2022/08/28

魏晋南北朝時代の文化 ~ 魏晋南北朝(3)

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 この時代の文化の担い手は貴族です。代々続く豪族を貴族といってよい。とくに華北の戦乱を逃れて南方に逃れてきた貴族たちによって、成熟した貴族文化が発達します。中国南部の王朝で発展したので六朝(りくちょう)文化と呼ばれることが多い。

 

 後漢の末から豪族=貴族たちの間で逸民的な雰囲気が流行ったといいました。どろどろした政治の世界から身をひいて、儒学的な道徳にとらわれず精神的な自由を守ろうという風潮です。例の諸葛亮も、劉備に引っぱり出されるまでは田舎にこもっていたわけで、彼も逸民的な生き方をしていたんでしょう。

 

 儒学の代わりに人気が出てきたのが老荘思想、道家の系統の思想です。西晋の頃から、貴族たちの間で老荘思想に基づく弁論合戦が流行ります。貴族のサロンで、奇をてらった面白い議論を展開できれば人物の評判が高まりました。こういう議論を「清談」といいます。今のみんなが暇があったらカラオケにいくように、彼らは暇があったら「清談しようぜ」となる。

 

 とくに清談で有名になった貴族が七人いて、かれらのことを「竹林の七賢」といいます。竹林が茂る別荘に集まって、清談して遊んだんだ。阮籍(げんせき)なんていう人がとくに有名だけど、彼らの名前を覚える必要はありません。

 

 竹林の七賢は、みんな政府の高官でもありました。だから彼らは、現代風にいえば国家の発展や人民の生活の安定のために一所懸命働かなければならない立場だよね。でも、浮き世離れした清談にうつつを抜かしている。悪い言い方をすれば「清談」は貴族たちの現実逃避の手段のひとつであったかもしれません。そういう意味で、「清談」には国家から半分そっぽを向いている当時の貴族=豪族の生き方がよく出ていると思う。

 

 貴族階級には、麻薬も流行ったのですよ。五石散(ごせきさん)という麻薬を利用している記事が多くあります。やりすぎて死んでしまった人も、かなりいたみたい。貴族のサロンは麻薬で陶酔しながら、浮き世離れした哲学論を戦わせる場であったのです。

 

代表的な文化人と作品を見ていきます。

 

  陶潜(とうせん)。詩人です。陶淵明(とうえんめい)ともいう。東晋の人。「帰去来辞(ききょらいのじ)」という詩が有名。これは「帰りなん、いざ」という一文からはじまる詩で、役人を辞めて田舎に帰るときに作ったという。この詩の一節に「五斗米のために腰を折らず」という言葉がある。五斗米とは役人として陶潜がもらう給料を指しています。腰を折るというのは、ようするにお辞儀をすること。つまり、わずかばかりの給料をもらうために、上司にペコペコお辞儀してへつらうような役人仕事はもうごめんだぜ、俺は仕事を辞めて田舎へ帰って、のんびり好きなように暮らすぜ、という詩なのです。 陶潜も当時の貴族の逸民的な雰囲気の中にいるのです。

 

 謝霊運(しゃれいうん)。南朝宋の人。詩人です。超一流の名門貴族でもありました。官僚をやっているんだけれど、傲慢な性格だったので左遷されて田舎に飛ばされた。そこで美しい自然に心を癒されて、山水詩を書きました。自然の風景の中に自分の精神をとけ込ませて安らぎを得る、という感覚。わかるでしょ。仙人みたいになりたいわけです。

 

 昭明太子。南朝梁の王子。即位せずに死んでしまいますが。この人が編集した本が「文選(もんぜん)」。古今の名文を集めたもので、貴族たちが文章を書く時に参考にしたものです。日本にも輸入されて、奈良・平安の貴族たちが漢文を書く時の手本にしたので日本でも有名です。

 

 王羲之(おうぎし)。東晋の人。この人も名門貴族。名前の「羲」という字は注意してください。義務の義とは違う字ですよ。書聖と呼ばれる書道の名人です。というよりも、筆と墨を使って書くという行為を芸術にした人といった方がいいですね。代表作が「蘭亭序(らんていじょ)」。名門貴族たち40数人が蘭亭という風光明媚な場所に集まって宴会をした。いかにも「清談」的な雰囲気の集まりです。みんなで作った詩を集めたものに、王羲之が序文を書いた。これが「蘭亭序」。傑作だったらしいんですが、後の時代、唐の太宗という皇帝が自分の墓に一緒に埋めてしまった。だから実物はありません。

 

 その他の作品も、王羲之本人が書いた真筆は伝わっていません。現在、わたしたちが見ているのは臨書(りんしょ)といって、後の時代の名人が書き写したものです。私、高校時代芸術選択は書道でした。美術を選択したんですが、どういうわけか書道にされてしまった。書道の教科書には王羲之の臨書があって、これを書きまくっていました。1600年後の高校生にも影響を与えている人ですな。

 

 顧愷之(こがいし)。この人も貴族ですが謝霊運や王羲之ほど一流ではありません。役人としてもぱっとしませんが、画家として有名だ。肖像画が得意でした。代表作「女史箴図(じょししんず)」。資料集にありますね。貴族女性の日常生活を描いています。

 わたしが見ても、この絵の芸術的価値はよくわかりません。ただ、当時の貴族たちの暮らしがわかって面白い。たとえば、これは貴族の婦人が召使いに髪をとかせているのですが、彼女の前に円盤が掛けてある。これ、なんだかわかりますか。銅鏡です。

日本列島では、古墳からじゃかじゃか出土します。宗教的な呪力を持つものとして埋めてしまうのですが、これが本来の使い方。中国では、鏡としてちゃんと使っている。

 

 それから、彼女が座っているのはなんですか。これ、畳ですね。部屋の全面に畳を敷き詰めるのではなくて、自分が座るところにだけポンと畳を置いている。これが、そのまま日本に伝わる。百人一首の絵。あの天皇や貴族の座り方と、まったく同じなんですよ。日本では畳はどんどん普及して、部屋全体に敷くようになって現在に至る。一方、本家の中国では唐の時代くらいから、椅子とテーブルの暮らしが一般的になってきて、現在では畳は使っていません。

 

 「古い時代の文化は、辺境地域に残る」という文化伝達の原則があるんですが、その実例だね。この場合、辺境とは日本のことね。絵画資料として、顧愷之の絵は面白いです。

 

 以上が華南の貴族文化、六朝文化の代表者たちです。

2022/08/26

中論 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(5)

『中論』(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌』(こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。

 

本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない。

 

構成

冒頭で提示される全体の要旨である「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)を含む立言としての「帰敬序」と、27の章から成る。各章の構成は以下の通り。

 

帰敬序

ü  1章「原因(縁)の考察」(全14詩);「縁」(四縁)の非自立性を帰謬論証

ü  2章「運動(去来)の考察」(全25詩):「去るはたらき」(去法)の非自立性を帰謬論証

ü  3章「認識能力の考察」(全9詩):「認識能力」(六根)と「認識対象」(六境)、並びに「識」「触」「受」「愛」「取」の非自立性を帰謬論証

ü  4章「集合体(蘊)の考察」(全9詩):「物質」、並びに「受」「心」「想」の非自立性を帰謬論証

ü  5章「要素(界)の考察」(全8詩):「特質」(相)と「六要素」(六大)の非自立性を帰謬論証

ü  6章「貪り汚れの考察」(全10詩):「貪りに汚れること」と「貪りに汚れる人」の非自立性を帰謬論証

ü  7章「作られたもの(有為)の考察」(全34詩):「生」「住」「滅」の三相、並びに「有為」「無為」の非自立性を帰謬論証

ü  8章「行為の考察」(全13詩):「行為」と「行為主体」の非自立性を帰謬論証

ü  9章「過去存在の考察」(全12詩):「受」に先行する主体の非自立性を帰謬論証

ü  10章「火と薪の考察」(全16詩):「火」と「薪」(の例えを通じて「アートマン」や「五取蘊」)の非自立性を帰謬論証

ü  11章「始原・終局の考察」(全7詩):「生」と「老・死」、並びに「始」と「終」の非自立性を帰謬論証

ü  12章「苦しみの考察」(全10詩):「苦」の非自立性を帰謬論証

ü  13章「形成されたもの(行・有為)の考察」(全8詩):「変化」の非自立性を帰謬論証

ü  14章「集合の考察」(全8詩):「集合」の非自立性を帰謬論証

ü  15章「自性の考察」(全11詩):「自性」、並びに「有」と「無」の非自立性を帰謬論証

ü  16章「束縛・解脱の考察」(全10詩):「束縛」「解脱」、並びに「輪廻」「涅槃」の非自立性を帰謬論証

ü  17章「業と果報の考察」(全33詩):「業」と「果報」の非自立性を帰謬論証

ü  18章「アートマンの考察」(全11詩):「アートマン」の非自立性を帰謬論証

ü  19章「時の考察」(全6詩):「時」(「現在」「過去」「未来」)の非自立性を帰謬論証

ü  20章「原因と結果の考察」(全24詩):「原因」(「因」「縁」)と「結果」の非自立性を帰謬論証

ü  21章「生成と壊滅の考察」(全21詩):「生成」と「壊滅」の非自立性を帰謬論証

ü  22章「如来の考察」(全16詩):「如来」(修行者の完成形)の非自立性を帰謬論証

ü  23章「顛倒した見解の考察」(全25詩):「浄」と「不浄」、「顛倒」の非自立性を帰謬論証

ü  24章「四諦の考察」(全40詩):「四諦」等の非自立性を帰謬論証

ü  25章「涅槃の考察」(全24詩):「涅槃」の非自立性を帰謬論証

ü  26章「十二支縁起の考察」(全12詩):古典的な十二因縁(十二支縁起)、及びそこへの自説の関わりの説明

ü  27章「誤った見解の考察」(全30詩):「常住」にまつわる諸説を再度批判しつつ総括

 

内容

『中論』は、説一切有部を中心とした諸部派の論(アビダルマ)において、様々に考察され論じられてきた、形而上的実体としてのダルマ(法)を想定する説(五位七十五法、三世実有・法体恒有など)等を、常住・常見(あるいはそれと裏腹の断滅・断見)を執した逸脱・矛盾したもの、釈迦の説いた教えの本義から外れたものとして、論駁していくことを目的としている。

 

その体裁は、整然と秩序立てられた論駁というよりも、「モグラ叩き」のように、そうした説の論点を11つ取り上げながら、「そうした前提に則ると、矛盾する」といった帰謬論証(背理法)を重ねながら、地道に斥けていくものである。より具体的に言えば、

 

「(相依性)縁起」と、事物の「有・無」は両立しない

(事物が「有」でも「無」でも、「(相依性)縁起」は成立しない)

という前提の下に、論敵の主張を「有」(あるいは「無」)を主張しているものとして分類し、それを「(相依性)縁起」と両立しない主張をしているものとして斥けていく論法を用いる[要検証ノート]

 

そうした地道な帰謬論証の積み重ねは、徐々に「自立的なものなど何ひとつない」という、龍樹の徹底した「無自性(空)」「相依性」(相互依存性)の思想を炙り出していくことになる。

 

そうした過激な考えは、むしろ従来の釈迦の説と両立せず、それを踏み越え、蹂躙し、台無しにするものではないのかという批判に対しては、ナーガールジュナは2つの真理(二諦)の区別を持ち込み、自分が示しているのは釈迦が悟った本当の深遠な真理(真諦・第一義諦)であり、同時にもう一方の世俗の真理(世俗諦)を基礎付けてすらいるが、論敵(有自性論者)はそのことが分かっておらず、釈迦の教えや自説の存立すら困難にしていることにすら気付いていないと反論する(第24章)。

 

さらに、真の涅槃(ニルヴァーナ)とは、一切の分別・戯論が滅した境地に他ならないこと(第25章)、そして、それこそが古典的な十二因縁(十二支縁起)の「無明」を消し去り、「逆観」(苦滅)を成立せしめるものでもあること(第26章)などを示しつつ、最後に改めて総括的な内容を挟み、釈迦を讃えて『中論』は締め括られる(第27章)。

 

後世への影響

インド・チベット

龍樹のこの著作から、中観派と呼ばれる大乗仏教の一大学派が始まった。

 

この中観派に属するシャーンタラクシタ(寂護)、カマラシーラ(蓮華戒)、アティーシャなどのインド僧は、チベット仏教の歴史に多大な影響を与えており、特にアティーシャの影響下から、ツォンカパが出ることによって、中観帰謬論証派(プラーサンギカ派)思想と後期密教を結合した、顕密総合仏教としてのチベット仏教の性格が決定付けられることになる。

 

中国・日本

また一方では、この『中論』と、同じく龍樹の著作である『十二門論』、そして弟子である提婆の『百論』が中国に伝わり、「三論宗」が形成された。これは日本にも伝わり、南都六宗の一派になった。

 

更に、天台宗の始祖である慧文禅師も、この『中論』に大きな影響を受け、その内容を中諦・三諦といった概念で独自に継承した。

2022/08/24

チャイナ神話(13)

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殷周以降の王と神話

夏を滅ぼしたという殷、そして次の周時代は考古学的裏付けもあり、歴史上の王の時代といえる。殷の神話は「」という神を王が祭祀することを骨格としていた。その方法が犠牲を捧げることや占いなどであり、現代に残る甲骨文字は占いの遺物である。殷を滅ぼした周は「」という信仰対象を持っていた。天は天命という形で、その意思を下して王を選ぶ。ゆえに王は天の子、天子である。実際には殷を武力で滅ぼしたことが天命の力によるもの、と正当化したため、逆に武力で王を倒して自ら王となった者が天命を得た者である、という論理が成立した。こうして天命の行方は武力次第という、神の影が薄い図式が強化されたわけだ。

 

周の主神たる天は、敗れた殷の神たる帝の概念を吸収し「天帝」と呼ばれるようになった。他に周は、社稷(それぞれ土地神と穀物の神)、宗廟(神となった祖先)等を祭祀した。この周における祭祀のルールを体系化したものが儒教であり、ここまでが公式のチャイナ神話となる。

 

後に始皇帝が三皇五帝以上の業績を自らが挙げたと称し、劉邦がこの皇帝という称号を引き継いで漢の皇帝となる。漢の君主が皇帝、すなわち三皇五帝を超える存在となり、天や社稷、宗廟の祭祀を行うとなると、上述の神話はほぼ全て皇帝権に吸収されてしまうのがわかるだろう。すなわち儒教の神話は、皇帝の祭祀権独占を保証する神話であり、民間には祖先祭祀ぐらいしか残らなかったのだ。だが、ここで終わりではなかった。

 

道教の成立と神話復興

時代は漢の末に下り、三国志の時代となる。この時代に活動した黄巾賊(太平道)と五斗米道は、いわゆる草創期の道教教団である。公式の神話が皇帝権に還元された一方で、民衆の間に別の神話体系が生まれつつあった。それが道教と、その神話である。

 

道教の創始者とされるのは、儒教の孔子とほぼ同時代の人物とされる老子である。だがこの老子、五斗米道によって太上老君という天の最高神に祭り上げられた。人から最高神への出世である。太上老君は、唐王朝が老子を祖先として崇拝したことで、その人気が頂点に達した。やがてその唐代に、天の最高神は元始天尊となり、天地開闢以前からの最高神とされた。その都は天にある街、玉京であるともいう。

 

道教教義上の至上倫理は「」というが、これを神格化したのが太上道君(霊宝天尊)だ。これに太上老君(道徳天尊)を加えた三清が、最も尊い神々ということになった。元始天尊は自然の気から生まれたといい、人ではなく普通に神である。だが元始天尊は逸話が乏しく、その部下たる玉皇大帝の人気がこれを凌ぐようになる。

 

玉皇大帝とは、いわゆる道教での天帝を指す(玉帝、天公など別名も多数)。玉皇大帝は元始天尊を支える神々の一柱であるが、宋代に入って人気が高まったことで天の最高神であるとされるようになった。もとは光厳妙楽国の王子であったともいい、これも元は人間であったらしい。娘に織姫がいて、牽牛(彦星)との恋にパパマジギレするのも、この神様である(七夕の伝説)。

 

関帝聖君も、人気の高い神である。三国志の英雄、関羽のことである。歴代の王朝から武人の鏡として崇拝されるうち、武神とされるようになった。さらには算盤の発明者とされ、商売の神ともされるようになった。かくして中華街には関帝廟が置かれて華僑の信仰を集めている。周の軍師太公望も、仙人とされる他、軍略の神様としても崇拝された。

 

この頃、チャイナにも仏教が広まっていた。道教と仏教は一応は別の教団だが、

時として混淆されることもある。その典型が西遊記である。これはお釈迦様の命で旅立つ仏教説話だが、多くの道教の神々が登場する。つまり道教神話でもある訳だ。そして主人公の孫悟空は、道教の神「斉天大聖」としても祀られる。

 

女神にはどんな神々が?

ü  西王母:月の女神あるいは女仙の主。長命をもたらす仙桃を授けてくれる。

ü  媽祖:航海と漁業の守護神。黙娘という宋代の官吏の娘、幼少時から神通力があって仙人から神となった。

ü  碧霞元君(天仙娘々):万能のご利益がある女神という。出自は黄帝の娘であるとか、民間から仙人として修行を続けて神になったとも。

 

死後の世界について

儒教と道教とで神話はやや異なるが、共通する大きな特徴の一つは、死後の世界が不在なことである。儒教では祖先霊として子孫を守ることになるが、孔子の「怪力乱神を語らず」とあるように死後の世界の実態は曖昧だ。また道教の目的は、長命を得て仙人となり、自らが神となることである。それは上述の神話に人→仙人→神の出世があることからもわかる。儒教より死後の世界はハッキリしており、有名なのは山東省の聖なる山、泰山の地下にあるという。

 

この死者の都を蒿里と呼び、その支配者を泰山府君という。キョンシーなど、祀られない死者の怪談も多い。しかし死後の幸福を求める神話や信仰は殆どない。歴代の道教を保護した皇帝は、仙薬を飲んで自ら不老不死の仙人になろうとした。民間でも三尸説にあるように、罪科を避けて長命を願うことが信仰の中心であった。

 

チャイナ神話における神の位置づけ

キリスト教を始めとして、死後の世界での幸福を信仰の中心とする宗教は多い。しかし以上のように、チャイナ神話では信仰の中心はむしろ長命であり、できれば不死の仙人となることである。そして神とは、人が仙人の修行の果てになる存在という側面が強い。かくして神と人、仙人が入り混じったカオス状態としてのチャイナ神話が存在しているのである。

2022/08/18

魏晋南北朝(2)

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北魏


 華北で五胡の短命地方政権が興亡を繰り返しているなかで、徐々に力をつけてきたのが北魏という国です。鮮卑族の拓跋珪(たくばつけい)が建国者。拓跋氏という部族のリーダーです。

 

 この北魏が、五胡十六国の分裂状態を終わらせて華北を統一したのが439年。太武帝(たいぶてい)という皇帝の時です。この間に北魏は華北経営の基礎を固めていくわけです。当然、漢人の豪族の協力も得ていく。鮮卑人の数はしれていますから、漢民族の豪族の協力がなければ、中国の支配はできないのです。華南に逃げずに北部に留まっていた豪族勢力も当然いたのです。北魏の皇帝家も漢人との結びつきを強めるために、漢人豪族と婚姻関係を結んでいきます。

 

 そういう中で登場するのが、北魏第六代皇帝孝文帝(こうぶんてい)(位471~499)です。孝文帝は当然、鮮卑族なんですが母親は漢民族。お祖母さんも漢民族。だから、人種的に何民族かということは、実質的にはあまり意味がなくなってくるね。北魏の国家を鮮卑族の国家から民族的な差別を越えた国家へと発展させなければ、中国全土を支配することなどできないのです。そこで、孝文帝は積極的に漢化政策をおこないました。

 

 具体的には、首都を平城(へいじょう)(山西省大同)という辺境から、洛陽に移します。それから、宮廷で鮮卑語を禁じます。鮮卑族の軍人や役人は、すべて中国語を話さなければならない。名前も中国風に改名させます。皇帝自身も、拓跋という姓を元という一字姓に変更しています。鮮卑族有力者たちの反対もあったのですが、孝文帝はこれをやりきりました。

 

これは直接関係あるかどうかわかりませんが、こんな話がある。鮮卑族の拓跋氏には、ちょっと変わった風習がありました。皇帝の生母を殺すという風習です。これは外戚が権力を持つのを避けるために、ずっと前からおこなわれていたらしい。孝文帝は幼い時に即位するのですが、その結果彼のお母さんは殺されているわけです。

 

 中国の儒学の発想からすると、考えられない野蛮な行為なのはわかりますね。親には「」というのが中国的な道徳です。孝文帝は、血統からいうと鮮卑族の血よりも漢族の血の方が濃い。鮮卑族の風習と同じように、中国の儒学的な発想も身につけていたに違いないのですよ。価値観のバイリンガルですね。ごくごく常識的に考えて、自分の母親が殺されて悲しくないわけがない。孝文帝の場合は、母の死は自分の即位が原因なわけで、彼は鮮卑族の風習を忌み嫌ったに違いないと私は想像します。そういうことを考えると、彼の漢化政策はよくわかります。

 

魏晋南北朝時代の政治

 魏晋南北朝時代を通じて色々な事件があるのですが、みんなカット。何がこの時代の政治のテーマになっていたのかだけを見ておきましょう。

 

 どの王朝にしろ、どんな経緯で皇帝になったにしろ、皇帝は国家権力を強化したいと考えます。そのための邪魔者は豪族勢力です。豪族の勢力を押さえて、皇帝権力を強化するには、どうすればよいか。

 

ひとつは土地です。豪族よりも広い農地を直接、皇帝の支配下におくこと。そうすれば、単純に豪族よりも強くなれる。なぜならば、そこで自作農民を育成して租税を徴収する。さらに自作農民を徴発して兵士にする。そういうことが、皇帝にとって可能になるからです。そうすれば豪族に頼らない軍事力と、経済基盤を持つことができる。そのための政策が、三国の魏の屯田制、西晋の占田・課田法。占田・課田法は豪族の土地所有を制限して、自作農を作り出すための政策といわれていますが、詳しいことはわかりません。

 

 さらに、この政策の決定版が北魏の均田制です。孝文帝の時代に始まりました。これも自作農民を育成する仕組みだ。これは国家が人民に土地を支給するのです。人民は土地を支給されて、自作農になることができる。そのかわり、彼らは国家に対して租庸調(そようちょう)という租税を納め、兵役の義務も果たすことになります。これによって、北魏は強力になったともいえます。

 

この均田制は、北魏に続く王朝にも引き継がれました。北周を継いで中国を再統一した隋、隋に代わった唐でも均田制はおこなわれました。唐の時代に日本から遣唐使がいく。遣唐使が、この均田制を日本に伝えました。これが班田収授法という名前で、日本でも実施されたわけです。

 

 皇帝権力強化のもうひとつの課題が、官僚の登用です。皇帝の手足となって働く官僚は、中央集権を目指す王朝にとっては絶対必要なのですが、これをどうやって採用するのか。豪族として私利私欲を追求するのではなくて、王朝に忠誠を尽くす人物を採用したい。

 

 魏がおこなった九品中正法が、そのための方法です。しかし、この方法によっても採用されたのは豪族の子弟でした。しかも、九品中正法は豪族の家柄をランク付けしましたから、有力な豪族は代々高級官僚を出すようになりました。このような豪族は事実上、貴族といってよいものになっていきます。西晋の時代には、そういう貴族の家柄がだいたい決まってきたようです。これでは、皇帝に忠実な官僚の採用には、ほど遠いような感じですね。

 

 ただし、豪族=貴族たちが九品官人法によって、国家の序列の中に位置づけられたという意味はあったのです。国家の存在と無関係に貴族が存在できたのではなく、国家や皇帝権力によって高い家格にランクされることを彼らは望みました。そういう点では、九品中正法は豪族を国家権力に取り込んだといえるでしょう。

 

 九品中正法は、魏晋南北朝時代の各王朝で採用されました。どの王朝も、なんとか豪族=貴族勢力を国家権力に取り込もうとしたのです。国家権力が豪族とは無縁の官僚を登用できるようになるのは、さらに後の隋、唐の時代になってからです。

2022/08/17

中観派 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(4)

影響・伝播

中国・日本

ナーガールジュナの思想の流れは、中国にも伝えられた。それはクマーラジーヴァの翻訳による中論と十二門論および、アーリヤデーヴァの百論に基づく宗派として成立し、三論宗と呼ばれる。三論宗の大成者は吉蔵(549-623年)である。中国では、大智度論をも教理に加えた四論宗も成立したが、後に三論宗に融合した。

 

日本には、吉蔵の弟子であった慧灌が625年に来日して、三論宗を伝えた。三論宗は、平安時代の末には密教と融合して衰えた。

 

中村元は、中論や大智度論などに基づいて空・仮・中の三諦円融や一心三観を説く天台宗も、ナーガールジュナの思想に基づくとしている。また、ナーガールジュナの十住毘婆沙論の浄土教関係の部分は、後世の浄土教の重要な支えとなり、密教もまたナーガールジュナの思想の延長上に位置づけることができるという。

 

チベット

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チベット仏教と中観派のつながりは、思想面に限らず様々な面でとても深い。というのも、地理的・歴史的条件ゆえに、チベットの王が国家規模で仏教指導を請う先は、ナーランダー大僧院やヴィクラマシーラ大僧院等にならざるを得ず、そこから派遣され、チベット仏教を形作っていったインド僧は、この中観派に属する者(中観思想を信奉する者)が多かったからである。

 

まず、吐蕃のティソン・デツェン王に招請されたナーランダー大僧院のシャーンタラクシタ(寂護)は、チベット初の仏教僧院サムイェー寺を建立し、密教僧パドマサンバヴァと共に、チベット仏教の始祖となった。更に、その弟子であるカマラシーラ(蓮華戒)は、中国禅僧である摩訶衍との論争に勝利し、チベット仏教の方向性を決定づけた(サムイェー寺の宗論)。

 

その後、吐蕃の滅亡に伴い、チベット仏教界は打撃を受けるが、グゲ王国の保護によって復興が始まる。その際、グゲの王がヴィクラマシーラ大僧院から招請したのが、アティーシャであった。彼は中観思想と無上瑜伽タントラを信奉する顕密統合志向の僧であったが、これが現在のチベット仏教の雛形となった。これは後に、最大宗派ゲルク派の祖となるツォンカパによって、確固たるものになる。

 

ツォンカパは、ブッダパーリタ(仏護)の『中論註』によって、帰謬派(プラーサンギカ派)的な中論理解に確信を抱き、アティーシャの『菩提道灯論』を参考にしつつ、『秘密集会タントラ』を中心とする密教との顕密統合の手がかりとした。

 

このように、チベット仏教と中観派は思想的にも人的にも、とてもつながりが深い。そして、総合仏教たるチベット仏教の密教面の柱が無上瑜伽タントラだとするならば、顕教面の柱は、この中観派の著作・思想と言っても過言ではない。

 

近現代の解釈・評価

神秘主義・否定神学

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ナーガールジュナや中観派(帰謬派)は、相手の主張に対する帰謬的否定に頼ったその態度や「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴されるような、直感的に分かりづらく、一見矛盾・支離滅裂とすら感じられるような側面に焦点を当てれば、神秘主義・否定神学との近似性が見出される。

 

仏教学者の中村元は、「縁起」「空」を中心とした中観派の思想を、欧州や中国など、同時代の他地域の思想と比較し、神秘主義の1つである新プラトン主義(ネオプラトニズム)、とりわけ偽ディオニュシウス・アレオパギタらの「否定神学」(神秘神学)を、比較的近しいものとして挙げている。絶対者は否定的にのみ把捉されうるという発想は、インドにおいてはリグ・ヴェーダ、ウパニシャッド哲学(つまりは、ヤージュニャヴァルキヤらの「真我(アートマン)」思想)以来の流れがあり、(釈迦による「無我」「縁起」への深化、および般若経と龍樹によるそれらの継承・焦点化・拡張を経て)この中観派において、それが(徹底した否定(肯定的論証における帰謬/背理の暴き出し)・相対化・関係化として)極致に至りつつ、ついにインド思想(ひいては東洋思想)の主流の一角を占めるまでになるが、それに対して西洋においてはアリストテレス的(『形而上学』的)実体論(を背景とした『オルガノン』的肯定論証)から抜け出せず、こういった発想はせいぜい神秘主義の中で細々と継承される傍流に過ぎなかったという。

 

(とはいえ、西洋においても、生成変化する諸現象の背後に変化しない絶対者を想定し、感覚認識を虚偽のものとして否定するエレア派の存在論、「万物流転」を説くヘラクレイトス、抽象概念を論理的に突き詰めると背理に陥ることを明かしたソクラテスの帰謬法(背理法)など、仏教あるいはその前段階の思想と、ある程度の近似性を見せる水準の発想は、古代ギリシャのわりと早い時期に成立・普及していたこともまた、ちゃんと踏まえておく必要がある。)

 

なお、この「」は中国の道教における無(虚無)と混同されやすいが、異なるものであることも指摘している。(「有」や「無」といった見解(常見・断見)も、『中論』において明確に否定されている。「空」(शून्यता, Śūnyatā, シューニャター)というのは、「nihil, nothing(無、虚無) ではなく、「empty(空っぽ) ということであり、森羅万象が、それ自体として自立的な実体を持っているわけではないということを表している。)

 

また「空」を基底とした発想は、単なるニヒリズム(虚無主義)であると誤解され批判を受けやすいが、しかし一方で、こうした排斥も対立も無い真の基底の獲得は、生きとし生けるものへの肯定・慈悲へとつながり、実践を基礎づける効果をもたらす。これは神概念が包括性・完全性を担保し、基底となることで、他者への慈悲・愛へとつなげるキリスト教と(その深度こそ違え)構成的には類似しているという。

 

言語哲学

中村元は、大乗仏教、ことにナーガールジュナは、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって〈空〉の観念を理論的に基礎づけたとし、この実体を否定する〈空〉の思想に対して、西洋では全面的な実体否定論はなかなか現れなかった、少なくとも一般化はしなかったと述べている。中村によれば、それはアリストテレスの〈実体〉の観念に長年月にわたって支配されていたためであるという。中村は、この点でバートランド・ラッセルの〈実体〉批判は注目すべきものであるとし、アリストテレスの〈実体〉の観念に対するラッセルの批判は、ナーガールジュナやアーリヤデーヴァの実体批判にちょうど対応するものであると述べている。

出典 Wikipedia

2022/08/10

魏晋南北朝(1)

http://timeway.vivian.jp/index.html

 

魏晋南北朝の流れ

 後漢が滅んで三国時代。魏、呉、蜀の三国に分裂。

 魏に代わるのが。「しん」という音の王朝は、これで三つ目だね。秦、新、がありました。

 

 この晋が蜀と呉を滅ぼして、いったん中国を統一します(265)。しかし、混乱がおこって短期間で晋は滅びます。

 

 華北には北方、西方の異民族が侵入してきて、かれらの部族単位の小さな政権がたくさん生まれます。これが五胡十六国時代(316~439)。五つの異民族によって十六の政権ができた時代、という意味です。華北は大混乱の時代です。

 

 やがて、その中のひとつ北魏という国が華北を統一する(439)。

 北魏は東西に分裂(534)して東魏、西魏が成立。

 さらに東魏は北斉(ほくせい)(550~577)、西魏は北周(556~581)に代わります。

 北魏から北斉、北周までの五つの王朝はすべて同じ系統の政権なので、これをひっくるめて北朝と呼ぶ。

 

 異民族の政権ができたのは華北だけで、華南にまでかれらの侵入はありませんでした。崩壊した晋の王族の一人が南に逃げて、ここに晋を再興します。これを東晋(317~420)という。東晋と区別して、その前の晋を西晋と呼ぶこともありますから注意しておいてください。

 

 東晋を滅ぼしたのが宋、このあと、斉、梁、陳という王朝がつづきます。この宋から陳までの四つの王朝をひっくるめて南朝と呼ぶ。華北の北朝と対峙する恰好になる。

 

 北周が北斉を滅ぼして華北を統一したあと、581年に北周が隋に代わり、この隋が南朝最期の王朝陳も滅ぼして、再び中国全体を統一するのが589年。

 

 後漢滅亡後、隋の統一までの370年間が大分裂時代、というわけです。

 

 この時代全体の呼び方ですが、魏晋南北朝時代、というのがいちばん一般的です。また、南方の政権に着目して、六朝(りくちょう)時代という言い方もあります。三国の呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳、全部で六つの王朝があるでしょ。だから六朝。この六つはすべて都が現在の南京にあったので、ひとつづきのものと考えているのです。

 六という数字を伝統的な読み癖で「りく」と読みますから、注意してください。

 

 しかし、王朝の変遷というのは、権力の最高位にある皇帝の家柄が代わっていくのを追っているだけの話で、大きな歴史の流れとしては権力が不安定で長い分裂が続いた時代として、ざっくり捉えてもらったらいい。

 

 では、なぜ皇帝権力が不安定で政権交代を繰り返したかというと、三国時代のところでも話したように豪族の勢力が強かったから、ということになる。豪族層に対抗できるような皇帝権力の基盤を作れなかったのです。

 

 もうひとつは、異民族の流入がある。前漢、後漢の時代に積極的に対外政策をおこなった結果、北方の遊牧民族の間に徐々にではありますが、中国文明が浸透していく。匈奴の中にも、中国国内に移住して生活するような部族が出てくる。華北の場合は、彼らの活動がさらに混乱に輪をかけたということです。

 

西晋から東晋へ

 王朝の変遷でポイントになるところだけ、細かく見ておきましょう。

 

 西晋(265~316)。建国者は司馬炎。この人のお祖父さんが「三国志演義」で有名な司馬懿(しばい)です。曹操に信頼されて、大将軍をやっていた。

 

 ちなみに司馬懿は、蜀の諸葛亮が魏の国に侵攻してくるのを防衛して名を挙げて、諸葛亮の死後は東方の遼東半島にあった公孫氏の独立政権を滅ぼします。この結果、朝鮮半島までが魏の勢力範囲に入る。そこにやってくるのが、倭の邪馬台国の使者です。

 

有名な「魏志倭人伝」は、この魏の国の歴史書の一部分です。歴史に「もし」は禁物といわれますが、もし諸葛亮が早死にせず司馬懿が蜀との国境戦線に張り付けになったままだったら、朝鮮半島は魏の勢力範囲には入らず、魏の歴史書に邪馬台国の記録は残されなかったもしれない、というわけ。

 

 話が逸れましたが、司馬懿は魏の国で押しも押されぬ実力者になっていく。彼の子も、孫である司馬炎も魏の大将軍の地位を握りつづけます。魏は曹操、曹丕は力がありましたが、それ以後はだらしのない皇帝が続き、いつの間にか司馬家に実権を握られ、司馬炎が遂に魏の皇帝から帝位を奪って晋を建てたというわけです。

 

 だから、司馬炎はお祖父さんの遺産で皇帝になったようなもので、人物としては大したことはない。即位するとすぐに贅沢三昧に耽ってしまう。それでも280年には呉を滅ぼしなんとか天下が統一されたのですが、彼が死ぬと帝位をめぐって王族どうしの内紛が起きる。八人の王族がそれぞれに軍隊を率いて内乱を始めてしまったのです。これを八王の乱(291~306)といいます。

 

 この王たち、ライバルを倒すためには自分の軍事力を強化すればよいわけです。で、そのための手段として、周辺の異民族の力を導入したんですね。遊牧系の民族は、中国兵よりも強い。各部族の酋長たちと話をつけて呼び寄せ、配下として戦わせた。遊牧部族の者たちは、初めは晋の王族のもとで戦うのですが、中国人は弱い。なにも彼らの命令を聞いていなくても、自分たちの部族の力だけで中国内地に政権を打ち立てることができる、と考えはじめても当然だね。やがては、晋の王族に呼ばれていない部族までどんどん移住してきて、晋国内は大混乱におちいります。結局、晋は滅んでしまった。

 

  この時に中国内に入ってきた異民族が五胡と呼ばれるのです。匈奴、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、テイ、羌(きょう)です。テイ、と羌はチベット系の民族。鮮卑はモンゴル系。匈奴は不明ですね、羯は匈奴の別種といわれています。 

 

 遊牧系民族が国を建てるので、当然ながら華北では農村荒廃が進みます。五胡同士の戦争も続きますしね。華北の豪族たちは、配下の農民たちを引き連れてどんどん南に逃れました。

 

 華南に晋の王族の一人司馬睿(しばえい)という人が逃れて、東晋を建てます。都は建康。華南にはまだ開発されていない土地が結構あった。東晋政府は、そういう土地を逃れてきた豪族たちに割り当てていきます。そして、彼らはアッという間にそこに地盤を築いていくのです。華南には、華南土着の豪族もいます。かつては呉政権を支えた人びとです。土着豪族と新来の豪族は、あまり仲が良くない。東晋の皇帝は、こういう豪族たちの微妙なバランスの上に立って政権を維持していったのです。しかも、北には五胡の圧迫があるしね。大変だったね。

 

 また、五胡の政権は、しばしば南方に侵略してきます。一方、東晋政権はこれを防がなければならないし、チャンスがあれば華北を奪還したい。だから、どうしても軍事力を強化しなければならない。この軍人たちが政治的な発言権を持つようになるから、さらに権力は不安定になる。

 

 東晋以後の南朝諸王朝は、軍人が帝位を奪って建国したものです。

2022/08/08

中観派 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(3)

究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)

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この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(20175月)

独自研究が含まれているおそれがあります。(20175月)

 

しかし一方で、こうした徹底した相互依存性・相対性に則ると、当然の帰結として、(『中論』24章の冒頭でも論敵による批判として触れられているように)釈迦自身がとなえた教え(四諦・涅槃・四向四果(四沙門果)等)すらもまた、相対化してしまうことになる。

 

こうした問題は、『中論』24章冒頭にそれが取り上げられていることからも分かるように、ナーガールジュナ自身にも強く意識されていた。そこで、『中論』24章にも書かれているように、ナーガールジュナはここで、「二諦」(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)という発想を持ち込み、「諦」(真理、satya, サティヤ)には、

 

世俗の立場での真理 --- 「俗諦」(世俗諦、savti-satya, サンヴリティ・サティヤ): 分別智(vikalpa-jñāna

究極の立場から見た真理 --- 「真諦」(第一義諦・勝義諦、paramārtha-satya, パラマールタ・サティヤ): 無分別智(nirvikalpa-jñāna

2つがあり、釈迦が悟った本当の真理の内容は、後者、すなわち自分達が述べているような、徹底した相互依存性・相対性の感得の果てにある(概念・言語表現を超えた)「中観」(「無分別」)の境地に他ならないが、世俗の言葉・表現では容易にはそれを言い表し得ず、不完全に理解されて凡夫を害してしまうことを恐れた釈迦は、あえてそれを説かずに、前者、すなわち従来の仏教で説かれてきたような、凡夫でも理解出来る、レベルを落とした平易な内容・修行法を、(方便として)説いてきた(が、釈迦の説を、矛盾の無いように、よくよく精査・吟味していけば、我々の考えこそが正しいことが分かる)のだという論を展開した。

 

中観派は、説一切有部からは都無論者(一切が無であると主張する論者)と評された。また、経部の『倶舎論』およびそれに対するサンスクリット文註釈は、「中の心を有する人」を仏教内における異端説であるときめつけている。中観派は、中観派と同じ大乗仏教に属するヨーガ行派のスティラマティからも「一つの極端説に固執する極端論」と評され、ダルマパーラからは「唯識の理に迷謬せる者」、「非有を執している」と評され、ジナプトラらの瑜伽師地論釈では「空見に著している」と評された。中観派は何となく気味の悪い破壊的な議論をなす虚無論者である、という説は既に古代インド一般にいわれていたことである。

 

天台宗の三諦偈と中道

なお、天台宗の三諦偈による中道の解釈は、ナーガールジュナの原意を得ていないとする議論もある。

 

中観派においては、中または中道という概念が重要な位置を占めているが、『中論』において中道という語は第24章の第18詩に1回出てくるのみである。

 

どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

ナーガールジュナ『中論』第24章第18

これをクマーラジーヴァは、「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」と訳したが、中国ではこれが後に多少変更されて、

 

因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり

 

という文句にして一般に伝えられている。この詩句(変更後のもの)は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって注意された。天台宗では、この詩句は空・仮・中の三諦を示すものとされ、三諦偈と呼ばれるようになった。中村元によれば、三諦偈の趣旨とは、

 

因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。

ということであり、中国以来、ほぼこのように伝統的に解釈されてきたという。

 

その解釈がナーガールジュナの原意を得ているかどうかについて、中村元は『中論』の原文とチャンドラキールティの註釈などを用いて検討し、結論としては、インドの緒註釈によってこの『中論』第24章第18詩の原意を探るならば、この詩句は縁起・空・仮名・中道という4つの概念が同趣意のものであるということを説いたにほかならず、天台宗や三論宗が後世の中国で説いたように「空をさらに空じた境地に中道が現れる」と考えたのではなかったことが明らかであるとしている。

 

歴史

龍樹の後、提婆(だいば、アーリヤデーヴァ、170 - 270年頃)が『百論』などを著し、ラーフラバドラは『中論』の八不の意義を釈した。青目(しょうもく、ピンガラ)は『中論』本頌を釈した。

 

学派としての中観派が明確な形で形成されたのは、6世紀の初め頃である。仏護(ぶつご、Buddhapālita470 - 540年頃)、清弁(しょうべん、Bhāviveka[26]490 - 570年頃)が中論頌に対する注釈書を著した。仏護・清弁・月称(げっしょう、650年頃)は、空性を記述し体得する方法についての議論を展開した。

 

ことに清弁は、唯識派の陳那(じんな、dignāga480 - 540年頃)の認識論・論理学を自己の学説に導入して方法論を構築したが、この態度を月称を代表とするグループによって批判された。[要出典]

 

仏護と清弁は、空の論証方法について意見が異なっていた。仏護の系統をプラーサンギカ(帰謬論証派)と呼び、月称などによって継承された。後世のシャーンティデーヴァ(寂天、650-700年頃)やアティーシャ(982-1054年)も、この派に含められることがある。プラーサンギカ派は、特にチベットにおいて重要視されている。一方、清弁の系統をスヴァータントリカ(自立論証派)といい、アヴァローキタヴラタ(観誓)やシャーンタラクシタ(寂護)が、この系統に属する。カマラシーラ(蓮華戒、740-795/797年頃)やハリバドラ(獅子賢、9世紀)を、この派に含めることもある。

 

8世紀には、7世紀の唯識学派の法称(ほっしょう、dharmakīrti)系統の論理学や認識論を用いて無自性の積極的論証を行った、ジュニャーナガルバ(700 - 760)、寂護(じゃくご、シャーンタラクシタ、725 - 784年頃)と蓮華戒(れんげかい、カマラシーラ、740 - 794年頃)、ハリバドラ(獅子賢、800年頃、生没年不詳)などに連なる法統が登場し、後期中観派と呼称されている。彼らは5世紀以来の対立関係にあった瑜伽行学派の唯識説を、空を理解するためのステップとして肯定的に評価した。そのため、彼らは瑜伽行中観派と呼ばれた。

 

11世紀頃には、唯識、中観両派に師を持ったアティーシャ(982-1054)が、唯識説と中観説を統合する「大中観」(dbu ma chen po)を称した。

 

中観派の思想は、主としてチベットに伝わって大いに広まった。当初は瑜伽唯識派と論争を繰り返したが、後に瑜伽派と合流する傾向を示し、シャーンタラクシタやその弟子のカマラシーラらは中観瑜伽派と呼ばれた。

 出典 Wikipedia

2022/08/06

夏の衰退と滅亡 ~ チャイナ神話(12)

最初の世襲王朝

禹の崩御後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかった為に討伐を加えている。

 

啓の崩御後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちは「五子之歌」を作った。

 

「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」

「五子之歌」、『史記』「夏本紀」より

 

この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。

 

太康の崩御後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、胤(胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。

 

『史記』には中康の後の帝達についての事跡は、特に伝えられていない。

 

夏の衰退と滅亡

中康の11代後の孔甲は、性格が淫乱であり自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏朝の徳治にも翳りが出たとされている。

 

又、桀は人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の天乙 () を呼び出し夏台に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり遂には桀を倒した(鳴条の戦い)。桀は鳴条に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の帝辛(紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。

 

近年の考古学調査によれば、紀元前1628年にテラ島の噴火により地球規模の気候変動が起きていたことがわかっており、史書にも桀王年間の天候不順が記録される。併せて夏の遺跡である望京楼遺跡からは、殷による激しい破壊と虐殺の跡があり、宮殿以外は全て破壊され、出土する遺骨も多くが手足が刃物で切断されていたり、顔が陥没するなど深い加害の痕がしのばれる。このようなことから、実際には力によって殷は夏にとって代わったことがわかる。遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に、殷の青銅の武器も出土する。

 

天乙は帝位に即位すると、夏の血を引く者を夏亭(『史記正義』による)に封じた。周代に於いては、杞に於いて諸侯に封じられている。

 

建国:黄帝の三苗征服伝説との対応

『墨子』五巻には、夏と三苗(ミャオ族)に関する伝説が記載されている。

 

三苗(サンミャオ)時代に夜に太陽が現れ、血の雨が三日間降った。龍が寺に現れ、犬は通りで吠えた。夏の水は氷になり、大地は裂け、水が噴き出した。五穀は変異した。天はミャオ族に克服を課した。雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。後、夏王国は建国した。

 

このミャオ族と夏の建国に関する伝説については、他の史書での記載と対応させると、以下のようになる。

 

紀元前26世紀頃、神農時代、華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(『路史』によると羌が姓とされる)民族の討伐作戦を行い(涿鹿の戦い)、涿鹿で破った。戦いは黄河の台地で行われた。蚩尤は濃霧を起こして華夏軍を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、蚩尤民族を破った。この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い九黎族、巨体の夸父族だった。敗れた蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。一部は周代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国である楚や呉の建国に関わった。中国では、楚は異民族の国とされている。

 

六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。漢民族と同化する事もあった。

 

先秦時代、苗族は苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいた。長江文明に属すると見られる三苗は屈家嶺文化及び石家河文化付近を本拠地としていたと見られる。三苗は母系集団であり、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化と対立した。この龍山文化集団が夏王朝に繋がる遊牧民族的な父系集団と見られる。中原地域は黄帝と炎帝の活躍した地域で、炎黄集団は仰韶文化後期に一度衰退し、龍山文化期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興す。黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられる。

 

長江中流域の屈家嶺文化(紀元前3000 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(紀元前3300 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化(紀元前2100年頃 - 紀元前1500年頃)が移植されている。

2022/08/01

南北朝時代(3)

南朝

江南では劉裕が東晋より禅譲を受けて、420年に宋を建国した。北では北魏が華北統一に追われていたこともあり、建国直後の宋は概ね平和で、第3代の劉義隆(文帝)の30年近くにわたる治世は当時の元号を取って「元嘉の治」と称揚される善政の時代と名高い。しかし、その一方で東晋時代から進行していた貴族勢力の強大化がますます進み、皇帝ですら貴族を掣肘できないという状態を生み出した。この貴族制度から漏れた寒人と呼ばれる層は、皇帝や皇族の周りに侍ることで権力を得ようと画策するようになった。

 

文帝は453年、皇太子劉劭によって殺される。この反乱者たちを倒して即位したのが劉駿(孝武帝)である。孝武帝は、貴族勢力の抑制を狙って税制の改革や寒人層の登用などを行う。しかし孝武帝の死後は身内内での血みどろの殺し合いとなり、権力争いが激化した。特に第6代の劉彧(明帝)は血族28人を殺害し、家臣も少しでも疑いがあれば殺すなどの暴政を行い、宋の衰退が決定的となった。

 

この中で宋の創始者・劉裕と同じように、軍事で功績を挙げて台頭してきたのが蕭道成である。蕭道成は明帝の後を継いだ劉昱(後廃帝)を殺して順帝を擁立し、この皇帝から禅譲を受けて斉を建国した。

 

蕭道成の後を継いだ第2代の蕭賾(武帝)は何度か北魏に対しての攻撃をかけるが、これは痛み分けに終わる。武帝死後に後継争いで混乱が起き、最終的に蕭道成の兄の子である蕭鸞(明帝)が即位するが、この間隙を狙った北魏により山東を含んだ淮河以北を奪われてしまう。

 

更には明帝の後を継いだ蕭宝巻(東昏侯)は、極端な側近政治を行って、明帝時代の重臣たちを殺してまわり、政治は乱れた。これに対する反乱が何度か起き、500年に起きた蕭衍(後の梁の武帝)が挙兵し、東昏侯の弟・蕭宝融(和帝)を擁立して建康に向かって進軍し、翌年に東昏侯は部下に殺された。

 

建康に入った蕭衍は、翌502年に和帝より禅譲を受けて梁を建国する。武帝(蕭衍)は斉の創始者・蕭道成の曾祖父の兄弟の子孫という遠い親族関係にあり、斉の宗室とは同姓ではあったが、王朝の名を引き継がず革命の形を取った。

 

武帝は、范雲や沈約(『宋書』の編纂者)などの新興の貴族を登用して優秀な人材を集めた。また旧来の官制を改革し、官位の上下を9品から18班に改めている。他にも租税の軽減を行い、それまで使われていた西晋時代以来の泰始律令に代わって、新しい梁律・梁令を制定した。また文化にも理解を示し、この時代は南朝の中でも文化の最盛期と言われている。特に武帝の長子蕭統(昭明太子)によって編纂された『文選』は、この時代のみならず現代まで名著して読み継がれている。このように武帝の治世は革命の名にふさわしいものであった。

 

しかし、治世後半になると仏教に対する傾倒が極端なものとなり、たびたび仏寺に捨身し、その度に億万銭もの巨額によって皇帝の身を「買い戻す」という行為が繰り返された。これらに代表されるような仏教政策は、財政の悪化をもたらした。

 

548年、東魏の武将侯景が梁に帰順したいと申し出た。朝廷では反対意見が多かったが、武帝は帰順を認め、東魏との友好関係を破棄し、北伐の出兵をおこなった。しかしこれは失敗に終わり、武帝は考え直して東魏と和睦しようとした。武帝の変心を知った侯景は反乱を起こし、翌年に建康を陥落させ、武帝を餓死に追い込んだ(侯景の乱)。

 

武帝の後は三男の蕭綱(簡文帝)が継ぐが、侯景は551年に皇族の蕭棟を擁立し、すぐに廃位して自ら帝位に就き、国号を漢とした。

 

この乱の中で、各地に散らばっていた諸王は、それぞれ自立の動きを強めていった。その中でも荊州にいた武帝の八男・蕭繹(元帝)は、部下の王僧弁を派遣して552年に侯景を滅ぼし、江陵で皇帝に即位した。さらに蜀(四川)で皇帝を称した弟の蕭紀を撃破する。しかし554年に雍州刺史の蕭詧(後梁の宣帝)によって引き込まれた西魏の大軍の前に敗死し、蕭詧は江陵に入って皇帝を称した。この蕭詧の政権は後梁と呼ばれるが、実質は西魏の傀儡政権であった。また蜀一帯は、既に西魏によって占領されていた。

 

元帝が死んだ後、王僧弁とこれも元帝の武将であった陳霸先(後の陳の武帝)は建康において元帝の九男である蕭方智を擁立しようとしたが、東魏に取って代わった北斉がこれに介入して北斉の捕虜となっていた蕭淵明を送り込んできた。王僧弁は、これを受け入れて蕭淵明を擁立しようとするが、陳霸先はこれに反対して蕭方智をそのまま擁立しようとした。この王僧弁と陳霸先の争いは陳霸先の勝利に終わり、蕭方智が擁立されて敬帝となった。

 

55710月に梁が滅亡した後も、その残存勢力はたびたび王朝の再興をはかった。梁の有力な将軍であった王琳が蕭荘(永嘉王)を皇帝に擁立した。また江陵付近を統治した後梁は、西魏とそれに代わった北周・隋の傀儡政権ではありながら、後主蕭琮まで3代続いた。隋が建国された後も、蕭巌や蕭瓛が自立して梁主を称している。さらに隋末から唐初にかけての戦乱の時期には、蕭銑が梁の皇帝を称し、江陵を都と定めた。その勢力は長くは続かず、621年に唐によって滅ぼされた。

 

557年に陳霸先は禅譲を受けて陳を建てる。しかし建国時点で、すでに四川の広い地域と江陵を中心とした荊州北部(湖北省)を奪われており、更に国内には反対勢力が残っていた。陳霸先は、その反対勢力を制圧することで寿命を使い果たして559年に死去。陳霸先の甥の陳蒨(文帝)が後を継ぐ。

 

文帝は武帝の方針を引き継いで国内の反対勢力を制圧し、陳に小康状態をもたらした。566年、文帝が死去すると、文帝の子が後を継ぐが、すぐに文帝の弟の陳頊(宣帝)がこれを殺して自ら即位する。宣帝は北周による北斉へとの共同攻撃の誘いに乗って出兵し、淮南を獲得した。

 

しかし北斉が北周に滅ぼされた後、北周軍に大敗して淮南を再び失う。陳はこのことで大打撃を受け、更に582年に即位した陳叔宝(後主)は政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのは時間の問題となった。

 

北周に代わった隋の文帝は、統一に向けて慎重な足場固めを行った。北方の突厥に対して万里の長城の修復を行い、また長江へと繋がる運河の整備を行って補給路を固めた。更に傀儡国家である後梁を潰して直轄領とした。

 

準備を終えた文帝は、一衣帯水の言葉の下、588年に次男の楊広(後の煬帝)を主将とする総数518千の軍を送り込み、翌589年に建康を陥落させ、宮中の井戸に隠れていた後主を捕らえて陳を滅ぼした。これによって、西晋が滅びてから273年、西晋の短い統一期間を除くと350年以上にも及ぶ長い分裂の時代は終わり、鮮卑系の隋によって統一された。

 

隋の統一も第2代煬帝の時代に一時潰えるが、長い分裂時代に育まれた有形無形の統一への気運は、中国が再び分裂することを望まず、その後に興った唐は約300年の長きにわたって存続した。

 

なお、北魏から唐までは北魏がまだ前身の代国であった時代を含めて約600年を数えるが、この年月の間に各王朝の成員による婚姻によって、これらの王朝間に縁戚・血縁関係が生じている。

出典 Wikipedia