2020/04/29

ユダヤ戦争

ユダヤ戦争(ヘブライ語: המרד הגדול、アルファベット表記:ha-Mered Ha-Gadol)は、帝政ローマ期の66年から73年まで、ローマ帝国とローマのユダヤ属州に住むユダヤ人との間で行われた戦争である。

開戦までの経緯
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりよって、41年にユダヤの統治を委ねられた。このアグリッパ1世が44年に病死すると、再びユダヤ地方はローマの直轄地となった。当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスの取れた巧みな統治政策を示しているが、多神教文化であった地中海世界の中で一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まった。

開戦
フラウィウス・ヨセフスによると「ユダヤ戦争」が勃発した発端は、カイサリアにおけるユダヤ人の殺害であったという。即ち、当時のユダヤ属州総督フロルスが、エルサレムのインフラ整備のための資金として、神殿の宝物を持ち出したことにあったといわれている。これをきっかけに、エルサレムで過激派による暴動が起こった。ユダヤ側の指導者は、シモン・バル・ギオラ(Simon Bar-Giora)、ギスカラのヨハネ(John of Gischala)、エルアザル・ベン・シモン(Eleazar ben Simon)らと伝えられるが、いずれも強硬派・原理主義者に属した点も、事態過激化への呼び水となった。

ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとするが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまう。主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかったユダヤ人たちは反ローマで結束し、隠遁修行生活をしていたエッセネ派も反乱に加わった。フロルスは、シリア属州の総督が軍団を率いて鎮圧に向かうも、反乱軍の前に敗れてしまう。事態を重く見たネロ帝は、将軍ウェスパシアヌスに三個軍団を与えて鎮圧に向かわせた。

ウェスパシアヌスは息子ティトゥスらと共に出動すると、エルサレムを攻略する前に周辺の都市を落として孤立させようと考え、ユダヤの周辺都市を各個撃破していった。こうしてウェスパシアヌスらはユダヤ軍を撃破しながら、サマリアやガリラヤを平定し、エルサレムを孤立させることに成功した。

エルサレム陥落
684月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督であったガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が発端となって、同年6月にネロが自殺。69年には、4人のローマ人が次々と皇帝に即位(「4皇帝の年」)した他、ゲルマニアでガイウス・ユリウス・キウィリスを首謀者とした反ローマの反乱が勃発する等、ローマは大混乱に陥った。ウェスパシアヌスもエルサレム攻略を目前にして、ローマへ向かった。ローマ軍の司令官不在のまま、ユダヤ戦争は一旦、戦線膠着状態となった。

6912月にアウルス・ウィテッリウスが殺害され、唯一のローマ皇帝としてローマ帝国を掌握したウェスパシアヌスは、懸案のエルサレム陥落を目指してティトゥスを攻略に向かわせた。

70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿はユダヤ暦第68日、9日、10日に火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落した。エルサレムを舞台とした叛乱は鎮圧され、ティトゥスはローマへと凱旋した。この時つくられたのが、フォロ・ロマーノに今も残るティトゥスの凱旋門である。そこにはエルサレム神殿の宝物を運ぶ、ローマ兵の姿が刻まれている。

マサダの戦い
エルサレムは陥落したが、ギスカラのヨハネら一握りのユダヤ人が、かつてヘロデ大王の築いたヘロディオン、マカイロスやマサダといった、各地の砦に立てこもって抵抗を継続した。中でも約1千人のユダヤ人が籠城したマサダ砦の戦いは、詳細な記録が残されている。

マサダは切り立った岩山の上にあり、包囲したローマ軍団の指揮官・ルキウス・フラウィウス・シルバは力攻めは不可能と判断し、周囲の断崖を埋めて突入路を築く作戦を立てた。3年がかりで砦の絶壁が埋められ、完成目前となった突入路を見て敗北を悟ったユダヤ人集団は、ローマ軍の突入前夜に自ら集団自決して玉砕した。73年の出来事とされるマサダ陥落で、ユダヤ戦争は終結した。

戦後のユダヤ
この戦争を「1次ユダヤ戦争」といい、ハドリアヌス帝治世下の132年から135年にかけて再び勃発した、バル・コクバを指導者とする叛乱(バル・コクバの乱)は「2次ユダヤ戦争」と称される。

この戦争以後、エルサレムにローマの一個軍団(第10軍団)が常駐することになった(それまでは、ユダヤ人の民族感情を刺激しないためにカイサリアに駐屯していた)。

ガリラヤ攻略戦で、ローマに投降したユダヤ側将校のフラウィウス・ヨセフスは、この戦争の経過を詳細に書き残した。これが「ユダヤ戦記」である。戦争の参加者自らの書いた一次史料として貴重な記録であるが、伝わるはずのないマサダ砦の指導者の「最後の演説」などが含まれており、ヨセフスの主観や後世の脚色も多分に含まれているとされる。
出典 Wikipedia

2020/04/28

ヒンドゥー教(5) ~ ヒンドゥー教の起源


1.ヒンドゥー教とは何か
 ヒンドゥー教は、現代インドの大多数の人が信仰する宗教である。Britannica1990年統計によれば、人口83千万のインド人の82.64%がヒンドゥー教を信じている。この割合は、1971年の82.72%とほぼ同じで変化がない。
 「ヒンドゥー教」の「ヒンドゥー(Hindu」はペルシャ語で、サンスクリット語の「シンドゥ(Sindhu」に由来する。Sindhuは「」の意味で、特に「インダス河」をさす。それで、Hinduは「インダス河周辺の人たち」「インド人」を意味する。

 ヒンドゥー教は、インドにおいて仏教やジャイナ教に少し遅れて明確な形を取り始めた民衆の宗教である。シヴァやヴィシュヌ、あるいはラーマやクリシュナをはじめとする多くの神々への信仰と、インドとその周辺の諸民族の伝統的な習俗と密接に関わる儀礼を特徴とする宗教である。「インドの民族宗教」ではあるが、ヒンドゥー教の影響は、広くスリランカやインドネシアのバリ島、ジャワ島など東南アジア一帯に及んでいる。


2.ヒンドゥー教の起源
 ヒンドゥー教とヴェーダの宗教とでは、信仰形態や儀礼が明らかに異なる。しかし、ヒンドゥー教の最高神とされるヴィシュヌもシヴァも、ヴェーダと密接な繋がりを持つ。ヒンドゥー教とヴェーダの宗教は異なるとはいえ、境界線はあまり明確ではない。いつヒンドゥー教が始まったかも定かではない。しかし、ヒンドゥー教が広がっていくのは、仏教興隆後であるということはいえる。

 紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王(356-323BC)がインドに侵攻した。その影響を受けて、紀元前4世紀末、チャンドラグプタがマウリヤ朝を興した。ギリシア人のメガステネスは、チャンドラグプタの治世に、シリア王セレウコス・ニカトール(301280BC在位)の大使としてインドに駐在し、インドでの見聞を書き残した。彼の報告書はあいにく現存しないが、引用断片が現在も伝わっている。その中で彼は、「ディオニュソスの信仰」や「マトゥーラ地方でのヘラクレス信仰」について伝えている。ディオニュソスはシヴァ、ヘラクレスはクリシュナを指すと考えられる。この頃には、すでに民衆の間にシヴァ信仰クリシュナ信仰が広まっていたようである。

 その後、アショーカ王がマウリヤ朝第3代の王として、およそ紀元前268年から232年まで統治した。王は激しい戦争の後に、多くの流血をひき起こしたことを深く反省し、仏教に帰依した。多数の仏塔・石柱を建てさせ、碑文を刻ませた。現存するアショーカ王の碑文のうち、第7 Delhi-Topra碑文には、当時の主要な教団として、仏教(サンガ)、バラモン(ブラーフマナ)、アージーヴィカ派、ジャイナ教(ニルグランタ)の名が出る。この碑文の記事から推定すれば、当時は、仏教やバラモン教が支配的で、ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌの信仰は、すでに広まっていたとしても、まだそれほど盛んではなかったか、あるいは、ヴェーダの宗教と明確な差異が認められず「バラモン教」として一括されたのであろう。

 この頃、作られた『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』(6.79)には、ヒンドゥー教のシヴァ神信仰の要素が認められる。また、ヒンドゥー教の信仰を伝える主要な文献は、二大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』、そしてプラーナ聖典で、これらの文献の現在の形が完成するのは、ずっと後の紀元後のことであるが、その元になるものは、このマウリヤ朝の頃から形を整え始めた。二大叙事詩もプラーナ聖典も、数百年かけて付加や変更が加えられ、現在の形態が完成したと考えられている。

 原始仏典、とりわけ仏伝(ブッダの伝記)には、梵天(ブラフマー)、コブラの神ナーガ、大蛇の神マホーラガなど様々な民衆の信仰の対象であったと思われる神々が登場する。ブッダが、その下で悟りを開いたとされる菩提樹も、神が宿る樹木として先住民族によって崇拝されていたものである。紀元前1世紀頃は、後に「夜叉」と音写されたヤクシャ(男神)、ヤクシー(女神)が信仰を集め、その像が多く作られた。後のシヴァ像や菩薩像の先駆になったとされている。

3.ヴェーダの宗教とヒンドゥー教
 ヴェーダの宗教とヒンドゥー教は全く別のものとはいえないが、明らかに異なる。信仰の対象となる神々、信仰の形態には両者の違いが指摘できる。

 ヴェーダの宗教では、インドラ、ヴァルナ、アグニが主要な神であるが、ヒンドゥー教では、ヴェーダにおいては脇役であったシヴァ(暴風神ルドラ)、ヴィシュヌ、あるいはヴェーダではなく英雄叙事詩に現れるラーマ、クリシュナなどが主要な神として崇拝される。

 このように主要な神々が交代したのは、ヴェーダの宗教がインド亜大陸の西北から東へ、あるいは南へ広がる過程で、それぞれの土地で古くから信仰されてきた神々を吸収し併合したからである。中には、排除され抹殺された土地の神々もあったろう。しかし、多くは融合することによって、異質な文化の摩擦を解消する道が選ばれた。また、融合される土地の神々の側にも「サンスクリット化」することで、高い地位を保つことができる効用があった。それが、非常に複雑な多面的・複合的なヴィシュヌやシヴァという神を生み出した。

 多様で異質な神々が、受け入れられ共存する。しかも、それらの神々は独立の神としてバラバラに併存するのではなく、ヴィシュヌ、あるいはシヴァを核として結晶していき、多面的・複合的な性格をもつ神を生み出した。ヒンドゥー教の中で、とりわけ大きな存在であるシヴァとヴィシュヌは、こうして登場してきた。

 サンスクリットでは、宗教行為を「karman(行為)」という語で表す。これは二種類に分けられる。ヤジュニャ (yajña) とプージャー (pūjā) である。ヤジュニャとプージャーを厳密に分けることは難しいが、ヴェーダの宗教の儀礼の中心に位置する「祭式」(ヤジュニャ)は、執行者がバラモンに限られている。また、動物の生贄が用いられることがある。
 
これに対して、ヒンドゥー教の儀礼はプージャーである。プージャーは「尊敬」「礼拝」「供養」を意味する。プージャーの形式の一部はヤジュニャに起源があるが、異なる要素も見られる。執行者は、特定の階級に限定されず誰でも行う。また、供物として用いられるのは、花輪、水、香、食べ物などである。普通、動物の生贄は用いない。(女神カーリーに、ヤギの犠牲を捧げるような例外はある)また、神々を称える歌や踊りがしばしば行われる。

 大規模なプージャーとしては、ベンガル地方のドゥルガー・プージャーが有名で、女神ドゥルガーを安置した山車を引き回し、神聖な河ガンガーに浸す。ここでも先住民族の宗教行為を吸収した形跡が見られる。プージャーの一部である花や香の供養は、仏教によって日本にも伝わっている。

2020/04/26

テセウス伝説と迷宮の神話(ギリシャ神話77)

クレタ島の迷宮の神話とミノタウロス退治
出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

 テセウス伝説は、アルゴステバイに遅れて台頭したアテナイの英雄伝承である。アテナイは初期の時代は、おそらくクレタ島のミノア文明の支配下に置かれていたと考えられる。そこからの脱却が「クレタ島の迷宮でのミノタウロス退治伝説」となるが、時代設定的には「アルゴー船伝説」に登場するメデイアヘラクレスが登場するので、その時代に設定しておく。この時代は「トロイ戦争伝説」に先立つ時代となる。

【アイゲウスの物語】
伝承は、テセウスの父となるアイゲウスから見なければならない。
1.アイゲウスが、アテナイの王となって妻をめとったが子どもができない。そこでアイゲウスは神託を乞いにデルポイに赴き、子どもができる方法の神託は得たが、訳が分からないまま帰途につく。

2.その帰り道、トロイゼンに寄った。(後で見るようにテセウス伝説は、このトロイゼンからとなる。アテナイとは内湾を隔てた対岸にあり、歴史時代にもアテナイとは非常に関係の深い町で、これが逆に「トロイゼン発のテセウス伝説」を創らせたのかもしれない)。

3.アイゲウスは、トロイゼンで自分が受けてきた訳の分からない神託の話をする。その神託とは「酒袋の突き出た口を、アテナイに戻るまで解いてはならない」というものだった。これはペニスを意味しており、子宝は授けてやったからアテナイまでムダにするな、ということだった。トロイゼンの王は、その意味が分かったが黙っていた。

4.トロイゼンの王は、アテナイとの強いつながりを求めてか、自分の娘をアイゲウスと一緒に寝かせて交わらせてしまった。

5.アイゲウスは事態を悟って帰路に就く時、その娘に、もし子どもができ男の子だったら、それが誰の子どもであるかは秘密のまま育て、成長したらこれを取り出させて旅に出すようにと言いおいて、大岩の下にサンダルと刀を埋め隠しておいた。

6.その後のこと、アテナイでパンアテナイア祭が執り行われた時、クレタ島からミノス王の息子が参加してきて優勝してしまった。

7.そこでアイゲウスは、そのミノスの子にマラトンに出没して被害を与えている牡牛の退治に向かわせたところ、彼は逆に牡牛に倒されてしまった。

8.怒ったミノス王がアテナイを攻めようと、先ずアイゲウスの兄弟で不死身のニソスが支配するメガラを攻める。

9.攻めてきたミノス王を見て、メガラのニソスの娘が恋してしまう。そしてミノスの策略によって、父ニソスの不死身の秘密である頭の毛に一本だけある紫の毛を抜いてしまい、かくしてメガラは攻略されてしまう。

10.しかしミノス王は、逆にこの娘を「父を裏切った娘」ということで、船に脚をくくりつけて溺死させてしまう。

11.こうして、ミノスはメガラを根拠地にしてアテナイに迫ったが、戦いは膠着状態になってしまう。

12.ミノス王は、神ゼウスに祈り疫病を流行らせ、やむなくアテナイは降伏し、ミノスの条件を何でも飲まなけれならなくなった。


13.そのミノスの出した条件というのが、迷宮に住まわせているミノタウロスの餌食として、毎年七人の少年・少女を差し出すというものだった。

14.ミノス王が神ポセイドンへの約束を果たさなかった罰として、神が牛を送りつけて、ミノスの妻がその牛に子とするようにし向けた。彼女は、名工ダイダロスが作った張りぼての牝牛の中に身を潜めて牡牛と交わり、その結果「身体は人間、頭は牛」という怪物が生まれる。これがミノタウロス(意味は「ミノスの牛」となる)と名付けられた。そして、ダイダロスが作った迷宮に閉じこめておいたものだった。