2013/01/15

蹴上

明治維新で都が東京に移り、京都は火が消えたような状態になり、近代化の波からも取り残されようとしていた。そんな時

 

「これではダメだ。何とかしなくては」

 

と考えた若いエンジニアがいた。田辺朔郎である。

 

琵琶湖から水を引くために疎水を建設し、水道水を確保するとともに、その水を使って発電し産業を発展させようという壮大な計画を立てた。多くの人が絵空事とバカにしたが、当時の京都府知事北垣国道はこれに予算をつけた。様々な苦難を乗り越え、明治23年ついに完成した。日本で初めて、世界でも2番目の水力発電所が完成した。ちょっとした荷物を運ぶ運河としても利用された。おかげで京都は甦った。

 

その疎水が京都市内に入ってくるところであり、発電所が建設されたところが「けあげ(蹴上)」である。近くには、南禅寺や都ホテルもある。では、この場所がなぜ「蹴上」という地名なのか。そもそも「蹴上」とは、何を意味するのだろうか。大国語辞典や古語辞典を引いてみると「一段と力を入れて蹴り上げていくところ、また人や馬などが蹴り上げた塵や泥、あるいは泥水のことを指す」とある。

 

そう言われると、ここは三条大橋から始まる旧東海道で最初の上り坂となるところである。それも案外と急な坂で、人や馬が上る時には力を入れて蹴り上げた場所だろうと想像でき、雨の日などには泥水を飛ばした情景が目に浮かぶ。幾つかの本に名の由来が書かれているが、いずれも類似した解釈がなされている。

 

竹村俊則氏の「昭和京都名所図会」にもあるように、この辺りは三条白川橋から山科大津に至る街道筋にあたり旅人が往来する道であった。安元3年(1177)の秋、牛若丸(後世の源義経)が金売り吉次に伴われて奥州目指してくだる途中、たまたまここを通りかかった平家の武士関原与市重治の馬が、水溜りの水を牛若丸に蹴りかけてしまった。牛若丸がその無礼をとがめて喧嘩となり、与市を斬り捨てたことからこの地区を蹴上と呼ぶようになった。