2010/05/24

なにわ(難波、浪速、浪花)

昔から大阪を「ナニワ」 と言う。

なぜ「ナニワ」と言うようになったのか?

 

原始時代、大阪平野の内陸部は海水の河内湾だったのが、後に河内湖になり河内潟になって来た。

 

日本で一番古い記録である『古事記』と『日本書紀』には、既に「ナニワ」という言葉が使われている。『古事記』は、それまで伝承されてきた話を奈良時代の初頭7121月に編纂した史書、一方『日本書紀』は日本最初の官撰の国史で、7205月に完成したものである。

 

この他に『続日本紀』、『萬葉集』、『播磨風土記』等にも「難波」、「浪速」、「難破」、「浪花」、「名庭」、「市庭」、「奈爾波」、「那爾波」等、色々な字が書かれている。

 

これら多くの字体に「」や「」の字を使っているのは、ナニワの地を「波が打寄せる地帯」と見ていたことから来ているらしい。また「庭」という字も使われているが、この「名庭」や「市庭」は瀬戸内海や大阪湾に面し、舟運による食料や物資が海上輸送によって輸送され、ナニワの地で商内(あきない)をしたこと。また 「」は「」とも取れ、「菜」は野菜の「菜」や「魚 ()」の意味であり、副食物のお菜(かず)の野菜や魚を指している。

 

波が早いということで「浪速」と言ったのは、『日本書紀』の神武即位前紀に

 

「皇師(みいくさ)遂に東にゆき(中略)、方(まさ)に難波碕に到る。奔(はや)き潮有り手太(はなは)だ急なるに会う。名づけて浪速国と為()す。亦()た浪花と曰(い)ふ。今難波と謂ふは訛(なま)れるなり」

 

とある。潮流が早いので浪速といい、後に難波と訛ったということだ。

 

このように「ナニワ」という呼び方をめぐって、議論されてきた。『古事記』の神武天皇の東遷の条には

 

「九州・日向の高千穂宮を出て、豊の国(大分県)の宇佐、筑紫(福岡県)、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を通って、浪速渡(なにわのわたり)に着き、 白肩津(しろかたつ)に船を停めた」

 

と書かれている。

 

『日本書紀』には先にも述べたように、神武天皇が東に来て難波碕に到着した。  潮が速く、急流であったので「浪速国」と名付けた。もう一つの説である「市庭」や「名庭」のことは、明治期以後に研究者が発表している。

 

瀬戸内海を大阪湾まで舟で運んできて、難波の津に荷揚げをする。「津」とは、昔は「港」のことを言った。難波の津といっても船着場が何カ所もあり、この津は魚や野菜などの食料を運んだり、国内向けの港だけでなく古代日本が外国の使節を送迎する重要な港だった。

 

このように外国使節を迎えたり、中国、四国、九州方面から運ばれてきた食料や物資を受入れる屯倉(みやけ=朝廷専用の倉庫)も上町台地に並んでおり、これらは発掘の結果明らかになった。

 

大手前の大阪市歴史博物館の場所に、遺跡が保存されている。古代日本は、この難波、飛鳥、奈良、京、熊野と人の往来が多く、人々の食料や物資が求められていた。

 

「ナニワ」の語源には、古い文献を見て研究する方法と、近年では自然地理学、考古学の発掘で新しい発見や解釈が出てきている。前回、難波の波が高いとか潮の流れが急とか書いたが、今の大阪港の潮位の干満の差が、春秋季には2.58mにもなり、大阪平野から大阪湾につながる水路の簿潮が逆流して湖や潟の水位が高くなり、干潮時にその水路から湖や潟の水が急激に流下するから『日本書紀』の「奔き潮ありて太だ急なるに会う」現象があったことも事実であったろう。

 

この語源の新しい観点から、復活の研究も進んでいる。

出典https://www.osakahonjou.com/naniwa/index.htm

 

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

『日本書紀』神武即位前紀戊午年2月の条には、神武天皇の軍が

 

「難波碕(なにはのみさき)に到る時に、奔き潮有りて太だ急(はや)きに會ひぬ。因りて、名づけて浪速(なみはや)国とす。亦浪花と曰ふ。今、難波(なには)と謂ふは訛れるなり」

 

とある。また、『古事記』には

「浪速(なみはや)の渡りを経て、青雲の白肩(しらかた)津に泊てたまひき」とあります。

 

この「なにわ」は、この記紀伝承のほか「ナ(魚)・ニワ(庭)」で「魚の多いところ」と解する説があります。

 

この「なみはや」は、マオリ語の「ナ・ミハ・イア」、NA-MIHA-IA(na=belonging to;miha=admire,wonder;ia=indeed)、「実に驚くべき(潮流の速い場所)」の転訛と解します。

 

また「なにわ」は、マオリ(ハワイ)語の「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani=noisy;wa=place)、「(港や市に人が大勢集まって)騒がしい音がする場所」

または「ナニ・ワ」、NANI-WA(nani(Hawaii)=beautiful;wa(Hawaii)=place)、「美しい場所」

または「ナネア・ワ」、NANEA-WA(nanea=plentiful,satiafying;wa=place)、「(魚などが)豊富な場所」の転訛と解することができます。

 

大阪は、古くは「浪速」と言った。難波は、その訛りだともいわれる。「大阪」という言葉が初めて出てくるのは、蓮如の御文章のなかの「大坂」だという。

 

最初は「大坂」と表記していたらしい。大坂という表記は、明治時代まで使用されていたという。蓮如は、1496年に石山御坊を今の大阪城の地に建てた。御坊を建てる時、この地から大きな石が出てきたので、この辺りは「石山」と呼ばれたこともあった。また大阪城の北西側の淀川辺り、天満橋と天神橋の間は古代、渡辺の津と呼ばれた。渡辺の津は大江の岸とも言われたが、ここから上町台地にかけての坂を大江の坂といい、これが「大坂」の語源だという人もいる。

2010/05/22

世界一の大バカ監督 ∑( ̄皿 ̄;;キィィィィィィィィィィィ!!!

この日(5/21)は煩いCMが入らず、試合終了まで放送されるNHK-BSでGの試合が放送されていたため、久々に観戦。Gが2点リードで迎えた9回、原カントクはクルーン(以下「狂~ン」)をマウンドに送った。

 

狂~ンと言えば、いわずと知れた超ノーコンだ。嫌な予感が脳裏を掠めたが、やはり予感は的中した。トップバッターが早打ちの外国人だったのに助けられ、初球を内野ゴロで一死。これで大丈夫かと思ったが、やはりこの日もストライクが入らず、次打者にはストレートの四球である。

 

どう見てもストライクが入りそうにないし、ワタクシが監督ならここでスパッと交代するところだ(それ以前に、こんなノーコン病などとっくに解雇しているが)

 

キャッチャーの阿部も、ベンチに対して交代の示唆をすべきところなのだが、なにもしないままなぜかそのまま続投だ。続く打者にも、殆どストライクが入らず四球。ランナーを2人溜めたところでようやく交代となったが、起用したのが今季4試合しか登板実績のない投手では、素人目にもこの場面では荷が重過ぎるとしか言いようがない。 案の定、この思わぬ出番にストライクが入らず四球で満塁とした挙句、痛打を浴びて同点。

 

この後の展開は見なくても想像が付く上、あまりのバカバカしさにTVを消したが、結果は案の定次の打者にも打たれ逆転サヨナラ負けという悪夢となった `△´)ノオリャー!!(ノ`□´)ノ ミ

 

勿論、打たれた投手を責めるべきではない。責められてしかるべきは、ストライクすら満足に取れないノーコン病投手と、そんなバカを起用し続ける愚かなカントクである。 これまで何十回となく、飽かずに同じ失敗を繰り返してきているのだから、これは結果論などでは断じてない。どれだけ球が速かろうが、ストライクすら満足に取れないのではプロの投手とは言えず少年野球レベルであって、そもそもなぜクビにしなかったのかすら理解に苦しむ。

 

いかに戦力では圧倒的に図抜けているとは言え、一番大事なところで一番ダメなヤツを起用し続けるこのような大バカ采配を繰り返していては、優勝などは覚束ないのである。

2010/05/09

横浜

横浜の由来には、様々な言い伝えがある。開港以前に横に長い浜があって、今の元町の裏手にある厳島神社の方から延びており、浜の一番先端には弁天神社があった。その一帯と、神奈川宿の横にある浜辺を意味する一般名称だったらしい。

 

何故「横浜」かと言うと「在る物の横が浜だった」。その在る物とは「弁天堂」というお堂のことである。実際、今もその名残りで、関内と馬車道の間に「弁天通り」とか「弁天町」という地名が残っている。

 

幕末の時代、アメリカは「神奈川湊を開放しろ」と圧力をかけてきた。しかし、神奈川湊より少しでも江戸から遠ざけるために横浜港を作り、そこが神奈川湊であるとアメリカを騙したと言われている。横浜を神奈川と騙した以上、横浜県にはできずに神奈川県となったわけらしい。

 

因みに「神奈川」は「神奈川という川の名前」から来たと言われているが、今では「神奈川という川」は存在していない。では「神奈川」は、どこへいったのか?

 

実は、元々の神奈川の名前は「上無川(かみなしがわ)」が転化したものと言われており、上無川とはすぐに川がひえ上がるので 上流が解らないというところからきている。かっての神奈川の川の水はひえ上がり、今は名前だけがその存在があったことを示しているのである。

 

元町

横浜の街造りが始まったが、横浜村に住んでいる人はその場所から離れなければ街造りが出来ないため、横浜村の人々が住む代替地が決まった。そこは「元横浜村の人々が住む町」と言うことで「元町」と名付けられた。

 

関内

最初に横浜を長崎の出島のように外国人の居留地を島伝いにし、まわりを関所で囲むようにし、関所の外側を「関外」と呼んだ。当然、外国人の居留地である関所の内側は「関内」と呼ばれた。関所のあった場所は今の関内駅の付近で、外国人の居留地外へ出ようとするには今の吉田橋を渡らなければならない。

 

伊勢佐木町

伊勢佐木町は、昔は葦の茂る荒地だった。そこを当時の豪商・吉田勘兵良信が、この土地を埋め立てて造成し吉田新田と名付けた。その後、昭和に入ってから関内にあった遊郭が大火に遭い、その一部が現在の伊勢佐木町に移転してきて、今日に繋がる市街化の第一歩となった。

 

明治7年に「吉田新田」が「伊勢佐木町」に改名された。その名前の由来は2説あり、ひとつは最後の神奈川奉行の依田伊勢守と佐々木信濃守の姓から取ったという説。もうひとつは、市街化開発に尽力した伊勢屋文蔵と佐々木治平の名を取ったという説がある。

 

山下公園

横浜は大変な発展を遂げたが、その中には幾多の苦難があった。ひとつは関東大震災で、横浜は瓦礫の山と化し多くの被害者が出た。このようなことが二度と起きないように、避難すべき公園を作ろうということになった。こうしてフランス山の下にある場所に、関東大震災ででた瓦礫を埋めて出来た公園が、フランス山の下にある公園、すなわち「山下公園」となった。

 

ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

袖ヶ浦の南、東海道の東に遠く離れて、大岡川が流入する入江の開口部を北に延びて横に遮る砂嘴があり、そこに小さな農漁村であった横浜村がありました。砂嘴の内側に州乾(しゅうかん)湊があり、その北には山を背負った畑地帯の野毛村があり、海岸では幕末のころ牡蛎の養殖が行われていました。

 

州乾湊は船がかりの良い入江でしたが、次第に乾陸、埋立てが進み、安政61859)年神奈川(横浜)開港以来、神奈川から横浜の海岸は全くその様相を変えています。

 

横浜の南には、本牧(ほんもく)岬が、その南には根岸、磯子の海岸が続いています。横浜の西には、東海道の宿場であった保土ヶ谷があります。この「よこはま」、「しゅうかん」、「のげ」、「ほんもく」、「ねぎし」、「いそご」、「ほどがや」は、マオリ語の

「イホ・カウ・ハマ」、IHO-KAU-HAMA(iho=to intensify KAU etc.;kau=swim,wade across;hama=faded,light-coloured)、「(河口、河口の三角州などの前を)横に遮る(徐々に海の中へ消えて行く=丈の低い)砂浜(砂州がある場所)」(「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

「チ・イフ・カ(ン)ガ」、TI-IHU-KANGA(ti=throw,cast;ihu=nose;kanga=ka=take fire,be lighted,burn)、「鼻を突き出している集落(その集落のそばの港)」(「イフ」のH音が脱落し、「チ」と連結して「チイウ」から「シュウ」と、「カ(ン)ガ」の語尾のGA音が脱落して「カン」となった)

「ノ・(ン)ゲ」、NO-NGE(no=of;nge=thicket)、「薮(で覆われた土地)」

「ホノ・モク」、HONO-MOKU((Hawaii)hono=back of the neck,brow of a cliff,bay;(Hawaii)moku=to be cut,broken loose,district)、「突き出た崖がくずれている(場所)」

「ネキ・チ」、NEKI-TI(neki=nei=indicate continuance of action;ti=throw,cast,overcome)、「崩れ続けている(崖下の場所)」

「ヒタウ・コ」、HITAU-KO(hitau=short peticoat or apron;ko=yonder place)、「(陸地の)エプロンのような場所(彼方の磯)」(「ヒタウ」のH音が脱落し、AU音がO音に変化して、「イト」から「イソ」となった)

「ホト・(ン)ガ・イア」、HOTO-NGA-IA(hoto=wooden spade;nga=satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「潮の干満で水位が上下する(呼吸する)木製の細長い鋤のような川(その川が流れる谷)」の転訛と解します。