2023/11/25

チャクラ(1)

チャクラ(梵: चक्र, cakra; : chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。

輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。

 

概説

タントラの神秘的生理学説では、物質的な身体(粗大身、ストゥーラ・シャリーラ)と精微な身体(微細身、スークシュマ・シャリーラ)は複数のナーディー(脈管)とチャクラでできているとされる。ハタ・ヨーガの身体観では、ナーディーはプラーナが流れる微細身の導管を意味しており、チャクラは微細身を縦に貫く中央脈管(スシュムナー)に沿って存在するとされる、細かい脈管が絡まった叢である。

 

身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラと、エネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

 

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (acakranirūpaa) に基づいている。この書物は16世紀ベンガル地方で活動したシャークタ派のタントラ行者プールナーナンダが1577年に著したとされるもので、これについてミルチャ・エリアーデは最も正統的なチャクラ観を表わす文献だと評した。アーサー・アヴァロンによる紹介以降、この6輪プラス1輪のチャクラは定説のようにみられているが、実際は学派や流派によってさまざまな説がある。

 

例えば『ヘーヴァジュラ・タントラ』などの仏教タントリズムでは4輪説が主流である。愛知文教大学の遠藤康は、『六輪解説』における身体観は脈管とチャクラに関する比較的詳細でよくまとまった解説であり、チャクラを含む伝統的な身体観を原典に遡って理解するうえで有益な文献であるが、あくまで特定の流派における論である、と指摘している。

 

表象文化論を研究する埼玉大学基盤教育研究センター准教授の加藤有希子によると、現代に広く普及した虹色と7つのチャクラを関連付けた身体論は、近代神智学のチャールズ・ウェブスター・レッドビータ(1854 - 1934年)が考案したものである。彼はインド由来のヨーガの経典とも西洋の信仰や神秘主義の文脈からも断絶する形で、1927年の著作で7つのチャクラのプラーナの色と、西洋の虹の7色を独自に関連付けた。近現代ヨーガ、ニューエイジやスピリチュアル系の思想に取り入れられている。そういった言説では、チャクラの7色はインドの伝統に由来するかのように伝えられているが、事実とは異なる。

 

ヒンドゥー・ヨーガにおけるチャクラ

一般にチャクラは6つあると言われる(サハスラーラをチャクラに含る場合は7つ)。背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……と呼ぶこともある。

 

ハタヨーガの古典『シヴァ・サンヒター』ではチャクラはパドマ(蓮華)と呼ばれ、同書第5章ではアーダーラパドマからサハスラーラパドマまでの7つの蓮華について詳述されている。加藤有希子によると、伝統的なチャクラの色には体系的な秩序はほとんどなく(さほど重視されてこなかったのかもしれない)、現代のように各チャクラに虹の7色があてはめられることはない。

 

1のチャクラ

ムーラーダーラ・チャクラ(mūlādhāra-cakra)と呼ばれ、脊柱の基底にあたる会陰(肛門と性器の間)にある。「ムーラ・アーダーラ」とは「根を支えるもの」の意である。ヒンドゥー・ヨーガの伝統的なチャクラの図では、赤の四花弁をもち、地の元素を表象する黄色い四角形とヨーニ(女性器)を象徴する逆三角形が描かれている。三角形の中には、蛇の姿をした女神クンダリニーが眠っている。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は金色。『蛇の力』での色は黄色。

 

2のチャクラ

スワーディシュターナ・チャクラ(svādhişţhāna-cakra)と呼ばれ、陰部にある。「スヴァ・アディシュターナ」は「自らの住処」を意味する。朱の六花弁を有し、水の元素のシンボルである三日月が描かれている。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は金色。『蛇の力』での色は白。

 

3のチャクラ

マニプーラ・チャクラ(maņipūra-cakra)と呼ばれ、腹部の臍のあたりにある。「マニプーラ」とは「宝珠の都市」という意味である。青い10葉の花弁をもち、火の元素を表す赤い三角形がある。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は黄金色。『蛇の力』での色は赤。

 

4のチャクラ

アナーハタ・チャクラ(anāhata-cakra)と呼ばれ、胸にある。12葉の金色の花弁をもつ赤い蓮華として描かれ、中に六芒星がある。風の元素に関係する。「アナーハタ」とは「二物が触れ合うことなくして発せられる神秘的な音」を指す。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は真紅。『蛇の力』での色は煙色。

 

5のチャクラ

ヴィシュッダ・チャクラ(viśhuddha-cakra)と呼ばれ、喉にある。くすんだ紫色をした16の花弁をもつ。虚空(アーカーシャ)の元素と関係がある。「ヴィシュッダ・チャクラ」は「清浄なる輪」を意味する。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は黄金色。『蛇の力』での色は白。

 

6のチャクラ

アージュニャー・チャクラ(ājñā-cakra)と呼ばれ、眉間にある。インド人は、この部位にビンディをつける。2枚の花弁の白い蓮華の形に描かれる。「アージュニャー」は「教令、教勅」を意味する。「意」(マナス)と関係がある。『シヴァ・サンヒター』で言及されているチャクラの色は白色。

 

7のチャクラ

サハスラーラ(sahasrāra)と呼ばれ、頭頂にある。sahasra は「千」、ara は「輻」〔や〕で、千の花弁の蓮華(千葉蓮華)で表象される。一説に千手観音の千手千眼はこのチャクラのことという。他の6チャクラとは異なり身体次元を超越しているとも考えられ、チャクラのうちに数え入れられないこともある。

 

その他

アージュニャーの近傍にマナス・チャクラとソーマ・チャクラ、ムーラーダーラとスワーディシュターナの間にヨーニシュターナがあるとされるが、これらは主要なチャクラには数えられない。

 

20世紀のヨーガ行者ヨーゲシヴァラナンダは、主な6チャクラに加えて臍の上のスールヤ・チャクラ(太陽のチャクラ)とチャンドラ・チャクラ(月のチャクラ)を挙げ、身体には8つのチャクラがあるとしている。

2023/11/22

北欧神話(1)

宇宙論

世界樹ユグドラシル

北方民族は この世に九つの世界があると信じていた。

 

1) アースガルズ - アース神族の世界。オーディンの居城ヴァルハラが位置するグラズヘイムも、この世界に含まれる。ヴァルハラは偉大な戦士達の魂である、エインヘリャルが集う場所でもあった。こうした戦士達はオーディンに仕える女性の使い、ヴァルキュリャによって導かれる。彼女らが纏う煌く鎧が、夜空のオーロラを作り出すのだと考えられた。

エインヘリャルは、ラグナロクで神々の護衛を行う。ラグナロクとは神々とその邪悪な敵との大いなる戦いで、命あるすべての存在が死に絶えるとされた、北欧神話における最終戦争である。善と悪との両極端にわかれての戦いは、古代における多くの神話で、ごく普遍的にみられるモチーフである。

 

2) ヴァナヘイム - ヴァン神族の世界

 

3) ミズガルズ - 死を免れない人間の地

 

4) ムスペルヘイム - 炎とスルトの世界。スルトとは、溶岩の肌と炎の髪を持つ巨人である

 

5) ニヴルヘイム - 氷に覆われた世界。ロキがアングルボザとの間にもうけた半巨人の娘ヘルが支配し、氷の巨人達が住む

 

6) アルフヘイム - エルフの世界

 

7) スヴァルトアルフヘイム - 黒いエルフ、スヴァルトアールヴァルの住む世界

 

8) ニダヴェリール - 卓越した鉱夫や腕の立つ鍛冶屋であった、ドワーフや小人達の世界。彼らはトールのハンマーやフレイの機械で造られたイノシシなど、神々へ魔法の力による道具を度々作り上げた

 

9) ヨトゥンヘイム - 霜の巨人ヨトゥンを含む巨人の世界

こうした世界は世界樹ユグドラシルにより繋がれており、アースガルズがその最上に位置する。その最下層に位置するニヴルヘイムで根を齧るのは、獰猛な蛇(または竜)のニーズヘッグである。アースガルズには、ヘイムダルによって守られている魔法の虹の橋、ビフレストがかかっている。このヘイムダルとは、何千マイルも離れた場所が見え、その音を聞くことが可能な、寝ずの番をする神である。

 

北欧神話の宇宙観は、強い二元的要素を含んでいる。例えば昼と夜は、昼の神ダグとその馬スキンファクシ、夜の神ノートとその馬フリームファクシが神話学上、相応するものである。このほか、太陽の女神ソールを追う狼スコルと、月の神マーニを追う狼のハティが挙げられ、世界の起源となるニヴルヘイムとムスペルヘイムが、すべてにおいて相反している点も関連している。これらは、世界創造の対立における深い形而上学的信仰を反映したものであったのかもしれない。

 

神的存在

神々にはアース神族・ヴァン神族・ヨトゥンの3つの氏族がある。当初、互いに争っていたアース神族とヴァン神族は、最終的にアース神族が勝利した長きにわたる戦争の後、和解し人質を交換、異族間結婚や共同統治を行っていたと言われており、両者は相互に関係していた。一部の神々は、両方の氏族に属してもいた。

 

この物語は、太古から住んでいた土着の人々の信仰していた自然の神々が、侵略してきたインド=ヨーロッパ系民族の神々に取って代わられた事実を象徴したものではないかと推測する研究者もいるが、これは単なる憶測に過ぎないと強く指摘されている。

 

他の権威(ミルチャ・エリアーデやJP・マロイ等)は、こうしたアース神族・ヴァン神族の区分は、インド=ヨーロッパ系民族による神々の区分が北欧において表現されたものだったとし、これらがギリシア神話におけるオリュンポス十二神とティーターンの区分や、『マハーバーラタ』の一部に相当するものであると考察した。

 

トールは幾度も巨人達と戦う

アース神族とヴァン神族は、全体的にヨトゥンと対立する。ヨトゥンは、ギリシア神話でいうティーターンやギガースと同様の存在であり、一般的に「giants(巨人)」と訳されるが、「trolls(こちらも巨人の意)」や「demons(悪魔)」といった訳の方が、より適しているのではないかという指摘もある。しかし、アース神族はこのヨトゥンの子孫であり、アース神族とヴァン神族の中にはヨトゥンと異族間結婚をした者もいる。例えば、ロキは2人の巨人の子であり、ヘルは半巨人である。言うまでもなく、最初の神々オーディン、ヴィリ、ヴェーは、雌牛アウズンブラの父が起源である。

 

エッダにおいては一部の巨人が言及され、自然力の表現であるようにも見える。巨人には通常、サーズ(Thurse)と普通の横暴な巨人の2つのタイプがあるが、他にも岩の巨人や火の巨人がいる。エルフやドワーフといった存在もおり、彼らの役割は曖昧な点もあるが、概して神々の側についていたと考えられている。

 

加えて、他にも霊的な存在が数多く存在する。まず、巨大な狼であるフェンリルや、ミズガルズの海に巻きつくウミヘビのヨルムンガンドという怪物がいる。この怪物達は悪戯好きの神ロキと、巨人アングルボザの子として描かれている(3番目の子はヘルである)。

 

それらよりも慈悲深い怪物は、2羽のワタリガラスであるフギンとムニン(それぞれ「思考」と「記憶」を意味する)である。オーディンは、その水を飲めばあらゆる知識が手に入るというミーミルの泉で、自身の片目と引き換えに水を飲んだ。そのため、この2匹のカラス達はオーディンに、地上で何が起こっているかを知らせる。その他、ロキの子で八本足の馬スレイプニルはオーディンに仕える存在で、ラタトスクは世界樹ユグドラシルの枝で走り回るリスである。

 

北欧神話は、他の多くの多神教的宗教にも見られるが、中東の伝承にあるような「善悪」としての二元性をやや欠いている。そのため、ロキは物語中に度々、主人公の一人であるトールの宿敵として描かれているにもかかわらず、最初は神々の敵ではない。

 

巨人たちは、粗雑で乱暴・野蛮な存在(あまり野蛮ではなかったサーズの場合を除く)として描かれているが、全くの根本的な悪として描かれてはいない。つまり、北欧神話の中で存在する二元性とは、厳密に言えば「神 vs 悪」ではなく、「秩序 vs 混沌」なのである。神々は自然・世の中の道理や構造を表す一方で、巨人や怪物達は混沌や無秩序を象徴している。

 

巫女の予言:世界の起源と終焉

世界の起源と終局は、『詩のエッダ』の中の重要な一節『巫女の予言(ヴォルヴァの予言)』に描かれている。これらの詩には、宗教的なすべての歴史についての最も鮮明な創造の記述と、詳述されている最終的な世界の滅亡の描写が含まれている。

 

この『巫女の予言』では、ヴァルハラの主神オーディンが一度死んだヴォルヴァ(巫女)の魂を呼び出し、過去と未来を明らかにするよう命じる。巫女は、この命令に気が進まず

 

「私にそなたは何を問うのか?

なぜ私を試すのか?」

 

と述べる。彼女はすでに死んでいるため、オーディンに対する畏怖は無く、より多くを知りたいかと続けて嘲った。しかしオーディンは、神々の王としての務めを果たす男ならば、すべての叡智を持たなければならないはずであると主張する。すると巫女は過去と未来の秘密を明かし、忘却に陥ると口を閉じた。

2023/11/17

唐(2)

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概要

唐(とう、拼音:Táng618 - 690年,705 - 907年)

長安(現在の西安)を都とし、7世紀の最盛期には、シベリアや中央アジアの砂漠地帯も支配した大帝国。朝鮮半島や渤海(現ロシア沿海州)、日本などに、政治政策・文化などの面で多大な影響を与えた。

 

歴史

南北朝時代、北周王朝の唐国公の家系に生まれた李淵(高祖)が、続く隋を滅ぼして建国した。李淵は北周の貴族であったが、鮮卑系とも言われる。国名の由来は、祖先の爵位唐国公から。その息子、李世民(太宗)の時代に大きく発展し、モンゴル高原の突厥や中央アジアの高昌を征服した。内政も整備され、その治世は「泥棒がいなくなり、民は戸締りをせずに暮らせた」という伝説もある「貞観の治」と讃えられる。

 

690年に高宗の皇后であった武則天(則天武后)によって唐王朝は一旦廃されて周王朝が建てられたが、705年に病床に着いた武則天が退位して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述されることが通例である。武則天は政治家として優れていたので、国号は変わっても唐の繁栄は続いた。武則天退位後の唐では、皇后の韋氏が皇帝の中宗を暗殺するなど一族の内紛が続く。

 

この後、712年に李隆基(玄宗)が即位し、内紛を収めて唐王朝を建て直す。玄宗の治世は「開元の治」と呼ばれ、唐の最盛期になった。長安の人口は100万人を超え、当時では世界最大の都市となる。また文化面でも、詩人の李白や杜甫が現れ全盛を迎える。しかし、辺境防衛の為に節度使が置かれ、地方の軍事と行政を掌握するようになったのが災いをもたらす。

 

755年、玄宗に重用されて平盧・范陽・河東節度使を兼ね、北方守備の大軍を率いていた安禄山が安史の乱と呼ばれる反乱を起こす。安禄山の軍勢によって長安は攻め落とされ、唐は一気に滅亡の危機に陥る。反乱の原因になったとされて殺された寵姫楊貴妃と玄宗皇帝との悲恋は、白居易(白楽天)によって長恨歌という漢詩になり、日本でも知られる。

 

安禄山が息子に殺される等の反乱軍の混乱をついて、次の粛宗は757年に長安を奪還し、763年には当時反乱軍を率いていた史朝義が諸将の離反により自殺する。こうして安史の乱は収めたものの、唐は次第に衰退していく。その主な原因は、安史の乱をきっかけにして各地の節度使が軍事力にものを言わせて地方に割拠し、独立性を強めたことにある。憲宗は禁軍を強化して反抗的な節度使を討伐して中興の祖と呼ばれたが、その死後は再び節度使の専横が強まって、この軍事的な不安定さは最後まで解消されなかった。やがて塩の密売業者を中心とする黄巣の乱という大規模な反乱が全土に広がり、907年に唐は滅亡する。それから北宋の成立に至るまで、中国大陸は五代十国と呼ばれる乱世の時代に入った。

 

日本との交流

663年の白村江の戦い(日本&百済vs唐&新羅)もあったが、その後は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。

遣唐使停止の13年後に唐は滅亡し、室町時代の日明貿易まで日本と中国大陸の間の正式な国交は絶えた(しかし、民間での交流は絶えず続き、引き続き日本に大きな影響を与えている)

 

歴代中華王朝の中でも政治、文化、芸術等で多大な影響を受けており、日本では唐の滅亡後も唐(から)、唐土(もろこし)の語は中国、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。唐辛子や、トウモロコシは原産地は南米で、日本に持ち込んだのは南蛮人であるが、本来は関係ないはずの「唐」の名がついている。

 

中世などには、大陸から輸入した品物を唐物と呼んだりした。

 

ただし、日本では「中国」の代名詞・別称となった唐だが、中国史では浸透王朝(漢民族以外が建てたが、最終的には支配者層は漢民族に同化した王朝)1つとされている。

2023/11/15

パタンジャリのヨーガ・スートラ(3)

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ヨーガの人体宇宙観

ヨーガにおいては、生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。

この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。

 

そのプラーナが人体を通る道はナーディーと呼ばれ、そのルー トの数は7万2千本とも35万本ともいわれています。これらは現代医学では血液の循環経路や神経管の経路とも捉えることができますが、比較的東洋医学の鍼灸に用いられる「経絡」に近いものと考えられ、ヨーガで は微細体(プラーナヤマ・コー シャ)の次元の経路と考えられます。そして、それらのナーディーなかでも大切なルートは14本あり、その中でも特に重要な幹線が次の3本となります。 

 

・スシュムナー管

このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、その中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。

 

これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとはムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ-ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。

 

このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管が、チャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらは、あたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、またそのチャクラ()という微細体のセンターも、医学的には各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。

 

・ イダー(月の気道)

イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。

 

・ピンガラー(太陽の気道)

ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。

 

[チャクラについて]

これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って順に説明していきましょう。

 

ムーラダーラ・チャクラ

ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり、生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり燃えるような金色をしていると捉えられている。

 

スヴァディシュターナ・チャクラ

スヴァは「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり血のような赤色をしていると捉えられている。

 

マニプラ・チャクラ

マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。

 

アナーハタ・チャクラ

アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音「ナーダ音」がします。血液の循環とともに、感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。

 

ヴィシュダ・チャクラ 

ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、言葉を司り興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり海のような色をしていると捉えられている。

 

アージニャ・チャクラ

アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり白光色をしていると捉えられている。

 

サハスララ・チャクラ

サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体し、ブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。

2023/11/08

唐(1)

唐(とう、拼音: Táng618 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。

 

歴史

建国

西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された。文帝は内政面でも律令の制定・三省六部を頂点とする官制改革・郡を廃止して州県制を導入・科挙制度の創設など多数の改革を行った。

 

604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ。煬帝は大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征)。その最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発、大小200の勢力が相争う内乱状態となった(隋末唐初)。

 

国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原の留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された。

 

同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、唐を建国した。この時点で王世充・李密・竇建徳・劉武周など各地に群雄が割拠していた。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を尚書令として、各地の群雄討伐に向かわせた。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた。

 

抜群の功績を挙げた李世民は、皇太子である李建成および四男の李元吉と後継の座を巡って対立するようになるが、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった。626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)。

 

貞観の治

帝位を継いだ太宗は、626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡の梁師都を平定し、統一を果たした。更に630年には突厥の内紛に乗じて李靖・李勣を派遣して、これを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった鉄勒諸部から天可汗(テングリ=カガン)の称号を奉じられた。647年には、この地に燕然都護府をおいて鉄勒を羈縻支配においた。635年には吐谷渾を破り、更にチベットの吐蕃も支配下に入れた。ただし吐蕃には度々、公主を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった。

 

内政面においては、房玄齢・杜如晦の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた魏徴・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が45銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、(盗賊がいなくなったので)みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、貞観の治と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した『貞観政要』は、後世に政治の手本として扱われた。しかし統一から間もないこの時点で、そこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や『貞観政要』の記述はかなりの潤色が疑われる。

 

太宗の政治も徐々に弛緩が見えるようになり、643年に魏徴が死ぬとその傾向に拍車がかかった。

 

642年、高句麗で泉蓋蘇文がクーデターを起こし、唐から遼東郡王に冊封されていた栄留王を殺し、その弟の宝蔵王を王位につけた。太宗はすぐに出兵を考えたが、一旦は取りやめる。しかし新羅からの要請を受けて、645年から三度(645年、647年、648年)にわたって高句麗遠征を行うが、いずれも失敗した(唐の高句麗遠征)。

 

三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝高宗となった。

 

武周革命

太宗と長孫皇后の間には、李承乾(長男)・李泰(四男)・李治(九男)の三人の男子がいた。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが、長孫皇后の兄の長孫無忌が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった。長孫無忌には、凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった。

 

高宗の治世初期は、長孫無忌・褚遂良・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた。ここに登場するのが武照、後の武則天である。

 

武照は太宗の後宮で才人だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って昭儀となった。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った。皇后となった武則天により、長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、垂簾の政を行い、武則天は高宗と並んで「二聖」と呼ばれた。

 

この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる。

 

武則天

683年に高宗が死去すると、武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた(中宗)が、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた(睿宗)。当然、実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった。武則天に対する反乱も684年に起きた。李勣の孫の李敬業が起こしたもので、反乱軍の中に初唐を代表する詩人の一人駱賓王がおり、駱賓王が書いた檄文を読んだ武則天はその文才に感心し、「このような才能のある者を流落させているのは宰相の責任だ」といったという。

 

この反乱も程なく鎮圧され、690年に遂に武則天は帝位に登り、国号を周とした。中国史上唯一の女帝である。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った。

 

武則天の政治は女性が皇帝になったこと、武承嗣・武三思ら武氏一族、薛懐義や張易之・張昌宗兄弟など武則天の寵愛を受けた者たちなどが権力を握って専横したということ、酷吏を使って密告政治を行ったことなどで評判が悪い。一方で武則天は、当時はまだ有効に機能していたなかった科挙から人材を組み上げており、武則天により抜擢された姚崇は後の玄宗時代に活躍し、開元の治を導いたと評される。また武周の15年はほぼ平穏な時代であり、この時代に唐は最大版図を実現している。

 

老いた武則天の後継者として、武承嗣たちは自らが後継になることを画策したが、武則天が最も信頼をおいていた重臣の狄仁傑はこれに強く反対。最終的に武則天の決断により廃されていた中宗が戻り、698年に皇太子に復された。更に705年、狄仁傑に推薦されて宰相となっていた張柬之は張易之・張昌宗兄弟を斬殺し、ついには病床の武則天に迫って彼女を退位に追い込み、中宗を即位させ、唐が復活した。同年に武則天は死去。

 

武則天死後、中宗の皇后韋氏が第二の武則天にならんと政治に容喙するようになった。710年に韋后とその娘安楽公主は中宗を毒殺、殤帝を傀儡とした後、自らが帝位に登らんと画策したが、睿宗の三男の李隆基と武則天の娘の太平公主によるクーデターにより韋后と安楽公主は誅殺され、睿宗が再び即位した。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。

 

2人の皇后の姓を取って、7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。

2023/11/06

パタンジャリのヨーガ・スートラ(2)

http://www.ultraman.gr.jp/ueno/

第四段階 「調気法(ちょうきほう)」= プラーナーヤーマ

調気法とは、宇宙のエネルギー=プラーナ(生命力)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態をコントロールのよすがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気を追放して、静かで落ち着いた心をはぐくみ、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。

 

ヨーガスートラにおいては「プラーナヤーマを行ずる事によって、心の輝きを覆い隠している煩悩が消える」「その外、心が色々な凝念に堪えられるようになる」(Ⅱ-52・53)と述べられています。

※ 実際の種類と技法は「身心八統道」の項に譲ります。

 

第五段階 「制感(せいかん)」= プラティヤハーラ

プラティヤハーラとは「向けて集める」という意味です。ここから、今までの身体生理的な部門から、心理的な部門へと入る掛け橋となるのがこのプラティヤハーラの段階です。

 

座法や呼吸法の後、意志的な「動作を納めて」、瞑想の姿勢に入ります。その時、生じてくる静けさの中にて、外の世界に向かう心や、感覚を対象から離し、意思の働きを内部に向けて、冷静に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象をはからずも、つかみ、つかまれている自分の思考と五感はおのずから、その対象から離れ、内面へと集中していく行法は、絶えず心を悩ませ、不安を与える問題から一旦心を引き離し、「なにものにも囚われない自在な心」にリセットするきっかけを作ります。この領域は、マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)の調整に入ってきます。

 

ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(Ⅱ-54)と述べられている。 

 

第六段階 「凝念(ぎょうねん)」= ダーラナー

凝念は、心をある一点にとどめて動かさないことです。この凝念と次の静慮、三昧の段階は実際には、はっきり分割できない一連の心理的流れとなり、一括して<統制(サンヤマ)>とよばれます。ここでは、主にロウソクの炎とか、特定の図形や、自分のみけんの一点に心を集中するとか、ひとつのテーマにイメージを集中する方法などを用います。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に入ってきます。

 

ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」(Ⅲ-1)と述べられている。 

 

第七段階 「静慮(じょうりょ)」= ディヤーナ

凝念で一点に集中していた心が、その対象と同化し始め、それを中心にして、日常の意識を超えて、ある種の「洞察」や「ひらめき」が起こり、広く深く、自由に展開されていく状態のことです。その直感的映像や思考は、やがて自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていきます。この「ディヤーナ」を中国で音訳し「禅那」となり、日本に渡って「禅」となっています。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業に入ってきます。

 

ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」(Ⅲ-2)と述べられている。 

 

第八段階 「三昧(さんまい)」= サマーディ

自我の認識領域を越え、「生命の智」をもたらす領域の中に入ります。「梵我一如」の心境で対象も主体も、ともに合一した状態をいいます。仏教では、これを<空>といいあらわしていますが、この境地は「なにもない」という意味ではなく、直感的洞察や啓示の場であり、宇宙的意識の働く空間でもあります。そこでは、きわめて鮮明で充実した内容をもって、その味わいは、まさに新たな生命感と、宇宙的啓示と、感涙の時となります。ここは、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域になってきます。

 

ヨーガ・スートラにおいては、この体験を「真我が、その周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明しています。

 

これがヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法の概要になります。 

 

□ヨーガの流れ

 古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教を生み、その影響をうけながら、やがて、観照者たる純粋精神(プルシャ)と現象する根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ-ンキャ哲学を理論的支柱として、今、検討しました「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラが6世紀の頃に成立しました。

 

ほぼ同時代に併行して、インド思想の原点といわれる叙事詩マハーバラータの成立(BC2世紀~AD4世紀)によって、神への愛と奉仕の道「バクティ・ヨーガ」、行為による悟りの道「カルマ・ヨーガ」、智恵と悟りの道「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれ、8世紀にはヴェーダンタの学匠シャンカラ(700~750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教え=この世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が生まれ、その後の、インド宗教哲学の中心思想となります。

 

やがて10世紀を過ぎますと、これまで顕教的、心理的な「私∞宇宙」に対するアプローチから、密教的、感性的「私=宇宙」の捉え方に移行してきました。これをタントリズムといいます。これは現世を苦の世界として否定し解脱を得るという思想から、この世界こそブラフマンの現われであり、陰・陽の原理によって成立しているという現世肯定的な思想の当然の帰結となります。そのことは、人体こそ宇宙()の構造そのものであり、神はその中に宿る生命意識(真我)そのものであるという認識により、その体験を感得する様々な身体技法が考えられ、発達してきました。

 

13世紀頃になりますと、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって書かれ、その後15~16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。

 

ここでは、様々なヨーガの身体技法や呼吸法や瞑想によって、独自な人体宇宙観が形成され梵我一如の思想が顕現されていきます。その一端を図示し解説を加えていきましょう。

2023/11/03

ゲルマン的英雄像(2)

出典http://ozawa-katsuhiko.work/


 翌年、またその弟が10歳になったということでシグムンドのところに送られてきた。

しかし、やはりその子も駄目であった。こうしてシグニュは卑劣な悪人シゲイルの血が入っている子では駄目だと悟り、シグニュは懇意にしていた魔女に頼んで自分の姿と取り替えてもらった。そしてシグニュの姿に身を変えた魔女にシゲイルの相手をしてもらっている間に、魔女の姿になっているシグニュは森へと忍んでいった。この魔女は絶世の美女であったので、シグムンドはこの魔女の姿になっている妹シグニュをそれとは知らずに抱いた。

 

三日三晩二人は情を交わし、やがてシグニュは子どもを生んだ。その子は「シンフィエトリ」と名付けられた。そしてまた10年がすぎ、シンフィエトリはシグムンドのもとに送られてきた。その前にシグニュはこの子を試そうと衣を腕に一緒に縫いつけ、さらにそれをむしり取ってみたが、シンフィエトリは平然としていたので今度は大丈夫だろうと思っていたが、果たしてシグムンドの与えた試練にも動ずるところが無かった。

 

 こうして二人は復讐の機会を待ったが、その間二人は魔法の狼の毛をかぶって狼にされてしまうなどの試練があって、こうして二人は時節到来ということでシゲイルの館へと忍んでいった。しかし、ちょっとした偶然から二人は見つけられてしまい、シゲイルに捕縛され閉じこめられてしまうが、シグニュがひそかにシグムンドの剣を手渡したので、それによって二人は脱出し館に火をかけていった。

 

 あわてて飛び出してきたシゲイルに対して、シグムンドとシンフィエトリはヴエルスング一族のシグムンドとその妹シグニュの子であると名乗り、すでにシグムンドは亡き者と信じ込んでいたシゲイルは驚愕した。二人はシゲイルを討ち、ついに一族の敵をとった。そして燃えさかる館からシグニュを助け出そうとしたけれど、シグニュはここで始めてシンフィエトリの出生の秘密を語り

 

「自分は、これまで一族の敵をうつため敢えて我が子を殺し、兄シグムンドを欺いて交わって子をもうけるなど、あらゆることも堪え忍んできた。今この悲願が達せられた上は、もはや生きている価値もない、嫌な相手ではあったけれど夫と呼んだ以上、シゲイルと共に死ぬ」

と言って火の中に駆け込んでいってしまった。

 

 こうして敵をうったシグムンドとシンフィエトリは故郷に戻り、そこを略奪していた簒奪者を討ち果たして祖国を自分たちの手にとりもどした。シグムンドは、新たにボルグヒルドという女性を妻として王としてこの地に君臨し、そして数々の戦いにかり出されたがいずれも勝利を収め、天下にその勇名を轟かせた。その中でのシンフィエトリの活躍はめざましかった。

 

 ところがある時、その息子シンフィエトリが、一人の女性を巡って自分の妻ボルグヒルドの一族と争いになり、相手を殺してしまうという事件が起きてしまった。その一族はその敵ということで策を練り、宴会を催してそのさなかにシンフィエトリに無理に毒の入った酒を飲ませて殺してしまったのであった。

 

 最愛の息子を失ったシグムンドは、自分も死んでしまうほどの悲しみにうちひしがれ、一人シンフィエトリの亡骸を抱えて森の中へと入っていった。そして深い森の中の湖の傍らに出ると、そこに一艘の小さな船があって、その中に一人の見知らぬ男が座っていた。男はシグムンドに向こう岸まで渡してやろうと声をかけてきた。シグムンドはそうしようと思ったけれど、船が小さすぎたので先ずシンフィエトリの死骸を渡してもらい、ついで自分もわたろうとした。ところが船はシンフィエトリの死骸を乗せると、スーと岸を離れてやがてかき消すように消えてしまったのであった。これは実は「神オーディン」だったのであり、彼は自分の特に気に入った勇士を自分の館ヴァルハラへと導くため、普通はヴァルキューレに託するところを自分で出向いて来た姿だったのである。

 

 こうしてシグムンドも館に戻り、シンフィエトリを殺した一族の者であった妻ボルグヒルドを離縁し、新たにヒヨルディースという女性と結婚することになった。ところが、別に同時期にヒヨルディースに求婚していた王がおり、彼はシグムンドに負けた恨みを晴らそうと密かに大軍を用意し、突然急襲してきたのであった。用意の無かったシグムンドの軍は小人数であったが、シグムンドの獅子奮迅の活躍はめざましく、戦いは一進一退となっていた。そうした戦闘のさなか、相変わらず敵の軍勢を押しまくっていたシグムンドの前に突然、幅の広い帽子をかぶった片目の男が現れ、その槍でシグムンドに討ちかかってきたのであった。シグムンドがその剣でこの槍を打ち払うと、これまでどんな堅い剣や盾、鎧にも刃こぼれ一つしなかったあの名剣が、まっぷたつに折れてしまったのであった。

 

 こうしてシグムンドの軍勢は劣勢になり、なおも奮迅の活躍をし続けるシグムンドであったが、ついにその命運は尽きていったのであった。

 

 いうまでもなく、この幅広の帽子をかぶり片目の男とは「神オーディン」であり、彼は直々に自分のもっとも気に居る勇士シグムンドをヴァルハラに連れて行くべく迎えにきたのであった。

 

 他方、シグムンドは新しい妻ヒヨルディースに子だねを残しており、その子がやがて「シグルズ」と名乗る英雄へと成長していくことになります。この「シグルズ」こそ、中世のゲルマン歌謡「ニーベルンゲンの歌」の主人公となる「ジークフリード」の元の姿でした。しかし、ここでは「アインヘルヤル」をテーマとしましたので、以上までにしておきます。

 

 さて以上にみた「シグムンドとシンフィエトリ」という、この二人の親子のアインヘルヤルの物語でゲルマン人がモデルとする英雄象が浮かび上がってくると思います。それは、一言で言うと「一族に対する忠誠」が基本となっていて、一族が討たれた時の復讐が重要なポイントになっています。それに加えては「剛胆さ」「死を怖れず真っ向から敵や危機に立ち向かうこと」「そのための犠牲は何も怖れない」などが読み取れます。