2014/12/29
産霊の神『古事記傳』
2014/12/27
舎人
「とねり」とは宮中や貴人に仕える雑用係のことで、百済の二十二部という官制になぞらえて「舎人部」に当てた。だから「舎人」を「とねり」と読むのであって、中国でこの官名を「とねり」読んでいた訳ではない。
三省堂の国語辞典に
(1)皇族・貴族に仕えて雑務を行なった下級官人。律令制下には内舎人・大舎人・春宮舎人・中宮舎人などがあり、主に貴族・官人の子弟から選任された。舎人男。舎人子。
(2)平安時代、貴族の牛馬などを扱う従者。
(3)旧宮内省式部職に属した名誉官。式典に関する雑務に従事した。
だから「しゃじん」と読んでも間違いではない。舎人監は「とねりのつかさ」と読むが「しゃじんかん」と読むのが普通である。で、当地がどうして舎人なのか判らない。「・・・ではないか?」というコジツケ(説)は、以下の通り幾つかある。
1. 「トネ」は小石の多い痩せ地、「イリ」は入江や谷の奥で、神領堀の状態をいったもので「トネイリ」が転訛して「トネリ」となり「舎人」の字を当てたという説。
2.「日本書紀」の編纂を総裁した事で知られる舎人親王(とねりしんのう)は、舎人皇子(とねりのみこ)とも記される天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)の皇子で、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族である)。この舎人親王にちなむという説。
3. この辺りを支配していた舎人土佐守の姓にちなむという説。
4.「トネ」は湖水、「リ」は高いところというアイヌ語による説。
5.官牧が草加市遊馬(あそば)にあり、その管理者檜前(ひのくま)一族に関係のある舎人が住んでいたことにちなむの説。
6.欽明天皇の大舎人日置直志毘(ひぎのあたえしび)が出雲から移住してきて、故郷の舎人郷を懐かしんで村名とした説。
7.聖徳太子がお忍びで関東を巡行していたとき、聖徳太子と見破った舎人にちなんだという説。
8.「トネ・リ」、TONE-RI(tone=projection,knob;ri=screen,protect,bind)、「丘が連らなった(土地)」という説などなど、たくさんの説がある。
2014/12/10
高御産巣日神と神産巣日神『古事記傳』
○次(つぎに)「つぎ」というのは「つぐ」という用言(動詞)を体言(名詞)の形にしたのである。「つぐ」は「つづく」と同源であり「つぎ」も「つづき」と同じことである。 それには縦横の別がある。 縦とは、父の後を子が継ぐ類である。 横は、兄の次に弟が生まれる類である。 記中「次に」とあるのは、みなこの横の意味である。だからここから始まって、後の文で「次に伊邪那美の神」とある「次に」までは、すべて兄弟が次々に生まれたようなものである。【父子の次第(ついで)のように、前の神の世が過ぎて、次の神が現れるのではない。この点を思い違いしないように】
2014/11/25
天之御中主神『古事記傳』
2014/11/21
「日本料理(Japanese culinary art and culture)」の 世界無形文化遺産登録に向けた提案書
出典 https://www.maff.go.jp/index.html
Ⅰ. はじめに
「日本料理」は、悠久の歴史と固有の文化、自然などを礎として、多様な季節の食材、器、しつらえ、おもてなしの心などとともに発展してきたものであり、その美術、芸術を細部まで突き詰める精神性と「型」や「間」を重んじる独特の美学を持った日本文化の粋であり、日本の美の象徴である。
その季節感や空間の美と併せて料理を五感で味わい、総合的に客をもてなす日本料理は、料理そのものを超えた総合的な技術と文化(Culinary art and culture)の結集として、世界的にも非常に高い評価を得ており、各国の料理にも大きな影響を与え、広く取り(採り)入れられている。
このように「日本料理」は世界的に保全する価値を有する文化となっていることから、その発祥の地である日本から保護する活動を早急に行っていくことが求められる。
Ⅱ.日本料理の定義と特徴
1 日本料理の定義
日本料理のユネスコ世界無形文化遺産への登録に際しては、油の少ない調理法や出汁、旪の食材など健康面の価値も含めた料理に止まらず、独自の精神性と美学を根幹に据え、調理から盛り付け、配膳やもてなしの空間まで美しく整えられた料理技術及び作法等の全体を文化として捉えた名称とすべきである。したがって、日本料理の特色と文化的要素(粋:すい)を全て持つ名称として、個人の人生や集団生活における大切な節目において供せられる「儀礼のもてなし料理」の総称「会席(かいせき)料理」が相応しいと考えられる。
したがって、ユネスコ世界無形文化遺産への日本料理の登録名称を「日本の会席文化」と定義し、英語名称については、外国人に正確に理解されるよう「Japanese culinary art and culture」と定義する。
2 日本料理の特徴
(1)
総論
他の国々の料理と比べ、日本料理の特徴としては「出汁のうま味を基本にすること」、「季節感を尊重すること」、「地域の素材を大切にすること」、「素材の味を引き出すこと」、「健康に良いこと」などを挙げることができる。
(2)
優れた技術と独特の思想
基本である「五味五色五法(ごみごしきごほう)」の定式をはじめ、素材の味を最大限に活かし、繊細な味覚に応えた調理、盛り付けに特徴を持つ。また、容器のサイズや器に対する料理の割合が、科学的に見ても味わうのに最も適したサイズに定められた「寸法」をはじめ、「料理」の字義のとおり土地・場所・季節・相手を「はかり定める」思想があり、根本的に料理に対するベースが諸外国とは異なる。
(3)
高い精神性と文化性
日本料理の根底には、8 世紀末に始まる平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した宴会(大饗)料理に端を発し、1200
年にわたって京料理を中心に発展してきた食文化の歴史の中で育まれた日本人の精神性が脈々と流れている。それは自然を敬い、ありのままを受け入れ、五感で味わおうとする姿勢や、作り手が受け手のために最高の努力と奉仕をするもてなしの心「もったいない(mottainai)」という言葉に表れており、さらに、「取り合わせの美」や「余白の美」といった美に対する独特の感性や、異なる文化を取り入れながら日本的なものに昇華したり、各地の郷土料理を取り入れたりする包容力にも示されている。
このように、日本人の高度な精神性と文化性を食で表現したものこそが「日本の会席文化」ということができる。
(4)
口承に基づく伝統及び表現並びに社会的慣習
日本料理の中でも特に「日本の会席文化」は、四季折々の食材を、その日の天候や会食の目的、客の好みを汲み取った上で調理するとともに、同じもてなしの心で室内の生け花や掛け軸などの装飾をしつらえ、花々や古典に着想を得た文様を施したテーブルや椀、皿、箸などの食器を選び供することで、美食を食する満足よりも、この日この時この場所で主と客がともに最上の時間を過ごすことに絶対的な価値を見出す「日本の社会的慣習」である。
それは子供の誕生、成人、結婚、還暦といった個人や家族の祝祭をはじめ、正月や節句などの伝統的な年中行事のほか、雪、月、花を最も美しい時節に愛でる鑑賞の時など、個人的若しくは社会的儀礼や祭礼、習慣の中の大きな要素と位置付けられている。また「日本の会席文化」は、長年の経験で培われ口承された栄養学的配慮がなされるとともに、食材そのものの名称や形状、成育過程から想起された、例えば祝いの席での「めでたい(鯛)」、「よろこぶ(昆布)」、「かずのこ(数の子、婚礼の際に多産を願う)」などの「言い習わし」をし、それを共有することで個人の感情や思考に訴え、場の雰囲気をその目的に沿った一層の盛り上げに導くという「口承による表現」が特徴となっている。
(5)
伝統文化との関わり
日本料理の歴史を踏まえると、以下の4つの流れに分類することができる。
会席料理は、その目的やケースに応じて「有職料理」、「精進料理」、「懐石料理」の形式を基本としながらも、さらにこれに料理人の創造性と美意識やもてなしを含めて提供される。また、料理だけでなく華道や香道、日本舞踊や伝統音楽なども会席料理の重要な構成要素として提供される。
一方「おばんざい」は、これらの料理と日本人の食文化に対する感性を共有するものの、日常食であることから、今回の提案においては儀礼のもてなし料理である会席料理を基本として捉えることとする。
有職料理
平安時代の貴族の社交儀礼の中で発達した大饗料理が、公家風の料理形式として残った物である。膳の数・形式で分限思想を視覚的に表現する本膳料理に発展。 銘々膳及び飯・汁・菜・香の物の 4 点(一汁三菜)からなる日本料理の様式と基本型を備え、包丁の扱い・献立・料理の盛り方、並べ方、食べ方に至るまで包括するルールが整理されている。但し、現在「有職料理」と言われている物は、本膳料理などの影響も受け、平安時代当時そのままの様式ではない。また、本膳料理を有職料理に含める定義もある。
精進料理
宗教的なタブーに規制された粗食から、限られた材料で贅を尽くす発展を遂げた野菜海草料理。煮物や出し汁、細やかな舌の感覚や視覚的なあつらえに工夫を凝らし、日本料理に独特な繊細さ・創造性をもたらしている。
大饗(だいきょう/おおあえ)料理
長屋王邸出土木簡などから、奈良時代には既に貴族社会で接待料理が成立していたことが伺えるが、その具体的な形式は不詳である。それが発達した物が「延喜式」神祇項目に出てくる「神饌」と思われ、春日大社の神饌や、談山神社の「百味御食」(ひゃくみのおんじき)などに、その形式を残していると考えられている。
平安中期になると、貴族の中でも皇族、摂関家、それ以外の貴族の序列は動かしがたい物となり、その接待の形式として「大饗」が定められる。唐文化の影響を受け、「台盤」と呼ばれるテーブルに全料理を載せたり「唐菓子」など渡来の料理も添えられるなどの献立の多さもさることながら、食べる側にも食べ物の種類ごとに細かい作法が要求されたことが『内外抄』や『古事談』の記述から分かり、現代人から見ると大変堅苦しい物だったようである。
出汁を取る、下味をつけるなどの調理技術が未発達で、各自が塩や酢などで自ら味付けをしていた。珍しいものを食べる事によって貴族の権威を見せつけ、野菜を「下品な食べ物」とみなして摂取しなかった事や、仏教の影響で味の美味いまずいを口にする事をタブー視していたことから、栄養面から見るとかなり悪い食事であった。
「大饗」には少なくとも「二宮大饗」と「大臣大饗」の2形式が存在していた。
2014/11/11
「尊」と「命」
2014/11/10
配膳(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(8)
日常的な食事の構成としては、ご飯(白米やその他の穀物を炊いたもの)、汁物、おかず3品(主菜1品と副菜2品)という組み合わせを取り「一汁三菜」と言う。これらを好みにより交互に食べる。この際、口の中で味を混ぜる事も多く、御新香のような塩気の強いものと、ご飯とを合わせて食べる。その後に味噌汁を啜るなど「口内調味」を行う。こうすることで、それぞれを単独で味わうより美味しい、とされる。
一方、懐石料理・会席料理のように改まった席では、一品(あるいは一膳)ずつ順番に料理が供されるのが普通である。西洋料理には「コース」という概念があり、何段階かに分けて異なる種類の料理(前菜、スープ、主菜など)を食べるが、日常の日本料理ではそのような構成をとらないのが一般的である(日常食を提供する食堂・レストランも同様)。また食器や食事室の統一性にも配慮が払われる。
盛り付けの作法
盛付けの美しさは、日本料理の大きな特徴である。調理した食材を彩りよく並べるだけでなく、器の質感や絵柄なども吟味し、季節や風情を盛り込むことも調理の一つとされる。
箸を右手で扱う右利き向けの配膳が基本となっている。ご飯は左、味噌汁は右。古来より「左が上位」と扱う文化(左大臣は右大臣より上位など)のため、主食のご飯を左に置くのが正しい。
尾頭付きの魚の盛り付け方は、頭を左、腹を手前側に向ける(ただしカレイに限っては、頭を左にして腹を上にしたり白い面を表にして、腹を手前にしたりする場合がある)
魚の切り身の盛りつけ方は、魚の種類によって皮を上にする「皮表」とすべき場合と、身を上にする「身表」とすべき場合があるが、殆どの魚は皮表で盛りつける。したがって皮を上側、身を下側にして盛りつける(鮭などで薄い切り身となっている場合には、皮を奥側、身を手前側とする)
これに対しウナギ、アナゴ、ハモなどは身表とする。長い食材は、長方形の皿に盛り付ける。大根おろしや刻みねぎなど、付け合せは手前側に置く(「前盛り」と呼ぶ)。日本料理の食事作法は、他文化の食事方法とは大きく異なる点が多い。
食器
食器は漆器、陶器、磁器など、多くの種類を併用する。器には多彩な絵付けが施され、盛り付けに工夫が凝らされる。特に陶器は造形の制限が緩やかで、濃い色の皿・角型の皿、花や果実の形を模した器など、伝統的な欧米の料理の食器とは大きく異なる。近隣国で陶磁器生産の歴史がある中国・韓国と比べても、丸皿を多用し伝統的な絵付けの陶磁器を用いる中華料理や、金属製の器や絵付けのない白磁の食器を主とする韓国料理に比べ、異彩を放っている。
また、陶磁器の普及までは木椀を使用しており(九州では、陶磁器の普及により木椀を用いる習慣が殆ど失われた一方、東北地方では近代にいたるまで木椀を多用する文化が残っていた。また社会階層により普及の時期は異なる)、漆器の多用はその名残であると言える。家庭では、ご飯茶碗・箸は各人専用のものを用いる習慣がある(「属人器」と言う)
出典 Wikipedia
2014/11/02
行ったぜ、東北。(鄙びた温泉編)
この日の宿は、北上に近い郊外である。最寄駅の金ヶ崎までは平泉から電車で25分程度だから、まだ宿に向かうには早い。観光案内で聞いた日帰り温泉へ寄ろうとしたが、次の電車までの待ち時間が50分ほどという中途半端なタイミングだった。
温泉まで歩いて15~20分ほどというから往復30~40分とすると、ゆっくり入っているには時間が足りない。とはいえ、その次の電車となると例によって1時間も先になってしまい、それではゆっくり温泉に入ったとしても時間が余りすぎてしまう。そこで、温泉は翌日の帰る前にゆっくり寄ることにして、次の電車に乗車した。
(これじゃ、宿に早く着き過ぎるな・・・)
と思ったとしても無理はなく、計算上は6時ころには到着する予定だった。ところが、ここでまたしても大きなミスが発生した!
なんと愚かなことに、ようやく来たと思って飛び乗った電車が、反対方向の一ノ関の方に戻ってしまったのである。普通なら、なんてことのないミスと言えたが、なにせこのような土地ではこうしたミスは「致命的」である。反対方向となる金ヶ崎へいく路線は、タイミング悪く入れ違いで出てしまったばかりで、次の電車は1時間以上も先ではないか。
(ちくしょう!
こんなことなら、あの温泉に余裕で入れたじゃないか!)
などと地団太踏んだところで、全てはアフターカーニバル。そして、今度はようやく間違えずに乗った電車で金ヶ崎に到着した時は、すでに7時を過ぎていた。
車窓の外は真っ暗な田舎町で
(果たして、駅にタクシーなんているんかいな?)
と不安が頭を擡げてきたが、案の定タクシーなどは影もなかった。旅館までは「車で15分」とあるから、とても歩いて行ける距離ではなく、タクシーがないことには行きようがないではないのである。
(こりゃ、参った!)
途方に暮れてタバコをふかしている間にも、雨はいよいよ本降りになってきた。思いついて公衆電話のところに行くと、ようやくタクシー会社の看板が目に付いたのは幸いだったが、旅館は遠く3400円もかかってしまった (キ▼д▼)y─┛~~゚゚゚
2014/11/01
行ったぜ、東北。(鳴子~平泉編)
初の東北旅行だ。
地元の愛知在住時は、東北とか北海道は遥か遠方の地だったが、東京に来てからはうんと近くなった。こうして、いよいよ「東北旅行」が現実味を帯びた。ところが、現実は長野や山梨の方にばかり足が向いてしまい、東北にはなんとなく行きそびれたまま、遂に10年が経過した。実のところ、この旅行も早くから予定していたものではない。最初は千畳敷カールを予定していたのが、諸般の事情で行きそびれてしまったことから、瓢箪から駒の如くに急遽決定した東北旅行だった。
東北で紅葉の名所で思いつくのは鳴子峡、猊鼻渓、厳美渓など。そして紅葉はさて置いても、世界遺産の平泉も必見である。このようなスケジュールを元に、初日は中山平温泉駅で下車して鳴子峡の紅葉の絶景を堪能し、お目当ての鳴子温泉へと移動する。
ホテルの広い大浴場、露天風呂とも誰もいない貸切状態で、鳴子温泉のツルツルとした湯が気持ち良い。本来は鳴子温泉に泊まりたいところだったが、次の目的地の岩手までの移動時間を考え、観光に影響のない夜の間に目的地に近い一ノ関に移動した。鳴子温泉で有名な「滝の湯」に寄りたいところだったが、電車の時間が微妙で一つずらすと1時間以上も先になってしまう。これだと逆に時間が余ってしまうが、温泉街とはいえ一杯飲み屋のような店も見当たらないことで、残念だがここは諦めた。
この日は、どこも食事付きの旅館が満室だったため、一関駅に近いホテルを予約していた。ホテルのレストランで刺身の三点盛り、前沢牛タンステーキ、十割そばなどのセットと地酒を堪能し、蔵を改造したバーで飲み直して眠りに就く。
2日目は猊鼻渓に行く予定だったが、ここで大きなミスが発覚した。一ノ関駅から猊鼻渓行の電車は「9:25」発のハズで、それに合わせてホテルの朝食バイキングで腹ごしらえをし、駅に向かったのである。ところが駅の電光案内版を見ると、猊鼻渓行は「10:40」と1時間以上も先にしか来ないではないか!
(なんじゃ、こりゃ!)
検索した「Yahoo!」の乗換案内の画面を見せながら
「ここに出ている9時25分発の電車は?」
と駅員に詰め寄ると
「これは・・・夜の9時25分ですけど・・・」
確かに、よく見ると「21:25」となっているではないか!
何度も繰り返し見ていながら、なぜこんなアホな勘違いに気付かなかったのかと大いに悔やまれる。が、いかに悔やんだところで、1時間以上先にしか電車は来ない事実が変わるわけはないから、予定を見直すしかない。バスの案内所へ行くと、猊鼻渓に行くにしろ平泉に行くにしろ、いずれにせよバスは10時発になるらしい。それでも、何も娯楽のない田舎で10時40分まで電車を待ってはいられないから、10時のバスで平泉を回るコースに変更した。それというのも、ここへ来て天気予報が外れて雨がぱらついてきたことがあって、見上げる空は黒い雲に覆われていた。こんな不穏な天候で船下りを楽しめるとは思えないし、なにより苦労して猊鼻渓まで行ったはいいが、雨でお目当ての船下りが中止にでもなったら目も当てられぬ。そこから、また1時間も電車で待たされた利した挙句、下手をすれば1日丸潰れなんてことにもなりかねないのである。
こうして厳美渓行のバスに乗車し、厳美渓~達谷窟毘沙門堂~そして毛越寺と立て続けに見学。毛越寺浄土庭園の紅葉はまさに見頃で、時折晴れ間も覗き始めた天候も味方し素晴らしい景観が楽しめた。
メインの中尊寺へ行く前に、門前にあるレストランで前沢牛ステーキ、十割そばなどの名物盛りだくさんの「岩手黄金ランチ」と地酒を堪能し、中尊寺へ足を踏み入れる。
長い登り坂を上がりきったところで、ようやくにして奥州藤原氏三代の栄華の象徴とも言うべき「金色堂」を拝むことができた。
2014/10/26
トラベルのトラブル
東北旅行中。
昨日が鳴子峡見物から鳴子温泉を満喫して、岩手に移動し6時半にホテルに着く予定が8時過ぎにチェックイン。名物牛タンステーキや十割そばを堪能。今日は厳美渓〜毛越寺〜中尊寺と黄金コースを回り、6時には宿に着く積りがまたしても8時近くに到着。チェックイン時間だけでなく、土地勘のないところを調査不十分によるミスを連発。東京とは違い、一つ間違えば確実に1時間以上待たされる田舎の不便さ(というより、己の不勉強)を身に沁みて知らされている。
まったく「トラベル」の語源は「トラブル」だろうというインチキ説を信じたくなるくらいで、1時間以上も先に出る電車を待って、ようやく見つけた小さいカフェで一服 ('Д')y ─┛~~
2014/10/14
刺身の登場(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(7)
刺身の調理法は、魚肉以外でも用いられる。『鈴鹿家記』応永6年(1399年)6月10日の記事に「指身 鯉イリ酒ワサビ」とあるのが刺身の文献上の初出である。
醤油が普及する以前は、生姜酢や辛子酢、煎り酒(削り節、梅干、酒、水、溜まりを合わせて煮詰めたもの)など、なますで用いられる調味料がそのまま用いられた。「切り身」ではなく「刺身」と呼ばれるようになった由来は、切り身にしてしまうと魚の種類が分からなくなるので、その魚の「尾鰭」を切り身に刺して示したことからであるという。一説には「切る」を忌詞(いみことば)として避けて「刺す」を使ったためとも言われる。
いずれにせよ、ほどなくして刺身は食材を薄く切って盛り付け、食べる直前に調味料を付けて食べる料理として認識されるようになったらしく『四条流包丁書(しじょうりゅうほうちょうがき)』(宝徳元年・1489年)ではクラゲを切ったものや、果ては雉や山鳥の塩漬けを湯で塩抜きし、薄切りしたものまでも刺身と称している。
刺身の異称
刺身とよく似た料理に「打ち身」がある。文献によっては刺身と混用されていることもあるが、こちらは総じて刺身よりも分厚く切り、盛り付けに鰭(ひれ)だけでなく皮や中落ちまでも利用するなど、調理法が極めて多彩かつ複雑であった。しかし対象となる魚の種類が鯛か鯉に限られていたこともあり、より簡便な刺身が普及するにつれ、室町末期には殆ど刺身と区別がつかなくなり、江戸時代に入るとともに料理名としても廃れた。
かつての関西では、原則として鯛などの海の物に限られているが、魚を切る事を「作り身」といい、それに接頭語を付けた「お造り」という言葉が生まれた。そして淡水魚の場合は「刺身」といったことが「守貞謾稿」に記されている。現在では異なっている。
懐石の一品「お造り」
料理としての刺身は、江戸時代に江戸の地で一気に花開いた。そもそも京都は、鯉のような淡水魚を除けば新鮮な魚介類が得られにくいため、いわゆる江戸前の新鮮な魚介類が豊富に手に入る江戸で、刺身のような鮮度のよい魚介類を必要とする料理が発達するのは当然のことであった。
もうひとつの理由は、調味料として醤油が生まれた事である。生魚の生臭さを抑える濃口醤油が江戸時代中期より大量生産をはじめ、大都市・江戸の需要をまかなった。後述の通り、魚を生食する文化は日本以外にも存在するが、特定の種類の魚の調理法に限定されている。
江戸時代の江戸で生まれた、多種多様な魚介類を刺身として生食する習慣は、まさしく醤油という生の魚と相性が抜群によい調味料あってこそのものであった。また醤油の普及は、生の魚と飯を即席であわせて醤油をつけて食す料理、つまり握り寿司へと繋がって行った。
また刺身の普及によって、鰹や鮪のような塩漬や加熱調理した場合に食味が落ちる魚についても、美味しく食べられるようになった。鮪は、江戸時代中期までは塩漬したものを煮るか焼くかで食すのが普通であり、あまり美味とはみなされず、それゆえに安価な魚であった。江戸時代後期から、醤油漬けにした鮪を生食するようになり、これが美味であるとして人気が高まった。歌川豊国の「当世娘評判記」には、大皿に刺身とつまを盛ったものが描かれている。こういった状況を「守貞漫稿」では、次のように記している。
鯛・ひらめには辛味噌あるひはわさび醤油を用ひ、まぐろ・鰹等には大根おろしの醤油を好しとす。夏は血水底に溜まる故に、江戸にては葭簀あるひは硝子簾を敷きて、その上にさしみを盛る。江戸、刺身添へ物、三、四種を加ふ。糸切大根、同うど、生紫海苔、生防風、姫蓼。粗なる物には、黄菊、うご、大根おろし等を専らとす
幕末には、京阪は四季に関係なく鯛ばかりを使用している上、切り方から盛り付けまで乱雑である(『守貞漫稿』)と批判されるほどにまで差がついていた。喜多川守貞著『守貞漫稿』1853年には、屋台の「刺身屋」が登場し、これは江戸前の鰹と鮪が主であり、大変に繁盛したとされている。また、皿に好みの刺身を盛ってもらう「刺身盛り合わせ」の形式が誕生した。
魚を薄く精巧に切った「平作り」などについて、次のように記述している。
「京坂にては四時及び料理の精粗を択ばず専ら鯛を用ひ、他魚は用ふを甚だ略とす。京坂惣ての作り身斬目正しからず斬肉を乱に盛る。京坂にては鮪を下碑の食として中以上及び饗応にはこれを用ひず。又鮪を作り身にせず。江戸は大禮の時は鯛を用ひ、平日これを用ひるを稀とす。平日は鮪を専らとす。包丁甚だ精巧にして斬目正しく 斬肉の正列に盛るを良しとす」
近代に入ると、流通の発達や冷蔵設備の普及、冷凍技術の発達に伴い、日本全国津々浦々で新鮮な刺身が食べられるようになった。特に鮪に関しては、近世までは醤油漬が江戸で食されたに過ぎないが、冷蔵技術の進歩により全くの生の状態で日本中に流通するようになった。また鮭や一部の烏賊のように、寄生虫を持つために従来は生食に適さなかった魚も、冷凍処理で寄生虫を殺す事で生食できるようになった。
そして今では日本料理の代表格として、寿司とともに日本国外にも進出を果たし「Sashimi」で通じるほどにまでなっている。英語圏の魚市場や魚屋では、生食出来得る品質の魚介類を指して「サシミ・クオリティー(Sashimi Quality)」と呼称・表示することもある。
出典Wikipedia