2014/08/30

居住環境(引越し)(5)

前にも書いた通り、引越しの最大の動機は部屋の狭さと環境の悪さだったが、これらは引っ越しにより解消された。

 

Kが2LDKに変わり、ついでにベランダ、バスルーム、風呂自体も若干広くなった。独立洗面台の洗面ボウルとミラーキャビネットも大きくなったし、シャワー付きトイレはマンションによくあるバスルームとドアで隔てられたタイプではなく、完全独立のトイレルームに変わった。さらに、申し訳程度だった玄関は数倍と言える広さとなり、シューズボックスは30足は入るほどのちょっと珍しい大きさだ。

 

やはりドアを開けた時に、玄関の広いのは開放感があってよい。また、収納も豊富である。これまでは、パイプベッドの下に詰め込んでいたダンボール詰めのものは楽々収納できた上に、まだまだスペースに余裕がある。

 

さらに特筆すべきは、環境の良さである。繰り返すように、前のマンションが大通りに面していたため日中は言うに及ばず、深夜も長距離便のような大型トラックの音が煩かった。これに懲りて「南向きでも、大通りに面したのはNG」というのが、重要なリクエストのひとつだった。

 

「大通りに面さない完全南向きで、かつ向かい側と周辺に障害物となるような高層建築がない」というのは都会ではなかなか難しい条件らしく、これが物件探しにおいてかなりの障害になっていた。それらの条件をクリアしたマンションは、車の通りの少ない閑静な住宅街にひっそりと佇んでいる。その環境の良さは、早朝から武蔵野の野鳥の鳴き声が煩いくらいに賑やかで、国木田独歩の書いた武蔵野の面影が残っているかは怪しいとはいえ、夜はベランダから月や星も良く見える。このご時世の都会で、まだこれだけのロケーションが残っていたのかと驚くばかりである。

 

さらに新しいマンションは「オール電化」だった。自分としては、オール電化などという洒落たものより、普通の電気と都市ガスの方が慣れていて良いと思ったが、これは仕方ない。ところが、初日早々にトラブルが発生した。風呂に入ろうと思ったら、湯が出ないのである。正確に言うと、風呂に入ろうとしたわけではなく、洗髪とシャワーが目的ではあった。システムバスの操作パネル自体は、前のマンションより豪華にはなっていたものの、設定温度を50度に上げても給湯ボタン、追い焚きと、全てのボタンを押したがどれも無反応で、最後の手段は手動のコックを捻ることだったが、うんともすんとも反応せず、どうやっても水しか出てこない。

 

業を煮やしてメーカー(TOTO)のサポートに電話をすると、どうやら入居日のこの日までブレーカーが落ちていたため、タンクが空になっていることが原因らしかった。通常であれば夜中にタンクに溜まる水を沸かして、お湯にするという仕組みらしい。となれば、怒りの矛先は管理会社の方で、TOTOに文句を言う筋合いではなかったものの、このような事態に直面すると、やはり

(捻れば当たり前にお湯が出てくるガスの方が良かったのに・・・)

と思えてしまう。

 

またキッチンはIHクッキングヒーターという、これまた洒落たものだったが料理などすることはない。入居した夏であれば精々枝豆を茹でるくらいだから、使い慣れないIHなんとかの説明書を読む面倒を避けるため、手軽なイワタニのカセットコンロを使っていた。ところが枝豆を茹でる時間は10分くらいだが、これだけでカセットボンベが直ぐに無くなる。56本あったはずのボンベが、忽ち残り1本となって遂に否が応でも「IHデビュー」というところに追いつめられた(オーバーなw)

 

ようやくにして、徐にIHクッキングヒーターとやらの電源を入れてみると、これが見事に反応しない。これまで愛用して来た、380円の雪平鍋が使えないことが、ここに判明した (-o-)

 

仕方なしにIH対応の鍋と、ついでにやかんも購入しないといけないとは、余計な出費以上になんとも面倒であった。などと、ぶつくさ文句を言いつつも、使ってみると

(こりゃ、火でない分だけ安全なんじゃないの?)

 

とも思ってもみたり (≧∇≦)ブァッハハ!

2014/08/26

天地開闢

 『古事記』と『日本書紀』は「記紀」と称されるほどだが、内容的にはかなり違いがある。

 『古事記』の読みは「こじき」ではなく、正確には「ふることぶみ」(「古い事を記した書」の意味)と読む。

『古事記』原文(第一段相当)
『天地(あめつち)が初めて分かれた時に、高天原に成られた神の御名は「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と云う。
次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日神(かむむすひのかみ)である。 
この三柱(みはしら)の神はみな獨神(ひとりがみ)で、お姿を現されることはなかった。』


 ここまでの三柱を「造化三神(ぞうかさんしん)」と称する。

 いわばキリスト教など海外の宗教の「創造神」のイメージに近く、別格中の別格の神様と言える。

『その後、世界(宇宙)ができたてで、水に浮かぶ脂のように、或は海を彷徨う久羅下(くらげ)のように定めなく漂(流)っている葦)の芽のように、息吹き萌え上がるものから成られた神の御名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこちぢのかみ)、 次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)と云う。
この二柱の神もまた獨神で、お姿を現されることはなかった。』

 以上の五柱の神を「別天神(ことあまつかみ)」と称する。

 「別天神」の意味は、この後に次々と誕生してくる神様の中でも、やはり別格の位置づけと見るべきであろう。

日本書紀 第一段 本文
『「古(いにしへ)の未だ天地が離れず、陰と陽とも分かれておらず、廻りならが漂う姿は、あたかも鶏の卵のようであり、暗くてよくわからない中で何らかの芽生えの気配が生まれた。
その輝くものは薄く広がって天となり、重く濁ったものは留まって地となった。
清く明るいものは集まりやすく、重く濁ったものは固まりにくかった。
そこで、まず天ができ、その後に地ができた。
かくして後に「神が、その中で生まれた」と云われている。
かようなことから、我が国では、次のように伝えられている。』


『天地ができ始める時の地が浮かび漂う様子は、例えると魚が水の上に浮いているようなものであった。
その時、天地の中に一つのものが生まれた。
形は萌え出(いづ)る葦の芽のようで、それが神となった。
國常立尊(くにのとこたちのみこと)と申し上げる。
大変貴い方を「尊」と表し、それ以外を「命」と表す。
次に國狹槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)で、すべてで三柱の神である。
この三柱の神は乾道(あめのみち=陽)だけで生まれたものである。
よって、純粋な男神である。』


 このように古事記と日本書紀とでは、最初に誕生した三柱の神が、まったく異なる

2014/08/13

逢坂

忍熊王は第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子様、武内宿禰は大和朝廷初期の5帝に大臣として仕えた「伝説の英雄」であった。

 

さて、仲哀天皇には神功皇后(じんぐうこうごう)という第一夫人がおられ、この人が出兵先の新羅で皇子をお生みになり、その子を連れて帰国された。忍熊王は、皇子様とは言え第二夫人の子だったから、皇位継承権は神功皇后の子が優位になる。神功皇后が皇子を出産し、(仲哀天皇は、すでに亡くなっていた)この子が次の天皇になることが確実になると、忍熊王はこれに反発する。神功皇后と赤ちゃんを秘かに亡きものにしようと謀るわけだが、これを知った神功皇后は忍熊王を討つよう武内宿禰に命じた。

 

こうして武内・忍熊は軍を交えて戦うことになったが、武内宿禰は三韓征伐にも功を成したともいわれる海千山千のツワモノだから、若い忍熊王が敵うはずもなく奈良から京都へと敗走した。そして近江への峠を越える逢坂山で、武内宿禰に追いつかれて「逢う」ことになった。さらにその後、忍熊王は近江まで追いつめられ、琵琶湖に身を投げたとも斬られたとも言われる。

 

他に逢坂の名の由来は、逢坂の関に準えたとも、聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせた言われた「合法四会」に近いことにより「合坂(オウサカ)」と名付けられた、など諸説ある。

 

昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になった。後に都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み「逢坂」とよばれるようになった。

 

出典http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/chimei/ousaka/

滋賀県大津市と京都府京都市との境に位置する逢坂山の地。香坂王・忍熊王の反乱の時に、忍熊王の軍が神功皇后の軍に追い詰められて逃げ退いた地とされる。『日本書紀』神功皇后条、摂政元年三月に、反乱を起こした忍熊王の討伐に向かった武内宿禰が、この地で忍熊王に出会ってその軍勢を打ち破ったことから逢坂と呼ばれるようになったという地名起源伝承が見える。

 

また、孝徳天皇条大化二年正月朔にて出された改新の詔の中で、「合坂山(=逢坂山)」が畿内と畿外の北境として定められたことが見える。この点から、古代より都と東国・北国を結ぶ交通の要衝の地であったとされる。『万葉集』巻十三、「逢坂を うち出でて見れば 近江の海 白木綿花に 波打ち渡る」(3238番歌)を始めとして、歌の中にもよく詠まれる地である。

 平安期、逢坂山には逢坂関が置かれた。先に存在した愛発・不破・鈴鹿などの関が東方への備えという意味をもつのに対し、逢坂関は明確に平安京の防衛を目的とするものとして作られたとされる。

 

 逢坂の語義について、記紀ともに上記の忍熊王の軍との戦いの最終激戦地となっていることから、逢坂の地名を構成する「逢ふ」という語の背景に、単に人が出会うという意味だけではなく、「戦う、争う」という内容をあらわす「あふ」の意が存在するのではないかとする説がある。また、山城国側からも近江国側からも急な坂道を登らなければならないことから由来した名称とする説、二つの坂が出会う場所=峠の語義とする説もある。

 

 本項で地図上に示している場所には国道1号沿いに立てられた「逢坂山関跡」の記念碑がある。しかし、この記念碑の場所が関のあった場所と確定されているわけではなく、大谷町から琵琶湖方面に向かって下りてきた谷口である逢坂一丁目の蝉丸神社下社を北限、京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所を南限とする安養寺付近の空間を逢坂関の候補地とする説もある。

2014/08/11

うま味(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(5)

素材の新鮮さが特に尊重される

 

一般的に米を始めとする穀物、野菜、豆類、果物、魚介類や海藻といった海産物、鳥類の肉などが使われ、乳製品は殆ど用いられない。特に海産物と大豆加工食品の利用の多彩さが特徴で、総じて低脂肪、高塩分であるとされる。

 

このような特徴はコリア料理や東南アジアの食文化とも共通するが、それらの料理と比較して獣肉と油脂の利用が発達しておらず、風味の強い香辛料の使用が少ないという違いがある。新鮮な食材や良質な水に恵まれているため、素材の味を最大限に活かした味付けが尊重される

 

調味の基調は塩、うま味を豊富に含んだ出汁(鰹節や昆布などを煮出して作られる)、大豆を麹で発酵させた醤油、味噌である。日本酒や米酢などの米発酵調味料も多用される。甘みには水飴・みりんが使われるが、現代では砂糖を使うことが多い。ナタネ油、ゴマ油などの植物油を少量使い、ラードなどの動物性油脂は殆ど使用されない。食材を水にさらしたり茹でたり煮たりすることが多いため、水そのものの味も重視される。

 

うま味

うま味(旨み、旨味、うまみ)は、主にアミノ酸であるグルタミン酸、アスパラギン酸や、核酸構成物質のヌクレオチドであるイノシン酸、グアニル酸、キサンチル酸など、その他の有機酸であるコハク酸や、その塩類などによって生じる味の名前で5基本味の1つ。うま味物質は、東京帝国大学(現在の東京大学)教授だった池田菊苗によって、1908年にだし昆布の中から発見された。最初に発見されたうま味物質は、グルタミン酸であった。

 

うま味」となるだし昆布や鰹節を使用した出汁は、日本料理において基本となる伝統的調理手順のひとつである。そのため、日本の学者は「ダシがきいていない」という味覚は塩味や酸味が足りないのとは違う感覚であることを経験的に知っており、うま味の存在に早くから気づいていた。

 

1913年に、小玉新太郎が鰹節から抽出したイノシン酸も、うま味成分であることを確認した。1957年には、国中明がシイタケ中から抽出したグアニル酸が新たなうま味成分であることを発見した。

 

一方で、西洋文化圏では、フランス料理におけるフォン・ブイヨン・コンソメのように、だしによってうま味を増す料理法が存在するものの、後述の通り欧州の水は硬くて出汁を取りにくく、多くの料理ではトマト(グルタミン酸を豊富に含む)、チーズのような酸味などが強い食材によってうま味を補給したり、何より肉料理では肉の煮汁自体がうま味の供給源となったため、うま味を増すことに多くの意識は向けられなかった。そのため、日本の学者の主張するうま味の存在は、多くの欧米の学者には懐疑的に受け止められ、うま味なるものは塩味・甘味などがほどよく調和した味覚に過ぎないと考えられていた。

 

しかし、2000年に舌の味蕾にある感覚細胞にグルタミン酸受容体(英:mGluR4)が発見されたことによって、うま味の実在が世界的で広く認知されるに至った。

 

うま味成分

うま味物質は蛋白質や核酸に富んだ細胞の原形質成分に多く含まれ、主として蛋白質の豊富な食物を探知することに適応して発達した味覚であると考えられる。

 

代表的なうま味成分のうち、アミノ酸の一種であるグルタミン酸は植物に、核酸の一種であるイノシン酸は動物に多く含まれることが多い。イノシン酸など、うま味を感じさせるヌクレオチドは、呈味性ヌクレオチドという。

 

また、アミノ酸系のうま味成分と核酸系のうま味成分が食品中に混在すると、うま味が増す。これを「うま味の相乗効果」と呼ぶ。実際に日本料理では昆布だしと鰹だしやシイタケのだしを合わせるといった調理が行われ、中華料理でも長ねぎと鶏がらスープを合わせるといった調理が行われている。

 

現在、これらの天然から取れるうま味成分は、主として発酵工業の手法で人工的に製造され、うま味調味料として使われている。うまみ調味料の製造でも、主成分のl-グルタミン酸ナトリウムの他に、グアニル酸とイノシン酸を添加して、うま味の相乗効果を出している例が多い。

 

その他にも、食用のハエトリシメジに含まれるトリコロミン酸、毒キノコのテングタケに含まれるイボテン酸、貝類に含まれるコハク酸やコハク酸ナトリウムにも強いうま味がある。またレモンに含まれるクエン酸やリンゴに含まれるリンゴ酸などの果実酸類には、食品のうま味を高める作用がある。

 

硬水では、昆布のグルタミン酸や鰹節のイノシン酸のようなうま味成分の抽出を阻害するので、軟水の使用が望ましい。

 

うま味成分の味

グルタミン酸:昆布、チーズ、醤油、味噌、野菜類

イノシン酸:肉、魚介類

グアニル酸:きのこ類

 

名称

うま味」の命名は、その成分物質がグルタミン酸であることを発見した池田菊苗による。池田は、それまでに知られていた酸味(さんみ)・甘味(かんみ)・塩味(えんみ)・苦味(にがみ)の四基本味に加わるべき第五の基本味としてこれを「うま味(うまみ)」と名付けた。なお、発表当時からこの表記である。

 

日本国外、特にその存在の認知が遅れた欧米諸国の言語では、従来この「うま味」に相当する表現が存在しなかったため、現在のところ日本語を借用した「umami」を便宜上代用している場合が多い。ただし、英語の「savory」(肉料理の風味がある)や「brothy」(肉の煮汁の風味がある)、中国語の「鮮味」、そしてこれらに相当する各国語の表現を使用する試みも見られている。

 

東南アジアにおいても、うま味を含有する調味料である魚醤が使用されてきた。タイ料理においてナンプラー(魚醤)が有名であり、ベトナムではチャイナの影響を受けた地域で炒めものが主であることに対し、ベトナム南部の地域ではうま味としてニョクマム(魚醤)が使用されている。魚介類を塩漬け加工した調味料魚醤は、タイ、ベトナム南部、カンボジア等で伝統的に使用されている調味料である。

 

またチャイナでも、福建省など一部の沿岸地域において魚醤が使用されていたなど、東南アジアを中心とした海洋沿岸地域では、うま味として利用されてきた伝統的な調味料が残る。

 

古来より米価が物価の基準として用いられ、米本位制社会とも呼ばれたように、日本では主食・通貨として米が重視され「ご飯」という言葉は食事という意味と同時に、米そのものも指す。

 

瑞穂国」が日本の美称としても使われ、稲荷神社が日本各地に存在し、秋の収穫祭の中心は米であり、天皇家においても新嘗祭は重要な行事である。多くの日本料理が米(および日本酒)に対する副食としてデザインされており、炊飯米と合わせて食べた時にちょうど良くなるように、塩味が調整される傾向にある。

 

お米はいつから作られた?

最近の研究では、2500年ぐらい前から日本で稲が作られるようになったのではないか、ということがわかってきている。初め九州に伝わった米作りは、あっというまに青森県の北の外れまで広がって行ったらしい。さらに考古学が進歩すれば、もっと前から作られていた可能性も出てくるかもしれない。

 

そして昔の人は、米を「神様からの授かり物」と考えていた。神様の話がたくさん出てくる「神話」、遠い昔からの古い言い伝えに、お米は一体どこから来たのかについての話がある。その神話では

 

「ずっと遠い昔、天の上には神様の世界があり、そこに住む神様の子どもがこの国へ降(くだ)ってきた」

 

と伝えられている。

 

その子どもの名前は、ホノニニギノミコト。「」というのは稲穂の「」、「ニニギ」と言うのは「賑やか」、つまり「稲穂がたくさん実る神」ということである。そのニニギノミコトのお婆さんにあたる神は、天照大神という太陽の神様である。

 

天照大神は、ニニギノミコトが地上に降るとき稲穂を与え「これで、みんなのお米を作りなさい」と教えた。そうして「お米というものは、天照大神から頂いたものなのだ」と、昔の人はみんなそう考えながらお米を作り続けた。

 

戦前の小学校歴史教科書『尋常小学国史』の冒頭には

 

「天皇陛下のご先祖を天照大神と申す。大神は御徳きはめて高き御方にて、はじめて稲・麦などを田畑に植ゑさせ、また蚕をかはせて、万民を恵みたまへり」

 

と書かれていた。

 

その後

 

「大神の御弟にスサノオノミコトと申す御方ありて、たびたびあらあらしき行ひありし・・・大神つひにたへかねたまひて天の岩屋に入り、岩戸をたててその中にかくれたまへり」

 

と続く。したがって、天照大神がまず稲をお植えになったところが米の発祥の時点であり、その後にスサノオに水田を荒らされて大神は岩戸にお隠れになった、と見做していた。

 

さらに、有名な「天孫降臨」の話がある。古事記によると、天照大神は天孫降臨に際して孫のニニギノミコトに稲穂を渡して、これで豊葦原の国を開拓して暮らしをたてよと神勅されている。

2014/08/06

粗大ごみ処分と退去費用(引越し)(4)

この時に気になったのが、元の住居で処分しきれずゴミ捨て場に捨ててきた粗大ゴミだ。前のマンションは管理会社も大きく世帯数も多かっただけに、ゴミ担当のオジサンが雇われていた。ゴミ捨てのルールなどはまったく無頓着で、かなり出鱈目に出し続けていたが、毎朝オジサンがゴミ置き場で汗を流して分別をしてくれていたお蔭で、一度も問題にはならなかった。

 

それを拠り所として、あれらの粗大ごみも

(管理会社の方で、なんとか処分してくれるのでは?)

という淡い期待があった。

 

が、さすがに普通のゴミとは違い明らかな粗大ごみであり、またあれだけの量に加え最近引っ越したということで人物特定も容易だろう。

 

後になって

(業者に頼んだら、全部で1万以上掛かりまして・・・)

などと法外な請求されても困るので、ついでにこの廃品回収業者に頼むことにした(ついでと言うには、こちらの方が遥かに多かったのだが)

 

引越し先は吉祥寺の西端、引っ越し元は吉祥寺の東端だから自転車ごと業者の車に便乗し、前の住居に戻る。捨てたのはカビの生えたマットレス、扇風機、PC2.1chホームシアター、デスクトップPC、座椅子だ。このうちPCはデータを消去したり破壊する必要から、市の粗大ごみでも「対象外」となっているやっかいなもので、別の専門業者に依頼するとのことで「3000円」と高かった。で、残りの4点を3500円とし、先のパイプベッドと併せて8000円で交渉が成立した。

 

いずれも処分品だけに想定外の出費ではあったが、管理会社の息の掛かった高い業者を使って法外な請求をされても困るし、市の粗大ごみでまとめて出せば安く済んだかもしれないが、処理券を購入して名前を書いて置いておくなど、小学生のようなことはやってられん ('Д'y ─┛~~

ともあれ痛い出費を伴ったものの、責任を果たしてホッとしたことは確かだった。

 

新しいマンションは築3年ということだったが、新築と言われても騙されそうなくらい綺麗で、慣れるまでは新築物件特有の匂いが強かった。振り返れば、前のマンションも入居した時はやはり築3年程度だったから、最初は綺麗だと思ったものだったが。それにしても10年も住めば汚れもするし、様々な経年劣化もある。特に10年も吸い続けてきたタバコによる汚れが著しく、コンクリート剥き出しの壁の色はすっかり茶色に変色していた。

 

過去の職場で

「引越しの時に30万も請求されて、消費者センターのようなところへ相談に行った」

という話を聞いていたため「退去費用」は大いに気がかりだった。不動産会社の営業など、何人かに相場を聞いてみたものの

 

「ケースバイケースで、大きく変わって来ますので・・・相場と言うのは、ないようなものです・・・」

 

と、どれも歯切れが悪く、終ぞ参考になるような答えは聞いたためしがない。

 

入居時に払った敷金は、家賃1か月分だ。これに関しては、最初から戻って来ることはまったく期待していなかったから、退去費用もこの金額内までは許容範囲とし、アシが出るようなら簡単には引き下がるつもりはなかった。ましてや20万だの30万だのは論外で、もとより払う気はない。

 

そうして、いよいよ立会いの日を迎える。見積もり業者は予想通りヤクザ者のような厳ついオジサンで、ゴリラのように狭い部屋を動き回った挙句、項目別に掛かる費用と根拠の説明があったが、こっちは素人だから感覚でしか判断出来ない。特にクロスの張替えは高いなと思ったものの、このマンションはコンクリート打ちっ放しのデザイナーズマンション系だけに

 

「壁の材質は良いものを使っていますので、どうしても張替には結構な値が掛かってしまうんですね」

 

などと自信を持って言われては、反論する知識も根拠もない。タバコによる汚れの著しさは、こちらも認めるところだ。

 

(細かいことは抜きにして、トータル費用が敷金からアシが出なければ良し)

 

と決めていた。実は向こうは強かなプロだから、相手を見てこのくらいは取れそうだとか、これ以上吹っかけたら納得しないだろうといった見極めをしながら見積もりを出してくるのでは、と当初から想像していた。で、案の定、こちらの設定した敷金ギリギリ手前に収めて提示してきた金額を目にし、思わず

(やっぱり、ちゃんと心得とるわ・・・)

と笑ってしまった。

 

明細を見るとクロス張替は高そうに思えたものの、それ以外はまあ妥当性のある金額であり、当初決めた通り10年タバコを自由に吸い続けた「ご祝儀」と割り切ることとした。