2014/05/27

引越し(1)

遂に引っ越しである。

 

わざわざ「遂に」と言うのには、もちろん理由がある。前々回の更新時辺りから「そろそろ引っ越しを」と思いつつ、面倒さが先立ってズルズルと住み続け、気付けば10年目を迎えていたからだ。いかに質素な生活とは言え、さすがに10年も経てば荷物も増える一方だから、いよいよ強い必要性に迫られていた。

 

現在の住居が分譲マンションだから、設備面はかなり整っているし機能性は高いと思うが、なにせ狭い。引越しの理由は、狭さとともに環境面の不満もあった。南側が大通り(井の頭通)に面しているため、深夜でも長距離トラックなどがひっきりなしに通る。これは騒音だけでなく、あまり気にはしなかったがベランダに干す洗濯物も、相当な排気ガスを受けてきたことだろう。ということで引っ越し先は、この2つの条件をクリアした物件でないとダメなのである。

 

ただし、10年間住み慣れた吉祥寺という便利な場所を動く必要はない。不動産屋には、以下の条件を提示した。

 

    2F以上・・・高いほど良い

    南向き ・鉄筋コンクリート

    ペット、楽器不可

    中央線の西荻窪~三鷹間の駅(もしくは該当範囲の井の頭線の駅)から徒歩15分以内

    バス・トイレ別

    クローゼット

    ベランダorバルコニー

 

土日を利用して、かなりの数の物件を見て回ったものの、なかなか気に入ったものがない。条件が多いだけに、良い物件だと思っても必ずどれかが引っかかってくるのである。先に書いたように狭いのと環境面は今より良くても、古い物件であれば水回りの老朽化が著しかったり、他は全て良いのに「西向き」という残念なケースなどもあった。そのようにして幾つかの不動産会社の案内により数十件を見た挙句、ようやく希望条件をほぼクリアした物件を見つけた ー`)y─┛~~

 

なんと言っても面倒なのは引っ越しである。さらに面倒なのは、時期やタイミングといった要素が大きく絡んでくるから、真剣に物件探しはしても気に入った物件に巡り合うとは限らない点だ。反面、いいものは出回ればすぐに決まってしまうから、じっくり探すということもできないのである。

 

過去の経験上、方々で同じセリフをオウムのように繰り返えさなければいけない面倒を考え、条件を書き出していた。

 

n  必要条件

    鉄筋コンクリート建築

    南向き(日当たり良好)

    2階以上(出来るだけ物件の上層階)

    ベランダorバルコニー

    バス・トイレ別

    クローゼット

    エアコン

    室内洗濯機置き場

    楽器、ペット不可

     

n  希望条件

    角部屋

    分譲仕様

    自転車置き場

    光ファイバー

    保証人不要

 

まず「鉄筋コンクリート建築」は譲れない。過去に所属会社が借り受け、一時的に住んでいたマンスリーレオパレスで木造建築には懲りていたし、これまで個人的に住んでいた住居は総てが鉄筋ばかりで、木造や鉄骨などの住居にはレオパレス以外で住んだ事がない。人一倍デリケートなだけに、隣近所の騒音には我慢がならない。

 

2階以上の住居」は、以前のマンスリーマンションが2階だが1階が半地下になっていた構造の関係で、実質的には1階半のような高さで、しかも悪い事に窓側が商店街(といっても大したものではなかったが)になっており、窓を開け放つと道行く通行人が丸見え(という事は、向こうからも丸見え)だったのに懲りたためだ(2階よりは3階以上と高いほど良いが、さりとて高層マンションの10数階などを希望しているわけではない)

 

いずれにしても、この時の経験がトラウマとなって「外から絶対に覗かれない環境」  というのが「鉄筋コンクリート」、「南向き日当たり良好」と並ぶ「最優先条件」となった。

 

とは言え、それなりの都会だから、目の前や周囲に高い物件があったりというパターンが多いのは確かである。そんな中で、環境的に素晴らしい物件があった。南向きで2部屋分ぶち抜きの広いベランダがあり、周辺は高層分譲マンションばかりだったが、上手い具合に目の前だけ平屋の住宅が並び眺めが素晴らしい。さらに北側にも大きなバルコニーがあって、これは「専用庭」と呼ぶにふさわしい広さを持ち、テーブルと椅子を置いてコーヒーでも飲めそうなスペースである。

 

もう1件は、今の住居の道向かいにあるマンション4階だった。これも同様に、南向きの広いベランダの前が平屋の住宅ばかりで、見渡す限り高い物件が全くない。見学したのが夕方だったが、夕日に赤く染まった富士山がハッキリと見えていた。これだけの両物件にすぐに飛びつかなかったのは、いずれも古い物件特有の水回りの老朽化が目立ったのと、クローゼットがない(押入れのみ)のが致命的だったためで、惜しいと思いながら結局NGとした。

2014/05/19

箱根旅行

箱根には何度も足を運んできたが、かねて行きたいと思いつつも、これまで行けていなかったところがある。まずは「山のホテル」、より正確には「山のホテルのつつじ」がお目当てだ。さらに芦ノ湖と箱根神社も未踏の地だけに、一度は足を運ばねばと思っていた。無論、全山テーマパークと言うくらいだから、他にもまだまだ未知の観光スポットはたくさんあるが、特に興味を持っていたのがこの3つである。

 

そこで、いよいよ計画を実行に移すべく色々と調べていると、幸運なことにこれらがすべて近くに集まっているではないか!

地図で山のホテルを探すと、あたかも目と鼻の先のように箱根神社が載っているし、芦ノ湖の遊覧船も乗り場が幾つかあるが、元箱根港であれば非常に近い。そうとわかれば計画を実行に移すのみだが、金曜に休みを取って泊りの計画を温めていたが、山のホテルのつつじが遅れて金曜に間に合わず、急きょ土曜の出発に繰り下がった。

土曜当日に宿の予約は難しいだろうから、この際日帰り覚悟で新宿8時発のロマンスカーに乗車という早朝の出発で、9時半には箱根湯本に到着だ。

 

通常の箱根観光と言うと、登山電車で強羅まで行ってケーブルカー、ロープウェイを乗り継いでいくのがおきまりパターンだが、これだと元箱根まではかなりの時間がかかる。これが、これまで足を運べなかった阻害要因であったが、バスの路線を見ると逆回りで行けば案外近いことを発見した。

 

元箱根港にはスムーズに10時過ぎに到着すると、箱根神社の鳥居が聳えたっている。そこから送迎シャトルバスで、山のホテルに移動する。お目当てのつつじはほぼ満開に近い状態で、つつじの上から威容を覗かせている富士山、さらに芦ノ湖も望める絶景は写真で見た通り素晴らしい。 


この日は、これ以上ないような好天に恵まれ暑いくらいだったが、残念なことに富士山頂付近だけが雲に覆われていた。とはいえ念願叶ってつつじとシャクナゲを堪能した後は、ホテルオリジナルの「樽生アルトビール」で乾杯し、箱根神社へと移動する。

 

神話好きにとって、あの天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命、その子の彦火火出見尊を主祭神にいただく由緒ある神社とあっては、なんとしても足を運びたくなるものであるが、さすがにどことなく厳かな雰囲気が感じられた。 


この日の最後は、芦ノ湖海賊船だ。元箱根港から桃源台までの船旅、富士山はやはり頂上近くだけが雲を被ったままだったが、新緑の山々に囲まれた芦ノ湖の雄大な景色が、日常を忘れさせてくれる長閑さ見せていた。

 

小田急の「フリーパス」を買ったお蔭で、新宿⇒箱根湯本までのロマンスカー特急券料金(890円)以外は全てタダとなったが、このフリーパスは2日間有効だった。桃源台からロープウェイに乗車すると、大涌谷で名物の黒玉子を食べに行き、さらにロープウェイとケーブルカー、登山電車を乗り継ぎ一旦、湯本へ戻る。まだまだ箱根を楽しみたいという欲から、なんとか小涌園近くのホテルを確保したのに安心しつつ、夕食では丸々と太ったサザエのつぼ焼きをビールと酒で堪能し、湯豆腐定食を満喫した後は、小涌園近くのホテルの温泉に入り宿泊した。 




翌日は例のフリー切符で、開館直後の9時にポーラ美術館へ移動。モディリアー二展だけでなかなかの見応えだったが、常設のルノワールやモネらの印象派絵画も堪能し尽して、気付けば2時間も経っていた。当初予定では箱根美術館にも寄るつもりだったが、ポーラ美術館で集中し過ぎたせいか疲れてしまったため、美術館ハシゴは断念し元箱根港へ移動すると、またもや海賊船に乗る。フリー切符だから、何度乗ってもタダである。 



そこで、小涌園のユネッサンにまだ行ったことがなかったのを思い出したため、蓬莱園のつつじを見物した後にユネッサン森の湯へ。あの独特の強烈な硫黄臭を放つ温泉に入り、風呂上りには箱根・小田原ビール飲み比べをする。日曜のケーブルカーや登山電車の混雑を避けるため、バスで湯本に戻ると、新宿行のロマンスカーは1時間待ちとなったが、なんとか席を確保できた。

 

冒頭にも書いたように、これまで未経験分野を多く開拓できたこの箱根行だったし、それ自体は大いに満足できたものの、その一方でウンザリさせられたのが異様なC国人の多さである。どこまで行っても「日本人より、遥かに多いんじゃないか?」と思えるほど、C国人の姿や大声がやたらに目と耳につくのを見るに、こんな調子では本当に我が日本国がC国人に乗っ取られてしまうぞ、と本気で心配になってくる。

2014/05/13

諏訪

諏訪大社縁起

諏訪大社成立の由来については諸説あるが、ここでは「古事記」と「甲賀三郎譚」由縁のものを紹介する。どちらも、外来のものが如何にして諏訪に入ったのかを示している。

 

古事記由縁の由来

諏訪大社の由来としては、一番良く知られたものである。これは古事記内の出雲神話に依る。昔、日本は葦原の中つ国と呼ばれ、国王は大国主命であった。高天原の天照大神は葦原の中つ国を手に入れるため、径津主命・武甕槌命を派遣し大国主命に国譲りを迫り、大国主命の息子である建御名方命がこれに対抗した。武甕槌命と力勝負を行ったが負けて、科野の国に逃げ込むことになった。天竜川で洩矢の神と対陣し、交渉の結果力比べをすることになった。この力比べで建御名方命が勝利し、以来諏訪の地で国作りを行ったといわれる。

 

甲賀三郎譚所縁の由来(南北朝時代の説話集「神道集」より)

中世に語り継がれた諏訪大社の由来。諏訪大明神が竜蛇神とされる理由のひとつ。甲賀三郎は、大和の国主となり春日姫と結婚した。三郎が兄たちと伊吹山で狩りをしている時、春日姫が攫われた。全国を探し求め、信州蓼科岳の人穴の中で春日姫を発見し、救い出したが春日姫に恋する兄によって三郎は穴から出られなくなる。三郎は穴の中を進み、維縵国に至り国王の娘と結婚する。13年間暮らすが、春日姫恋しさから再び地底探索開始し、国王は鹿の肝で作った餅を与え道中の難所の克服法を教えた。千日かけ三郎は信州浅間岳に到着。しかし自身の体が蛇になっていた事に気づき、老僧の言う通り池の水を飲み呪文を唱えると、元に戻った。兵主神に導かれ三笠山で春日姫と再会し、平城国で神道の法を授かり帰国。三郎は諏訪大明神として上社に、春日姫は下社に出現した。

 

ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

古代からの郡名で、赤石山脈、立科山脈、八ヶ岳連峰によって囲まれ、糸魚川静岡構造線上の断層盆地で、天竜川の水源である諏訪湖がある諏訪盆地に位置し、おおむね現在の岡谷市、諏訪市、茅野市、諏訪郡の地域です。

 

『古事記』には、建御名方神が追われて科野国の州羽海に至ったとあります。なお、諏方大明神画詞(正平111356)年成立)は、駒ヶ根市大田切川以北の伊那郡北部を「外諏方郡」と称しています。『和名抄』は「須波(すは)」と訓じます。郡名は「すぶ(隘)まったところ」(本居宣長)から「スワ(谷、湿地)」の意、「ソハ(阻)」の転で「山地の崖、山の斜面」の意、「住庭(すみにわ)」の転などの説があります。

 

この「すは」は「ツワ(ツハ)」、TUWHA(=tuha=spit,expectorate)、「(神が)唾(つば)を吐く(厳冬期に御神渡(おみわたり)ができる。湖。その湖がある地域)」の転訛と解します。

 

なお、全国の他の「スハ」地名は

(1)「ツワ(ツハ)」、TUWHA(=tuha=spit,expectorate)、「唾(つば)を吐いたような(沼、湿地)」

(2)「ツ・ハエ」、TU-HAE(tu=stand,settle;hae=slit,split,cut,tear)、「溝、崖など」の転

(3)「ツハハ」、TUHAHA(standing alone,isolated)、「孤立した(地形)」の転

上記いずれかであろうと考えます。

 

・ 昔、朝廷は諏訪神社の建御名方神(たけみなかたのかみ)の神威を恐れて諏訪神領の自治を認めていた。そのため諏訪氏は一つの独立国のように振る舞えた。

 

・ 諏訪の地名の由来は、長野県の方言の「すわ」に由来し、「すわ」とは、谷や湿地のこと。

 

・ 古事記では「洲羽」との地名で出てくる。「すわ」に「諏訪」をあてたのは意外に新しく、江戸時代末期。古事記(洲羽)、続日本紀(諏方)、その他「須波」「須芳」とも書いた。

 

・ 信濃国諏訪郡など。

 

・ 「スワ」は「サワ」と同義語で、山から流出する川の水が山地や盆地を潤して湿地や湖を形成している様子を表す。

 

・ 「諏訪」は「」から転じた。山菜や川魚の恵みをもたらす沢の神が諏訪の神で縄文時代に始まる。

 

・ 諏訪は「スハ」という。古代語の母音は発声方法が現在と違い、「は」は唇を合わせて発音した。つまり「は=ほぁ」となり、諏訪は「すほぁ」と発音された。この「すほぁ」の発音は、諏訪大社の建御名方神に縁のある周防(すおう、すは)と通じる。また古代朝鮮では首都のことを「そほり(金城=ソウル)」と言った。最後の「ラ行」は脱落する傾向があり「そほり=そほ」が転訛して「すほ」から「すわ」になったとも言う。諏訪は古事記では「州羽」、続日本紀では「諏方」と書いた。他にも「須波」「須芳」などの表記もある。「州」と「須」はほぼ同義で「砂浜」のこと。中世から近世では「諏方」が主に使われたが、天保5年(1834年)に高島藩が「諏訪」と書くように藩命を出した。【長野「地理・地名・地図」の謎 実業之日本社】

 

・ 「す(砂)」+「わ(端)」で、「砂地の湖岸」という説も考えられる。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】

 

・ 諏訪の地名は諏訪信仰から広まった。「すわ」は「沢(さわ)」から転じたもの。山菜や川魚の恵みをもたらす「沢の神」が「諏訪の神」。諏訪神社は信濃国から越後国にかけて多い(約4割)。【地名でわかるオモシロ日本史 武光誠 角川ソフィア文庫】

 

・ 本居宣長は「スブ(隘)まった」という意味としている。また、佐渡の方言の湿地や谷を意味する「スワ」に由来するという説もある。また、「山地の崖側・山の斜面」を意味する「ソハ(岨)」の転訛という説もある。【出典】

 

# 諏訪:「古事記」には、出雲の国譲りで力比べに敗れた建御名方神(たけみなかたのかみ)が「科野(しなの)の国の洲羽(すわ)の海」まで逃げ、住み着いたとある。「続日本紀」には「諏方」「須波」との表記も有り、どちらも「砂浜のある湖」という意味と考えられる。

2014/05/11

本膳料理(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(3)

本膳料理とは、日本料理の正式な膳立てである。

 

食事を摂る」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴で、室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式だ。しかし明治時代以降は殆ど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理に、その面影が残されている程度である(婚礼の際の三々九度など)

 

更に、肝心の料理店自体が、用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や、仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)

 

鎌倉時代、武家の間には「椀飯」という、正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式があった。当初は鯉一匹など簡単な物であったが、室町時代になり武家の経済的政治的優位が確立し、幕府政治の本拠地も公家文化の影響が深い京に移るに至って料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされるようになった。

 

特に室町幕府の将軍を接待する「御成」が盛んになってからは、次第に宴会料理の形式が整えられていった。ここに本膳料理が成立したと考えられる。

 

形式

式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、硯蓋からなり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もある。ただし、特徴的なのはこうした膳の多くが「見る料理」であり、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。

 

この本膳料理は少なからず儀礼的な物であり、この後に能や狂言などの演技が行われつつ、後段と呼ばれるうどんや素麺といった軽食類や酒肴が出され、ここで本来の意味での酒宴になった。中には、三日近く行われた宴もあったようだ。

 

献立としては一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあったとされる。もっとも基本的な形は、本膳に七菜(七種の料理)、二の膳には五菜(五種の料理)、三の膳には三菜(三種の料理)を配膳するものである。

 



配膳

配膳の順序は、本膳、二の膳、三の膳、四の膳、五の膳の順にし、上座の客を先に順次、下座の客に及ぶようにし、最後に主人に配膳する。膳は料理に呼気がかからないように両腕を伸ばし、身体から離して高めに捧げ持つ。持ち方は膳を先方に向け、左右の両縁にそれぞれ両手を掛けて、客の前、適当な位置に進める。本膳は客の正面に、二の膳は客から向かって本膳の右に、三の膳は同じく左に、四の膳は、本膳の向こう側、本膳と二の膳との間に、五の膳は同じく本膳と四の膳との間にかけて置く。

 


 

本膳料理の「家元」

室町時代の中期頃には、複雑になった本膳料理を専門に調理する料理流派が成立した。「大草流」、「進士流」が有名で『大草殿より相伝之聞書』など、師匠から弟子へ一子相伝の料理の秘法を伝えていた。一方、礼法家の立場からは、本膳料理の食事作法を定めるようになり、小笠原流の『食物服用之巻』などのハウツー本が生まれた。

 

硯蓋

硯蓋(すずりぶた)は、江戸時代に出現したもので、卓袱料理や砂糖の普及とも絡んでいると思われる特異な献立である。当初は文字通り、硯の蓋に供されたともいわれる。硯蓋に出される料理はきんとん、羊羹、寒天菓子等の甘味類(料理の一品として出されるため料理菓子、口取り菓子とも呼ばれる)、あるいは蒲鉾、牛蒡や小魚の佃煮といった保存の効く食物が多く、これらは賓客が持ち帰る慣わしであった。ちなみに、御節料理としてお馴染みの伊達巻も硯蓋でよく出された料理といわれ、長崎では食感や製法の類似性から「カステラかまぼこ」とも呼ばれており、この三つの関連性は高いと思われる。

 

懐石料理における八寸に似ているが、八寸がその場で食べて(これを食い切りという)、料理も酒肴に近い物が供されるが、硯蓋は前記のように菓子類や保存性の高い食品が盛られる。関西では硯蓋の料理を口取りといい、内容は似ているがその場で食べる慣わしであった。現在は、コストや慣習の問題から廃れている。

 

本膳料理の基礎は、一汁三菜にある。「菜(さい)」は「な」のことであり、副食物のことを指す。一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、飯と香の物は数えない。こうして見ると、料理の品数が「4品」ということになる。

 

「4」 という文字について、これが「死」と同じ音であることから忌み嫌い、一汁三菜という分割した呼び方にしている。また、菜の数は必ず奇数である。 このことは日本において奇数を陽とし、偶数を陰とする思想があり、奇数をめでたいものとすることによる。

 

一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、三汁七菜など、三汁十五菜まであるが、一汁四菜(偶数の菜)はない。

 


膳には、高さ40cm高足(たかあし)膳を用いる。膳の配置は、まず本膳 (一番目に出す膳) を膝前に置き、二の膳 (二番目に出す膳) を右側に置き、三の膳 (三番目に出す膳) を左側に置く。昔は、すでに盛りつけた料理を目八分目の高さに捧げて、客前に出していた。それぞれの膳には、何をどこに置くかという約束がある。これを、「膳組み」と呼ぶ。

 




本膳料理という名称は室町時代に始まったが、現在、明治・大正時代に完成された膳組みを用いている。膳組みは、江戸前期のころ一の膳、二の膳、三の膳として分けていたが、天保のころから最初に出す膳を「一」と書かずに「本膳」と書くようになった。二番目に出す膳は、本膳より小型で、この膳は「汁」のない場合がある。これを 「引落(ひきおとし)」 と呼んで、正確には二番目に出す膳ではあるが 「二の膳」 と呼ばない。引落の配置は二の膳と同じであるが、高さは二の膳よりも低い。つまり「二の汁」がつく膳が「二の膳」であるということで、これに「焼物」が別の膳でつくものを「焼物膳」と呼び、これは脇膳のひとつである。

2014/05/03

出雲

天平5年(733年)に完成した『出雲国風土記』の冒頭に

 

「所以號出雲者。八束水臣津野命。詔八雲立語之。故云八雲立出雲。」

いづもとなづくるゆえは、やつかみずおみつぬのみことの、やくもたつのみことをのりたまひき、かれやくもたついづもといふ。

出雲と名付ける所以【理由】は、八束水臣津野命〔ヤツカミズオミツヌのミコト〕が、八雲立つのみこと〔御語〕を詔〔のり〕たまいき。故に『八雲立つ出雲』という。

 

島根半島を『国引き』して本土に結びつけたと言われている八束水臣津野命が「八雲立つ」と申されて以来「八雲立つ出雲」と呼ぶようになったそうだ。

 

「出雲」の名前の語源については、82代出雲国造〔こくそう〕の千家尊統氏の著書『出雲大社』の中に面白い説が紹介されている。

 

・出雲とは「美しい藻」

これは柳田國男の弟、松岡静雄氏の説で「イツ」は美称、「」は海中の藻です。『出雲国風土記』には、海松〔ミル〕や黒珊瑚などの材料となる藻を産する、とあるそうです。

 

・「神聖な藻」という意味

これは「イヅ」は「厳、いつき〔斎〕・神聖な」な藻ということです。

 

・「五面イツオモ:五つの面から来た説

面〔オモ〕とは、市とか郡とかの一区域の土地。五面〔イツオモ〕とは、八束水臣津野命が『国引き』された支豆支〔きづき〕・狭田〔さだ〕・闇見〔くらみ〕・三穂〔みほ〕の四地域です。それに宍道湖・中海に南面する平野部を加えると「五面〔いつも〕」となる。

支豆支〔きづき〕は「杵築」の濱の杵築、狭田〔さだ〕は佐太神社。三穂〔みほ〕は美保の崎の美保。出雲とは、この五つの地域から成るという意味。

 

・アイヌ語の語源説

アイヌ語で「岬」は「エツetu」、「モイmoi」は「静かなところor港湾」から、エツモイからエツモ、さらにイヅモに変化したという説。金田一京助説では

「岬はアイヌ語でエンルムがイヅモになったという方が可能性がある」

と説いているそうです。

 

・「イヅモ」は「夕つ方〔も〕」の説

これは白鳥庫吉氏の説で、大和を中心にして見ると東国はアヅマというのですが「アヅマ」とは「朝つ方〔も〕・アサツモ」のこと。これに対して「イツモ」というは「夕つ方〔も〕」で「西の国」という意味。

 

・本居宣長の説

イデクモ〔出雲〕」の「デク」が縮まって「イヅモ」なったという説。または「イデクモ」の「ク」が脱落したという説があります。

 

『説文解字』11下には『山川の气なり』とあり、『出雲国風土記』にも「國之大体首震::尾坤:::。東南山西北属海」国のおおかた、ひむがし〔東〕をはじめとし、にしみなみ〔西南〕をおはりとす。東南は山、西北は海に属す」とあり、東南の山々、その間を流れる斐伊川などの河川、西北の日本海からの『山川の气』から、モクモクと雲が湧き立つ國・出雲という解釈になる。

 

「出雲」という国名の由来は、雲が湧き上がる様子を表した語「稜威母(イズモ)」という説、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣では「いづも」であり「出鉄(いづもの)」から来たという説もある。

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

島根県の東部に位置し、北は日本海に面する出雲半島、中央部に出雲平野、宍道湖、松江平野、中海を含む地峡部、南部に中国山地の山間部があり、東は伯耆国、南は備後国、西は石見国に接します。

 

出雲国は『日本書紀』推古紀25(617)年の記事が初見です。『出雲国風土記』には、意宇(いう)郡、嶋根(しまね)郡、秋鹿(あいか)郡、楯縫(たてぬい)郡、出雲(いずも)郡、神門(かんど)郡、飯石(いい し)郡、仁多(にた)郡、大原(おおはら)郡の9郡があり、後に意宇郡から能義(のぎ)郡が分かれて10郡となりました、とある。『和名抄』は「以豆毛(いずも)」と訓じています。

 

この「いずも」は

(1) 八束水臣津野命が「八雲立つ」といったことによる(『出雲国風土記』)

(2) 厳雲」から(吉田東伍『大日本地名辞書』)

(3) 出で雲」から

(4) 厳藻(いつも)」(美しい藻が生える土地)から

(5) 国引き神話にちなむ「五面」から

(6) 「イ(接頭語)・ツモ(ツマの転。端)」の意

(7) 「厳面」(崖のある地)の意

(8) アイヌ語「エツモイ(岬、入江)」から

 

などの諸説があります。

 

この「いずも」は、マオリ語の「イツ・マウ」、ITU-MAU(itu=side; mau=fixed,continuing,established,caught,captured,retained)、「国土を引いてきて固定した 場所のそば(の地域)」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)、または「イ・ツモウ」、I-TUMOU(i=beside,past tense;tumou,tumau=fixed,constant,permanent,slave)、「国土を引いてきて固定した場所のそば(の地域)」の転訛と解します。

 

なお「八雲立つ(やくもたつ)」は、マオリ語の「イア・クモウ・タツ」、IA-KUMOU-TATU(ia=indeed,current;kumou,komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering;tatu=reach the bottom,be at ease,be content)、「実に埋み火に灰を盛ったような(なだらかな)山がゆったりと休んでいる(国)」の転訛と解します。