2020/05/30

五賢帝時代(2)


ネロの死でオクタヴィアヌス、ティベリウスの血統、これをユリウス=クラウディウス家というんですが、は途絶えます。このあと短い内乱の後、フラウィウス朝が成立しますが、これも最後の皇帝が暗殺されて断絶します。その後、始まるのが五賢帝時代(96~180)です。

フラヴィウス朝が途絶えた後、帝位を継ぐ者がいない。そこで、元老院で話し合い、自分たちの中から皇帝を選ぶことにしたんです。一番温厚で良識ある人物が皇帝に選ばれた。これがネルヴァ(位96~98)です。即位したとき66歳ですから、もうお爺さんだね。枯れてるわけ。カリグラみたいになるおそれは絶対ない。ネルヴァは財政難と政治的混乱を収拾して、黄金時代の基礎を作った。ネルヴァは、子供がいなかったんです。そこで養子を迎えて帝位を譲ることにした。

元老院議員の中から、優秀で人望があって良識的で軍隊からも支持される人物を養子にした。これがトラヤヌス(位98~117)です。彼の時代に、ローマ帝国は領土が最大になった。トラヤヌスの凱旋門というのが、現在も残っています。写真あるね。ローマでは、将軍や皇帝が戦争で大勝利を収めて帰ってくる時に凱旋式という盛大な儀式をする。その時に帰還した指揮官が潜るのが、この凱旋門。パリの凱旋門は、ナポレオン時代に、これを真似たのです。

トラヤヌスも、子供がいなかった。そこで、また元老院議員から養子です。これがハドリアヌス(位117~138)。優秀な人物を養子にしているんだから、これも立派な皇帝になる。ハドリアヌスも子供がいない。また養子です。アントニヌス=ピウス(位138~161)がそれ。で、もう想像つきますね。アントニヌス=ピウスも、子供がいない。また養子です。

5人目がマルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161~180)。この人は皇帝としても優秀だったけど、さらに哲学者として有名。哲人皇帝と呼ばれています。「自省録」という本を書いている。彼は辺境地帯の戦場で生活しながら、夜は自分の天幕でロウソクの明かりで哲学書を書いたんですよ。日本でも出版されている。学校の図書室にもあるし、私も持っています。

2000年前の、ローマの皇帝の書いた哲学書ですよ。例えば日本の総理大臣の小渕さんが哲学書を書いて、それを今から2000年後の西暦4000年のイタリアの人が読むと思いますか。小渕さんがダメだというわけではなくて、それくらいマルクス=アウレリウス=アントニヌスはすごいじゃないか、ということです。

彼は立派な人物でしたが、一つだけ欠点があった。本当は欠点ではないんですが。何かというと、彼には子供がいたの。ここまで優秀な皇帝が続いたのは、養子でそういう人物に跡を継がせたからですよね。しかし実子がいれば、その子を跡継ぎにしたいと思うのは哲人皇帝でも同じ。というわけで五人続いた優秀な皇帝は途絶え、五賢帝時代は終わります。

五賢帝時代はローマ帝国の最盛期とされています。パックス=ロマーナ(ローマの平和)と言われる時代です。

 ちょっと話はそれますが、五人の皇帝中最後のマルクス=アウレリウス=アントニヌス以外は、みんな子供がなかったというのは、どう考えたらいいのか。もう、これは偶然とは呼べない。全般的に出生率が低下している。当時のローマ貴族は、性的関係は滅茶苦茶だといいましたが、それと関係があるようなんです。次回の話に関係してきますから、ちょっと頭の隅に入れておいてください。

五賢帝以後の皇帝については、ごちゃごちゃしているので省略。一人だけ覚えておくのがカラカラ帝(位188~217)。カラカラ帝は212年、ローマ領内のすべての自由民にローマ市民権を与えました。相続税を支払うのはローマ市民だけだったので、ローマ市民を増やすことで増収を狙ったとされています。理由はともかく、これでローマ人と属州人との区別はなくなってしまった。名目的だけでも残っていた都市国家的な形式が消えて、ローマは普通の領域国家になった。それに応じて支配形式も変わっていくのですが、それはまた後の話。

2020/05/28

ヒンドゥー教(9) ~ バガヴァッド・ギーター(1)


バガヴァッド・ギーター(サンスクリット語: श्रीमद्भगवद्गीता Śrīmadbhagavadgītā、 発音 [ˈbʱəɡəʋəd̪ ɡiːˈt̪aː] ( 音声ファイル))は、700行(シュローカ)の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩マハーバーラタにその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァンの詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。

バガヴァッド・ギーターは、パーンダヴァ軍の王子アルジュナと、彼の導き手であり御者を務めているクリシュナとの間に織り成される二人の対話という形をとっている。兄弟、親族を二分したパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍のダルマ・ユッダ(Dharma-yuddha、同義的に正当化される戦争)に直面したアルジュナは、クリシュナから「躊躇いを捨て、クシャトリヤとしての義務を遂行し殺せ」と強く勧められる。このクリシュナの主張する戦士としての行動規範の中には「解脱(moka)に対する様々な心構えと、それに至るための手段との間の対話」が織り込まれている。

バガヴァッド・ギーターは、バラモン教の基本概念であるダルマと、有神論的な帰依(バクティ)、ヨーガの極致であるギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガの実践による解脱(モークシャ)、そしてサーンキヤ哲学、これらの集大成をなしている。

今までに幾つもの注釈書が書かれており、バガヴァッド・ギーターの教義の本質に関して様々な角度から語られている。 その中でも、ヴェーダーンタ学派の論評者はアートマンとブラフマンの関係を様々に読み解いている。そして戦場というバガヴァッド・ギーターの舞台は、人間の倫理と道徳上の苦悩を暗示していると捉えられてきた。

バガヴァッド・ギーターの提案する無私の行為はバール・ガンガーダル・ティラクや、マハトマ・ガンディーを含む多くのインド独立運動の指導者に影響を与えた。ガンディーは、バガヴァッド・ギーターを「スピリチュアル・ディクショナリー」と喩えている。

著者について
叙事詩マハーバーラタは、伝統的にヴィヤーサの著作とされている。マハーバーラタの一部をなすバガヴァッド・ギーターも、また彼によるものだといわれている。またヴィヤーサは、作中人物の一人でもある。

成立時期 
バガヴァッド・ギーターの記された時期に関しては、紀元前5世紀頃から紀元前2世紀頃までと、かなり幅を持って語られる。ジーニーン・ファウラー(Jeaneane Fowler)は、バガヴァッド・ギーターに寄せた注釈書において、紀元前2世紀が成立の時期としてもっともらしいと述べている。バガヴァッド・ギーター研究者のカシ・ナート・ウパジャヤ(Kashi Nath Upadhyaya)は、マハーバーラタ、ブラフマ・スートラ、その他の独立した資料の推定成立時期に基づいて、ギーターの成立時期を紀元前5世紀から紀元前4世紀の間と結論づけている。

現存する最古のバガヴァッド・ギーターの写本は、年代がはっきりと特定できていない。しかし一般的に、普遍性を保っていることが求められるヴェーダとは違い、バガヴァッド・ギーターは大衆に寄り添った作品であり、伝承者は言語や様式の変化に適合させることを余儀なくされてきたものと考えられている。そのため、この変化しやすい作品の現存する最古の写本の一部は、他の文献に「引用された形で残る」最古のマハーバーラタの一文、すなわち紀元前4世紀にパーニニがまとめたサンスクリットの文法を思わせる一節より遡ることは無いであろうと考えられている。この聖典バガヴァッド・ギーターが、一応の完成にたどり着いたのはグプタ朝初期(4世紀頃)であろうと推定されている。成立時期に関しては、今なお議論が残っている。

ヒンドゥー教の成立とスムリティ
マハーバーラタの性質から、バガヴァッド・ギーターはスムリティ(聖伝、伝承されているもの)、に分類される。紀元前200年から紀元後100年ごろに成立した種々のスムリティ(聖伝)は、様々なインドの風習と宗教が統合に向かいつつあったこの時代において、ヴェーダの権威を主張した「インドの諸文化、伝統、宗教の統合を経てヒンドゥー教の合成に至るプロセス(ヒンドゥ・シンセシス)」の発現期に属している。このヴェーダの受容は、ヴェーダに否定的な態度を取っていた異端の諸宗派を包み込む形で、あるいは対抗する形でヒンドゥー教を定義する上での中核となった。

この、いわゆるヒンドゥー・シンセシスは、ヒンドゥー教の古典期(紀元前200年から紀元後300年)に表面化している。アルフ・ヒルテベイテルは、ヒンドゥー教の成立過程における地固めが始まった時期は、後期ヴェーダ時代のウパニシャッド期(紀元前500年頃)と、グプタ朝の勃興する時期(紀元320年から467年)の間に求めることが出来るとしている。氏は、この時期を「ヒンドゥー・シンセシス」、「バラモン・シンセシス」、「オーソドックス・シンセシス」などと呼んでいる。この変化は、他の信仰や民族との接触による相互作用によってもたらされた。

ヒンドゥー教の自己定義の発現は、このヒンドゥー・シンセシスの全期間を通して、常に接触をもってきた異端の宗派(仏教、ジャイナ教、アージーヴィカ教)との相互作用、さらにはマウリヤ朝からグプタ朝時代への転換期において、その第3段階として流入してきた外国人(ヤバナと呼ばれたギリシャ人、サカすなわちスキタイ人、パルティア人、クシャーナ人)との相互作用という時代背景によってもたらされた。
出典 Wikipedia

2020/05/26

テバイを巡る三つの伝説(ギリシャ神話79)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

「カドモスのテバイ建国伝説」「オイディプス伝説とアンティゴネ伝説」「テバイ戦争物語」

 ギリシャの英雄伝承は、ペロポネソス半島の「アルゴス」を巡るものと、ギリシャ本土中部の「テバイ」を巡るものとに大別できる。この二つの都市が、古い時代の二大勢力であったからである。先に見た「ペルセウスの伝承」や「ヘラクレスの伝承」は、アルゴス系のものであった。もう一つのテバイ伝承は「テバイ建国、カドモスの伝説」と「オイディプス王伝説、その娘アンティゴネ伝説」、および、その死後の騒動である「テバイ戦争物語」とに代表される。

 テバイ戦争とは、ペロポネソス半島にあったアルゴスが、中部ギリシャのテバイに攻めて一度は敗北するが、後にその後裔たち(エピゴノイと呼ばれる)による復讐戦においてテバイを滅ぼすというものになり、アルゴスとテバイという当時の二大勢力の衝突と、最終的なアルゴスの勝利が描かれる。

アルゴスの勝利の後の時代が「ミケーネ時代」となる。従って、ミケーネが小アジアを攻めるトロイ戦争の主人公たちの父親の世代が、テバイ攻めの時代とされている。こんな具合に英雄伝説の背後には、歴史の流れがほの見えている。

カドモスによるテバイ建国の伝説
 テバイ建国は「カドモスの伝説」となるが、これに先立つ話しがあって、それは「エウロペの物語」となる。

1. 現在の中東レバノンあたりとなる、古代フェニキア地方を支配していたアゲノルという王の娘に「エウロペ」という娘がいた。

2.そのエウロペに対して神ゼウスが邪な心を抱き、妻である女神ヘラの目をくらまそうと牡牛の姿となってエウロペに近づき、エウロペがその背中に乗った時に海に飛び込み、クレタ島へと連れていって、そこでエウロペから子どもを生ませた。

3.その時以来、フェニキア方面が「アシア」と呼ばれていたのに対して、その海岸線からクレタ方面、つまり西地方を「エウロペの地、つまりヨーロッパ」と呼ぶようになった。

4.カドモスの物語はここからで、カドモスはエウロペの兄であり、エウロペの父であるアゲノルによって行方不明の妹の探索を命じられた。

5.カドモスは、アポロンの神託を仰ぎにデルポイへとやってきたが、神アポロンはカドモスに対してエウロペのことは忘れろといい、それよりここを出て一匹の牝牛に出会ったらそれを道案内として、その牛が横になったところに町を作れと命令した。

6.カドモスはデルポイを後にして歩いていくと、一頭の牝牛が歩いていくのに出会い着いていくと、その牛は後にテバイと呼ばれることになる地に来て、横になった。

7.カドモスは、その牛を女神アテネに捧げようと従者に命じ、泉に水を取りに行かせた。ところが、その泉は戦の神アレスの泉で、一匹の龍がそれを守っていた。

8.従者達がその龍に殺されたと知って、カドモスはその龍と戦い退治する。

9.女神アテネの言葉があって、その龍の歯を抜き取り畑に撒いたところ、そこから武装した戦士たちが生え出てきた。カドモスが石を投げつけた所、彼等は互いに殺し合いとなり、結局五人だけが残った。この五人が、テバイ王家の長老となる。

10.カドモスは、神アレスの龍を殺したということでアレスに対する罪があるとなり、8年間の間奉仕活動をして、その後女神アテネによって王国を与えられる。

11.さらにゼウスによって、女神アフロディテとアレスの間の娘「ハルモニア」を、妻としてもらいうけた。

12.カドモスは、年老いてテバイを去る。そしてエンケレイア人のもとにやってくるが、そこはイリュリア人に侵略されており、カドモスは神託に基づいて彼等と戦い、勝利してイリュリア(バルカン半島西部で、イタリアとはアドリア海を挟んで対面した地方、現在のクロアチア辺り)を支配することになる。

13.その後、彼は妻ハルモニアともども龍に変身し、ゼウスによって「エリュシオンの野(これは地下界にある天国のような所で、生前の行いが正しく優れた人生を送ったものだけが送られる地、とされていた所)」に送られたとなる。

テバイの王「オイディプス」の伝承
 テバイの王「オイディプス」の伝説は有名となっているが、ここではソポクレスの悲劇『オイディプス王』の梗概を紹介しておく。

背景の伝承
 テバイの王ライオスは、自分の子によって殺され、さらにその子は自分の母と結婚し子を為すに至るとの神託を受け、それを恐れて生れた子供の足をピンで刺して止め、山中に捨てる。時が経ち、テバイの郊外に妖怪スフィンクスが出没し、その解決のためライオスはデルフィの神託を求めにいくが、その途上で旅の男と争いになり、誤って殺されてしまう。

一方、テバイはスフィンクスのせいで困窮するが、一人の知の英雄が通り掛かり、スフィンクスの謎を解いてテバイを救う。王を失っていたテバイは、その英雄に乞うて「王家」に入ってもらい、王妃と結婚し新たな王になってもらうこととする。こうして、彼は四人の子を持つに至る。

 この英雄こそが、他ならない山中に捨てられたはずのライオスの子であって、彼は救われコリントスの地にあって、子供のなかった王によって育てられていたのであった。その子はオイディプスと名付けられた。彼はある時、ひょんなことで「お前は実の父を殺し、実の母と寝床を共にし子を為す」という神託を受け、それを避けるために放浪していたのである。その途上、彼は旅の老人の一団と出会い、争いの中でこの老人を殺してしまっていた。

 こうして、実はライオスとオイディプスに下された神託は実現してしまったのであった。ここまではギリシャ神話・英雄伝説の語るところである。

 そして今、テバイの町は疫病の蔓延で苦しんでいると、ソポクレスはこの自分の『悲劇』の幕を開けていく。