2012/09/17

CCD画像診断(歯医者地獄)(5)

(ともあれ、コレで終ったぞ!)

 

と思ったのは甘い考えで、現実はやはり甘くはなかった。当日は炎症の痛みを我慢しながらも、予約をしていた「しゃぶしゃぶ食べ放題&飲み放題」をこなして、翌日には炎症もかなり引いてひと安心していたのだが、数日後に痛み始めたのである。

 

前に書いたン年前に治療した奥歯のメンテについては、しばらく先送りするつもりで予約を入れていなかっただけに、慌てて電話をすると既に土曜は予約が一杯とのことだ。その歯科は日曜もやっているが、担当医師が休みという。その日は金曜日だ。このままでは早晩、食事も満足に出来ないような状況に陥りそうな予感がしていたから、翌週末まで我慢するというのは不可能に思えただけに、藁にもすがる思いで

 

(今日の夜にでも予約が取れないか?)

 

と聞いてみると

 

(既に予約が一杯ですが、痛みがあるのでしたら応急措置程度は可能です・・・)  とのこと。この歯科は月~日まで無休の上、平日は23時まで診療しているのはありがたかった。

 

そうして、この日は仕事を早めに切り上げて歯科に駆け込むと

 

「前回治療した虫歯が、かなり穴が大きく神経に近いところまで削ったので、かみ合わせによって神経に響くことがあるかもしれません。それほどズキズキ痛むのでなければ、応急処置として噛みあわせの調整をしておいて、様子を見て必要なら神経を抜くなどの処置が必要かもしれない」

 

とのことで、ひとまず噛みあわせの調整をしてもらった。

 

ところで前の歯科でもそうだったが、この歯科でも初診の時に

 

「ン年前に治療をして以来・・・」

 

という話をすると、どの医師も

 

「しっかり治療をされてますね・・・使っている金属とか、かなり古いもので今では使わないものですが、かなり考えられたいい治療をされていますね・・・」

 

とみなが声を揃えたように言うことから、やはり地元で通っていたH医師の腕前はかなりのもののようだったことは間違いない。実家に電話をした際、オヤジにそのことを言うと、やはり

 

「あの先生、よっぽど腕が良かったらしい・・・みんな、よその歯医者に行くと

『しっかり治療されてますね』

と、どの歯医者も感心してるそうだ・・・」

 

と言っていた。が、その先生もガンで亡くなり、残念ながら『H歯科』は廃業となったらしい。元々、そのH先生の親は外科医で、地元では有名な市民病院の副院長を務めていたくらいの大物だったが、息子のH先生は医師には成れずに歯科医となった。そしてH先生のご子息はといえば、歯医者にも成れずに薬剤師になっているとか。

 

(うーむ・・・簡単に終ると思っていたのに、なんでこんなことになるんだ・・・)

 

と頭を抱えたい心境だったが、実はこれはまだ「歯医者地獄」に足を踏み入れる第一歩に過ぎなかった。これだけ治りが悪いとなると、どうも歯科医への不信感が募ってくるのも不思議ではないかもしれない。

 

こうなると

 

「歯石を取ったら、虫歯が見つかった」

 

と言っていたのさえ疑わしい気がしてきた。あの日に歯石を取って終わりのはずだったのに、その歯石の下に虫歯が潜んでいたとは!

 

確かに、数年分の歯石が溜まっていたのは事実だから、あながち「嘘」と決め付けることもできないとはいえ

 

(あのままで治療が終っては儲からないから、本当は虫歯でもない歯をでっち上げたんじゃなかろうな?)

 

と疑わずにはいられないのだ。もっとも幾ら疑ってみたところで、真実は闇の中ではあっただけに、どうにもならぬ。ともあれ、今は痛みや滲みを治すことが先決なのである。

 

こうなると歯医者選びがさらに難しくなってくるが、かつてmixiコミュニティで評判の良かった歯科2件に電話をしてみる。ところが、これが揃って電話がなかなか繋がらず、ようやく繋がったと思ったら

 

「予約がいっぱいで、1ヶ月くらい先しかお取りできません」

 

ということで、このような悠長な相手は役に立たなかった。某クチコミサイトで「吉祥寺で人気ナンバーワン」と絶賛されていた歯科が、歩いて5分程度の近所だったことを思い出し予約を入れると、幸運にも直ぐに予約が入った。色々なクチコミのサイトを見ても「腕の良い先生」、「優しい先生」、「痛みのない治療」などと、実に評判が良いのである。早速、このH歯科に行くことにした。

 

ところで、歯医者といえば最初にレントゲンを撮るのは定番といえるが、この歯科ではレントゲンだけでなく口内にCCDカメラを入れ歯の11本を前後左右から撮って、PCで立体的な画像診断を行っていた。このようにすると、レントゲンだけではわからない歯の裏側や、被せ物の中の状態までがわかるらしい。ところが、この「画像診断」の結果を聞いて、大ショックを受けずにはいられなかった。

2012/09/15

目黒(1)

「目黒(めぐろ)」という地名はあまりにも有名ですが、その地名語源は諸説あって決定的なものがありません。一番有名で一般に信じられているのは、徳川三代将軍家光が「五色不動尊」を設置し、そのなかの「目黒不動尊」に由来するという説ですが、これはまったくの俗説のようです。というのは「目黒」という地名は江戸時代に始まるものではなく、室町時代の文書にすでに登場しているからだそうです。

 

奈良時代末期に慈覚大師が寺を建てた時、目黒不動を安置したからことに由来するという説も無理があるようです。もしそうなら「目黒」不動一つだけを安置するというのはありえないことで、青・黄・赤・白・黒の五色の不動尊のすべてを安置しているはずだからです。黒以外の他の四つの不動尊が、どこか近くになければならないというわけです。

 

後でふれますが、目白に目白不動尊があるではないかということも言えますが、それならなおのこと他の色の不動尊がないといけません。まして家光は江戸時代初期の将軍で、そんな大昔の話ではありませんから。また馬を飼って訓練させているところがあって、目の黒いいい馬がいたからという説もあるのですが、これもそうなら何か有名な馬にまつわる「史実」や「伝説」があるはずですが、そういうのも聞きません。

 

地名研究者の説のうちには、湾曲・屈曲している土地を意味する「めぐる(廻る)」、あるいは崩壊地名の「めくれる」に由来するというのがあります。アップダウンの多い目黒あたりの地形を考えると、この説が妥当ではないかと思えます。

 

目黒区の目黒という地名は一体、何に由来しているのだろうか。興味を抱いた先人、今人たちはさまざまな説を展開しているが、残念ながらその真偽は明らかではない。  その説とは。

 

牧場の畦道(免畦・馬畦)説

馬畦(めくろ)の畦は田んぼの畦道ではなくて、馬が逃げ出さないように盛り土した牧場囲いの土手のことで、どんなものか実見したい人は世田谷区の九品仏浄真寺に行くがいい。寺は奥沢城址だ。中世の乗馬飛越防止の館囲いの土手が残っている。 高さにして2mばかり、それほど高くはない。サラブレッドなら簡単に飛越するが、和馬はロバを大きくした程度の大きさだから、これで十分だった。飛越のためには助走路が必要だから、外周を壕または軟弱地盤にしておけば強襲は防御できた。

 

慈覚大師の目の黒い不動尊像説

滝泉寺の不動尊像は、大同年間(806~9)に慈覚大師が比叡山に向かう途中、霊夢に突き動かされて彫刻し安置したものだといわれている。村名になってもおかしくないほど古い訳だ。不動尊像の目を黒く塗っていたことから「目黒不動」と呼ばれ、江戸五色不動の一つに数えられる。しかし、五色不動は目黄・目青が新設された明治に入ってからのことで、それまでは三不動だったらしいので、不動尊明王の目の黒いのは当たり前だから、それほど意識したろうか。

 

『小田原衆所領役帳』に「目黒本町」があり、それが何処だかは詳らかではないが、現在の目黒本町は目黒村とは無縁なのだ。目黒不動の近辺が最も早く開けたので、その辺りじゃないかといわれている。正保~元禄のころに、上・中・下3つの目黒村に分かれた。

 

馬の目や毛の色(馬黒)、馬の名前説

武蔵国は牧場が多かったので、馬に因んで名づけられた地名が少なくない。馬込・駒込・駒岡・駒林・馬引沢・駒沢・練馬・有馬・駒場・駒井など、その例はいくらもある。また昔は眼色・毛色を以て馬の名とし、それが地名となったものもあるから、目黒・馬黒となったというのも、強ちなくはない。

 

日本武尊が東征の時、1頭の青毛(黒色の毛)の駿馬を手に入れ、これを乗馬(じょうめ)として愛でたという。これを漢字に宛て「驪」と書き、これを愛馬とし「愛でる驪」つまり「愛驪(めぐろ)」が転じて「目黒」となったと説く。