2021/05/31

五胡十六国時代(2)

前秦の華北統一

同じ頃、後趙の支配力が及ばなくなった陝西地方では、氐族の苻洪が秦王を名乗り、息子の苻健が長安に入って秦皇帝に即位した。彼らの建てた国は、前秦と呼ばれる。

 

一連の混乱に乗じて、東晋の将軍桓温は成漢を滅亡させて四川を東晋の版図に組み入れ、354年に北伐を行い前秦を攻めるが撃退された。桓温は一旦兵を引き上げるが、356年に再び北伐を行い、洛陽を占領した。

 

前燕では、慕容恪の指揮の下、後趙や段部などの残党を平定し、河南にもその勢力を拡大していた。360年に慕容儁が死去すると息子の慕容暐が継いだが、若年であったため叔父の慕容恪が実質的な指導者となった。慕容恪は前燕の勢力をさらに拡大、3648月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えた。

 

360年中頃には前燕が華北の東を前秦が西を領有して、前趙・後趙の時と同じように東西での睨み合いの状態となった。

 

苻健の後を継いだ苻生は横暴で周囲の不満を買い、従弟の苻堅によるクーデターで殺害された。苻堅は優れた人物で、漢人の王猛を登用してその献言に従い、370年には慕容恪の病死により揺らいでいた前燕を滅ぼし、華北最大の勢力となった。

 

苻堅は、371年には甘粛に拠っていた仇池を、376年には山西北部に割拠する鮮卑拓跋部の代と前涼を滅ぼして華北を統一した。更に朝鮮半島の高句麗と新羅を朝貢国とし、勢力は大きく奮った。

 

淝水の戦い

更に苻堅は、中国の統一を目指して東晋遠征を計画する。王猛は375年に死去しており、臨終の際に東晋への遠征は止めるよう遺言した。しかし苻堅はこれを聞き入れず、遠征を決行する。

 

383年、苻堅は100万と号する親征軍を南下させた。これに対する東晋軍は、謝安を大都督とした8万で迎え撃った。両軍は、淝水(現在の安徽省寿県)を挟んで対峙する。前秦軍は一旦、兵を後退させ、東晋軍が河を渡った所で攻撃しようとした。しかし後退させた事で陣形が崩れ、そこを東晋軍に突かれて大混乱に陥り、前秦軍は大敗した(淝水の戦い)。

 

前秦軍は様々な民族の混成であり、先の戦いで東晋から捕虜となっていた将軍なども起用されていた。苻堅は残軍を纏めて帰還するが、これを見た配下の諸部族は反旗を翻した。旧前燕の領土には後燕が、山西では代と西燕、陝西には後秦・西秦が、甘粛には後涼が建国された。更に、その後の混乱から陝西に夏、甘粛に北涼・南涼・西涼、山東に南燕などが乱立し、華北は再び騒乱状態となった。

 

これらの国々が乱立する中で、前燕の慕容儁の弟の慕容垂によって建てられた後燕と、羌の族長姚萇によって建てられた後秦が次第に強大となる。394年に後燕は西燕を、同年に後秦は前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、両者の睨み合いとなるかと見えた。しかし、代から改称した鮮卑拓跋部による北魏と、後秦から独立して建国した匈奴の赫連勃勃の夏が、次第に強大となる。

 

後燕は、395年に北魏に対して遠征を行ったが大敗した(参合陂の戦い)。翌年に慕容垂が死去し、398年には慕容垂の弟の慕容徳が離反して南燕を建て、更には北魏に領土の大半を奪われるなど、後燕は一気に頽勢となった。407年、漢人の馮跋が高句麗の王族出身の慕容雲(元の名は高雲)を擁立したことで、後燕は滅亡する。馮跋の政権は北燕と史称されるが、保持した領地は遼東と遼西のみの狭い地域である。

 

後秦の躍進と夏の独立

後秦は、400年前後の最盛期の姚興の代に周辺国(西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀)を一時的に従えた。しかし402年に北魏に大敗し(柴壁の戦い)、また西秦や後涼との抗争を続けていた407年に、配下の赫連勃勃が自立して夏を建て、騎馬を活かした攻撃を仕掛けて後秦の国力を疲弊させた。最終的に後秦は417年に東晋の劉裕(南朝宋の創始者)が率いる遠征軍により滅ぼされた。劉裕は南燕も410年に滅ぼしており、これらの軍功を以って420年に東晋から禅譲を受けて宋を建てた。

 

417年、劉裕が長安(後秦の首都)から東晋に引き上げると、赫連勃勃は長安を奪取し、夏は華北において北魏と並び立った。

 

北魏の華北統一

赫連勃勃は425年に死去し、後継である子の赫連昌は427年に北魏によって夏の首都・統万城を落とされ、翌年に捕虜となる。次に即位した弟の赫連定も北魏に大敗し、431年に西秦を滅ぼすも吐谷渾によって北魏に送還され、処刑された。北魏は436年に北燕を滅ぼし、439年には甘粛地方を統一していた北涼を滅ぼして華北を統一した。これを以って五胡十六国時代は終わり、南北朝時代の始まりとなる。

 

宗教

五胡十六国時代は、それ以前の中国における宗教の概念を一変させた時代であると言える。その最大の特徴は、外来宗教である仏教の受容の仕方に現れている。五胡の君主の大多数は非漢民族(異民族)ではあったが、儒教を尊崇する君主もあれば、老荘思想を志向する者も見られた。そんな中で当時の社会不安が高まり、戦乱が打ち続く華北において飛躍的に拡がったのは、仏教であった。

 

魏晋の社会では、仏教は依然として外来の宗教であったが、五胡の君主達は、自らが仏教徒となると共に、仏教による民衆教化を図った。

 

五胡の君主達は高僧を霊異ある者として遇し、政治顧問や軍師として用いる例も多かった。よく知られる例は、後趙の石勒と石虎に崇拝された仏図澄である。仏図澄の門下は、釈道安や竺僧朗らの漢民族の高僧を輩出し、仏教をより広い地域に広めた。

 

前秦の苻堅は、襄陽の道安を武力によって獲得し、さらに道安の推薦で亀茲で名高かった鳩摩羅什を長安に迎えようとした。しかし亀茲から迎え入れる最中に前秦は実質的に滅び、鳩摩羅什は後涼に留まることになった。最終的には後秦の姚興が鳩摩羅什を長安に迎え入れ、盛んに訳経事業を行った。後秦は、中国において仏教の国家支援をした最初の国である。

 

泰山に入った僧朗には、東晋の孝武帝を含む6人の君主が施物を献じて、自らの国に迎えようとした。

出典 Wikipedia

2021/05/29

華厳経と法華経 ~ 大乗仏教(2)

 出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

5. 華厳経

 大乗仏教では信仰の対象となるブッダに関する考察が進み、ブッダの現れ方を応身(おうじん)・報身(ほうじん)・法身(ほっしん)の三種に分けて考える三身(さんじん)説が現れる。

 「応身仏」とは、歴史的に存在したブッダ、すなわち衆生の救済のために身体をもって現れた仏である。

 「報身仏」とは、阿弥陀仏、薬師如来など、悟りの果報として現れた完全円満な永遠の存在である。

 「法身仏」とは、仏の本体はその教え、すなわち仏法にあるとして、これが人格化された仏である。

 『華厳経』では、釈尊が法身である毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)と同化され、あらゆる差別相を有するこの世も、真実には釈尊の成道によって実現した真理の世界(法界、ほっかい)であるとする。

 小さな塵の粒、一本の毛の穴の中にも無数の仏国土がある(一即一切、一切即一)。そのような迷いの世界は、その本性において空であり、そのまま悟りの世界である。衆生が輪廻する三つの領域(欲界・色界・無色界の三界)の存在は、すべて心から現れるという唯心説を説く。

 全八会からなるうち、サンスクリット原典が残っているのは、第六会十地品と最後の入法界品だけである。前者は菩薩の修行が深まる段階を10に分けて説く、また後者は善財童子が教えを求めて53人のさまざまな職業の人々を訪ね歩く求道の物語である(東海道五十三次は、これにちなんで定められた)

 

6. 法華経

 『法華経』は『妙法蓮華経』の略である。サンスクリット本は 27の章からなる。各章の成立は年代が異なり、紀元後 50年から 150年にかけて成立したものであるが、全体として調和はとれている。

 

 巧みに比喩を用いて(「法華七喩」といわれる。なかでも三車火宅の喩え(比喩品)、長者窮子の喩え(信解品)が有名)、文学的に大乗仏教の教理を説く。初期大乗仏典を代表するもので、古来多くの人々から高い評価と信仰を集めてきた。

 

 主な内容としては、大乗と小乗の対立を越えたところに統一的な真理があること(一乗妙法、いちじょうみょうほう)、ブッダが永遠不滅の存在であること(久遠本仏、くおんほんぶつ)、苦難を堪え忍び、慈悲の心をもって、利他の行に励むこと(菩薩行道、ぼさつぎょうどう)が説かれる。

 

 「一乗妙法」は、『法華経』前半の主題である。もっとも鮮明に現れるのは方便品である。

 

 大乗仏教は旧来の仏教を小乗仏教と呼んで蔑んだ。小乗は声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)である。声聞は自己の悟りを得ることに専心する。縁覚あるいは独覚は十二縁起を観察してひとりで理法を悟る。かれらは大乗の菩薩のようには慈悲・利他の行を行わない。

 

 しかし、仏教を声聞、縁覚、菩薩の三つの乗り物に分解して説くのは、煩悩に眩まされた衆生たちを救済するための如来たちの巧みな方便である。すなわち、衆生の救済を誓願した如来たちは、様々な方便を説く。たとえば、戒・定・慧、塔の建立、仏像の作成、供養、礼拝、念仏、この教えの名をきくことなどもすべて、衆生が成仏できるように如来の説いた方便であるが、それらのどれによっても、正しい悟りに到達できるとする。

 

 悟りに至る方法が方便としては分けて説かれていても、真実にはブッダの乗り物はただ一つで、第二、第三の乗り物があるわけではないというのである。この教えは、また「開三顕一」ともいわれる。

 

 「久遠本仏」とは、如来の寿命が無限であることを説くもので、如来寿量品をはじめとする『法華経』後半の主題である。

 

 釈尊は入滅したといわれるが、実はそうではない。無限の過去において悟り、それ以来無数の衆生を教え導き、無限の未来においても存在し続ける。しかし、入滅したと説かなければ、衆生たちは如来が常にいると思い、如来への思いが薄れる。そのようなことがないようにするため、方便として「如来の出現は極めて稀である」と説き、釈尊は入滅したとされるというのである。

 

 「菩薩行道」は、『法華経』の中間部、法師品から如来神力品において強調される。そのうち、常不軽菩薩品には、理想の菩薩像が描かれる。

 

 常不軽(じょうふきょう)菩薩は、すべての人を将来如来になるものとして決して軽蔑しなかった。そのため逆に人々から軽蔑され迫害されたが、屈することなく菩薩行を全うする。

 

 『法華経』に特徴的なことは、『法華経』そのものへの信仰を説く点にある。たとえば、常不軽菩薩品では、この経典を奉ずる人には幸福が訪れ、非難するものには災難が降りかかると説く。

 

 法師品や如来神力品では、法華経が受持、あるいは読誦、解説、書写、熟考されたところには塔を立てよという。その場所は、すべての如来たちの悟りの座とみられるべきで、まさしくそこで如来たちは最上の正しい悟りをひらき、教えの輪を転じ、完全な涅槃に入ったと知られるべきだからである。

 

 いま自分の立つこの箇所が聖なる菩提の座になるという教えは、古来多くの人の心を打った。

 

 随の時代の中国において、智顗(ちぎ 538-597)は、数多くある仏典中で『法華経』を最上に位置づけ、それによって教理体系を統一して、天台宗を開いた。

 

 平安時代に最澄 (767-822) は入唐して天台宗を日本へ伝え、これを広めるため比叡山延暦寺を建立した。以来、この経典が日本に及ぼした影響ははかりしれない。

 

7. 無量寿経ーー本願と極楽浄土

 『無量寿経』は、法蔵菩薩が一切の衆生の救済を誓願(本願)し、偉大な菩薩行を行って、如来となる経緯を明らかにする。

 

 この如来は、無量の威光があるから、アミターバ(無量光、阿弥陀)と呼ばれ、無量の寿命を有するからアミターユス(無量寿)と呼ばれる。

 

 ついで、阿弥陀仏の西方の仏国土が七宝や黄金に飾られる荘厳な安楽に満ちたありさまが描かれる。この極楽の仏国土に、一切の衆生が阿弥陀仏の本願に基づいて行くことができる。そのためには仏の広大な慈悲を信じ念ずれば、臨終のとき多くの比丘の集団に取り囲まれた阿弥陀仏が、その前に立つと説く。

 

 阿弥陀仏の仏国土は、中国において「浄土」と呼ばれた。ここから浄土教が生まれ、東アジアに大きな影響を与えた。

2021/05/22

五胡十六国時代(1)

五胡十六国時代は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは、北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。

 

後漢末期から、北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。

 

五胡十六国という呼び名

五胡とは、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つのことである。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は成漢、前秦、後涼を、羌は後秦を、漢族が前涼、冉魏、西涼、北燕をそれぞれ建てた。

 

また、匈奴によって建てられた前趙、鮮卑慕容部によって建てられた前燕といった説明がされるが、これはあくまで中心となって建てた民族であり、その国家の中には複数の民族が混在していた。

 

」の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるので、近年使用が控えられるようになり、それに代わり東晋十六国の名前が使われるようになってきた。ただし、五胡十六国時代の範囲には、東晋滅亡後の20年ほども含むため、この用語も完全に適切とは言いがたい。

 

歴史

前漢の宣帝の時代に匈奴が分裂し、後漢の光武帝時代には醢落尸逐鞮単于が光武帝の下に入朝して、匈奴は漢朝領周縁に居住する事となった。後漢末期には、山西省北部に居住するものもいた。一方、北アジアの覇権は鮮卑に奪われる。

 

鮮卑は、2世紀・3世紀に檀石槐の元で北アジアに覇権を唱えたが、その後分裂した。

 

西にいた羌族は漢の統制下に入っていたが、何度か漢に対しての反乱を起こした。

 

氐族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていた。この氐族は漢化が進み、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていた。

 

また、三国時代には魏の曹操や曹丕が、周辺異民族の自国領周縁への移住政策を行った事もある。

 

内地へ移住した諸民族は、それまでの部族形態を維持したまま中国の傭兵として使われた場合が多い。

 

五胡十六国時代の幕開け

三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎であったが、統一後はだらしなくなり、女色に耽って政治を省みないようになる。その死後に即位した恵帝は暗愚で知られる皇帝であり、皇后の賈南風などに利用されるがままであった。賈南風等は自分達の権力を固めようと諸侯王たる皇族達を巻き込み、八王の乱と呼ばれる内乱を勃発させたため、国内は大騒乱となる。

 

この乱が大規模なものとなった理由として、晋が諸侯王に対して与えた兵力がかなり大きいものであった事が挙げられる。前代の魏は諸侯王の兵力を大きく削り、監視を厳しくして皇帝に対する反乱ができないように抑えつけた。結果、諸侯王は反乱を起こせなくなり、皇族間による内乱は発生しなかった。

 

一方、中央では短命な皇帝や幼帝が続いた事もあって、重臣の司馬懿が台頭するようになったものの、これを抑える力を持った諸侯王が登場する事もなかった。結果、魏は司馬氏による簒奪を許してしまったのである。

 

簒奪の結果成立した晋では、これを教訓に諸侯王に大きな兵力を与えたが、それが過ぎたため、今度は有力な諸侯王による権力争いが生じ、彼らは己の兵力を以って対抗し合ったため、乱は泥沼化した。諸侯王は友好関係にある塞外異民族を傭兵として用いた。

 

八王の乱は306年に終結するが、晋の国力衰退は明らかであり、匈奴の単于の家系である劉淵はこれを好機と見た。彼は八王の1人であった成都王司馬穎に従い鄴に駐屯していたが、都督幽州諸軍事王浚・并州刺史司馬騰の討伐を名目にして鄴から離れ、304年に山西の離石で自立して匈奴大単于を名乗り、漢と匈奴が兄弟の契りを交わしていた事を名目として漢王の座に就いた(劉淵死後に改称して前趙となる)

 

同年には、四川でも巴賨族の李雄が成都王を名乗って晋より独立した(後に国号を大成とし、更に漢と改称したので成漢と呼ばれる)。また甘粛では晋の涼州刺史であった張軌が自立し、前涼政権を建てた(王とは名乗らず晋に対して称臣していた)

五胡十六国時代の幕開けである。

 

華北王朝の興亡

劉淵は、匈奴の羯族出身である石勒や漢人の将軍王弥を従えて山西一帯を攻略し、308年には漢皇帝を名乗る。劉淵は310年に死去し、一旦は長男の劉和が後を継ぐが、人望が無く異母弟の劉聡が取って代わった。

 

劉聡は、翌311年に晋の首都洛陽を落として恵帝の弟の懐帝を虜にし、晋を実質上滅ぼした(永嘉の乱)。その後、長安では残党によって懐帝の甥の愍帝が擁立され、漢に対して抵抗を続けていたが、316年にこれを滅ぼして、晋を完全に滅亡させた。晋の王族であった司馬睿はそれ以前より南の建業(後に建康と改称)に居たが、愍帝が殺された事を聞くと、帝位に就いて晋を再興した。これは東晋と呼ばれ、前趙に滅ぼされた王朝は西晋と呼ばれる。

 

318年に劉聡は死去し、後継を巡って争いが起きる。これは最終的に族子(同族内の子供の世代にあたる者の事)の劉曜によって収められ、劉曜は即位して国号を趙(石氏が建国した後趙と区別するため、前趙と史称される)と改める。しかし、東方の攻略に出されていた石勒は襄国(現在の河北省邢台市)に拠って自立し、翌年には大単于趙王を名乗った。

 

石勒は、この時鮮卑の拓跋部・段部と結んで王浚や劉琨を討伐して河北・河南を領有し、山東の曹嶷も滅ぼし、洛陽を境に前趙とにらみ合った。その後10年程睨み合いが続くが、劉曜は次第に酒色に耽るようになった。

 

328年に劉曜は後趙に占領された洛陽を奪還するべく親征するが、石勒の従甥の石虎の軍に大敗して捕虜となり処刑された。残った太子の劉煕も翌年に石虎に敗北して殺され、前趙は滅亡、後趙が華北をほぼ統一した。石勒は翌年の330年に天王を名乗り、更に皇帝に即位した。石勒は333年に死去し、息子の石弘が即位するが、石虎が廃位・殺害して自ら即位した。

 

石虎は鄴に遷都し、鮮卑段部を滅ぼして後趙の最盛期を作った。一方で残虐な振る舞いが多く、溺愛していた息子の石韜が太子石宣によって殺されると、石宣を含めた一族を多数殺害した。

 

石虎が349年に死去すると太子の石世が即位したが、間もなくして石斌に殺害され、彼の兄弟達による後継者争いが起きた。この時に漢人で石虎の養孫の石閔は後趙の皇族らを殺して簒奪し、国号を魏と定めた。その際に、元の名である冉閔に戻している。彼が建てた国は、後に建国された北魏などと区別するために冉魏と史称されるが、短命に終わったため五胡十六国の中には入っていない。後趙の残党は、その後しばらく抵抗したが、351年に完全に滅亡した。

 

冉閔は石氏を筆頭とした羯族の連年の戦争と略奪を背景として、旧後趙領の漢人に異民族への復讐を呼びかける檄文を飛ばした。結果、漢人諸侯の決起と胡族同士の戦いによって数十万に上る胡人が殺害され、残った異民族は故郷への脱出を図った。史書によると無事に帰れた者は十に二、三と言われるほどであったという。しかし、東晋に対しても敵対した為、一部の漢人からも背かれた。

 

その頃、遼東では既に337年に鮮卑慕容部が慕容皝の元で前燕を立てており、次男の慕容儁が後を継いでいた。冉魏の混乱を見た前燕は中原へと進出を図り、慕容儁の弟の慕容恪は冉魏軍に連勝し、352年に冉閔を捕らえて殺害、冉魏を滅ぼして龍城から鄴に遷都、慕容儁は皇帝に即位した。

 出典 Wikipedia

2021/05/20

大乗仏教(1)

 出典 https://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch3

 

1. 大乗仏教の成立

西暦紀元の前後、西方でイエスの愛の宗教が生まれたのと同じ頃、インドにおいては慈悲を強調する大乗仏教が生まれた。

 

当時、部派仏教は学問的、哲学的な傾斜を強めていた。このような傾向に対抗して、仏塔(ストゥーパ)を崇拝する在家信者の間に熱烈な宗教運動が起こった。彼らは、ブッダへの信仰による救済を希求した。

 

ブッダの神秘化、神格化は原始仏教のごく早い時期に始まったと考えられる。しかし、自力主義を主とする原始仏教では、救済者の観念は明瞭ではない。大乗仏教では、如来、菩薩が明確に大慈悲心をもつ救済者として現れてくる。

如来は、元来「修行完成者」というほどの意味で、ブッダの多くある異名の一つであった。しかし、大乗仏教では、「衆生を救済するため、真理にしたがってこの世に到来した者」と解された。

 

原始仏教以来の過去仏の観念が拡大され、無数の仏国土に無数の仏(如来)が存在すると考えられるにいたる。その中でも、とりわけ多くの信仰を集めたのは阿弥陀仏、薬師如来などである。

 

菩薩(bodhisattva)は、古くは「悟りが確定している者」の意味で、悟りを得る(成道)前のブッダに対して使われた。しかし、大乗仏教では「悟りを求める者」と解釈され、大乗の信者が自分たちを指して用いるようになる。

 

そして、自分自身は輪廻の苦しみの世界から解脱し涅槃に到達しようとすればできるのに、他の多くの苦しむものを見て、あえて輪廻の世界にとどまり、かれらに対して慈しみ憐れむこころを持って救済につとめる「利他行」を行う者、という菩薩の理想像が形成された。

 

超人化され、信仰の対象とされた菩薩には、弥勒菩薩、観世音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩などがある。

 

2. 六波羅蜜(ろくはらみつ)

利他行を重んずる大乗では、それまでとは異なる修行法が説かれた。八正道は、自分ひとりの安らぎを目指すものとして低くみなされた。それに対し、利他行を含む六波羅蜜をより優れたものとして尊重した。

 

 六波羅蜜とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六つの徳目を完成させることである。

波羅蜜(pāramitā)は、到彼岸と訳されることもある。これはpāramitāpāram(彼岸)+ita(到達した)と分解し、波羅蜜の修行によって、彼岸に到達できると解釈するからである。伝統的には、そのように解釈されてきた。しかし、本来はpāramin+tā(最上であること、完成されていること)の意味である。最近では「完成」と訳される。六つの徳目を完成させることをいう。

 

 「布施」とは、与えること施すことで、財物を施すこと(財施)、教えを施すこと(法施)、安心を与えること(無畏施)の三種がある。

 「持戒」とは戒律を守ることである。

また戒めも五戒に代えて、十の戒め(十善戒)が説かれた。身体的な行いについては、不殺生、不偸盗、不邪淫の三、言葉の行いについては、不妄語、不悪口、不両舌、不綺語(意味のない無益なおしゃべりをしないこと)の四、心の行いについては、無貪(執着し、貪らないこと)、無瞋(怒りに苦しまないこと)、正見の三の合わせて十である。


 「忍辱」とは、苦難や迫害に堪え忍ぶことである。

 「精進」とは、実践にたゆまず努力すること。

 「禅定」は、瞑想による精神統一を意味する 。「禅」は、dhyāna あるいは jhāna の音訳である。一切を空・無相・無願と観ずる三種の禅定(三三昧)が基本とされる。

 「智慧」は、真理を見極め悟ることである。

菩薩としての誓願と自覚を持って、これら六つの徳目の完成を目指して行すれば、誰でも仏になることができるとした。

 

3. 般若経

六波羅蜜のうち、最も尊重されるのが悟りにいたる「智慧の完成」(智慧波羅蜜)である。智慧(prajñā)は、音写して「般若(はんにゃ)」ともいわれる。この智慧波羅蜜、すなわち般若波羅蜜を称揚する一群の経典が、般若経典である。大乗(mahāyāna)ということばは、般若経典において、初めて用いられた。

 

般若経典の核をなす思想は、の思想である。般若経典の中で、最も広く親しまれているのは『般若心経』であろう。その中に現れる有名な文句「色即是空、空即是色」は、色形あるものの本質は空であり、空を本質とするものが色形あるものとして現れることを説く。なぜ、彼らはそのようなことを説くのか。

 

般若経典の尊重する智慧とは、ブッダの智慧である。ブッダは、あらゆるものに対する無執着を説いた。あらゆるもののうちにはブッダの教え、すなわち縁起、四諦・八正道、無常・苦・無我、あるいは理想とされる涅槃などの教えも含まれる。したがって、これらの教えにすら心をとめないこと、すなわち「心を空性(空を本質とすること)に落ちつけること」が理想とされる。

そして、あらゆるものが「」であり、「差別する様相がないもの」であり、「願い求めるべきものではないこと」を観ずる禅定こそが解脱へ至る道であるとされた(空・無相・無願の三解脱門

また、大乗仏教における理想的な行為である菩薩の利他行は、この境地において初めて成り立つと考えられた。

 

4. 維摩経

般若経典の空の思想を文学的にあらわしたのが『維摩経』である。

主人公の維摩詰(ゆいまきつ、Vimalakrti)は在家信者で、出家の仏弟子や菩薩を次々に論破する。小乗の出家主義に対する大乗の在家主義の優位が示される。

 

6章には、世界を空として見ることが菩薩の利他行の根拠となることが鮮やかに説かれる。


 「菩薩は、すべての生きもの(衆生)をどのように見るか」という問いに、維摩は、手品師が作りだした人、かげろうの水、水の泡、中の空虚な芭蕉の茎、大空の鳥の跡形などの比喩を用いて

「菩薩は、すべての生きもの(衆生)の本質が空で、真実には固定的な本性をもたないもの(無我)であること知って見る」

と答える。


 「そのような見方をする菩薩に、なぜすべての生きものに対する大きな慈悲心が起こるのか」という問いに対して、「あらゆる執着、煩悩、とらわれがないから、寂静な、無熱の、妨げられることのない、大悲の、慈しみの心が生まれる」と答える。


また、第 8章には、生・滅、浄・不浄、善・悪など対立矛盾するものが真実には空であって、異なるものではないとする教え(不二の法門)が説かれる。
この教えに入ることが悟りであるとされるのであるが、「不二の教えに入るとはどういうことか」という問いに、諸々の菩薩はさまざまに答える。


これに対して、維摩は沈黙をもって答える。言葉によって説くことが、すでに本来空なるものに分別をくわえ区別・対立を設けている。悟りの智慧が、分別、言葉を超越したものであることを説く。

2021/05/18

ヤコブ(ヘブライ神話14)

ヤコブ(羅: Jacob / ヘブライ語: יעקב(ヤアコーブ)/アラビア語:يعقو(ヤアクーブ))は、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長。別名をイスラエルといい、イスラエルの民すなわちユダヤ人は、みなヤコブの子孫を称する。

 

聖書におけるヤコブ

ヤコブの梯子

『創世記』によると、父はイサク(イツハク)、母はリベカ、祖父は太祖アブラハム。

 

ヤコブは双子の兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得たため、兄から命を狙われることになって逃亡する。逃亡の途上、天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)を見て、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。ハランに住む伯父ラバンのもとに身を寄せ、やがて財産を築いて独立する。

 

兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(後に、彼がペヌエルと名付けた場所)で神と格闘し、勝利したことから神の勝者を意味する「イスラエル」(「イシャラー(勝つ者)」「エル(神)」の複合名詞)の名を与えられる。これが、後のイスラエルの国名の由来となった。

 

レア、ラケル、ビルハ、ジルパという4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけた。その息子たちが、イスラエル十二部族の祖となったとされている。晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれるが、数奇な人生を送ってエジプトでファラオの宰相となっていたヨセフとの再会を遂げ、やがて一族をあげてエジプトに移住した。エジプトで生涯を終えたヤコブは、遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られた。

 

ヤコブの子ら

ヤコブは4人の妻を持ち、12人の息子と1人の娘がいた。

 

ラバンの娘レアの子 - ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、一人娘であるディナ

ラケルの下女ビルハの子 - ダン、ナフタリ

レアの下女ジルパの子 - ガド、アシェル

レアの妹ラケルの子 - ヨセフ、ベニヤミン

 

彼らがイスラエル12部族の祖となったといわれるが、話は少し複雑である。まず、レビ族は祭司の家系であって継承する土地を持たないので、12部族には入らない。またヨセフ族はなく、ヨセフの息子エフライムとマナセを祖とするエフライム族、マナセ族が加わることで十二部族となっている。このうち、ユダ族とベニヤミン族、レビ族以外の10部族は、北イスラエル王国滅亡後に歴史から姿を消し、「イスラエルの失われた10支族」(イスラエルの失われた10部族)と呼ばれることになる。


即ち、この意味では、ユダヤ人とはイスラエルの子孫すべて(イスラエル民族)を指すのではなく、厳密にはユダ族・ベニヤミン族の2支族にレビ族を加えた人らを指す。尤も、現在はイスラエル民族全般と改宗ユダヤ教徒も、ユダヤ人に含む概念が一般に浸透している。

 

クルアーンにおけるヤコブ

イスラム教の聖典『クルアーン』(コーラン)では、ヤコブすなわちヤアクーブは過去の預言者のひとりとして登場する。

 

しかしクルアーンにおいてヤアクーブは、彼自身を主人公とする物語ではなく、息子のユースフ(聖書のヨセフ)に関連する物語の中で言及される。クルアーンでは、ユースフの物語は第12章「ユースフ」で一章を用いて詳しく述べられており、ヨセフが兄たちによって捨てられ、悲嘆に暮れるという物語は共通している。


ヤアクーブは愛息を失った悲しみのあまり盲目となったが、神(アッラーフ)の与えた運命を耐え抜いて神への信頼を守った。のち、エジプトに渡って立身したユースフと再会し、預言者であるユースフのもたらした神の奇蹟により視力を取り戻す。

 

ヤアクーブの名は、ムスリム(イスラム教徒)に好まれる男性名のひとつである。

出典 Wikipedia

2021/05/13

東晋

出典https://dic.nicovideo.jp/?from=header

 

晋の皇族、司馬睿は江南に逃れ、浪邪王氏の協力の元、317年、呉の首都であった建康で元帝として皇帝の位につき、東晋を建国した。司馬睿は華北回復のために江南の豪族と上手く付き合う方針を固め、また豪族も司馬睿を迎え入れた。

 

この政権は亡命政権であったため、「王と馬とが天下をともにす」と評価されるほどに皇帝権力が弱く、政情が落ち着くと司馬睿は側近達の力を強めることによって豪族を抑えようとしたが、彼を補佐した王敦(おうとん)に反乱を起こされてしまい、詫びを入れてしまうほどだった。

 

2代の明帝は名君で王敦の乱を鎮圧することができたが、27歳の若さで病死。それ以後は皇帝は半ばお飾りと化し、重臣達が政権を運営していくこととなる。

 

一方、華北の地は八王の乱、永嘉の乱と続く戦乱によって、すっかり荒れ果てていた。ただでさえ洪水、日照り、イナゴの発生などにより苦しんだ農民達は当初、塢壁と呼ばれる土塁で自衛をしていたが、やがて異民族の侵入を受けるようになり、食べ物を求めて江南へと移住した。彼らは大河長江の恩恵を受けて、豊かな暮らしを営むことができた。

 

東晋の時代、朝廷の貴族によって様々な文化が花開いた。353年、会稽の名勝の蘭亭で、東晋の地方官の王羲之が謝安、許詢、孫綽(そんしゃく)らを招いて宴を催した。この時に行われた曲水の宴は、日本でも奈良・平安時代の貴族も真似たとされる。

 

曲水の宴とは、川に杯を流し、目の前を通過する前に詩を作り、詠み終わったら酒を頂くという趣向である。王羲之は、書聖とも呼ばれるほどの筆の名人であり、この宴で書いたものが、かの有名な蘭亭序である。

 

東晋の軍はいくつかの戦争を経て、首都近郊に駐屯して北の守りを固める北府軍と、荊州に駐屯として西の守りを担う西府軍に集約されることとなる。この二つの巨大で同格の軍隊が、微妙な均衡を保つことによって東晋は支えられていたが、桓温が台頭して西府軍を掌握すると、東晋は簒奪の危機に晒されることとなる。

 

桓温は蜀で政権を築いていた成漢を滅ぼし、一時は洛陽も占領するなど実績を上げた。北府軍が北伐に失敗したこともあって、桓温の名声は巨大になっていく。最終的には簒奪一歩手前までいったが、宰相の機転によって失敗、その直後に病死したので危機は去ったかのように見えたが、もう一つの危機が迫っていた。

 

五胡が、それぞれの王朝で争っていた華北では、前秦が370年に前燕、376年には前涼と拓跋氏による代国を滅ぼして華北を統一した。やがて、前秦は東晋に90万の軍勢を率いて攻めて来たので、東晋の宰相、謝安は謝石、謝玄に8万の兵を与えて淝水でこれを迎え撃った。しかし、前秦の軍は様々な民族の混成軍であったため、まとまりが悪く、先陣が敗北すると残りの軍勢も潰走してしまい、東晋は大勝利をおさめる。これが淝水の戦いである。

 

この後、前秦の各部族は独立し、再び華北は分裂状態に陥った。そのため東晋は安寧を手に入れることができたが、気が緩んだのか一気に堕落してしまう。

 

謝安の死、孝武帝が冗談を間に受けた妃の布団蒸しによって殺害され、一切の意志表示ができななかったといわれる重度の知的障害児の安帝が即位すると、東晋は社会不安に襲われることとなる。その不安につけこむ形で、五斗米道の孫恩が反乱を起こす。鎮圧はされたものの、好機とみた桓温の息子で西府軍首領の桓玄が挙兵、北府軍の劉牢之を味方につけることによって易々と首都に入場した桓玄は、政敵や劉牢之を粛清、やがて安帝を廃して自ら皇位についた。

 

が、あまりにも性急だったため、北府軍の生き残りである劉裕が挙兵すると、打ち破られて廃死。劉裕が安帝を復位させることよって404年に再興されるが、実権は劉裕に握られていた。

 

劉裕は孫恩の残党である廬循の一党を覆滅、南燕や後秦といった国々を滅ぼすことによって名声を高め、実績を積むと安帝を殺害して、恭帝を擁立、420年にその恭帝から劉裕は帝位を禅譲され、宋(南朝)を建国。ここに東晋は滅んだ。

2021/05/11

セクストス・エンペイリコス

セクストス・エンペイリコス(英:Sextus Empiricus2世紀から3世紀ごろ)は、アレクサンドリア、ローマ、アテネなど様々な土地に住んだといわれている医学者、哲学者である。彼の哲学的著作は、古代ギリシャ・古代ローマの懐疑論として、ほぼ完全な形で現存している。

 

医学的な著作については、伝承によれば彼自身の名にちなんだ「経験主義'empiric'学派(アスクレピアデス Asclepiadesの項を参照)に属していたとされる。しかしながら、著作中において少なくとも二度、自分自身を「方法主義'methodic'学派に近いところに置いており、またこれは彼の哲学からもうかがい知られることである。

 

思想

セクストスは、あらゆる信念に対する判断を停止するべきだ、すなわちある信念について真であるとか偽であると判断することを控えるべきだと主張する。この立場は、ピュロン的懐疑論として知られている。セクストスによれば、この立場はアカデメイア的懐疑論、すなわち知識そのものを否定する立場とは一線を画すものである。

 

セクストスは知識そのものの可能性を否定することはしない。真なる信念としてなにかを知ることは不可能だとする、アカデメイア的懐疑論の立場をセクストスは批判するのである。その代わりにセクストスは、信念を放棄すること、すなわち何かを知ることができるかどうかという判断を停止することを提案する。判断停止することによってのみ、我々はアタラクシア(心の平安)を得ることができるのである。セクストスは、全ての事柄について判断停止をすることも不可能ではないと考えた。なぜなら、我々はいかなる信念をも用いず、習慣に従って生きることもできるからである。

 

セクストスは、我々の経験(例えば心情や感覚)に関する主張を肯定することはできると考える。すなわち、私はこう感じるとかこういうものを知覚する、という主張Xについて、「Xであるように思われる」と言うことは可能である、と言うのである。しかしながら、このように言うことはいかなる客観的知識も外在的実在も含意しない、と指摘する。というのは、私は「私が味わった蜂蜜は、私にとって甘い」ということを知っているかもしれないが、これは主観的判断に過ぎず、蜂蜜そのものについてなにか知っているということにはならないからである。

 

以上のように、セクストス哲学を解釈する注釈家としてマイルス・バーニェット(Myles Burnyeat)やジョナサン・バーンズ(Jonathan Barnes)がいる。

 

それに対してマイケル・フレーデ(Michael Frede)は、異なった解釈を提示している。彼によれば、理性や哲学や思弁によって辿り着いたのでない信念であれば、セクストスは認めるとされる。例えば、内容にかかわらず、懐疑論者の共同体において信念とされたものなどである。この解釈をとるならば、懐疑論者は神を信じたり信じなかったり、美徳は善であると信じたりするだろうが、美徳が「本性的に」善であるからそう信じるわけではないのである。

 

経験主義者セクストス

ピュロン主義者であり医者でもあったセクストス・エンペイリコス(エンペイリコスとは、名前ではなく経験主義者というあだ名である)は、ピュロン主義とその他の学派との相違を次のように伝えている。

 

人々が何か物事を探究する場合に、結果としてありそうな事態は、探究しているものを発見するか、あるいは発見を拒否して把握不可能であることに同意するか、あるいは探究を継続するかのいずれかである。多分このゆえにまた、哲学において探究される事柄についても、真実を発見したと主張した人々もいれば、真実は把握できないと表明した人々もおり、またほかに、さらに探究を続ける人々もいるのであろう。

 

そして、このうち真実を発見したと考えるのは、アリストテレス学派、エピクロス学派、ストア派、その他の人々のように、固有の意味でドグマティストと呼ばれている人たちであり、また、把握不可能であると表明したのは、クレイトマコスやカルネアデスの一派、およびその他のアカデメイア派であり、そして探究を続けるのは懐疑派である。

 

セクストス『ピュロン主義哲学の概要』、金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.6.

 

ここでセクストスは、ピュロン主義を独断論および不可知論と対立するものとして提示している。ただし、このような分類はやや割り切り過ぎなのではないかという見解もあり、特に初期のアカデメイア派を不可知論に属せしめてよいのかについては、今日では疑問が呈されている。セクストスによれば、懐疑主義の目的は、「思いなしに関わる物事における無動揺[平静]と、不可避的な物事における節度ある情態である」。

 

というのも、懐疑主義者は元々諸々の表象を判定して、そのいずれが真であり、いずれが偽であるかを把握し、その結果として無動揺[平静]に到達することを目指して哲学を始めたのであるが、結局、力の拮抗した反目の中に陥り、これに判定を下すことができないために、判定を保留したのである。ところが判断を保留してみると、偶然それに続いて彼を訪れたのは、思いなされる事柄における無動揺[平静]であった。

セクストス『ピュロン主義哲学の概要』、金山弥平=金山万里子訳『ピュロン主義哲学の概要』京都大学学術出版会、1998年、p.20.

 

もっとも、あらゆる事柄について判断を留保するのではなく、表象(感覚へのそのままの現れ)として不可避的に受け取っている事態については、これを承認する。つまりセクストスの説明によれば、知識が何らかの不明瞭な物事に関係しているという意味でのドグマを持たないという意味で、ドグマを持たないのである。同様に、ピュロン主義者は、「万物は虚偽である」とか「何事も真理ではない」とは言わずに「私にとっては、今のところ何事も把握不可能であるように思われる」とか「私は今のところ、このことを肯定もしないし否定もしない」という慎重な言い回しを用いる。

 

このようなピュロン主義は、セクストスが伝えているところによれば、新旧異説を合わせて全部で17の議論の仕方を有している。伝統的な10の方法は、次の通りである。

 

動物相互の違いにもとづく方式:例えば犬と魚とバッタは異なるように物を見ているかもしれない。

人間同士の相違にもとづく方式:例えば人によって、身体構造が異なるということ。

感覚器官の異なる構造にもとづく方式:例えば絵は視覚によれば奥行きがあるように見えるが、触覚によれば平面であること。

情況にもとづく方式:例えば一般人と神がかりに合っている人は、異なる表象を持つこと。

置かれ方と隔たり方と場所にもとづく方式:例えば、船は遠くから見ればゆっくり動いているように見えるが、近くから見れば速く動いているように見えること。

混入にもとづく方式:(注:この箇所は現代の知識から見ると、かなり分かりにくい内容になっている。例えば、身体は水中では軽くなり空気中では重くなると言われているが、これはいわゆる重量が周辺の物質との混合によって変化していると考えられていたものと解される)。

事物の量と調合にもとづく方式:例えば酒を飲み過ぎると害になるが、適度に飲めば健康になるということ。

相対性にもとづく方式:すなわち、物事は主体に応じて異なるということ。

頻度にもとづく方式:例えば彗星はたまにしか現れないので驚かれるが、彗星が頻繁に現れるようになれば驚かれなくなるであろうこと。

様々な説の対置による方式:習慣、法律、神話および学説がばらばらであること。

出典 Wikipedia

2021/05/08

道教(8)

日本における道教

ü  諸子百家

ü  儒家、道家

ü  法家

ü  墨家

ü  名家

ü  陰陽家

ü  縦横家

ü  雑家

ü  農家

ü  小説家

ü  兵家

 

表・話・編・歴

各地で発掘されている三角縁神獣鏡や道教的呪術文様から、4世紀には流入していたと見られている。6世紀には百済からの仏教に伴い「呪禁師」「遁甲方術」がもたらされ、斉明天皇から天武天皇の治世にかけては、その呪力に期待が寄せられて、支配者層における方術の修得や施設建設も見えている。それに伴う神仙思想も、支配者層において教養的知識レベルに留まらず実践に至るまでの浸透を見た。

 

これらは民衆社会にも流布しており、『日本書紀』『風土記』『万葉集』に見える浦嶋子伝説、羽衣伝説等などの神仙伝説にその痕跡を遺している。だが、それらは担い手組織の核となる道教経典・道士・道観の導入を伴っておらず、体系的な移植には至らず、断片的な知識や俗信仰の受容に留まった。そして天武朝以降、道教の組織的将来の道が政治的に閉ざされると、そうした知識や俗信仰が帯びていた体系的道教思想の痕跡も希薄になっていく。

 

一方で、道教に取り入れられていた要素に過ぎなかった陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて、政務の中核を担う国家組織にまで発展した。

 

この意味で日本において、本来の道教が伝わっているとは言いがたい。唐王朝が道教の開祖とされた老子の末裔を称しており、唐側より日本に対して道教の受け入れを求めた時に、日本側が(天照大神の子孫とされる)天皇を中心とする支配体制と相いれないものとして拒否したとも言われている。しかし、例えば仏教などに融合しつつ体現された道教は存在したとする研究、または確立された道教の必要性も唱えられた。

 

日本では大淵忍爾・吉岡義豊・福井康順・窪徳忠・福永光司・宮川尚志・澤田瑞穂等が道教研究をリードしていた。

 

陰陽道

道教の廃止と共に、それに代わって陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である。「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(すなわち北極星という意味であるという説)。

 

五行思想

日本における陰陽道の中核をなす思想である。元々は暦法や易は易経に起源を持ち、共同体の存亡に関わる極めて重要かつ真剣な課題の解決法であった。占師は政治の舞台で命がけの責任を背負わされることもあった。ここには後世に伝わる占術としての軽さは皆無であり、常に研鑽も求められるものであったが、日本ではすでに確立されたツールとしての利用のみが伝わった。現在でも、街頭で易者を見掛けるなどして根付いている。中には、それを大道芸にした六魔と言う易者の芸人がいる。

 

修験道

古神道の一つである神奈備や磐座という山岳信仰と仏教が習合した修験道には、道教、陰陽道などの要素が入っている。

 

神仙思想

主に不老不死を得るための仙術の体得と、その手法の研究が流行した。やがて、これらの思想が民衆運動や政争に利用されたり、仙薬として水銀を扱い害をなすなどの弊害を産んだ。

 

風水

風水は道教の陰陽五行説を応用したものである。現在でも開運を願って取り入れようとする人がおり、日本や台湾、アジア各国などで盛んであり、特に香港では盛んである。ただ、これは同じく地理的要素を占う陰陽道とは少し異なる。

風水では、天円地方の思想のうち地方の部分が形骸化しており、地方を天円と同じく重く見る陰陽道とは異なる。この地方という考えは、儀式としての相撲における土俵(古来四角であった)に現れていたが、現在ではその特性が失われ円になっている。

 

陰陽道の思想は沖縄の首里城、平城京・平安京・長岡京など、古代の都の建設や神社の創建にも影響を与えている。四神相応である。

 

庚申信仰

日本に伝来し、定着した道教信仰と言えば庚申信仰である。各地に庚申塔や庚申堂が造られ、庚申講や庚申待ちという組織や風習が定着している。現代でも、庚申堂を中心とした庚申信仰の行われている地域では、軒先に身代わり猿を吊り下げる風習が見られ、一目でそれと分かる。

 

辛亥、甲子革令、二十四節気などの暦に関することもかなり道教の影響を受けているが、陰陽道と同じく日本独自の思想と習合などがなされている。

 

日本の道観(道教寺院)

日本国内の道観は、埼玉県坂戸市の聖天宮や横浜媽祖廟、各地の関帝廟(黄檗宗の寺院の中にある事例もある)、北海道釧路市の台湾鳳凰山指玄堂釧路分院(済公)などがある。

 

日本の道教の宗教団体

2013年(平成25年)に福岡県東峰村に創立した一般財団法人日本タオイズム協会のほか、その以前からある団体としては日本道観、道士を育ている学校の道家道学院や道教の研究発表会をする日本道教学会と言う学会や日本道教協会などがある。

 

その他の国、地域における道教

朝鮮、越南(ベトナム)など、漢字文化圏の国々にも伝わっている。特に台湾では、現在も生活の中に息づいている。(「道教の神々」窪 徳忠、講談社学術文庫[要ページ番号])なお、民間信仰と道教の区別は難しい。

 

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「小林正美氏の説」について

「道教」の定義

早稲田大学において初期の道教と中国仏教を精力的かつ厳密な学術的手法によって研究してきた小林正美名誉教授は、初期道教の形成史について独自の見解を唱えてきた。小林教授によると、中国における「三教」の一つとしての「道教」は、劉宋の天師道改革派に始まり、それ以前の道家思想や葛洪『抱朴子』の神仙思想、後漢の「五斗米道」や「太平道」、そして東晋期の霊宝派(葛氏道)や上清派、また民間信仰は、「道教」と呼ぶことはできないという。何故なら、中国において歴史的に実在した「三教」には

1)教祖と

2)教祖の教えを記した経典(教)

の二つが構成要素として必要であり、劉宋期の天師道改革派以前の「いわゆる道教とされるもの」は、この二つの要件を満たしていないからである。

 

また小林教授の立場(すなわち思想史的立場)とは、「当時の人々が道教と呼んだもの」が歴史的に実在した「三教」の一つとしての「道教」(=「歴史的用語」)であり、それ以外の「茅山道教」や「民間道教」などは現代の学者が便宜的に付けた用語(=「現代的用語」)であって、歴史的に実在した道教ではないというものである。

 

天師道改革派と唐代の天師道

仏教に対抗するため、劉宋の天師道改革派は擬人化・神格化された「道」を老子(太上老君)および無極大道と同一視して

1)教主に据え、その教えを

2)三十六部尊経としてまとめた。

この場合、「道教」とは「道(老子)の教え」という意味になる。このため、「道教」の難解な経典を理解できるのは知識人の貴族層に限られ、民衆は「道教」を理解するのが困難であった。つまり、「道教」は当初は貴族である知識人のための教えであって、民衆の間に「道教」は広まらなかったのである。そして風水などは否定されていた。

 

さらに、天師道の経典と道士の授法のカリキュラムおよび位階制度を精密に研究した小林教授は、「上清派の伝承」と考えられていたものが実際には天師道の経典に取り込まれた「上清経の伝承」であったことを明らかにし、唐代において上清派は存在せず、天師道しか存在しなかったという説を提唱した。

 

「小林説」の評価

小林教授の説は、それまで学会の常識とされていた「通説」を真っ向から否定する強烈な説であったため、日本においては、有力な歴史学者や同分野の権威的な研究者から痛烈に批判され、長らく無視されてきた。しかし、2010年代以降、中国の有力な学者や日本の若手研究者から小林教授の説は高く評価されてきている。