2017/07/30

エジプト史



●初王朝時代
 ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と言ったように、ナイル川はエジプトに豊富な水と沃土をもたらした。

その流域には多くの人々が暮らし、川の氾濫時期を知るために正確な暦を持ち、氾濫後に農地を復元するために測地術が発達した。

エジプトの暦はローマでユリウス暦に発展し、測地術はギリシアの幾何学に影響を与えた
 
 エジプトは周囲を海と砂漠に囲まれ、メソポタミアのような民族の侵入はなく、静かに独自の文化が発達した。

メソポタミアやギリシアとの交流も盛んで、シュメール人の文字をもとに象形文字ヒエログリフが作られた。
 
 ナイル川を治水するためには住民を統率する指導者が必要で、村落(ノモス)は次第に強いものに統合されていった。

そして、ナイル川下流の下エジプトと上流の上エジプトの2つの国ができ、王(ファラオ)による神権政治が行われた。

BC3100年頃、上エジプトのナルメル王が上下エジプトを統一し、統一国家エジプトが誕生した

これが第1王朝で古代エジプトでは、これ以降2800年にわたって30の王朝が交代した

●古王国時代
 第3王朝から第6王朝までを古王国時代といい、安定した平和な時代が続いた。

首都はメンフィス(Menphis)で、シナイ半島や金が採れる南のヌビアにも進出していった。

貿易も活発で、アフリカ内陸部やソマリアと盛んに交易した。

ピラミッドが大々的に建設されたのはこの時期で、第3王朝のジェセル王の階段ピラミッドが最初に建設され、第4王朝にはギザに大規模なピラミッドが建設された
 
 第5王朝になるとピラミッドの建設は下火になり、代わりに太陽神殿が建設されるようになった。

6王朝の末期には、各地に諸侯が乱立して国は分裂状態となった。

この状態は、第10王朝まで続いた。
 
●中王国時代
 BC2060年、テーベ(現在のルクソール)のメンチュヘテプ2世(Mentuhotep)がエジプトを再統一し第11王朝を開いた。

その後、有能な君主が現われて平和な時代が続き、大規模な葬祭殿や神殿が建てられた。


【エジプトの宗教】
アメン神は上エジプトの主神だったが、後に太陽神ラーと合体して国家神アメン・ラー神となった

もう一つの重要な神が、イシスの兄で且つ夫のオシリス神である。

「人間は死ねば誰もがオシリス神となって復活する」という分かりやすい思想が人々に受け入れられた。

オシリスとイシスの子供が、ハヤブサの頭を持ったホルス神。

●アンモニアとアンモナイト 
アメン神殿には、大勢の人がラクダに乗って巡礼にやってきた。

神殿の周りにはラクダの排泄物が溜まり、塩に似た結晶(塩化アンモニウム)がたくさんできた。

これは「アメン神の塩」という肥料となり、その刺激臭がアンモニアと呼ばれた。

またアンモナイトは、ギリシアの神アンモン(=アメン)の頭にある羊の角に似ていることから、そう呼ばれた。

ヨルダンの首都アンマンも、アメン神に由来しているという説もある。
 
 BC1730年頃、シリアから遊牧民ヒクソス(Hyksos)が馬と戦車で侵入し、アヴァリスを拠点とする王朝を作った(1516王朝)

ヒクソスは1世紀にわたってエジプトを支配し、クレタと盛んに交易した。

ヒクソス人は、徐々にエジプトに同化していった。

●新王国時代
 ヒクソスの力が衰えると、テーベにエジプト人による第17王朝が興った。

この王朝は、対ヒクソス戦争を開始した。

BC1565年、イアフメス1世は奇襲によってヒクソス軍を破り、エジプトから追い出した。

これが第18王朝で、エジプトが最も栄えた新王国時代が始まった。

この王朝の王達は、ルクソールの王家の谷に葬られている。

イアフメスの子アメンヘテプ1世はカルナック神殿を造営し、孫のトトメス1世はシリアやヌビアのクシュ王国にも勢力を拡げた。
 
 BC1479年、幼いトトメス3世が即位するが、継母ハトシェプストが共同統治者となり全権を掌握した。

彼女は戦争を好まず、平和外交によってエジプトを繁栄させた。
 
 次のトトメス3世は、周辺諸国に遠征してエジプト史上最大の帝国を築いた。特に、カデシュ王率いるカナン連合軍を破ったメギドの戦いが有名である。

世界終末戦争が行われるハルマゲドンとは、メギドの丘という意味。

●アマルナ改革     
 エジプトが戦争に勝利すると、王はアメン神に感謝して多くの寄進を行った。その結果、アメン神官達は大きな勢力を持ち、王位すら左右するようになった。
 
 このアメン神官の勢力を抑えるため、アメンホテプ4世(イクナートン)が立ち上がった。

BC1346年、テーベからアマルナに都を移し、唯一神アテンのみを信じる一神教を強要した。

アテンは太陽円盤の形で、数多くの手を持った姿で描かれている。

そしてアメンホテプ4世自身も、神として崇拝するよう説いた。
 
 しかし改革が急だったため神官達の激しい抵抗にあい、次のツタンカーメンの時に首都はテーベに戻った。

改革は失敗したが、宗教や権威にとらわれない写実的なアマルナ美術が生み出された。
※ http://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca 引用

バラモン教(1)



 アーリア人の宗教(ゾロアスター教)と先住民の宗教が融合してバラモン教(ブラフマン教:Brahmanism)が生まれた。

バラモン教はヴェーダを聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝した

また、この世で行った行為(カルマ)によって、次の世の生まれ変わりが決まる(輪廻)と説いた。

そのため、人々は良い状態に生まれ変われるないように、解脱の道を求めよと教えた。
  
 BC500年頃にバラモン教は衰え、新しい思想としてジャイナ教と仏教がおこった

ジャイナ教(Jainism)は、ヴァルダマーナ(Vardhamana)が開いた宗教で、バラモンの権威を否定し、人間は苦行によって救済されると説いた。

不殺生主義を徹底させた、厳しい戒律が定められている。
  
 仏教は、ネパールのシャカ族の王子釈迦(ガウタマ・シッダールタ:Gautama siddhaartha)が開いた

全ての人間は平等で、正しい道(八正道)を行うことによって苦しみから逃れられると説いた。

ジャイナ教と仏教は、多くの支持者を集めた。
  
 1世紀ころになると、バラモン教はジャイナ教や仏教、地域の民族宗教と結びつき、ヒンドゥー教へと発展していった

バラモン教(婆羅門教、ブラフマン教、Brahmanismは、近代のイギリス人がバラモン中心の宗教を呼ぶために作った造語である。

実質的に、ヴェーダに説かれる祭祀を行う人々の宗教を指す意味で使われることが多い。

古代のヒンドゥー教と理解してもよい。

ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)とほぼ同一の意味で、言い換えることも可能であるが、ヴェーダの宗教(ヴェーダ教)という言葉はあまり用いられていない。

バラモン教にインドの各種の民族宗教・民間信仰が加えられて、徐々に様々な人の手によって再構成されたのが現在のヒンドゥー教である。

バラモン教 (Brahmanism) という名前は、後になってヨーロッパ人がつけた名前で、仏教以降に再編成されて出来たヒンドゥー教と区別するためにつけられた(ただし「ヒンドゥー教」という言葉には、バラモン教を含む考えもある。

ヒンドゥー教は広義ではインドにあり、また、かつてあったもの一切が含まれ、インダス文明まで遡る)

ヒンドゥー教という名前も、ヨーロッパ人によってつけられた名前であり、インドには特にヒンドゥー教全体をまとめて呼ぶ名前もなかった

バラモンとは、司祭階級のこと

正しくはブラーフマナというが、音訳された漢語「婆羅門」の音読みから、日本ではバラモンということが多い。

バラモンは祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理ブラフマンに近い存在とされ敬われる。

最高神は一定していない。

儀式ごとに、その崇拝の対象となる神を最高神の位置に置く。

階級制度である四姓制を持つ。

司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなる

これらのカーストに収まらない人々は、それ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)とされた。

カーストの移動は不可能で、異なるカースト間の結婚はできない

●教義
『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。

そこでは、人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる

人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。

●歴史
紀元前13世紀頃、アーリア人がインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程で、バラモン教が形作られたとされる

紀元前10世紀頃、アーリア人とドラヴィダ人の混血が始まり、宗教の融合が始まる。

紀元前7世紀から紀元前4世紀にかけて、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド哲学が形成される。

紀元前5世紀頃に、4大ヴェーダが現在の形で成立して宗教としての形がまとめられ、バラモンの特別性がはっきりと示される。

しかしそれに反発して、多くの新しい宗教や思想が生まれることになる。

現在も残っている仏教やジャイナ教も、この時期に成立した。

新思想が生まれてきた理由として、経済力が発展しバラモン以外の階級が豊かになってきた事などが考えられる。

カースト、特にバラモンの特殊性を否定したこれらの教えは、特にバラモンの支配をよく思っていなかったクシャトリヤに支持されていく。

1世紀前後、地域の民族宗教・民間信仰を取り込んで行く形で、シヴァ神やヴィシュヌ神の地位が高まっていく

1世紀頃には、バラモン教の勢力は失われていった。

4世紀になり、他のインドの民族宗教などを取り込み再構成され、ヒンドゥー教へと発展・継承された。
 
●ヒンドゥー教との差異
バラモン教は、必ずしもヒンドゥー教と等しいわけではない。

たとえばバラモン教に於いては、中心となる神はインドラ、ヴァルナ、アグニなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった

ヒンドゥー教でもヴェーダを聖典としているが、叙事詩(ギータ)『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、プラーナ文献などの神話が重要となっている。
Wikipedia引用