2005/07/31

今月のにゃべ ( ̄_ ̄;) うーん


 昨年秋のインフルエンザの流行で、2人が罹患してダウン。残るメンバーたちも、同時期に流行していた風邪と花粉症にやられ次々と休んでいく中、職場でただ一人インフルエンザはおろか、風邪や花粉症にも無縁だったのが、このワタクシです。

年末打ち合わせの席で、契約会社のS社代表A氏から

「ナントカは風邪をひかんとか言われるから、たまには風邪くらいはひいた方がいいんじゃない?」

などと皮肉をかまされても

「風邪などひくのがアホだ」

と笑い飛ばしていたワタクシも、遂に2年ぶりに風邪をひいてしまいました。

しかもこの季節外れの時期、ワタクシ自身の誕生月でもある7月に風邪などひこうとは・・・Ψ(ーωー)Ψ

大の医者嫌いで、滅多な事では医者には足が向かないワタクシですが

(毎月、高い健康保険を払っているのだから、利用しなければ損だ)

という気持ちばかりでなく、体のだるさを覚えたため定時で職場を出ると医者に向かおうとしたのですが、なにせ東京に出て来たのがまだちょうど1年前だから、医者といっても心当たりのあろうはずはありません。

いい加減に自転車を転がして、目に付いた小さな医院に入りました。

ところが不運にもこの医院が内科だと思ったら、医師によると

「私は内科医ではなく、婦人科が専門で・・・まあ内科も兼ねてますので、風邪くらいは見ますけどね・・・」

との事で、そう訊いてしまった先入観からか、どことなく頼りなげに見えてしまうのである。向こうの方でも、ワタクシのようなタイプは苦手なのか

「なにしろ去年、こっちへ出て来たばかりだから、医者といってもサッパリ知識がなくてね・・・」

というセリフを訊くや、得たりといわんばかりに

「もしよければ、内科を専門でやっている医者を紹介しますよ・・・」

と、なにやら厄介払いでもしたそうな態度だから、商売っ気がないといおうか・・・

「体がだるくて、関節の節々が痛む・・・それにのどが痛く、咳が出ます。咳の場合、夜寝られなかったり、朝起きた時に特に苦しくなるので、今までのお医者さんでは咳止めの薬を出して貰ってましたが・・・」

と請求すると

「では、対症療法として、咳止めと喉の痛み止め。あと、抗生物質を出しておきましょう」

と薬を貰い、喉の痛みと関節痛、そして体のだるさは治まったが、今度はくしゃみと鼻水が出るようになった。

「この前のでは、くしゃみとか鼻水に対応した薬がなかったですが・・・通常はPL顆粒とかいう、総合感冒薬のようなのも一緒に出して貰いますけど・・・」

「そう、そうね。症状が変わって来たから、薬も変えないとね・・・」

と、どこか頼りなげな医師は

(また、煩いヤツがきやがったわい・・・)

という表情なのであった(* ̄m ̄)ブッ

不法侵入? (/||| ̄▽)/ゲッ!!!

 大学に入り、京都引っ越しともにマンション住まいとなり


 (これまでのように、自宅離れのビル屋上で誰の目も憚らず、空手と少林寺の修業とはいかなくなるか?

 どっかに、手頃な公園がないかな・・・


 とスカGを飛ばしていると、キャンパスからほど近い絶好の場所に、広大な公園を見つけた。


 御多分に漏れず、こちらも観光客は多かったものの、公園とあって拝観目当ての観光客ではなく、散策やサイクリングを楽しんでいるような人も多く、なにより見渡す限りどこまでも続くような広大な敷地だけに、人目を気にする気遣いも要らないのは有難かった。


 さて、梅雨のある日のこと。


 この日は朝から小雨がパラつき、広大敷地にも数えるほどしか人気がないのを勿怪の幸いと、縦横無尽に我が物顔で駆け抜けていた。


 京都に住み始めたばかりの18歳の若者だけに、日本文化にはトント無関心の成せる業で、その広大な敷地がどのような由緒を持った土地などかは知る由もなく、またさしたる興味もなかったのだから、無知とはなんとも恐ろしい。


 その広大な敷地には、ちょうど真ん中あたりに、どこまで続いているかわからないような「巨大な白壁」が鎮座していた


 (公園のド真ん中に、随分とヘンテコなデカい白壁があるもんだな・・・)


 とは思いつつも、その壁の向こうに何があるのかは知る由もなく、やはり爪の先ほどの興味とてなかった。


 さて、無人の公園での稽古は益々熱を帯び、勢い余ってこの壁に跳び蹴りを喰らわせた時である。


 「アチョー!」


 周囲に誰もいないのを良いことに、派手な気合もろとも蹴りこんだ快心の飛び後ろ回し蹴りが決まり、美しい白壁には26.5cmの足跡がクッキリと ( ´艸`)ムププ


 ところが、着地をして我が美技に浸っている間もなく、思わぬ大音響の警報らしきものが鳴り出したではないか!


 ファンファンファンファンファンファン


  (^_^)......ん?
  ありゃ、何事?


 と耳を澄ます、どうやら直ぐそばにその音源があるようだ。


 例の白壁のところに溝のようなものがあり、この溝を越えて壁側に入ると警報が鳴る仕組みになっているらしい・・・


 (なんの建物か知らんが、なんとも大仰な・・・)


 と危急を知らせて高鳴る警報音に、いよいよ恐怖を覚え


 (なんかしらんが、とんでもないことになってねーか?)


 と、ようやく事の重大さに思い当たった時、警察に似せた制服姿の警備員らしき2人組が、おっとり刀でこちらへと向かってくるシルエットが、雨に霞んで見えた (; ̄ー ̄)...?


 (こりゃ、やばい! 
 不法侵入者にされてはかなわん)


 とうろたえたにゃべだったが、幸いの雨足の強まった霞みに紛れ俊足を飛ばし、なんとか敷地の外へ冷や汗の脱出に成功。


 (一体、ここはどこなんだ?)


 と、表へ脱出してから大きな看板を見ると、そこが「京都御苑」、すなわち真ん中の白い建物こそは、かの有名な「京都御所」であった。

ワーグナー オペラ『タンホイザー』(3)

 


3

舞台はヴァルトブルク城近くの谷。タンホイザーが旅立ってから月日が経ち、エリーザベトはタンホイザーが赦しを得て戻ってくるようにと、毎日マリア像に祈り続けている。

 

ちょうどローマから巡礼の団体が戻ってくる。エリーザベトは、その中にタンホイザーの姿を探すが、彼はいない。ついにエリーザベトは自らの死をもって、タンホイザーの赦しを得ようと決意する。見かねたヴォルフラムは説得を試みるが失敗し、彼女は去っていく(「夕星の歌」)

 

その場に一人残されたヴォルフラムの前に、ぼろぼろの風体のタンホイザーが現れる。ローマに行ってきたのかと尋ねるヴォルフラムに対し、彼は巡礼の顛末を語りだす。タンホイザーは幾多の苦難を乗り越えてようやくローマに到着し、教皇に赦しを乞うたのだという。しかし教皇は「罪はあまりにも重い」として彼を赦さず「私の杖が二度と緑に芽吹くことがないのと同じく、お前は永遠に救済されない」と破門を宣告したのだという。

 

絶望のあまり自暴自棄になったタンホイザーは、再びヴェーヌスベルクに戻ろうとしてさまよい、そうしてヴォルフラムに出会ったのだった。タンホイザーの呼びかけに応じてヴェーヌスベルクが現れ、ヴェーヌスが手招きする。ヴェーヌスへ引き寄せられていくタンホイザーを、ヴォルフラムは懸命に引きとめる。そこへエリーザベトの葬列が現れる。タンホイザーは我に帰り、異界は消滅する。エリーザベトが自分の命と引き換えに、タンホイザーの赦しを神に乞うたことをヴォルフラムが話すと、タンホイザーはエリーザベトの亡骸に寄り添う形で息を引き取る。そこへローマからの行列が緑に芽吹く教皇の杖を掲げて到着し、特赦が下りたことを知らせて幕が下りる。

 

オペラのストーリーというのは、男の身勝手というものが前面に出ているものが多いが、その最たるものがワーグナーであり、中でもとりわけ酷いのが、このタンホイザーのストーリーと言える。

2005/07/30

ワーグナー オペラ『タンホイザー』(2)

 

2

ヴォルフラムらと共にヴァルトブルク城へと戻ったタンホイザーは、エリーザベトと再会を果たし、お互いに喜び合う。その日は、ちょうど歌合戦が開かれる日(「歌の殿堂のアリア」、「大行進曲」)で、課題は「愛の本質について」

 

ヴォルフラムや他の騎士達が女性に対する奉仕的な愛を歌うのに対し、タンホイザーは自由な愛を主張して観衆の反感を買い、ついにはヴェーヌスを讃える歌を歌いだす(「ヴェーヌス讃歌」)

 

激怒した騎士たちはタンホイザーを諌め、エリーザベトは領主に彼の罪を悔い改めさせるように願う。我に返ったタンホイザーは、自分のしたことを悔やむが時すでに遅い。領主はタンホイザーを追放処分とし、ローマに巡礼に行き教皇の赦しが得られれば戻ってきてよいと言う。タンホイザーは、ローマ巡礼に加わりヴァルトブルク城を去っていく。

 

日本初演

日本初演は1947712日、東京劇場における藤原歌劇団の公演の一環として行われた。出演は藤原義江(タンホイザー役)、三宅春恵(エリーザベト役)ほか、指揮はマンフレート・グルリットによる。この興行は全公演とも入場率100%を記録し、現在に至るまでの日本のオペラ公演で、これに及んだ入場率はない。

出典Wikipedia

2005/07/29

ワーグナー オペラ『タンホイザー』(1)

 

18451019日、ドレスデンの宮廷歌劇場でワーグナー本人の指揮で初演された。表面的にはある程度の成功を収めたものであったが、優秀な歌手を揃えた上演であったにもかかわらず、聴衆の反応は冷淡であった。

 

『リエンツィ』のような作品を期待していた大半の聴衆は、新作の『タンホイザー』の内容に理解ができなかったことが主な要因であった(終幕においてヴェーヌスが姿を現さない、エリーザベトの葬列が出されなかったことが挙げられる)

 

また上演2日目(1227日)には観客が半分に満たなかったが、3日目(1228日)にはそれを上回ったものの、8日間上演されたのちに打ち切られた。ただし1850年代中頃までには、ドイツ各地の歌劇場40か所で上演されている(ベルリンは185617日)

 

「パリ版」による初演は、1861313日にパリ・オペラ座で行われた。1853118日にリガで行われた公演は、本作初の海外初演である(ドレスデン版による)  18541125日にプラハ、185944日にニューヨーク(メトロポリタン歌劇場での上演は1884年)、1866113日にルーマニアのティミショアラ、187656日にロンドンでそれぞれ行われた。

 

1861年にナポレオン3世の招きによって実現したパリでの初演は、オペラ史上最も大失敗を引き起こしたものとして知られる。ワーグナーは、2年前の18599月にパリに引っ越して住んでおり、目的は『トリスタンとイゾルデ』の主役を歌える歌手を探すために転居したものだった。

 

18601月から2月にかけて、パリのイタリア座で行われた自作の演奏会を開催し『さまよえるオランダ人』序曲や『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲などを披露した。この演奏会で多くの芸術家たちから支持を集めたが、新聞などからは敵視され、加えて同地で自作のオペラを上演することを切望していたワーグナーは、この新聞批評によって望みが失われたことにひどく落胆したといわれる。

 

その最中、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座で上演するように勅命が降り、この思いもしない事態にワーグナーは、それに応えるべく矢継ぎ早にオペラの添削に着手した。この勅命が下りた理由は、オーストリア大使のパウリーネ・メッテルニヒ伯爵夫人によるものとされている。夫人はワーグナーの崇拝者であり、パリ上演のために口添えをしたことが下りたことに繋がったといわれる。ただし、それは「外交戦略」の一つとしてであった。

 

「パリ版」の改訂を終えたのは18611月のことで、上演のためのリハーサルは164回にわたって行われたと伝えられる。313日、ナポレオン3世の臨席のもと初演を迎えた。だがオペラ座の予約観劇者で会員でもあるジョッキークラブの若い貴族の面々は、かつてバレエの挿入を要求した際に拒否されたことに対するワーグナーの態度に激怒し、公演を妨害しようと企み大きな嘲笑や怒号を行った。これにより、初日の公演は収拾がつかない状態に至った。

 

2回目(315日)と3回目(325日)から徐々にエスカレートしていき、ジョッキークラブの貴族たちは仲間を呼び寄せて、ラッパや狩笛、鞭などを持ち出して妨害工作を行い、喧騒をきわめた末、公演が続行できない事態にまで発展した。この事態を知ったワーグナーは支配人に書簡で、自らの取った態度と習慣に従わなかったことの非を認め『タンホイザー』の公演を撤回するに至った。

出典Wikipedia

2005/07/28

ワーグナー オペラ『タンホイザー』(序曲)

 

ワーグナーが5番目に完成させたオペラ(未完の『婚礼』を除く)で、ワーグナー作品目録では70番目(WWV.70)にあたる。副題に3幕からなるロマン的オペラ』(Romantische Oper in 3 Aufzügenという題が与えられている。

 

前作『さまよえるオランダ人』の持つ番号形式を本作ではこれを脱却し、またワーグナー自身の言う「移行の技法」が随所に巧みに用いられていることが特徴である。

 

舞台は13世紀初頭、テューリンゲンのヴァルトブルク城。『タンホイザー』が着想されたのは1842年(29歳)に遡る。当時ワーグナーは同年の4月にパリからドイツへ帰郷しており、ドイツのドレスデンで『リエンツィ』と『さまよえるオランダ人』の上演の機会を探していたが、この時期からすでに『タンホイザー』の散文の草稿を着手していたとされる。

 

18426月にワーグナーは場所を移して、ボヘミアの山岳地帯のアウシヒ(現在のウスティ・ナド・ラーベン)にて散文の草稿を仕上げる作業を628日から76日にかけて行い、宮廷歌劇場の指揮者としての仕事もあったため一時中断をしたが、翌1843522日に散文の草稿を韻文化した。また韻文化した草稿に音楽を付加するための小スケッチ類を多く書いたのち、夏にテプリツェに場所を移して1843年初秋に作曲に着手した。

 

1幕は11月にテプリツェで、第2幕は翌18441015日にドレスデンで、第3幕は1229日に、序曲は1845111日にそれぞれ作曲を終わらせ、413日に全体の総譜を完成させた。なお当初『ヴェーヌスベルク』という仮題をつけていたが、知り合いの医師からの助言で現在のタイトルに改題している。

 

中世のドイツでは、吟遊詩人として歌う習慣が騎士たちの中でもあった。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲンの領主の親族にあたるエリーザベトと清き愛で結ばれていたが、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、愛欲の女神ヴェーヌスが棲んでいるという異界ヴェーヌスベルクに赴き、そこで肉欲の世界に溺れていた。

 

1

ヴェーヌスベルクで快楽の日々を送っていたタンホイザーだったが、ある時夢の中で故郷を思い出し、ヴェーヌスベルクから離れようと決心する。ヴェーヌスは彼を引き止めようと誘惑するが、タンホイザーは強い意志によってそれを退けヴェーヌスベルクを消滅させる。

 

異界から脱出したタンホイザーは、ヴァルトブルク城近くの谷に放り出される。そこに領主のヘルマンや親友のヴォルフラムらが通りかかる。ヴォルフラムもまた、ヴァルトブルク城の騎士である。

 

領主やヴォルフラムは、出奔していたタンホイザーが帰って来たことを喜び、再びヴァルトブルク城に戻るよう勧めるが、官能の世界に溺れた罪の重さを思ったタンホイザーは、それを拒否する。しかしヴォルフラムは、エリーザベトが彼の帰りをずっと待っていると説得し、タンホイザーはヴァルトブルクに帰ることを受け入れる。

出典Wikipedia

2005/07/26

ナンパ師哲学

キャンパスライフの名物といえば色々あるが、さしずめ「コンパ」などはその代表か。X大といえば、京都はおろか全国的にも「超」が付くくらい有名なブランドだから、各地の女子大などあちこちからコンパの誘いは引きもきらなかった。

 

例によってニシモト、ホソノといったお馴染みの連中とともに、地元では「お嬢様大学」として知られる女子大とのコンパに参加した。


元来が、グループ行動は好むところではなかったが、なんと言っても「コンパ」といえば「最も手っ取り早いナンパの舞台」との誘惑に負けた。

 

コンパの鬼」を自称していたオーハシとナカニシの両人から


「コンパゆーんがどないなもんか、いっぺん試したらえーで」


などと熱心に誘われたこともあった。


そこで、コンパ初体験と相成ったわけだ。


先にも触れたように、コンパに参加してくるようなのは「その気」の女ばかりだろうから、最も手っ取り早いナンパの舞台であるし、なにより相手が「関西の有名お嬢様女子大生」というところに過剰な期待があった (*´*) ウヒョヒョヒョ


ところが、いざ蓋を開けてみると、イメージしていた「お嬢様女子大生」とは、あまりにかけ離れた知性の低さに話題が合わず、大きな幻滅を味わう羽目に (。 ̄Д)d□~~


おまけに「コンパの鬼」を自称するだけあって、場数をこなして来たお調子者ナカニシ、オーハシの独壇場と化した。


歯の浮くようなヨイショを連発する彼らを尻目に「京都のお嬢様女子大生」の幻想をぶち壊されたにゃべと、なぜか乗り切れないニシモトの2人だけがすっかりしらけてしまい、二人でタバコの灰ばかり大量生産することに ( -ω-)y─~~~~


「なんだ・・・京都のお嬢様女子大生ってのは、あんなに知性が低いのばっかりなんかい!

なー、京男のマサトよ!」

 

と「京男」のニシモトに八つ当たりすると


「なんや、オレのせいかいな? 

まあ、あないなもんやらはりはらはる・・・大体にしいや、オマエは「京女」ちゅうんにこだわり過ぎとらはるが、そへんつまらん幻想は持たんこっちゃゃ」


と、普段は温厚を絵に描いたようなニシモトからも、鋭く突っ込まれる羽目に。

 

「いや、別にオマエに当たったつもりはないが・・・」


「にしいやも、今日んおなごどもは確かに次元が低すぎたわな・・・」


「どうも、あの集団お見合いのようなのは、オレの肌には合わん!
コンパなんぞ、金輪際お断りだ!」


というにゃべに

「うむ・・・オレも始めてやったが、あらちーっとアホしなー


と、思いは同じようだった。


その後「稀代のナンパ師」マサムネに、コンパについて聞いてみると


「あないなもんは、幼稚園児のやるこっちゃさかい・・・オレやったら、よーやれへんな。引っ掛けっちゅーもんはやな、あないな据え膳食うもんは邪道やて、オノレの腕一本で落とすんが引っ掛けの醍醐味っちゅーやっちゃで」


と、さすがはナンパ師らしい「哲学」を持っていた。

 

X大の学生と言えば、さすがに全国から集まった精鋭だけにビックリするような賢いのがほとんどだったが、そんな中でこの男に限っては始終、女を誑かすことしか考えていないような異色の存在だけに、当初は

 

(こいつ、これで良く天下のX大に合格できたもんだわ・・・)

 

と疑問に思ったものだったが、話してみると実に鋭い洞察力も持っているから、やはり天才の類なのかもしれない。


そんなマサムネに


「オマエに、本命の女はいるのか?」


と訊ねると「オイオイ、止してくれや」と、欧米人のようにオーバーに手を振って見せ


「なんぼ美味いご馳走やからいうて、毎日同じもんばっかり喰うとったら飽きるやろーがな」


などと、豪語していたものだった。

2005/07/23

ホソとニシ (=゚ω゚)ノイヨ

排他的な(?)「関西村」の中で、最初に積極的に接して来てくれたのが、あのマサムネであった。

 

彼の場合は、もっぱらにご都合主義からくる打算から始まった「腐れ縁」といえた。結局、あの時に貸した金は貸し倒れとなってしまったとはいえ、その後のナンパ指南などの「実利」を考えれば、結果的に安い投資だった。あの詐欺師並みの口の上手さだから、大方約束倒れでトンズラを決め込むくらいに腹を決めていたのが、案に相違して面倒見の良いところを見せたのは評価できた。

 

マサムネに次いで親しくなったのがホソノで、純粋に利害抜きで接してくれたのは、このホソノが嚆矢となる。
 

色白で銀縁メガネをかけたホソノは、一見したところ文学青年風だった。この男は、同じ文学部ではなく工学部生で、実家の奈良から通っていた。


「なぜ、わざわざ奈良から?」
 

と聞くと


「『K大』ちゃー、憧れやからな。『K大』の連れが欲しいやんけ」


とのことだった。
 

相手の気を逸らさぬ、如才ない社交術に長けているだけでなく、アナウンサーのようなよく通る声で、弁舌も非常に爽やかな男だった。


「オトコマエ」という決定的な点を除けば、タイプ的にはマサムネに近いかもしれない。口の上手さ、如才のなさ、活動的なところや、目的に向かって突き進む行動力と決断力の早さは、両者の共通点だ。違いは、水も滴るようなスマートな都会風オトコマエのマサムネに対し、生まれも育ちも奈良のド田舎で、素朴な地方青年の老け顔がホソノであり、また稀代のオンナ誑しのマサムネに対し、プレイボーイのイメージとはかけ離れているのがホソノである。また、相手を煽て上げる話術にも長けているマサムネに対し、ヨイショは程々だがツボを心得た話術で、万事にソツないのがホソノである。


ホソノの次には、ニシモトという学生とも親しくなった。ニシモトは生粋の「京男」で、ホソノと同じ工学部生だ。


京男と言っても、当然の事ながら色々なタイプが居るのだろうが、このニシモトに関しては自分のイメージにある、おっとり型の「京オトコ」のイメージに、そのままピッタリと嵌った。万事に押しが強く、見た目は文学青年風ながら、その実体育会系的な体質で仕切るのが得意なホソノとは対照的に、常におっとりと構えていながら周囲の人々を惹き付ける、不思議な「」の魅力を持っていたのがニシモトだ。


この二人の出会いの後、もし自分が逆の立場だったら、と考えてみることがあった。果たして彼らのように、虚心坦懐に地方から来て孤立している学生に、自ら進んで接する事が出来たか?


そう考えると、やはり孤独感を深めていた初期のこの段階で、いち早く気さくに話しかけてくれたマサムネ(利害が絡んではいたものの)、ホソノ、ニシモトの3人が、後々のキャンパスライフを通しても、重要な存在となったのは当然の成り行きと言えた。


その頃はキャンパス内のラウンジで、ホソノやニシモトと駄弁る機会が増え、気付けばいつの間にやら仲良しトリオのようになっていた。


・生まれも育ちも愛知で、文学部のにゃべ
・生まれも育ちも奈良で、工学部のホソノ
・生まれも育ちも地元京都で、工学部のニシモト

 

こうして、出自もまったくバラバラの「X大ニュートリオ」が誕生した(?)のである ヽ()ノ ワチョーイ

2005/07/22

茨田=まった? まんだ? まむた?


 大阪にはおもろい地名が沢山ありますが、この手の話題になると「十三」、「喜連瓜破」、「放出」などとともに、よく出てくるのが「茨田大宮」です。

字を見る限りは「どこがおもろいの?」という感じでしょうが、これが「まったおおみや」と読むと知れば、誰しもが「何で?」と首を傾げるに違いない。

鶴見区のWebページでは

《茨田大宮(まったおおみや)は、字宮の前に鎮座した産土社の大神社の社名に由来する。大神社は、大正3811日に大字浜字赤曾根の古宮神社に合祀されたが、昭和12年に旧地に還坐し俗に大宮神社として、町域の人達に親しまれていることによる。

 「茨田の地名については『日本書紀』を出典とする古い地名として、当地付近が該当することに由来する。古来の茨田(万牟多)湿地や仁徳天皇の代に構築されたとする茨田堤にちなむ》

とあります。

ところが、このメジャーな「まった」という読みの他に「まんだ」或いは「まむた」という読みがあるというからややこしい。

《茨田は「まむた」と読むらしい。和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という古代の百料事典には、萬牟多と読みがふってある。播磨風土記(はりまふどき)には、河内の国茨田郡に枚方の里があった事、そこに漢人が居住していた事が出てくる。

また日本書紀には、有名な茨田の堤と茨田の屯倉(みやけ)についての記事があるほか、茨田池に関しても述べるなど茨田の名が古くからあった事を物語っている。茨田池は人工の池ではなく自然の滞水によるものであるらしいが、それは現在の寝屋川市南部以南に広がっていた、元の河内湖であった可能性が強い。「まむた」は、湿池帯を指す言葉ともいわれている。こうした観点に立つと、茨田と総称された地域はのちの茨田郡の範囲を超えて、かなり広大なものであったことが考えられる。
※地域文化誌「まんだ」より引用

≪私たちが淀川と生駒山地北部に画されたところの、ほぼ現今の北河内地方を代表する初めての地域文化誌に茨田の題名を当てたのは、それが日本古代史上の要地であったこの地に、最もふさわしいと考えたからである》

 《日本書紀仁徳11年条に「北河(現淀川)の水害を防ぐため築かせた」とある堤。日本書記によれば仁徳天皇の時代、上町台地にあった宮殿の高殿から大雨の後の河内の国を眺めると、河川から溢れ出た水のために田畑も家も水浸しだった。そこで、河内平野の低地に溢れるこの水を西ノ海(大阪湾)へ流すために、宮殿の北方にあたる台地の先端付近を掘ったのが「堀江」である。

また、しばしば氾濫を起こしていた北の河(淀川)洪水を防ぐため「茨田堤」を築いたという。古代の淀川の流路は、本流と古川に分かれ河幅も広く河内湖に注いでいた。上流の諸河川、特に木津川は土砂を大量に流し下流域に砂州を発達させた。

日本書記には、河の水が横に広がって流れ長雨になると、すぐに氾濫するようすが記されている。茨田堤は古川に沿って築かれ、遺跡は寝屋川、門真に残っている》

●ポリネシア語による解釈
《茨田郡は、現在の枚方市の南部から寝屋川市あたりの地域で、古代にはしばしば淀川の氾濫によって大きな被害を蒙っていた地域です。

「日本書紀」仁徳紀1110月の条には、淀川の氾濫による被害を防ぐため、現在の枚方市から寝屋川市あたりにかけての淀川左岸に、茨田堤が築かれたとあります。

また『行基年譜』の天平13741)年には「茨田堤樋 茨田郡茨田里」の記事があり、土木技術をもった秦人たちによって造られたと考えられています。この堤の完成によって淀川左岸の開発が可能となり、その後、大和盆地での溜池潅漑技術をもとに茨田池がつくられ、その水利によって茨田屯倉(みやけ)が経営されたものと考えられます。この郡名は『和名抄』は「万牟多」と訓じています。この「まむた」は

(1)
「ウマ(ウバ(崖、自然堤防)の転)」から
(2)
「マ(美称)・ウタ(湿地)」の意

とする説があります。

この「まむた」は、マオリ語の「マヌ・タ」、MANU-TA(manu=float,overflow;ta=dash,overcome)、「洪水が襲う(大きな被害を蒙る地域)」

の転訛と解します。

なにやらややこしいですが、どっちゃにしろ読めん事にはかわりないようでんな (*´m`)