦に持っていけば勝てる」といった自信を持っているのではないか?

実際そのくらい、このチームのGKは凄いヤツなのだった。

 

〇モロッコ1-0ポルトガル●

戦前の下馬評ではポルトガル有利の見方が殆どだったが、結果はモロッコの勝利。これも前回大会で書いた記憶があるが、ポルトガルのエースC・ロナウドが、どうにもW杯ではパッとしない。今回に限っては、既に37歳とピークを越えているから仕方ないのだろうが、アルゼンチンのメッシとともに「百億円以上のバカ高い年俸」をもらっているのにふさわしい働きには到底ほど遠い。

 

こんな落ち目のロートルに頼っているせいか、ポルトガルというのがどうにも中途半端なチームに見えてしまうのである。

 

一方、ベルギー、クロアチアを抑えてGSF組を堂々トップ通過したモロッコの躍進は、今大会注目の的だ。イメージ的にはクロアチアに似たチームカラーで、タフで粘り強く勝負強い。次の相手はフランスだけに勝算は低いとみるのが妥当だろうが、持ち前のタフさでどこまで食らいついていけるか興味が高まる。

 

〇フランス2-1イングランド●

ここで対戦するのが勿体ないようなカードと思っていたが、期待通りの熱戦となった。

 

この試合を観ていて強く思ったのは「この両チームこそ、日本代表に最も欠けている点を持っている」という点。それは「牙を剥いてゴールを狙う肉食獣の迫力」だ。さらに攻撃の時ばかりではなく、攻守切替時のスピード感も、また素晴らしい。まさに一瞬も目を離せないスピーディな展開は圧巻で

 

「これぞワールドサッカー」

 

というべき質の高い90分の攻防が展開される。

 

比較するのもまったくおこがましいが、やはりこれに比べて日本代表のなんと「迫力に欠けたつまらないサッカー」だったか、との思いを改めて強く実感してしまった。

 

最後の勝敗は、やはり決定力の差だったか。流れとしては終始押し気味に進めながら、決定力の精度を欠いたイングランドに対し、フランスの切り返しの速さと決定力の凄みは、やはりどのチームと比べても群を抜く。間違いなく優勝候補の筆頭だ。

 

〇アルゼンチン2(4)-(3)2オランダ

フランスーイングランド戦と同様「これぞワールドサッカー」の醍醐味を堪能できたのがこのカード。イエローカードが飛び交う荒れたゲームになったとはいえ、戦前の予想通り質の高い攻防が展開された。

 

後半終了間際までは2-0とアルゼンチンがリード。それまでオランダはシュート僅か1本と苦しい展開だったのが、後半38分に1点を返すと息を吹き返した。ここからオランダの怒涛の波状攻撃が続き、後半56分、アディショナルタイムもまさに終了間際に劇的なシュートで遂に同点。

 

それにしても、気の毒なのはオランダだ。

スタジアムはアルゼンチンの応援一色。PK戦でオランダ選手が蹴る際は大ブーイングが起こり、外せば大歓声に変わる。このプレッシャーのせいか、オランダ選手は日本と同様に2人連続失敗。逆にアルゼンチンがゴールを決めた時は、気も狂わんばかりの大声援だ。なぜ、これほどまで熱狂できるものかと呆れるばかりだが、将来日本が決勝トーナメントを勝ち進むようになった場合は、これまで経験したことのないこうしたブーイングの嵐とも戦わなければいけないケースも出てくるだろう。

 

準決勝は

 

・アルゼンチンークロアチア

・フランスーモロッコ

 

と決まった。

 

準々決勝の勝ち上がりを見る限り、フランスの総合力が一頭地を抜いている印象は動かず、これに勝負強さと勢いに乗るモロッコが、どこまで通用するか。

 

片や、ともにPK戦を勝ち上がってきたアルゼンチンとクロアチアは、あのしぶとさとしつこさ、勝負強さでクロアチアが有利と見た。

 

となると結局、前回と同じ決勝戦となってしまうのだが。

2022/12/09

エッダと北欧神話の世界(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

「神々の物語」

 この神々の物語は、「宇宙の生成と創造」「神々と巨人族との壮絶な戦いと滅亡」の物語が主体となっています。ゲルマン神話の最大特徴の一つが、この「神々の滅亡」というもので、その後生き残った神々による「新たな世界」が言われはするものの、全体的に見ると、それは大きなテーマとはなっておらず「神々の滅亡」が主要テーマという珍しい構造になっています。

 

 ここでもギリシア神話と同様、さまざまの神々が活躍してきますが、「オーディン」が主神となっており、他に「トール神」が神々の活躍の中心となっています。注目されるのが「ロキ」と呼ばれる神で、この神はひょうきんな行動・態度で軽妙に立ち居振る舞って大きな活躍をしているかと思うと、陰険・陰湿に満ちた面を見せて神々を平気で騙してトラブルの元となり、ついには神々の敵となって巨人族に寝返り、世界の滅亡の元となるという神です。こうした神の存在も、ゲルマン神話の特徴と言えます。

 

 ただし、これらは先に示したように一つの歌として謳われているわけではなく、それぞれのテーマをもったさまざまの歌謡に、さまざまにちりばめられているものです。しかし、全体的な内容は「エッダ」の冒頭に置かれている「巫女の預言」が示してきますので、ある意味でまとまった物語としても意識されていたのでしょう。

 

「英雄物語」

 神々は、世界の終末に備えて多くの英雄たちを、その死後神の館に招き入れていたのであり、そうした神々の目に適った英雄の物語がたくさん物語られてきます。ここでは、キリスト教の影響を受けていない時代のゲルマンの英雄達の心意気が語られているとされ、勇敢で剛毅な男達の物語となり、敵にだまされ殺されることになっても平然として己を貫き通す男、死を予測しても勇敢に敵に立ち向かっていく姿などが英雄像を形成しています。これらは、いわゆる「ニーベルンゲン伝説(中世の騎士道歌謡)」の原型を示しているとされます。

 

「箴言」

 神話は、多かれ少なかれ人々の生活上の指針や価値観を示してくるものであり、それはこのゲルマン神話においても例外ではありません。それらは人間の生活ですから民族によってそんなに大きな違いはなく、古代世界にあっては大体同じような価値観を示していると言えます。たとえば、財産も家族も自分もやがてなくなっていくものだが、名誉・名声は消して朽ちることなく永遠であるといった考えや、愚か者は財産その他欲望の対象を得るとつけあがって、自分がひとかどのもののように思うものだが「思慮」に関しては何も獲得してはいない、「分別」こそ最大の友、といった考えはギリシアにも見いだすことができて、ある意味で人類に普遍的なものとも言えます。この箴言の集大成である「オーディンの箴言」の部分は、当時の社会を伺わせて興味深いものがあります。

 

「スノッリのエッダ」

 詩人スノッリが書いたこの書は三部に分かれていて、一部は日本訳で「ギョルヴィたぶらかし」という変な表題がついていますが、これは伝説的な王ギョルヴィが神々の地を訪れ世界の過去と未来について話を聞き、神々がたくさんの話をしてくれた後、これ以上の話はないのでこれで満足せよ、と言った瞬間にこれまであった神々の館は跡形もなく消え失せ、彼は野原に突っ立っているだけであったというところから名付けられたものです。

 

 このスノッリの「エッダ」は、伝承された歌謡の中の神話・伝説を元にして見事な叙事詩としてまとめ上げたもので、文学的に整理されている一方、貴重な資料を提供しています。

 

 二部は詩語の解釈と同時代の詩人の作品の引用、三部は自ら創った詩の入門者のための模範となる頌歌と、その解説となっています。私達にとっては一部が重要になります。

 

「ゲルマン神話の世界像」

 これは古歌謡の「巫女の予言」と呼ばれるものが全体像を与え、またこれに基づいて豊かな叙事詩にまとめた「スノッリのエッダ」が、全体を捕らえるに分かり易くなっています。

 

 「巫女の予言」というのは、巨人族に属していた巫女が神々の主神「オーディン」の命によって、過去と未来とを話して聞かせるという内容になっています。なお、神々の名前ですが、ゲルマン部族で発音が異なりさまざまの表記があり、ここで「オーディン」としたものは日本でも「ヴェーダン、ヴォーダン」という名前でも紹介されています。ここでは、谷口幸男訳の「エッダ」での日本訳の表記に従います。

 

 巫女は先ず世界の生成について語りだしますが、そこで「九つの世界、九つの根を地の下に張り巡らしたかの世界樹」を覚えている、としているのが注目されます。つまり古代ゲルマン人は世界を九つの部分に分け、それを貫く一本の木というイメージで世界全体をイメージしていたようです。これからこの九つの世界が出てきますが、とりあえず紹介しておくと先ず「オーディンたちアース神の国、アース・ガルド」「ニョルズ一族の国ヴァナ・ヘイム」「フレイ神の支配する妖精の国アールヴ・ヘイム」「火の巨人スルトの支配する火の世界ムスペル・ヘイム」「人間界ミズ・ガルズ」「巨人族の国ヨーツン・ヘイム」「死者の国ニヴル・ヘル」「暗黒のこびとの国スヴァルタールヴァ・ヘイム」そして「極北の国ニフル・ヘイム」となります。

 

これは通常の民族が世界を精々「神の国」「人間の国」「死者の国」と三つくらいにしかイメージしていないのと比べると大きな特徴になります。ただ、これらの国々が存在として別世界ではなく一つの世界の中にあって互いに連続しているのは、「ヘブライ神話」系列など少数を除いて古代民族に共通しています。

 

 さて、原初の昔には「砂」もなく「海」もなく「冷たい浪」もなかった。「大地」もなければ「天」もなく、「奈落の口」があるだけで、どこにも草一本生えていなかった。そこに一番初めにできたのは、南の方に「ムスペル(火の国)」という世界でありそれは明るく、熱く、焔を挙げて燃え上がり、何人も近づくこともできなかった。そこの国境を守っているのは「スルト」であった。

 

 なお「巫女の予言」の終わりの方で世界の終末が語られる時、「スルト」は手に燃えさかる剣を持ち、世界の終末の時にやってきて荒らし回り、神々を討ち果たして全世界を火で焼き尽くすとされます。すなわち、「スルトは南より枝の破滅(火)もて攻め寄せ、戦の神々の剣より太陽がきらめく。岩は崩れ落ち、女巨人は倒れ、人々は冥府への道をたどり、天は裂ける」と歌われます。

 

 「ニフル・ヘイム(極北の国)」ができたのは、大地が作られる何代も前のことであった。その真ん中に「泉」があって、そこから11本の河が流れ出していた。

 

 エーリヴーガルという河があり、そこの毒気を含んだ泡が、火の中から流れ出る溶岩のように固まるほどに、例の泉から遠く離れて流れて来たとき、それは「氷」に変わった。そしてその「氷」が止まって流れなくなると、毒気から発された靄がその上に立ちこめ、それが凍っては「霜」となり、それは次から次に重なり合って奈落の口に達している。

 

 奈落の口の北側は、重い氷と霜で覆われ、中には靄が立ちこめ突風が吹いている。だが南側は「ムスペル・ヘイム(火の国)」から飛んでくる火花によって、それから守られている。ちょうど、「ニフル・ヘイム(極北の国)」から寒冷やあらゆる恐ろしいものがやってくるように、そのように「ムスペル・ヘイム(火の国)」の近くにあるものは熱くて明るい。そして「奈落の口」は、風の凪いだ空のように穏やかだった。そして「霜」と「熱風」とがぶつかると霜は解けて滴り、その滴が熱を送る者の力によって生命を得て「人」の姿となった。それは「ユミル」と呼ばれた。

2022/12/08

日本らしい結末?(サッカーW杯2022・カタール大会)(4)

決勝トーナメント1回戦の相手はクロアチア。前回大会準優勝の実績からも明らかなように、ドイツ、スペインなど誰もが認める「世界の強豪」に比べても実力的には決して引けを取らないクロアチアだが、どうにも地味な存在だ。

 

前半に日本が4試合目にして初めて先制点を奪うと、1-0のまま前半終了という有利な展開となったが、後半同点に追いつかれ延長戦に。延長はジリジリした展開の末、両チームスコアレスのまま今大会初のPK戦に突入。

 

PK先攻の日本は、まさかの2人連続失敗。対するクロアチアは2人が余裕で決めて、この時点で既に勝敗は決した。

 

「PK戦は時の運で、実力は関係ない」とはよく言われたりするが、この日のPK戦を見る限りはキッカー、ゴールキーパーともに明らかな「実力の差」が出た印象。

 

過去にも散々繰り返してきたが、ゴール前に来ると萎縮してシュートが打てない「長年の宿痾」は、遂に今大会で解消されたかに見えた。90分間、そして120分間の勝負の中では、確かに積極的なシュートが随所に観られたのだ。ところが、この肝心要の場面で「宿痾」が再発。足が縮こまったような中途半端なキックで、易々とキーパーの餌食となってしまったのは、なんとも「日本らしい」消化不良な結末だった・・・

 

オランダ3-1アメリカ」は順当な結果。「アルゼンチン2-1オーストラリア」は、オーストラリアが予想以上の健闘と言えるだろう。

 

イングランド3-0セネガル」と「フランス3-1ポーランド」は、優勝候補がともに相手を圧倒。次の準々決勝で対戦は、なんとも惜しいカード。

 

ブラジル4-1韓国」は「順当すぎる結果」だが、「前半だけで4点」と聞いて「一体、どんなゲームなんだ」と、悪趣味なことにABEMA動画を確認。

 

「これが決勝トーナメントの試合なのか?」と目を覆いたくなるような、実力差歴然の一方的な展開には、さすがに悪趣味かつ大のコリア嫌いのワタクシですら、後半は観る気が失せてしまった。

 

前半だけ見た限りでは「10-0」くらいになりそうな展開だったが、さすがは遊び心のあるブラジルだけに、かつてのドイツのような「肉食獣」根性丸出しで得点を重ねる

「非情さ」がないのが救いだったか。タナボタ決勝トーナメント進出したコリアにとっては、まるで恥をかくため出てきたような惨憺たる結果に。

 

モロッコ0(3)-(0)0スペイン」はスコアレスドローとなり、2試合目のPK戦となったが、なんとスペインが1本も取れずに0-3の惨敗。

 

他の7試合が、いずれも下馬評通りの結果で強豪が勝ち上がってきた中、マスゴミによれば「唯一の番狂わせ」とのことだが、あの日本に対する負けっぷりを観れば番狂わせとも言えない。

 

ポルトガル6-1スイス」、これはポルトガル有利とは言われたものの、スイスも決して弱くはないだけに接戦が予想されたが、思わぬ一方的な展開に。

 

この結果、準々決勝の組み合わせは、以下となった。

 

      オランダ-アルゼンチン

      クロアチア-ブラジル

      イングランド-フランス

      モロッコ-ポルトガル

 

注目は、やはり「イングランド-フランス」と「オランダ-アルゼンチン」だが、日本に勝ったクロアチアとアフリカ勢で唯一勝ち残ったモロッコが、それぞれブラジル、ポルトガルという強豪にどう挑んでいくかも楽しみ。

 

日本が敗退した時点で「ワールドカップは終わった」という俄かファンも多いだろうが、以前から主張してきた通り、ワタクシは日本がいようがいまいが関係ない。GSの組み合わせなどに恵まれ、運よく決勝Tに進んできたチームが淘汰されたベスト8からは、本当の実力を備えたチームのみでしのぎを削る舞台となる。

 

ここからが「真のワールドカップ」なのである。

2022/12/04

日本、スペインに勝利で決勝トーナメント進出決める!(サッカーW杯2022・カタール大会)(3)

グループステージ第3節が終わり、GSの全日程が終了した日本が優勝候補の一角スペインに逆転勝利し、決勝トーナメント進出が決定!

 

まさに驚くべきニュースだ。日本として「スペインに逆転勝ち」は、初戦のドイツ戦勝利に続くか、あるいはそれを上回る快挙である。

 

「勝負事は下駄を履くまでわからない」と言われるが、このW杯のGSこそは、まさにその典型的なサンプルなのか?

 

日本は、スペイン、ドイツという世界の強豪国と同居する「死のグループ」に入ってしまった。冷静に分析すれば、この両国に勝つ見込みは殆どないというのが、常識人の穏当な見方だったろう。

 

戦前の予想では、このグループを制するのはスペイン、ドイツは揺るがず、日本の役回りは「ドイツ、スペインに圧倒され、唯一コスタリカだけは、運が良ければ勝てるかも」というところだったろう。ところが蓋を開けてみれば「圧倒されて負けるはず」だったドイツ、スペインに逆転で勝利し、逆に唯一勝てそうな相手と期待されたコスタリカに完封負けとのが現実だから、まことに世の中というのはわからないものだと痛感した。

 

とはいえ、「結果がすべて」というのが勝負事の世界だ。

 

「2勝1敗、F組1位で決勝トーナメント進出」

 

の厳然たる事実を突きつけられては、たとえスペイン、ドイツが多少を抜いていたのだとしても、これは「お見事」と言うしかない。

 

振り返れば、何といっても緒戦のドイツ戦に勝ったのが大きい。逆に「まさかのGS敗退」の醜態を演じる羽目となったドイツとすれば、いきなり格下と見下していた(?)日本に「まさかの敗退」を喫したショックは計り知れず、最後まで尾を引いたように見える。

 

第2戦のコスタリカ戦は、緒戦で「ドイツに勝った」ことに加え、コスタリカが緒戦でスペインに「0-7」という記録的な惨敗を喫したことから、すっかり「コスタリカ=F組最弱」のイメージが定着していたから、ここは「2-0」くらいですんなり勝って決勝トーナメント進出、というのが日本が描いていた皮算用だったろうが、そうは問屋が卸さず。

 

「これが本当にドイツに勝ったチームか?」と目を疑いたくなるような「しょぼいプレー」に終始した日本に対し、「これが本当に0-7の惨敗をしたチームか?」と、逆の視点から目を疑いたくなるような堅い守りで、日本を完璧に封じ込めたコスタリカこそは、ここまでで最も憎い相手だ。

 

が、ここまで立て続けに予想外の展開ばかりを見せつけられては、もはや「スペイン戦の勝利もあり得るかも?」などと、判官びいきの勘違いがエスカレートしてしまっても無理からぬところで、しかもこれが勘違いどころではなく現実となったから、まことに今回ばかりは、どこまでも驚かされるW杯となってしまっているのである。

 

かくして、日本がメデタク決勝トーナメントに駒を進めた裏には、当然ながらGSで撃沈したチームの悔し涙がある。

 

グループA

〇オランダ、セネガル

×エクアドル、カタール

オランダが順当にトップで通過。開催国のカタールが、かつての隣国さながらの「成金根性にものをいわせた奥の手」を使ってくるかと思いきや、そもそもベースとなる実力がなさ過ぎたのか、まことに潔く(?)3連敗で撃沈。

 

グループB

〇イングランド、アメリカ

×イラン、ウェールズ

ここは、ほぼ波乱なく順当な結果。前評判の高かった「サッカー母国」イングランドはともかく、「サッカー後進国」アメリカは組み合わせに恵まれてどさくさ紛れで勝ち上がった印象。

 

グループC

〇アルゼンチン、ポーランド

×メキシコ、サウジアラビア

アルゼンチンが、緒戦で「最弱」のサウジに負けたのは驚きだったが、その後は実力通りの結果と言えるか。

 

グループD

〇フランス、オーストラリア

×チュニジア、デンマーク

フランスの首位は予想通りの一方、デンマークの最下位は予想外。顔ぶれから見て最下位想定だったオーストラリアの健闘光る。

 

グループE

〇日本、スペイン

×ドイツ、コスタリカ

ドイツがまさかの予選落ち。ここは、なんといってもスペイン、ドイツの2強を制し堂々トップで終えた日本の快進撃が特筆モノ! ドイツ×スペインは観たかった!

 

グループF

〇モロッコ、クロアチア

×ベルギー、カナダ

戦前予想で首位と目されたベルギーは、パッとしないままで予選落ち。地味なグループにあって、モロッコ首位は目立たないサプライズか。

 

グループG

〇ブラジル、スイス

×カメルーン、セルビア

結果だけ見れば、まず順当。ブラジルの最終戦敗退は手抜きだろうが、いつもながらスイスが中途半端な存在・

 

グループH

〇ポルトガル、韓国

×ウルグアイ、ガーナ

グループ最弱と目された韓国が、運良く得点差で拾われて予選通過は想定外。日本の快進撃の刺激を受けたお蔭だろうが、W杯では毎回振るわないウルグアイが、「たかが韓国」の後塵を拝して今回も呆気なく敗退は情けない。

 

さて、ノックアウトステージ緒戦の日本の相手は、過去に因縁あるクロアチアと決まった。ベルギー戦を見る限り、さすがに強そうな前回準優勝クロアチアとはいえ、ドイツ、スペインを撃破してきた日本にもチャンスは十分。この勝利の先は

 

史上初のベスト8進出

 

という、さらなる「歴史的快挙」が待っている!

2022/12/03

西ローマ帝国の滅亡(4)

東西宮廷の対立と西ローマ皇帝の廃止

ホノリウスがテオドシウス1世によって西方を任された当初から、西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。

 

ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって、西ローマ帝国で宣言された皇帝ではなかったので、ホノリウスは西ローマ帝国の伝統的な勢力からは攻撃に晒されることになった。さらにホノリウスは、マケドニアとダキアの統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。両管区は、エウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたのだが、東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、以後そのまま東ローマ帝国が実効支配を続けていた。

 

西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、この問題に東の宮廷は敏感に反応した。ゴート人のアラリックが、西ローマ帝国で略奪を働き東ローマ帝国へと逃亡すると、西方の軍司令官スティリコはアラリックを追撃したが、これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は、東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。また397年には、東の宮廷の官僚エウトロピウスがアフリカ軍司令官のギルドーを唆し、ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。同時にホノリウスは蛮族(とりわけヴァンダル族と東ゴート族)の侵入にも悩まされ、410年には西ゴート人によって首都ローマが掠奪された(ローマ略奪)。この時、西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。

 

ウァレンティニアヌス3世の時代には、状況は更に複雑になった。438年に発布された「テオドシウス法典」は東帝テオドシウス2世と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、テオドシオス法典の発布後、実際にはローマ法がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた。現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。

 

450年にテオドシウス2世が没すると、東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍アスパルがウァレンティニアヌス3世に無断でマルキアヌスを皇帝の座に据えたが、ウァレンティニアヌス3世は452年頃までマルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。こうした東西宮廷の分裂に加えて、皇帝権そのものにも更なる分割が加えられた。

 

440年にレオ1世がローマ教皇となると、グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていたポンティフェクス・マクシムスの称号を教皇が名乗るようになり、皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として、神法の遵守を監督するようになった。さらに445年には、ウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた。

 

こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、教皇は帝国の代表者として、452年にはフン族と、455年にはヴァンダル族と、591年および593年にはランゴバルド族と、それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった。いずれにせよ、教皇は5世紀末までには西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた。

 

軍事の面においても帝国で重要な役割を果たしていたのは、皇帝ではなくアエティウスのような蛮族出身の将軍たちであった。そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、ブッケラリィと呼ばれる将軍の私兵たちであった。西ローマ帝国において、皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。

 

ゲルマン人の将軍リキメルが帝国の実権を握った時代になると、皇帝が不在のまま放置されることすらあり、もはや西ローマ帝国では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった。

 

475年、東ローマ皇帝レオ1世によって送り込まれたユリウス・ネポスが、軍司令官オレステスによってラヴェンナから追放され、オレステスの息子ロムルス・アウグストゥルスが皇帝であると宣言された。ネポスはダルマチアへと亡命し、いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの、ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、西ローマ帝国全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。

 

最後の皇帝

476年にオレステスが、オドアケル率いるヘルリ連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、元老院を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。ゼノンは、彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルにパトリキの地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた。

 

一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだダルマチアの残存領土で引き続き西ローマ帝国の統治権の保持を宣言しており、東帝ゼノンも一応はネポスを正当な西帝として支持していた。そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。

 

オドアケルは、主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが480年に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである。とはいえ、6世紀末から7世紀初頭にかけて、皇帝マウリキオスや教皇グレゴリウス1世らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものは、直ちに失われたわけではなかった。

 

オドアケルとテオドリック

西方正帝の廃止によって、西ローマ帝国に何らかの変化が齎されることはなかった。ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、西ローマ帝国の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された。オドアケルの統治下で西ローマ帝国の内乱は終息し、地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、帝国は一時の復興を遂げることとなった。ゼノンにとって、オドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、二人の関係は当初は非常に良好であった。しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、488年にゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。

 

テオドリックはイタリアへ侵攻して度々オドアケルを打ち破り、493年にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。ゼノンは既に491年に死亡していたが、テオドリックは東ローマ皇帝アナスタシウス1世より副帝およびイタリア道の軍司令官に任ぜられた。また、497年にはイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、オドアケルの時代と同様に、その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、民政は引き続き西ローマ帝国政府によって運営され、立法権はローマ皇帝が保持していた。

 

オドアケルとテオドリックの統治下において、シチリア島の一部がヴァンダル族から帝国へと返還され、アフリカからの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西ローマ帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた。

出典 Wikipedia

2022/11/30

日本らしく負けた(サッカーW杯2022・カタール大会)(2)

グループステージ第2節

緒戦でドイツに「歴史的勝利」を飾り、最高のスタートを切った日本。続く第2節は、勝てば決勝トーナメント進出が濃厚となる大事な戦いだ。

 

対戦相手のコスタリカは、ランキングなどを額面通りに見ればドイツよりは遥かに格下と見るべきだが、逆に言えば「負けて元々」だけに気楽に戦えた(?)とドイツ戦とは違い、世評では「勝てる相手」ということになっているだけに、その分プレッシャーがかかる状況ではある。

 

ドイツに勝ったという自信と勢い」が勝るか、逆に「決勝トーナメント進出が目の前にちらついてきたことによるプレッシャー」に押し潰されてしまうか、どちらに転ぶかというところだが、結果は「格下」と決めつけていた相手に「0-1」で敗退。この結果、1勝1敗となり、決勝トーナメント進出可否は最終戦に持ち越された。

 

緒戦のドイツ戦は深夜だったため観戦できず、翌日に結果だけ聞いたことから、より「まさか!」思いが強かった。それだけに

 

「今年の日本代表は、それほど強くなったのか?」

 

などと勘違いしてしまったとしても無理はない。

 

この勘違いのまま、この日は19時キックオフの生観戦に突入した。

 

なんと言っても「ドイツに逆転勝ちした日本」なのだから、これまでにない強い日本代表のサッカーを期待しての観戦となったのは、誰しも同じ思いであったろう。

 

ところが・・・である。

 

(なんだ、いつもの日本のサッカーと変わらんじゃないか・・・)

 

ボールポゼッションこそは高かったものの、消極的なマイナスパスのオンパレード、ペナルティエリアまで運びながら最後の決定力のなさ、ゴールに対する執念の欠如など、過去の「弱い日本代表の姿」そのままの展開に終始。片や、虎視眈々と狙っていたワンチャンスを見事に生かした相手との「決定力の差」を見せつけられる結末に終わった。

 

緒戦を観ていない自分としては、これでどうやってドイツに勝てたのか不思議なくらい、あまりに「日本らしいサッカー」だった。

 

とはいえ過去の大会でも書いてきたように、特別に日本代表に肩入れしているわけでもないワタクシとしては、むしろ「スペイン×ドイツ」や「フランス×デンマーク」、あるいは「アルゼンチン×メキシコ」などの方が観たかったのが本音ではあったが。

2022/11/26

緒戦で日本がドイツに歴史的勝利(サッカーW杯2022・カタール大会GS1)(1)

ワールドカップサッカー2022のグループステージ(GS)緒戦で、日本が過去優勝3度の強豪ドイツを破る大金星!

 

日本のF組はドイツ、スペイン、コスタリカという顔ぶれ。この中で唯一、力の劣るコスタリカには十分勝つ可能性はあるが、ヨーロッパを代表するサッカー強国であるドイツとスペインには歯が立たないとみるのが妥当だった。よっぽど相手の調子が悪かったり、日本に神風が吹くような展開になって、なんとか引き分けに持ち込めれば御の字、というのが順当な見方だったはずだ。

 

しかも、また勝ち方が良かった。ドイツに先取点を許した後の逆転なのである。これまでなら、試合序盤で相手にまだエンジンがかからないうちに先取点を奪ったとしても、90分間の中でいずれ地力に勝る相手にひっくり返されるというパターンはイメージできたが、このような逆の展開は全く予想もしなかった「強豪国の勝ちっぷり」だけに、まことに驚きしかない。

 

もちろん、まだ「たったの1試合」が終わったばかりだから、現時点であれこれと論評するのは時期尚早に過ぎるとはいえ、なにしろ相手があのドイツなのだから、何と言っても緒戦でこの相手に勝ったのは大きい。

 

極端にいうなら、結果的にもしGSで敗退したとしても、「ドイツに勝った」ということだけでも歴史に残りそうな快挙なのである。まあ折角ドイツに勝ったからには、この先も好成績での予選突破が期待されるのだが。

 

思い起こすせば、日本がW杯に初出場した1998年大会。当時は、どう贔屓目に見ても他の出場国とのレベル差がケタ違い過ぎて、まことに目を覆いたくなるシロモノだったが、あれから四半世紀。その間、多くの中心選手が、海外の一流クラブで揉まれてきたのはご存じのとおりだ。その結果として、かつては「地球の裏側にあるサッカー不毛の地」と言われた日本やアジア諸国も、遂に「世界のトップレベル」に肩を並べつつあるのか。あるいは、緒戦はたまたまドイツの調子が悪かっただけで、日本としては出来過ぎの結果に過ぎなかったのか。その答えは、この後の試合で証明される。

 

その他では、ブラジルに次ぐ優勝候補の呼び声が高かったアルゼンチンが、かつては日本や韓国らとともに「草刈り場のアジア勢」と揶揄されたサウジアラビアに敗退したのが、日本-ドイツ戦と並ぶ番狂わせといえる。これまでの大会であれば、一つ勝てば上出来くらいだった草刈り場のアジア勢が、早くも2勝だ。しかも相手が、揃って複数回の優勝経験を持つ強豪なのである。

 

まだまだ「緒戦」ではあるが「たかが緒戦、されど緒戦」でもある。GSが終わった時に「あの緒戦の負けが・・・」という悲劇は毎回つきものだけに、序盤とはいえ目が離せないのだが、時差がなぁ・・・

2022/11/24

西ローマ帝国の滅亡(3)

東西分担統治の開始

284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは、皇帝権を分割した。彼は自身を東方担当の正帝とする一方、マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、首都ローマから分離した前線拠点を作った。西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現在のミラノ)と、コンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現在のトリーア)であった。30551日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。

 

コンスタンティヌス1

西帝コンスタンティウス・クロルスが306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、危機が訪れた。

 

308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。

 

東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが324918日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。

 

テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国は度々東西に分割統治されるようになった。

 

再分割

コンスタンティヌス1世の代には、ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、同帝が337年に死去すると、3人の息子たち(コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世)が共同皇帝として即位し、帝国には再び分担統治の時代が訪れた。コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニア等、コンスタンティウス2世は東方領土、コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、まもなくその三者の間には内乱が勃発した。

 

まずコンスタンス1世が、コンスタンティウス2世を340年に打ち破って西方領土を統一したが、そのコンスタンス1世も350年に配下の将軍であったマグネンティウス(僭称皇帝)に殺害された。

 

351年、コンスタンティウス2世が僭称皇帝マグネンティウスを打ち破り、353年にマグネンティウスが自殺することによって、コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は、拠点をメディオラヌムへと移した。しかしコンスタンティウス2世が、サーサーン朝ペルシアとの争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、360年には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された。

 

ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、ユリアヌスが唯一の正帝となった。ユリアヌスは363年にサーサーン朝ペルシアとの対戦中に戦死し、ヨウィアヌスが皇帝に選ばれたが、364117日にアンキラで死亡した。

 

ウァレンティニアヌス朝

皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝権を再び分割し、東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。東西のどちらの側も、フン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、なかなか安定した時期が実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。

 

ウァレンティニアヌス1世は、古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、その子グラティアヌスは379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus)の称号を止めている。ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し[いつ?]382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇も元老院から撤去した。

 

テオドシウス朝

388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝として宣言された。グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。テオドシウス1世は391年まで西側に滞在し、西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。

 

3925月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。テオドシウス1世は、ホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、395年に崩御するまでの4ヶ月間、東西の両地域を実質的に支配した。一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、これは何世紀にも渡って内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。

出典 Wikipedia

2022/11/20

エッダと北欧神話の世界(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 通常ヨーロッパの神話というと、南欧のギリシア・ローマ神話に対して北欧のケルト・ゲルマン神話という言い方がされますが、じつはこの「ゲルマン神話」と呼ばれているものは、北辺の島アイスランドに残された歌謡集「エッダ」が今日残されている唯一の資料であり、内陸部のゲルマン人についてはほとんど資料がなく、「陸のゲルマン人」の信仰形態は、ほとんど分かっていません。私たちが持っているのは北欧の「島のゲルマン人」、つまり端的に言えばスカンディナヴィア地方からアイスランドに流れたゲルマン人のものだけなので、従ってむしろ「北欧神話」という言い方をしたほうがいいとされます。

 

 ただし、ここではケルト神話と区別する意味もあって「ゲルマン神話」という言い方もしていきます。そして、この「ゲルマン人」というのが現在の西欧各国の民族となっているということを、しっかり理解しておきましょう。

 

 「エッダ」以外の資料としては、わずかにローマの間接的な資料がありますが、そこではドナール(トール)が「雷神」と捕らえられて「ジュピター」と同一視されていたり、ウォーダン(オーディン)がメルキューレと、ティウツ(ティール)が軍神マルスと同一視されていたことくらいしかわかりません。ただ、これからでも上記の三神が主要神であったのだろうということと、その性格がローマ人にどのように捕らえられていたかが伺え、彼らの本来の神格の一端が見えるということは言えるでしょう。

 

ゲルマン民族

 現在の西欧人の祖であるゲルマン民族の起源はよく分かっていませんが、インド・ヨーロッパ語族の一つであり、紀元前1000年頃現在の北ドイツ辺りに集落を形成した部族とされます。そして先行民族のケルト民族を押しのけて、拡大していったと考えられています。このゲルマン人が歴史に登場するのは、やはりギリシア・ローマとの関係が生じてからで、紀元前100年代になってローマと事を起こしているのが歴史的最初となります。

 

 やがて、北ヨーロッパから中央部にかけて、多くの部族にわかれて各地に点在するようになり、紀元前二世紀頃には彼等はローマに傭兵として雇われたりしてローマの内部に入り込み、小作民や下級官吏になったりする者も多くなっていたようです。こうしてゲルマン民族が、やがてローマ帝国に入り込む素地ができあがっていったわけです。

 

 そして紀元後372年ころ、東北の方にあったアジア系の部族フン族が西に移動を開始し、フン族は有能な族長アッティラに率いられて勢力を伸ばしてローマ帝国領内に侵入、さらに西に勢力を伸ばすほどの勢いを持っていました。

 

 そのため、フン族に近い土地にいた内陸ゲルマン民族の東ゴート族が弾き出される格好で西に移動せざるをえなくなり、玉突き状にその西にいた西ゴート族が押し出され、ここにゲルマン民族の大移動がはじまりました。その結果、ローマ帝国の西半分は移動してきたゲルマン人に乗っ取られ、ゲルマン人の国になってしまったのでした。これが、現在の西欧諸国の始まりとなるわけです。

 

 ですからゲルマン神話を見るということは、現在の西欧人(南欧と東欧の源流はゲルマン人ではないので除かれる)の心性・精神の源・伝統を見るということに繋がるわけですが、早くからキリスト教化した内陸部のゲルマン人は、その民族の精神の伝統を伝えることをしませんでした。とはいっても人間の心性・精神はそんなに簡単に変わるわけもなく、自分たちの伝統をキリスト教の習俗に巧みに残しているのですが(たとえば、クリスマスや曜日の呼び名など)、言葉として伝えることがなかったために、その全容を知ることができなくなってしまったのです。

 

 他方、北欧から西域のゲルマン人は、キリスト教化するのが9世紀から11世紀と遅く、そのためここには伝統的な神々の神話が保持されていました。その具体的なものが、1200年代に「スノッリ」という文学者によってかかれた「エッダ」であり、それによってゲルマン人の神話の大筋が知られ、さらにそのスノッリが資料としていた古代神話が、1600年代の半ばにアイスランドで発見された歌謡群に見いだされて、北欧神話が甦ることになったのです。

 

 しかし、これは当然「島のゲルマン人」によるもので、内陸のゲルマン人のものとは大分異なっていることが考えられ、さらに伝承自体が「歌謡群」ですから相互に独立的で統一されているわけもなく、写本も時代的に隔たっていますから時代的影響も異なり、容易に統一的に全体を見ることができません。現在の研究では、たとえばノルウェーでは「トール神」が主神であったと考えられるのに対して「歌謡集」では「オーディン」が主神の位置にいるなど「神格」の変容もあって複雑とされています。

 

「エッダ」

 とにかく北欧神話の主要資料は、その「歌謡集」に尽きていますので、北欧神話とは「エッダ」ということになるので、簡単にそれを説明しておきます。

 

 アイスランドは本土に遠かったためか、キリスト教の伝播も遅く弱かったようで、おそらくかなり早く大陸から流れてきたゲルマン人は、長く彼らの伝統的精神を保持してその神話も伝えていました。どの民族の神話も、原型は「歌謡」の形で謳われていたものと考えられますが、ここではそれがそのまま文字化されています。その文字化は、紀元後の9世紀から13世紀にかけてとされます。

 

 その後、13世紀にアイスランドの政治家にして文学者であったスノッリ・ストゥルルソン(1178~1241)が詩の入門書という意味合いで、当時まだ民間に流布していた歌謡集をもとにして「エッダ」と呼ばれているものを著しました。さらに1600年代になって、スノッリが下敷きにしていたと思われる歌謡群が発見されたのです(ただし、一部スノッリにあって歌謡集に見つかっていない物語もあるので、すべての歌謡が発見されているわけではないらしい)。

 

現在、この二つを共に「エッダ」と呼んでいますが、両者を区別して、原型の方を「古エッダ」「歌謡エッダ」などと呼び、スノッリのものを「新エッダ」「散文エッダ」ないし著者の名をとって「スノッリのエッダ」などと呼んでいます。ただし、世に出た順序から言えば、スノッリのものの方が先でしたが、原型の歌謡集は元来名前などなかったものですから、集大成の形としてスノッリにならって「エッダ」と呼ぶようにしたというわけです。

 

 ただ、「エッダ」という言葉の意味はよく分かっておらず、「曾祖母」という意味で老婆が孫たちに語り伝える話という意味であろうとか、あるいは「エッダ」という発音はスノッリが若い頃勉強していた土地「オッディ」の所有格型で、したがってこれは「オッディの書」と訳されるものだとかの解釈があります。

 

 他方「古エッダ」とされたものは、1643年にアイスランドで発見された30編ほどの歌謡と、それに加えて後に発見された歌謡・英雄伝説の集大成となります。現在では、40ほどの歌謡の集大成となっています(編集者によって数が異なる)。個々の歌謡が何時どこで形成されたのかなど詳しいことは分かっていませんが、アイスランドや一部ノルウェーで書かれたものかと考えられています。内容は「神々の物語」「英雄物語」「箴言」と分けて考えられますが、これは多くの神話に共通しています。

2022/11/15

西ローマ帝国の滅亡(2)

西ローマ帝国は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である。

 

一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降のローマ帝国の西半分に関して用いられることもある。

 

概要

395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。

 

西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる47694日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。ただし、それをもって西ローマ帝国の「滅亡」と見なすべきでない、として学問分野より見直しが求められている(後述)。西ローマ帝国の領域は、中世においてもギリシア化を免れ、古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。

 

西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化されてローマ化し、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用して、自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた。

 

なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。

 

複数の皇帝による帝国の分担統治は、ディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は、現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。

 

背景

共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルスス・プブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。

 

帝政が始まる少し前、共和政ローマの領土は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。

 

アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。こうした地域は、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。

 

これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、ヒスパニア(イベリア半島)である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように、文化的にケルト人に支配されている地域もあった。

 

レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。

 

アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、一時的に東方を代理として支配した。同じことはティベリウスが東方に行った際に、甥に当たるゲルマニクスによって行われた。

 

反乱と暴動、政治への波及

西方において主な敵は、ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。一方で、東方にはパルティアがあった。

 

ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して、新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境に入ることができなかった。この問題は、後の多くの皇帝を悩ますことになった。

 

ガリア帝国

235318日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。今日では軍人皇帝時代として知られている。259年、エデッサの戦いでサーサーン朝との戦いに敗れた皇帝ウァレリアヌスは、捕虜となりペルシアへ連行された。ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあったガッリエヌスが単独皇帝となったが、混乱に乗じて、ローマ帝国の東地区で皇帝僭称者が相次いだ。

 

ガッリエヌスが東方遠征を行う間、息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスに西方地区の統治を委任した。サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:ケルン)に駐屯していたが、ゲルマニア属州総督マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが反逆、コローニア・アグリッピナを攻撃し、サロニヌスを殺害した。ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、ローマ皇帝を僭称する。このポストゥムの政権が、後にガリア帝国と称されている。

 

首都はアウグスタ・トレウェロルム(いまのトリーア)で、この政権はゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復した見られ、ヒスパニアやブリタンニアの全域に及んだ。この政権は独自の元老院を有し、その執政官たちのリストは部分的に現在に残っている。この政権はローマの言語、文化を維持したが、より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。

 

273年にパルミラ帝国を征服した皇帝アウレリアヌスは翌274年、軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝のテトリクス1世及びその息子のテトリクス2世との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した二人にイタリアでの重要な地位を与えた。

2022/11/06

西ローマ帝国の滅亡(1)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 さて、ここでパパッと西ローマ帝国を滅ぼしましょ。

 

 フン族という遊牧民族がありました。これが東方から黒海北岸あたりに移動してきました。4世紀中頃のことです。

 

 時代は遡りますが前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃、ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。武帝という皇帝の時代です。この以前から、中国北方の草原地帯では匈奴という遊牧国家があって中国を圧迫していたんですが、武帝の時代になって初めて北方遠征で匈奴に勝ちます。

 

 負けた匈奴は漢に追われる形で、西に移動を開始しました。400年かけて、ゆっくりゆっくり移動した。途中に出会った他の遊牧グループと合体したり吸収したりしながら移動したんだと思います。これがフンという名で、ローマの歴史に登場するのです。匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」とも読めるんですね。匈奴とフン族は、同じモノだろうといわれています。

 

ローマ帝国の北方から黒海北岸には、ゲルマン人が住んでいました。彼らは部族単位で農耕牧畜なんかをして生活していたんですが、そこに東方からフン族が移動してきた。玉突き状態になって、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。

 

 フン族に追われて移動するゲルマン人は、現代風に言ったら難民ですね。これが安住の地を求めてローマ帝国内に入ってこようとしました。

 

 以前からゲルマン人の中にはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となる者なども結構いました。強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループもあって、ローマ皇帝はしょっちゅう辺境で戦っています。しかし、今度は規模が違う。大量のゲルマン難民がどっと流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功し、ゲルマン人が侵入するのをくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗した。

 

 次々になだれ込んでくるゲルマン人で、西ローマ帝国は大混乱。最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。オドアケルはゲルマン人出身の男です。

 

 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国のあちこちに勝手に建国し、さらにお互いに戦い合います。たとえばガリア地方北部に侵入したフランク族は、フランク王国を作る。これが現在のフランスのもとです。ローマ人たちは、この新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしかなかったんでしょうね。長引く混乱の中でローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

 

生き延びた東ローマは、ユスティニアヌス帝(位527~565)の時代に一時期勢力を盛り返します。ユスティニアヌスは、イタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返しています。東西分裂以前に近い領土を支配しました。

 

 それからユスティニアヌスは、ローマ法大全を編纂させていることでも有名でしたね。彼の時代は、古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。

 

 これ以後、東ローマ帝国の領土はどんどん縮小していきます。呼びかたも首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムから取ったビザンツ帝国と言うのが一般的。この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方がいいです。平安時代と鎌倉時代では、同じ日本でも政治の仕組みがまるで違うようにね。

2022/11/04

ズルワーン教

ズルワーン教は、ゾロアスター教の滅びた分派。ズルワーン神を崇拝する宗教。ズルヴァーン主義、拝時教、ゾロアスター教ズルワーン派などとも呼ばれる。

 

概要

一般的には、サーサーン朝ペルシアの国教はゾロアスター教であるとされている。しかし現代に伝わる(二元論的な)ゾロアスター教と、同時代外国語資料に現れるサーサーン朝の宗教にはずれがあり、後者はズルワーン主義(ズルワーン教、ズルワーン派)と呼ばれる。

 

ゾロアスター教に関する資料は、以下の3時代に偏って存在する。

 

        原ゾロアスター教時代(紀元前1000年前後数世紀) - 原始教団によって保存され、6世紀に文字化された『アヴェスター』(アヴェスター語)

        ゾロアスター教ズルワーン主義時代(35世紀) - 外部資料(パフレヴィー語・アルメニア語・シリア語・アラビア語)とわずかな内部資料(ペルシア語)

        二元論的ゾロアスター教時代(610世紀) - 豊富なパフレヴィー語資料

 

このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、ズルワーン主義についても内部資料が少ないため、正確なことは分かっていない。ゾロアスター教ズルワーン主義と二元論的ゾロアスター教には、次のような差があると考えられている。

 

ゾロアスター教ズルワーン主義と二元論的ゾロアスター教の相違点

35世紀のゾロアスター教ズルワーン主義

69世紀の二元論的ゾロアスター教

最高神

時間の神ズルワーン

善神オフルマズド
悪神アフレマン

宇宙論

ズルワーンから善神オフルマズドと悪神アフレマンが自然発生
悪神が善神に挑む

悪神が善神の王国に侵入

神々

アマフラスパントらが善神に助力
悪神も7悪魔で対抗

アマフラスパントやミスラ神が善神に助力

二元論

は精神界・物質界双方に宿る
は物質界のみ

善悪が物質界・精神界双方で対峙

人間論

善神により創造
死ぬことで悪魔を滅却する悲劇的存在

悪との闘争のため善神が創造
最終的に勝利する

終末論

善悪の闘争はすでに決着済み
人間は悪の要素と心中し、最終的な復活がある

善が悪を圧倒・封印
宇宙と人間は幸福に包まれる

 

ズルワーンは、「無限なる時間(と空間)」「アカ(一つの、唯一の)物質」「運命」「光・闇」の神。語源はアヴェスター語「時間」「老年」を意味する「zruvan-」。サンスクリット単語の「サルヴァ」(sarva)と関係し、どちらも一元論的な神を記述する上で同様の意味領域を持つ。ラテン文字表記は、中世ペルシア語では「Zurvān」、「Zruvān」、「Zarvān」など、標準化された発音では「Zurvan」となる。

 

ズルワーン主義におけるズルワーンは、「双子の兄弟」、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の親。性を持たず(中性)、感情を持たず、善悪どちらにも傾かない中立的な創造神。原ゾロアスター教ではアフラ・マズダーが超越的な創造神で、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの二柱が双子とされていた。

 

ズルワーン主義はサーサーン朝期(226-651年)に国家承認を受けたが、10世紀には滅亡していた。サーサーン朝期のズルワーン主義は、ヘレニズム哲学から影響を受けていた。

 

ゾロアスター教が最初にヨーロッパに到達したとき、一元論的宗教だとみなされた。これは学者や現代ゾロアスター教徒からも異論の多い言明だが、ズルワーン主義に対して非ゾロアスター教徒が評価を加えた最初の例となる。

出典 Wikipedia