2020/12/31

エピクロス(1)

エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。

 

現実の煩わしさから解放された状態を「」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「」と考えた。

 

生涯

エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親はアテナイ人入植者であり、父は教師であったが家族の生活は貧しかった。

 

当時、アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアでクセノクラテスの、またリュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。

 

2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。

 

紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスに移り、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。

 

紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。

 

エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。

 

その後

「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には、第14代目の学頭が継承していたと言う。

 

学説

自然思想と認識論

エピクロスの自然思想は、原子論者であったデモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。

 

そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。

 

こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。

 

快楽主義

エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。

 

倫理に関して、エピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。

 

より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。

 

このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかし、こうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして、否定的な評価が与えられている。

 

著作

プラトンとアリストテレス以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙を収録している。

 

岩波文庫に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、1888年にバチカンの写本から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。

 

思想の背景

彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧など、アテネの不穏な社会情勢があったと言われている。

 

語録

「死は、われわれにとっては無である。われわれが生きている限り、死は存在しない。死が存在する限り、われわれはもはや無い」

「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」

「われわれが快楽を必要とするのはほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には我々はもう快楽を必要としない」
出典 Wikipedia

2020/12/29

ノアの方舟(2)(ヘブライ神話7)

1883年の火山性地震により、ノアの方舟の残骸らしき、古い木材建造物が一部露出する。トルコ政府関係者が調査するも、内部が崩落する危険性があり、途中で断念。その際に、欧米諸国にニュースが報じられる。[要出典]

 

詳しい年代は定かとなっていないが(1880 - 1910年頃であろうと推測される)、アララト山周辺を勢力圏としていた帝政ロシアが、大規模な捜索隊を編成しノアの箱舟の残骸を捜索しかなりの成果を収めたものの、ロシア革命の混乱が原因で公表される前に、その資料が遺失してしまったという。[要出典]

 

1920年以降、様々なレベルで調査が、その都度行われている。標高はおよそ、5,000メートル付近といわれている(その後、地震や氷河の融解によって渓谷を滑り落ち、下に移動していったとする説もあった。またこの近辺は、冬期間は完全に氷河に閉ざされてしまう)。[要出典]

 

戦後、米国の軍事衛星による撮影で、CIA内部でも実在説を支持する勢力が増えたことがある。[要出典]

 

1950年代の複数の調査によると、氷河に閉ざされていた影の長さは120 - 130mあったと報告された。また、その数年後に調査したグループが、残骸から切り取ったとされる、ほぼ炭化しかけた化石といってもよいような木材を、数箇所の大学や研究機関で放射性炭素14法などを用いて年代測定したところ、およそカイロ博物館では紀元前3000 - 紀元前4000年、エジプト農務省では紀元前5000年、マドリード大学などいくつかの大学では、紀元前2000年~紀元前3000年といった結果が出た。

 

一方で、カリフォルニア大学など、アメリカのいくつかの大学では、およそ1200年前~1400年前という結果が出たという。その材質は、オーク材であった。『聖書』の「ゴフェルの木」は、一般に「イトスギ」と訳されているが、実は「ホワイトオーク」であったとする科学的な見解もある。ただし、この近辺1000km四方に、ホワイトオークは古来から存在しないため、証言どおりであるならば、明らかに遠い過去の時点で大量にその地帯に持ち込まれた、あるいは、運び込まれた材質であるといえる。[要出典]

 

1959年には、トルコ空軍による報告が残されている。[要出典]

 

1960年代に入ると、冷戦激化に伴い、旧ソビエト連邦と国境を接するこの地区には入ることが不可能となった。しかし、駐トルコのアメリカ空軍によって、この船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認されたという。これらは、アララト山北東斜面に集中しているといわれている。[要出典]

 

それらの情報を総合すると、箱舟伝説を信じる調査者たちの中では、現在は北緯39°264″、東経44°153″、海抜1870m付近のものが有力とされる。[要出典]

 

ノアの方舟かどうかは不明ながら、現在それらとは別のものと臆される船型地形の現地写真のみならず、人工衛星写真も撮られていて、こちらは文字通り船型をしている。全体のサイズは、聖書の記述とほぼ合致するといわれている。掘削調査は行われていないが、非破壊の地中レーダー観測も行われ、竜骨など木製内部構造も調査されている。また、石材製の碇と思われる巨大なパーツや、同じく、石製のリベットらしきパーツも、その地形周辺から出土している。[要出典]

 

2010427日にトルコのアララト(Ararat)山の山頂付近(標高およそ4000メートル地点)で、方舟の木片を発見。炭素年代測定を行ったところ、ノアの方舟がさまよったとされる、今から4800年前と同時期のものであることが確認される。発見された構造物は、いくつかの部屋らしきものに分かれていたことから、普通の住居の残がいなどではあり得ないと結論した(標高3500メートル以上で、人の住まいが発見されたことは過去にない事由による)。[要出典]

 

大洪水について

古代の大洪水にまつわる伝説や神話(大洪水神話)は世界中に存在し、その発生を主張する学者や研究者も多い。但し、それが、『創世記』やメソポタミア神話(特に『ギルガメシュ叙事詩』)にあるように、世界規模で起こったとする者は少なく「メソポタミア近辺での、周期的な自然災害」、あるいは「氷河が溶けた当初の記憶」などと見解の方が多く「地球規模で発生し、人類や生物の危機となった」とする、それらの神話の記述との食い違いもみられる。

 

メソポタミア地方周辺の地質調査の結果、実際に洪水跡と推測される地層の存在が確認されている。しかし、この災害が、この地方の神話や『聖書』内の大洪水の伝承の元となったとするならば、ローカルなレベルでの比較的大規模な洪水であったという域を出ず、世界的な大洪水の証拠とはならない。

 

また、方舟に収容された「雌雄一対(つがい)の動物」とは、成体である必要はなく、洪水の期間や塩分濃度および、その間の餌の確保という(重大な)問題を除くなら、水中で生息できうる動物の収容の必要はない、との見解もある。

 

『聖書』を信じる創造論者の中には、アメリカ合衆国のグランド・キャニオンなども、この大洪水が原因で生成されたとし、大陸移動や氷河期などもこれ以降に急激に発生し、恐竜などの絶滅もこれに起因し、各種化石もこの洪水の作用によって作られたとする説を唱えるものもいる。

 

『灼熱の氷惑星』(高橋実著、原書房1975年発行、現在絶版)に、ノアの大洪水の原因について天文学的見地から仮説・検証を行っている。約3000年周期で地球を訪れる、地球とほぼ同じ大きさの氷(水)で組成された彗星「天体M」によるものと記述されている。地球軌道に近づくにつれ、「天体M」は水の天体となり、地球に接近した時には大音響と共に、地球に約600京トンの水をもたらした。

 

その洪水(津波)は、直撃地点付近で8750メートルとなり地球全域を覆い、地球上の海面を100メートル以上上昇させた事が原因であるとし、さまざまな洪水伝説との類似点も検証している。地球は、惑星としてはあまりにも水が多く、その原因として著者は「天体M」を仮説として考えた。現在は、地球に向かって来る後半の1500年以内に相当するものであると記述されている。疑似科学の一種であり、飛鳥昭雄などは、この説を継承している。

 

現在の黒海が形成された際の洪水や(黒海洪水説)、エトナ山噴火に伴う津波が大洪水の原因という説が最近あげられつつある。

 

洪水物語の比較

 ギルガメシュ叙事詩(11 84-85   創世記(6-918-19

 

共通点

神の怒り

英雄は大洪水が起こると、前もって神の警告を受ける。

英雄は神から、具体的な船の作り方の説明を受ける。ウトナピシュティム:「船の床面が正方形」(Tablet XI 24 and 28-30)(Genesis 14-16)

英雄は自身の家族と動物を乗船させる。

英雄は洪水の具合を確かめるために、長い昼夜、雨の後に3羽の鳥を放つ。(Tablet XI 145-154) (Genesis 7-11)

 

山の頂上に着地

洪水が引き始めると、船は山の頂上に着地。バビロニア神話;ニシル山。聖書:アララト山

 

事後

ギルガメシュは洪水後、洪水の生存者で不死を求める冒険の途上であった、ウトナピシュティム(Utnapishtim)と彼の妻に出会う。

 

きっかけ

エンリル神が、人間の騒々しさを静めるために洪水で彼らを破壊することを決めるが、エア神(Ea)は人間が可哀想に思い、ウトナピシュティムと彼の家族を救う(ギルガメシュ叙事詩)

神が地をきれいにするために、洪水を起すことを決める(創世記)

 

物語の結末

ウトナピシュティムと彼の妻は、試練を乗り越えたとして神から不死を授かり、楽園に住む(ギルガメシュ叙事詩)

ノアは神から二度と洪水を起さないと、虹の契約を受ける(創世記)

出典 Wikipedia

2020/12/22

三国時代(2)

  http://timeway.vivian.jp/index.html

 孫権が長江下流を中心に建国したのが(222~280)。首都は建業、現在の南京です。この国も、南方土着豪族の勢力を結集してつくられました。

 

 劉備が現在の四川省を中心に建てたのが(221~263)。首都は成都。この人は有名な『三国志演義』という物語の主人公。関羽、張飛などの豪傑を従えて黄巾の乱の鎮圧に活躍して、やがて諸葛亮という軍師を迎えて蜀の君主になる。物語も現実も、こういう筋書きは同じです。ですが、彼らの歴史上の実像よりも、物語での活躍の方が有名になってしまって虚像が一人歩きしている感じだね。中国でも古くから講談や演劇の題材になり、今でもテレビドラマや映画になっている。

特に劉備の武将関羽は人気があって、神様としてまつられています。関帝廟というのがそれで、蓄財の神様になっている。横浜の中華街にもあります。

 

 軍師の諸葛亮は、物語の中ではもの凄い知謀の持ち主で、彼の立てた作戦や政策はピタリと的をついて、劉備を一国の君主に押し上げていくわけですが、劉備が諸葛亮を自分の家臣にするのに、こんなエピソードがある。


 「三顧(さんこ)の礼」というのです。


 劉備は早くから関羽、張飛などと一旗揚げて活躍し、有名になっていくのですが、なかなか曹操や孫権のように、一国一城の主として自分の地盤をつくれない。あちこちの地方の太守の居候(いそうろう)、客将暮らしをしているのです。そんな時、諸葛亮という知謀の士がいると聞く。彼を部下にできれば、大きく発展することができるだろうというんだね。諸葛亮は田舎にこもって、誰にも仕えていない。


 そこで劉備は、諸葛亮の隠遁場所に訪ねていく。ところが、諸葛亮は留守。劉備は諦めきれないので、もう一度自ら出向いていくんですが、またもや留守。普通ならこれであきらめるのですが、どうしても自分の参謀に迎えたいので、もう一回訪ねていきます。これが三回目。そうしたら、今度はいた。ところが諸葛亮は、お昼寝の最中だった。劉備は昼寝の邪魔をしては諸葛亮先生に申し訳ないといって、彼が目覚めるまでじっと待っているの。


 やがて、諸葛亮目が覚める。三度も自ら訪ねて来てくれて、しかも自分が寝ているのを起こそうともせずに待っていてくれたというので、すっかり感激して劉備に仕えることになった。
 これが三顧の礼。三回訪ねて、隠遁している先生を引っぱり出してきたというのだ。

 これは物語の山場のひとつなのですが、実際にもあった話らしい。


 しかし、考えてみると変な話で、劉備は一度も会ったこともない諸葛亮をどうしてそんなに家来にしたかったのか。まだまだ勢力は小さいとはいえ、劉備はすでに有名人で、将来は大きな野望をもっているわけでしょ。軽々しく自分から無位無冠の、しかも年下の人間を腰を低くして迎えるというのは、自分の値打ちを下げるような行為なのです。特にメンツを重んじる中国的な発想ではね。

 

 この三顧の礼の背景には、こんな事情があったんです。


 劉備とは、一体何者か。彼は漢の皇帝家の血筋を引いているといっていますが、こんなのはだいたいハッタリで、なんの身分もない庶民出身です。田舎では、筵(むしろ)売りをやっていたという。黄巾の乱で、チャンスをモノにして成り上がっていくのですが、所詮身分が低い。


 後漢が崩壊していく過程で地方権力を打ち立てていくのは、みな豪族だったでしょ。曹操も豪族。孫権も豪族。でも劉備はそうじゃない。だから、どうしても彼らの仲間入りができないのです。


 諸葛亮は一体、何者だったのか。かれは大豪族の一員なんですよ。諸葛家というのは、中国全土に知られた大豪族だった。諸葛亮にはお兄さんがいるんですが、兄さんは呉の孫権に仕えているのです。大臣にまでなっている。又従兄弟(またいとこ)がいて、こっちは曹操に仕えている。つまり、魏や呉にとっても、諸葛一族は自分の味方にしておきたいような大豪族。諸葛亮は、そういう豪族の一員なんです。


 つまり、劉備が諸葛亮を家臣にできれば、「ああ、あの諸葛一族の諸葛亮が劉備に仕えたのか。ならば、劉備も豪族仲間の味方と考えてやろう」と全国の豪族たちが思ってくれる。豪族勢力に認知される、ということになるのです。例えていえば、私が銀行に行って一億円貸してくれといっても絶対ダメだけれど、ソニーかトヨタの社長さんが保証人になってくれれば、すぐに借りられるようなモノです。

 実際、諸葛亮を迎えてからの劉備は、トントン拍子で蜀の国を建てます。蜀の地方の豪族たちが、彼を君主として仰ぐことに賛同した背景には、諸葛亮の存在は大きかったと思います。

 これほどに、豪族の力を無視しては何もできなかった時代だったのです。逆にいえば、誰も全国の豪族勢力をひとつにまとめられなかったから、中国が分裂したのでした。

2020/12/21

ピュロン

 ピュロン( ギリシャ語Πύρρων PyrrōnPyrrho、紀元前360年頃 - 紀元前270年頃)は古代ギリシア、エリス出身の哲学者であり、古代の最初の懐疑論者として知られており、アイネシデモスによって紀元前1世紀に創始された「ピュロン主義」の起源として知られている。

 

ディオゲネス・ラエルティオスは、アポロドーロスを引用して次のように述べている。ピュロンはもともと画家であり、彼の絵はエリスの学校に保存されていた。後にデモクリトスの著作によって哲学の道へと導かれ、ブリソンやスティルポによってメガラ派の弁論術に習熟するようになった。

 

アナクサルケスによれば、ピュロンはアレクサンドロス3世(大王)の東征に随い、インドでは裸の哲学者たち、ペルシアではマギたちに学んだとされる。東洋哲学からみると、彼は孤独な生活を受け入れていたように映ったようである。エリスに戻ってからは貧困に生きたが、エリス人たちは彼を尊敬し、またアテネ人たちは彼に市民権を授与した。彼の思想は主に、弟子のプリウスのティモンによる風刺文学によって知られている。

 

ピュロンの思想は、不可知論'Acatalepsy'という一言で言い表すことができる。不可知論とは、事物の本性を知ることができない、という主張である。あらゆる言明に対して、同じ理由付けをもってその逆を主張することができる。そのように考えるならば、知性的に一時停止しなければならない、あるいはティモンの言を借りれば、いかなる断定も異なった断定に比べてより良いということはない、と言えるだろう。そしてこの結論は、生全体に対してあてはまる。それゆえピュロンは、次のように結論付ける。すなわち、何事も知ることはできない、それゆえ唯一適当である態度は、アタラクシア(苦悩からの解放)である、と。

 

ピュロンはまた、知者は次のように自問しなければならないと言う。第一は、どのような事物が、どのように構成されているのか。次に、どのように我々は事物と関係しているのか。最後に、どのように我々は事物と関係するべきか。ピュロンによれば、事物そのものを知覚することは不可能であって、事物は不可測であり、不確定であり、あれがこれより大きかったり、あれがこれと同一だったりすることはない、とされる。それゆえ、我々の感覚は真実も伝えず、嘘もつかない。それゆえ、我々はなにも知ることがない。我々は、事物が我々にどのように現れてくるか、ということを知るだけなのであり、事物の本性がいかなるものか、ということについては知ることがない。

 

知識を得ることが不可能だということになれば、我々が無知だとか不確実だという点を考慮に入れても、人は無駄な想像をして議論を戦わせて、いらいらしたり激情を抱いたりすることを避けるだろう。ピュロンによるこの知識が不可能だという主張は、思想史的には不可知論'Agnosticism'の先駆であり、またその最も強い主張である。倫理学的には、ストア派やエピクロス主義の理想的な心の平安と比較される。

 

重要な点であるが、懐疑論の定める基準によれば、ピュロンは厳密には懐疑論者ではない。そうではなく、彼はむしろ否定的ドグマ主義者'negative dogmatist'であった。世界において事物がいかにあるか、という視点からみるならば彼は「ドグマ主義者」であり、知識を否定するという面から見るならば、彼のドグマは「否定的」なのである。

 

ピュロンは紀元前270年頃、懐疑論に束縛されるあまり、不運な死を遂げたと言われている。伝説によれば、彼は目隠しをしながら弟子達に懐疑主義について説明しており、弟子達の、目前に崖があるという注意を懐疑したことにより、不意の死を迎えたと言われている。しかし、この伝説もまた疑われている。

 

懐疑主義

懐疑主義(米: skepticism、英: scepticism)とは、基本的原理・認識に対して、その普遍妥当性、客観性ないし蓋然性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義(独: Dogmatismusないし独断論という。

 

懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない、あるいは無神論へとつながる破壊的な思想として、論難されることが多かった。これは、懐疑主義が懐疑の結果、普遍妥当性および客観性ないし蓋然性ある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥って不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったからである。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語られることが多い。

 

経験的な証拠が欠如している主張の真実性、正確性、普遍妥当性を疑う認識論上の立場、および科学的・日常的な姿勢は科学的懐疑主義と呼ばれる。

 

古代懐疑主義

懐疑主義は、西欧においてはエリスのピュロン(前365/360年頃ー前275/70年頃)の思想から始まった。ピュロン自身は著作を残しておらず、またその弟子のティモン(前325/320頃ー前235/230年頃)による彼の言行録も断片しか残っていないので、ピュロンの思想がどのようなものであったのか、その後のピュロン主義とどの程度まで一致するのかは不明である。

 

ピュロン主義者の中で唯一、著作が現存しているセクストス・エンペイリコス(200年頃活躍)の著作のひとつ『ピュロン主義哲学の概要』によれば、懐疑主義はピュロン主義とも呼ばれるが、それはピュロンの思想だからではなく、古代の懐疑主義者の中でピュロンが最も懐疑主義に専念したからであった。

 

アタラクシア

ピュロンとその流れをくむ懐疑派(ピュロン主義)にとっては、アタラクシアというのは、心の乱れの原因となる判断を停止すること(エポケー)で得られる心の平静を言った。

 

ピュロン主義者にとって、知覚に基づいた印象のうち、どれが正しくどれが間違いかをいうことができないので、根拠がないのに独断的な答えを出すような判断は保留することから生まれるのがアタラクシアである。
出典 Wikipedia

2020/12/19

サーンキヤ学派(インド哲学4)

サーンキヤ学派(サンスクリット語: सांख्यkhya)とは、ダルシャナ(インド哲学)の学派のひとつで、シャド・ダルシャナ(六派哲学)の1つに数えられる。世界の根源として、精神原理プルシャ(神我、自己)と物質原理プラクリティ(自性、原質)という、2つの究極的実体原理を想定する。厳密な二元論であり、世界はプルシャの観照を契機に、プラクリティから展開して生じると考えた。

 

サーンキヤ学、あるいはサーンキヤとも。またसांख्य サーンキヤは「数え上げる」「考え合わせる」という意味で、数論派、数論学派とも。

 

また、夏目漱石に影響を与え、無関心こと非人情をテーマにした実験的小説『草枕』が書かれた。

 

歴史

サーンキヤ」という語は『マハーバーラタ』において、知識によって解脱するための道のことを意味していた。

 

時系列的に古いところから説明すると、サーンキヤ学派を開いたのはカピラでその弟子にパンチャシカがいた、とされている。だが、カピラやパンチャシカについて伝承されていることはあまりに伝説的で、彼らについて確かなことはよく分かっていない。サーンキヤ思想を特徴づけている二元論的な考え方は、カピラが思いついたといったものではなく、時代を遡れば『リグ・ヴェーダ』にあったものである。サーンキヤの特徴的な諸概念は『マハーバーラタ』の一部をなす『バガヴァッド・ギーター』(紀元前数世紀ころの文献)に残されている。

 

他に、サーンキヤ思想に言及するものには「モークシャ・ダルマ」、医学書『チャラカ・サンヒター』などがある。仏教の『ブッダチャリタ』でも言及されている。こうした資料によって、ひとことでサーンキヤと言っても、初期には様々な説が含まれていたことが判っている。それらの様々な説が3世紀ごろ、ヴァールシャガニヤの『シャシュティ・タントラ』において体系化され、教義化したのだろうと考えられている(ただし、『シャシュティ・タントラ』は現存せず、その内容については、あくまで他の文書内での言及をもとにして推察されているにすぎない)。

 

45世紀ころに、イーシュヴァラクリシュナによって『サーンキヤ・カーリカー(頌、じゅ)』という学説綱要が書かれたが、これは現存する最古のテキストである。この書は「『シャシュティ・タントラ』の要点をまとめた」とも語られるが、実際には『シャシュティ~』の後に生まれた思想も含めて解説されている。ここまでが「古典サーンキヤ」と呼ばれている。

 

15世紀ころに『サーンキヤ・スートラ』、16世紀ころに『タットヴァ・サマーサ』が書かれた。これらの内容は、古典的学説に沿ったものである。このころには、サーンキヤ学派は衰退しており、ヴェーダンタ学派が優勢になっていた。16世紀後半になると、ヴィジュニャーナビクシュが『プラヴァチャナ・バーシャ』という、『サーンキヤ・スートラ』についての注釈書を著したが、これは勢力優勢なヴェーダンタに追いつくために有神論的な考え方を採用したものである。

 

思想

サーンキヤ学派は厳密な二元論を特徴とし、その徹底性は世界の思想史上でも稀有のものである。世界はある一つのものから展開し、あるいはこれが変化して形成されるという考え方をパリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)といい、原因の中に結果が内在するという因中有果論であるが、ヴェーダ・ウパニシャッドの一元論や、プラクリティ(根本原質)からの世界展開を主張するサーンキヤ学派は、これにあたる。精神原理であるプルシャは、永遠に変化することのない実体であるとし、それに対し物質原理であるプラクリティを第一原因とも呼ぶ。プラクリティには、サットヴァ(sattva/ सत्त्व 、純質)、ラジャス(Rajas/ रजस्、激質)、タマス(tamas/ तमस्、翳質・闇質)という相互に関わるトリ・グナ(3つの構成要素, 三特性、三徳)があり、最初の段階では平衡しており、平衡状態にあるときプラクリティは変化しない、とする。

 

しかしプルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる。プラクリティから知の働きの根源状態であるブッディ(Buddhi, 覚)またはマハット(mahat, 大)が展開され、さらに展開が進みアハンカーラ(Ahamkāra, 我慢または我執, 自我意識。アハンは「私」、カーラは「行為」を意味する)が生じる。アハンカーラの中のトリ・グナの均衡がラジャスの活動によって崩れると、これからマナス(意, 心根、Manas、思考器官)、五感覚器官(Jnānendriyas、五知根、目・耳・鼻・舌・皮膚)、五行動器官(Karmendriyas、五作根、発声器官・把握器官(手)・歩行器官(足)・排泄器官・生殖器官)、パンチャ・タンマートラ(五唯または五唯量、Pancha Tanmantra、五微細要素, 五つの端的なるもの)が展開して生じる。

 

パンチャ・タンマートラは感覚器官によって捉えられる領域を指し、声唯(聴覚でとらえる音声)・触唯(皮膚でとらえる感覚)・色唯(視覚でとらえる色や形)・味唯(味覚でとらえる味)・香唯(嗅覚でとらえる香り・匂い)である。この五唯から五大(パンチャ・ブータまたはパンチャ・マハーブータ(pancha Mahābhūta)、五粗大元素[7])が生じる。五大は、土大(Pruhavī, プリティヴィーもしくはBhumi, ブーミ)・水大(Āpa, アープもしくはJala, ジャラ)・火大(Agni, アグニもしくはTejas, テジャス)・風大(Vāyu, ヴァーユ)の4元素に、元素に存在と運動の場を与える空大(Ākāsh, アーカーシャ, 虚空)を加えた5つである。プルシャは、このような展開を観察するのみで、それ自体は変化することがない。

 

「プルシャ、プラクリティ、ブッディ(マハット)、アハンカーラ、十一根(マナス・五感覚器官・五行動器官)、パンチャ・タンマートラ、パンチャ・ブータ」を合わせて「二十五諦」(二十五の原理)と呼ぶ。(「諦(Tattva)」は真理を意味する。)

 

ブッディは、プラクリティから展開して生じたもので、認識・精神活動の根源であるが、身体の一器官にすぎず、プルシャとは別のものである。ブッディの中のラジャスの活動でさらに展開が進み、アハンカーラが生じる。これは自己への執着を特徴とし、個体意識・個別化を引き起こすが、ブッディと同様に物質的なもので、身体の中の一器官とされる。

 

アハンカーラは、物質原理であるプラクリティから生じたブッディを、精神原理であるプルシャであると誤認してしまう。これが輪廻の原因だと考えられた。プルシャは、プラクリティを観照することで物質と結合し、物質に限定されることで本来の純粋清浄性を発揮できなくなる。そのため「ブッディ、アハンカーラ、パンチャ・タンマートラ」の結合からなり、肉体の死後も滅びることがない微細身(みさいしん、リンガもしくはリンガ・シャリーラ(ligaśarīra))は、プルシャと共に輪廻に囚われる。

 

プルシャは、本性上すでに解脱した清浄なものであるため、輪廻から解脱するには自らのプルシャを清めて、その本性を現出させなければならない。そのためには、二十五諦を正しく理解し、ヨーガの修行を行わなければならないとされた。サーンキヤ学派はヨーガ学派と対になり、ヨーガを理論面から基礎付ける役割を果たしている。

 

また、サーンキヤ学派は、夏目漱石に影響を与えたことでも知られる。この学派では、涅槃(寂静、寂滅。輪廻の苦しみが絶たれた絶対的幸福)は、プルシャ(自己)がプラクリティ(世界)に完全に無関心となり、自己の内に沈潜すること(独存、カイヴァリヤ)だと考えた。夏目漱石は、一高時代に井上哲次郎の東洋思想の講義を受講し、サーンキヤ哲学の講義を受けて深く感銘を受け、無関心こと非人情をテーマに『草枕』を著した。

2020/12/13

三国時代(1)

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三国時代

 後漢滅亡後、中国は長い分裂時代に入っていきます。一時的な統一の期間はありますが、だいたい350年ほど分裂がつづきます。

*        その最初が三国時代です。
 魏、呉、蜀という三つの国に分裂します。

*         

  まず「」(220~265)です。都は洛陽。これが後漢に取って代わった国です。中国北部を支配した。三国の中で最大最強です。建国者は曹操、曹丕(そうひ)。事実上は曹操がつくった国ですが、彼は皇帝にならずに死んで、息子の曹丕の代になって、後漢最後の皇帝から位を奪って魏の初代皇帝になる。だから、一応形式的には建国者は曹丕

 曹操は、もちろん豪族ですね。お爺さんが宦官で財産を築いた。宦官でも、養子をとって家を残すことがあるのです。黄巾の乱の鎮圧で頭角を現して、その他大勢の豪族を傘下に治めます。三国志の物語に出てくる彼の部下、武将や参謀、あれはみんな豪族だからね。それぞれ手勢を率いて、曹操の配下に加わってくるのです。

 曹操が強かった理由は、色々ある。例えば、後漢末の群雄割拠の時代に、
呂布(りょふ)というスーパーマンみたいに強い豪傑がいるんですが、なぜ彼が強いかというと匈奴兵を率いていたんですね。彼自身も現在の内モンゴル出身で、遊牧民族の血を引いていたのかもしれない。遊牧民は騎射に優れて勇猛です。その呂布が死んだ後、その軍隊を曹操はそっくりそのまま自分の軍隊に吸収します。
 それから青州兵という黄巾軍の残党まで、自軍に編成しています。何でも利用できるものは利用します。

 

 三国時代で、曹操は一番魅力的な人物です。彼の魅力の根本は、従来の儒学の道徳から解き放されているところにある。曹操は法家だともいわれます。先ほど、党錮の禁以来「逸民」的な生き方がブームになったといったけれど、逸民というのは世間から逸脱(いつだつ)しているのです。この逸脱、ということの中身には儒学的な道徳からの逸脱ということも含まれている。そういう意味では、法家的な曹操も逸民と同じ根っこを持っています。だから、その行動にも大胆不敵で爽快なイメージがつきまといます。

 政治、軍事だけでなく、文学の才能にもあふれた人でした。曹操だけでなく、息子の曹丕や曹植(そうしょく)も文才があって、「建安の文学」といって中国文学史上、黄金期のひとつに数えられる時代です。彼らはみな、その「建安の文学」を代表する詩人でもあります。

 曹操の詩をひとつ紹介しておこう。

短歌行 曹操

酒に対わば当に歌え
人生幾何やある
譬えば朝露にも如たり
去日苦も多きことよ
慨らば当にもって慷け
憂思忘れ難し
何に以てか憂を解さん
唯杜康有るのみ
……
山 高きを厭わず
海 深きを厭わず
周公哺を吐きたれば
天下心帰せたりとかや

さけにむかわばまさにうたえ
ひとのいくるやいくばくのときやある
たとえばあさつゆにもにたり
すぎにしひびさてもしげきことよ
おもいたぎらばまさにもってなげけ
こもれるおもいわすれがたし
なにによりてかむすぼれるおもいをけさん
ただうまざけあるのみ
 ……
やま たかきをいとわず
うみ ふかきをいとわず
しゅうこうくちのなかのたべものをはきたれば
あまがしたこころよせたりとかや

(竹内実・吉田富夫編訳「志のうた」中公新書より)

 人生なんていうのは、朝露のように短く儚いものだけれども、振り返ってみれば色々な出来事が思い出されて、ゴツゴツと胸に引っかかる。
 そんな時には、うまい酒を飲んで歌おうではないか。
 山は高いことを嫌がらないし、海は深いことを嫌がらない。
 周の建国の功臣、周公旦(しゅうこうたん)は仕官したい者や政治について意見を持つ人がやってくれば、食事中であっても口の中のモノを吐き出してまでも、すぐに面会した。だから、みんなが心服したんだ。

 そんな意味です。周公旦に自分を重ねているのは、わかりますよね。山が高いように、海が深いように、周公旦がそうであるように、俺、曹操もそのようにあるのだ。
 彼の気概が伝わってくるようだね。

 魏の制度では、屯田制と九品中正法を覚える。屯田制は、後漢末の戦乱で混乱した農業生産を回復させるための土地制度です。


 九品中正法は、漢の郷挙里選に代わる官吏登用制度です。地方に中正官という役人を置いて、これが地方の人物を九等級に分けて中央に推薦する。中央政府は、これに基づいて役人を採用していきます。

 

 後漢末、中国北部を統一した曹操は、南方に攻め込みます。これを迎え撃ったのが孫権、劉備の連合軍。長江中流域で決戦になるのですが、水軍に慣れない曹操軍は大敗する。これが有名な赤壁の戦いです(208)。この敗北で曹操は統一を諦め、中国の分裂が決定的になりました。