2009/05/28

医者(4)(2005年版)

ウオノメは相変わらず宿痾として抱えていたが、それとは別に同じ足の裏になにか大きな瘡蓋のようなモノが出来ているのに気付いたのは、それから数年後のことだ。

 

ウオノメとは違い、こちらは痛みもないのをよいことに、しばらく放置していたが

 

(なにか内臓疾患の予兆が、足の裏に出ているのかもしれん・・・)

 

という心配が頭を過ぎり、重い腰を上げて病院へ行く事にした。

 

例によってネットで医療機関を検索していると、その日に限って形成外科がどこも休診のようである。翌日以降に廻すという手もあったが、こうなると乗りかかった船とばかり、今度は皮膚科で検索をした。すると、ここでも「東大医学部卒」の医師を発見してしまったのだ (゜艸゜;)フ゛ッ

 

前回で「学者バカの東大医学部医師」には懲りたはずだったが、やはり「院長紹介」を見て「東大医学部卒」と「三流私大医学部卒」を比べると、どうしても前者を選んでしまうのである。

 

実はそれにはわけがある。高校の同級生で実家から眼と鼻の先の近所に、歯科開業医の息子がいた。当然のことながら、生まれながらにして歯科になるべくレールを敷かれた境遇だが、このMという男が出来が悪く常に成績下位に位置していた。

 

学区トップの進学校だけに医師の子息が数人いて、それぞれが国公立大医学部に進学していく中で、Mは国公立大学の歯学部にも入ることが出来なかった。

 

国公立大学とは言え歯学部だから、医学部とは比較にならないレベルだったから、その歯科に通っていた近所の同級生らからも

 

「あいつが歯医者になったら、とてもじゃねーが怖くて任せられん」

 

と散々にバカにされていたものだったが、3浪しても新潟にも岡山にも受からず、結局はレベルの低い地元の私大歯学部にやっとこさ入学を果たした、と皆から陰口を囁かれかれたものだった。

 

身近にそのような例があったせいか、どうしても「院長紹介」で「三流私大医学部卒」などを見ると「東大医学部卒」を選んでしまうのも、無理からぬとこだろう。なんと言っても人並み外れた能力を持ち、相当な努力をしてきたのは疑いがないのだ。

 

結果的に、この時も「東大医学部卒、東大病院勤務を経て開業」が院長(といっても、医師は院長一人だが)の病院へ行った。

 

瘡蓋のようなできものは「湿疹、かぶれのようなものではないか」と診断され、同時に診てもらったウオノメの方は、いつもの型どおりスピール膏を出してくれるものと思っていたが、案に相違して細い鑢のようなもので削り始めたではないか。

 

時、あたかも冬。ウールの靴下を脱ぐと、足の裏は抜けた靴下の毛で汚れていた。  その汚い足の裏を拝むような格好で「東大医学部卒、東大病院勤務を経て開業」の超エリート医師が、一心に足裏のウオノメを削り始めた ( *^艸^)ムププ

2009/05/27

春の信州

信州旅行は、ほぼ予定通りの充実した旅を堪能できた。

 

雨に祟られた初日は、昼過ぎに松本に到着。この日は天気が悪く寒かったせいか、上高地用に用意してきた上着を着ることになる。

 

国宝四城」制覇の最後の砦となっていた松本城を思う存分に堪能し、土産も買ったところで強い雨に祟られた。




「松本城だけでは終われぬ」と、篠付く雨を縫うようにして開智学校を見学し、夜は名物の馬刺しを肴に地酒を堪能した後は信州そばを食すと、露天風呂で星を見上げながら、満足のうちに1日目を終了。

 

2日目は長野市へ移動し、善光寺へ。

7年に一度のご開帳」とあって、思わぬ大混雑だ。

 

ご本尊「一光三尊阿弥陀如来」と紐で結ばれた回向柱に触るのには、実に1時間以上の行列で、続いて本堂拝観、昼食の天ざるそばと地酒に舌鼓を打ち、ご戒壇巡りを終えた時には既に夕方になっており、予定していた他のスケジュールまでには至らず、善光寺とともに暮れた一日となる。

 

長野から、のろい電車に揺られて松本に着いた時は、夜の9時になっていた。 ホテル近くの居酒屋で、旨い生で名物信州牛のしゃぶしゃぶを堪能し、ホテルの露天風呂とサウナで疲れを癒す。

 

3日目もホテルの朝食バイキングで、ガッツリと腹ごしらえをして出発だ。



松本から直通バスで上高地へ。


大正池で下車し、田代池などを通って河童橋へ。


標高15002000Kmの上高地だが、この日は用意してきた上着が必要のない暖かさと好天にも恵まれ、梓川に架かる上高地名物・河童橋脇の寒暖計は24℃を指していた。有名な河童橋越しに北アルプスの山々を望む絶景が、目の前に広がる。

 

河童食堂で山々の目の前に山賊定食に舌鼓を打ち、明神池へと足を伸ばした。



往復で2時間以上を費やす難行苦行で、明神池を往復した余勢を駆って上高地帝国ホテルを見学し、大満足で充実した信州の旅を終えた。

2009/05/24

信州ご開帳へ

善光寺の7年に一度の盛儀「前立本尊御開帳」が、今月末で終わるということで、遅まきながら信州旅行を計画した。なにせ7年後には、自分自身も世の中もどのように変わっているか、まったくわからない・・・という思いを強くしている今日この頃だけに、思い立ったが吉日なのである。

 

そして折角、高い足代を払って信州まで行くのだからと、城好きのワタクシはかねて待望しながら、まだ実現していない松本城にも寄る計画を追加した。日本に数ある城の中でも「国宝」に指定されているのは、僅かに4つ(他の3つは姫路城、彦根城、犬山城)しかないが、今回の松本城観覧が実現すれば遂に「国宝四城制覇」となる。国宝に対する拘りは別にしても、上京後は見応えのある城にはすっかり縁遠くなっていただけに、これも非常に楽しみだ。

 

さらに、これだけでは終わらない。欲張りなワタクシは、これまた是非とも行ってみたかった上高地(または美ヶ原)にまで、思い切って(といっても、松本からそんなに遠いわけではないが)足を伸ばす計画をも加えた。

 

6月以降、しばらく旅行シーズンはオフとなるだけに、ここは思う存分に「春の信州」を堪能してくるつもりなのである。

2009/05/23

インフルエンザのバカ騒ぎ

マスコミは「新型インフルエンザ」について、騒ぎ過ぎだ。かつての「コレラ」や「エイズ」のような「死の病」かと思えてしまいそうな、徒にパニックを扇動するかのようなマスコミのバカ騒ぎは、常軌を逸していないか?

 

そんなに大層な病気でもないのに、学校は休校になるわ外出禁止令は出るわ、ハタマタ勤め人は時差通勤を強制されるわで、挙句の果ては修学旅行などのキャンセルも相次ぐというバカバカしさである。罹患者の出た学校などで「1週間の休校」とニュースでやっていたが、たいした意味があるとは思えない。「1週間休校」したら、インフルエンザが総て駆逐できるのならともかく、そんなことは有り得ないのだから、これは単なる気休めに過ぎない。

 

では、1週間経ったらどうするのか?

どうせ休校(個人的には反対だが)までするのなら、インフルエンザが駆逐されるまで徹底しなければ意味がなく、1週間後には何も変わらずに元の木阿弥である。

 

外出禁止令や時差通勤にしても、インフルエンザに罹患したくない人々が自ら進んでこのような立場を取るのは良いとして、自治体や企業などに上から「自粛を強制」(無茶苦茶な日本語w)されている現状は、あたかも社会主義国の統制を見るようである。

 

「インフルエンザに罹患したくない」と思う者は、このような「統制」を行わずとも自ら予防に務めるだろうし、逆に良識のない者は「統制」の網の目を掻い潜ってでも遊興に耽ろうと構えるのが世の常であり、そのような愚か者は罹患を体験してこそ、自らの愚かさを身をもって経験するのである。

 

これこそ「愚者は体験に学ぶ」であり、「オレだけは大丈夫だ」とノー天気に構える愚者は、所詮自らの体験にしか学べない。そのような愚者が、ウィルスを蔓延させるではないかと言うなら、その予防対策はあくまで良識ある者の振る舞いに任されるべきであり、本来誰からも強制される筋のものではないはずである。

 

「新型インフルエンザ」は、アホなタレントのアホな騒ぎにようやく飽きた、マスコミが手に入れた「新しい玩具」としか思えないのは、ヒネクレモノのワタクシだけなのか?

2009/05/19

ベートーヴェンの食卓(「ロッシーニの料理」part6)


※「ロッシーニの料理」より引用

「言い忘れましたが、コルク栓は使う前にブランデーで湿らせておくように。
理由は2つあります。第1に、ボトルの口をきちんと閉じるために栓を湿らせる必要があります。第2に、乾いた栓がワインに悪い味を移すのを防ぐためです。しばしばそれが原因で、ワインの質を落としてしまうのです」(父ジュゼッペ宛の手紙、1834326日付より)

トリュフとフォアグラをこよなく愛し、料理の創作に情熱を注ぎ、世界各国の銘酒とともに美食三昧の日々を送ったロッシーニ。成功者の特権と言えばそれまでだが、少年期にボローニャの豚肉屋に寄宿させられ、肉屋の主人になるのが夢だったというから、やはり筋金入りの食通なのだ。

「ロッシーニが毎日20 枚ビフテキを平らげ、すごく太っている」

とスタンダールの書簡(18201222日付)に書かれているから、ロッシーニは28歳の若さで周囲も驚く大食漢になっていた。ならば、同時代の有名作曲家は、どんな食生活を送っていたのだろう。ここで寄り道して、ベートーヴェンの食卓を覗いてみよう。

ベートーヴェンと親しくつき合い、寝起きを共にしたこともある指揮者イグナツ・フォン・ザイフリートによれば、楽聖の好物はパンをどろどろに煮たスープで、生卵を割り入れ、かき混ぜて食べていたという。

独身のベートーヴェンは、家政婦に料理をしてもらっていたが、癇癪を起こして追い出すこともしばしば。そんな時は自ら市場に出向き、値切りに値切って一番安い食材を仕入れ、嬉々として自炊した。

ある日、彼は

「料理という高貴な芸術に、素晴らしい知識を持つ証拠を見せてやろう」

と豪語して友人たちを招いたが、出てきた料理は

宿屋の残飯を連想させるスープ」と「煙突で燻(いぶ)したような焼肉」だったという。

弟子のシンドラーによれば、ベートーヴェンはスープのほかにジャガイモを添えた焼き魚、仔牛肉、パルマ産チーズを添えたマカロニも好物だった。

酒は「オーフェン」というハンガリー・ワインを好んだが、普段は安い混合酒をがぶ飲みし、それが原因で腸を悪 くしたという。夕方ビールを1杯グッとやるのが好きとの証言もあるが、これではそこらのオヤジと変わらない。

 食生活の点では、明らかに悪食のベートーヴェン。だが、彼は質実剛健なドイツ人気質の持ち主で、食に代表される現世的快楽よりも芸術的理想を追求するロマン主義的人間だったのである。

その対極にあるのが「食べ、歌い、恋する」快楽主義のラテン気質。その意味でも、ロッシーニとベートーヴェンは正反対の人間だった。

生卵を混ぜたパンのどろどろ煮スープが好物だったベートーヴェン。貧しかったから、と即断してはいけない。彼の住むウィーンは、ヨーロッパ屈指の食道楽と大食の都、肉の消費量も他の大都市の23倍に上り、一般市民も頻繁にレストランで食事をしていたのだ。

中産階級に属するベートーヴェンも、生活水準は中の上。それでも彼は、見かけの豊かさの背後にある精神の貧しさが我慢ならず

「食べ、飲み、お喋りをして歌い、下劣な音楽を鳴らす」

市民生活を心から軽蔑していた。

その不満は、ウィーンを席巻したロッシーニ作品にも向けられる。

「いまやロッシーニでなければ夜も日も明けぬ、ロッシーニ万歳の時代だ。腑抜けで下手なピアニストや歌手、駄作が横行するから本物の芸術が損なわれているのだ」

 それでもベートーヴェンは、ロッシーニの音楽的才能、とりわけ喜歌劇におけるそれを高く評価していた。

1822年、ウィーンを訪れた30歳 のロッシーニにベートーヴェンが投げた次の言葉は、それを裏づける。

「ああロッシーニ!
 あなたですね《セビリャの理髪師》の作曲者は。
おめでとう、あれは素晴らしいオペラ・ブッファだ。スコアを読んだが、実に愉快だった。イタリア歌劇が存在する限り、上演され続けるでしょう。あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけませんぞ。他の分野で成功しようと考えたら、それはあなたの天分を歪めることになります」

2009/05/15

医者(3)(2005年版)

ある朝、ベッドから起き上がろうとすると、膝に激痛が疾った。

 

これまでにない経験であり、原因にも特に思い当たる節がない。前日に、特別になにか足に負担のかかるような作業をした、ということもないのだ。時間を掛け、なんとかベッドから起き上がりはしたものの、依然として膝の痛みを感じた。

 

起きた瞬間のあの激痛ほどではないにしろ、普通に生活していても痛むし、まして膝を曲げたりすると、かなりの痛みが疾った。そしてこの時、それまで意識した事はなかったが、日常生活の中で膝を曲げる必要というのが、案外と多い事に気付いたのである。

 

これほど日常生活に支障があるような痛みは困るし、ましてやこうなった原因にサッパリ思い当たらないだけに、病院で診てもらうことにした。こうなっては「医者嫌い」などとは、言っていられない。

 

とはいえ、これまで厄介になる医者といえば、年に1度程度の風邪くらいだから内科くらいしか思い当たらず、ましてやこのような症状となると、そもそも何科を訪ねればよいかすら、よくわからなかっただけに

 

(ともかく「整形外科」とか「形成外科」というヤツだろうか?)

 

と、当たりを付けるところから始まった。

 

東京に出て以来(出る前もだが)、そのような病院の世話になることがなかったし評判すら聞いたことがないが、幸いにしてネットという便利なものがある時代だから、早速「市内医療機関」のページで検索をかけてみて、市内だけでも結構な数の「整形外科」やら「形成外科」があるのを知った。

 

その中で家から近くて、Webページのリンクが貼ってある、2つの医院のページを閲覧してみる。家からの距離はたいして変わらないし、Webページを見る限りはそれほどの違いはなさそうだから、どちらにすべきか迷った。

 

幸いにして両医院のページには、ともに「院長紹介」というリンクがあり、院長の略歴が書いてあるではないか。最初に見た方は「帝京大医学部卒」となっており、次に見た方は

 

「東大医学部卒、医学博士、東京大学附属病院勤務、米国xx修了」

 

となっていた。両者の違いとなる手がかりはこれだけだから、迷わず後者を選んだ事は言うまでもない。

 

早速、その病院に行き症状を伝える。その時分には、朝と比べると症状がかなり和らいでおり、足を曲げたりしない限りは、殆ど痛みが疾る事はなくなっていた。

 

「朝に比べるとかなり良くなったようですが、足を曲げたりするとまだかなりの痛みがあります」

 

と説明した。が、この症状については、医師にも原因がわからず

 

「理由はよくわからないが、たまにはそういうこともあるだろう・・・」

 

とのことで、念のためにレントゲンを撮ったが、これといった異常はなかった。

 

ところでワタクシは、片足に若い頃から長い付き合いのウオノメがあり、過去に医者に行ったり市販のスピール膏を使用したりしてきたが、一時的に芯が取れてもまた出来る、という繰り返しの結果

 

(どうせ治らないのだろう)

 

と、殆ど放置状態にしてきていた。が、せっかく整形外科に来たのだから、この際ついでに見てもらおうと思い

 

「実は今のと話は変わりますが、以前からウオノメがありまして・・・」

 

というと、その医師は

 

「どれどれ・・・ちょっと見せて」

 

と言い、足を乗せるための小さなテーブルを用意した・・・

 

そこで素足になり、その台の上に足を乗せようとした瞬間、例の激痛が走った。

 

「イテテテ・・・」

 

するとその医師は、実に嬉しそうに顔を輝かせた!

 

「ちょっと・・・今のをもう1回、やってみて」

 

(人の痛みも知らんと・・・)

 

と思いながら

 

「もう1回って・・・痛いんですけどね・・・」

 

「いいから、もう1回」

 

と、あたかもこちらが痛がるのを楽しむように、目を輝かせているのだ。そして数年来の宿痾である、このウオノメを見ると

 

「ほー。こりゃまた、立派なやつだなー」

 

などと、不謹慎にも感心しているではないか。

 

この時

 

(これが「学者バカ」というヤツか・・・「東大医学部出身」など、選ぶんじゃなかった・・・)

 

と後悔した。

2009/05/10

榛原

  鳥見山は、榛原町と桜井市との境界に聳える標高734メートルの山で「トウベ山」とも呼ばれいます。この鳥見山の中腹には、縄文時代から弥生時代の遺跡が広がっており自然公園となっています。

 

「日本書記」神武天皇四年二月条には

 

「霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて、基地(そこ)を号(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ」

 

とあります。

 

神話・伝説上の人物である神武天皇が、天地の神霊を祭る場所を鳥見山に築き、そこを上小野榛原・下小野榛原と名付けたとされています。この「榛原」が現在の町名の由来となっていますが、江戸時代以前は「萩原」(はいばら)とも書いていたようです。

 

榛原町を始め、宇陀地方は「古事記」、「日本書記」に度々登場し、古代から重要な地域であることを知ることができます。

 

萩原:榛原の語源は榛(はんばみ)すなわち、はんの木といわれ、繁茂する意味を持っている。はぎはらの名は、いずれにしてもこの地方の開拓者榛原公と判断するのが、妥当と思われる。

 

摂津皇別二十九氏の中に榛原公とあり、新撰姓氏録には榛原公息長直人同祖大山守命の後也とある。また、秋になれば紅葉が池周辺はもとより、付近一帯の野原に萩の花が咲き乱れました。萩の花が咲く野原を萩原と呼んだところから、とする説もあります。

https://www.seeds-f.com/kawanishi.html


ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

宇陀郡の北東部、宇陀山地の入り口にあたり、名張へ抜ける伊勢街道、高見峠から櫛田川上流へ抜ける本伊勢街道、柳生へ抜ける道、吉野へ抜ける道が交叉する交通の要衝です。この「はいばら」は「榛(はん)の木を伐って開いた場所」と解する説があります。

 

この「はいばら」は、マオリ語の「ハイプ・アラ」、HAIPU-ARA(haipu=place in a heap;ara=way,path)、「高い場所にある道路(が通る場所)」の転訛と解します。

2009/05/04

責任分界点(カップヌードル騒動)

 数日後(2008.11.18)、日清食品のWebサイトを確認する。

<インスタントラーメンを臭いの強いもののそばに保管すると、臭いが移ってしまう「移り香 (うつりが)」がおこる可能性があることが分かりました。みなさまには、ご迷惑とご心配をおかけしまして、誠に申し訳ありませんでした。

カップヌードルは、今年4月より紙製のECOカップに変わりました。それは、環境性、防湿性、強度、をより高めた、発売以来37年目の大きな進化でした。しかし、臭いへのバリア性という点から見ると、まだ100%の品質ではなかったのかもしれません。いま、100%の品質に近づけるために「移り香」に対するバリア性をより高めるECOカップの開発に取り組んでいます。さまざまな検証を通して、製品化できる目処が付きました。これから順次切り替えていき、みなさまのお手元にお届けしていきます>

なんとなく、今回の騒動の原因が見えてきたような感じだが、ワタクシ的には少し前から「カップヌードル犯人説」に疑問を持っていた。その2日後、神奈川県警から以下の発表がなされた(2008.11.20

「移り香」事案に関する警察・保健所等の調査結果について

<日清食品の「カップヌードル」などから、防虫剤成分のパラジクロロベンゼンが検出された件で、保健所などによる工場への立ち入り検査が行われたが、工場内におけるパラジクロロベンゼンの使用は認められなかった。また、各工場に保管されている同一ロットの製品サンプルについても検査が行われたが、同じくパラジクロロベンゼンは検出されなかった>

<また、藤沢市および横須賀市の事案について、117日、県警科学捜査研究所の鑑定結果等を神奈川県警が同月6日に発表した。これによると、容器から微量の防虫剤成分のパラジクロロベンゼンが検出されたが容器に穴などは確認できず、外部混入の可能性は低いとされており、またいずれも防虫剤を入れたたんすなどの近くにカップめんが保管されており、保管時に防虫剤のにおいが移ったとみられる>

 「カップヌードル」ユーザーであるワタクシは

「カップヌードル自体に、問題があったわけではなかったんだな」

と、ほっと胸を撫で下ろした。と同時にWebサイトを見ているうちに、濡れ衣を着せられた「カップヌードル」およびメーカーに対し同情を禁じえなかったのと、この騒動の元凶に対して沸々とした憤りが沸き起こってきた。

結果的には濡れ衣は晴らされたとはいえ、1ヶ月もの間に渡って消費者から疑惑の目で見られ、信用を大いに損なったメーカーの心情を思えば、心あるものであれば言葉も出ないというものではないか。一連の騒動で、メーカーには今後も不当に「負」のイメージが付いて廻る事は避けられないだろうし、当事者にとってはなんともやりきれないはずだ。

この件に限らず、明らかに自己責任の範囲内で起こった事故にまで、メーカーや公的機関に責任を求めてやまない厚顔無恥な御仁の近頃なんと多い事だろうか。自称「被害者」は、こうした相手の心情やら社会的な影響などを、慮ったことがあるのか?

この濡れ衣を晴らすため、あるいは身に降りかかった火の粉を払い落とすために、一体メーカーがどのくらいの宣伝費や人的労力、または対応のための余計な費用を使わなくてはならなかったのだろう。このような無駄な捜査や調査に奔走させられた、警察や保健所などの人的負担と掛かった費用にしても、恐らくは莫大なものを要した事だろう。

これらは言うまでもなく、我々の血税である。一人の愚か者の無知蒙昧に始まり、これだけの公的な機関や組織が無為に踊らされた顛末を見るにつけ、まことに開いた口が塞がらない。

自称「被害者」の「意図」は知る由もないが、自らの保管のミスが招いた事態という結果を見ると、悪意のないただの無知蒙昧だとしても重罪に値するが、なんらかの恣意的な悪意(ライバル会社による狂言?)や愉快犯的な悪質な悪戯かと疑われても仕方がない。

その後、スーパーなどの棚には

「インスタントラーメンを臭いの強いもののそばに保管すると、臭いが移ってしまう移り香が起こる可能性があるため、そのような場所には保管しないでください」

などと貼り紙がしてあった。こんなことはインスタントラーメンに限らずとも、小学生でも解るような常識中の常識であり、責任分界点を弁えないようなバカの相手をしていてはキリがないのである。

訴訟社会の欧米並みに、このような相手のことを考えない手前勝手なバカモノどもが横行する最近の風潮は、社会に不幸な混乱を招くばかりであり、まったくもって重罪に値するのではないか。