2022/06/30

禹 ~ チャイナ神話(10)

(紀元前1900年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。

 

概要

父は鯀(こん)である。

 

鯀の五世の祖は五帝の一人である帝顓頊であり、禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。

 

また、鯀の父は帝顓頊である。従って、禹は帝顓頊の孫にあたる。また、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫である。禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)

 

塗山氏の女を娶り、啓という子をなした。

 

禹は卓越した政治能力を持っていたが、それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。

 

禹の治水事業

帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。

 

『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「」という文字は本来蜥蜴や鰐、竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。

 

そして、この「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。

 

『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」。

 

『山海経広注』に記されている禹による無支祁(孫悟空の原型)との交戦の描写には、具体的な竜としては応竜が禹に加勢しており、最後に捕らえられた。

 

夏王朝創始

禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。

 

禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。なお中国が1996年から1999年に掛けて実施した「夏商周年代確定プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた。

 

竹書紀年によれば、45年間帝であったという、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという、史記によれば、10年間帝であったという。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。

 

治水の神としての崇拝

後代、治水の神として中国だけでなく日本でも崇拝された。神奈川県開成町在住の郷土史家・大脇良夫が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、水害が多い地区を中心に107カ所見つかった。大脇らは2010年以降「禹王サミット」を開催し、2013年「治水神・禹王研究会」を発足させた。

 

「禹」の字源

」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。「」は、伸ばした手の象形。「」は、もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、雄の竜の象形。即ち、「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、雄の竜を掴むの象形で、洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧」を意味する。

 

日本に遺る「禹」の紋の法被

大きな「禹」の紋が背に縫い付けられた法被が、慶長宗論、慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧・日経の故郷(現在の茂原市)に遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。

出典 Wikipedia

2022/06/25

ビザンツ帝国の盛衰(1)

http://timeway.vivian.jp/index.html


東ヨーロッパ世界の形成

 ローマ帝国が東西に分裂した(395)あと、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で滅び、ゲルマン人の国家が建設されます。

 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス帝(位527~565)は、これらゲルマン民族国家を滅ぼし、旧西ローマ帝国の領土をある程度回復します。これが、古代ローマ帝国の最後の輝きです。

 ユスティニアヌス帝は、トリボ二アヌスに命じてローマ法を集大成した「ローマ法大全」を編纂させたことでも有名です。

 

 ユスティニアヌス帝の死後、一時拡大した領土はまた縮小していきます。イタリアはランゴバルト族に奪われ、東方ではササン朝ペルシアとの抗争が続きます。また北部国境は、黒海の西からブルガール人が侵入してくる。

 

 東ローマ帝国は、これらの外敵に対して基本的に守勢一方。都がローマにあるわけでもないのにローマ帝国というのもおかしいですから、ユスティニアヌス帝以後、この国をビザンツ帝国と呼ぶのが一般的です。ビザンツとは首都コンスタンティノープルの古名ビザンティウムからついた呼び名です。

 

 イスラム勢力にエジプト、シリアを奪われてからのビザンツ帝国の領土はバルカン半島と小アジアだけになり、実質的にはローマ人の国というよりギリシア人の国ですね。ただし、ローマ帝国の理念だけは引き継がれている。

 かつてのローマ市は「パンとサーカスの都」といわれましたが、コンスタンティノープルでも市民への食糧の配給は行われていました。これはイスラム勢力によって、穀倉地帯エジプトが奪われる618年まで続いた。ユスティニアヌス帝時代は、この意味でもローマ帝国らしい最後の時代だったのです。

 

 ただ、あとの時代になっても、コンスタンティノープルの競馬場で戦車レースは盛んに行われていた。貴族や市民が詰めかけて大いに熱狂した。もちろん皇帝も観戦。古代ローマをみんなで演じていたみたいです。

 

 ヘラクレイオス1世(位610~641)の時代に、イスラム勢力が急速に領土を拡大してきます。首都での食糧無料配給を止めたのが、彼の時代です。

 この時期に、イスラムとの戦争のための新しい制度が生まれる。軍管区制と屯田兵制です。

 軍管区制は、テマ制ともいう。地方の軍司令官に行政権も委ねる制度です。行政の臨戦態勢ですね。地方軍団の兵士は農民です。農民たちは租税を免除される代わりに、戦争になったら武器自弁で戦った。負けて領土を奪われたら自分たちの土地が無くなるわけですから必死になって戦った。侵略戦争には向きませんが、防衛戦争には力を発揮する。これが屯田兵制です。

 

 宗教は、皇帝教皇主義です。皇帝がキリスト教会のトップの地位にあることをいう。

 

 ビザンツ帝国は常にイスラム勢力と境を接して争っているので、宗教面でも対抗心が旺盛です。イスラムとの関係で8世紀の皇帝レオン3世が出した法律が「聖像崇拝禁止令」。イエスやマリアの像を拝むことを禁止する。それまでは日常的に聖像崇拝が行われていたのですが、イスラム教が偶像崇拝を厳しく禁止しているのに刺激されて、偶像崇拝を禁止したのですね。偶像も聖像も同じことです。

 前にも説明しましたが、キリスト教もイスラム教も同じ神を信じていますから、厳格なイスラムに比べキリスト教は堕落しているように思われたのでしょうね。

 

 ところが、この聖像崇拝禁止令が、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立を生んだ。ローマ帝国時代に、各地に五本山と呼ばれる大きな教会ができるのですが、ローマ教会もコンスタンティノープル教会もそのうちの二つです。どちらが偉いということはないけれど、以前から二つの教会は高い権威をもって張り合っていた。

 

 ローマ教会は西ローマ帝国が滅んだあとは、ビザンツ帝国と協力関係にあるのですが、イタリア半島はビザンツ帝国の領土から外れているから、実際にはビザンツ帝国は頼りにならない。そこで、ローマ教会は生き延びるためにゲルマン人たちに一所懸命布教して、教会の存続をはかっています。で、ローマ教会はゲルマン人に布教する時に、イエスやマリアの像を使っていたんだね。多分、十字架磔のイエスの画像なんかを見せて「お前たちの罪を償うために、イエス様はこのように死なれたのだ!」とか言って布教していたんでしょう。ゲルマン人はまだまだ文明度は低いですから、そんな絵を見て何とかキリスト教を理解できたのかもしれない。

 

 だから、ローマ教会にとって聖像を使用できなくなるというのは死活問題だった。そこで、ローマ教会はビザンツ皇帝の方針に反対します。元々、ローマ教会は皇帝教皇主義にも不満だったので、ここで両教会はケンカ別れをしていくことになった。

 

 ローマ教会はローマ=カトリック、コンスタンティノープル教会はギリシア正教と呼ばれるようになっていきます。

 両教会の分裂を生んだという意味で、聖像崇拝禁止令は大事です。

 

 余談になりますが、聖像崇拝禁止令が出た直後の時期には、ビザンツ帝国では聖像は破壊されましたが、のちに復活します。現在、ギリシア正教では聖像のことをイコンといい、信仰上重要な意味づけがなされていて、非常に大事にしている。今でも、修道院などで盛んに作っています。決して上手な絵ではなくて、わざとへたくそに描いているようでもある。制作者はサインをせず、個性を押さえて描くのが基本だそうです。

2022/06/16

東ローマ帝国(5)

ローマ帝国

3世紀末から4世紀前半にかけて、ローマ帝国の中心は東方世界へと移行した。当時「皇帝」は世界に一人しかおらず、「皇帝」とは「ローマ皇帝」であることが自明であったため、わざわざ「ローマ皇帝」と名乗る必要もなかった。また、「ローマ人」の概念も、都市ローマとの結びつきが薄れ、ローマ帝国全土の住民の意味に変貌していた。更に、コンスタンティノープルが建設されたからといって、直ちにコンスタンティノープルの権威が都市ローマを上回ったわけではないため、「コンスタンティノープル帝国」などという用語は発生しなかった。しかし410年にローマが陥落すると、次第にコンスタンティノープルでは「新しいローマ」という自意識が育ち始めた。

 

五世紀中頃の史家ソクラテスは、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようにな」り「西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている。同地の人々は、遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった。

 

9世紀以降には、西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった。ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが、自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく、正式な国名及び国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολτεί τν ωμαίων, ラテン文字転写:Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった。

 

中世になると、帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (ωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり、また彼ら自身も12世紀頃までは「ギリシア人 (λληνες, Hellēnes, エリネス)」ではなく「ローマ人(ωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。

 

ビザンツ帝国、ビザンティン帝国、ビザンティオン帝国

この帝国の7世紀頃以降は、文化や領土等の点で古代ローマ帝国との違いが顕著であるため、16世紀になると便宜上「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」「ビザンティオン帝国」といった別の名称で呼ばれるようになった。16世紀に「ビザンツ帝国」という語の使用が確立されたのは、神聖ローマ帝国の人文主義者メランヒトンの弟子ヒエロニムス・ヴォルフ(1516年~1580年)の功績とされる。

 

ヴォルフは、ビザンツ史が単純なギリシア史ともローマ帝国史とも異なる一分野であることを見抜いた人物で、ヴィルヘルム・ホルツマン、ダヴィッド・ヘッシェル、ヨハネス・レウンクラヴィウス、ドゥニー・プトー、ヴルカニウス、メウルシウス、レオ・アラティウスら16世紀から17世紀初頭にかけての多くの学者がヴォルフの例に従った。

 

これ以降、学問領域においては近代を経て現代に至るまで、一般に「ビザンツ帝国」の名称が用いられ続けている。これらの名称は、コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz、「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine、「ビザンティオン」はギリシア語の名詞をもとにした表記である。日本においては、歴史学では「ビザンツ」が、美術・建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多く、「ビザンティオン」は英語やドイツ語表記よりもギリシア語表記を重視する立場の研究者によって使用されている。ただし、これらの呼称は帝国が「古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提として」おり、7世紀頃以降の帝国を古代末期のローマ帝国(後期ローマ帝国)と区別するために使われることが多い。例えばオックスフォード・ビザンツ事典や人気のある通史であるゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』やA.H.M.ジョーンズの『後期ローマ帝国』では、7世紀に誕生するビザンツ帝国が6世紀までの帝国とは異なる帝国として扱われている。

 

ギリシア帝国、コンスタンティノープルの帝国

古代ローマの人々は、同地の人々を指して「ギリシア人」と呼んでおり、それは同地の人々が「ローマ人」を自称するようになった6世紀以降にも変わりはなかった。カール大帝の戴冠によって、西ローマ帝国にローマ皇帝が復活して以降には、中世の西欧は一貫してビザンツを「ギリシア」と呼んだが、そこには「西欧こそが古代ローマ帝国の継承者であり、コンスタンティノープルの皇帝は僭称者である」という主張が込められていた。

 

東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立していた西欧諸国にとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。13世紀のパレオロゴス朝ルネサンス以降には、東ローマ帝国の人々も自らを指して「Έλληνες, ヘレーネス, イリネス(ギリシア人)」と呼ぶようになっていった。また、東ローマ帝国はルーシの記録でも「グレキ(ギリシア)」と呼ばれており、東ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国においても、東ローマ帝国はギリシア人の帝国だと認識されていた。例えば桂川甫周は著書『北槎聞略』において、蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving van Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。

出典 Wikipedia

2022/06/12

羿 ~ チャイナ神話(9)

羿(げい、拼音: Yì イー)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい、拼音: Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい)とも呼ばれる。 弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

 

羿の伝説は、『楚辞』天問篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。

 

日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面)や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや、太陽を射落としたことが引用されているのがみられる。

 

堯の時代の羿

天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をつかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより、地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。

 

その後も羿は、各地で人々の生活を脅かしていた数多くの悪獣(窳、鑿歯、九嬰、大風、修蛇、封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた

 

不老不死の薬

自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を2人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身を潜めることにする。しかし、羿を裏切った報いで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことになった。

 

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて、再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある[要出典]

 

逢蒙殺羿

その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば、私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった。

 

夏の時代の羿

別に伝えられているのは、『路史』の「夷羿伝」などや『春秋左氏伝』などにあるもので、夏王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説では、主に后羿(こうげい)という呼称が用いられている。堯と夏それぞれの時代を背景に持つ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある。白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

 

羿は子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、楚孤父(そこほ)という狩人によって保護される。楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。

 

夷羿・有窮国

太康(3代目の王)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿(有窮氏)は武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、相(5代目の王)を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王(后)として立ち、有窮国として諸侯を支配下に置くこととなる。しかし、その後の羿は寒浞(かんさく)という奸臣を重用し武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は寒浞によって殺され、妻であった玄妻(純狐氏)も奪われてしまった。

出典 Wikipedia

2022/06/07

東ローマ帝国(4)

東ローマ帝国(英語: Eastern Roman Empire)またはビザンツ帝国ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。

 

ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。

 

西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった。

 

概要

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末には、ローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

 

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。住民の多くがギリシア系となり、620年には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」、「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

 

9世紀には徐々に国力を回復させ、東ローマ皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから、一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

 

古代ギリシア文化の伝統を引き継いで、1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシアだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

 

名称

この帝国(およびその類似概念)は、いくつかの名称で呼ばれている。

 

東ローマ帝国

古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀のテトラルキア以降には、帝国をいくつかの領域に分けて複数の皇帝によって分担統治するという体制がとられることとなった。395年のテオドシウス1世の死後に、長男アルカディウスが東方領土を、次男ホノリウスが西方領土を担当するようになって以降、帝国の「西の部分」と「東の部分」とは、それぞれ別個の途を歩むこととなった。帝国の東西分担統治が常態化して以降の帝国の「東の部分」を指して「東ローマ帝国」という通称が使われている。

出典 Wikipedia