2019/04/29

第二次ポエニ戦争(ハンニバルvsスキピオ)

 第二回戦(前218年~前201年)

これはハンニバルという名将が登場するので有名です。別名ハンニバル戦争。

ハンニバルは、カルタゴの将軍家に生まれます。父親が第一回戦でシチリアをローマに奪われたあと、現在のスペインの開発をする。当時スペイン内陸部はまだ未開発で、色々な部族集団もいた。ハンニバルは、父親とともに、スペインの諸部族を味方に付けながら開発をおこない、軍隊の養成もしていた。

やがて、父親が死んで跡を継ぐんですが、シチリアを奪ったローマにどうにか一泡吹かせて逆襲したいというのが、ハンニバルの宿願です。軍隊を率いて海路ローマを攻めればいいんですが、すっかり制海権はローマに握られていた。海上からローマを攻撃するのは不可能だった。

そこでハンニバルが考え出したのが、アルプス越えという奇策です。陸路アルプスを越えて、イタリア半島に侵入しようという。登山道も何もない時代です。これも不可能に近い。誰もがそう思っていたから、ローマもアルプス方面に軍事的な防衛をしていない。だから、逆にもしアルプス越えに成功すれば、一気に勝利を勝ち取るチャンスも大きい。

前218年春、ハンニバルは約5万の兵を率いて、スペインを出発しました。象軍というのもあって、37頭の象を連れていた。そのほか騎兵隊もあるから当然、馬もいる。これらを引き連れてアルプスを越えたのが10月。途中の山道は雪に埋まり、谷間に落ちたり、山岳民の襲撃を受けたりして、イタリア北部にたどり着いた時は、兵力は半分の2万5千でした。
 ところがこの2万5千の兵力で、ハンニバルはまる16年間イタリア半島で闘い続けるのです。

前216年、カンネーの戦いでは、5万を超えるローマ軍を殲滅しました。これは戦史に残る殲滅戦だそうです。その後も、ハンニバルはローマ軍を破り続けました。とにかくハンニバルは用兵の天才。繰り出す軍団が次々に負けるので、ローマは決戦を避けて持久戦にはいります。ハンニバルはある程度の都市を攻略するのですが、10年かかっても決定的な勝利は得られなかった。

原因の一つは、ハンニバルはローマの同盟市が離反して自分を支援することを期待していたのですが、分割統治がうまくいっていたんですね、離反がなかった。

もう一つは、ハンニバルの戦略です。彼は「戦争に勝利することを知っているが、勝利を利用することを知らない。」と評された。カンネーの戦いで大勝利したあとで、なぜローマ市を直接攻撃しなかったのか、今でも彼の戦略のなさが指摘されているところです。

 ハンニバルはローマを降伏させることが出来ないけれど、ローマもハンニバルに勝てない。ハンニバルはイタリア半島に留まり続けているわけですから、ローマも困った。

そこに登場するのが、ローマの将軍スキピオです。
スキピオは元老院の反対を押し切って、直接カルタゴを攻撃したんです。カルタゴの指導者たちは弱腰だから、直接攻略されたらあわててハンニバルを呼び戻すだろうという考え。これは一種の博打です。スキピオの出陣によってローマの守備はガラ空きですから、もし、ハンニバルが戻らずにローマを攻撃したら大変なわけです。

でも実際にはカルタゴ本国の指導者たちは、スキピオ率いるローマ軍が迫ったのを見てハンニバルに召還命令を出します。カルタゴ南方のザマでハンニバルとスキピオの決戦が行われ、不敗のハンニバルはついに敗れ、カルタゴは降伏しました(ザマの戦い、前202年)。

 カルタゴは本国以外の領土をすべてローマに奪われますが、国の存続は認められました。
 これがポエニ戦争第二回戦です。

大スキピオ
ハンニバルは、その後カルタゴの指導者の一人となりますが、失脚しシリア方面に亡命しました。一方のスキピオも大スキピオとよばれローマの大物政治家となるのですが、これも晩年に失脚しています。

ホントかどうか分かりませんが、のちに二人がロードス島で再会したという。ハンニバルは、すでにアレクサンドロス大王と並び称される名将で、スキピオはその彼を破っている。それが自慢のスキピオが、ハンニバルに問う。

「古今東西で最高の名将は誰か?」

ハンニバルは答える。
「それはアレクサンドロス大王である。」

スキピオ「では二番目は?」
ハンニバル「エピルス王ピュロスである。」(授業には出てこなかったけど、そういう人がいたのです。)

スキピオは自分の名前が出てこないので、いらいらしてくるのね。さらに問います。

「では、三番目は誰か?」

ハンニバル「それは、私ハンニバルである。」
スキピオ「あなたは、ザマで私に敗れたではないか。」

ハンニバルも負けず嫌い。
「そう、もし勝っていれば、私はアレクサンドロスを飛び越して一番だ。」
だってさ。

2019/04/28

犬のアンティステネス(1)

http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
 一般の人々が問題にするのは「快楽や財産・地位・権力」のようですが、そうしたものとは無縁に「ただ人間の優れ」のみを見て生き抜いたソクラテスの弟子として「欲望や財産・地位・権力」などを蔑み、それだけを追求しているような社会に戦いを挑み、犬のように吠えかかって「人間としての優れ」に意識を向けさせようとしたアンティステネスという弟子がいました。

 さて、ソクラテスは哲学という営みを「愛知(フィロソピア)」という言葉で始めて提唱し、その内容として「良く生きることについての知の愛し求め」として「人間としてのあり方を具体的・実践的に体現」させていきました。
 そのソクラテスを承けて、弟子達がその哲学を継承していきますが、一般にはプラトンがその代表とされ、さらにその弟子アリストテレスと解説されていきます。しかし一方で、古代にはそれとは異なった系譜の哲学があり、それはアリストテレス以降、むしろ時代の本流となっていくのでした。いわゆる「ストア学派、エピクロス学派、懐疑学派」といったヘレニズム・ローマ期の哲学の流れで、そのヘレニズム・ローマ期の哲学の源流ないし先駆となっているのが、実は「プラトン以外のソクラテスの弟子達」だったのです。

 そのプラトン以外の弟子の筆頭になるのが「ストア学派の源流となるキュニコス学派の祖アンティステネス」でした。彼は表題にも示しておいたように「犬(キュニコス)のアンティステネス」と呼ばれています。その理由についてはいろいろ言われますけれど、「彼の生き方」からの命名であったと考えられています。何故、彼は「哲学者として犬のような生」を選び取っていたのでしょうか。

アンティステネスの時代
 彼の生年も没年もはっきりしていませんが、とりあえず紀元前455年~360年頃ではないかという年代が推量されています。ということはソクラテスと14歳くらいしか違わない年下で、プラトンとは28歳くらい上ということになるわけです。ただこの激動の時代に、この年齢差は三人に同じ経験をさせてはおらず、またソクラテスが刑死したときアンティステネスは56歳頃というわけで、もうすでにその哲学観は確定しており、プラトンほどにはソクラテスの刑死がその哲学に影響は与えなかったでしょう。

 さて、私たちは何にせよ「生きる」ということを問題にする人々というのは、先ずもってはじめは、その「社会の中での具体的人生」のあり方において問題を感じる人々だと考えておきます。ですから、その人が生きている社会のあり方というものが、とりわけ問題になると理解します。ですからアンティステネスの場合も、「彼の生きていた社会のあり方」というものが問題になっていたと理解します。

 それは、いうまでもなく「紀元前300年代に入る直前から直後のアテナイ社会」ということになります。ということは、もうアテナイ社会の衰退期ということで、彼はギリシャを二分しての内乱であったペロポネソス戦争の後半の泥沼、そして敗戦、それにともなう社会の混乱、とりわけ戦後成立していた少数者支配である「30人政治」での恐怖政治と大殺戮、大量の市民の亡命と反政府運動、30人政治の崩壊、混乱の中でのソクラテスの死刑、といったような事件のただ中にいたことになります。社会の倫理観は動揺し恣意的となり、金や権力にすがる風潮、「力こそ正義」とする考え方、こうした中でアンティステネスは「人間として良く生きること」を問題にしていたのでした。

 こうした問題は、もちろんアンティステネスが始めて問題としたわけではなく、むしろ師である「ソクラテスの問題」でした。アンティステネスは、そのソクラテスに惹かれて弟子となっていたのですから、そのソクラテスの問題を自分の問題としていたのも何ら不思議ではありません。そして、それはむしろ「時代の問題」でもあったのです。ですからソクラテス、アンティステネスに続いて「具体的な生、実践的生」を問題とする人々が続々と続いて、結局「ストア学派」「エピクロス学派」「懐疑学派」といった「実践的生」を問題にするヘレニズム・ローマの哲学が生まれることになったのでした。この時代の哲学者は、こんな時代だったからこそ「人間としての誠実な人生」というものを意識して「身をもって体現」していこうとしたのでした。
 
その先駆をソクラテスとして、それについでいたのがアンティステネスであったのです。アンティステネスは、こうした時代にあってソクラテスの課題であった「真実あるべき社会」の追求を越えて、明確に「反社会的」となっていきます。

アンティステネスの出生
 それには、彼の出生も関係しているかもしれません。彼は両親ともアテナイ人という「生粋のアテナイ人」ではなく、母親がトラキアの人だったようでした。トラキア人は北方の辺境の民で野蛮人と見られていたようで、そのため彼は人から馬鹿にされることがあったようです。それに対して、ソクラテスがその馬鹿にした人を「たしなめた」逸話が伝えられ、またソクラテスはアンティステネスが武勇を示した時、もし彼の両親が二人ともアテナイ人であったら、彼はかくも卓越した者とはならなかったろう、とアテナイの人々に皮肉っぽく言ったとか伝えられています。「民族の生粋・純粋性」のみを誇り、「人間としてのあり方」をみようとしないアテナイの民に対する強烈な皮肉と言えます。

 伝えられているところでは、アンティステネスは前426年の「タナグラの戦い」で奮闘しめざましい活躍を示したようでした。そしてまたアンティステネスの方も、両親がアテナイ人で生粋であることを自慢する人を軽蔑したと伝えられます。逸話としては、彼も当時の市民の誰もがスポーツの鍛錬をしていたのにならいレスリングの競技者であったと伝えられていますが、彼は自分の出生を馬鹿にする者に対して、自分の両親は別にレスラーではないけれど自分はレスラーとして十分な者になっている、と応じていたと言われています。つまり両親の生まれが問題になるわけではない、ということを言いたかったわけでしょう。いずれにせよ、「アテナイ社会にすんなり受け入れてもらっていない」アンティステネスが見られます。

2019/04/18

維摩経

維摩経(ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra 藏:དྲི་མ་མེད་པར་གྲགས་པས་བསྟན་པ་ཞེས་བྱ་བ་མདོ ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し、在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。

般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく、現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがって、これを不二の法門に入るという。

これは維摩が同席していた菩薩たちに、どうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊は、これを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。
出典 Wikipedia

文殊さんが言います。

「私が思いますに、一切のあらゆる現象は言葉で説明できません。言うこともなく、説くこともなく、示すことも、識ることも無い。諸々の問答を離れたところにあります。これを不二法門に入るといいます。」

そこで文殊さんは、維摩さんに問いました。

「我々は、既に各々自説を述べました。次は、あなたの番です。何をいうのでしょう、菩薩が不二法門に入るとは?」

そう問われても維摩さんは黙ったまま、言葉がありません。

文殊師利が感嘆して言いました。

「素晴らしい、これは素晴らしいことです。まさに言葉も文字も用が無いということですね。これが、真の不二法門に入っているということです。」

この不二法門品を説いた時、この場に於いて五千の菩薩が皆、不二法門に入り、無生法忍(不退)を得ました。

≪維摩詰所説経 巻きの中終り≫
「不二法門」とは、互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いています。分け隔てることのできない智慧のことであり、すべてのものと自分とが一体であるという智慧でもあります。

この維摩経で、文殊さんを含めて32名の菩薩様が、それぞれに不二法門を説明しました。

最初に登場した、法自在(ほうじざい)菩薩は、「生滅不二」を言われました。

人間の身体は因縁生です。因縁によって生じ、因縁によって保たれているからです。

≪私はよく霊線といいますが、父母が存在しなければ自分の存在もありません。その父母も、それぞれの父母がいなければ存在しないのです。先祖からの霊線の最後に、現在の自分が存在しています。人は一人では、存在しえないのです。≫

因縁による存在であるが故に、自存、つまり、自分だけで存在することはありえません。自存でないが故に、自我とは、空である。

≪自分という独立した存在が無いのですから、自分の内部に存在する自我も無い。≫

この世の中にある一切の因縁を観察し、すべてを終えて自我意識を断ち、清浄の仏智を悟るに至るということが、不二法門に入るということです。