2021/03/31

荀子

荀子(じゅんし、紀元前313? - 紀元前238年以降)は、中国の戦国時代末の思想家・儒学者。諱は況。尊称して荀卿とも呼ばれる。漢代には孫卿とも呼ばれた。

 

生涯学習

勧学篇は、「学は以て已(や)む可からず」の語から始まる。人間は終生学び続けることによって、自らを改善しなければならないと説く。

青は之を藍より取りて、藍よりも青し」は勧学篇の言葉であり、「青は藍より出て藍より青し」の成語で有名である。

 

学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、信頼できる師の下で体系的に学び、かつ正しい礼を学んで身に付けた君子を目指さなければならない。荀子にとっての君子は、礼法を知って社会をこれに基づいて指導する者である。

 

統治技術としての礼

勧学篇で君子が学ぶべき対象は、「」であることが説かれる。修身篇では、君子は「礼」に従って行動するべきことが強調される。

 

礼は法の大分、類の綱紀なり」(勧学篇)「礼なる者は、治弁の極なり、強国の本なり、威行の道なり、功名の総(そう)なり」(議兵篇)と説明されるように、荀子はいにしえの時代から受け継がれた「礼」の中に、国家を統治するための公正な法の精神があると考える。

 

国家の法や制度は、「礼」の中にある精神に基づいて制定される。王制篇では王者は「人」=輔佐する人材、「制」=礼制、「論(倫)」=身分秩序と昇進制度、「法」=法律を制定するべきことが説かれる。君子は礼を身に付け、法に従って統治し、法が定めない案件については「類」=礼法の原理に基づいた判断を適用して行政を執る。

 

「その法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て挙するは聴の尽なり」(王制篇)

 

このように荀子は、君主が頂点にあり、君子が礼法を知った官吏として従い、人民が法に基づいて支配される、つまり法治国家の姿を描写して、その統治原理として「」を置くのである。孔子や孟子も「礼」を個人の倫理のみならず国家の統治原理として捉える側面を一応持っていたが、荀子はそれを前面に出して「礼」を完全に国家を統治するための技術として捉え、君子が「礼」を学ぶ理由は明確に国家の統治者となるためである。

 

荀子の描いた国家体制は、まず彼の弟子である李斯が秦帝国の皇帝を頂点とする官僚制度として実現し、続く漢帝国以降の中国歴代王朝では官僚が儒学を学んで修身する統治者倫理が加わって、後世の歴代王朝の国家体制として実現することとなった。

 

実力主義・成果主義

王制篇や富国篇等では、治政にあたって実力主義や成果主義の有効性を説いている。王制篇では、王公・士大夫の子孫といえども礼儀に励むことができなければ庶民に落し、庶民の子孫といえども文芸学問を積んで身の行いを正して礼儀に励むならば卿・士大夫にまで昇進させるべきことを説く。

 

王覇論

王制篇で、天下を統一する王者がいない条件下では、覇者が勝利することを示す。覇者は領地を併合することなく、諸侯を友邦として丁重に扱い、弱国を助けて強暴の国を禁圧し、滅んだ国は復興させて絶えた家は継がせる。このような正義の外交によって覇者は諸侯を友として、単に力あるだけの強者に勝利すると説く。

 

それでも、荀子はそのような現実的な覇者よりも、絶対正義を示して天下全てを味方につけて戦わず勝利するユートピア的な王者を優位に置き、覇者ではなく王者を理想とする。王者の王道政治を理想とするのは、孟子と同じく儒家の基本思想である。

 

性悪説・社会起源論

荀子は人間の性を「」、すなわち利己的存在と認め、君子は本性を「偽」すなわち後天的努力(すなわち学問を修めること)によって修正して善へと向かい、統治者となるべきことを勧めた。この性悪説の立場から、孟子の性善説を荀子は批判した。

 

富国篇で、荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。それゆえに人間は、あえて君主の権力に服従してその規範(=「礼」)に従うことによって生命を安全として窮乏から脱出した、と説いた。このような思想は、社会契約説の一種であるとも評価される。

 

荀子は規範(=「礼」)の起源を社会の安全と経済的繁栄のために制定されたところに見出し、高貴な者と一般人民との身分的・経済的差別は、人間の欲望実現の力に差別を設け欲望が衝突することを防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分されるために必要な制度である、と正当化する。そのために非楽(音楽の排斥)・節葬(葬儀の簡略化)・節用(生活の倹約)を主張して、君主は自ら働くことを主張する墨家を、倹約を強制することは人間の本性に反し、なおかつ上下の身分差別をなくすことは欲望の衝突を招き、結果社会に混乱をもたらすだけであると批判した。

 

荀子の実力主義による昇進降格と身分による経済格差の正当化は、メリトクラシーとして表裏一体である。

 

天人の分

天論篇では、「」を自然現象であるとして、従来の天人相関思想(「天」が人間の行為に感応して禍福を降すという思想)を否定した。

 

「流星も日食も、珍しいだけの自然現象であり、為政者の行動とは無関係だし、吉兆や凶兆などではない。これらを訝るのはよろしいが、畏れるのはよくない」

 

「天とは自然現象である。これを崇めて供物を捧げるよりは、研究してこれを利用するほうが良い」

 

また祈祷等の超常的効果も否定している。


「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。これは別に何ということもない。雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」。

 

「為政者は、占いの儀式をして重要な決定をする。これは別に占いを信じているからではない。無知な民を信じさせるために占いを利用しているだけのことである」。

 

日本・江戸時代

江戸時代、荀子に一定の評価を与えたのは荻生徂徠で、徂徠は「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」と言い、彼の言うところによれば荀子は子思や孟子の理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、荀子の方が孔子が伝えようとした先王の道(子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、先王が制定した礼楽刑政の統治制度)をよく叙述していた。徂徠は『読荀子』で『荀子』の初期注釈を行った。

 

江戸後期の『荀子』研究成果では、久保愛(久保筑水、宝暦9年-天保6年、1759-1835)が、師の片山世璠(片山兼山。享保15年-天明2年、1730-1782)を継ぎ『荀子増注』を著した。その他、冢田大峯・猪飼敬所・萩原大麓・古屋昔陽らの研究がある。

 

江戸時代を通じ日本儒学の主流は朱子学、あるいはそれに対抗した陽明学であり、いずれも孔子・孟子は評価したが、荀子への評価は高いとはいえなかった。久保愛も『荀子増注序』において、この書を天下で知る者は少ない、と嘆いている。

出典 Wikipedia

2021/03/24

卑弥呼の墓 ~ 卑弥呼(3)

卑弥呼の墓がどこにあるのかについては、様々な説がある。

 

規模と形状

卑弥呼は、径百余歩の墓に葬られたとする。一歩の単位については、周代では約1.35メートル、秦・漢代では約1.38メートル、魏代では約1.44メートルと言われ(長里)、墓の径は約144メートルとなる。一方、倭人伝の旅程記事などから、倭韓地方では長里とは別の単位(短里)を使用していると考えられ、短里説の支持者は一歩を0.3メートル、墓の径は30メートル前後とする。尚、短里説「周髀算経・一寸千里法の一里(=約77m)」の支持者の中には、一歩については、「周尺」を基準とした尺貫法の一歩(約1.2m)を採用している者もいる(かつて帯方郡のあった朝鮮では、周の伝統が受け継がれていたと考える)。

 

」という表現から一応円墳とされるが、弥生時代の築造から楕円墳や方墳である可能性もある。なお、卑弥呼がヤマト王権の女王であるとする近畿説によって、前方後円墳をその冢と見る説もあるが、「径」の表記から異論が多い。

 

造成時期

卑弥呼の死んだ時期は西暦248年であり、一般に弥生時代の終末期、あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。近畿ヤマト王権の年代では、崇神天皇治世の少し前と考えられる。

 

埋葬の特徴

魏志では、殉葬者は「奴婢百餘人」と記述されており、卑弥呼の墓は古墳に埴輪が導入される以前だった考えられる。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。ただし森将軍塚古墳など墳丘に埴輪棺を埋葬した例が有り、殉葬の可能性も指摘されている。また主体部については「有棺無槨」とされており、槨の無い石棺・木棺または甕棺墓と考えられる。

 

主な比定古墳

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では、徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。

 

箸墓古墳

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市の箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説があるが、箸墓古墳の後円部は約150メートルの巨大な前方後円墳であり、魏志倭人伝による規模と形状が異なる。築造年代は3世紀第3四半期頃であるとの説があるが、卑弥呼の死去が3世紀中期なので時期的に矛盾する。

 

ホケノ山古墳

また箸墓古墳と同代、もしくは先行して造営されたとされるホケノ山古墳は、有槨の木棺であることが倭人伝の記述と矛盾し、また発掘調査を行った橿原考古学研究所による2008年(平成20年)の発掘調査報告書では、出土遺物の検討から築造年代を3世紀中頃であると結論しつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告しているため、年代特定を疑問視する意見もある。

 

石塚山古墳

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)〜4世紀初頭と一致するが、前方後円墳で長は120メートル〜130メートル前後と規模と形状が魏志倭人伝の記載と異なる(但し、周尺で換算した場合は百余歩は、120メートル前後となる)。ヤマト皇権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)で九州にある一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台・特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。九州にありながら、130メートル超の出現期古墳は珍しい。墳頂周囲には、中型の丹塗りの複合口縁壺形土器、甕形土器などが祭祀用として樹立していたと推定されている。高坏型・甕形土器は極めて在地的と評価されている。周濠は確認されていない。竪穴式石室であり、副葬品(玉、鏡、剣など)がある。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられており、他には素環頭大刀、銅鏃、細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片、鉄鏃なども出土している。

 

平原遺跡

平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは直径46.5センチメートル、円周が46.5×3.14 = 146.01センチメートル「大型内行花文鏡」が出土しているが、原田大六はヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」と同じ大きさ・形状であることから、その起源であると主張している。咫(あた)は円周の単位で、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていたので、八咫鏡は直径2尺(46センチメートル前後)の円鏡ということになる。『御鎮座伝記』では「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されており、大型内行花文鏡と一致する。ただし墳墓の規模は魏志倭人伝の記載より小さく、また周囲には多人数の殉葬の墳墓が見つかっていない。

 

祇園山古墳

祇園山古墳は築造時期が3世紀中期と考えられ、一辺が23メートル-24メートル、基台を含めれば更に大きな方墳で形状や規模が一致し、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていること、周囲に数十名分の集団墓があること(宝賀寿男は、これを殉葬墓と推定している)、周囲の甕棺から後漢鏡片や大型勾玉などの豪華な装身具が出土していること、G1墓からは鉄製の武器や農機具が出土していること、などが魏志倭人伝の記載と良く一致する。しかし、石室の副葬品が盗掘のため殆どが失われており、わずかに高良大社に出土品と伝えられる三角縁神獣鏡(33方格獣文帯 鈕座「天王日月日月」)があるのみである。

 

御所市玉手山説

卑弥呼を宇那比姫命とする説で、六代孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟である。したがって『魏志倭人伝』が「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする男弟を孝安天皇とする。

 

孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろのあきつしまみや)とされる。伝承地は奈良県御所市室(ごせしむろ)で、ここが卑弥呼の王宮であるとする。この秋津嶋宮伝承地の北東約1㎞に、玉手山という山がある。ここは孝安天皇が葬られたとする山でもある。そこにお椀を伏せたような尾根があり、中心には墳丘が存在する。尾根は自然の尾根であるが、尾根全体を墓域とすれば、まさに径百余歩の円墳である。これを卑弥呼の墓とする説。

出典 Wikipedia

2021/03/22

インド仏教の発展

出典https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

1.   部派仏教とアビダルマ哲学の成立

 

ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後、さらに分裂を重ね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。

 

各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂し直し、独自の解釈を立てて論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵が成立した。

 

多くの部派のアビダルマは失われた。現在完全に伝わっているのは、南方上座部のパーリ語のアビダルマと、漢訳された説一切有部のもののみである。論書のうち、古いものは紀元前 2世紀の成立とみなされる。

 

アビダルマとは、「ブッダの教え(ダルマ)に対する(アビ)考究」である。アビダルマの論師たちは、ブッダによって教え説かれたダルマを吟味弁別することが煩悩を鎮める唯一の方法であると考えた。

 

彼らは、教理の体系化を進めて、須弥山説といわれる巨大な宇宙観を含む壮大な教理体系を築き上げた。時期を同じくする頃、婆羅門思想ではサーンキヤやヴァイシェーシカの宇宙観が成立している。当時のインドの思想界には、宇宙の成立ちに対する強い関心があった。アビダルマ哲学の成立も、この傾向と密接にかかわる。

 

2. 説一切有部

 諸部派のうち、特に有力であったのは説一切有部である。

 

この部派は、カニシカ王(c.132-152年在位)の庇護を受けて栄え、多くのアビダルマ文献が生み出された。その代表は『阿毘達磨大毘婆沙論』(あびだつまだいびばしゃろん)で、多岐にわたる内容を包含しており、さながら古代インドの大百科全書である。

 

アビダルマ文献のうち最も有名なものは、ヴァスバンドゥ(世親、45世紀頃)の『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)である。これは、大部な『婆舎論』の内容を時には批判を交えて巧みに要約したもので、仏教教理の基礎をなすものとみなされ、中国、日本において尊重された。


3. 説一切有部の教理

「説一切有部」とは、この世界を成り立たせている一切のダルマが過去・現在・未来の三世にわたって実在するとするところからついた学派名である。諸行無常と矛盾するようであるが、彼らはむしろ実在するダルマがなければ、諸行無常は成り立たないと考えた。

 

諸々のダルマは、集まって現象してくる。それは現在の一瞬間にのみ存在し、消滅する(刹那滅)。しかし、それぞれのダルマそのものは、未来から現在をへて過去に至って常に存在し続ける(三世実有・法体恒有)と考えるのである。

 

ところで、ダルマとは何か。ダルマ(法)は、多義的な語であるが、仏教ではまず「ブッダの教え」(仏法)を意味する。アビダルマ論師たちは「ブッダの教え」の体系化を目指したが、主たる関心は世界の全体的な理解にあった。彼らにとって、世界の成立ちは「ブッダの教え」、すなわちダルマによって説明され理解される。したがって、ダルマは「世界を説明する原理」である。言い換えれば、世界はダルマから成り立っているものとして理解される。ここから、ダルマは「世界を成り立たせる原理」とみなされる。

 

 原始仏典には、世界の成立ちを説明する教えとして五蘊・十二処・十八界というダルマの枠組があった。

 

十二処」とは六つの認識器官「眼・耳・鼻・舌・皮膚・心(眼耳鼻舌身意)」と、それらに対応する六つの対象「色形・音声・匂い・味・感触・考えられるもの(色聲香味触法)」によって世界の成立ちを説明するものである。

 

十八界」は、これに六つの認識「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」を加えたものである。

 

説一切有部は、この十二処・十八界説を基本として理論的な整合性を追求し、体系を再構成した。そして完成されたのが「五位七十五法」という七十五のダルマを五類に分ける体系である。これによって物質的、精神的な世界のすべてが説明された。

 

五類とは、「物質(色)・心(心)・心作用(心所)・物質でも心でもない関係、属性、能力など(心不相応行)・空間や涅槃など形成されることなく存在するもの(無為)」である。

 

 第五の「無為(むい)」に対し、前の四つのダルマは「有為(うい)」で形成されるものである。物質には十一、心は一、心作用には四十六、物質でも心でもないものには十四、形成されないものには三のダルマが立てられる。物質は原子論によって説明される。

2021/03/20

ソドムとゴモラ(ヘブライ神話11)

ソドム(ヘブライ語:סדום、英語:Sodom)とゴモラעמורהGomorrah)は、旧約聖書の『創世記』19章に登場する都市。天からの硫黄と火によって滅ぼされたとされ、後代の預言者たちが言及している部分では、例外なくヤハウェの裁きによる滅びの象徴として用いられている。また、悪徳や頽廃の代名詞としても知られる。

 

ソドムの罪(ホモ・セクシャルときにソドミー)については、古来、『創世記』19章前半、特に198節のロトの提案内容から推察して、甚だしい性の乱れが最大の原因であったとする見解が一般的である[要出典]。他に『エゼキエル書』[3]1649-50節において、次のように書かれる。

「お前の妹ソドムの罪は、これである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである 」。

 

さらに1653節から55節では、いずれソドムとその娘たちを復帰させることを、神が示唆している。

 

「わたしは、捕らわれた彼女たちを帰らせる。すなわち、捕らわれたソドムとその娘たち、捕らわれたサマリアとその娘たち、および彼女たちと共に捕らわれたお前たちを帰らせる。 お前は、自分の不名誉を負わねばならない。また、お前が彼女たちを慰める結果となったすべての行いのゆえに、不名誉を負わねばならない。 お前の妹であるソドムと、その娘たちは元の姿に帰り、サマリアとその娘たちも元の姿に帰り、また、お前と娘たちも元の姿に帰るであろう」。

 

一方、旧約時代からの伝承を受け継いで編纂された新約聖書においても、「ユダの手紙」において

「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく淫らな行いに耽り、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています 」との記載があり、ソドムやゴモラが「不自然な肉の欲」によって罰されたことを古代のユダヤ地方が伝承していたことが確認できる。

 

クルアーンにも町の名前は出てこないものの、ほぼ同じ物語が述べられており、預言者ルート(ロト)に従わなかったために、彼に従ったわずかな仲間を除き滅ぼされた。その際、神に滅ぼされた他の民(ノアの洪水で滅んだ民や、アード族やサムード族とは異なり、ルートの民(すなわちソドムの住民)は、偶像や他の神を崇拝する罪ではなく、男色などの風俗の乱れの罪により滅ぼされた[要出典]。なお創世記19章と士師記19章には、多くの共通点のあることが指摘されている。

 

地理

シディムの谷

ソドムとゴモラの廃墟は、死海南部の湖底に沈んだと伝えられる。これは、「シディムの谷(ヘブライ語: עמק השדים 英語: Vale of Siddim)」と、シディムの谷の至る所にある「アスファルト」の穴に関する『創世記』の描写と、死海南部の状況が似通っていることなどから一般にもそう信じられているが、その一方で、死海南岸付近に点在する遺跡と結びつけようとする研究者も存在する。

 

バブ・エ・ドゥラーとヌメイラ

ソドムを死海南東部に位置する前期青銅器時代(紀元前3150-2200年)の都市遺跡バブ・エ・ドゥラー(Bab edh-Dhra)、ゴモラをこの遺跡に隣接する同時代の都市遺跡ヌメイラ(Numeira)と考える研究者もいる。いずれも現代のヨルダン・ハシミテ王国、カラク県に位置する。

なお、この都市遺跡の近隣には、天から降る硫黄と火からロトが逃げ込んだとされるロトの洞窟の遺跡(アラビア語: دير عين 'أباطة UNGEGN: Deir 'Ain 'Abata デイル・アイン・アバタ)がある。ビザンティン(東ローマ)時代に、ロトの洞窟の伝説地の上に教会が建てられたが、この教会の遺跡が現在残されている。教会の左手には、ロトが逃げ込んだとされる洞窟が実在する。

 

モアブとアンモン

創世記によると、この洞窟でロトと二人の娘の間に生まれた男の子二人が、それぞれモアブとアンモンの民族の祖先となったとされるが、ロトの洞窟を含む前述の遺跡すべてが、かつてモアブと呼ばれた地、現代のカラク県(ヨルダン王国)にあることは、ソドムとゴモラ、ロト、そしてモアブの伝承を考える上で興味深い。上記の考古遺跡から出土した考古資料は、現在ヨルダンのカラク考古博物館(カラク城内)やアンマン国立考古博物館で見ることができる。

 

セドム

イスラエル南部の干拓地に、セドムと表記される都市がある。

 

ソドムのための執り成し

創世記18章後半部(16節から33節)で、ロトのおじであるアブラハムが、ソドムとゴモラに関して事前にヤハウェと問答している。ヤハウェは、ソドムとゴモラの罪が重いという機運が高まっているとして、それを確かめるために降(くだ)ることをアブラハムに告げた。アブラハムは、それに応じて正しい者が50人いるかもしれないのに滅ぼすとは全くありえない、と進み出て言った。それに対しヤハウェは、正しい者が50人いたら赦(ゆる)すと言った。

そこでアブラハムは「塵芥(ちりあくた)に過ぎない私ですが」と切り出し、正しい者が45人しかいないかもしれない、もしかしたら40人しかいない、30人、20人と、正しい者が少なくても赦すようにヤハウェと交渉をした。最終的に、「正しい者が10人いたら」というヤハウェの言質を取り付けたが、19章でヤハウェは結局、ソドムとゴモラを滅ぼした。

 

創世記19章前半部「ソドムの滅亡」主な内容

ヤハウェの使い(天使)二人がソドムにあるロトの家へ訪れ、ロトは使いたちをもてなした。やがてソドムの男たちがロトの家を囲み、「なぶりものにしてやるから」と言って使いたちを出すよう騒いだ。ロトは二人の使いたちを守るべく、代わりに自分の二人の処女の娘達を差し出そうとした。使いたちは、ヤハウェの使いとして町を滅ぼしに来たことをロトに明かし、狼狽するロトに妻と娘とともに逃げるよう促し、町外れへ連れ出した。

ロトがツォアル(ヘブライ語: צוער 英語: Zoara)という町に避難すると、ヤハウェはソドムとゴモラを滅ぼした。ロトの妻(ヘブライ語: אשת לוט)は禁を犯して後ろを振り向き、塩の柱(ヘブライ語: נציב מלח ネツィヴ・メラー)に変えられた。ヤハウェはアブラハムに配慮して、ロトを救い出した。

 

科学的な調査

ニネベの遺跡で見つかったシュメール人の古代の天文学者が粘土板に残した円形の星座板には、ふたご座・木星などの惑星と、アピンと名づけられた正体不明の矢印が書きこまれており、この天体配置があった日の明け方の530分ころに、4分半かけてアピンは地上に落下したという記述が残されている。

 

アランボンド教授の解析により、この天文事象は、惑星の配置が粘土板の星座盤の位置と一致したことから、紀元前3123629日であったと特定され、アピンの記述は典型的なアテン群小惑星の落下の記録であると結論付けた。衝突予想地点にはクレーターはなく、この小惑星はアルプス上空で空中爆発したであろうと推定されている。

 

アランボンド教授はこの日、直径1.25キロほどの小惑星がアルプス上空のコフェルス(エッツタールの一部(de)で空中爆発し、破片が軌道を逆戻りする形で地中海一帯に帯状にばら撒かれたであろうと説明し、これはソドムとゴモラの事象のことであろうという説を述べている。さらに南アルプスの氷床コアの調査によって、紀元前3100年ころに急激な気温の低下があったという傍証的データが示されている。

 

またケレンサ・グリッグソンによると、死海に沿った平原の5か所の灰白色の町のすぐそばのエリアにおいて、ゴルフボールサイズの硫黄の玉が発見されている。これまでの20年間多くの標本が採取され、世界中の研究所に送られている。ニュージーランドのグレイスフィールドでのスペクトラケム解析において解析されたある試料は、硫黄含有量が98.4%であることが明らかになった。この純度の硫黄含有量は、この平原の5つの町以外には世界中のどこにも見られないと報告されている。創世記19:24には、

「主は硫黄と火とを主の所、すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて」

と書かれており、この硫黄の試料の量と純度の観測に基づき、その場所がソドムとゴモラであると結論付けている科学者もいる。

出典Wikipedia

2021/03/15

卑弥呼(2)

呼び名

『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝では「卑彌呼」、『三国史記』新羅本紀では「卑彌乎」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

 

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。

 

また、他の一説には古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として、先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

 

現代日本語では、一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明である。

 

ひみこ(日巫女、日御子) - 日巫女」は太陽に仕える巫女の意。「日御子」は太陽神の御子の意。

ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。

ひめこ(比咩子、比売子) - 古事記における音読み表現。

ひめみこ(日女御子、姫御子)

ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。

ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱えた、糸島の平原遺跡と福岡の奴の国を結ぶ日向峠に由来するとの説。

ひみか(日甕) - 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。

ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする。

ひむか・ぴむか - 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。

など諸説あるが、その多くが太陽信仰との関連した名前であるとする。

 

一方、中国語発音を考慮する(呼にコという発音はない)と、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

 

現代中国語でのピンインでの表記

卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1

(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1

掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3

帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1

難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3

伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2[14]

現時点で卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比咩后(Bǐ miē hòu)、比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。 ただし、弥生時代の日本語の発音、および当時の中国語の音写の法則については、説が確立していないとする説も存在する。

 

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し、以下の様に記述されている。

 

倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

「倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは、平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して、狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹掾史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ)に授け、檄文を作って諭した。卑弥呼が死んだので、大いに冢を作った、径は100余歩である、殉葬された奴婢は100余人である。」

 

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが、狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとすれば、卑弥呼の死も240年から246年ごろに起きた可能性が高い。

 

「以死」について

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告諭之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り、檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている卑弥弓呼との不和、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。そのため、狗奴国の男子王の卑弥弓呼に卑弥呼は殺されたと考える説もある。

 

卑弥呼の死と皆既日食について

天文学者の斎藤国治は、24895日朝(日本時間。世界時では94日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。さらに、橘高章と安本美典は、247324日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で魔力が衰えたと卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

 

しかし、現在の正確な計算によると、皆既日食は日本付近において247年の日食が朝鮮半島南岸から対馬付近まで、248年の日食が隠岐付近より能登半島から福島へ抜ける地域で観測されたと考えられ、いずれの日食も邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

出典 Wikipedia

2021/03/13

キティオンのゼノン ~ ストア派(5)

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ゼノンが創始した「ストア派」の哲学は、西洋人の考え方や思想に大きな影響を与えました。ここでは禁欲主義ともいわれるストア派の思想や、その背景について紹介します。あわせて仏教との共通点や名言も紹介します。

 

「ストア派」とは?

まず初めに、ストア派哲学の創始者や思想など、概要を紹介します。

 

ストア派の創始者は「ゼノン」

ストア派とは、古代ギリシャにおいて、キプロス島キティオン出身の哲学者ゼノン(紀元前335年~紀元前263年)が創始した哲学の学派です。ゼノンはアテネで哲学を学び、アゴラにあったストア(柱廊)で講義を行いました。ストア派の名は、この建築物の名前から来ています。

 

ゼノンはアリストテレス哲学など、古代ギリシャで生まれた様々な哲学を学び、それらを集大成する形で独自の哲学を打ち立てました。ストア派は当時の地中海世界を代表する哲学派となり、その後も長く影響力を持ちます。

 

ゼノンが生きた時代は、アレクサンドロス大王の帝国が誕生したヘレニズム時代であり、この時、都市国家ポリスの自治権が失われました。ポリスを失ったギリシャ人は、新たな哲学を模索します。そのため、この時代のギリシャ哲学は、自分自身を見つめ直す人生論的な傾向が強くありました。

 

ゼノンの自然論「自然に従って生きよ」

ゼノンは「自然に従って生きよ」と主張しました。ストア派の哲学者は、財産や地位などの人為的に作りだされたものの価値を否定し、自然や宇宙を価値あるものだとして、それに従おうとしました。

 

また、ゼノンは人間の自然本性は宇宙の自然本性と連続しているため、宇宙の法則にしたがうことが正しいことだとする自然論を論じました。

 

ストア派の哲学は「アパテイア」へ至る「禁欲主義」を提唱した

ゼノンは情念(パトス)や情動を克服して「アパテイア」(無情念)へと至る道を説きました。ストア派の哲学者にとって目指すべき理想は、快楽や欲求の衝動に打ち勝ち、理性が与える正しい命令に従って生きることだったのです。

 

アパテイア(無情念)の状態に至ることを理想とするストア派の哲学は「禁欲主義」と呼ばれました。禁欲的生き方を「ストイシズム」といい、ストイシズムは「ストア派主義」という意味でも使われます。

 

「ストイック」はストア派が起源の言葉

禁欲的」という意味の「ストイック」も、ストア派が起源の言葉です。しかし、ストア派の「禁欲主義」は、現在の「ストイック」という言葉から連想する禁欲とはニュアンスが違います。欲望を禁ずるのではなく、欲望からの脱却を目指したのです。ストア的な教養を身につけ、不動心の域に達した人を理想の賢者だとして、その理想的な人物をソクラテスと考えていました。

 

ストア派の根幹概念は「ロゴス」

ストア派の哲学者は、世界を定める神的な論理を「ロゴス」と呼び、神と同一視しました。ロゴスはストア派の根幹となる概念で、「自然」(ピュシス:本性)や「運命」(テュケー)とも表現されます。

 

ストア派は、自然や宇宙はロゴスという理性的な力によって定められた有機的な存在であり、人間も魂の中にロゴスを有しており、それゆえロゴスに従うことが人間の正しい生き方だとしました。

 

ストア派後期の代表は「セネカ」

ストア派は前期、中期、後期に分けられ、後期を代表する思想家にローマ帝国の政治家でもあった「セネカ」(紀元前1年頃~紀元後65年)がいます。セネカの生きた1世紀のローマは、初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前63年~14年、在位:紀元前27年~14年)亡き後は、ネロなどの悪名高い皇帝による悪政で不安定な時代でした。セネカはネロの補佐役として政治を支えますが、後に謀反の嫌疑をかけられ、自ら命を絶ちます。

 

セネカはストア派の教えに従い、困難な政治生活に耐え、人生哲学について論じました。

 

「アウレリアス」の「自然」と「名言」

16代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌス(121年~180年、在位:161年~180年)も、後期ストア派を代表する思想家です。アウレリアスはストア派哲学を学び、教えに即した生活を送り、『自省録』という内面の思索を綴った著書を残しました。アウレリアスは「自然」という言葉を頻繁に用いました。宇宙の自然と自分の本性を結び付け、自然に従って生きるということがストア派の教えです。

 

古代ギリシャで生まれたストア派の哲学は、その中心がローマに移ってからも大きな影響を与え続けましたが、その前期の著書は失われており、アウレリアスなどの後期ストア派の著書によって後に大きな影響を与え続けることになります。

 

アウレリアスの著書『自省録』から、ストア派の思想が表れた名言を紹介します。

 

主観的判断を取りのけよ。その時、私が害されたという思いは消えてしまう。すれば、害そのものが消えてしまう。

 

死すべき者の避くべくもない運命(死)は、間近に迫っている。命ある限り、善き者たることの可能であるうちに、善き者となれ。

 

己が外に心を向けて、さまようのをやめよ。内に、なにかなさんとする衝動を覚えたら、常に正義に適ったことを顕現し、怠ることなく理知の能力を最良の状態に保て。

 

理性的動物にあっては、自然に適うも理性(ロゴス)に適うも、ともに同じ一つの行為であり、別個のものではない。

 

想念を消失せよ。繰り人形よろしく外から繰り動かされることをやめよ。人の犯した過ちは、それの生じた場所にそのままにしておけ。

 

天より与えられた事物には、自らを調和せよ。また、宿命によりともに生きるべく定められた人々には愛情を寄せよ。ただし真正の愛情を。

 

「ストア派」の反対の哲学派とは?

次に、ストア派と同時代に、ともに哲学の二大潮流となったエピクロス派について紹介します。

 

ストア派の反対は「快楽主義」のエピクロス派

「エピクロス」(紀元前336年~264年)は、快楽に幸福を求めるエピクロス派の哲学を打ち立てました。エピクロス派は、快楽主義や快楽の哲学と呼ばれます。

 

エピクロス派は「アタラクシア」を幸福と定義した

エピクロスは、人間の幸福は快楽であるとしました。その快楽とは欲望のままに流される快楽ではなく、肉体的な苦痛がなく、精神的に平静(アタラクシア)であることを快楽かつ幸福と定義したものです。

 

エピクロス派が魂の平安を求めたのに対し、ストア派は感情に任せるのは理性に背く生き方だとして、快楽主義とは反対の立場を取りました。また、エピクロスが幸福を人生の目的としたのに対して、ストア派は幸福は結果に過ぎないとしました。

 

ゼノン(Ζήνων Zēnōn, 紀元前335 - 紀元前263年)は、キプロス島キティオン出身の哲学者でストア派の創始者。フェニキア人。エレアのゼノン等と区別するために、キティオンのゼノンとも言う。

 

生涯

商人の息子に生まれ、成人して自らも商人となり、中年期に至るまで商業に携わっていたという。

 

彼が22歳の時に乗っていた船が難破してアテナイにたどり着き、偶然立ち寄った本屋でクセノフォンの『ソクラテスの思い出』に感銘を受けた。本屋の主人に教えられるまま、キュニコス派のクラテスについて同地で哲学を学んだ。キュニコス派やアカデメイア派の影響を受ける中で、彼自身の思想を確立するようになる。最終的に、彼はアテナイの彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で彼の思想の講義を始めることになるが、この場所の名前から、彼に始まる学派をストア派と呼ぶことになった。

 

伝えられる彼の最期は、次のようなものである。彼はある日、学園から帰途につく際に転倒し爪先の骨を折ってしまったが、ストア派の思想に従い、高齢である自分にとってはもう死ぬことが適当だろうと考え

「いま行くところだ!

どうして私を呼びたてるのか!

と言って、自ら息を止めて死んでいったという。

 

思想

彼が展開した思想は、資料が断片的にしか残存していないために、総合的な理解は困難となっている。しかし、自然学、論理学、倫理学という哲学の三分法を設定したこと、快や不快に対して心を奪われないことによって心の平穏が獲得できるという、ストア派倫理学の基本軸を設定したことは、彼に起源を見ることが妥当だと考えられている。

出典 Wikipedia

2021/03/05

卑弥呼(1)

卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)で、邪馬台国に都をおいていたとされる。諱は不明で、封号は親魏倭王。

 

史書の記述

『三国志』の卑弥呼

「魏志倭人伝」の卑弥呼

魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように、卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中華の史書には、黎明期の中華道教や、儒教的価値観にそぐわない政治体制を鬼道と記している例もある。

 

本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。

 

福岡県糸島市の平原遺跡から、八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから、原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。

 

既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

 

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。

 

「魏書帝紀」の俾弥呼

『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

 

年譜

『三国志』

時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。その女子の名を卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はないが、弟がいて国の統治を補佐した。

 

景初二年(238年)12 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と、銅鏡100枚を与えられた。

正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。

正始四年(243年)12 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。

正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。

正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。

時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

 

『後漢書』

建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。

永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。

桓帝と霊帝の間(146 - 189年) - 倭国大乱。

189年前後か? - 一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。

 

『晋書』

泰始二年(266年) - 倭の遣使が入貢。邪馬台国からの最後の入貢。

 

『三国史記』新羅本紀

173 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。

193 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。

208 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。

232 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。

287 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

 

『三国史記』于老列伝

233 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の昔于老が沙道(地名)で倭軍と戦った。昔于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので、倭兵は溺れて全滅した。

249 - 倭国使臣が、新羅の舒弗邯の昔于老を殺した。

 

以下の3つの中華正史にも記事はあるが、いずれも倭国の歴史をふりかえるという文脈での記述であり、史料としての価値はない。

 

『梁書』

光和年間(178 - 184年) - 倭国の内乱。卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。

正始年間(240 - 249年) - 卑弥呼死亡。

 

『隋書』

桓帝と霊帝の間(146 - 189年) - 倭国大乱。

189年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。

 

『北史』

光和年間(178 - 184年) - 倭国の内乱。

184年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。

正始年間(240 - 249年) - 卑弥呼死亡。

 

日本列島における皆既日食

247324日日没

24895日日出

 出典 Wikipedia 

2021/03/02

社会哲学 ~ ストア派(4)

ストア派の顕著な特徴は、そのコスモポリタニズムにある。

ストア派によれば、全人類は一つの普遍的な霊魂の顕現であり、兄弟愛をもって生き互いに躊躇なく助け合うべきである。

 

『語録』において、エピクテトスが人間の世界に対する関係について述べている。

「各人は第一には、めいめいの所属する共同体の一員である。しかし彼は神と人の偉大な国の一員でもあり、その国ではコピーだけが政治に関心を持つのだ」

この思想は、シノペのディオゲネスを模倣したものである。ディオゲネスは

「私はアテナイ人でもコリントス人でもなく世界市民である」と述べている。

 

階級や資産といった外的な差異は、社会的関係において何ら重要性を持たないと彼らは考えた。代わりに、彼らは人間の兄弟愛と全人類の本性的平等を称揚した。ストア派はギリシアーローマ世界で最も影響力ある学派となり、カトやエピクテトスといった多くの注目に値する著述家・人物を輩出した。

 

特に、彼らは奴隷に慈悲をかけることを推し進めたことで注目される。セネカは

「あなたが自分の奴隷と呼んでいるものは、あなたと同根から生じたこと、同じ天に向かって微笑みかけること、あなたと同じ言葉で呼吸し、生き死ぬことを思いやりを持って覚えておきなさい」とセネカは勧めている。

 

ストア主義とキリスト教

二つの哲学の大きな違いはストア派が汎神論、つまり神が決して超越的でなく、むしろ内在的であるという立場をとることにある。世界を創りだす実在としての神は、キリスト教思想においては人格的なものとされるが、ストア派は神を宇宙の総体と同一視した。万物が物質的であるというストア主義の思想は、キリスト教と強く対立している。また、ストア派はキリスト教と違って世界の始まりや終わりを措定しないし、個人が死後も存在し続けると主張しない。

 

ストア主義は教父によって「異教哲学」とみなされたが、それにもかかわらずストア主義の中心的な哲学的概念の中には、初期のキリスト教著述家に利用されたものがある。その例として「ロゴス」、「徳」、「魂」、「良心」といった術語がある。しかも、相似点は用語の共有(あるいは借用)に留まらない。ストア主義もキリスト教も主張した概念として、この世界における所有・愛着の無益性・刹那性だけでなく、外的世界に直面した際の内的自由、自然(あるいは神)と人との近縁性、人間の本性の堕落―あるいは「持続的な悪」という考えなどがある。各人の人間性の大きな可能性を呼び覚まし発展させるために、情動およびより劣った感情(すなわち渇望、羨望、怒気)に関して禁欲を実践することが奨励された。

 

マルクス・アウレリウスの『自省録』のような、ストア派の著作が時代を超えて多くのキリスト教徒によって高く評価された。ストア派のアパテイアという理想が今日、正教会によって完全な倫理的状態として認められている。ミラノのアンブロシウスは、ストア哲学を自身の神学に適用したことで知られた。

 

自殺をめぐる解釈の違い

自殺は人間の自由の最高の表現であるとするストア派に対して、キリスト教の考えでは自殺は「形式的に」自由の表現であるにすぎず、「自由の存立基盤」自体が破壊されてしまうために「内容的には最も不自由な行為」であるとされる。そして個人の肉体はあくまで「神に創られて存在する被造物」であるため、個人は自らの肉体を自由に破壊する権利を有していないとされる。

 

近代の用法

ストイック」という言葉は、一般に苦痛・歓喜・強欲・歓楽に無関心な人を指して使われる。「感情を抑え、我慢強く耐える人」という近代の用法は1579年に名詞の形で初めて見られ、1596年には形容詞の形で見られた。「エピクロス主義者」と対照的に、『スタンフォード哲学百科事典』のStoicismの項には「英語の形容詞stoicalが、その哲学的起源に対して誤解をもたらすことはない」と述べられている。

 

ストア派の引用

ストア派の一般的な教説を示すような、著名なストア派哲学者からの引用を以下に示す。

 

エピクテトス

「自由は人の欲求を満たすことではなく、欲求を除去することで得られる。」

 

「神は、どこにいるのか? あなたの心の中に。

悪は、どこにあるのか? あなたの心の中に。

どちらもないのはどこか? 心から独立なものの所である。」

 

「人間は物にかき乱されるのではなく、物に対する自分の考えにかき乱されるのだ。」

「それゆえ、もし不幸な人がいたら、彼に自分が自分自身の理由で不幸なのだと思い出させよう

 

「私は私の長所に関して、自然によって形成された。私は欠点に関して形成されたわけではない。」

 

「自分自身以外の何物にも執着してはならない。自分から引き離された後に苦痛しか残さないような、あなたにならないものに執着してはならない。」

 

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

「判断することをやめよ、『私は傷ついた』と考えるのをやめよ、あなたは傷自体を免れているのだ。」

 

「世界よ、あなたにとって正しいものは、すべて私にとっても正しい。あなたにとって時宜に適っているものの内で、私にとって早すぎたり遅すぎたりするものなどない。

自然よ、あなたの季節がもたらすものは皆、私にとって実りある。あなたから全てのものが生まれる、あなたの内に、全てのものがある、あなたに向かって全てのものが還帰する。」

 

「あなたがあなたの前面で働いているなら、あなたが即座にそれを取り戻すことになっているかのように、正しい理性があなたを破壊するようなものはなく、あなたの心的な部分は純粋に保ち、真面目に、活発に、静謐に引き続く。

もしあなたがそれを保ち、何も期待せず、しかし自然に従った今の生活に満足し、あなたが口にする全ての言葉において英雄的真理を述べるなら、あなたは幸福に暮らせるだろう。そして何者之を妨害できない。」

 

「人生で起こること全てにいちいち驚くのは、なんと馬鹿げていてなんと奇妙なことだろう!

 

「外的なものが魂に触れることはない。たとえ最も僅少な程度においても。

魂に入る許可が与えられることもないし、魂を変化させたり動かしたりすることもない。しかし魂は自身を変化・移動させられるのだ。」

 

「あなた自身の強さは役目と同じではないのだから、人の力を超えていると思わないことだ。しかし全てが人の権能・職分であるなら、それがあなた自身の範囲にも含まれることを信じなさい。」

 

「あるいは、あなたを悩ませるものは、あなたの名声なのか?

しかし私たちが、どれだけ早くものを忘れるかをみよ。間断なき奈落が、記憶を全てのみこんでしまう。その間隙に拍手が送られる。」

 

ルキウス・アンナエウス・セネカ

「問題は、どれだけ長く生きるかではなく、どれだけ立派に生きるかである。」

 

「幸福が私たちにもたらさないものを、彼女が私たちから取り去ることはできない。」

 

「自然に、彼女が望むままに彼女自身の問題を取り扱わせてみよう。何があっても勇敢・快活でいよう。滅びゆくもののうち、何ものも私たち自身のものではないことをよく考えておこう。」

 

「徳とは、正しき理性に他ならない。」

出典 Wikipedia