2005/12/31

ドビュッシー 管弦楽のための『映像』Ⅱ.イベリア(ibéria)


2曲の『イベリア』 は、一番最初に完成した曲。3つの曲の中では最大の規模を持ち、3つの曲から構成されているが演奏は続けて行われる。初演は19102月に行われた。各曲の作曲時期、楽器編成は異なる。組曲の体裁はとられているが、各曲は半ば独立した作品と見ることができる。以下の曲順は全曲の作曲後に決められたものであるが、この順に演奏する場合と完成順に演奏する場合とがある。また、しばしば『イベリア』のみが単独で演奏される。

 

1) 街の道や田舎の道を抜けて(par les rues et par les chemins

1906年~1912年,ドビュッシー40代後半の作。着手に先駆け「悪夢のような」離婚騒動のすえ19058月にリリーと別れたドビュッシーは、パリ郊外ブローニュ森大通り80番地の戸建てへ移り住んだ。銀行家の妻だった新妻エンマは贅沢な暮らしに慣れており、シュシュの誕生で乳母を雇う必要も生じ生活費を圧迫していた。

 

新婚旅行から戻った直後にリリーは自殺を謀り、これが報道されたことにより多くの友人が彼の下を離れていった。そうした私生活を反映してか交響詩『海』以降も筆は進まず、ラウル・バルダック宛書簡(1906224日)には

「とても少ししか音楽を書いていないのですが、まったく気に入りません」

と記し、デュラン(同418日)には

「虚無の工場の中で腐り果て続けている」

と愚痴をこぼしている。

『映像』はこうした時期を経て書かれ、完成までに6年半を要した。

 

2) 夜の薫り(les parfums de la nuit

ドビュッシーが『映像』を最初に構想したのは、1896年頃のことである。この時はピアノ曲独奏用の二編を含んだ全二巻十二曲からなる大規模な連作として構想され、1903年には『管弦楽のための映像』となる二台ピアノと管弦楽のための三曲を、二巻のピアノ独奏が挟む大規模な作品となり、デュラン社と契約書も交わされている。しかしながら、3つの映像が連作として言及されたのは、これが最後であった。

 

二年後のデュラン宛て書簡(1905年5月16日)の中で、この三曲は2台ピアノのための映像として再度触れられた。この時は、第1楽章が「悲しきジーグ」(Gigues tristes)、第2楽章「イベリア(ibéria)」、第3楽章「ワルツ(Valse)」の3曲となり,楽章が入れ替えられている(Debussy 1927

 

3) 祭りの日の朝(le matin d'un jour de fête

全曲初演は当初、シュヴィヤールへ依頼することが考えられたものの、彼は「ジーグ」だけを別に指揮することを望んだため依頼を断念。「イベリア」の演奏解釈に難を感じていたにもかかわらずピエルネに変更され、結局は作曲者自身の指揮により、コロンヌ管弦楽団の定期演奏会で初演された。批評家の評価はいつもの如く大きく分かれたものの,否定的な見解は押し並べて少なかった。

 

この『管弦楽のための映像』こそは、ドビュッシーの「印象主義音楽」の真髄を楽しむのには、まさにうってつけの作品と言えるような、その技巧が晩年に至っていかに究められたかがわかる作品だ。ただし、ドビュッシーのビギナーがいきなりこれを聴いてしまうと、恐らくは

 

「なんじゃ、こりゃ?

さっぱり、わけわかんねー・・・」

 

ってな事になろうかと思われるが ニヒヒヒ ( ̄*

2005/12/30

ドビュッシー 管弦楽のための『映像』Ⅰ.ジーグ(gigues)

 


『映像』(Images)と名付けられた作品は、全部で3つある。

 

1巻(1905)と第2巻(1907)はいずれもピアノの為に書かれ、第3巻も含めて全て3つの曲から構成されている。この第3巻は管弦楽のための作品ではあるが、元々は第2巻の姉妹篇として2台ピアノのための作品として構想されたが、作曲の途中でこれを管弦楽の為に作品に発展させた。

 

ドビュッシーは、この作品に対して

 

「『映像』では、何か異なったものを試みた。ある愚者はまったく間違えた用いかたをして印象主義と呼んでいるもの、特に神秘的な効果の最大の創造者であったターナーに対して、批評家たちが何の躊躇いも無く適用したものだが、そのリアリティの効果である」

 

と述べている。

 

3曲の《春のロンド》の初演は1910、コンセール・デュランでドビュッシー自身の指揮で行われた。『映像』に於いては3つの曲をそれぞれイギリス、スペイン、フランスの異なる風土的素材を求めているが、それがドビュッシーが述べた「何か異なったもの」に結びつくものと考えられる。

 

この3つの曲は、それぞれ独立している。第1曲の《ジーグ》は実際には最後に書かれた曲で、オーケストレーションの最後の部分はドビュッシーの弟子のアンドレ・カプレによって仕上げられ、1913年に初演が行われた。

2005/12/28

すき焼き(鍋の美味しい季節ですpart1)

 寒い季節は、やはり鍋。作るのも簡単で体も暖まり一石二鳥はおでんも鍋物も同じですが、おでんよりは鍋物が好きなのは肉や魚が好きなせいでしょう。

適度な大きさに切った材料を煮立った鍋にぶち込むだけと手間が要らず、しかも肉や魚、野菜と一度に色々食べられるから栄養バランス的にもよしと、まさにいい事ずくめではないでしょうか。まずは、何はともあれ「鍋の王様」すき焼きから登場していただきましょう。

●すき焼き
「すき焼きなら、うちはしょっちゅうやってるよ・・・今夜も食べたし・・・」という人もいるかもしれませんが、それは「本物のすき焼き」でしょうか?

実はワタクシも、そこそこの大人になるまで「すき焼き」と「寄せ鍋」の区別がつかずに笑われた事がありますが、同じように考えている人は少なくないのではないか。そこで、まずは「すき焼きの定義」から、確認していきましょう。

<一般的なすき焼きは、薄切りにした牛肉が用いられ葱、春菊、椎茸、豆腐などの具材が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵を絡めて食べる。しゃぶしゃぶの薄切り肉は、熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚い事が多い。

名称の由来は、江戸時代には肉を焼くのに使い古した田畑を耕す農具の鋤を火にかざして使っていたとする説と、肉の薄切りを指すすき身に切って鉄鍋で焼いて食べたことに由来する説がある。

日本では幕末になるまで、仏教の戒律などのため牛肉を食べる事は一般には行われていなかった>
出典Wikipedia

つまり、すき焼きの定義は「牛肉」と「生卵」・・・これが寄せ鍋と一線を画す、ポイントと言えるでしょうか。

<1867年に江戸に牛肉屋が開店し、まもなく牛鍋をだす店も登場した。牛鍋は、文明開化の象徴として流行した。1990年代後半にいわゆる狂牛病と呼ばれるBSEにより狂牛病問題が起き、日本では米国産牛肉の輸入が禁止された。これを受けて牛肉を用いる日本国内の外食産業は、豚肉を用いたメニューを加えた。

尚、横浜にはぶつ切り牛肉を使い、適宜、割り下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る、牛鍋を供する名店がある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。イノシシのボタン鍋の転用で、味噌煮込みであったらしい。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋も、こうした味噌鍋が主流であったと思われる。  先述のぶつ切り牛肉の味噌鍋の店も、こうした牛鍋のプロトタイプの名残りと見る事が出来よう>
出典Wikipedia

 <関東と関西では、その調理法に違いが見られる。関東のすき焼きは、明治に流行した牛鍋がベースになっており、だし汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた「割下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮る。関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに調味料を直接加えて味付けをし、割下は用いない。東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあると言われる>
出典Wikipedia

この辺りの記述は、かつてワタクシが読んだ本の説明とは、かなり違っております。

<元々、関西は「松坂牛」、「神戸牛」、「近江牛」など牛肉の産地に恵まれた事もあって、肉と言えば牛肉が主流であり、逆に牛肉の産地には恵まれなかった関東では豚肉を使うのが一般的である。豚肉が当たり前の関東では、牛肉を使っている場合は「牛すき」と言うように「」を謳い文句に入れるが、牛肉が当たり前の関西では「すき焼き」といえば、牛肉が当たり前なのである>

いった記述だったと記憶しています。

そして結論的には高価であり、また牛肉はそれほど好きではないワタクシは、専ら「寄せ鍋派」であります。

ワタクシの生まれ育った愛知県は、食文化に関しては明らかに関西寄りといえますが、オヤジが牛肉嫌いだった事もあって、子供の頃からあまり牛肉を食して来た記憶がありません。したがって、いつも母が「今日は、すき焼き風の煮物にしたよ・・・」と言っていた「風」の意味は、豚肉を使っていた事に由来するのだなと気付いたのは、随分と時が経ってからの事でした。

2005/12/26

2005冬物語


 今月は、月初めに2日間休暇を取って鎌倉・箱根・湯河原・修善寺へと温泉旅行としゃれ込みノンビリして来ましたが、そのツケが廻ったか職場ではトラブルが連続して見舞われ、深夜対応が二度(そのうち一回は、明け方の5時過ぎまで対応)に及び、師走らしい慌しさとなりました。

他の人に比べ、仕事をこなすスピードが三倍くらいは速いワタクシ的には、既にXmas前には年内にやっておくべき課題は総て片付けた事もあり、職場では仕事の合間にこっそりとネットショッピング物色していたものです。

ここへ来て急激に寒くなって来た事もあって、最近は自炊で鍋料理を作っていますが冷めた鍋ほど不味いものはないという事で、偶々買い物の時に目に付いた2500円のカセットコンロとボンベ3本セットを買い求め

(さあこれで今日から、ホカホカの鍋が楽しめるぞー)

と歓んでいたのも束の間、どうやら不良品らしくボンベを何度か付け替えてみても一向に火が付かない。

「さっき買ったばかりの、カセットコンロが壊れているよ・・・」

と、スーパーに電話をすると

「それは大変申し訳ありません・・・直ぐにも取り替えさせていただきますが、ご来店のご予定などは・・・?」

「全然ない。平日は忙しいし、土曜まではまだ3日もあるからねー」

事実、この日は目を付けていたコンロを買う目当てで

「会社と年末の打ち合わせが・・・」

とダマクラカシて、定時で帰ったのでした。

無理を承知で

「持って来てくれ」

と言うべきか考えていると、意外にも向こうから

「よろしければ、こちらからお持ちいたしますが・・・」

と言って来たので、勿論二つ返事でOKした事は言うまでもありません。

「そうそう・・・売り場にはワタクシが買った2500円のと、イワタニの3500円のと二種類あったんだけど、あの無名品の方は最早信用できんからイワタニの方を持って来て欲しいねー。ボンベのセットも忘れずに・・・念のため、動作確認もして来てちょうだいな」

すると感心にも若い社員が店から徒歩15分のワタクシの家まで、寒い中をテクテクと歩いて持って来てくれたではないですか。

「寒い中、悪かったねー。
車じゃないの?」

「それが、車が総て出払っておりまして・・・なので歩いて来ました」

「それは大変だったね・・・ごくろーさん。で、差額は幾らだっけ?」

「いえ、もう・・・差額は結構です。ご迷惑をおかけいたしましたので」

「いやいや、そんなつもりはないから・・・どーせ大した事のない額(1200円程度)だし、こうして持って来て貰ったんだから払うよ」

「いえ、本当に結構ですよ・・・折角楽しみにしていたお鍋をお待たせして、ご迷惑をおかけしましたので・・・」

「確かに、もう食べてしまったけどね。そこまで言うのなら、折角だし交換してもらおうか。まあワタクシはオタクの店では、かなりの常連だし」

動作確認済みのカセットコンロは、当然の事ながら勢いよく火が点いた。

 (これで、温かい鍋が楽しめるぞー)

しかしまだ、もう一つの問題があったのだ。それは使っているテーブルのサイズで、これが甚だ狭いのである。幅90cm弱、奥行き60cm、高さ32cmのサイズだが、PCの液晶ディスプレイとキーボードが乗っているため、料理の品数が3品を越えるともう狭くなってしまう。鍋は何とか乗るが、カセットコンロなどはとても乗せるスペースはないため、仕方なくコンロは下に置いて使っていたのである。

正月を迎える事もあり、新しく大きなテーブルに買い換えたかったが、近所のスーパーや無印良品、LOFTなど見て廻ったもののどこも同じようなものばかりで、希望のサイズ等を満たすものがなかった。

ホームセンターがあればいいのだが、あるのはやたらとバカ高い家具屋ばかりで、どうせ使い捨てになるのだから、そんなに高価なものが必要なわけはないのだ。

そこでネット通販に目を向けたところ、こちらには希望のサイズを含めてイメージに合うものが、直ぐに見つかった。

天然木で幅120cm、奥行き75cm、高さ34cmと、これ以上大きくなると部屋が狭くなる事を考慮すればまさにイメージにピッタリのもので、値段も1万円と手頃だったため迷わず注文する。

早速、部屋に置いてみると大きさといい、一見したところはまるで温泉旅館などに置いてあるようなテーブルに見えなくもない(勿論、材質は全然違うだろうけどw)

ともあれ、これで無事に(?)正月を迎えられる事になった。

2005/12/23

ドヴォルザーク 交響曲第9番『新世界より』(第4楽章)

 



4楽章は、非常に有名である。CMや効果音楽などでもよく使われるから、(特に冒頭の部分は)殆どの人が知っているはずだ。冒頭からオーケストラが全開である。

 

まず印象的な導入部から始まるのは総ての楽章に共通するが、第4楽章は特に単なる導入部にしておくのが勿体ないような、非常にインパクトの強いテーマで幕を開ける。この導入部に続いてトランペットが輝かしく、有名な旋律を歌う。続く弦楽合奏が、これまた美しい。

 

3楽章同様に、長閑な感じの民謡風メロディが現れる。冒頭の嵐のような部分を乗り越え、弦のピッチカートなどでひと息入れた後、第2楽章の「遠き山に~」のメロディが何度か繰り返しで登場してくるが、第4楽章の第1主題と似ているため、よく聴いていないと聴き逃しやすい。第1楽章第1主題と第2楽章の「遠き山に~」の主題が絡むが、ここはよく聴いていないと気付かないような、デリケートな処理である。

 

「ドヴォルザークは構成が苦手」どころか、この部分を聴く限りベートーヴェンやブラームスを聴いているような錯覚にすら陥るほどだ。それでいて、ベートーヴェンやブラームスのような圧迫感は感じさせず、素材をうまく開放しているところが素晴らしい。

 

民謡風のメロディが実に泣けるほど美しく、故郷を思うドヴォルザークの哀感が切々と伝わるようである。。さらに、どこまでも美しさが深まっていくのが、この曲の凄いところである。

 

1楽章の第1主題と、第1主題が絡み合いながらクライマックスへとなだれこむが、第2楽章の「遠き山に~」の主題に第3楽章の第1主題が小さく絡んでいる。これまた、実に心憎い構成だ。最後の1音はフェルマータ(延長記号)の和音をディミヌエンド(強弱標語の一。だんだん弱くの意)しながら出すという非常に興味深いもので、指揮者ストコフスキーは、これを「新大陸に、血のように赤い夕日が沈む」と評した。

 

なお、この『新世界より』と言う曲は、一部に(黒人霊歌をそのまま並べただけ)といった批判もあるが、勿論これはデタラメであることは言うまでもない。確かに、黒人霊歌が沢山使われてはいるものの独自のアレンジを加えているし、故郷ボヘミアの民謡の要素なども巧みに織り交ぜてもいるのである。また、タイトルの『新世界より』というのは「新世界アメリカを描写した」という意味ではなく、ホームシックに罹っていた田舎モノのドヴォルザークが「新世界アメリカより、故郷ボヘミアへの想いを綴った」のである(『New World』ではなく『From the New World』)

 

全般的にはボヘミア音楽の語法によりながらも、アメリカで触れたアフリカ系アメリカ人やネイティヴ・アメリカンの音楽要素が見事に融合されており、それらをブラームスの作品研究や第7・第8交響曲の作曲によって培われた西欧式の古典的交響曲のスタイルに昇華させた。このように、東欧・西欧・アメリカの3つの地域の音楽が、有機的な結合で結びついた傑作というに相応しい曲である。

 

ブラームスの支援により、一流作曲家として道を拓かれたのを切っ掛けとして二人の交友関係が始まった。ドヴォルザークの仕事場に遊びに来たブラームスは、何気なくゴミ箱に山と詰まれた失敗作を漁った。クシャクシャになった五線譜を伸ばし、そこに目を落としたブラームスはビックリ仰天。そこには、メロディ創りの不得手なブラームスには涎が出そうな美しいメロディの数々が、いとも惜しげもなく捨ててあったのだ。

 

「ああ・・・私ならドヴォルザークのゴミ箱から、幾つもの名曲が創れるのに・・・」

 

構成には大いに自信のあるブラームスが、ここを訪れる度に嘆いて見せたというエピソードは有名である。つまり、美しく魅力的なメロディなら幾らでも造作なく産み出せるが、それをひとつの音楽として構成するのは得意ではなかったのがドヴォルザークで、片や楽想創りに散々苦心しながら、得意の構成力でつまらないメロディを魅力的に見せるのが得意だったブラームス。このように対照的な二人が、互いに自分の苦手な才能を認め合ったからこそ二人の関係が長続きしたのだろう。