2017/11/22

殷(1)



(いん、拼音: Yīn、紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、チャイナの王朝である。文献には夏を滅ぼして王朝を立てたとされ、考古学的に実在が確認されているチャイナ最古の王朝である。(しょう、拼音: Shāng)、商朝とも呼ばれ。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命)。

王朝名の殷
殷墟から出土した甲骨文字には、王朝名および「」は見当たらない。周は先代の王朝名として「」を用いた。殷後期の首都は出土した甲骨文字では「」と呼ばれた。

二里岡文化
鄭州市の二里岡文化(紀元前1600年頃 - 紀元前1400年頃)は、大規模な都城が発掘され、初期の商(殷)王朝(鄭州商城、建国者天乙の亳と推定)と同定するのが通説である。

偃師商城
偃師の尸郷溝で、商(殷)王朝初期(鄭州商城と同時期)の大規模な都城が見つかっている。これは二里頭遺跡から約6km東にある。

洹北商城
殷墟のある洹水のすぐ北に、殷中期の都城の遺跡が発見されている(花園荘村)。文字を刻まず占卜した獣骨が出土している。殷中期に至っても文字資料は殆ど出土していない。

殷墟
現安陽市の殷墟(大邑商)は、紀元前1300年頃から殷滅亡までの後期の首都。甲骨文が小屯村で出土することが契機で発掘が始められ、その地区が宮殿および工房と考えられ、首都の存在が推定された。都城の遺跡は見つかっていない。洹水を挟んだ北側では、22代王の武丁以降の王墓が発掘されている。甲骨文からも、ここに都を置いたのは武丁の代からと考えられるが、竹書紀年では19代王の盤庚によるとある。

甲骨文字
殷の考古学的研究は、殷墟から出土する甲骨文字(亀甲獣骨文字)の発見により本格的に始まった。これにより『史記』にいうところの殷の実在性が疑いのないものとなった。甲骨占卜では上甲が始祖として扱われ、天乙(名は唐)が建国者として極めて重要に祀られている。以下、史書に基づく。

歴史
商の名前は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ『尚書』でも「」が使われている。

創建以前
伝説上、殷の始祖は契とされている。契は有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が、玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、帝舜により商に封じられ子姓を賜った。その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。また契から天乙(湯)までの14代の間に、8回都を移したという。

天乙
契から数えて13代目の天乙(湯)は、賢人伊尹の助けを借りて夏王桀を倒し(鳴条の戦い(チャイナ語版))、諸侯に推挙されて王となり、亳に都を置いた。
殷の4代目の王太甲は、暴君であったために伊尹に追放された。後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。

王雍己の時に、王朝は一旦衰えた。王雍己の次の王太戊は賢人伊陟を任用し、善政に努めたことで殷は復興した。王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。中宗の死後、王朝は再び衰えた。王祖乙は賢人巫賢を任用し、善政に努め、殷は再び復興した。王祖乙の死後また王朝は衰えた。王盤庚は殷墟(大邑商)に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。

王盤庚の死後にも王朝は衰えた。王武丁は賢人傅説を任用し、殷の中興を果たした。武丁の功績を称えて彼は高宗と称された。武丁以降の王は、概ね暗愚な暴君であった。王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し暴政を行った。そのため周の武王に誅され(牧野の戦い)、殷はあっけなく滅亡した。

殷の王位継承
殷の王位継承について、史記を著した司馬遷は、これを漢の時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、親子相続および兄弟相続と解釈したが(右記図表)、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」、「乙」、「丙」、「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」、「己」、「庚」、「辛」、「壬」、「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。

上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落されるのは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
※Wikipedia引用

2017/11/21

雑食性化した食生活(日本の食文化とは何か/農林水産庁Web)

8 食生活スタイルを環境保全型に再構築を

振り返ってみると、19世紀までの人類は飢餓に悩まされ続けてきた。食べ物が欠乏するとヒトは非常、非道になり、諸々のタブーなどの約束事などは飢えを癒す上で、いかほどの障りにもならなかった。

 

食べ物に多少のゆとりができたのは、20世紀になってからのことである。現在の日本人は、進歩した食品保蔵・輸送・加工技術と、地球規模にまで広げた食料確保の体制を利用して、有史以来、最も豊かな食生活を享受している。しかし、これからの日本人の食生活が、現在の豊かさの延長線上にあるとは考えられない。私達は質と量の両方に関わる、重大にしてかつ緊急な食料問題を抱えているからである。

 

まず、私達が超雑食性になってしまったことである。これは、スーパー・コンビニ症候群と呼称すべきかも知れないが、個人の嗜好と食欲が押し枉げられた偏食と飽食のせいで、がん、心臓病、糖尿病、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)などの生活習慣病が蔓延している。各種の調査結果を見ると、家庭内の食行動、食生活スタイルも正常ではなくなってきた。過半の若年層が朝食を孤食もしくは外食し、あるいは欠食し夕食を家庭で食べない。13食食べない食生活=“崩食”している人や、健康への影響や栄養効果を考慮しない、成り行きまかせの食生活=“放食”している割合も増加の一途をたどっている。

 

伝統社会や途上国社会では、現在でも慢性的な食料不足に悩んでおり、さらに地球全体の人口増加と畜産物の消費が増えたために、世界の穀物需要が逼迫している。

 

世界人口時計(http://arkot.com/jinkou/)によると、地球上の人口は2006225日に65億人を超え(201024日正午現在で684577万人、毎日22万人増加)、2050年までに100億人を超えると予測されている。はたして地球は100億人を、心身ともに健全な状態に養うことができるだろうか?

 

中国、インドでは現段階で、すでに穀物の消費量が生産量を上回っている。中国は1995年以来の食肉消費の増大によって、穀物在庫を大規模に取り崩している。年に80億ブッシェル(約23000t)の穀物が家畜飼料に転換され、このまま進むと20109月には世界の穀物在庫が空っぽになる可能性がある、と危惧されている:http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/agrifood/foodsecurity/news/08050201.htm。その一方で、米国ではトウモロコシを主な原料にする代替燃料エタノールの生産が急増し、豊作なのに20082009年のトウモロコシ価格が2005年の2倍近くに跳ね上がり、その余波は他の穀物、例えばコメの価格上昇を導いている。

 

我が国が抱えている食料問題も深刻である。食料の供給と消費を11人当たりのエネルギーで比較してみると、供給量はほぼ2,600 kcal前後と変わりなく推移してきたが、70年代にはほぼ2,200 kcalであった摂取量が、2008年には1,883 kcal (20歳以上)に低下した。供給量と摂取量の差が廃棄された食料の量に等しいとすると、70年代には消費エネルギーの18%相当量が廃棄されたのであったが、2008年には廃棄されるエネルギーは30%近くまでになった。供給エネルギーと消費エネルギーの差は、年々拡大しているのである。平成18年度における、日本の飼料用を含む穀物自給率は27%で、カロリーベースの自給率は連続横ばいの40%であった。これでは「世界中から穀物をかき集めて、まさに飽食し食べ散らかしている」と言われても抗弁することができない。

 

今日の社会経済システムの中では、個人の食生活スタイルを再構築しても、その直接的な影響はごく些細なものに過ぎないかも知れない。しかし些細と見える変化も、家庭から始まって食料問題、環境問題などに影響を及ぼし、社会経済システム転換の引き金になる可能性を潜ませていることを見逃してはならないだろう。

 

以上は筆者の-巻頭言『食生活スタイルを環境保全型に再構築』、化学と生物、45 (11),739 (2007)-を数値などを新しくしたが、それ以外はおおよそ原文のまま再掲したものである。なお、平成21年度筑波大学生命環境学群生物資源学類が、推薦入学試験の小論文選択問題2問中1問に、これを元の文章のまま用いて、設問2題を与えて回答させた。

 

9 沖縄の長寿食と「26ショック」

沖縄県民は長年、男女ともに長寿日本一だった。ところが、200212月に公表された2000年時点における都道府県別平均寿命表では、女性は全国で1位の86.1歳であったが、男性の平均寿命は77.64歳(全国平均77.71歳)で全国26位に転落した。2005年までの5年間でも、寿命の伸び率は全国で最低であった。このことは沖縄県民にとってショッキングなことで、俗に「26ショック」と呼ばれている。

 

26ショック」の原因は「伝統的な長寿食の食生活から『栄養バランスの崩れた都会型食生活に移行』した結果、多くの成人男子がメタボリック・シンドローム体型になったことにある」、と分析されている。肥満者が多くなった原因として、運動不足(車社会で余り歩かない)、過食、日本の都道府県中で最も高い脂肪摂取量、野菜の摂取不足、過剰な飲酒に加えて、慢性的な失業によるストレスなどが挙げられている。しかし、沖縄県の人口10万人あたりの長寿率、百寿率(人口10万人当たりの100歳以上の高齢者数)は依然として全国都道府県中で首位を占めていることからか、男性の平均寿命が全国で26位に転落した「26ショック」を、当の沖縄男性はさほど深刻に受け止めていないように見受けられる。なお、尚弘子琉球大学名誉教授が「26ショック」に関するブログを公開している:http://longstory.blog.so-net.ne.jp/2009-02-10

 

沖縄食の特徴は「素材」×「調理法」×「摂取法」にあるといわれる。その素材は、ゴーヤ、モズク、パパイヤ、フーチバー、グアバ、島豆腐(木綿豆腐)、根菜類、昆布、黒糖、豚肉(よく食べるようになったのは、戦後のことであるが)などが特徴的である。強い紫外線と亜熱帯性気候のもとで育った野菜類には、抗酸化性物質やミネラルの蓄積量が多くなる傾向がある。飲料水には、琉球石灰岩から湧出した硬度~200程度(那覇市水道水)の、カルシウムやマグネシウムの豊富な水が用いられる。なお本州水道水の硬度は10100、京都市水道水42;伏見の御香水44である。

 

これらの素材を用いて、食材の旨みを損なわない低塩分の調理、長時間煮込んだ後分離してきた豚脂を取り除いた料理、肉と野菜の同時摂取などによって、コレステロール吸収や脂質過酸化の抑制が期待できる。沖縄県人の脂肪摂取量は全国都道府県中で最多量で、従って肥満率も高いが心疾患、脳卒中、がんによる死亡率は最も低い。特徴のある食材(豆腐、豚肉、瓜類、野菜、昆布等);食塩量が少なく、タンパク質とミネラルのレベルが高い食事;温暖な亜熱帯気候とゆったりしたライフスタイル、などを持続することによって、早晩、「26ショック」は払拭されるものと期待したい。

2017/11/20

パルメニデス「論理だけの世界」


 少々前置きが長くなりましたが、こんなことを言わなくてはならないくらい、このパルメニデスの思想というのは、私たちにとって「奇異」に映るものなのです。

まず、今注意したことですが「ある」という言葉がパルメニデスにとって、どういう言葉であったかをはっきりさせておかなくてはなりません。彼の時代には、この「ある」という言葉が「存在」と「言葉の結び付け」という二つの機能をもつ、などという分別的考え方は当然ありません。こんなことに気付いて整理がなされるのは、先にも言った通り後代のことですから。そしてパルメニデスにとって「ある」というのは「存在」の方でした。これは、ある意味当然で「結び付けの言葉」も、たとえば「本は白い」という意味での「本は白くある」というのも「本は白いものとして“ある=存在する”」と捕らえられるからです。こうして、まず「ある」という動詞は「存在」を意味するとされました。

 次に「なる」という言葉ですが、これは当然「××であったものから○○になった」と言う具合に捕らえられます。ところが、これは「××である」ものが「そうで“ない”もの(この場合○○)になった」というに他なりません。さて、先の同意によると「ある」というのは存在でした。しかるに、この場合、この「存在」に「ない」という言葉がくっついたことになります。こんなことがあってたまるか、とパルメニデスは言ってくるのです。「存在」は「存在」なのであって、それに非存在を意味する「ない」などという言葉がくっつくわけがない、というのです。

ということになりますと、一切の「なる」ということはあり得ないことになってしまいます。パルメニデスの主張していることは殆どこれに尽きますが、ガスリーの言うように、一見まるで無意味な言葉の遊びみたいに見えます。しかし、ここには「ある」という事態をとことん理屈で追い込んでいく「理性」の営みがあるのです。ここには、物事を徹底的に抽象的に捕らえる態度があり、そして外界の経験的事実が何を示しているか、などということには全く無頓着に、ただ理屈だけの世界に閉じこもって考察していこうという、恐るべき徹底した態度があるのです。そして、現代人が物事を抽象的に捕らえ、思考の上ではどういう結論になるのかを考えられるようになったのは、実はこうしたパルメニデスたちの仕事のおかげなのでした。

 もっとも、これもガスリーが触れていることですが、こうして始められた抽象的な思考がヨーロッパを誤らせる原因となった、と皮肉に評価する人もおりますが、ともかく善かれ悪しかれ、こうしたヨーロッパの学問に特徴的な、事実にのみとどまるのではなく、それを越えた「抽象概念(この場合は具体的な存在事物ではなく、そこから抽象された「ある」という抽象概念)」を思考するようになった最初の事例を、ここに見ることができるのです。

 こうして、パルメニデスの言ってくることは全く論理的で、その通りといわざるを得ない結果となってきます。すなわち、「なる」ということは「変化・運動」ですから、まずこれが否定されてきます。なぜなら、変化や運動があるためには「“ある”もの」が「“あらぬ”もの」になったり「“あらぬ”ところ」に行くのでなければなりませんが「ある」に「あらぬ」をくっつけることなどできないのだから、こんなことは不可能だというわけです。

 一方、運動はもう一つ別の理由からもあり得ない、とされました。それは「空間の否定」と言われているものが根拠にされるのですが、つまり運動の起きる空間というのは「何もない空虚」という意味でなければなりません。なぜなら何かがあったのでは、ぶつかって動けません。しかし、それを認めることは「ない」が「ある」ということを認めるということであって、そんなことはできるわけがないとなります。そうなると、つまり空間は「すべて詰まっている」筈なのであって、運動のおき得る「空間」なんてある筈がないということになります。ということは「隙間」もないということに他なりませんから、宇宙は全く一つなるものの充実体で、永遠にして不動、全く「動き」というもののない「完全なる静止の世界」ということにならざるを得ません。

 では、この「運動・変化してやまないこの世界」はどう理解するつもりなのだ、と文句をつけたくなりますが、パルメニデスは「それは幻想だ」とあっけなく切り捨てます。だからといって、パルメニデスはじっと家に籠りつづけ、息もしないでいた、というわけのものではないでしょう。パルメニデスの主張したかったことは、常識を優先させ、常識に合わせようと物事を考えるのではなく、むしろ物事は物事として何を示してくるか、ということを「論理的」に考えてみて、その論理を元に物事を改めて考えてみるべきだ、ということだったでしょう。

 実際、この論理というのは常識を越えて世界なり物事のありようということを考えさせていくことになるのです。その実例をパルメニデスの愛弟子のゼノンによって提示された問題で考えて見ましょう。それは全く「常識」には合いません。しかし、その言ってくることを論駁するのは至難の技です。私たちは、その難問を示されて改めてこの世界のありよう、空間とは何なのか、時間とは何なのかを考えて行かざるをえなくなるのです。この難問を簡略に示すことで、パルメニデスたちの思考のありようを考えて見ましょう。

2017/11/15

古代チャイナ文明



http://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca 引用

黄河文明
 BC5000BC4000年頃から、黄河の中下流の黄土地帯では初期農耕が行われていた。彼らは磨製石斧(ませいせきふ)や彩文土器(彩陶)を使っていた。長江流域でも、BC5000年頃から稲作農耕が行われていた。BC2000年~BC1500年頃になると牛や馬も飼われ、彩陶に比べて薄くて固い土器が作られるようになった。この文明は「黒陶文化」と呼ばれている。チャイナの伝説の王に堯、舜、禹がいる。堯は王位を舜に譲り、舜は治水で頑張った禹に譲った。禹は自分の子供に王位を譲り、最初の王朝夏を開いた。

殷と周
 黄河中下流域には都市国家邑(ゆう)が発達し、多くの邑を支配する王が現れた。最初の王朝は夏で、BC1600年頃に河南省に殷(または商)が登場した。殷の遺跡が殷墟(いんきょ)で王の墓が発掘されている。殷の政治は、占いで神に伺いをたてる神権政治だった。殷王が占いに使ったのは牛の骨や亀の甲羅である。占いの結果は甲羅や骨の裏側に記録され、この文字が漢字の原型甲骨文字である。また殷では、青銅器を用いていた。殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)で、妃の妲己(だっき)を寵愛し、彼女に言われるまま怠惰な生活をおくった。庭の池に酒を満たし、木に肉をぶら下げ、池で美女たちとたわむれて遊んだため「酒池肉林」の語源となった。

 周の武王は、弟周公旦や軍師太公望(本名:呂尚 りょしょう)とともに立ち上がり、紂王を牧野の戦いで破って周王朝を開いた(BC1100年頃)。周は諸侯に領土()を与える代わりに、王朝への忠誠をもとめる封建制度を取り入れた。12代目の幽王の妃ホウジは、どんなことがあっても笑顔を見せなかった。幽王は彼女の笑顔見たさに悪行を重ねたため、国は荒れ諸侯は離散した。BC770年、犬戎(匈奴)が都に侵入し、幽王は殺された。太子は東の洛邑(洛陽)へ移り東周となった。

春秋時代
 その後、東周の勢力は衰え、諸侯が争う乱世春秋時代となった。それでも周王室は王として諸侯から尊ばれていた。この時代に活躍した諸侯は、斉の桓公、晉の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の勾践で春秋五覇と呼ばれる。太公望を始祖とする斉は、15代目の桓公と宰相管仲により強国となった。南の楚を破り、BC651年に周王に代わって諸侯の盟主(覇者)となった。しかし、管仲の死後、国は乱れ衰退した。第2の覇者は、晋の文公である。文公は後継者争いに巻き込まれ、国外に去った。10数年の放浪の末、BC637年に秦の助けを得て晋公の座に就いた。文公はBC632年に楚を破り、覇者となった。次の覇者は楚の荘王である。荘王は周辺諸国を次々と支配下におき、BC606年、洛邑に迫り周王室に圧力をかけた。さらに鄭の都を包囲し、これを救援に来た晋を破り覇者となった。

呉越の戦い(臥薪嘗胆)    
芭蕉が奥の細道で詠んだ句「象潟や雨に西施がねぶの花」

 長江流域の呉は、闔閭(こうりょ)の時代に孫子を参謀にして力を伸ばした。闔閭は越に侵攻したが、越の将軍范蠡(はんれい)の奇策にはまって総崩れとなった。闔閭は逃げる途中に負傷し、息子の夫差(ふさ)に「必ず仇を取るように」と言い残して亡くなった。夫差はこの恨みを忘れないように薪の上に寝て、その痛みに耐えながら復讐の機会をうかがった(臥薪)。

 呉の国力を回復させた夫差は越に攻め込み、越王勾践(こうせん)を会稽山に追い込んだ。勾践は奴隷となって一命を取りとめた(会稽の恥)。越に戻った勾践は、毎日苦い胆を嘗めて会稽の恥を忘れないようにした(嘗胆)。さらに夫差を骨抜きにするため、多数の美女を送り込んだ。その中に西施(せいし)という絶世の美女がいた。夫差は西施におぼれた。会稽の恥から20年、力をつけた越は呉に攻め入り滅ぼした。越も勾践の死後は衰え、楚に滅ぼされた。

呉越同舟】敵対する者同士が、同じ利害のために協力すること。

臥薪嘗胆】目的達成のために、どんな苦労にも耐えること。

顰に倣う】むやみに人のまねをすること。西施には胸の病があった。彼女が胸元を押さえ、顰(ひそみ:眉間)にしわを寄せた姿はなまめかしく美しかった。この話は国中に広まり、醜い女までが眉をひそめるようになった。

諸子百家
 春秋末期から戦国時代にかけて、多くの思想家が新しい思想を生みだした。これを諸子百家という。

孔子
山東省南部の小国魯の出身。周の礼制を基に儒教としてまとめた。その基本は他人への愛「」で、仁により道徳が保たれると説いた。また、仁の気持ちを形で表現する「」を重んじた。彼の言行録が『論語』。後に「性善説」の孟子や「性悪説」の荀子といった後継者が出てきた。

墨子
全く差別がない博愛主義(兼愛)を説いた。どんな戦争にも反対する絶対平和主義。

老子と荘子
無為自然」を基本とし、人為を嫌う思想。無理をしなければなるようになるという考え。

胡蝶の夢】荘子が夢の中で蝶になり、空を舞って楽しんでいると目が覚める。自分が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て自分になっているのか、どちらか分からないという話。

孫子
戦争に勝つための戦術や戦争論、政治論を説いた。

戦国時代
 BC403年、晋は魏、韓、趙に滅ぼされ戦国時代に入った。戦国時代になると、周王室の権威は落ち、有力諸侯が王を名乗る弱肉強食の時代になった。戦国時代の有力な国は、斉、楚、秦、燕、韓、魏、趙の7国で戦国の7と呼ばれた。その中で、西の秦と東の斉が有力だった。秦は商鞅による政治改革により強国となり、周辺諸国を圧迫した。斉も燕や宋を併合するなど勢力を伸ばした。その後、秦は諸国に攻め込み、BC221年、最後の斉を滅ぼして秦を建国した。戦国時代は終った。

太公望】釣り好きな人。 呂尚は80才になるまで、釣りをしながら時を待った。そこに文王が現れ「祖父の太公が待ち望んでいた人物である」と言って召し抱えた。

覆水盆に返らず】太公望は貧しく、妻に逃げられた。その後、太公望は殷を滅ぼした功により、斉に封じられた。そこに赴任する道中に、別れた妻が現れ復縁をせまった。太公望は、盆に入れた水をひっくり返して言った。「別れた夫婦は、この水のように戻すことはできない」。

鼎の軽重を問う】相手の価値や実力を確かめること。楚の荘王は周の王位を奪おうと洛邑に押し寄せ、周の使者に「王位の象徴である鼎とはどんなものか、その重さは?」と訊ねた。つまり、暗に鼎は自分が持つべきと匂わせた。使者は「鼎は徳のあるところにある。周王の徳は衰えておらず、未だに周にある。鼎の軽重は問題ではない」と答えた。荘王は納得して引き上げた。