2014/03/31

世界チャンピオン・浅田(フィギュアスケート世界選手権)

一方、女子は浅田真央が「順当に」SPで最高点を叩き出した。

 

(これが、オリンピックだったら・・・)

 

という声も聞こえてきそうだが、そうはいかないのがオリンピックであり、また浅田を取り巻く環境がオリンピックと今では、格段に変わっているはずなのである。

 

その原因は、言うまでもなくKの引退だ。無論、何度も繰り返してきたように、浅田とKではそもそも能力差は歴然だからKの引退そのものではない。Kという選手の背後に見え隠れていた「闇の力」という、途轍もない重圧から解放された浅田が、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで本来の力を出し切った結果と言うに過ぎぬ。至極真っ当な出来の演技が演じられ、それに対する真っ当な採点が行われたという、当然の結果である。

 

実に遅すぎるくらいだが、やっとこさKの引退によって、これから「怪しげな勢力の暗躍」が蔭を潜めていくことだろうと期待している。そのようにして、肩の荷を下ろした浅田が、目を瞠るような高得点で優勝したのは、これまた当然の結果と言うに過ぎないが、改めて称賛されるべきは浅田の逞しい精神力であろう。

 

ところで、引退したKのオリンピックの得点を巡り、K国は「採点見直し」を申し入れたという。ワタクシも、これには大賛成だ。まず、ジャンプなど技術の難易度の高さやスピード感、ダイナミックな躍動感など、どれをとってもKはソトニコワの足元にも及ばないどころか、寧ろ「コストナーとソトニコワの、どっちが金に相応しいか?」の議論になるはずである。

 

次にフリーで浅田が見せた、世界中が鳥肌が立つほどに感動した演技があのような低い点数であった点が見直し対象とならなければならず、その結果スピード感も躍動感も全くない「ピークを過ぎた落ち目の安全運転」に終始したに関わらず、異様に高得点を貰ったKは、メダルを手放さなくてはならない。それにしても、ピークを過ぎた感の強い鈴木は引退するから仕方がないが、村上に至っては世界で戦えるレベルに見えないのに、なぜ協会は村上贔屓なのだろう?

2014/03/30

「持ってる」羽生が2冠(フィギュアスケート世界選手権)

フィギュアスケート世界選手権で、日本選手が男女アベック「金」の快挙を成し遂げた。

 

まずは男子。先のオリンピックでは期待外れに終わった町田が、SPトップに立つ。一方、オリンピック金メダリストとして、すっかり「第一人者」に伸し上がった羽生は、まさかの3位と出遅れ、勝負展開としては非常に面白くなった。

 

迎えたフリー。ここでもノーミスでほぼ完璧な演技をこなした町田が、高得点を叩き出し、金メダリストの羽生と言えど、自己ベストに近い高得点を出さなければ、逆転は難しいというギリギリの状況だ。が、ワタクシは

 

(羽生は完璧な演技をして、逆転優勝する!)

 

と確信していた。

 

なぜ、そのような確信したかと言えば、羽生が「持ってる男」だからである。この羽生というのが実に不思議な選手で、必ず「結果を出してくる」という強さを秘めている。オリンピックがまさにそうで、フリーでは本来の出来からは程遠い内容だったものの、それでも「金」に結び付けるという強さがある。こうしたものは、運などを含めて「持ってる男」が引き寄せる理屈を超えた能力といえる。

 

「オリンピック金メダリスト」として、注目度が格段に上がった今回、しかもあの厳しい状況においてあれだけの演技を演じ切り、結果として絵に描いたシナリオ的な僅差でキッチリ逆転してしまった。これこそ「持ってる男」の面目躍如である。

 

なにしろ表情が明るく、ましてあの童顔の優男だから、嫌われる要素が少ない得なキャラである。対する町田の方は、美少年のイメージには程遠い「苦労人ヅラ」であり、常に持てる全力を出し切っている印象が強い。それはそれで文句のつけようがないが、難易度の高い技も余裕ありげに楽々とこなしているように見える羽生と比べ、やはり天賦の才能の差を感じてしまうのである。

 

元々、長身でスタイルも良い羽生は一つ一つの動作も格段に見栄えがするし、しなやかさと力強さを兼ね備えているという、これまでの日本人選手に不足していた、すべてを兼ね備えた超逸材である。しかも、まだ19歳だ。数年前までの、あの天真爛漫だった浅田真央を見るようである。

2014/03/26

「和食」の特徴(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(1)

日本料理・和食は、日本独特の料理法を用いた日本独特の料理群を指す。何をもって日本独特とするか、日本独自とするかの判断は様々で明確な定義は存在せず、慣習によって決められている例が多い。米を主食とし、割烹が典型的な日本料理・和食とされている。

 

割烹」とは

 

(1)食品を割き、煮炊きすること。調理、または料理すること。「割」は包丁で切ること、「烹」は火を使って煮る調理法である。

 

(2)主に会席料理、懐石料理、精進料理といった料理に対する呼称として使われる。江戸料理に対して、上方の料理を「割烹」と呼んだことから、江戸後期になって主に高級料理が割烹と呼ばれるようになった。

 

(3)上記(2)などを始め、比較的高級な和食を提供する料理店をいう。

 

(4)上記(3)のうち、特に客の好みに応じて即席に作った出来立ての高級な和食を、カウンター席やテーブル席などで気軽に食べさせる料理店。即席割烹。板前割烹。カウンター割烹。これは明治時代後期頃から大阪で流行した飲食スタイルで、当時は腰掛けの即席料理店と呼ばれていた。それまでの宴席料理と違い、自分の好みに応じて板前が目の前で即座に調理した、出来立ての高級料理を気軽な椅子席で食べられることから、大正・昭和初期に大阪で大流行となり全国に広がっていった。

 

日本で料理店や食事は「和・洋・中」といった分け方がされることが多いが、いわゆるジャンクフードやB級グルメなど、その定義や分類は曖昧になる場合もある。ユネスコの無形文化遺産に登録された和食は「多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重」、「栄養バランスに優れた健康的な食生活」、「自然の美しさや季節の移ろいの表現」、「正月などの年中行事との密接な関わり」である。

 

南北に長く四季が明確な日本には多様で豊かな自然があり、そこで生まれた食文化もまた、これに寄り添うように育まれてきた。このような「自然を尊ぶ」という日本人の気質に基づいた「食」に関する「習わし」が「和食;日本人の伝統的な食文化」として、ユネスコ無形文化遺産に登録されたのである。

 

■多様で新鮮な食材と、その持ち味の尊重

日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。

 

■栄養バランスに優れた健康的な食生活

一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは、理想的な栄養バランスと言われています。一汁一菜とは、日本における食事の献立の構成の一つ。

・主食 - 白飯など

・汁物 - 味噌汁など

・おかず(惣菜)1

・漬物(香の物)

4種類をセットにして食べるもの。通常、香の物は数に含まれないため、主食以外が「一汁一菜」となる。一汁一菜は、おかずが一品のみしかない「質素な食事(粗食)」の意味で用いられた言葉であったが、食生活の欧米化や飽食が問題視されるようになった近年はむしろ良い意味の言葉とされ、日本の伝統に基づいた形式の「バランスが取れた食事」とされる向きが大きい。一方でワンディッシュ化と表現し、日本の食卓の変化ととらえるむきもある。

 

また農林水産省では、一汁三菜の和食をバランスの良い食事として紹介している。元々は鎌倉時代に禅寺で採られていた、質素倹約を重視した食事の形式を指す言葉であった。よっておかずも野菜を用いた極めて質素なものであった(ただし、特別な日や来客時には「一汁三菜」となった)

 

この食事形式が一般の人々にも広まり、やがて「一汁一菜」、「一汁三菜」が日本の伝統的な日常の食事形態として、定着するに至った。

 


江戸時代には上杉鷹山や池田光政が、人々に倹約のために食事を「一汁一菜」にするよう命じたことが知られている。ただし、庶民にとっては一汁一菜も日常の食事としては贅沢なものであり、通常は「おかず無し」、つまりご飯・汁・漬け物のみというのが日常の食事スタイルであった。

 

上記の倹約令も、実際には「ハレの日」の贅沢を禁じるものであった。松代藩のように「おかず禁止令」を出し、徹底した倹約を図った藩も存在する。二宮尊徳も奉公先の小田原藩家老服部家を立て直すにあたって、おかずを禁止している。

2014/03/22

春の訪れ

春が遠い。とはいえ、ようやく春が近付きつつある。あと1週間ちょっとで4月になろうとは思えないような寒い日が続く中、それでも桜の開花予想が出て来ている。

 

例年では、関東や関西は4月第1週か2週目辺りに見ごろを迎えることが多いが、今年はどうなるか。昨年は、携帯キャリア最大手の「本番リリース」時期が重なりピークを逃してしまったが、今年は準備万端だ。幸いと言うべきか、終電が当たり前だった前の職場とは違って今はほぼ毎日定時帰りという、かつてないようなヒマな職場だけに休みも自由に取れる。今は、412週目であれば京都辺り、半ばにずれ込んだら高遠城址という計画を温めている。

 

正月明けに予定していた温泉旅行は結局行けなかったため、今年初の旅行だ。ようやく寒い冬が終わり、GWにかけて短い春を満喫せねば!

2014/03/18

対馬と壱岐島

出典https://chiebukuro.yahoo.co.jp/user/12616193

 

対馬

『魏志倭人伝』に於ける「対海国」ですが、本来は「対」の旧字「對海国」と記されています。「対海国」という表記は、この『魏志倭人伝』にしか見えず『古事記』の国生みの条では「津島(つしま)」、『日本書紀』には「対馬」とあります。『魏志倭人伝』の記述で、韓土から海を渡り最も近い倭の島てあるので「対海国」=「津島」=「対馬」と考えて間違いないでしょう。

 

それでは、何故「対海国」と表記されていたのか?

これを単なる誤記と解釈した先人も多いようですが、おそらく「対馬」より「津島」、「津島」より「対海」のほうが古い国名であったと考えると、朝鮮半島からも壱岐島からも約50kmの距離がある二島を主とした群島であるこの島を《海に対面している島》として古代の島民は「対海」と名付け、倭人伝を記した使者の立場からも《海を隔てて大陸と対面している島》という解釈で「対海国」と記したものと考えられます。

 

「津島」、「対馬」の由来としては「津のある島」、焼津、大津、唐津などに見られるように「津」とは港の意です。「上縣(北方の島)と下縣(南方の島)の二島が相対する島」とも考えられています。古代からの「対」の文字が生きていて「津島」が「対島」に、これが「ついしま」→「ついま」と読みが変化し「ついま」の読みに「対馬」の文字が当てられ、最終的に「対馬」を「つしま」と読むようになったと考えるのが、最も自然な流れでしょう。

 

壱岐

「壱岐国」は、古代においては「壱」の同意字である「一」、「岐」と字意と音が似ている「支」が用いられ「一支国」と記されていました。この「支」を「大」と誤記したという先人の解釈は、古代の筆記体が近似していたことから納得できますが、これも誤記ではなく「倭」を「委」と同字として「イ」と読み、「一(イ/ヒ)」を当てて「一国」=「倭国」。更に《一国のうちの海洋上の最も大きな国》=「一大国」とする説もありますが、若干無理な感が否めません。

 

壱岐」は『古事記』や『日本書紀』には「伊伎」、「以祇」、「壱岐」、『続日本記』や『延喜式』、『和名抄』には「壱岐」、『万葉集』には「由吉能之麻(ゆきのしま)」と記されていることから、古代「イキ」と「ユキ」の二通りの発音があったようです。「行く」を(いく)とも(ゆく)とも読むことからも分るように、昔は「イ」音と「ユ」音は現在よりも曖昧だったようです。

 

地名の由来としては、貝原益軒は「玄界灘の海が荒く、波飛沫が雪のように打ちつけることから「ユキ」と呼ばれた」と解釈していますが、他に

 

・「雪の浜」と呼ばれた白浜があったことから

・《沖に浮かぶ島》であることから「オキ」が「イキ」に転訛した

・鯨が多いことから、鯨の異名「いさな」が来ると書いた

・「鯨来」を(いさき)を読み、これが縮まった。

・九州から船出して停泊できる港がある島であることから

・《一息つく島》を「息の島」とした

 

など諸説あるようで、確たる説論は未だ分っていないようです。

2014/03/05

ホテルブッフェ(ビュッフェ、バイキング)

ホテルのブッフェ(ビュッフェ)が好きである。

 

日本語の「食べ放題」に相当する語には「ビュッフェ」、「ブッフェ」と別に「バイキング」という言葉がある。

 

そもそも「ブッフェ(ビュッフェ)とは何か?」から話が始まるが、これは言うまでもなくフランス語の「buffet」が語源だ。

 

《ブッフェとは、ブッフェテーブル(元卓)にまとめて料理が載せられており、食べ放題形式で提供される食事サービスのことで、自分で自由に料理を取りに行く立食スタイルのことをいいます。

 

ブッフェとは「立食の」、「セルフサービスの」という意味です。壁際に椅子などが用意されており、立食だけでなく椅子に座って食べることができるケースが多いです。また大抵の料理は、大皿に盛り合わせてあります。

 

ブッフェは招待客が料理を取りに動き回るので、招待客同士の交流が図りやすく、会場の雰囲気も和やかになります》

 


 

好きな料理を好きなだけ食べられるのが特徴で、取ったものの分だけお金を払うのが基本だから必ずしも「食べ放題」とは限らないが、定額サービススタイルの場合が多い。

 


 

ところで「食べ放題」となると、日本人には「バイキング」の方がなじみのある用語だが、これは「和製英語」らしい。英語で食べ放題に相当するのは「smorgasbord」、「all-you-can-eat」という語で、和製英語の「バイキング」は勿論、外国では通じない。

 

smorgasbord」とは、スウェーデン語の「スモーガス」(パンとバター)「ボード」(テーブル)が語源の合成語ということだ。

 

では、この「バイキング」という有名な言葉は、どこから生まれたか?

 

東京都千代田区にある帝国ホテルに、1958年にできたレストラン「インペリアル・バイキング」で、北欧のスモーガスボードをまねて、日本で初めてこの形式を採りいれたとされる。

 

「バイキング」は8世紀から11世紀にかけて、スカンジナビア半島やデンマークから船で海を渡ってヨーロッパ各地に侵攻したノルマン人で、この語をこの形式の料理の意で用いるのは日本での用法だ。レストランの開業時、当時公開されていたアメリカ映画「バイキング」の中の船上で食べ放題というシーンに着想を得て、帝国ホテルの社内公募により名づけられたという

 

ということらしい。


さて、ようやく本題である(といっても、大した内容ではないw)

 

帝国ホテルやホテルオークラのような、11万円もするような高級なのには手が出ないが、かつてXmasに招待されて「ホテル御三家」の一角を占める「ホテルニューオータニ」のブッフェだけは経験したことがある。夜の庭園を眺めながら、エグゼクティブな気分を味わえた。

 

ホテルブッフェというと、未経験の人は「高い」と思うかもしれないが、意外とそうでもない。先の「御三家」は別として、都内のそれなりのホテルでも56000円くらいだから、飲食次第で幾ら取られるかわからない居酒屋よりはお値打ちともいえるし、そもそもクオリティが違う。

 

そんなわけで、これまでブッフェに行ったホテルの名を列挙するだけでも、コートヤード・マリオット銀座東武ホテル(5900円)、新宿プリンスホテル(6200円)、横浜ベイシェラトン ホテル&タワーズ(5900円)、吉祥寺第一ホテルなど、ざっと記憶にあるだけでこんなところか(全て飲み放題付の金額)

 

最もお値打ちなのは「三井ガーデンホテル汐留イタリア街」で、なんとイタリアンブッフェがたったの「2,205円」という信じられない低価格(飲み放題付でも3705円)のため、ちょいちょい利用している。

 

ところで「ホテルブッフェ(バイキング)」と言えば、決して見逃せないのが「朝食バイキング」である。

 


 

余談ながら、朝食の場合はなぜか「朝食バイキング」と称していることが多く「朝食ブッフ(ビュッフェ)」などと看板を掲げている例は少ない(多分)。そして観光地のホテルともなれば、大抵はこの「朝食バイキング」が定番なのである。

 

総じて高額なディナーブッフェとは違い「朝食バイキング」は大体は宿泊料金に含まれている。ところが、これが昨今の過当競争のお蔭だろうか、なかなか侮れない充実した品揃えだったりする。

 



当然、各地の名物や地物がふんだんに使わているるから、すっかり旅には欠かせない楽しみとなっているのである。

 

ホテルだから、やはり素材にも拘っているのかどうかの実情は詳らかでないとは言え、実際にそれなりのホテルであればどこも美味いのだ。その証拠は、普段の朝食はバターロール2つ程度で済ませているこのワタクシでさえ、ついつい食べ過ぎてしまうのである。

2014/03/01

五色不動

五色不動(ごしきふどう)とは、五行思想の五色(白・黒・赤・青・黄)の色にまつわる名称や伝説を持つ不動尊を指し示す総称である。東京(江戸)のものが特に有名であるが、厳密に言えば四神や五色に関連する同様の伝説は各所に存在し、それが不動尊と関連付けられたものであれば、東京以外でも五色不動と称されることがある。

 

東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種六個所の不動尊の総称で「五眼不動」、あるいは単に「五不動」とも呼ばれる。五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、徳川家光が天海僧正の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。 史跡案内など多くの文献では、このような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。

 

一方、五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に『五色不動』という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。また名称を別とすれば、個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として『三不動』の名で知られる。

 

このうち目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。5色となっているのは、五行思想の五色(ごしき)からと言われる。

 

寛永年間の中旬、三代将軍徳川家光が天海大僧正の具申を受け、江戸の鎮護と天下泰平を祈願して江戸市中の周囲五つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされる。 最初に四神相応の四不動が先行し、家光の時代ないしは後年に目黄が追加された、として語られる場合もある。五色とは密教の陰陽五行説由来し、重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。現在の住所は明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので、本来の結界の役を失ったといってよい。ただし近年では風水と絡めて語られることも増え、五方を五街道と解釈する場合もあるなど、様々な説がある。

 

江戸時代以前に目黒・目白が存在している。「目黒」は、将軍家光の鷹狩りに関連して尊崇されていた。「目白」は将軍家光が目黒にちなんで命名したとも、目白押しから名付けられたともいう。また、江戸時代初期の動坂(後述)には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により「目赤」と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。以上3つの不動については、江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったく見られない。

 

教学院は元々青山にあり「青山の閻魔様」として親しまれていた。ここには、近くにあった廃寺から不動像が齎されている。明治40年代、この寺院は世田谷区太子堂に移転し、その頃から「目青不動」を名乗るようになった。

 

目黄不動」は2箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった「明暦不動」(後に訛って「メキ不動」と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から「目黄不動」とされたのではないかと推測される。いずれにせよ江戸時代には目がつく不動が3つしかなく、それをセットとして語る例はなかった。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたと考えられる。

 

東京には「目黒」、「目白」の地名が古くから実在する。夏山雑談では目赤・目青も地名であるかのように語られているが、現在の目赤・目青の各不動尊はいずれも引越しを機に名乗り始めており、移転先で地名を残すには至っていない。目黒の地名は目黒不動に因むという説もあるが、古い地名であり地名に由来して目黒不動となった可能性は高いとみられている。

 

目白の地名は文京区目白台と豊島区目白があるが、両者は近接した地域で目白台に因んで目白不動になったとも、目白不動に因んで目白の地名ができたとも言われる。目赤不動は、前述の通り伊賀国の赤目に由来する。また赤目不動の置かれていた不動堂は動坂の地名を残している。目青不動は、前述の通り青山の閻魔様を前身とする。