2007/02/28

採点の技術(フィギュアスケート観戦ガイド)part2

 《最後に、ステップシークエンス。ステップは、プログラムの初めから終りまで欠かせないものですが、ステップシークエンスはその中でもハイライトとなる、一連のステップです。進む道筋により、ストレートラインステップサーキュラーステップサーペンタインステップなどと呼びますが、定型はありません。

選手は基礎点を上げよう(レベルを上げよう)として、難しいターンを入れながら細かくステップを刻んでいきます。バランスを崩したり転倒したりする事もありますが、その時は難しい事をやろうとしてたんだな・・・と思って下さい。

一つ特別なのは、女子で必須のスパイラル。バレエのアラベスク(クラシックバレエの基本体勢の一つ。右手を斜め上に、左手を斜め下に右足で体重を支え、左足は斜め後方に上げる)に似たポーズを取ってスーッと滑っていくもので、競技の中で最も象徴的なシーンです》

技術点に加え、各ジャッジは選手の演技全体を評価する。これは、5つのプログラム構成要素に分けられる。

すなわち

・スケート技術
・要素のつなぎ
・演技力
・振付け
・曲の解釈

である。

プログラム構成要素の定義
■スケート技術(スケーティングスキル)
■定義:全体的なスケーティングの質
リンク上を移動するために用いた方法。スピード、流れ、エッジの質に関連した動きの効率を評価する。すなわちエッジをコントロールする能力とエッジ、ステップ、ターンなどのスケート技術を用いて示された氷面上での流れ。また、それらの技術の正確さ。無理な力を使わずに加速したり、スピードを変化させたりする能力。スケート技術の評価には、次のことが考慮される。

・全体的なスケーティングの質
・多方向へのスケーティング
・スピードとパワー
・エッジのクリーンさと確実さ
・滑りと流れ
・(ペア)パートナー間のスケート能力のバランス
・(ペア)ユニゾン

■要素のつなぎ(トランジション)
■定義:総ての技術要素を繋いでいる、多様で複雑なフットワーク、ポジション、動作、ホールド。プログラムのハイライトを繋ぐ、スケーティングステップと要素。プログラムのハイライトを繋いだり、その価値を高めることによって、要素が孤立せずにプログラムの一部をなすような、様々なステップや動き、要素を評価する。要素の繋ぎの評価には、次のことが考慮される
 
・要素を繋ぐステップの難しさと質
・要素を繋ぐステップの創造性と独創性
・要素の入り方と出方の独創性と難しさ
・シングル、ペアでは、技術要素の出入りも含む

2005-06シーズンのフリースケーティング(シニア女子の場合)
・アクセルジャンプ:最低1
・ジャンプコンビネーション:3つまで
・ジャンプシークエンス3つまで

以上で合計7つまで

・スピンコンビネーション:最低1つ、足換え1度以上、合計10回転以上
・フライングスピン:任意に最低16回転以上
・単一姿勢でのスピン:任意に最低16回転以上 以上で合計4つまで
・ステップシークエンス:スパイラル1
・ステップシークエンス:ステップシークエンス
以上で2つまで

これだけ覚えるのだけでも大変だが、これらの総てをプログラムの中に含めて構成しなければいけないのだから、選手は大変だ。TV中継などで、前半のジャンプなどで失敗した場合に、予定していたその後のプログラム構成を変えて演技をしている選手をよく見かけるが、あれだけ一分の隙もないくらいに複雑にプログラミングされた構成を一瞬のうちに、しかも激しく体を動かしながら頭の中で組み立て直していくのだから、素人からすればやはり神業に近い。しかも浅田選手のような15歳の少女、もしくはもっと年端のいかない選手がそれを当たり前のようにやってのけるのが、フィギュアスケートという特殊な世界なのである。

さて、前回までこれまで引用して来た通り、プログラムの構成は膨大な必須の要素を含めた複雑極まりないものになっているが、それだけにそれを評価する方も大変だ。採点の方法は、大まかにいって以下のような感じになるらしい。

2007/02/25

神大いに示すの地「神奈川」

 <かながわ」の名は昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域を言い、古くから陸上・海上交通の重要なところでした。これが県名になったのは、横浜開港に伴い安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いた事によります。そして明治元年(1868 9月に、神奈川県となりました>

「都道府県名の語源」から
かつて、東海道神奈川本宿があるところに小川が流れていた。 水源が不明だったことから、「上無川(かみなしかわ)」と呼ばれていた。

水源が不明なのは、水量がものすごく少なかったからだ。

その後、日本武尊が東方に行く際、 彼の持っていた草薙剣が金色に光ったので「金川(かながわ)」と改めました。

そして、鎌倉時代、源頼朝が金川を見て言った。

神大いに示すの地、よって神大いに示すと書き、字を神奈川となすべし

それで源頼朝が神奈川にしたと言う説である。

「地名由来辞典」から
神奈川県は、県域の主要地区として古くから栄えた宿場町「神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)」に由来し、1859年(安政6年)、武蔵国久良岐郡に「神奈川奉行所」を置いたことによる。

「神奈川」は、「武藏國神奈河郷」の名で見られるのが最も古いが、 その由来は以下の通り諸説ある。

(その1)この地に水源地が解からない川があり、「上無川(かみなしがわ)」と呼ばれていたため「神奈川」になったとする説。

(その2)「金川」もしくは「狩野川」と呼ばれていた川の名から、「神奈川」になったとする説。

(その3)朝鮮系住民が多かったことから「韓川(からかわ)」と呼ばれる川があり、転じて「神奈川」になったとする説。

(その4)その他、地形から見た説では、神奈川「かな」は「かま」が転じたもので「岸の崩れやすい川」「急流の川」を表しているといった説もある。

箱根越えの東海道は、江戸時代に開発されたものだから、 鎌倉時代の頃の東海道は、箱根越えではなく御殿場廻りであった。 JRの場合と同じである。

都から神奈川(韓川)に向かう旅人は、 御殿場から足柄峠を抜けて神奈川(韓川)に入った。

神奈川(韓川)に入るには、足柄峠から下り道を歩いて秦野に向かう。当時は、神奈川(韓川)以東のことを「足柄峠の東=坂東」と呼んだ。

<昭和2年に誕生した神奈川区。区名は中世からこの地で栄え、既に県名ともなっていた神奈川の地名をとりました。神奈川は、鎌倉幕府の執権北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名ですが、その由来には様々な言い伝えがあります。

「江戸名所図会」の、上無川の項に

「神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略して、カナガワというようになった」

という説が記してあります。また、日本武尊が東方へ赴く際、上無川から舟に乗った時にその宝剣が水面に写り金色に輝いたので、金川と名づけたとする説や源頼朝が金川の風光を愛で

「神大いに示すの地、よって神大いに示すと書き、字を神奈川となすべし」

と言ったので、その時から金川を神奈川としたという説もあります。(広報よこはま神奈川区版)

その昔、区内を流れていた小さな流れを「上無川(かみなしがわ)」といっていました。
それは、いつも水が涸れてほんの少ししか流れていない。水源地もどこかわからないので、「上(かみ)がない川」と呼ばれていました。それがいつしか「み」「し」の二字を略して「かな川」をいうようになったという話です。

また、日本武尊が東方へ赴く際、今の神奈川の海辺柚ヶ浦に船出の用意をしました。そこが「上無川(かみなしがわ)」なのでした。その時、倭姫にいただいた宝剣が金色燦然としてこの川水に映ったので、この地を「金川(かながわ)」と名付けました。

その後、時が移り源頼朝が、この金川(かながわ)の風光を賞し

「<金>は西の方角をつかさどるというが、西方は上(かみ)にあたるし、皇城(こうじょう=都、天子のすむところ)にもあたる。これは神を大いに示す地である。」

として<大いに示す>を「」の字にして、金川→神大示川→神奈川とすべきだといったので、その時から金川を神奈川としたという話です。

ほかにも、古文書の中に「神奈河」「狩野川」「かの川」「かな川」と記されているものがあります。

2007/02/24

小石川後楽園の梅

都内の梅の名所を訪ねる。

 

まずは小石川後楽園。

東京都文京区後楽にある都立庭園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。

 

1629年(寛永6年)、水戸徳川家水戸藩初代藩主・頼房が築いた庭園を、2代光圀(水戸黄門)が改修、明の遺臣朱舜水(朱之瑜)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっている。

 

7万平方メートル以上の広大な園内には、蓬莱島と徳大寺石を配した大泉水を中心に、ウメ、サクラ、ツツジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。


 



また、中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れている。徳川光圀は朱舜水を設計に参加させたといわれており、中国的、儒教的な趣好が濃厚である。

 

1869年(明治2年)の版籍奉還により、旧藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠の敷地の一部として陸軍省の所管となった。1874年(明治7年)以降、明治天皇の行幸および皇族の行啓を受け、外国人観覧者も多く世界的にも名園として知られるようになった。

 


1923年(大正12年)37日、国の史跡および名勝に指定された。指定の際、岡山の後楽園と区別するため「小石川」を冠した。1952年(昭和27年)には文化財保護法に基づく国の特別史跡および特別名勝に指定され、今日では、都立公園として整備され、一般に公開されている(有料)。

 

続いて百草園(もぐさえん)。

多摩丘陵の一角である、東京都日野市百草560番地に所在する庭園。現在は、京王電鉄が所有しているため、正式名称を京王百草園(けいおうもぐさえん)という。

 

園内には、若山牧水の歌碑、松尾芭蕉句碑などがある。また、園内にウメが約800本と多く、梅の名所としても知られ、毎年23月に梅祭りが開かれる(最寄りの百草園駅に、京王線の優等列車が臨時停車する)。

 

沿革

享保年間:寿昌院殿慈覚元長尼が松連寺を再建し、それに伴い百草園が造営される。

明治初期:松連寺は廃寺。百草園は地元出身の生糸商人が所有。

1957年:京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移管。

2007/02/11

須磨(神戸市須磨区)

 <須磨区は、神戸市の西部に位置する区。南部の板宿を中心とする旧市街地、北部の妙法寺や名谷を中心とする新興市街地など、様々な街の景色を持つ。  一ノ谷の合戦の舞台にもなる。また、須磨海岸は古来より白砂青松の美しい砂浜を持つ海岸として有名で、近年は阪神間随一の海水浴場でも有る>

<六甲山系西端の鉢伏山・鉄枴山が海近くまで迫り、また平地の端にもあたる。  山の西に流れる垂水区との境を流れる小川を境川と呼ぶが、これは境川が古くから畿内の摂津・播磨の境であったためで、須磨の地名は隅っこの「スミ」が転訛し、それに当て字したものと言われている。

他の説としては州浜から州間になった説や、住まいなどの意味の栖間(スミマ)が簡略されたものや、諏訪神社のスワがなまったものなどの説があり、また今の須磨と言う字は鎌倉時代ごろからの自治、須磨村(江戸時代に東須磨と西須磨に分裂)から当てられており、他にも須末、州磨、須麻、周麻、周間、珠馬、為間などと、色々な字が当てられていた>

」説・・・須磨という地名は、六甲山系の西端、鉢伏山・鉄枴山が海に迫る平地の隅で、畿内の西隅に位置するため「すみ」が訛って「すま」になったといわれています。この説が、最も有力だ。

須浜」説・・・スハマが音韻変化して、スマになったという説があります。須磨の浦の形から、海中に州浜があって丸い形をしていたのでスマ。

栖間」説・・・住みやすいところという意味のスミマ、またはスムマのミヤムの間の言葉が脱落して話し、これが自然にスマになったという説です。

諏訪」説・・・諏訪神社のスワが訛って須磨になった、という説もあります。 
出典Wikipedia

ポリネシア語による解釈
須磨は、神戸市須磨区の大阪湾に面する一帯で、背後に六甲山地の西端にあたる高取山、鉄拐山、鉢伏山を巡らし、南西には明石海峡を隔てて淡路島に対している白砂青松の景勝地であり、また要害の地です。摂津国の西端、畿内の西の境界で、古代には山陽道が通り、律令制下では須磨駅・関が置かれた交通・軍事の要衝でした。源平一ノ谷合戦の舞台でもあります。

この「すま」は「すぼまる」の転で「狭い場所」の意と解されています。この「すま」は、マオリ語の「ツマ」、TUMA(abscess,any hard swelling in the fresh)、「腫れ物のかさぶた(のような山がある場所)」の転訛と解します。
出典 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/