2023/07/28

悪神ロキの物語(3)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/

  しかし「ロキ」一人は、バルドルが何をされても無事なのが気に喰いませんでした。彼は胸に黒い気持ちを持ってそこを離れ、一人の「女」の姿に身を変えてフリッグのもとを尋ねたのです。フリッグは「女」が神々の集まりのところから訪ねてきたと知って、神々が何をしているかと尋ねました。

 

「女」は、神々は皆でバルドルに弓を射たり斬りつけたり石を投げたりするのだけれど、何一つバルドルの身体に当たらず傷つかないのですと答えました。フリッグは笑って、

「どんな武器も槍や弓も、バルドルを傷つけることはないのだよ。みんなから誓いを取り付けてあるのだから」

といいました。ロキが化けている女はずる賢く「皆なんてことはないでしょう」といいました。そこでフリッグは、うっかり

「西の方に宿り木の若木が生えてきたのだけれど、それは誓いをたてさせるには若すぎたから」

と答えてしまいました。

 

それを聞くや「女」の姿をしていたロキはすぐに西に向かい、宿り木が生えているのを見つけてそれを引き抜き、再び神々の集う広場へとやってきたのです。皆はまだワイワイやっていましたが、一人「ヘズ」という神だけがみんなから離れて一人でたたずんでいました。というのもこの「ヘズ」は盲目だったので、弓を射たり物を投げつけたりすることができなかったからです。

 

 そこでロキはヘズに、

「何で君はバルドルに弓を射かけないのかい」

とわざといいました。ヘズは

「自分には、バルドルの立っているところが見えないからね」

と寂しく言いました。これを聞いてロキは

「他の皆と同じようにしなくては、バルドルに敬意を示したことにならないよ。さあ、これで射てみるがいい。場所は僕が教えるよ」

と言って、弓とあの宿り木を削って作った矢を渡しました。

 

 そこで、ヘズはロキに教えられた方向に向かって弓を引き絞って、宿り木の矢を射かけたのでした。その矢は過たずバルドルの身体を貫き、バルドルは倒れ死んでしまったのでした。

 

 神々は声を失い、立ちすくむだけでした。そして、こんな仕業をした者に対して怒りで煮えくりかえりましたが、ここは聖なる場所でしたからここで復讐することはできませんでした。神々は何か話そうと思いましたが、涙が先に出て声になりませんでした。とりわけ、オーディンの嘆きは激しいものがありました。しかしロキの悪行は、これにとどまらなかったのです。

 

 神々は、やっと我に返りました。そこに急を知って駆けつけてきた女神フリッグが、一つの提案をしました。それは誰か自分の使者として冥界へと赴き、そこでバルドルをアースガルズに戻してくれるように冥界の女王ヘルに交渉してくれる者はいないか、というものでした。

 

 この役を引き受けたのは、オーディンの子でバルドルの弟「ヘルモーズ」でした。彼は「俊敏のヘルモーズ」と呼ばれるほど、すばしこい神でした。彼は父オーディンから、あの八本足の名馬スレイプニルを貸し与えられて駆けていきました。

 

 一方、バルドルの葬儀が執り行われることになりましたが、バルドルの持ち船を海に浮かべて葬儀の儀式をしようとしたけれど、あまりに大きい船であったので誰も動かせず、やむなく船の扱いに慣れた女の巨人が呼ばれました。彼女が一押しすると、コロから火花が散って大地が震えたけれど、船は動いて無事海に浮きました。バルドルの死体は船に運ばれ、彼の妻ナンナはこれを見て悲しみのあまり心臓が張り裂けて、かわいそうにバルドルの後を追っていきました。

 

彼らの死体は、薪の上に横たえられ荼毘に付されていきましたが、この葬儀にはすべての神々が参列し、山の巨人や霜の巨人たちすらもやってきました。誰からも愛されたバルドルだったからです。オーディンは、その荼毘の薪の上に自分の黄金の腕輪を置きました。この黄金の腕輪が、九日目ごとに自分と同じ黄金の腕輪を八つ生み出すようになったのは、これからのことだったのです。

 

 他方、ヘルモーズは九日間暗い深い谷間に馬を進めて、何も見えない中でギョル河のギョル橋というところに出ました。この橋は「冥界ヘル」への橋でした。番人の娘は言った

「前日は死者が五組もこの橋を渡ったけれど、あなた一人ほども橋を鳴り響かせることはなかった。それにあなたは死者の顔をしていない。あなたは何をしに、このヘルにやってきたのですか」

と。ヘルモーズはそれに答えて

「自分はバルドルを探しているのだ。あなたは、バルドルを見かけてはいないか」

と尋ねました。娘はそれに答えて

「バルドルは、すでにこの橋を渡っていきました。ヘルへの道は、下り道で北に向かっています」

と教えてくれました。ヘルモーズは、こうして冥界ヘルを囲む垣の所までやってくると馬の下帯をしっかり締め直して、一息でこの高い垣を跳び越えていきました。そしてヘルの館につくと、馬を下りて広間へと入っていきました。すると、その広間の一段と高くなっている高座に、兄のバルドルが悠然と座っているのを目にしました。ヘルモーズはこうしてバルドルと再会して一夜を過ごし、朝になって冥界の女王ヘルに会い、神々の嘆きを話してバルドルの返還を願いました。

 

 ヘルはそれを聞き、

「では世界中の者が、生きている者も死んでいる者も、彼のために泣くのなら彼を戻そう。しかし、もしたった一人でもそうしない者がいたら、ここにとどまらなければならない」

と言いました。ヘルモーズは、バルドルとその妻ナンナからのオーディンやフリッグへの贈り物を託された上で、引き返していき無事アースガルドに戻ると皆に一部始終を話してきかせました。すぐに神々は世界中に使者を差し向けて、バルドルのために泣いて欲しいということを伝えました。すべてのものが、人も獣も植物も、大地も石も金属もバルドルのために泣きました。ところが、ある一つの洞窟の中にいた巨人の女を見つけた時、この女は「私には関わりがない」と泣くのを拒絶してきたのです。このたった一人の女巨人ために、神々はついにバルドルを取り戻すのに失敗してしまったのです。この女こそ、またも「ロキ」が姿を変えていたものだったのでした。

 

 なお、バルドルを殺すことになってしまった「ヘズ」ですが、バルドルの弟「ヴァーリ」によって復讐され殺されることとなり、バルドルを追って「冥界」に行くことになります。しかし世界終末の後、バルドルと共にヘズも新しい地に再生してくる神となるという運命を持っています。そして『巫女の予言』では、世界終末の後

「種もまかぬに穀物は育つであろう。すべての災いは福に転ずるであろう。バルドルは戻るであろう。戦士の神々、ヘズとバルドルはフロプト(オーディンの別名の一つ)の勝利の地(アースガルドのヴァルハラ)に仲良く住む」

と謳われています。二人は切り離せない関係にあるのでした。

 

 このバルドルは、本来「バル」という言葉から推察されるように「明るい、光り輝く」という意味をもった「光明神」であり、この物語はその「光」が一度は「闇」によって滅ぼされ、再び新たな地に上ってくるというわけで、これは「一日の昼と夜」「季節の冬と夏」、そしておそらく「世界の終末と新たな世界の新生」という、終末論的思考に基づいた物語なのでしょう。つまり「ヘズ」はバルドルの兄弟であるわけですが「盲目」という描写で「闇」を表していると考えられるわけです。

 

 ただ、この神はすべてのゲルマン民族に共通した神ではなくスカンディナビアの、つまり「島のゲルマン人」特有の神であったろうと考えられています。それだけに「光と闇」というイメージが強く表れているのかもしれません。

2023/07/22

アウグスティヌス(3)

影響

西欧・西方教会

アウグスティヌスの思想的影響は西欧のキリスト教(西方教会)にとどまらず、西洋思想全体に及んでいるといっても過言ではない。

 

アウグスティヌス自身は、プラトン・新プラトン主義(プロティノスなど)・ストア思想(ことにキケロ)に影響を受けていた。すでにギリシア教父はギリシア思想とキリスト教の統合に進んでいたが、アウグスティヌスにおいて新プラトン主義とキリスト教思想が統合されたことは、西洋思想史を語る上で外すことができないほど重要な業績である。またラテン教父の間にあったストア派、ことにそれとともにマニ教のでもある禁欲主義への共感を促進したことも、キリスト教倫理思想への影響が大きい。

 

アウグスティヌスの思想として、特に後世に大きな影響を与えたのは人間の意志あるいは自由意志に関するものである。その思想は、後のアルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェにまで影響を与えている。一言でいえば、アウグスティヌスは人間の意志を非常に無力なものとみなし、神の恩寵なしには善をなしえないと考えた。このようなアウグスティヌスの思想の背景には、若き日に性的に放縦な生活を送ったアウグスティヌス自身の悔悟と、原罪を否定し人間の意志の力を強調したペラギウスとの論争があった(ペラギウス論争といわれる一連の論争は、西方教会における原罪理解の明確化に貢献している)。

 

フランク王国の国王カール大帝も、ことのほかアウグスティヌスの著作を好み、食事中に読ませたという。アウグスティヌスは圧倒的に人気があったため、自然な流れで聖人となり、1303年に教皇ボニファティウス8世によって教会博士とされた。中世カトリックを代表する神学者トマス・アクィナスも、アウグスティヌスから大きな影響を受けた。

 

近代に入ってアウグスティヌス思想から影響を受けた神学者の代表として、ジャン・カルヴァンとコルネリウス・ヤンセンをあげることができる。カルヴァンは宗教改革運動の指導者の一人としてあまりに有名だが、ヤンセンはあくまでカトリック教会内にとどまった。しかし、ヤンセンの影響はジャンセニスムとしてカトリック教会内に大論争を巻き起こすことになる。

 

ほかにもアウグスティヌスの時間意識(神は「永遠の現在」の中にあり、時間というのは被造物世界に固有のものであるというもの)も西洋思想の一部となったし、義戦(正戦論)という問題も扱っている。これもドナティスト論争という当時の神学論争の歴史的文脈から理解しないと誤解を招くが、アウグスティヌスは異端的になったドナティストを正しい信仰に戻すためなら武力行使もやむをえないと考えた。また神学者としては聖霊が父と子から発出することを、語り手・ことばによって伝えられる愛の類比などによって説いた。この立論は、後のフィリオクェ問題における西方神学の聖霊論の基礎のひとつとなった。

 

信仰実践の面では、西方における共住修道のあり方に、ベネディクトゥスに次ぐ影響を与えた。アウグスティヌスが一時実践した共住修道の修道規則とされたものは、中世末期にアウグスティノ会の設立へとつながり、これはカトリックにとどまらず、ルターを通じて宗教改革とプロテスタント的禁欲の思想へも影響を与えている。

 

アウグスティヌスは、カトリック教会において「最大の教師」とも呼ばれ重要視される。ただし原罪と人間性の脆さ・弱さに関する教理、および恩寵の必須であることを巡っては、しばしば極端に走ったとも指摘される。ルター、ツヴィングリ、カルヴァンなどにより、アウグスティヌスに残存していた誤謬が、誤って利用されたとすらカトリック教会では理解され、アウグスティヌスの論説を全的堕落論の基礎の一つとして扱うルター派、カルヴァン派といったプロテスタントとは、アウグスティヌスに対する捉え方に態様の違い・温度差がある。

 

現代では、アウグスティヌスがソフトウェアなどの知的財産の無償性を唱えた最初の人物であるとみなされることがある[?]。彼自身は哲学について述べているのだが、思想というのは物質と異なり、自由に共有されるべきものだとアウグスティヌスは考えていた[要出典]

 

東方教会

東方教会(正教会・東方諸教会)においても、アウグスティヌスは聖人として崇敬される。正教会でも、その生涯における神への模索と洗礼までの道程について言及されるなど、全面的に否定されている訳ではない。しかしながら正教会では、西方教会に比べてアウグスティヌスの位置づけは、さほど重要なものとされていない。特に原罪・堕落を巡るアウグスティヌスの見解に対して、正教会はこれを否定する。

 

また、対ペラギウス論争をめぐるアウグスティヌスの姿勢も、問題解決を不可能にしたものであると評されることがある。

2023/07/15

聖徳太子(4)

ゆかりの寺院

夢殿(法隆寺)

日本各地には、聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている。

 

四天王寺

大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。

『書記』によれば、593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる七星剣と丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の如意輪観音とも同一視される。

 

法隆寺(斑鳩寺)

奈良県生駒郡斑鳩町。金堂薬師如来像光背銘によれば、法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに死去したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。

『日本書紀』には、天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、若草伽藍の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は、太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。

 

斑鳩寺(播磨)

兵庫県揖保郡太子町。聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと伝えられている。

斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている。聖徳太子生誕地の橘寺と、墓所の叡福寺を結んだライン延長上に、この太子町の斑鳩寺が位置しているとの伝来がある。

 

太子建立七大寺

四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。

 

河内三太子

聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺は、それぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている。

 

聖徳太子 磯長墓

(大阪府南河内郡太子町)

墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。

『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。

直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。

20021114日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。

2023/07/13

アウグスティヌス(2)

自由意志

アウグスティヌスは、人間の自由意志についても論じていた。アウグスティヌスの自由意志の解釈を巡っては、相反する2つの立場がある。

 

1)アウグスティヌスは、予定説に立つ恩寵先行論に基づいて自由意志を否定的あるいは限定的に論じたとする立場。

2)救いにおける個人の自由意志を積極的に認めたとする立場。

 

先行的恩寵

前者の先行的恩寵に基づく解釈は、プロテスタンティズム神学で述べられることが多い。AE・マクグラスは、アウグスティヌスの自由意志論を次のように2段階に分けて整理する。

 

自然的な人間の自由は肯定される。人間が物事を為すのは自由意志による。

人間の自由意志は罪によって破壊も排除もされていないが、罪によってゆがめられているために、その回復には神の恵みが必要不可欠である。

アウグスティヌスによれば、人間の自由意志はいわば悪の分銅によって傾けられた天秤のようなもので、悪へと向かう深刻な偏りが存するのである。

 

宮谷宣史は、以下のように整理する。

 

生きとし生ける者は誰でも、キリストの恩恵なしには罪の裁きを免れることは出来ない。

神の恩恵は、人間的な功績によって与えられることはない。

恩恵は全ての人に与えられるわけではない。

恩恵は神の一方的な憐れみにより与えられる。

恩恵が与えられないのは神の裁きによる。

善であれ悪であれ、自分の行為に対しては報いがある。

主への信仰は人間の自由意志による。

 

宮谷はアウグスティヌスの自由意志論にパウロの影響を認めつつ、アウグスティヌスは罪を「無知」あるいは「無力」として捉え、人間には自由意志があっても善悪を判断する知識あるいは能力がないために、救いの根拠は「人間の」自由意志ではなく、「神の」自由な選びと予定である。

 

クラウス・リーゼンフーバーによれば、アウグスティヌスにおいて、自由とは歴史を形成する能力であるが、原罪を孕んだ結果、人間の自由は悪へと傾斜することとなり、中立的な自由を失った。しかし神の恩寵により自由な「神の国」において、人間は自らの自由を取り戻すことが出来るが、その段階においても意志の弱さは残る。その時人間が神への愛に貫かれて生きるなら、つまり愛への意志によって恩寵により完成されるならば、もはや罪を犯すことのない自由を得ることが出来る。そして個人は、この救いの過程を通して、歴史の進展に寄与するとした。リーゼンフーバーによれば「アウグスティヌスは、人間本性はアダム以来継受される原罪によって損なわれ、それゆえ神と掟の遵守へと向かうためには、先行する無償の恩寵が必要であると考え」た。

 

ほかに福田歓一も、アウグスティヌスはペラギウスと自由意志を巡る論争で、自由意志を認めつつも、人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができないと述べたとして、同じ立場に立つ。金子晴勇『宗教改革の精神』では、アウグスティヌスは自由意志を否定したのではなく、その価値を認めて自由意志を許容したが、人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができないのであると説いたのだといい、これも前者に近い。前者のような理解のもとに、アウグスティヌスを発展させて明確に自由意志を否定したのがルターである。

 

個人の自由意志

個人の自由意志を積極的に認めたとする後者の立場としてはエラスムス、南原繁がいる。南原繁はアウグスティヌスは「神と人間のあいだの道徳的人格関係」を明らかにしたと述べている。また半沢孝麿によれば、彼は古代以来の「自由」という言葉を「神との関係における人間そのもののあり方に関わる言葉」とした。アウグスティヌスは予定説によって、世界を神による永遠不易の秩序内にあるとしたが、それは人間の自由意志による救いを少しも否定しないというものである。アウグスティヌスは、神は人間を本性上自由意志を持つ者として創造したのであるから、人間の救いは自由意志に基づくものでなければならないと考えたとする。

2023/07/11

悪神ロキの物語(2)

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「六つの宝の物語」

 さらにロキが神々にもたらしたものとしては、すでに紹介してあるオーディンの持つ「投げやり」「黄金の輪」とフレイの持つ「折りたたみ式の船」と「金色の猪」、トールの持つ「槌のミョルニル」にまつわった物語があります。

 

 ある時ロキはいたずらで、トールの愛妻シフの自慢の金髪をすっかり切り取ってしまいました。トールは当然激怒してロキを捕まえ、力任せにロキをこなごなにしてしまおうとしました。ロキは大あわてで謝り、必ず元通りにしますと約束して釈放してもらい、細工に巧みな「こびと族」を訪ねていきました。そして細かな細工の名人であるこびと「イワルディ」の仕事場に行って、自然の髪と同じように生えてくる黄金の髪を注文して作らせたのでした。

 

ついでにロキは「折りたたみ式の船」と「必ず命中する投げやり」とを作ってもらってアースガルドに戻り、トールの妻には「黄金の髪の毛」を、オーディンには「投げやり」を、フレイには「折りたたみ式の船」を献上したのでした。そして自慢して、これほどのものをつくれる者は他には決して存在しないだろうと吹聴したのでした。これを聞きとがめたのがブロックルという「こびと」で、自分の兄弟の「シンドリ」はもっと素晴らしいものが作れる、とロキをたしなめてきたのです。そこで両者は言い争いになり、結局二人は「自分の頭」を賭けて勝負することになってしまいました。

 

 ブロックルからこれをきいたシンドリは早速製作に取りかかり、先ず一頭の「豚の皮」を炉の中に入れ、ブロックルに片時も休まずに「ふいご」を動かし続けるように言い置いて出ていきました。ブロックルは「ふいご」を動かし続けていましたが、その時一匹のアブが飛んできて、その手を激しく刺しました。これはアブに身を変えたロキの仕業でした。しかしブロックルはそれに耐えて「ふいご」を動かすのを止めませんでした。しばらくしてシンドリが戻ってきて、炉の中から「黄金の猪」を取り出したのでした。

 

 次にシンドリは一つの黄金の塊を炉の中に入れ、また同じようにブロックルに片時も「ふいご」を休むことなく動かすようにと言い置いて出ていきました。ブロックルが言いつけ通り休みなく「ふいご」を動かしていると、またもや「アブのロキ」が飛んできて前よりももっと激しく刺してきました。ブロックルは、必死にそれに耐えて休みませんでした。やがてシンドリが戻ってきて、とりだしたのが「黄金の輪」でした。

 

 さらにシンドリは鉄を炉の中に入れました。そしてブロックルに、もし「ふいご」の手を休ませたらすべてが台無しになってしまうからと注意して、またも出ていきました。「ふいご」を動かしているブロックルに「アブのロキ」は、今度は両目に間に止まってまぶたの上を刺してきたのです。そのため目の中に血が流れてブロックルは目が見えなくなり、困ったブロックルは一瞬動きを止めて両目の間に止まっているアブを追い払い、再び「ふいご」を動かしました。やがてもどってきたシンドリが炉の中からとりだしたのは、一つの「槌のミョルニル」でした。ただブロックルが一瞬動きを止めたため、この槌は少し柄の部分が短くなっていました。そして黄金の輪を「オーディン」に、「黄金の猪」を「フレイ」に、そして「槌のミョルニル」を「トール」に差し出し、「ロキの贈り物」とどちらが優れているかの判定を求めてきました。三人の神はそれらを見比べ、巨人たちから世界を守るのに最大の武器となる「槌のミョルニル」が最も貴重であると認めて、ブロックルの勝ちとしました。

 

 ところで二人は「頭」を賭けていたわけで、ロキは頭をとられなければならないことになってしまいましたが、そこはロキのことでずるく、頭をやるとは言ったけれど首までやるとは言わなかったのだから、首を傷つけることなく頭を取れと言い張りました。やむなくブロックルはキリと革ひもを持ち出し、ロキの生意気な口を縫い合わせてしまったといいます。

 

 以上の物語は「おとぎ話」のようなものですが、次に紹介する「神バルドル」に関わる話こそ、ロキが神々に最大の悲劇をもたらした悲惨な物語となります。

 

「神バルドル」にまつわる物語

 これは「アース神たちにとって、もっとも重要な話である」と語られてきます。その始まりは「善良なる神バルドル」が自分の生命に関わる不穏な夢をみたことから始まりました。

 

 バルドルについては「もっとも優れた神で、誰一人彼をたたえない者はいない、容貌も美しく輝いており光が発している。彼はもっとも賢く雄弁で優しい」とたたえられているほどの神であり、アース神の中でも重要な神の一人でした。

 

その彼が不吉な夢をみたということで、その夢のことをアース神たちに告げると神々は集まって相談し、バルドルをあらゆる危険から守ろうと誓いました。

 

 そしてオーディンの妻である最高の女神フリッグは「火や水、鉄を始めあらゆる金属、石や大地、樹々、獣、鳥、蛇、また病気や毒」に対して、バルドルに指一本触れることがないように誓いをたてさせました。そして神々はバルドルをみんなの真ん中に立たせて、てんでに彼めがけて弓を射たり刀で斬りつけたり、石を投げつけたりしてみました。しかし何をやっても、それはバルドルの身体に触れることがなく、彼は何ら傷を負うことがなかったのです。神々は大変喜んで満足しました。

2023/07/06

聖徳太子(3)

そのほかの伝説

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この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(202211月)

独自研究が含まれているおそれがあります。(202211月)

 

鎌倉時代に製作された南無仏太子立像(奈良国立博物館所蔵)。聖徳太子が2歳時に東の方角に向かい、合掌して「南無仏」と唱えたとする伝説を表した彫像で、鎌倉時代末期から作例が増加した。

 

以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。

 

なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている『古事記』『日本書紀』(記紀)の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている。

 

出生について

「厩の前で生まれた」「母・間人皇女は、西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時、既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。

 

しかし、一般的には当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスより、さらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺、またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。

 

豊聡耳

ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。

 

『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には、11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから、上記の逸話が後付けされたとする説もある。

 

近年では、当時の日本は渡来人も行き来しており日本国内での言語はまだ一つに統一されておらず、聖徳太子が様々な言語や方言を聞き取ることができた人物だった、という意味ではないのかとする説が浮かび上がってきた。

 

兼知未然

『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に『未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)』の存在が噂される一因となった。

 

『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも、未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものとされている。江戸時代に出た『先代旧事本紀大成経』(全72巻)の69巻目に記された『未然本記』が、『未来記』もしくはそれを模した書であるとされたが、人心を惑わす偽書であるとして江戸幕府により72巻全てが禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された。

 

南嶽慧思の生まれ変わり

「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(七代記)』『上宮皇太子菩薩伝』『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。

 

中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており、鑑真渡日の動機となったとする説もある。

 

飛翔伝説

『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。

 

片岡飢人(者)伝説

『日本書紀』によると、次のようなものである。

 

推古天皇2112月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子は、これを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。

 

「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

 

翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。

 

数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。

 

『万葉集』には上宮聖德皇子作として、次の歌がある。

 

上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首

(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田諡推古)

「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人𪫧怜」

家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ

 

また、『拾遺和歌集』には、聖徳太子作として次の歌がある。

 

しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし

 

後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。

 

箸の奨励について

隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。

2023/07/03

アウグスティヌス(1)

聖アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus3541113 - 430828日)は、ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のカトリック教会の司教であり、神学者、哲学者、説教者。ラテン教父の一人。

 

テオドシウス1世がキリスト教を国教として公認した時期に活動した。正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派における聖人であり、聖アウグスティヌスとも呼ばれる。日本ハリストス正教会では、福アウグスティンと呼ばれる。母モニカも聖人である。

 

名前が同じカンタベリーのアウグスティヌス(イングランドの初代カンタベリー大司教)と区別して、ヒッポのアウグスティヌスとも呼ばれる。

 

生涯

アウグスティヌスは、キリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、354年に北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのスーク・アフラース)に生まれた。若い頃から弁論術の勉強を始め、370年からは、タガステの富裕な市民ロマニアヌスの伝で西方第2の都市カルタゴにて学ぶ。父パトリキウスは371年に死去した。

 

この年から女性(氏名不詳)と同棲を始め、翌372年に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus‹a-deo-datus› から「神からの贈り物」の意。372-388年)が生まれる。同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。

 

キリスト教に回心する前は、一時期(373-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。

 

当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、さらに384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって386年に回心し、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第1313-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。

 

387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが、13世紀に合同して出来た修道会である)。

 

391年、北アフリカの都市ヒッポ・レギウス(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、さらに396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。以後、430年の死去まで、この街で暮らすこととなった。

 

410年、ゴート族によるローマ陥落を機に噴出した異教徒によるキリスト教への非難に対し、天地創造以来の「神の国」と「地の国」(次節「思想」参照)の二つの国の歴史による普遍史(救済史)の大著『神の国』によって応えた。この著作はアウグスティヌスの後期を代表する著作となる。

 

430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日と合わせるかのように、古代思想の巨人は828日に死んだ。

 

思想

「神の国」と「地の国」

『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかし、イエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。

 

アウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった。藤原保信と飯島昇藏によれば、アウグスティヌスにあっては、絶対的で永遠なる「神の国」が歴史的に超越しているのに対して、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的で、非本質的な限定的なものに過ぎない。したがって政治秩序は相対化されるのであるが、アウグスティヌスがいわゆるニヒリズムや政治的相対主義に陥らないのは、政治秩序の彼岸に絶対的な神の摂理が存在し、現実世界に共通善を実現するための視座がそこに存在するからである。だからこそ基本的に「神の国」とは異質な「地の国」の混入した「現実の」教会は、それでもなお魂の救済を司る霊的権威として、「地の国」において「神の国」を代表するのである。ここに倫理目標の実現の担い手が国家から教会へ、政治から宗教へと移行する過程を見ることができ、古典古代の政治思想との断絶が生じた。

 

JB・モラルによれば、アウグスティヌスの考えでは異教国家に真の正義はなく、キリスト教に基づく政治社会だけが正義を十分に実現できる国家であり、非キリスト教的な政治社会には「国家」 (Respublica) の名称を与えてはいない。アウグスティヌスは、国家を卑しい存在とし、堕落した人間の支配欲に基づくもので、その存在理由はあくまで神の摂理への奉仕で、それはカトリック教会への従属によって得られる。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも影響を与えた。