2015/02/20

精進料理(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(11)

仏教が大陸から流入してきた頃から、すでに精進料理は存在した。

 

神道の場合においては、仏教よりも肉食への規制は緩かったものの「信仰する神とゆかりのある動物の肉は禁忌とされ、そうした肉のみを除外した料理も一種の精進料理(春日大社の鹿肉、八幡神社の鳥肉など)」と言った。

 

精進料理が本格的に発達したのは、鎌倉時代以降とされる。鎌倉時代以降の禅宗の流入は、特に精進料理の発達に寄与した。平安時代までの日本料理は魚鳥を用いる反面、味が薄く調理後に調味料を用いて各自調製するなど、未発達な部分も多かった。それに比べて禅宗の精進料理は、菜食であるが味がしっかりとしており、身体を酷使して塩分を欲する武士や庶民にも満足のいく濃度の味付けがなされていた。

 

味噌やすり鉢といった調味料や調理器具、あるいは根菜類の煮しめといった調理技法は、日本料理そのものに取り入れられることになる。また豆腐、氷(高野)豆腐(凍豆腐)、コンニャク、浜納豆(塩辛納豆ともいう)、ひじきといった食材も精進料理の必須材料として持ち込まれたと考えられる。

 

禅宗のうち曹洞宗では、開祖の道元禅師が宋に仏教を学びに渡った時、阿育王山の老典座との出会いから、料理を含めて日常の行いそれ自体がすでに仏道の実践であるという弁道修行の本質を知ったことから、料理すること、食事を取ることは特に重要視されている。道元が帰国後書いたのが『典座教訓』(てんぞきょうくん)と『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)で、ここから永平寺流の精進料理が生まれたという。

 

永平寺では、料理を支度することが重要な修行のひとつであり、庫院(調理場)の責任者である典座は重役の一員に数えられている。江戸時代には、料理屋でも寺院の下請けで仕出したり、仏教活動とは無関係に文人墨客向けに調製することが多くなっていた。京都大徳寺の精進料理は前者、飛騨高山の精進料理は後者の典型的なケースであり、いずれも分離していった懐石料理の手法を再び取り入れたりして、寺院のそれとはやや異なる風雅なものを生み出している。

 

精進料理はすでに記してきた通り、日本料理にも影響を与えて成長を促してきた。 永平寺式の精進料理は、室町時代から江戸時代前期にかけて普及した本膳料理に通じる。また懐石料理は、精進料理から派生したものである。現在でこそ、(同音異義の会席料理との混同もあり)豪華なものとなっているが、当初は質素で季節の味を盛り込んだものであり、精進料理の精神が活かされたものであった。

 

普茶料理は、中国料理の調理法が日本風にアレンジされながらも伝来し、けんちん汁、のっぺい汁、葛粉を利用した煮物や炒め物、揚げ煮といった料理や調理法が普及した。

 

寺院仏閣の中には、参拝者を宿坊に泊め精進料理を提供して、仏門の修行の一端を体験させることをしているところも少なくない。参詣参篭が信仰の重要な一部となる天台宗・真言宗系の寺院に多い。また宿坊においては、料理と宿泊だけの提供もある。

 

長野県の善光寺には、参拝客を宿泊させる宿坊が数多く存在し、夕食に精進料理を供することが多い。出される精進料理は、本膳式の本格的なものから懐石料理風の現代的なタイプのものまで、様々である。一方、京都の寺院では、特に賓客用の精進料理を料理屋に一任したことが多かったため、寺院よりも周辺の料理屋に高度な精進料理が存在することが多い。大徳寺や妙心寺の周辺には、精進料理専門の老舗の料理屋がある。

 

これは普茶料理でも同様であり、黄檗宗の総本山である萬福寺周辺には、普茶料理を食べさせる料理屋が多い。  普茶料理には、料理屋で作られる独自のスタイルを止め、懐石料理風に仕立てた限りなく日本料理に近いタイプのものから、長崎の禅寺で作られる原点に近く、時としては現代の素菜を取り入れた中国料理に限りなく近いもの(長崎の禅寺の檀家には華僑が多く、お盆などでは中国や台湾からの来訪者も多いためとも考えられる)まで幅広く存在する。

出典Wikipedia

2015/02/15

開闢之初『古事記傳』



神代一之巻【天地初發の段】 本居宣長訳(一部、編集)
「如2葦牙1(あしかびのごと)」葦は和名抄で「蘆は『兼名苑』に葭一名葦、『爾雅』注に一名蘆とあり、和名『あし』」と書かれている。「葦牙」は「あしかび」と読む。【書紀でもそう読んでいる。「び」を清音に読み「い」のように読むのは良くない。また「か」を「が」と濁るのも良くない。生まれた神の名であり、清濁の区別ははっきりしている。】葦がやっと芽生えたばかりの状態である。 「牙」の字は「芽」に通じる。和名抄では「玉編に『亂(正字は草冠に亂)タン(草冠に炎)である。タンは蘆が初めて生いること』とある。和名『あしづの』。」と言い【葦の初生を「角具牟(つのぐむ)」と言うので「あしづの」とも言うのである。】これが葦牙(あしかび)である。「如」と言うのは、その形が葦の芽に似ていたのであって、萌え上がるさまが似ていたというだけではない。【書紀にも「形如2葦牙1(かたちアシカビのゴトシ)」、「有レ物若2葦牙1(アシカビのゴトきモノあり)」などとある。単に「浮き脂」という語で漂っていた状態を喩えていたのとは、少し違っている。】これによって生まれた神の名にも「アシカビ」が入っていることで、それがよく似ていたことを知るべきである。

萌騰之物は「もえあがるもの」と読む。【「之」の字を読んではいけない。】万葉巻十【八丁】(1847)に「春楊波目生来鴨(ハルのヤナギはモエニけるカモ)」、また(1848)「此河楊波毛延爾家留可聞(このカワヤナギはモエニけるカモ)」などがある。【木草の芽や葉がわずかに出始めたのを「め」と言うのは「もえ」が縮まった形だろう。「芽ぐむ」と言うのも「もえぐむ」から来ているだろう。】「騰(あがる)」という語は、書紀の神武の巻に「足一柱騰宮、此云2阿斯毘苔徒鞅餓離能宮1(足一柱騰宮、コレをアシひとつアガリのミヤという)」などがある。「物」は後に天になる物を言う。
この物はどこから出たかというと、虚空を漂う浮き脂のようなものの中から出たのだ。 書紀の一書に「一=物2在於虚中1、状貌難レ言、其中自有2化生之神1(おおぞらにヒトツのモノなれり。そのカタチいいガタシ。そのナカにオノズカラなれるカミあり)云々」、【「その中に」とあるのを考えよ。】また一書に「于時國中生レ物、状如2葦牙之抽出1也、因レ此有2化生之神1、號2可美葦牙彦舅尊1(トキにクニのナカにモノなれり。そのカタチあしかびのモエイズルがゴトシ、これにヨリテなりませるカミ、うましアシカビひこじのミコトともうす。)」【「国の中」とは、前述の「浮き脂のように漂っていたもの」の中ということである。】また一書に、「譬=猶2海上浮雲無1レ所2根係1、其中生2一物1、如3葦牙之初2生ヒジ(泥の下に土)中1也(ウナバラなるウキグモのカカルところナキガごとくなり。ソノナカにヒトツノものナレリ。アシカビのヒジのナカよりモエそめたるがゴトシ)」などとあるのを以て知るべきである。

ところで、これは天の始めであり、このように萌え上がって後に天になったのである。【これについて思うに、天を「あめ」と言うのは「葦萌え」が縮まって「し」を省いたものかも知れない。 葦はただ喩えに言った言葉だが、上記のように神の名にも含まれているからである。かの「浮き脂のようなもの」は天と地がまだ分かれず、一つに入り混ざった混沌の状態であったが、その中の天になる要素は、ここで萌え上がって天になり、地になる要素は残り留まって後に地になったのであって【地の形成は女男大神の段にある。】これが、まさしく天地が分かれたということである。
書紀の一書に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物若2浮膏1生2於空中1、因レ此化神、號國常立尊(アシカビのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、アメのトコタチのミコト、つぎにウマシあしかびヒコジのミコト。またウキアブラのゴトクなるモノおおぞらにナレリ。コレにヨリてナリマセルかみのミナは、クニのトコタチのミコト)」とある。ここで葦芽のようなものによって生まれた神は天常立、浮膏のようなものによって生まれた神は国常立と言い、天地が分かれたことを知るべきである。【ただしここで、浮き脂のようなものと、葦の芽のようなものが始めから別に生まれたように書いてあるのは、やや異なる伝えである。しかし天地の分かれたことは、この伝えで非常にはっきりする。

ある人は「この一書では、始めから天地が分かれていてよく分かるのに『浮き脂のようなもの』一つだけを天地の始めとするのは、いささか疑わしい。それが天地を兼ね備えたものだったら、始めに『天地稚く』とありそうなものなのに、天については言わず『國稚く』とあるからには、この『浮き脂』は実は後に地になった物質であって、天になる『葦芽』は、この一書のように初めから別に発生したのではないか」と言う。
答え。「その疑いももっともだが、以上に引いたように書紀の各伝も、多くは『浮き脂』から『葦芽』が生えたとしており、この記も、それほどはっきりとは言っていないが、同じく『浮き脂』から『葦芽』が萌え上がったように読めるので、やはり天になる要素と地になる要素は、いずれも『浮き脂』に包含されていたと考える。天については言わず『國稚く』と言ったのは、この伝承全体がこの国で語り伝えたことだから、国を主体にした言い方をしているのだ。書紀の本文で最初の五柱の神を省き、国常立尊を最初の神のように書いているのも、こうした心からであって国土を主体としたのだ。また天となる要素は上り去り、地となる部分は留まって地となった。後から見ると上り去った天は客分で、残り留まっている地は主人のようにも見えるので、初めからの記述をもっぱら地を主体として、それを『国』と言ったのもありそうなことだ。だから、この一書で初めから二つに分かれたような書き方をするにも『浮き脂』の方を地としたのではないだろうか。」】それなのに「これが天の始め」、「これが地の始め」などと画然とさかしらに言わず、ただその時々の神の誕生の由縁にこと寄せて、このようになだらかに語り伝えたのは、実にのどやかな上代の伝えであり、たいへん貴いことである。 ところで、こういう浮き脂のような物の発生も、それが分かれて天地となったことも、またその後に続く神々が生まれたのも、すべて二柱の産巣日の神の産霊の働きによるのである。

○「成神(ナリマセルかみ)」 このとき「葦芽のごときもの」から生まれた神は、この次に書かれている二柱の神であろう。前にも引いた書紀の一書第六に「有物若2葦牙1生2於空中1、因レ此化神、號天常立尊、次可美葦牙彦舅尊、又有物云々」と二柱を挙げてあり、国常立神が生まれたとするのは、別だからである。この記でも、この二柱を天つ神として段落を閉じており【もし天之常立神もこの「葦芽」から生まれたとすると、この物は天の素材なのだから国之常立神も天つ神となるが、そうでなく天つ神は天之常立神までである。】天之常立、国之常立という神名も、天と地に分かれているからだ。【「葦芽のごとくなるもの」は天の素材になったものであって、地の始めではないので国之常立神は、このものから生まれたはずはない。】しかし一概にそうとも言い切れず、伊邪那美神までが、この「葦芽のごとくなるもの」から生まれたと思われるふしもある。そのことは、国之常立神のところで述べる。

2015/02/09

二宮大饗(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(10)

正月、諸臣が中宮、東宮への拝謁を終えた後、朝廷から饗応に預かる物。殆ど記録が無く、具体的な献立内容や形式は不明。

 

大臣大饗

親王などの皇族が、大臣の屋敷を訪れた際の接待料理の形式。平安末期の『兵範記』に書かれた藤原基実の保元元年(1156年)「大臣大饗」は、永久4年(1116年)の藤原忠通のそれを参考とし、事前の準備は宴会予定日の9日前から始められ、赤漆塗の膳を特別に誂え、その膳の上には白絹を現在のテーブルクロスの如く敷き、これまた特別に誂えた折敷や漆塗の食器に料理を盛りつけたとある。

 

この時の具体的な内容は『類聚雑用集』に記録されているが、それによると献立の内容は参列者の身分によって異なっており、皇族の正客(「尊者」と記述される)は28種類、三位以上の陪席公卿は20種、少納言クラスでは12種、接待する主人が最も少なく8種となっていた。

 

献立内容は「飯」、調味料、生もの、干物、唐菓子(今のドーナツに近い)、木菓子(=果物類)、生ものには獣肉類は無く、魚介類、鳥類(雉など)で占められ、干物もアワビやタコ、蛙などで獣肉類は無い。調味料が別皿になっているところから見て、料理自体には味はなく食べる時に好みで調味料を付けながら食べた物と考えられる。

 

この調味料も身分によって差があり、尊者や公卿はひしおなど4種あったが、主人には塩と酢のみであった。また、食器として箸の他に鎌倉時代以降は衰退する匙(スプーン)が存在し、各料理を盛りつけた容器の大きさがほぼ同じで料理の序列が判然としていない点も、後の時代の料理とは異なる特徴といえる。

 

有職料理の誕生

鎌倉時代になり政治の実権が貴族から武士に移ると、大饗料理を維持することは困難となった。室町時代になると経済的・文化的にも武士の優位は動かしがたい物となり、武士も公家の文化を採りいれ武士独自の饗応料理として「本膳料理」の形式を確立する。公家も本膳料理の形式を取り入れつつ、独自の式典料理として「有職料理」の形式が次第にまとまっていった物と考えられる。この過程で、大饗料理には存在していた台盤や唐菓子などのチャイナ文化風味が欠落していったと思われる。

 

有職料理の変遷

江戸時代初期、徳川家光が行った二条城での後水尾天皇御成行事の際、天皇家側の料理人2名(高橋家、大隅家)、徳川幕府側の料理人2名(堀田家、鈴木家)の他、京都の町方の料理人から生間(いかま)家が抜擢されて調理に携わったことから、生間家は八条宮家の料理人をその後、代々拝命することになる。明治時代になり、桂宮家(八条宮家の後裔)が子孫断絶により絶家したため生間家も下野し、その料理法は京都の民間の限られた料亭に伝えられた。

 

現在、宮中でも皇族の結婚式などの中継で、会席料理などとは大きく異なる盛りつけの日本料理が見られることから、生間家が伝えた物とは別の有職料理が伝えられている物と思われるが、外国要人などの接待にはもっぱらフランス料理が使われており、極限られた儀式でしか食べられない物のようである。

 

形式

生間流29代家元でもある小西重義氏(生間 正保)が店主の料亭「萬亀楼」での有職料理の形式は、以下の通りである。

 

初箸

会席料理の「先付」にあたる

 

添え

会席料理の「小付」にあたる

 

椀物

お造り

 

嶋台

など。

 

特に生間流の場合は、造りの捌き方に「式包丁」という作法がある。一切魚に手を触れず、包丁と菜箸のみを使うのが特徴。

出典 Wikipedia