2020/09/28

背教者ユリアヌス ~ ローマ帝国(14)

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背教者ユリアヌス

そもそもユリアヌスは、ギリシア古典ばかりを勉強していた哲人であった。将来の夢もその道であったが、伯父のコンスタンティウス2世の要望で、無理やりに副帝とさせられたのである。しかし彼は意外な才能を発揮し、異民族撃退に大きく貢献した。ローマ帝国にとって、それはあまりに大きな副産物であろう。

 

いつしかユリアヌスは、正帝コンスタンティウス2世よりも兵士から信頼されていた。361年、ついに兵士たちはユリアヌスを「正帝」と宣言し担ぎ揚げた。が、コンスタンティウス2世が病死したため、内乱は起こらない。正帝の座は、藪から棒にユリアヌスへと移ったのである。

 

当時、ローマ帝国ではキリスト教化が本格化していたが、ユリアヌスは即位後、自身の著書でキリスト教を批判し、ローマの神々に対する信仰を取り戻そうと試みた。「背教者」誕生である。もっとも、ユリアヌスは急速に変わりゆくローマ帝国に対し、どこか悲しんでいただけなのかもしれない。

 

コンスタンティウス2世の病死により、中断されたペルシャ遠征。敵の王はシャープール2世。ユリアヌスはこれを引き継ぎ、60,000の大軍を二手に分け挙兵した。大軍は、ティグリス河とユーフラテス河に沿って進む。そして、タイミング良く合流する予定だった。しかし363年、作戦は失敗し、ユリアヌスは志半ばで戦死してしまう。伝承によると、彼はこう言い残したという。

 

「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」

 

コンスタンティヌス朝も、そこで断絶した。

 

それにしても、キリスト教徒の皇帝に始まる王朝の最後が、アンチ・キリスト教の皇帝とは、なんとも皮肉な話である。

 

ウァレンティニアヌス朝 (A.D. 363 - A.D. 392)

ユリアヌス帝が没すると、将校ヨウィアヌスが新皇帝に選出された。ヨウィアヌスのもと、ローマ帝国とササン朝ペルシャ帝国との間には平和条約が締結されるが、それはローマ側がティグリス以東の領土と、幾つかの主要都市を割譲するという屈辱にほかならないものだった。ユリアヌス帝の努力が報われぬ結果となったが、それでもローマ帝国には502年までの東方の平和がもたらされた。

 

ゲルマン人の大移動

ヨウィアヌスがわずか在位8ヶ月で亡くなると、将校団の推戴によりウァレンティニアヌスが新帝となった。彼はゲルマン人と本腰を入れて戦うべく、首都をアウグスタ・トレウェロルム(現トリーア)とした。ウァレンティニアヌスも例に漏れず、帝国統治を複数人で行おうと考える。そこで彼は、弟のウァレンスを共治帝として東方を任せた。また18歳の息子グラティアヌスを、自身の統べる西方の副帝とした。

 

そこまでなら何も問題はなかったのだが、375年にウァレンティニアヌスが死去すると、トラキア軍がたった4歳の彼の息子ウァレンティニアヌス2世を皇帝と宣言したのだった。

 

これでまた、ローマ帝国は3人の皇帝が治める国家となったが、奇しくもこの時代、ゲルマン人の大移動が始まろうとしていた。376年、西進するフン族の波に押され、西ゴート族がドナウ河付近に現れ、ローマ帝国へ保護を求めた。西ゴート族は、武器の引き渡しを条件に渡河を許された。

 

腐敗と失態

しかし、ローマ帝国の役人たちは腐りきっていた。役人は、フン族から避難してきた西ゴート族に対し、約束していた食糧などを勝手に横領、さらには高額で押し売った。

 

さすがの西ゴート族も、そこで堪忍袋の緒が切れて武器を再び手に取り蜂起する。これに周辺の小作農や奴隷、脱獄兵らが加わり、またアラン族など他のゲルマン人も同調し、乱が雪だるま式に膨らんでいく。東帝ウァレンスは慌てて鎮圧に向かい、西帝グラティアヌスも、救援のため急いで駆け付ける。

 

しかし、西ゴート族の指導者フリティゲルが講和を申し出たにもかかわらず、東帝ウァレンスはこれを破棄。しかも西帝グラティアヌスの合流も待たず、単独で反乱の鎮圧に当たろうとしていた。

 

ハドリアノポリスの大敗

3788月、東方正帝ウァレンスの軍は、ハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊で西ゴート軍を発見した。

 

馬車を並べ円陣を組むゴート歩兵へ向けて、ウァレンスの軍は攻撃を始める。しかしウァレンスの指揮能力の無さが露見し、不意打ちには失敗、ウァレンス軍は時間を大きく損失してしまう。その隙にゴート側に主力の騎兵が戻り、ウァレンス軍の側面に大打撃を加えた。ウァレンス軍の騎兵と後衛部隊は四散し、残された軍は西ゴート軍に包囲された。まもなく、ウァレンス軍は四方八方から攻められ壊滅、兵数が3分の2にまで減少した。そして、最後にウァレンスが逃亡するが、その先の小屋で火をかけられ焼死したのだった。まさしく惨敗である。

 

不意打ちを仕掛けて、この大敗。これを機にローマ正規軍は壊滅的損失を被り、ローマ帝国の没落はいよいよ決定的となった。

2020/09/20

コンスタンティヌス朝 ~ ローマ帝国(13)

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コンスタンティヌス朝 (A.D. 324 - A.D. 363)

アウグストゥスから五賢帝の時代にかけて、輝かしい姿を見せていたローマ帝国。しかし、セウェルス朝末期に元首政の限界を露呈し、軍人皇帝の時代に決定的に弱体化、テトラルキアの時期には、東方的色彩に染まってしまう。

 

元首政はまだ共和制の延長線上に存在したが、この頃のローマ帝国にはもはや、中央集権化された専制君主制がしっかりと根付いていた。帝国の変質は続くのだが、その決定打となるのが、この第五王朝たるコンスタンティヌス朝である。ローマ帝国幾度目の内乱、それを制したコンスタンティヌスにより、ローマ帝国はどんどん新しくなっていく。

 

帝国再編

全ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1世(324 - 337年)により、再び1つの王朝による時代が幕を開けた。

 

コンスタンティヌス帝は、ディオクレティアヌスの改革路線を継承し、専制君主制をより強固なものとした。

 

その結果、ローマ帝国は4道、12管区、多数の属州という行政区に再編され、改めて軍政と民政が分離された。軍は、皇帝直属の軍(コミタテンセス)と国境軍(リミタネイ)に二分された。この頃ゲルマン人の入隊者が増加していたが、彼らは次第に指揮系統の頂点にある軍務長官(マギステル・ミリトゥム)に就くようになる。

 

キリスト教公認とその背景

しかし何もかもが、ディオクレティアヌス治世期と同じというわけではない。特にキリスト教徒への待遇がそれである。

 

この頃、帝国各地の街道では無償で手当てをしてくれる施設、キリスト教の教会が増えていた。見返りもなく治療をしてくれるキリスト教の教会は話題となり、そこに立ち寄った者や、その話を聞き訪れた者の多くは、感謝からキリスト教徒へと改宗していった。

 

そうした背景もあり、コンスタンティヌス帝は国内秩序を安定させるために、313年、ミラノ勅令でキリスト教を公認した。さらに、キリスト教の教会に多くの免許状を与え、財政上でも援助し、ローマ帝国のキリスト教化を推し進めた。

 

余談だが、これらの教会への特権付与が後々、キリスト教の総主教区である五本山(アンティオキア・アレクサンドリア・ローマ・イェルサレム・コンスタンティノポリス)の主教権拡大に繋がり、さらにはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の対立にも結び付く。

 

このキリスト教化こそが、とくに非キリスト教圏で物議を醸す点である。様々な意見があるだろうが、ここではキリスト教化のメリットを挙げておく。

 

一神教と皇帝権を結びつけることで、専制君主制の安定化が期待できる

非常に重要。従来、ローマ皇帝は神格化された存在であるため、唯一神以外を神としないキリスト教徒の支持を得られなかった。したがって、皇帝権がその唯一神の認めるところとなれば、キリスト教徒であっても支持するだろうという打算は、当然ながらコンスタンティヌス帝にはあったはずである。

 

司教を目指すことで、軍務で出世できなくなった有力者にもチャンスが与えられる

上述したように、この頃の軍人はゲルマン人が主流となっていったため、軍の雇用・出世状況はあまり芳しくなかった。そのため、一種の社会保障といえるだろう。

 

キリスト教が帝国公認の教えとなった以上、秩序のためにもその教義は統一された方が望ましい。そういった事情から、コンスタンティヌス帝は325年にニカイア公会議で教義を再確認し、「神は子と聖霊の性質も併せ持つ」という、三位一体説のアタナシウス派を正統とした。否定されたアリウス派については、もはや何も言うまい。

 

コンスタンティヌス帝がキリスト教を帝国の公認宗教とし、地中海およびヨーロッパ世界でその居場所を確立したことは、後世のヨーロッパ史がキリスト教徒の側から記録されることを意味する。したがって、当然ながら彼はキリスト教徒の間では、コンスタンティヌス大帝と称される(宗派により、呼称はやや異なるが省略)。

 

遷都「新たなローマ」

トルコのアヤ・ソフィアコンスタンティヌス帝はまた、バルカン半島の東端であり、黒海と地中海を、そしてアジアとヨーロッパを繋ぐゆえ、貿易がおいしい都市ビザンティウムを新たなローマとし、遷都した(330年。もちろん帝国の中心が、東方へと偏っていたためである)。

 

その都市の名称は自分の名前にしたかったので、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改名した。コンスタンティノポリスは、キリスト教公認後の新都市であったため、必然的にキリスト教の最初の都市ともなる。

 

キリスト教化に遷都、とローマ帝国を完全に別物へと変えたコンスタンティヌス1世。

専制君主制、キリスト教の公認、そしてコンスタンティノポリスへの遷都という3つの要素が完全に出揃ったことから、この時代からの東方を中心としたローマ帝国を、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と呼ぶことができる。

 

再び分割へ

337年にコンスタンティヌス1世が亡くなると、ローマ帝国は彼の息子3人に分割統治された。

 

しかしそれも長続きせず、長男コンスタンティヌス2世は、三男コンスタンス1世に殺される。350年にはガリア将軍の反乱が起こり、三男コンスタンス1世も殺害される。351年、最後に残った次男コンスタンティウス2世は、弟の敵討ちとしてその反乱を鎮圧し、件のガリア将軍を自決に追い込んだ。

 

単独皇帝となったコンスタンティウス2世は、例の如く帝国の単独統治に限界を感じ、甥のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(通称ユリアヌス)を副帝(カエサル)に任命、西方の統治を任せた。

 

異民族撃滅戦

357年、副帝ユリアヌスは、ゲルマン人の一派であるアラマンニ族討伐のため、ガリア軍を率いて東進した。目指すは現ドイツ、ゲルマニア。ユリアヌスはイタリア軍と連携をとり、自身が動かすガリア軍でゲルマニアを西から、イタリア軍を北上させ南から、つまり挟み撃ちを仕掛ける腹積もりであった。

 

しかしイタリア軍は途中で敗北し、ユリアヌスのガリア軍と合流できなかった。これで30,000ものアラマンニ族に対し、ユリアヌスは13,000のガリア軍で戦わなければならなくなった。

 

357年の8月、ユリアヌスのガリア軍は、現シュトラスブールのアルゲントラトゥムにて、アラマンニ族と激突した。

 

戦闘開始とともに、ローマ軍の右翼、騎兵部隊が敵のゲルマン騎兵に撃退される。またローマ軍中央は楔形陣形のアラマンニ族歩兵にやられ、歩兵の第一戦列を喪失した。だがローマ軍の第二戦列は盾を構え奮闘、アラマンニ族歩兵の突撃を耐えた。一瞬の時間を許されたユリアヌスは、開幕早々バラバラになった右翼騎兵隊を再編成し、反撃を指揮。騎兵をそのまま、ローマ軍左翼が発見した敵の伏兵へと送り込み、撃退に成功する。アラマンニ族が敗走を始めると、ローマ軍の追撃が逃亡する彼らを、ライン河へと突き落としていった。

 

3世紀以降、ローマ帝国では騎兵が重視されてきたが、この圧倒的な勝利は歩兵によるものだった。

 

副帝ユリアヌスは、その後もフランク族の平定に成功し、ローマの同盟軍(フォエデラティ)としてライン地方に定住させた。これは軍事力の強化以外にも、農耕の開拓を推進するためであった。これにて一旦、ライン河方面の平安が約束されたのである。

2020/09/18

ヤハウェ(ヘブライ神話2)

 ヤハウェ(ヘブライ語: יהוה、フェニキア語: 𐤉𐤄𐤅𐤄、古アラム語(英語版): 𐡉𐡄𐡅𐡄)は、旧約聖書および新約聖書における唯一神の名である。

 この名はヘブライ語の4つの子音文字で構成され、神聖四文字、テトラグラマトンと呼ばれる。神聖四文字と、これを「アドナイ」(わが主)と読み替えるための母音記号とを組み合わせた字訳に基づいて「Jehovah」とも転写され、日本語ではエホヴァエホバ(文語訳聖書ではヱホバ)とも表記される。遅くとも14世紀には「Jehova原文ママ」という表記が使われ、16世紀には多くの著述家が Jehovah の綴りを用いている。近代の研究によって復元された原音に基づいて、これを「Yahweh(ヤハウェ)」と読むのが主流となっている。

 本項に示す通り、この神を指す様々な表現が存在するが、特に意図がある場合を除き、本項での表記は努めてヤハウェに統一する。また本項では、ヤハウェを表す他の語についても述べる。

 普通名詞

日本語訳聖書では今日、一般に、原文において「יהוה(ヤハウェ)」とある箇所を「」と訳す。これは主に、消失の経緯で後述するユダヤ人の慣習による。今日のユダヤ人はヤハウェと読まずに、アドナイ(「わが主」)という別の語を発音するためである。カトリック系の『バルバロ訳』のほか、『口語訳聖書』(日本聖書協会)などがこれである。

 また、口語訳聖書を後継する『新共同訳聖書』(同)も、一部の地名(『創世記』第2214節、#固有名詞で後述)を除き、一貫して「主」とする。プロテスタント福音派系の『新改訳聖書』では、太字で「主」とする。これは「文語訳ではエホバと訳され、学者の間ではヤハウェとされている主の御名を」「訳し」た「主」と、これを「代名詞などで受けた場合か、または通常の<>を意味することば」とを区別するためである。1893年の時点で日本聖公会も、エホバではなく主の語を用いるべきだとしている。

 主に「英語圏」・「スラブ語圏」となるが 実際の「聖四文字」の表記例を「出エジプト記20」から挙げる。

 表記例[表示]


旧約聖書では、「」という一般名詞であるエル(古典的なヘブライ語発音でエール)やその複数形「אלהים(エロヒム)」も、ヤハウェの呼称として用いられる。一般に、日本語訳聖書ではこれらの音訳は使用せず、これに相当する箇所は漢訳聖書での訳語を踏襲し神とするものが多い。「全能・満たすもの」を意味するとされるシャダイの語を付してエル・シャダイとした箇所は、全能の神などと訳される。

 上帝

中国語の聖書には、本項の神について「神」という語をあてたもののほか、「上帝」となっているものが多数存在した。今日も多く使われる和合本という翻訳の聖書も、この語を「神」とした上で1文字分の空白をあけ、2文字の「上帝」と同じ文字送りにしたものが多い。

 「神」の字が、「אלהים」または「אלוהים」、古代ギリシャ語「Θεός(テオス)」、英語「God」の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら、訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したが、和訳聖書のモリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書は、「神」を採用していた。

 多数の日本語訳聖書は、この流れを汲み、1938年には「神」という用語についてキリスト教神学者前島潔が論じることはあったものの、今日に至るまで適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに「神」を翻訳語として採用するものが多数となっている。

 固有名詞

旧約聖書すなわちヘブライ語聖書の原文には、ヘブライ語で記された名前「יהוה(ヤハウェ)」が6859回登場するとされている。

 これは4文字のヘブライ文字からなることから、ギリシャ語では「Τετραγράμματον(テトラグラマトン)」(神聖四文字、原義は「四字」)とも呼ばれる。

 アラム文字でヘブライ語を記述するようになってからも、この4文字はフェニキア文字で書かれていたとされる。

 ちなみに、この4文字はラテン文字では「YHVH」「YHWH」「JHVH」「JHWH」「IHVH」などと翻字される。

 『新共同訳聖書』付録には「神聖四文字 YHWH」について、次のように記されている。

 この語の正確な読み方は分からないが、一般にヤーウェまたヤハウェと表記されている。この神名は人名の末尾に「ヤー」という短い形で付加されることが多い(「イザヤ」「エレミヤ」)など)

『新共同訳聖書』付録30ページ「用語解説」主(しゅ)

 なお、同書では「旧約聖書中」とあり、一般にこの固有名詞は新約聖書には登場しない。写本などの研究から、原文の新約聖書にも使用されなかったと考えられている。文語訳聖書中でも、イエス・キリストが旧約聖書から引用したと思われる箇所で、この固有名詞は登場していない。

 発音

元々、ヘブライ語は母音の表記法を持たなかった。語幹は子音だけから成り活用を母音だけで表すため、語句や文章は子音文字のみで記述され、母音の復元はもっぱら読み手の語彙力によった。この方式をアブジャドといい、現代アラビア語などにもみられる。

 やがて聖書ヘブライ語が日常言語としては死語になり、ヤハウェにあたる語を何と読むか正確な発音は消失した。消失の経緯で後述するように、その発音は人々の口に上らなくなっていたのである。

 しかし後に、ニクダーもしくはニクードと呼ばれる色々な点々を打つことにより、母音の表記が可能となった。

 また、すでにユダヤ人は、詠唱の際にヤハウェの名の登場する箇所をアドナイ(「わが主」、消失の経緯で後述)と読み替えるようになっていた。

 その際、ヤハウェ(の子音字)「יהוה」に、アドナイ אֲדֹנָי と同じニクードすなわち -ă -ō -a という母音を示す点々を打って、そう読み慣わした。

 これをそのまま読むと、イェホワ (יְהֹוָהYəHōVaH) と読める(文法上、ヘブライ文字 y には弱母音の「ă(ア)」を付けられないため、曖昧母音のエ ə に変化する)。

 日本語のエホバ(ヱホバ)、英語の「Jehovah」、および各言語のそれに類する形は、ここに由来するのである。

 それらは確率的に、正しい読みに偶然に一致する可能性も完全には捨てきれないかもしれないが、あくまで可能性であって、学術的にはヤハウェと推定する見解で今日ほぼ一致している。(異論もある[)

 日本語では、ヤハウェの他にヤハヴェ YaHVeH(ヘブライ文字 ו [w]は現代ヘブライ語読みで/v/と発音)、ヤーウェ YaHWeHaHを長音として音写)などの表記が用いられることもある。

 人名などの要素として用いられる יהוה の略称は「ヤ」 ( יָה [yāh])、「ヤフ」 (יָהוּ [yāhû])等であり、ここから最初の母音はaであったと推測できる。

 また、古代教父によるギリシア文字転写形として Ιαουε (イァォウェ)、Ιαβε (イァベ)があり、これらからYHWHの本来の発音は英語式に表記するところの「Yahweh」あるいは「Yahveh」であったと推測されている。

 出典 Wikipedia

2020/09/12

四分統治の崩壊 ~ ローマ帝国(12)

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元首政からの脱皮
ディオクレティアヌスの改革は、テトラルキアに限らない。行政、税制、軍制をも大改革し、中央集権化、属州細分化、軍事力強化を進めた。また官僚制が整備されたことにより、軍政と民政が分かれ属州の反乱が小康化した。なお、この軍政と民政の分離は東ローマ帝国にも受け継がれ、テマ制(軍管区制)になった。

ディオクレティアヌスは、オリエント的な儀礼をも導入した。このため、ローマ皇帝は「市民の中の第一人者(プリンケプス)」ではなく「専制君主」となった。

こういった変化によって、ローマ帝国の政体は元首政から絶大な権力集中からなる専制君主制(ドミナートゥス)へと変質した。いわゆる「I am God」である。以後のローマ皇帝、とくに東ローマ帝国の皇帝は、この傾向が強くなる。東方風の専制が明確に始まったため、この時代を中世の始まりということもできよう。

また303年、ディオクレティアヌスは、キリスト教徒の大迫害も敢行した。しかしこれは失敗し、僅か一割されど一割のキリスト教徒を黙らせることができず、結局これが最後の迫害となる。ここに、拡大し続けるキリスト教の勢力を見ることができよう。

以上のように、軍人皇帝の時代、テトラルキアを経て、ローマ帝国は決定的に変質したのだった。

四分統治の崩壊
305年、ディオクレティアヌスがキャベツづくりのために、体調の変化を理由に隠居の身になると、四分統治のバランスが一斉に崩壊した。

ディオクレティアヌスの友、西方正帝マクシミアヌスも「引退するならディオクレティアヌスと一緒」と決めていたため引退。すると東西の副帝ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスが、それぞれ正帝へと昇格した。そうなると、今度は副帝の席が二つ空く。東方副帝にはマクシミヌス・ダイアが、西方副帝にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスが就いた。

東方正帝:ガレリウス up!
東方副帝:マクシミヌス・ダイア new!
西方正帝:コンスタンティウス・クロルス up!
西方副帝:フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス new!

しかし306年、西方正帝コンスタンティウス・クロルスが没する。

すると、東方正帝ガレリウスは次期西方正帝の座に、西方副帝のセウェルスを就けようとした。つまり、そのまま昇格させようと。ところがややこしいことに、亡くなったコンスタンティウス・クロルスの息子コンスタンティヌスが軍に担がれると、コンスタンティヌスもまた「我こそ西方正帝なり!」と高々に宣言した。

つまり、西方正帝の座を巡って

西方副帝セウェルス V.S. 亡き西方正帝の息子コンスタンティヌス

が相争う形となったのである。

さらにさらに、ディオクレティアヌスの友マクシミアヌス(元西方正帝)の息子、マクセンティウスも、また「父ちゃんが元西方正帝なら、息子の俺こそ西方正帝!」と言い始め、307年、西方副帝セウェルス(上のコンスタンティヌスと争ってた)を殺害、西方正帝の位を要求した。

亡き西方正帝の息子コンスタンティヌス V.S. 元西方正帝の息子マクセンティウス

さらにさらに、息子の帝位僭称を正統化すべく、元西方正帝マクシミアヌス(ディオクレティアヌスの友)が現役復帰、再び正帝を宣言した。

内乱勃発
東方正帝:ガレリウス
東方副帝:マクシミヌス・ダイア
自称西方正帝:
コンスタンティヌス new!
マクシミアヌス(元西方正帝) new!
マクセンティウス(↑の息子) new!
西方副帝:不在

元西方正帝マクシミアヌスは、息子マクセンティウスの実権獲得の大義名分として、正帝を称した。東方正帝ガレリウスに一度、勝利していたマクシミアヌスは、同じく自称西方正帝のコンスタンティヌスに娘を嫁がせることで、味方とすることに成功。

しかし308年、何を思ったか元西方正帝マクシミアヌスは、息子マクセンティウスへ向けて挙兵。息子の飾り物、というのが気に食わなかったのだろう。が、ローマ市へと進軍するも、あえなく敗れた。

それをうけ、同年、東方正帝ガレリウスと先帝ディオクレティアヌス、そして元西方正帝マクシミアヌスは会議を開いた。結果、東西の帝位は次のようになる。

東方正帝:ガレリウス
東方副帝:マクシミヌス・ダイア
西方正帝:リキニウス new!
西方副帝:コンスタンティヌス new!

しかし、マクシミアヌスの息子マクセンティウスは、依然としてイタリア道、すなわちイタリアとアフリカを支配していた。また、東西の副帝であるマクシミヌス・ダイアとコンスタンティヌスは、新たに西方正帝となったリキニウスより下、という処遇に納得がいかなかった。結果、東西の副帝は「正帝」と自称する。

かくして、壮絶な帝位の奪い合いが始まる。310年、自称西方正帝コンスタンティヌスは、元西方正帝マクシミアヌスを反逆の罪で処刑。さらに311年には東方正帝ガレリウスが亡くなり、312年にはイタリア道を支配していたマクセンティウスがコンスタンティヌスと対決するも、敗れ戦死した。一方313年、東方副帝マクシミヌス・ダイアは、西方正帝リキニウスと対峙し敗れ、この世を去った。

結果として、コンスタンティヌスとリキニウスだけが残った。

324年、コンスタンティヌスは、最後にして因縁であった敵リキニウスを倒し、「唯一の正帝」を宣言。こうしてローマ帝国は、再び1人の皇帝が統治する国家となった。

2020/09/10

荘子(3)

木鶏(もっけい)とは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

由来
故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。

紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、

『まだ空威張りして、闘争心があるからいけません』

と答える。

更に10日ほど経過して再度王が下問すると

『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけで、いきり立ってしまいます』

と答える。

更に10日経過したが、

『目を怒らせて、己の強さを誇示しているから話になりません』

と答える。

さらに10日経過して、王が下問すると

『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように、泰然自若としています。その徳の前に、敵う闘鶏はいないでしょう』

と答えた。

上記の故事で、荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。
  
木鶏という言葉はスポーツ選手に使用されることが多く、特に日本の格闘技(相撲・剣道・柔道)選手が好んで使用する。横綱双葉山は、連勝が69で止まった時、

「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」

と安岡正篤に打電したというエピソードがある。これを踏まえて横綱白鵬は、連勝が63で止まった時に支度部屋で「いまだ木鶏たりえず、だな」と語った。

知魚楽
あるとき、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子は物知りで、議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。

 「魚が水面に出て、悠々と泳いでいる。あれが魚の楽しみというものだ。」

すると恵子は、たちまち反論した。

「君は魚じゃない。魚の楽しみが、わかるはずないじゃないか。」

荘子が言うには、

「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみがわからないということが、どうしてわかるのか。」

 恵子は、ここぞと言った。
 
「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚でない。だから君には、魚の楽しみがわからない。どうだ、ぼくの論法は完全無欠だろう。」

 そこで、荘子は答えた。
 
「ひとつ、議論の根元にたち戻ってみようじゃないか。君が僕に

『君に、どうして魚の楽しみがわかるか。』

と聞いた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は川のほとりで、魚の楽しみがわかったのだ。」

万物斉同(ばんぶつせいどう) 
 荘子が唱えた「万物は道の観点からみれば等価である」という思想である。

荘子は、物事の真実たる「」に至ることが徳だと考えた。人はとかく是非善悪といった分別知を働かせるが、その判断の正当性は結局は不明であり、また一方が消滅すれば、もう一方も存立しない。つまり是非善悪は存立の根拠が等しくて同質的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。

このようにみれば、貴賤などの現実の社会にある礼法秩序も、全て人の分別知の所産による区別的なものとわかる。それどころか生死ですら同一であり、生も死も道の姿の一面に過ぎないと言うのである。

 輪扁(りんへん)は、『荘子』外篇の天道篇の最後に登場する「寓言」中の人物。輪扁とは、「車大工の扁」を意味し、「扁」が名である。

輪扁は、斉の桓公(在位:前685 - 643年)が読書をしているところに居合わせ、問答をする。車輪づくりに長じていた輪扁は、実践と感性の重要性を弁え、言葉だけでは伝授できない技術があることを知っていた。このことを踏まえて、桓公に対して「聖人之言」を読んでも昔の人の魂の糟(古人糟魄)しか得られない、自分も車輪を削る加減のコツは言葉では伝えられない、と述べたとされる。

そこから、言葉や文字で伝えることの難しさ、あるいは、書き残された知識は得られたとしても、そこに尽くされていない肝心な神髄は理解することができないことを意味する比喩として、言及される話となった。

『荘子』中のこの話は、著者が述べたいことを作中の人物の口から語らせて、読み手を納得させようとするものであり、故事を借りて道理を説くというものではない。つまりこの輪扁が語った話は、作者である荘子の言いたいことである。

上善は水の如し
最高の善は、水のようなものである。万物に利益を与えながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善の譬えとしたことば。