2017/02/27

氷川信仰(スサノオ)

出典

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonshinwaco/izumoootyoco/izumoootyoco.htm

日本書紀の第五の一書が、次のように記している。

 

一書に曰く、建速須佐之男命尊曰く、『韓郷(からくに)の嶋には、これ金(こがね)銀(しろがね)有り。若使(たとい)吾が児の所御(しら)す国に、浮く宝有らずは、未だ佳(よ)からじ』とのたまいて、すなわと髭髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。

 

即ち杉に成る。

又、胸の毛を抜き散つ。これ檜に成る。

尻の毛は、これマキに成る。

眉の毛はこり樟(くす)に成る。

すでにしてその用いるべきものを定む。

すなわち称(ことあげ)して曰く、

『杉及び樟、この両(ふたつ)の樹は、以て浮く宝とすべし。檜は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材にすべし。

マキは以て顕見(うつしき)蒼(あお)生(くさ)の奥津(おきつ)棄戸(すたへ)に将(も)ち臥さむ具(そなえ)にすべし。

その比ぶべき八十(やそ)木種、皆能(よ)くほどこし生(う)』

とのたまう」。

 

 建速須佐之男命を祀る神社は、全国各地にある。その中でも組織だった神社として氷川神社(ひかわじんじゃ)がある。旧武蔵国(埼玉県、東京都)を中心として神奈川県下に及び、その数は280社を数える。簸川神社と書く神社もあり、これは出雲の「簸川」(ひいかわ、現在は斐伊川)に由来するものと思われる。埼玉県埼玉市大宮区にある氷川神社を総本社とする。

 

夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)に任じられた出雲系の豪族が各地に勧請されて、広大な祭祀(さいし)圏を形成して来たものと推定できる。国造本紀の中に、志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に、出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜うとある。これによれば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。

 

高橋氏文では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳を築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。

 

 氷川信仰は、同じ建速須佐之男命信仰でも祇園信仰とは異なり、自然神である氷川神(ひかわのかみ)と建速須佐之男命が習合したものと思われる。氾濫を起こす暴れ荒川の本支流域に多く分布する。ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致している。

2017/02/26

「八雲立つ」出雲王朝

出典http://www.marino.ne.jp/~rendaico/profile.htm

八雲立つ

八岐大蛇を退治して奥出雲を支配し、鉄を手に入れた建速須佐之男命は、原出雲の西部に位置する杵築(きづき)郷と斐伊川一帯に建速須佐之男命系出雲王朝を樹立した。これを仮に「建速須佐之男命系出雲王朝」と命名する。

 

「建速須佐之男命系出雲王朝」は、東部の「原出雲王朝」に対抗する勢力となり、両王朝鼎立時代を迎える。その形成史が、次のように伝えている。

 

建速須佐之男命は、ヤマタノオロチを退治した後、櫛名田比売と結ばれ、出雲で生活することになった。新妻を迎える宮を作るべき地として須賀の地を選び、御殿を建て暮らし始めた。古事記は、その須賀の宮を造られた時、その地から「雲立チ騰リキ」と記している。

 

宮殿を造っている時に、雲が立ち上がったのを見て、建速須佐之男命は次のように歌を詠んだ。

 

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」

 

建速須佐之男命と櫛名田比売は、古代出雲の地に建速須佐之男命王権を確立していった。

 

建速須佐之男命は、櫛名田比売以外にも豪族の娘との間に次々に子供を生み、血縁一族を増やしていった。この政略結婚政策で、王朝の礎(いしずえ)を創っていった。特に、稲作農耕と鉄器の導入と「八十木種」(やそこだね)を播いて国中に植林し、国土経略事業を押し進めた」

 

建速須佐之男命は、「蚕、五穀、鉄」の支配を活用し斐伊川出雲に影響力を広げ、建速須佐之男命王権を創始していったことが伝えられている。当然、東域の原出雲王朝と対立することになる。

 

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(ご)みに 八重垣作る その八重垣を」

 

は五・七・五・七・七の形式の整った和歌であり、これが和歌の初見とされている。

 

出雲国風土記では、この建速須佐之男命の命の神詠は、出雲の国引きをしたヤツカミズオミツヌの命の詠んだとされる「出雲(いずも)と号(なず)くる所以は、ヤツカミズオミツヌの命、八雲立つと詔り給いき、故、八雲立つ出雲という」と記している。

 

これによれば、建速須佐之男命はヤツカミズオミツヌの命が樹立した、東出雲王朝の王権を意識していることになる。

 

建速須佐之男命王朝の御代、正統王権の証として「三種の神器」が生まれたように思われる。

 

「やがて、正妻櫛名田比売との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」

 

但し、日本書紀は、建速須佐之男命と稲田姫の間に生まれた子として八嶋手の命を記し

 

「この神の5世の孫は即ち大国主神なり」

 

と記していると云う。つまり

 

「正妻櫛名田比売との息女・須世理姫が大国主の命となるオオナムヂと結婚することになる」

 

との時間差が生まれている。

2017/02/25

『古事記傳』9-3 神代七之巻【須賀宮の段】(本居宣長)

口語訳:妻と共に住むため、速須佐之男命は宮を作るところを、出雲の地に求めた。須賀の地に到って「ここに来て、私の心は清々しくなった」と言い、そこに宮を作った。それで、その地を今も「須賀」と言う。

 

この大神が宮を作る時、その地から雲が立ち昇った。そこで歌を詠んだ。その歌は

 

「八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」

 

ここに、かの足名椎の神を呼んで「あなたは私の宮の守護の役をしなさい」と言い、またその名を稲田の宮主、須賀の八耳神と命名した。

 

<この須佐之男命の歌は、いろいろな解釈がある。一例としては「八重の雲が立っている。その立つ雲が八重垣を作る。妻を守る八重垣を作ろうとしている私だが、その八重垣を自然に作っている」

 

といった解釈がある。

 

是以(ここをもて)とは、櫛名田比賣を娶ることになったのを言う。宮造りの動機である。

 

○宮可造作之地(ミヤつくるべきトコロを)

【宮の字は、作の字の下にある意味に解すべきである。】宮(みや)は御宅(みや)だ。この宮造りは、もっぱら櫛名田比賣との婚姻(みあい)のために作るのである。書紀には「然後行覓將婚之處(そののち、行きながら婚姻する場所を探した)」とある。そのままこの文に相当するので、意味が分かるだろう。上代には、婚礼に当たって、まずその家を造ったらしい。あの伊邪那岐・伊邪那美の大神の時にも、まず八尋の大殿を見立てたとあった。

 

出雲国風土記には、神門郡八野の郷について「八野若日女命坐之、爾時所=造2天下1大神大穴持命、將2娶給1爲而、令レ造レ屋給、故云2八野1(ヤヌワカヒメのミコトましき、そのときアメのシタつくらししおおかみオオナモチのミコト、ミアイたまわんとして、ヤをつくらしめたまう、かれヤヌという)」とある。

 

○我御心須賀須賀斯(アがミこころスガスガし)。【これを須々賀々斯と書いた本がある。これはいにしえの書き方である。】書紀には「乃言曰、吾心清淨之(すなわちコトアゲしたまわく、アがこころすがすがし)」と書いてある。この言葉の意味は、「濯(すす)が濯(すす)がしい」ということだ。【「すすぐ」を「すすがしい」と言うのは、「さわぐ」を「さわがしい」、「もどく(真似る、または逆らうなどの意)」を「もどかしい」というのと同じ活用である。

 

○源氏物語などに「すがすが」という言葉が多く出るが、それは物事が滞りなく、速やかに進むことを言うので、ここに出たのとは違うかも知れない。しかし垢がなく清らかなことと、滞りなく進むこととは似た点もあるので、本来は同じ意味だったか。このことは、中巻の明の宮(應神天皇)の段で、「須久須久登(すくすくと)」という言葉について詳しく述べる。】

 

「この地に来たところ、心が洗ったように清潔な気持ちになった」ということである。今の世に「心が澄む」というのと同じである。出雲国風土記に「意宇郡安來郷、神須佐乃烏命、天避立廻坐之、爾時來=坐2此處1而詔、吾御心者安平成詔、故云2安來1也(オウのこおりヤスキのさとは、カムスサノオのミコト、アメのソキたちめぐりましき。そのときこのトコロにきましてノリたまわく、『アがミこころはヤスクなりぬ』とノリたまいき。かれヤスキという)」とあるのも合わせて考えよ。所は違うが、事の次第は全く同じであることから、古伝の意味合いを知ることができよう。「安くなる」というのも心が落ち着くと言うことで、「心が澄む」というのと同じだ。

 

【つまりこれは、その時感じた心地を言っているので、俗に言う「心持ち」である。全体としての心の善悪を言っているのではない。それを「悪心が消えて、清い心になった」と解釈するのは、あまり当たっていない。漢意に溺れた学者の癖として、ともすれば万事を儒仏の心法に引き寄せて説明しようとするので、ここの言葉を捉えて、「心の祓除である」などと言うのは、こじつけである。同じ風土記に「秋鹿郡多太郷、須佐能乎命御子、衝桙等乎而(与?)留比古命、國巡行坐時、至=坐2此處1而詔、吾御心照明正眞成、吾者此處静將坐詔而静坐、故云2多太1(アイカのコオリただのさとは、スサノオのミコトのミコ、ツキホコトオヨルヒコのミコト、クニめぐりいでまししとき、ここにイタリましてノリたまわく、「アがミココロあかくタダシクなりぬ。アはここにシズマリまさん」とノリたまいてシズマリます。かれタダという)」とあるのも似たことである。】

 

これ以前に鬚や爪まで抜いて祓ったのに、なお穢れが尽きておらず、その後にも大宜都比賣の神を殺す悪行があった。【もっとも、この神の死体から種々の物が化生して、世の大きな利益となったのは、祓除の功徳で、悪事の中にもう善事が始まっていたのである。】

 

ところが後に大蛇を斬って、無上の霊剣を得て天に奉ったことは、その功績が比類なく、【蛇を殺して民の害を除いたことを功績とするのは当たらない。その程度のことは、この神の威力からすると、大した功績ではない。】ここでそれまでの穢れはすべて尽き果てたため、おのずから心が清々しく感じたのだろう。

 

ところで、「この地に来て」とその土地にかけて言っているのは、その地に深い縁があるからだろう。そのことは凡人の考えでは推測できない。そもそもこの地は櫛名田比賣と婚姻して、その生んだ子孫が天下に大きな功績を残すことになった、その出発点の土地なのだから、そこで心が清々しく感じたのもうなずけることである。

2017/02/24

ヴェルミチェッリ(パスタマニア)(4)

ヴェルミチェッリ(イタリア語: Vermicelli [veɾmiˈtʃɛlːi])とは、イタリア料理で使われる麺類であるパスタのひとつ。名称はミミズやヒルのような長い虫という意味の「ヴェルメ」(verme)の指小形で、「小さいヴェルメ」の意。断面はスパゲッティ同様に円形(管状)だが、スパゲッティよりやや太めの2.08mm2.14mm

 

英語読み([vɜrmɨˈtʃɛli, vɜrmɨˈsɛli])の「ヴァーミセリ」「バーミセリ」という名でも知られている。英語圏では普通、「ヴァーミセリ」はスパゲッティよりも細い麺のことを指すが、イタリアでは典型的な「ヴェルミチェッリ」はスパゲッティよりも太いものを指す。

 

歴史

14世紀のイタリアでは、地方ごとに呼び名は異なっていた。レッジョ・エミリア出身の Barnaba da Reatinis は、著書の中で、トスカーナでいうヴェルミチェッリのことを、ボローニャでは「orati」と呼び、ヴェネツィアでは「minutelli」と呼び、レッジョでは「fermentini」と呼び、マントヴァでは「pancardelle」と称していたことを書き記している。

 

ヴェルミチェッリのレシピは、カメルレンゴ(ローマ教皇の秘書長)の料理人などを務め、15世紀のイタリアで並ぶ者がないと称された高名な料理の名匠、マンティーノ・ダ・コモ(Martino da Como)が編纂した『シチリアのマカロニとヴェルミチェッリの調理法』(De arte Coquinaria per vermicelli e maccaroni siciliani)に初出している。同じくマンティーノの編集した『調理法の書』(Libro de arte coquinaria)でも、ヴェルミチェッリの調理法はいくつか登場している。これによれば、当時のヴェルミチェッリは2年間から3年間かけて天日干しされたという。

 

ロングパスタの細さの比較

イタリア

イタリアでは次のように、ヴェルミチェッリはスパゲッティよりも太いパスタであると定義されている。

 

      ヴェルミチェッリ:直径 2.08 ミリから 2.30 ミリの間で、業者によって差がある。

      スパゲッティ:直径 1.92 ミリから 2.00 ミリの間

      ヴェルミチェッリーニ:直径 1.75 ミリから 1.80 ミリの間

      フィデリーニ:直径 1.37 ミリから 1.47 ミリの間

      カペッリーニ(カペッリ・ダンジェロ(capelli d'angelo、「天使の髪の毛」)とも):直径 0.8 ミリから 0.9 ミリの間

 

アメリカ合衆国

アメリカ合衆国では、全米パスタ協会(National Pasta Association, イタリアのイタリアパスタ産業組合(Unione Industriali Pastai Italiani)とは無関係)が、ヴァーミセリをスパゲッティよりも細い麺であると定義している。

 

アメリカ合衆国連邦規則集21巻では、スパゲティとヴァーミセリは次のように直径で定義される。

 

      スパゲティ:直径 0.06 インチ(1.5ミリ)から 0.11 インチ(2.8ミリ)の間

      ヴァーミセリ  直径 0.06 インチ(1.5ミリ)以下

 

日本

日本では、食品表示法に基づく食品表示基準(2015年改正)の別表第4に「マカロニ類」という項目があり、バーミセリー(太さ1.2ミリ未満)はスパゲティ(太さ1.2ミリ~2.5ミリ)よりも細いものと定められている。

 

      マカロニ:2.5ミリメートル以上の太さの管状又はその他の形状(棒状又は帯状のものを除く。)に成形したもの

      スパゲティ:1.2ミリメートル以上の太さの棒状又は2.5ミリメートル未満の太さの管状に成形したもの

      バーミセリー 1.2ミリメートル未満の太さの棒状に成形したもの。ヌードル       帯状に成形したもの

 

各国のバーミセリ

世界には以下のようなさまざまな細麺があるが、いずれも英語ではバーミセリと訳されることがある。

 

南アジアでは、ウルドゥー語ではورمیسیلی、ヒンディー語でसेवइयां(同じような麺はベンガル語では ভার্মিসেলি, グジャラート語では sev, カンナダ語では shavige, テルグ語では sevalu /semiya, タミル語では semiya などと呼ばれる)というデュラムセモリナ小麦粉から作る麺がある。これらは、ウプマ(Upma, 麺あるいは小麦粉を野菜などと共にスパイスで炒める料理)に使われたり、キール(Kheer、ライスプディングとも)という甘いデザートに米の代わりに使われることもある。

 

メキシコのフィデオ

東アジアには、米で作った米粉(ビーフン)、小麦で作った麺線(メンセン)や素麺(そうめん)、緑豆で作った粉糸(春雨)などといった麺があるが、これもバーミセリと訳される。

 

中南米にはフィデオ(fideo)という麺があり、チキンスープなどに使われる。

 

エジプトなどでは米から作るシェレヤ(she'reya, شعريه )という細麺があり、炒め物などに使われている。イランにはレシュテ(reshteh, رشته )という細麺があり、アーシュ・レシュテというスープのほか、デザートなどにも使われている。

2017/02/18

ヤマタノオロチと草薙剣(天叢雲剣)

ヤマタノオロチについて「洪水の化身」などと解釈されることがある。

 

オロチは水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表すと見做して、毎年娘を攫うのは河川の氾濫の象徴であり、オロチの退治は治水を表すとする。また、大蛇が毎年娘を攫ったことは、毎年一人の処女が生贄にされたことを表し、治水の成功によりその風習を廃したことを表す、などとされる。

 

「高志之(こしの、コシ-の)」の解釈にも諸説あり、例えばこの当時、出雲国は越国(北陸地方)との交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現・島根県安来市)の地名説話で「越の八口」の平定の記載があるため、出雲と越の勢力争いをヤマタノオロチ神話の原型や土台とする説がある。

 

高志=越とみる根拠には、旧越国である福井県などに「高志(野)」、「九頭竜(くずりゅう)」などの名称や地名があること(例:高志高校、九頭竜川など)や、四隅突出型墳丘墓のように、過去に文化的・権力的な関連があったとされることなどが挙げられる。

 

草薙剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴する、とする説もある。草薙剣は鋼製であり、十拳剣が草薙剣に当たって欠けたことは、十拳剣は鉄製であったことを類推させ、当時最先端の技術であった製鋼、またはその技術の結晶・産物である鋼刀を「アマテラスに献上した」というストーリーは、その頃の出雲と大和の関係を暗示して興味深いとされることがあるが、治水説とは相反している。

 

宮中の草薙剣はその後、平安時代末期の源平争乱の頃、平家滅亡の際に入水死した安徳天皇と共に失われるが『平家物語』は、これを八岐大蛇が安徳天皇となって草薙剣を取り返しに来たとする(草薙剣説)もあるが、愛知県名古屋市に所在する熱田神宮の御神体となっている説がある。

 

「オロチの腹が血でただれている」について、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表すとする説がある。たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、上流の木が伐採しつくされた結果、洪水が起きたことを表すともされ、実際に島根県斐伊川流域はたたら吹きによる土砂排出によって天井川となり、度々洪水を起こしている。

 

洪水後には蛇の鱗を思わせる砂洲(「鱗状砂洲」)が幾条も生じることがあるため,これが大蛇として神格化された、などと説明される。また、島根・鳥取県境の船通(鳥髪、鳥上)山系を源とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川などの川、およびその支流を頭が8つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川を一部の研究者は「オロチ河川群」と呼ぶ。

 

その他、八岐大蛇は火山による火砕流を神格化したとする説もある。

須佐神社には、ヤマタノオロチの骨とされる物が納められている。

出典https://atwiki.jp/

 

「草を薙いだ剣」

ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残る。

 

「蛇の剣」

クサは臭、ナギは蛇の意(ウナギ#名称などを参照)で、原義は「蛇の剣」であるという説。神話の記述でも、この剣は蛇の姿をしたヤマタノオロチの尾から出て来ており、本来の伝承では蛇の剣であったとも考えられる。

 

高崎正秀は『神剣考』「草薙剣考」において、クサ==奇、で霊威ある意とし、ナギ=ナダ=蛇であるとして、この剣の名義を霊妙なる蛇の剣であると説いている。また、その名はヤマタノオロチに生贄にされかけたクシナダヒメ(奇稲田姫)に通じるものであり、本来クシナダヒメはヤマタノオロチに対する祭祀者でありながら、同時に出雲を支配する女酋的存在ではなかったかとする。なお、蛇の形状をした剣として蛇行剣がある。

 

天叢雲剣

八俣遠呂智由来説

『日本書紀』の注記より。ヤマタノオロチの頭上にはいつも雲がかかっていたので「天叢雲剣」と名付けられた。実際、山陰地方は曇り日が多く、安来地方の山奥、奥出雲町にある船通山(鳥髪峯)山頂には天叢雲剣出顕之地の碑があり、毎年728日に船通山記念碑祭・宣揚祭が開催される。

 

また、「天叢雲剣」の名の由来である、「大蛇の上に雲気有り」という表現に関して『史記』や『漢書』からの引用だと説かれることもある。

出典 Wikipedia

2017/02/17

都留

 「都留」は都留郡の郡名に由来し、「都留」は都留市の位置する桂川(相模川)流域の地域が富士山の裾野を蔓のように延びており、その様子から「連葛」、「豆留」(いずれも「つる」)とよばれていたことに由来するとされている。

 

郡名となったつるの意味には、川の激流に面する地や、古代朝鮮語の原野などの意味があるといわれている。また、平安時代になると、つるの音が鶴を連想させ、遠い甲斐にある延命長寿のめでたい鶴の郡として、和歌に詠まれるようにもなった。

 

 室草の都留の堤に成りぬがに児ろは言へどもいまだ寝なくに 『万葉集』巻14

 

 雲のうへに菊ほりうえて甲斐国鶴の郡をうつしてそみる(権大納言長家)

 甲斐へまかりける人につかはしける 伊勢

 君か代はつるの郡にあえてきぬさだめ無き世の疑いもなく(『後撰和歌集』巻19離別)

 甲斐の国へ下りまかり申し侍りけるに 壬生忠孝

 君が為買ひ(甲斐)にぞ我は行く鶴のこほりに千世はうるなり『新千載和歌集』巻18 雑歌下)

 

 最初の万葉集巻14の東歌は

「歌の大意は、都留川の堤ができ上がったように、2人の仲はすでにできているがごとくあの子はいうが、まだ共寝をしたわけではないというもので、待望久しい都留川の堤の大工事を完成させた喜びが、この地方の人たちの記憶になお新たなものがあったことをうかがわせる。」(磯貝正義『富士吉田市史資料編第2巻古代中世』)とされ、万葉集に都留の地名が登場する唯一の歌である。

 

 『和歌董蒙抄』には、中国の「菊水の故事」によった都留郡の地名解釈が掲載されている。大月市駒橋の菊花山からは菊花石が採れたとされ、このことから菊水の故事と長寿の動物としての鶴とが一体となって、延命長寿のめでたい鶴の郡という解釈が広まっていったとされる。

 

 また甲斐国志には、次のように記されている。

 

 残簡風土記細注二云フ都留郡或ハ連葛トアリ連葛ハ藤蔓ノ如シ富士山ノ尾サキ長ク連リクルヲ云フ。皆つるト訓ズべシ (『甲斐国志』古跡部第十六之上)

 

 富士北麓から桂川流域にかけて細長く伸びた平坦地が、まるで富士山から伸びた藤蔓のような地形をしているとして、つるという地名が付いたと説明されている。また、桂川もつるをかつらと呼ぶことから付けられたという説を紹介している。

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

都留(つる)郡

 古代からの郡名で、北は雲取山などの秩父山地、南は富士山の裾野が広がり、富士五湖のうち河口湖・西湖・山中湖が点在し、中央を桂川が東流する山地が殆どを占める地域で、おおむね現在の大月市、都留市、富士吉田市、北都留郡、南都留郡、東八代郡足和田村の東部の一部(河口湖を含む区域)の地域です。

 

 『和名抄』は、「豆留(つる)」と訓じます。郡名は、富士山の足が藤蔓のように北へ延びているさまを嘉字の鶴にあて、転じて郡名としたとする説(『甲斐国志』)、菊の生えた山から流れる湧水を飲む人は鶴のように長寿を保つところからとする説(『和歌童蒙抄』)、川の流れの緩やかなところとする説(柳田国男)、「ツル(「連れ」の転。鶴、蔓も同じ)」で「川に沿って細長く連なったところ」の意とする説などがあります。

 

 また、中世以降笹子峠以東の都留郡の地域を「郡内(ぐんない)」と、以西を「国中(くになか)」と呼んでいました。

 

 この「つる」、「ぐんない」は、

 

  「ツル」、TURU(kneel,leak,drip)、「膝を曲げている(曲流する川・複雑な地形の山地がある。地域)」もしくは「(隣の国へ)水が漏れている(多摩川・相模川の水源となっている。地域)」または「ツ・ウル」、TU-URU(tu=stand,settle;uru=head,top,hair of the head)、「(甲府盆地から見てその上にある)頭髪(のような山々)が・ある(地域)」(「ツ」のU音と「ウル」の語頭のU音が連結して「ツル」となった)

 

  「(ン)グヌ・ヌイ」、NGUNU-NUI(ngunu=bend,crouch,deformed;nui=large,many)、「腰を曲げたような土地(曲流する川・複雑な地形の山地)が・多い(地域)」(「(ン)グヌ」のNG音がG音に変化して「グヌ」から「グン」と、「ヌイ」が「ナイ」となった)

 

の転訛と解します。

『古事記傳』9-2 神代七之巻【八俣遠呂智の段】

口語訳:こうして追放されて、出雲国の斐伊川の上流の鳥髪に天降った。ちょうどそこに箸が川上から流れてきた。須佐之男命は「この川上には人が住んでいるのだ」と思い、道を上流に辿って行ったところ、年老いた男女が年若い乙女を間にはさんで泣いていた。

 

そこで「あなた方は誰か」と尋ねると、老人は

 

「私は国津神で、大山津見神の子です。私の名は足名椎(あしなづち)、妻の名は手名椎(てなづち)と言い、この娘の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と言います。」

 

と名乗った。そこで「どうして泣いているのか」と尋ねると

 

「私の娘は、もともと八人いました。ところが高志(こし)の八俣遠呂智(やまたおろち)が一年ごとにやって来て、一人ずつ食べられ、残るのはこの子だけになってしまいました。今それがやって来る時期になったので、こうして泣いているのです。」

 

「八俣遠呂智だって?

それはどんな奴なんだ?」

 

と尋ねると

 

「その目は赤加賀知(あかかがち)のように真っ赤で、胴体は一つですが、頭は八つ、尾も八つあります。その体には苔や杉が生え、身の長さは八つの谷、八つの山にまたがる巨大さです。その腹を見ると、いつも血で爛れています。

<ここで「あかかがち」と言っているのは、今の酸漿(ほおずき)のことである。>」

 

そこで須佐之男命は、その老人に

 

「これがあなたの娘なら、私の嫁にしてくれないか」

 

と言ったところ

 

「たいへん畏れ多いことですが、お名前を存じません」

 

と答えるので

 

「私は天照大御神の兄弟で、事情があって今天から降ったところだ」

 

と答えた。すると足名椎・手名椎の神は

 

「それならば娘は差し上げましょう」

 

と言った。

 

口語訳:そこで速須佐之男命は、その乙女を湯津爪櫛の姿に変えてみずらに刺し、足名椎・手名椎の神たちに

 

「あなた方は、八鹽折りの酒を造り、また八つの門のある囲いを作りなさい。その八つの門のそれぞれに食べ物を置く棚を作って、そこに酒船を置き、船を八鹽折りの酒で満たしておきなさい。」

 

と命じた。

 

そこで彼らは言われた通りにして待っていた。果たして八俣遠呂智は言ったとおりにやってきた。その八つの首をそれぞれの酒船に突っ込んで、酒を飲み、ついに酔って寝込んでしまった。

 

そこで速須佐之男命は帯びていた十拳剣で、蛇をずたずたに切り裂いた。そのため肥の河の水は血で真っ赤になった。そのとき、一つの尾に刀が当たって、少し刃がこぼれた。「おかしい」と思い、剣の先でその尾を切り開いてみると、都牟刈(つむがり)の太刀が出て来た。この太刀を取り、「これは不思議なものだ」と思ったので、天照大御神に報告した。これが草那藝(くさなぎ)の大刀である。

 

○所御佩之十拳劔(ミはかせるトツカツルギ)。この剣は、書紀の一書に「その蛇を断った剣を『蛇乃麁正(おろちのあらまさ)』と言い、今は石上神宮にある」と言い、他の一書には「蛇韓鋤之劔(おろちのからさびのたち)で斬った。その蛇を斬った太刀は、今は吉備の神部の許(もと)にある」、さらに他の一書に「天蠅斫之劔(あめのはえきりのつるぎ)で斬った」とある。

 

古語拾遺によると、「十拳劔で斬った」と言い、「その剣の名は『天羽々斬(あめのはばきり)』といい、今は石上神宮にある」という注がある。【この石上(いそのかみ)というのは、書紀の一書の「吉備の神部の許」とあることから、備前国赤坂郡の石上布都之魂神社がそうであると言う。なるほど一見そうらしく思えるのだが、よく考えるとそうではない。というのは、世にも名高い倭(やまと)の石上神宮を除いて、吉備にあるのを、単に「石上」と呼ぶことは考えられない。吉備の石上であれば、必ず「吉備の石上」と書いただろう。だからこれは倭の石上だったに違いない。

 

ここで推測だが、書紀の崇神の巻六十年に、矢田部の造の祖、武諸隅を派遣して、出雲大神宮の神宝を召し上げ、見たという記事がある。矢田部の造は、新撰姓氏録によれば物部氏の別流である。垂仁の巻にも、廿六年に、物部十千根(とおちね)の大連に命じて、出雲の神宮の神宝を検校(調べること:実際は奪った)させ、その後それを管理させた。そして同八十七年、物部十千根に石上神宮の神宝を管理させたとある。

 

とすると、この須佐之男命の剣は、もと出雲の神宮に納められていたのを、上記の崇神・垂仁の頃に、他の神宝とともに召し上げられて、その時から石上神宮に収納されていたのではないだろうか。この石上には、さらの多くの神宝が治められていたことが、垂仁の巻に見えている。それが後に事情があって備前の国に遷されたのだろう。そのとき、もとの倭の神宮の名を取って、石上布都之魂神社と名付けたのではないだろうか。

 

いずれにしても、石上布都之魂という名は、倭の神宮から出たことは明らかだ。ということは、書紀や古語拾遺の「石上にある」というのは始めに石上神宮にあったときの伝えで、「吉備にある」というのは、後に吉備に遷されてからの伝えだろう。しかし備前の石上の社伝では、「神剣は昔、大倭の石上神宮に遷して、現在当社にはない」という。どういうことだろう。他に、「この剣は吉備にある」ということを論じて、「須佐之男命が蛇を斬ったのも、実は備前の国でのことである。簸の川というのも備前にあり、出雲の斐の川ではない」という説もあるが、これは信じがたい。】

パスタマニア(3)

https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%A9

 

パスタ(伊:pasta)とは、イタリア料理で使われる小麦の加工食品全般。スパゲッティ、マカロニ、ラザニアなど。

 

概要

パスタとは、小麦粉で作ったイタリア料理全般を指す。マカロニやペンネ、 スパゲッティもパスタに含まれる。

 

ヨーロッパにおけるパスタの歴史(概説)

パスタの原料である小麦は、新石器時代(PPNBC)にパレスチナ東部からイラン高原にかけての肥沃な三日月地帯で自生していたものを人類が栽培し始めた。この頃の小麦の調理は脱穀せず、そのまま穂を炒っただけのものを食べていたとされている。その後、農耕の拡大(灌漑農耕の登場)によりヨーロッパ・東アジアに広がる。麦以外に、この時期に生産されていた物はえんどう豆・エジプト豆(ひよこ豆)・レンズ豆・そら豆がある。

現在主流の小麦の元祖は、トルコ東南部国境地帯の山地に自生していたものだと推測されている。(遺伝子解析による)

 

その後ヨーロッパに持ち込まれた小麦は、古代ギリシャ人・ローマ人により‘パン’としての開発が始まる。紀元前40005000年の遺跡で小麦粉を作る臼と、パンの痕跡が確認されている。ローマ人により品種改良が進み、大まかに2種類の小麦が生産される。シリゴという軟質のパンに向いた小麦と、トゥリティクムという硬質のパスタに向いたものである。シリゴは湿潤な土地、つまりイタリア北・中部での生産に向いている。一方トゥリティクムは、シチリア・アフリカの品種と品種改良されており、乾燥した土地でも生産ができる。

ここまでが紀元前の流れである。ローマ人によって様々な小麦と料理が開発されたが、まだパスタは作られていない。

 

ヨーロッパにおいてパスタが登場するのは11世紀である。それ以前のヨーロッパでのパスタに関する記述がある記録は発見されていない。発掘調査において中東、イスラエルの遺跡(1世紀)でパスタの元祖と思われる食べ物の後が発掘されている。少なくとも紀元前数100年から紀元にかけて、パスタの元祖が作られていたとされている。また5世紀頃に、パスタに関する記述が確認されている。この頃のパスタは庶民の食べ物で、王族・貴族の食べ物でないと考えられている。

 

このパスタの元祖が現在のパスタに変わったのは11世紀のフランス北部、ユダヤ人によって作られたヴェルミッチェソー(イタリア語)だと考えられている。このヴェルミッチェソーは生パスタに分類される。ヴェルミッチェソーは、12世紀に地中海に交易ルートを経て登場する。この生パスタはイタリア王族・貴族の間で食べられた。そのときの味付けはソースではなく塩やオリーブオイル、野草などのシンプルなものであった。

さらに、ここから発展したのが今我々が食べている乾燥パスタである。貴族の料理人がソースとあえるパスタ‘パスタシェッダ’を開発する。ここで様々なソースなどが生まれる。イタリアの一部では、フルコースの一品目がパスタの地域がある。(ちなみにこの頃のパスタは麺をやわらかくするのが主流であった。約15分ほど茹でていたのではないかと思われる。クッソヤワラカイ)

 

さらにパスタが庶民に広がったのは18世紀だとされている。保存食としてナポリの人々が食べ始め、すぐに主食となった。ここでも庶民が食べていたチーズやシナモン等と融合して、多くのパスタが生まれていくのである。19世紀以降パスタはナポリの人々によって北上、世界に広がった。

 

現在のパスタ

現代においては、本場イタリアではイカスミやら卵やら、本邦ではタラコやら納豆やらをあえるなど、国内外を問わずカオスな進化を続けている。

 

また、コンビニに行くと必ずと言っていいほどパスタ料理が置いてあることからも、日本での人気の高さが伺える。

 

ロングパスタの種類

いわば麺状になったやつ。

 

スパゲッティー だいたい太さ1.7mm以上2mm未満のもの。最も定番なので、パスタ=スパゲッティーと認識している人も少なくないが、そういう人は大概ロングパスタ類しか主食とみなしていない。

スパゲッティーニ だいたい太さ1.6mm1.7mmの細麺サイズ。おおかたスパゲッティーと区別がついていない人が多い。

フェデリーニ だいたい太さ1.4mm1.5mmの細麺サイズ。

カペリーニ 太さ1.3mm以下の極細サイズ。

パッパルデッレ 幅20mm。もはや紐

タリアテッレ 幅8mm。ひもかわうどんサイズ。

フェットチーネ 幅34mmほど。きしめんサイズ。

リングイネ 幅1.9mmほど。楕円形で弾力がある。

ショートパスタの種類

いわば麺状になっていないもの。主食として見なされるか副菜として見なされるかは個人の見解がわかれるところ

 

マカロニ 直径3mm~5mmの筒状で細く切ったもの。

ペンネ ペン先のようにとがっていて、ひだのある筒状のやつ

ファルファッレ 蝶のようなリボン結びのようなかっこうをしたやつ

コンキリエ 貝殻状のやつ

カヴァタッピ カブトムシの幼虫のようなキャラメルコーンみたいな形状のやつ

ルオーテ 車輪状のやつ。サラダやミネストローネに浮かんでるのを見たことあるのでは?

ニョッキ 芋を混ぜて作った団子状のやつ

ラビオリ 餃子みたいなやつ

2017/02/16

ヤマタノオロチ(八岐大蛇)

ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)は、日本神話に登場する伝説の生物。

 

概要

八岐大蛇は『日本書紀』での表記。『古事記』では、八俣遠呂智と表記している。「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり(古事記)」がみえ、古代日本の地方である高志(こし)から来たとされる。

 

ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説ある。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もある。なお本居宣長は『古事記伝』にて、八俣遠呂智は「ノ」を添えず「ヤマタオロチ」と訓むべきだとしている。

 

古事記

高天原を追放された須佐之男命(スサノオノミコト)は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は、大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。

 

夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て、娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。

 

須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。

 

準備をして待っていると、八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。この時、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。

 

八俣遠呂智を退治した須佐之男命は、櫛になった櫛名田比売と暮らす場所を求めて、出雲の根之堅洲国(現・島根県安来市)の須賀の地へ行き、そこで「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」(八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を)と詠んだ。

 

日本書紀

素戔嗚尊(すさのお)は、天より降って出雲の國の簸()の川上に到った。その時、川上で泣き声が聞こえた。そこで声の方を尋ねると、老夫婦がきれいな少女を間にして泣いていた。老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)といい、少女は二人の娘で奇稲田姫(くしいなだひめ)といった。

 

素戔嗚尊は、泣いていた理由を尋ねた。老夫婦には元々、八人の娘がいたが、毎年一人ずつ八岐大蛇(やまたのおろち)という怪物に食べられてしまい、末娘の奇稲田姫だけになってしまった。そして残った奇稲田姫も、もうじき食べられてしまうので悲しくて泣いていたのだという。

 

素戔嗚尊は「八岐大蛇を退治する代わりに、奇稲田姫を嫁に欲しい」と申し出た。老夫婦は喜んで、その申し出を承諾した。すると素戔嗚尊は奇稲田姫の体に触れ、たちどころに湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の形に変えてしまった。素戔嗚尊は、湯津爪櫛になった少女を御髻(みづら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に八回醸した酒を作らせ、八面に塀を立て各々一つずつ樽を置き、酒を盛らして待った。

 

時が過ぎ、八岐大蛇が現れた。頭と尾はそれぞれ八つずつあり、眼は赤い鬼灯のようであった。松や柏が背中に生えていて、八つの丘、八つの谷の間に延びていた。大蛇は酒を飲もうとして、頭を各1つの樽に入れて飲み、酔って眠ってしまった。そこで素戔嗚尊は十握剣(とつかのつるぎ)を拔いて、ずたずたに八岐大蛇を斬った。尾を斬った時、剣の刃が少し欠けた。そこでその尾を割り裂いて見ると、中にひとふりの剣があった。これがいわゆる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」である。素戔嗚尊は、この剣を天神(あまつかみ)に献上する。

 

そうした後に、湯津爪櫛になった奇稲田姫とともに結婚の地を探して、出雲の淸地(すが)を訪れ、宮を建てた。そして「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

 

第八段一書(二)では、素戔嗚尊は安藝國(あきのくに)の可愛(え)の川上に下り到った。そこに神がいて、名を脚摩手摩(あしなづてなづ・脚摩乳)と言い、その妻の名を稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ・手摩乳)と言う。この神は身籠っていたが、夫婦ともに悲しんでいて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)に告げて「我が生みし子は多しけれども、生む毎(ごと)に輙(すなわ)ち八岐大蛇有りて来たりて呑む。ひとりも存(あ)るを得ず。今、我産まんとす。恐らくはまた呑まれなん。是を以ちて哀傷(かなし)む」と告げた。素戔嗚尊(すさのおのみこと)は教えて「汝、衆(あまた)の菓(このみ)を以ちて、酒、八甕(やはち)を釀(か)むべし。我まさに汝が為に八岐大蛇を殺さん」と言った。二神、教えの隨(に酒を設〈ま〉く〈用意した〉)、とある。

 

いざ産む時になって、彼の八岐大蛇が戸口に現れ子を呑もうとした。素戔嗚尊は、八岐大蛇に勅して「汝は是れ畏(かしこ)むべき神なり。敢て饗(みあえ)せざらんや」と持成し、八甕(やはち)の酒を以って、口ごとに沃(そそ)ぎ入れた。その蛇は酒を飲んで睡(ねむ)った。素戔嗚尊は、剣を拔いてこれを斬った。尾を斬る時に剣の刃が少し欠けたので、割ってこれを視たところ剣が尾の中に在った。これを草薙剣と言う。これは今、尾張國の吾湯市村(あゆちのむら)にある。熱田の祝部(はふりべ)の掌(つかさど)る神がこれである、とある。その蛇を斬った剣を蛇之麁正(おろちのあらまさ)と言う。これは今、石上(いそのかみ)にある。

 

この後、稲田宮主簀狭之八箇耳が生んだ、子の真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を出雲國の簸之川の川上に移して育てた。そうした後に素戔嗚尊が妃とし、生ませた子の六世の孫を大己貴命と言う、とある。

 

第八段一書(三)では、素戔嗚尊は奇稲田媛を幸(め)さん(娶ろう)と欲(おも)い、これを乞いた(求めた)。脚摩乳と手摩乳は「請う、先ず彼の八岐大蛇を殺したまえ。然して後に幸(め)さば宜(よろ)しからん。彼の八岐大蛇、頭(かしら)ごとに各(おのおの)石(いわ)・松有り。両の脇に山有り。甚(いと)畏(かしこ)むべし。まさに何を以ちて、これを殺さん」と答えた。

 

素戔嗚尊は、計りありて毒の酒を釀(か)み、以ちいて飲ませた。八岐大蛇は酔いて睡(ねむ)る、とある。

 

そこで素戔嗚尊は、蛇韓鋤之剣(おろちのからさびのつるぎ)を以ちて頭を斬り、腹を斬る。その尾を斬った時に、剣の刃が少し欠た。故に尾を裂きて看ると、そこにはひとふりの剣があった。名を草薙剣と言う。この剣は昔、素戔嗚尊の許(もと)に在ったもので、今は尾張國に在る。その素戔嗚尊が八岐大蛇を断ちし剣は、今に吉備(きび)の神部(かむべ)が許に在る。出雲の簸(ひ)の川上の山、これなり、とある。

 

解釈

洪水の化身」などと解釈されることがある。オロチは水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表すと見做した説である。

 

物理学者の寺田寅彦は、溶岩流を連想させると述べている。それにちなんで、ヤマタノオロチが「野だたら」製鉄で炉から流れ出した銑鉄を表しており、婚姻は一族を支配下に治めたことを表現しており、よってヤマタノオロチの討伐は「野だたら」製鉄をする一族を支配下に治めて、鉄剣を献上させたことを表現しているという説もある。実際、出雲近郊の山間部で、時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている。

 

伝承

長野県佐久市常和の山田神社は、ヤマタノオロチとゆかりがあるという蛇石(へびいし)を祭っている。八岐大蛇が素戔嗚尊に退治された時、その魂が石の形で留まったものとされ、蛇石の上に蛙を置いたところ自然と消失したり、石が年々大きさを増し、祠を作って覆ったがその祠を壊して出てきたため、土地の産神として祭ったところ大きくなることはなくなったという伝説がある。

 

須佐神社には、ヤマタノオロチの骨とされる物が納められている。

出典Wikipedia

2017/02/10

パスタマニア(2)

各国では

イタリア料理の正餐(antipasto「前菜」、primo piatto「第一の皿」、secondo piatto「第二の皿」、dolce「デザート」、コーヒーまたはグラッパを順番に食す)では、主菜である secondo piatto の肉料理や魚料理の前に「プリモ・ピアット」(「第一の皿」、primo piatto)として供する。日本人の視点から見ると「パスタは前菜なのでパスタだけを注文することはできない」と言われることがあるが、イタリア人にとってもイタリアのフルコースは量が多すぎるため、正餐のうちの一部の料理、secondo piatto とパンで食事を済ませることは一般的である。したがって、パスタだけを注文することもよほど高級なレストランでない限り問題ない。

 

英語圏

アメリカ合衆国とイギリスではマカロニ・アンド・チーズがよく食べられており、食堂やスーパーマーケットの惣菜コーナーで提供されているほか、様々なインスタント食品としても売られている。また、アメリカのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールも世界的に有名である。アングロアメリカでは、茹でたショートパスタと生野菜をサラダドレッシングで和えたパスタサラダも人気がある。パスタ料理を専門としたレストランチェーンもあり、ショッピングモールやレストエリアのフードコートでもよく見られる。

 

日本

日本では、幕末に外国人居留地で食べられ始め、1883年頃にフランス人のマルク・マリー・ド・ロ神父が長崎市で製造したのが始まりである。1928年に、日本で初めての国産スパゲッティをボルカノが製造販売、1955年、日本マカロニ(マ・マカローニ)の設立、オーマイブランド(日本製粉)の発売が始まった。戦後日本のパスタ普及に貢献したのがスパゲッティ・ナポリタンの流行である。ミートソーススパゲティやナポリタンは、戦後のデパート食堂や喫茶店で定番のメニューとなった。

 

1970年代にはファミリーレストランのメニューとしても登場し、1980年代にはイタリア人やイタリアで修業をしてきた日本人により本格的なイタリアンレストランが開業され、1990年代には「イタめし」の流行が起きた。

 

本来のイタリア料理としてだけでなく、イタリアンスパゲッティ、梅しそやたらこスパゲッティ、納豆や刻み海苔など、日本独自の味付けによるスパゲッティ料理も数多く存在し、スパゲッティ屋やパスタハウスと呼ばれるレストランもある。肉料理や弁当などにスパゲッティやマカロニサラダが付け合わせとして添えられることも珍しくない。

 

タイ

タイでは、スパゲッティキーマオというバジルやニンニク、唐辛子、ナンプラーなどを使用したパッキーマオの味付けのパスタ料理が存在している。

 

その他

各国ではレトルト食品や瓶詰・缶詰のソースが売られており、簡便に食事が取れることから、米やパンに替わる主食としてパスタが広く普及している。

 

原料・製法

茹でる前のパスタ

主な原料は小麦粉であり、中でもデュラム小麦のセモリナ(粗挽き粉)を使ったものが最も良いとされる。デュラム小麦はガラス質と呼ばれる半透明の硬い胚乳が特徴で、パンやうどんなどに適した小麦とは性質が異なっている。

 

基本的には、このデュラムセモリナ粉に水、塩などの材料を入れて混ぜ合わせ、空気を抜くように捏ね上げる。生パスタは日本の麺類と同じように仕上げるが(麺切りと押し出しの両方の方法がある。)、乾燥パスタの場合は成形する機械の中に捏ねた材料を入れ、できるだけ空気を抜きながら押し出すように成形し、そのまま乾燥させるのが通常である(この成形の際には、半固形の捏ねた材料をダイスを通して押し出すのだが(参考:押出成形)、そのダイスの形状及び表面の性質がパスタの形状及び麺表面の性質を決める事になる。近年はダイス形状の工夫により、スパゲッティーニの太さで3分程度の茹で時間のパスタも各社から出てきている。)。薄い黄色はデュラム小麦自体の色。

 

なお、イタリアにおいては法律によって、乾燥パスタはデュラムセモリナ粉と水で作ることをパスタ生産者に義務付けている。生パスタは普通コムギの小麦粉を使って作られることが多い。

 

風味もしくは彩りを持たせるために、生地にイカ墨、唐辛子、ホウレンソウ、トマトなどを練り込む場合もある。生パスタには鶏卵が入ることが多い。

 

ロンバルディア州ヴァルテッリーナには、そば粉を使用したピッツォッケリと呼ばれるパスタが存在する。

 

その他、米粉を原料としたパスタも作られている。小麦が入ったパスタを食べることができないセリアック病の人が食べられる数少ないパスタである。

 

栄養と健康

パスタの主な栄養素は炭水化物(糖質)であるため、糖質制限ダイエットなどにおいて目の敵にされがちであった。だが2018年、カナダ・トロントのセント・マイケルズ病院の研究チームにより、実際にはGI値の低い食品であり、たとえ精白小麦を原料に使用している場合でも、パスタはほかの精白小麦食品と比べて平均的にビタミンやミネラルなどの微量栄養素の含有量が多いことや、全粒粉を使用したものでもGI値には通常のものと大きな違いがないことが明らかとなった。

 

これにより「同じ炭水化物でも白米やパンとは違う」特徴があることが解明されることとなり、研究チームは論文で、

 

炭水化物を食べると太るという情報が氾濫しているだけに、この研究結果は重要だ。こうした情報は、毎日の食卓に影響を及ぼしており、炭水化物、特にパスタの消費量は最近になって減少する傾向にあった。

と記している。

 

また、研究論文の筆頭筆者で、同病院の臨床栄養・リスク緩和センターに所属する臨床科学者のジョン・シーベンパイパーは、

「太ると敬遠されるパスタは、実際は低GI食として、健康的な食事のメニューに加えて良さそうだ」

とコメントしており、研究の結果においては、

「パスタを食べても太ることはないと、ある程度の確証を持って言うことができる」

と述べている。

 

同研究結果は、学術誌「BMJオープン(英語版)」に掲載された。

2017/02/09

神代七之巻【須佐之男命被避の段】(『古事記傳』9-1)

口語訳:八百万の神々は相談して、速須佐之男命に大きな賠償責任を負わせ、鬚を切り、手足の爪も抜かせて、高天の原から追放した。

また大氣都比賣神に食べるものを欲しいと言った。そこで大氣都比賣は鼻・口・尻から様々な食べ物を取り出し、様々に料理して奉った。ところが物陰からその様子を窺っていた須佐之男命は、「汚い物を食わせようとする」と思い、たちまち大氣都比賣を殺してしまった。その死体には、頭に蚕が生じ、二つの目には稲の種が生じ、二つの耳には粟が生じ、鼻には小豆が生じ、陰部には麦が生じ、尻に大豆が生じた。そこで神産巣日命はこれを取らせ、人々の食べ物の種とした。

 

書紀の一書(第三)に、素戔嗚尊が出雲に行く前、長雨の降る中で、蓑笠を身に着け、神々の戸を叩いて宿を貸してくれと頼んだが、どの神も宿を貸さず、甚だ苦しみながら天から降ったという話が出ている。ここでは、「又」の字の上に、何かそうした話があったのが、脱け落ちたように思われると、師は言ったが、実際そうだろうと思う。これは稗田阿禮が口に唱えたとき、すでに脱け落ちたのだろうか。前文の「やらわれた」後に、何もなくていきなり「また」とあるのは、おかしいだろう。初めから今のような内容なら、「また」でなく「故(かれ)」などとなっていたはずだ。【この段がここに置かれているのが不審である理由は他にもある。そのことは後に述べる。】

 

○食物は「おしもの」と読む。

 

○大氣津比賣神【津の字を一本に「都」としており、それは次に同じ名が出るのと同じ表記だから悪くはないが、その次にはまた「大宜津」とあるので、ここも「津」の字でもいい。】は、前記【伝五の五十三葉】に述べたように、食物の神だから、何か食物をくれと言ったのである。このことは、書紀では「天照大神は天上にいて、月読尊に『葦原の中つ国には保食神(うけもちのかみ)というのがいるそうだから、お前ちょっと行って見ておいで』と命じた。月読尊は承って地上に降り、保食神のもとに至ったところ、保食神は云々」とあり、その後はおおむねここの記事と同じだが、天照大御神の命によって月夜見命が様子を見に行ったとあるのは、伝えが異なる。だが保食神と大氣津比賣が同一神と思われることは前述した通りである。

 

【このことについて、つらつら考えると、月夜見命と須佐之男命は、同一神のように思われる点が多い。月夜見の「夜見」は黄泉であって、須佐之男命が最終的に帰属した国である。根の国が黄泉であることは上述した。昼夜として見ると、昼はこの世、夜は黄泉だから、「夜の食(お)す国」というのにも関連がある。またこの記には、須佐之男命に「海原を治めよ」と事依(ことよ)さした、とあるのと、書紀の一書に、月夜見命には「滄海原の八百重(やおえ)を治めよ」と命じたとあるのとを考え合わせよ。それにここで須佐之男命が大宜津比賣を殺した話が、書紀では月夜見命のこととなっていて、「天照大神は激怒して月読尊に『お前は悪神だ。もう顔も見たくない』と言って、昼と夜に分かれて住むようになった」とあるのも何となく須佐之男命のことを思わせる。しかし、諸々の古い書物に、この二柱を同一神とした伝えはなく、みな別神としているのは、あたかも同一神のようであってなお別神であるところに、深い理由があるのだろう。軽々しく断定することはできない。】

2017/02/03

パスタマニア(1)

パスタ(伊: pasta)は、マカロニ、ペンネ、スパゲッティ、ラザニア、などの、イタリア語での麺食品の総称である。イタリア料理の主要な要素のひとつ。主な原料は小麦粉(特にデュラム小麦)で、他に水、塩、鶏卵などが用いられる。

 

パスタは大きく分けると2種類に分類でき、マカロニに代表される小型のショートパスタとスパゲッティに代表される麺状のロングパスタがある。他に団子状や板状のものもある。

 

イタリアには地方独特のものも含め650種類ものパスタがあると言われており、毎年のように新しい種類が発表されている。乾燥パスタが多く市販されているが、家庭で生パスタを手打ちすることも出来る。

 

語釈

イタリア語 pasta は、いくつかの異なる意味を持っている。いずれも英語: paste(ペースト)、フランス語: pâté(パテ)や、英語 pastry(ペイストリー)、フランス語 pâtisserie(パティスリー)、イタリア語 pasticceria(パスティッチェリーア)などと同じ語源をもち、俗ラテン語の pasta(パスタ。生地、練りもの)に由来するものである。

 

イタリア料理の主食の一つである、小麦粉などを主体とした練り物(生パスタ)、およびそれを乾燥した製品(乾燥パスタ)を指す。より厳密には、パスタ・アリメンターレ(伊: pasta alimentare, 「食用の pasta」の意)と呼ぶこともある。日本語の「麺」に近い用法だが、細長い形状にこだわらない点が異なる。うどんや蕎麦に餅や団子も、イタリア語話者から見れば「日本の pasta」ということになる。

 

やや広義の用法として、菓子類も含め、小麦粉を使ったいわゆる粉物の生地全般を指す。各種のパン、ピザ、フォカッチャ、各種ケーキ類やマルチパンなど、さまざまな生地を含む。俗ラテン語の原義に最も近い用法。なお中国語における「麺」も広義ではこの意味の用例がある。

 

とくに菓子類において、生地を焼いて出来上がった製品の種類を指す場合がある。派生義として、食品以外のものも含め、ペースト状の製品や物質全般を指す用法がある。日用品の例としてパスタ・ダッチューゲ(伊: pasta d'acciughe, アンチョビのペースト)、パスタ・デンティフリーチャ(伊: pasta dentifricia, 練り歯磨き)など。

 

日本語や英語などでの用法は上記 1. に近く、加えて 1. のパスタを使った「パスタ料理」を単にパスタと呼ぶことも多い。本項では、これらの用法にもとづいて解説している。

 

なお、類語としてパスタシュッタ (: pastasciutta) があり、上記 1. とほぼ同じ意味で使われたり、乾燥パスタの別名などとされることがあるが、これは本来、「スープパスタ以外のパスタ料理」を指す言葉である。スープパスタ(パスタ・イン・ブロード、伊: pasta in brodo)が最も一般的なパスタの献立であった時代に、パスタをスープに入れる代わりにソースをかけて食べる食べ方を明示的に「パスタ・アシュッタ」(伊: pasta asciutta, 乾いたパスタ)と呼んで区別した名残りなのだという。

 

歴史

イタリア半島におけるパスタの歴史は大変古い。チェルヴェーテリにある紀元前4世紀のエトルリア人の遺跡からは、現在のものとほぼ同じ形態のパスタを作る道具が出土している。古代ローマ時代にはラガーナ (lagana) というパスタがあったが、現在のように茹でて食べるものではなく、焼いたり揚げたりして食べた。

 

その後、パスタは肉、ミルクなどと共に茹でられて食べられていた。1000年頃からチーズと共に食べられ、13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が砂糖をかけて食したのを始め、金持ちはシナモンなどの香辛料をかけていた。

 

現在と同じような食べ方をしている事を記録している最古の書物は、122482日付のジェノヴァの公正証書(ベルガモの医師ルッジェーノが患者の羊毛商人ボッソにあてた文章)である。

 

現在見られるような乾燥パスタが普及したのは、16世紀半ばにナポリで飢饉に備えるために保存食が必要になったことがきっかけであったとされ、ダイスを用いた押し出し製法が発明され、低コストでの量産が可能となった。この普及は民衆にパスタを日常的に食べる機会を与えたともいい、それまで打ち立ての麺の旨さを味わえた富裕層以外にも、「ご馳走」としてではなく賞味できるようになった。ナポリ近郊のグラニャーノ(Gragnano)で生産されるパスタは世界的に著名でありIGPに指定されている。

 

18世紀初めまでは、スパゲッティは民衆の食べもので、チーズだけをかけて手でつかみ、頭上にかざして下から食べるものであった。1770年代、庶民の風俗を深く愛したナポリ国王フェルディナンド2世が宮廷で毎日スパゲッティを供することを命じ、この時にスパゲッティを品良く食べるため、からみやすいように先が4本のフォークが考案されたと言われる。

 

1554年、医者であるアンドレア・マッテイオーリがトマトを使ったソースを作る試みをした。17世紀末、料理人アントニオ・ラティーニのスペイン風トマトソースがきっかけとなり、パスタをトマトソースで食べる食べ方が普及した。

 

19951025日に、イタリア・ローマで第1回世界パスタ会議が開催されたことを記念して、毎年1025日が世界パスタデーに制定された。EUやイタリアパスタ製造業者連合会などが合同でパスタの販売促進キャンペーンを行っている。

2017/02/02

日本神話における食物起源神話

日本神話における、食物の起源に関する神話について記述する。

 

日本神話における食物起源の記述には、東南アジアでよく見られるハイヌウェレ神話の特徴が見られる。即ち、排泄物から食物などを生み出す神を殺すことで食物の種が生まれたとするものである。

 

また、天から食物の種を携えた神が天降って来たとする記述も見られる。これは、ギリシャのデーメーテール神話に類似している。

 

ハイヌウェレ神話型

大気都比売神と須佐之男命

『古事記』においては、岩戸隠れの後に高天原を追放された速須佐之男命(素戔嗚尊)が、食物神である大気都比売神(おおげつひめ)に食物を求めた話として出てくる。

 

大気都比売は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差しあげた。しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまった。

 

大気都比売の屍体から、様々な食物の種などが生まれた。頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれた。神産巣日神(神産巣日御祖命・かみむすび)は、これらを取って五穀の種とした。

 

保食神と月夜見尊

『日本書紀』においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊(月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出てくる。

 

天照大神はツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は、昼と夜とに別れて出るようになったのである。

 

アマテラスがウケモチの所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、ウケモチは死んでいた。保食神の亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとして、これらを田畑の種とした。

 

稚産霊

また、日本書紀における神産みの第二の一書には、火の神軻遇突智(火之迦具土神・かぐつち)と、伊弉冉尊(伊邪那美命・いざなみ)が亡くなる直前に生んだ土の神・埴山媛(はにやまひめ)の間に生まれた稚産霊(和久産巣日神・わくむすひ)の頭の上に蚕と桑が生じ、臍(ほぞ)の中に五穀が生まれたという説話がある。ワクムスビが亡くなる(殺された)かどうかの記述はないが、ハイヌウェレ神話型に分類されるものである。

 

デーメーテール神話型

ニニギ

日本書紀における天孫降臨の第二の一書には、天照大神が、高天原にある稲穂を天忍穂耳命(あめのおしほみみ)に授け、オシホミミは天降る際に生まれた瓊々杵尊(邇邇芸命・ににぎ)に、それを授けて天に帰ったとの記述がある。

 

また、日向国風土記逸文には、天降ったニニギが天から持って来た籾を地上に撒き散らしたとある。

 

五十猛神

日本書紀におけるヤマタノオロチ退治の第四の一書では、高天原を追放された素戔嗚尊は新羅に降りたが、「ここにはいたくない」と言って出雲へ向かう。この時、スサノヲの子の五十猛神(いそたける)は、高天原から持って来た木々の種を新羅には植えず大八洲国(日本)に撒いたので、大八洲国は青々とした地になったとしている。

 

縄文の神話

神話学者の吉田敦彦は、縄文時代中期の土偶の大半が地母神的な女性を表現しており、且つ破壊されている点に注目した。これは「地母神が殺されてバラバラにされ、そこから人々の役に立つものが誕生した」という神話を、女神の表象である土偶を破壊して分割する行為によって儀礼的に再現した痕跡ではないか、と考えたのである。この説によると、ハイヌウェレ型神話は芋(あるいは五穀)栽培と共に既に縄文中期に日本列島で知られていた、という事になる。

 

備考

佐原真は、考古学の観点・立場からは縄文中期の土偶破壊儀礼に当たる考古資料が弥生時代や古墳時代には確認されないことから、日本神話(高天原神話)が縄文時代まで遡るという考え方には不安が残るとし、神話の連続性(民俗伝承・文化を考古資料で裏付けようとする時間軸を無視した説)に関しては問題点を呈している。

出典 Wikipedia

淤岐嶋

因幡の白兎

「淤岐嶋」には、現在の島根県隠岐郡隠岐島とする説や、ほかの島(沖之島等)とする説がある。

 

他に、『古事記』の他の部分では隠岐島を「隠伎の島」と書くのに、「稻羽之素菟」では「淤岐嶋」と書き、「淤岐」の文字は「淤岐都登理(おきつどり)」など、陸地から離れた海である「沖」を指すことが多いため、「淤岐嶋」は特定の場所ではなく、ただ「沖にある島」を指すとする説もある。

 

「気多の前」には、「淤岐嶋」を島根県隠岐郡とすれば鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧高草郡)の「気多の岬」とする説や、鳥取県鳥取市(旧鳥取県気高郡、それ以前は旧気多郡)の「長尾鼻」とする説などがある。

 

「淤岐嶋」を島根県隠岐郡としたとき、鳥取市(旧高草郡)の白兎海岸の沖合150メートルにある島まで点々とある岩礁を「わに」とする説もある。その周辺には「気多の岬」、菟が身を乾かした「身干山」、兎が体を洗った「水門」、かつて海になっていて戦前まで蒲が密生したという「不増不滅之池」、「白兎神社」などがある。

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

 鳥取県の東部に位置し、北は日本海に面し、中央部に千代(せんだい)川が流れ、北部は鳥取平野、南部は中国山地で、東は但馬国、南東は播磨国、南は美作国、西は伯耆国に接します。

 

 古代には巨濃(この)郡、法美(ほうみ)郡、八上(やかみ)郡、智頭(ちず)郡、邑美(おうみ)郡、高草(たかくさ)郡、氣多(けた)郡の7郡がありました。

 

 『古事記』には、オオクニヌシが兄の八十神たちと「稲羽の八上媛(やかみひめ)を婚(よば)ふ」ために稲羽に赴いた記事があり、『日本書紀』雄略紀17年3月条には「因幡の私の民部を詔して名付けて贄(にえ)の土師部といふ」とあります。

 

 因幡は『和名抄』は「以奈八(いなは)」と、国府所在地と推定される法美郡稲羽郷(現鳥取市及び岩美郡国府町にまたがる地域)は「以奈波」と訓じています。

 この「いなは」は

 

(1)稲羽に起源し、「稲葉(稲の葉)」、「稲場(刈った稲の置き場)」、「稲庭(稲田)」に由来するとする説

(2)稲羽郷のある稲葉山が稲積の形をしていることによるとする説

(3)「イナ(砂)・バ(場)」で「砂丘のある場所」とする説などがあります。

 

 この「いなは」は、マオリ語の

 

 「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside,past tense;na=satisfied,belonging to;pa=stockade)、「ゆったりとした巨大な集落のそば(の地域)」、または「ヒ(ン)ガ・パ」、HINGA-PA(hinga=fall from an erect position,be killed,be overcome with astonishment or fear,be outdone in a contest;pa=touch,reach,be connected with,block up,assault,stockade)、「(昔オオクニヌシや兄達が参加した八上媛の妻問いの)競争が行われた故事に関係する(地域)」または「(昔オオクニヌシが兄達に成功を妬まれて迫害されたという)名誉を失墜した故事に関係する(地域)」(「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がN音に変化して「イナ」となつた)

 

の転訛と解します。