2007/11/23

紅葉狩り

今日から秋の三連休。そして秋の三連休といえば、言うまでもなく紅葉狩りである。

かつて愛知に住んでいた時は、紅葉狩りといえば京都が恒例だったが、2004年の夏に上京してからは秋の京都には行けず、以下のように近場ばかりで済まして来た。

2004年・・・都内(六義園、新宿御苑)
2005年・・・都内(深大寺、神代植物公園)
2006年・・・箱根(2泊)、修善寺、鎌倉、都内(高尾山、殿ヶ谷戸庭園、神代植物公園)

勿論、単純に京都への距離が倍以上に遠くなった事もあるが、2004年は上京したばかりでなにかと物入りだったし、2005年は落ち着いて京都へと思っていたタイミングで、プロジェクトが入ってしまってタイミングを逸した。去年も天気が悪かったりで、なんとなくタイミングを逃した。

そんなこんなで数年ぶりの秋の京都である(春は昨年4月、一昨年5月と、二年続けて行っているが)

元々美しい京都だが、その京都全体が最も美しく染まるのは、間違いなく3月~4月にかけてと、この11月下旬だ。実のところ、つい一週間くらい前までは今年も、箱根辺りの温泉で済ませてしまおうかと考えていたところだったが、ネットで京都の紅葉を見ているうちに急に行きたくなり、22日に休みを取って二泊で出かける事に。30分かけて、ようやく空きを見つけたホテルまで予約したのだったが、諸事情によりギリギリでキャンセルして、24日の出発に変更した。

例によって、前日に慌ててホテルの予約をする事になったが、幸いにして今度は定宿の予約がすんなり取れたのは幸いである。京の紅葉も、そろそろ見ごろを迎えたようであり、また2426日の三日間は寒気が退いて、暖かい好天に恵まれるという予報だ。

2007/11/09

石上神宮(いそのかみじんぐう)


石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる

古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。

社伝では、また一方で素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った時の十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では、明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。

垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動した時、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。

神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し、容易には開かないと記されている。

中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には再び神宮号を名乗ることが許された。

この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
出典 Wikipedia

ポリネシア語で読み解く『石上神宮』
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
<天理市北部、春日断層崖から奈良盆地に至る地区を石上といい、式内社石上市神社が鎮座します。石上神宮(式内社石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社。または布都(ふつ)御魂神社)は、天理市布留町の布留川扇状地の上に鎮座します。

『姓氏録』に「布都努斯神社は、山辺郡石上郷布瑠村高庭にあり」とありますが、古代には付近一帯を石上と呼んだものでしょう。石上坐布留御魂神社は布都御魂大神、またの名を甕布都(みかふつ)神、佐士布都(さじふつ)神ともいい神武東遷の際、天照大神の命で武甕槌神が下した、神剣フツノミタマ(『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月条)の霊とされます。

神武天皇即位の後、軍事を司る物部氏の祖ウマシマジ命に命じて宮中で祀らせ、崇神天皇の時、物部氏の伊香色雄命に命じて現在地に移したといい(『先代旧事記』。『姓氏録』は仁徳天皇の時とします)、代々物部氏の氏神として祀り、国家非常の際には天皇が行幸して鎮護を祈ったといいます。

また、この神社の「天神庫(あめのほくら)」には、大量の武器が納められていた事は有名です(『日本書紀』垂仁紀3910月条。『日本後紀』延暦242月条)

 この「いそのかみ」は、「イソ(石、石の多い場所)・カミ(上)」の意とする説があります。この「いそのかみ」は、マオリ語の「イト・ノ・カミ」、ITO-NO-KAMI(ito=object of revenge,enemy;no=of;kami=eat)、「敵を征服する(神の鎮座する場所)」または「報復を受けて切り落とされた山(断層崖のある土地)」  の転訛と解します。

なお、この「イト、ITO」は「ウト、UTO」の語と同義とされますので、有度(うど)山を「ウ・タウ、U-TAU、美しい乳房のような山」と解するのと同じく「報復を受け(て切り落とされ)た山(海側に断層崖のある山)」と解すべきかも知れません。宮崎県の鵜戸(うど)神宮も、同じ可能性があります。この布留御魂の「ふる」は、マオリ語の「フル」、HURU(contract,gird on as a belt,an incantation recited over weapons before fighting)、「(戦闘の前に刀剣などの武器に対し)呪文を唱えて霊力を与える(神霊)」の転訛と解します。

この布都御魂の「ふつ」、甕布都神の「みかふつ」、佐士布都神の「さじふつ」は、マオリ語の「フ・ツ」、HU-TU(hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「高いところ(または丘)に鎮座する(神霊)」、「ミカ・フ・ツ」、MIKA-HU-TU(mika(Hawaii)=to press,crash;hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「押し潰された丘に鎮座する(神霊)」、「タ・チプ・ツ」、TA-TIPU-TU(ta=the;tipu=swelling,lump;tu=stand,settle)、「膨らんでいる丘に鎮座する(神霊)」の転訛と解します。

ちなみに、物部の「もののべ」、「天神庫」の「ほくら」は、マオリ語の「モノ・ノペ」、MONO-NOPE(mono=disable by means of incantations,an incantation to disable an enemy;nope=constricted)、「呪文を唱えて敵を調伏する(ことを司る)氏族で、(天皇に)従属するもの」、「ホウ・クラ」、HOU-KURA(hou=dedicate;kura=treasure)、「奉納された宝物(を納める倉庫)」の転訛と解します。

2007/11/05

フィギュアスケート観戦記(2007グランプリシリーズ第二戦)

  フィギュアスケートのグランプリシリーズ第二戦・スケートカナダで、浅田真央選手が優勝した。

 

ショートプログラムでは、転倒が響いて3位と出遅れたが、得意のフリーで一気に逆転しての頂点だ。中野友加里選手も、浅田に続く2位に入った。グランプリシリーズ初戦のスケートアメリカに出場した安藤美姫選手は、転倒が響いてアメリカのK.マイズナーに敗れ、2位に終わっていた。

 

前週から始まったグランプリシリーズだが、次回の第三戦(中国杯)には日本の村主、そして韓国のキム・ヨナが登場してくる。キム・ヨナが「韓国の至宝」だと言うなら「日本の至宝」は間違いなく浅田真央である。

 

14歳で「天才少女」として華々しく登場してきた頃の、あの全身がバネのような伸びやかで華麗なジャンプや、滑るのが楽しくて仕方がないといった無邪気な天真爛漫さは蔭を顰め、最近は徐々に安全運転型になってきつつあるのは残念だが、それでもこの歳にして早くも堅実な勝ち方を憶えてきているのは、やはり優れた才能の証であろう。

 

世間的には、安藤を高く評価する勢力も根強く存在しているようだが、ワタクシの評価では浅田と安藤ではハナからモノが違うと思っている。ただし、マスコミの注目度は相変わらずバカ高いのが安藤だから、その分は浅田への負担が大きく軽減されているという点で、安藤の存在意義は大きい。

 

そうなると、問題は中野友加里選手だ。中野もそれなりにいい選手だし、一部専門家の評価などは高いのは事実だが、どうしても浅田、安藤に次ぐ「第三の女」(或いは村主に次ぐ、「第四の女」か)の印象は拭いきれず、どうにも中途半端な存在にしか見えない。演技を見ていても、或いはインタビューでもそうだが、いつも優等生的な匂いはするが、これといった面白みに決定的に欠けるのである。安定感はそれなりにあるとはいえ、それだけでは常に浅田の後塵を拝してしまうレベルであり、また酷い時は目も当てられないが、時折目の覚めるような爆発力を見せる安藤のような意外性もなく、常に及第点である(さりとて、村主のような演技力を期待できるわけでも、まったくない)

 

ここままのスタイルでは、いつまで経っても浅田、安藤の引き立て役で終わってしまいかねないだけに、どこかで殻を破って欲しいものだ。事実、スケートアメリカのフリーで、パーソナルベストを叩き出した中野だったが、その後で登場した浅田は

 

「中野に勝つには、このくらいで充分」

 

とばかりに大技を温存した、計算ずくの余裕の安全運転だった。

 

先にも触れたように「日本の至宝」浅田とは言え、世界にはキムなど強豪が犇いている事でもあり、オリンピックで勝つためには中野には安藤とともに、今後は浅田を脅かすような存在になってもらう必要があるし、中野にしても安藤同様に現状で満足はしていないはずだ。

 

三人が揃いも揃って、ワタクシと同じ愛知の出身というのはこの際関係ないが、浅田のような稀に見る天才と同時代に戦うという僥倖に恵まれた者には、そうした義務が課されてしかるべきではないのか?