2022/11/30

日本らしく負けた(サッカーW杯2022・カタール大会)(2)

グループステージ第2節

緒戦でドイツに「歴史的勝利」を飾り、最高のスタートを切った日本。続く第2節は、勝てば決勝トーナメント進出が濃厚となる大事な戦いだ。

 

対戦相手のコスタリカは、ランキングなどを額面通りに見ればドイツよりは遥かに格下と見るべきだが、逆に言えば「負けて元々」だけに気楽に戦えた(?)とドイツ戦とは違い、世評では「勝てる相手」ということになっているだけに、その分プレッシャーがかかる状況ではある。

 

ドイツに勝ったという自信と勢い」が勝るか、逆に「決勝トーナメント進出が目の前にちらついてきたことによるプレッシャー」に押し潰されてしまうか、どちらに転ぶかというところだが、結果は「格下」と決めつけていた相手に「0-1」で敗退。この結果、1勝1敗となり、決勝トーナメント進出可否は最終戦に持ち越された。

 

緒戦のドイツ戦は深夜だったため観戦できず、翌日に結果だけ聞いたことから、より「まさか!」思いが強かった。それだけに

 

「今年の日本代表は、それほど強くなったのか?」

 

などと勘違いしてしまったとしても無理はない。

 

この勘違いのまま、この日は19時キックオフの生観戦に突入した。

 

なんと言っても「ドイツに逆転勝ちした日本」なのだから、これまでにない強い日本代表のサッカーを期待しての観戦となったのは、誰しも同じ思いであったろう。

 

ところが・・・である。

 

(なんだ、いつもの日本のサッカーと変わらんじゃないか・・・)

 

ボールポゼッションこそは高かったものの、消極的なマイナスパスのオンパレード、ペナルティエリアまで運びながら最後の決定力のなさ、ゴールに対する執念の欠如など、過去の「弱い日本代表の姿」そのままの展開に終始。片や、虎視眈々と狙っていたワンチャンスを見事に生かした相手との「決定力の差」を見せつけられる結末に終わった。

 

緒戦を観ていない自分としては、これでどうやってドイツに勝てたのか不思議なくらい、あまりに「日本らしいサッカー」だった。

 

とはいえ過去の大会でも書いてきたように、特別に日本代表に肩入れしているわけでもないワタクシとしては、むしろ「スペイン×ドイツ」や「フランス×デンマーク」、あるいは「アルゼンチン×メキシコ」などの方が観たかったのが本音ではあったが。

2022/11/26

緒戦で日本がドイツに歴史的勝利(サッカーW杯2022・カタール大会GS1)(1)

ワールドカップサッカー2022のグループステージ(GS)緒戦で、日本が過去優勝3度の強豪ドイツを破る大金星!

 

日本のF組はドイツ、スペイン、コスタリカという顔ぶれ。この中で唯一、力の劣るコスタリカには十分勝つ可能性はあるが、ヨーロッパを代表するサッカー強国であるドイツとスペインには歯が立たないとみるのが妥当だった。よっぽど相手の調子が悪かったり、日本に神風が吹くような展開になって、なんとか引き分けに持ち込めれば御の字、というのが順当な見方だったはずだ。

 

しかも、また勝ち方が良かった。ドイツに先取点を許した後の逆転なのである。これまでなら、試合序盤で相手にまだエンジンがかからないうちに先取点を奪ったとしても、90分間の中でいずれ地力に勝る相手にひっくり返されるというパターンはイメージできたが、このような逆の展開は全く予想もしなかった「強豪国の勝ちっぷり」だけに、まことに驚きしかない。

 

もちろん、まだ「たったの1試合」が終わったばかりだから、現時点であれこれと論評するのは時期尚早に過ぎるとはいえ、なにしろ相手があのドイツなのだから、何と言っても緒戦でこの相手に勝ったのは大きい。

 

極端にいうなら、結果的にもしGSで敗退したとしても、「ドイツに勝った」ということだけでも歴史に残りそうな快挙なのである。まあ折角ドイツに勝ったからには、この先も好成績での予選突破が期待されるのだが。

 

思い起こすせば、日本がW杯に初出場した1998年大会。当時は、どう贔屓目に見ても他の出場国とのレベル差がケタ違い過ぎて、まことに目を覆いたくなるシロモノだったが、あれから四半世紀。その間、多くの中心選手が、海外の一流クラブで揉まれてきたのはご存じのとおりだ。その結果として、かつては「地球の裏側にあるサッカー不毛の地」と言われた日本やアジア諸国も、遂に「世界のトップレベル」に肩を並べつつあるのか。あるいは、緒戦はたまたまドイツの調子が悪かっただけで、日本としては出来過ぎの結果に過ぎなかったのか。その答えは、この後の試合で証明される。

 

その他では、ブラジルに次ぐ優勝候補の呼び声が高かったアルゼンチンが、かつては日本や韓国らとともに「草刈り場のアジア勢」と揶揄されたサウジアラビアに敗退したのが、日本-ドイツ戦と並ぶ番狂わせといえる。これまでの大会であれば、一つ勝てば上出来くらいだった草刈り場のアジア勢が、早くも2勝だ。しかも相手が、揃って複数回の優勝経験を持つ強豪なのである。

 

まだまだ「緒戦」ではあるが「たかが緒戦、されど緒戦」でもある。GSが終わった時に「あの緒戦の負けが・・・」という悲劇は毎回つきものだけに、序盤とはいえ目が離せないのだが、時差がなぁ・・・

2022/11/24

西ローマ帝国の滅亡(3)

東西分担統治の開始

284年に皇帝に即位したディオクレティアヌスは、皇帝権を分割した。彼は自身を東方担当の正帝とする一方、マクシミアヌスを西方担当の正帝とし、ガレリウスとコンスタンティウス・クロルスをそれぞれ東西の副帝に任じた。この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、首都ローマから分離した前線拠点を作った。西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現在のミラノ)と、コンスタンティヌスのアウグスタ・トレウェロルム(現在のトリーア)であった。30551日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。

 

コンスタンティヌス1

西帝コンスタンティウス・クロルスが306年に急逝し、その息子コンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝)がブリタニアの軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、危機が訪れた。

 

308年、東ローマ帝国の正帝ガレリウスは、カルヌントゥムで会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と、リキニウスという名の新参者とで、権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。

 

東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは314年までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが324918日にクリュソポリス(カルケドンの対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。

 

テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国は度々東西に分割統治されるようになった。

 

再分割

コンスタンティヌス1世の代には、ローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、同帝が337年に死去すると、3人の息子たち(コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス1世)が共同皇帝として即位し、帝国には再び分担統治の時代が訪れた。コンスタンティヌス2世はブリタンニア、ガリア、ヒスパニア等、コンスタンティウス2世は東方領土、コンスタンス1世はイタリア、パンノニア、ダキア、北アフリカなどを統治したが、まもなくその三者の間には内乱が勃発した。

 

まずコンスタンス1世が、コンスタンティウス2世を340年に打ち破って西方領土を統一したが、そのコンスタンス1世も350年に配下の将軍であったマグネンティウス(僭称皇帝)に殺害された。

 

351年、コンスタンティウス2世が僭称皇帝マグネンティウスを打ち破り、353年にマグネンティウスが自殺することによって、コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は、拠点をメディオラヌムへと移した。しかしコンスタンティウス2世が、サーサーン朝ペルシアとの争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だったユリアヌスが軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、360年には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された。

 

ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、361年にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、ユリアヌスが唯一の正帝となった。ユリアヌスは363年にサーサーン朝ペルシアとの対戦中に戦死し、ヨウィアヌスが皇帝に選ばれたが、364117日にアンキラで死亡した。

 

ウァレンティニアヌス朝

皇帝ヨウィアヌスの死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。364年に即位したウァレンティニアヌス1世は、直ちに帝権を再び分割し、東側の防衛を弟ウァレンスに任せた。東西のどちらの側も、フン族やゴート族をはじめとする蛮族との抗争が激化し、なかなか安定した時期が実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教を信仰する異教徒による政治的な反撥であった。

 

ウァレンティニアヌス1世は、古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、その子グラティアヌスは379年初頭にローマ皇帝として初めてポンティフェクス・マクシムス (pontifex maximus)の称号を止めている。ポンティフェクス・マクシムスの称号はローマ教皇に移行し[いつ?]382年にはローマ神官団 (pontifices) やウェスタ神殿の巫女から権利を剥奪し、アウグストゥスによって設置されていた女神ウィクトリアの勝利の祭壇も元老院から撤去した。

 

テオドシウス朝

388年、実力と人気を兼ね備えた総督マグヌス・マクシムスが西側で権力を掌握して、皇帝として宣言された。グラティアヌスの異母弟である西帝ウァレンティニアヌス2世は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝テオドシウス1世に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。テオドシウス1世は391年まで西側に滞在し、西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。

 

3925月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、同年8月に元老院議員のエウゲニウスが西帝となったが、394年に息子ホノリウスに西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。テオドシウス1世は、ホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、395年に崩御するまでの4ヶ月間、東西の両地域を実質的に支配した。一般にはテオドシウス1世の死をもってローマ帝国の東西分裂と呼ばれるが、これは何世紀にも渡って内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。

出典 Wikipedia

2022/11/20

エッダと北欧神話の世界(1)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 通常ヨーロッパの神話というと、南欧のギリシア・ローマ神話に対して北欧のケルト・ゲルマン神話という言い方がされますが、じつはこの「ゲルマン神話」と呼ばれているものは、北辺の島アイスランドに残された歌謡集「エッダ」が今日残されている唯一の資料であり、内陸部のゲルマン人についてはほとんど資料がなく、「陸のゲルマン人」の信仰形態は、ほとんど分かっていません。私たちが持っているのは北欧の「島のゲルマン人」、つまり端的に言えばスカンディナヴィア地方からアイスランドに流れたゲルマン人のものだけなので、従ってむしろ「北欧神話」という言い方をしたほうがいいとされます。

 

 ただし、ここではケルト神話と区別する意味もあって「ゲルマン神話」という言い方もしていきます。そして、この「ゲルマン人」というのが現在の西欧各国の民族となっているということを、しっかり理解しておきましょう。

 

 「エッダ」以外の資料としては、わずかにローマの間接的な資料がありますが、そこではドナール(トール)が「雷神」と捕らえられて「ジュピター」と同一視されていたり、ウォーダン(オーディン)がメルキューレと、ティウツ(ティール)が軍神マルスと同一視されていたことくらいしかわかりません。ただ、これからでも上記の三神が主要神であったのだろうということと、その性格がローマ人にどのように捕らえられていたかが伺え、彼らの本来の神格の一端が見えるということは言えるでしょう。

 

ゲルマン民族

 現在の西欧人の祖であるゲルマン民族の起源はよく分かっていませんが、インド・ヨーロッパ語族の一つであり、紀元前1000年頃現在の北ドイツ辺りに集落を形成した部族とされます。そして先行民族のケルト民族を押しのけて、拡大していったと考えられています。このゲルマン人が歴史に登場するのは、やはりギリシア・ローマとの関係が生じてからで、紀元前100年代になってローマと事を起こしているのが歴史的最初となります。

 

 やがて、北ヨーロッパから中央部にかけて、多くの部族にわかれて各地に点在するようになり、紀元前二世紀頃には彼等はローマに傭兵として雇われたりしてローマの内部に入り込み、小作民や下級官吏になったりする者も多くなっていたようです。こうしてゲルマン民族が、やがてローマ帝国に入り込む素地ができあがっていったわけです。

 

 そして紀元後372年ころ、東北の方にあったアジア系の部族フン族が西に移動を開始し、フン族は有能な族長アッティラに率いられて勢力を伸ばしてローマ帝国領内に侵入、さらに西に勢力を伸ばすほどの勢いを持っていました。

 

 そのため、フン族に近い土地にいた内陸ゲルマン民族の東ゴート族が弾き出される格好で西に移動せざるをえなくなり、玉突き状にその西にいた西ゴート族が押し出され、ここにゲルマン民族の大移動がはじまりました。その結果、ローマ帝国の西半分は移動してきたゲルマン人に乗っ取られ、ゲルマン人の国になってしまったのでした。これが、現在の西欧諸国の始まりとなるわけです。

 

 ですからゲルマン神話を見るということは、現在の西欧人(南欧と東欧の源流はゲルマン人ではないので除かれる)の心性・精神の源・伝統を見るということに繋がるわけですが、早くからキリスト教化した内陸部のゲルマン人は、その民族の精神の伝統を伝えることをしませんでした。とはいっても人間の心性・精神はそんなに簡単に変わるわけもなく、自分たちの伝統をキリスト教の習俗に巧みに残しているのですが(たとえば、クリスマスや曜日の呼び名など)、言葉として伝えることがなかったために、その全容を知ることができなくなってしまったのです。

 

 他方、北欧から西域のゲルマン人は、キリスト教化するのが9世紀から11世紀と遅く、そのためここには伝統的な神々の神話が保持されていました。その具体的なものが、1200年代に「スノッリ」という文学者によってかかれた「エッダ」であり、それによってゲルマン人の神話の大筋が知られ、さらにそのスノッリが資料としていた古代神話が、1600年代の半ばにアイスランドで発見された歌謡群に見いだされて、北欧神話が甦ることになったのです。

 

 しかし、これは当然「島のゲルマン人」によるもので、内陸のゲルマン人のものとは大分異なっていることが考えられ、さらに伝承自体が「歌謡群」ですから相互に独立的で統一されているわけもなく、写本も時代的に隔たっていますから時代的影響も異なり、容易に統一的に全体を見ることができません。現在の研究では、たとえばノルウェーでは「トール神」が主神であったと考えられるのに対して「歌謡集」では「オーディン」が主神の位置にいるなど「神格」の変容もあって複雑とされています。

 

「エッダ」

 とにかく北欧神話の主要資料は、その「歌謡集」に尽きていますので、北欧神話とは「エッダ」ということになるので、簡単にそれを説明しておきます。

 

 アイスランドは本土に遠かったためか、キリスト教の伝播も遅く弱かったようで、おそらくかなり早く大陸から流れてきたゲルマン人は、長く彼らの伝統的精神を保持してその神話も伝えていました。どの民族の神話も、原型は「歌謡」の形で謳われていたものと考えられますが、ここではそれがそのまま文字化されています。その文字化は、紀元後の9世紀から13世紀にかけてとされます。

 

 その後、13世紀にアイスランドの政治家にして文学者であったスノッリ・ストゥルルソン(1178~1241)が詩の入門書という意味合いで、当時まだ民間に流布していた歌謡集をもとにして「エッダ」と呼ばれているものを著しました。さらに1600年代になって、スノッリが下敷きにしていたと思われる歌謡群が発見されたのです(ただし、一部スノッリにあって歌謡集に見つかっていない物語もあるので、すべての歌謡が発見されているわけではないらしい)。

 

現在、この二つを共に「エッダ」と呼んでいますが、両者を区別して、原型の方を「古エッダ」「歌謡エッダ」などと呼び、スノッリのものを「新エッダ」「散文エッダ」ないし著者の名をとって「スノッリのエッダ」などと呼んでいます。ただし、世に出た順序から言えば、スノッリのものの方が先でしたが、原型の歌謡集は元来名前などなかったものですから、集大成の形としてスノッリにならって「エッダ」と呼ぶようにしたというわけです。

 

 ただ、「エッダ」という言葉の意味はよく分かっておらず、「曾祖母」という意味で老婆が孫たちに語り伝える話という意味であろうとか、あるいは「エッダ」という発音はスノッリが若い頃勉強していた土地「オッディ」の所有格型で、したがってこれは「オッディの書」と訳されるものだとかの解釈があります。

 

 他方「古エッダ」とされたものは、1643年にアイスランドで発見された30編ほどの歌謡と、それに加えて後に発見された歌謡・英雄伝説の集大成となります。現在では、40ほどの歌謡の集大成となっています(編集者によって数が異なる)。個々の歌謡が何時どこで形成されたのかなど詳しいことは分かっていませんが、アイスランドや一部ノルウェーで書かれたものかと考えられています。内容は「神々の物語」「英雄物語」「箴言」と分けて考えられますが、これは多くの神話に共通しています。

2022/11/15

西ローマ帝国の滅亡(2)

西ローマ帝国は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である。

 

一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降のローマ帝国の西半分に関して用いられることもある。

 

概要

395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。

 

西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる47694日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。ただし、それをもって西ローマ帝国の「滅亡」と見なすべきでない、として学問分野より見直しが求められている(後述)。西ローマ帝国の領域は、中世においてもギリシア化を免れ、古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。

 

西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化されてローマ化し、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用して、自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた。

 

なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。

 

複数の皇帝による帝国の分担統治は、ディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は、現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。

 

背景

共和政ローマが版図を拡大するにつれて、ローマに置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制(クルスス・プブリクス)で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため属州は、共和政ローマの名のもとに、実質的には属州総督によって統治された。

 

帝政が始まる少し前、共和政ローマの領土は、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治により分割統治されていた。

 

アントニウスは、アカエア、マケドニア 、エピルス(ほぼ現在のギリシャ)、ビテュニア、ポントゥス、 アシア、シュリア、キプロス、キュレナイカといった東方地域を手に入れた。こうした地域は、紀元前4世紀にアレクサンドロス大王によって征服された地域で、ギリシャ語が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。

 

これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在のイタリア半島)、ガリア(現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一部)、ヒスパニア(イベリア半島)である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧カルタゴの植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域ケルティベリア人(ケルト・イベリア人)のように、文化的にケルト人に支配されている地域もあった。

 

レピドゥスはアフリカ属州(現在のチュニジア)を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。

 

アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、一時的に東方を代理として支配した。同じことはティベリウスが東方に行った際に、甥に当たるゲルマニクスによって行われた。

 

反乱と暴動、政治への波及

西方において主な敵は、ライン川やドナウ川の向こうの蛮族だったと言ってよい。アウグストゥスは彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。一方で、東方にはパルティアがあった。

 

ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して、新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境に入ることができなかった。この問題は、後の多くの皇帝を悩ますことになった。

 

ガリア帝国

235318日の皇帝アレクサンデル・セウェルス暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。今日では軍人皇帝時代として知られている。259年、エデッサの戦いでサーサーン朝との戦いに敗れた皇帝ウァレリアヌスは、捕虜となりペルシアへ連行された。ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあったガッリエヌスが単独皇帝となったが、混乱に乗じて、ローマ帝国の東地区で皇帝僭称者が相次いだ。

 

ガッリエヌスが東方遠征を行う間、息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスに西方地区の統治を委任した。サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:ケルン)に駐屯していたが、ゲルマニア属州総督マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスが反逆、コローニア・アグリッピナを攻撃し、サロニヌスを殺害した。ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、ローマ皇帝を僭称する。このポストゥムの政権が、後にガリア帝国と称されている。

 

首都はアウグスタ・トレウェロルム(いまのトリーア)で、この政権はゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復した見られ、ヒスパニアやブリタンニアの全域に及んだ。この政権は独自の元老院を有し、その執政官たちのリストは部分的に現在に残っている。この政権はローマの言語、文化を維持したが、より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。

 

273年にパルミラ帝国を征服した皇帝アウレリアヌスは翌274年、軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝のテトリクス1世及びその息子のテトリクス2世との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した二人にイタリアでの重要な地位を与えた。

2022/11/06

西ローマ帝国の滅亡(1)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html

 さて、ここでパパッと西ローマ帝国を滅ぼしましょ。

 

 フン族という遊牧民族がありました。これが東方から黒海北岸あたりに移動してきました。4世紀中頃のことです。

 

 時代は遡りますが前2世紀中頃、ローマでグラックス兄弟が改革を試みていた頃、ユーラシア大陸の東端、中国では漢帝国が栄えていました。武帝という皇帝の時代です。この以前から、中国北方の草原地帯では匈奴という遊牧国家があって中国を圧迫していたんですが、武帝の時代になって初めて北方遠征で匈奴に勝ちます。

 

 負けた匈奴は漢に追われる形で、西に移動を開始しました。400年かけて、ゆっくりゆっくり移動した。途中に出会った他の遊牧グループと合体したり吸収したりしながら移動したんだと思います。これがフンという名で、ローマの歴史に登場するのです。匈奴は「きょうど」と読んでいますが「フンヌ」とも読めるんですね。匈奴とフン族は、同じモノだろうといわれています。

 

ローマ帝国の北方から黒海北岸には、ゲルマン人が住んでいました。彼らは部族単位で農耕牧畜なんかをして生活していたんですが、そこに東方からフン族が移動してきた。玉突き状態になって、ゲルマン人は部族単位で次々に西へ移動を開始しました。これが375年に始まる「ゲルマン民族の大移動」です。

 

 フン族に追われて移動するゲルマン人は、現代風に言ったら難民ですね。これが安住の地を求めてローマ帝国内に入ってこようとしました。

 

 以前からゲルマン人の中にはローマ帝国内に移住して生活するグループや、ローマ軍の傭兵となる者なども結構いました。強引にローマ帝国内に集団移住しようとするグループもあって、ローマ皇帝はしょっちゅう辺境で戦っています。しかし、今度は規模が違う。大量のゲルマン難民がどっと流れ込んできたら、ローマ社会は大混乱になることは目に見えています。東ローマ帝国はなんとか国境防衛に成功し、ゲルマン人が侵入するのをくい止めることができましたが、西ローマはこれに失敗した。

 

 次々になだれ込んでくるゲルマン人で、西ローマ帝国は大混乱。最後の西ローマ皇帝は親衛隊長のオドアケルに廃位されて滅亡しました(476年)。オドアケルはゲルマン人出身の男です。

 

 ゲルマン人は部族単位で西ローマ帝国のあちこちに勝手に建国し、さらにお互いに戦い合います。たとえばガリア地方北部に侵入したフランク族は、フランク王国を作る。これが現在のフランスのもとです。ローマ人たちは、この新しい野蛮な支配者となんとか折り合いをつけて生活するしかなかったんでしょうね。長引く混乱の中でローマ時代の高い文明は崩壊し経済も停滞し、やがてローマ人はゲルマン人と混血していきます。これが現在のイタリア、フランス、スペインあたりの状態でした。

 

生き延びた東ローマは、ユスティニアヌス帝(位527~565)の時代に一時期勢力を盛り返します。ユスティニアヌスは、イタリア半島やアフリカ北岸に建国したゲルマン人国家から領土を奪い返しています。東西分裂以前に近い領土を支配しました。

 

 それからユスティニアヌスは、ローマ法大全を編纂させていることでも有名でしたね。彼の時代は、古きローマ帝国の最後の輝きといえるでしょう。

 

 これ以後、東ローマ帝国の領土はどんどん縮小していきます。呼びかたも首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムから取ったビザンツ帝国と言うのが一般的。この後もローマ帝国の理念はビザンツ帝国で生き続けますが、実質的な中身は違うものに変化していると考えた方がいいです。平安時代と鎌倉時代では、同じ日本でも政治の仕組みがまるで違うようにね。

2022/11/04

ズルワーン教

ズルワーン教は、ゾロアスター教の滅びた分派。ズルワーン神を崇拝する宗教。ズルヴァーン主義、拝時教、ゾロアスター教ズルワーン派などとも呼ばれる。

 

概要

一般的には、サーサーン朝ペルシアの国教はゾロアスター教であるとされている。しかし現代に伝わる(二元論的な)ゾロアスター教と、同時代外国語資料に現れるサーサーン朝の宗教にはずれがあり、後者はズルワーン主義(ズルワーン教、ズルワーン派)と呼ばれる。

 

ゾロアスター教に関する資料は、以下の3時代に偏って存在する。

 

        原ゾロアスター教時代(紀元前1000年前後数世紀) - 原始教団によって保存され、6世紀に文字化された『アヴェスター』(アヴェスター語)

        ゾロアスター教ズルワーン主義時代(35世紀) - 外部資料(パフレヴィー語・アルメニア語・シリア語・アラビア語)とわずかな内部資料(ペルシア語)

        二元論的ゾロアスター教時代(610世紀) - 豊富なパフレヴィー語資料

 

このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、ズルワーン主義についても内部資料が少ないため、正確なことは分かっていない。ゾロアスター教ズルワーン主義と二元論的ゾロアスター教には、次のような差があると考えられている。

 

ゾロアスター教ズルワーン主義と二元論的ゾロアスター教の相違点

35世紀のゾロアスター教ズルワーン主義

69世紀の二元論的ゾロアスター教

最高神

時間の神ズルワーン

善神オフルマズド
悪神アフレマン

宇宙論

ズルワーンから善神オフルマズドと悪神アフレマンが自然発生
悪神が善神に挑む

悪神が善神の王国に侵入

神々

アマフラスパントらが善神に助力
悪神も7悪魔で対抗

アマフラスパントやミスラ神が善神に助力

二元論

は精神界・物質界双方に宿る
は物質界のみ

善悪が物質界・精神界双方で対峙

人間論

善神により創造
死ぬことで悪魔を滅却する悲劇的存在

悪との闘争のため善神が創造
最終的に勝利する

終末論

善悪の闘争はすでに決着済み
人間は悪の要素と心中し、最終的な復活がある

善が悪を圧倒・封印
宇宙と人間は幸福に包まれる

 

ズルワーンは、「無限なる時間(と空間)」「アカ(一つの、唯一の)物質」「運命」「光・闇」の神。語源はアヴェスター語「時間」「老年」を意味する「zruvan-」。サンスクリット単語の「サルヴァ」(sarva)と関係し、どちらも一元論的な神を記述する上で同様の意味領域を持つ。ラテン文字表記は、中世ペルシア語では「Zurvān」、「Zruvān」、「Zarvān」など、標準化された発音では「Zurvan」となる。

 

ズルワーン主義におけるズルワーンは、「双子の兄弟」、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の親。性を持たず(中性)、感情を持たず、善悪どちらにも傾かない中立的な創造神。原ゾロアスター教ではアフラ・マズダーが超越的な創造神で、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの二柱が双子とされていた。

 

ズルワーン主義はサーサーン朝期(226-651年)に国家承認を受けたが、10世紀には滅亡していた。サーサーン朝期のズルワーン主義は、ヘレニズム哲学から影響を受けていた。

 

ゾロアスター教が最初にヨーロッパに到達したとき、一元論的宗教だとみなされた。これは学者や現代ゾロアスター教徒からも異論の多い言明だが、ズルワーン主義に対して非ゾロアスター教徒が評価を加えた最初の例となる。

出典 Wikipedia

2022/11/02

ケルト神話(3)

 出典http://ozawa-katsuhiko.work/

 こんな状況にブレスへの一族の反感は強まっていき、七年経ったところで遂に彼を王位から追放することとした。一方、片腕を失っていた先の王ヌアドゥは医術の英雄「ディアン・ケーフト」によって銀の腕を付けてもらい、さらにその息子の「ミアフ」によって筋肉と腱を付けてもらって腕を回復していた。そこで一族は、再びヌアドゥを王に復活させたのであった。

 

 しかしヌアドゥは、ある時宴会を催している最中に来訪して、彼の前で万能の力を見せた「ルー」に王位を譲る決意をした。このルーの父親は確かにダーナの一族の男であったが、母親というのが「フォヴォリ」の王であったバロルの娘であった。

 

 このルーに率いられたダーナの一族は、やがて「バロル」に率いられたフォヴォリの一族と戦いとなっていった。ルーは祖父に当たるバロルに対して、素晴らしい戦い振りを見せていった。ルーは当初、仇敵バロルの血を引いているということで戦いに出られないようダーナの一族によって幽閉されて見張りを付けられていたのに、いざ戦いが始まると易々とその囲みを抜け出して戦場に現れ、片目・片足となって踊りつつ魔法の歌を歌って全軍を鼓舞して回った。またルーの祖父でフォヴォリの王バロルは一つ目の巨人で、しかもその目は四人がかかりでしか開けられない目蓋で閉じられていた。というのも、その目に睨まれた者は無力となってしまうので、うかつに開けていられないからであった。先の王ヌアドゥは、果敢にもこのバロルに立ち向かっていったが、バロルに討ち取られてしまった。

 

 こうして王ルーは祖父バロルに立ち向かうことになり、悪口を浴びせ、それに応じて目を開けてきたバロルに対して石を投げつけ、その一つ目に命中させた。強力なその石はバロルの目を頭から突き抜かせて後方に飛ばし、その目はフォヴォリの軍勢の目の前に落ち、そのためフォヴォリの軍勢は皆無力となって遁走していった。こうしてダーナの一族は勝利し、アイルランドを支配し続けた。

 

 やがて「ミレシウス」がやってきて戦いとなり、ダーナの一族は敗れて、そこで地上をミレシウスに譲って自分たちは地上を退き「異界」に住むことにしたという。しかし彼らは聖霊として常に人間たちに関わり、時に応じて豊壌を送ってきたり、気にくわない時には争いを引き起こしているという。

 

 この最期の「異界」に関しては「聖霊・妖精達の国」と考えてもよく、ケルト神話・民話に出てくる「楽園」と見なしてもいいのかも知れません。ここは時空を越えた場所で「聖霊・妖精たち」が住み、平和で苦しみもなく穏やかな国で、もし人間がここに来て歓待されて、やがて人間界に戻ってみると何百年も経っていたという、日本の「浦島太郎」の物語に相当するような話もあります。

 

 ダーナの一族が破れて退いても、地上に影響を与え続けているということはダーナの一族こそがアイルランド人にとってのかつての神々であり、キリスト教の伝来と同時にその神の位置こそ退いたけれど、アイルランド人の中に生き続けるということの意思表示であって、こんな形で神話を残した「島のケルト民族」の先祖に対する熱い思いを感じ取ることができると言えます。

 

 以上に見られるように、一見これは「人間の物語」そのもので部族の支配交代の物語となり、それは多分歴史的にはそうに違いないと思われますが、同時にこれが「神々の物語」でもあるのです。ここでの物語の「英雄」が、それぞれ「ダヌー女神の子孫」なのであって、彼ら自体が「神」として描かれているのでした。そして恐らく古代にあっては、彼らがそのまま崇拝の対象となって祭儀を持っていたと考えられます。

 

 この構造は、日本の『古事記』の神の場合にも当てはまります。そして、これはある意味でギリシア神話にも当てはまるところがあり、神話というものの多くがこうした構造をもっていると言えます。つまり「人間のことは神のこと」「神のことは人間のこと」というわけです。神と人間とが厳然として、その存在のあり方が異なるとされるのは「ユダヤ・キリスト教・イスラーム」においてのことであり、古代人にとっては「神」はもっと人間に身近なものだったのです。

 

神は自然の力であり、その自然の力は人間の内にもあるからです。武力一つとってみても、それは人間がもっているものですが、それに強弱があり、その根源の力は自然力にあり、それを強く体言している英雄がそのまま神として敬われることになるというわけで、近代日本ですらそうした現象があり「乃木大将」がそのまま「乃木神社の祭神」となり「東郷大将」は「東郷神社の祭神」というわけでした。また「菅原道真」が「天神」として祭られ、やがて「学問の神」とされているのも同じ構造です。こうした見方が古代ケルトにもあったというわけですが、これはギリシア神話にもあり、多くの古代人に共通の神観念であったと言えるでしょう。

 

 ですから「神」の代表的なものは「豊作」を司り、「勝利や武力」を司り、また「知識や詩」を司り、「技芸」を司り、「美や愛」を司るものなのです。この力の象徴が「神」なのであり、従ってこれを強く示しているものは「神的な存在」なのです。このケルトの物語においてもそうなのであり、「女神ダヌー」というのは要するに「豊壌の大地母神」といえ、上の物語に出てこなかったその他にもたくさんの「神々」がいて、様々の物語の中で活躍しています。たとえば「知識と詩の女神」としては「ブリギト」が、「死の女神」で鴉の姿となって戦場に現れる「モリガン」とか、「技芸の神ルー」とか「海神マナナン」などが様々の物語の中で活躍してきます。

 

 ただしギリシアの神のように、その役割や性格・姿が明確・一定しているわけではありません。ケルト神話は神々と人間、妖精、木々や動物が自在に交叉していて、神かと思うと人間に、人間かと思うと妖精に、動物だと思うと人間だったりという具合になっているのです。この性格はもちろんギリシア神話にもあり、神話というものの特徴とも言えますが、この自在さ(何でもあり)という性格がケルト神話には強いということです。これはギリシア神話が詩人達によって意図的に展開されていったのに対して、ケルトではそうした展開がなかっただけに、神話というものの「祖型」が保たれているとも言えます。